現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

その後の「西郷頼母」

2013-07-03 12:38:20 | 会津藩のこと
会津籠城戦のさなか、「西郷頼母」は、一子「吉十郎」を連れて
城を出た。他の重役たちを非難したため 怒りをかい、「頼母」を
なきものにせんとの動きを察した「容保」公が、萱野権兵衛のもとへ
の使者として遣わしたとも。


■頼母は越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに
藩主の命を伝え、自分は米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流。
榎本の軍艦「開陽丸」に乗艦して箱館に赴いた。


■明治2年「函館戦争」でも、頼母は榎本らに 降伏を説いた。
函館が陥落すると、頼母は 会津藩士16名とともに東京に護送され、
館林藩に幽閉された。

■翌3年2月に幽閉が解かれると、伊豆月ノ浦近くに「謹申学舎」を
設けて塾長となり、里人らの指導に当たった。この時、姓を本姓の
「保科」に復し、「保科近悳頼母」と称するようになった。

実は「頼母」は「高遠保科家」の血筋で、会津保科家の祖は、
保科家に預けられた徳川秀忠の落胤。幕末の藩主は美濃高須家からの
養子だから「保科」の血は入っていない。
「頼母」は心秘かに「会津松平家」よりも 「保科家」の存続を
願っていたのかもしれない。(私の憶測)

■明治8年8月、福島の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となったが、
11年に職を去った。理由は「 西南戦争で西郷隆盛を支援していた
のではないか」という疑いを持たれたためであった。

■明治12年 一子「吉十郎」22歳で病没。

■辞職後は東京に移り、在京の旧藩士宅を転々としていたが、
明治13年2月、旧藩主「容保」が日光東照宮宮司となるや、頼母も
日光の禰宜(ねぎ)となって容保を補佐した。

■明治20年4月、辞職して一旦若松に帰り、同22年4月「霊山神社」の
宮司に輔せられた。霊山神社は、南朝の忠臣「北畠親房・顕家」を祀り、
明治19年に別格官幣大社となった。

■明治32年4月、70歳。古稀を迎えた頼母は 若松に帰り、
旧藩邸から百メートルばかり離れた通称十軒長屋と呼ばれる陋屋
に下女のお仲と二人でひっそりと暮らした。

■明治36(1903)年4月28日歿、73歳。