新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川㉛完 芭蕉が奥の細道に向けて、慶喜が徳川幕府に別れを告げ、この千住大橋から旅立った。

2018-04-13 | 東京探訪・隅田川の橋

 回向院から北に約800m進むと千住大橋が見えてくる。

 この大橋が架けられたのは、家康が江戸に入って4年目の1594年。隅田川に最初に架けられた橋だった。

 新しい体制整備のために陸奥、常陸、房総の各方面との交通を潤滑に行うという目的だ。

 最も交通の機会が多いと思われる伊達藩の伊達政宗が資材を調達したという。初めは単に「大橋」と呼ばれていたが、両国橋が出来た後に千住大橋となった。

 この橋を巡るエピソードもある。

 松尾芭蕉が1689年3月「奥の細道」の旅をスタートさせたのも、この橋を渡ってのことだった。その時に詠んだ句は
         「行く春や 鳥啼き魚の目は涙」
 
 南千住駅前に、その芭蕉の旅立ちの像が建っている。

 また、幕末の1868年、徳川最後の将軍慶喜が、15代続いた徳川幕府を明け渡して水戸に退くために江戸と別れを告げたのも、ここ千住大橋だった。

 現在の橋は1927年のもので、青く塗られたその姿は堂々として見える。

 橋のたもとには、歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた「千住の大橋」のレリーフが飾られている。

 その本物がこれ。絵の手前が南千住、対岸が北千住、遠景に見える山は日光の山々だ。

 隅田川に2番目の橋(両国橋)が出来たのは、明暦の大火の後の1661年。従って実に67年もの間隅田川の橋は千住大橋ただ1つだったことになる。

 当時、千住大橋は富士の名所でもあった。北斎の「富嶽三十六景」の中にも、ここからの眺めである「武州千住」と「千住花街眺望の不二」の二点が描かれている。


 今回で、東京湾から東京を縦断してさかのぼって来た隅田川の橋シリーズは終了します。


 そこで、隅田川フアンにはうれしいニュースをお知らせします。現在隅田川の橋のうちライトアップされているのは勝鬨橋、永代橋、中央大橋、清州橋、新大橋、吾妻橋、桜橋の7つですが、東京オリンピックに向けての景観向上策としてさらに6つの橋が新たにライトアップされることが内定しました。

 新規ライトアップの橋は築地大橋、佃大橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、白髭橋の6つです。さらに、勝鬨、永代、清州、吾妻の4橋は最新のLED電球に衣替えします。オリンピック前には完成する予定です。

 これで今の約2倍の計13の橋が美しく隅田川の水面に輝くことになり、まさに江戸から平成までの東京の歴史を刻んできた隅田川が、さらに都民、国民に親しまれる場所になることだろうと思います。










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隅田川㉚ 「生まれては苦界 死しては浄閑寺」吉原の遊女たちの寺。永井荷風、樋口一葉、鳳神社

2018-04-10 | 東京探訪・隅田川の橋

 回向院から線路沿いに南に歩くと、三ノ輪の浄閑寺が見つかる。

 この寺の墓地の中央に大きな供養塔が建っている。

 「新吉原総霊塔」。ここは江戸時代随一の花街・吉原と深い因縁を持った寺だ。
 吉原の遊女は通常、3年半ほどの契約で雇われる。その後年季明けで解放されたり、身請けされたりすれば、吉原から出て行くが、中には借金を重ねたり病気になったりして、吉原で死亡することも多かった。

 身寄りのない遊女はどうなるのか。この浄閑寺に葬られることが多かった。それで、ここは「投込み寺」とも呼ばれた。特に、安政の大地震(1855年)では多数の遊女の遺体がここに運ばれたという。

 総霊塔には、その生涯を象徴するような言葉「生まれては苦界 死しては浄閑寺」が記されている。

 また、塔のすぐそばには永井荷風の碑があった。庶民の生活に深く根差した作品を描いた荷風は、ある対談で「自分の遺骸は粗末なかごに乗せて、雨の日の夕暮れに浄閑寺に送り込んでくれ」と語っていた。

 荷風は遊女たちの薄幸を悼んで、しばしばこの寺を訪れた。そうした荷風の心をくみ取ってか、この碑が総霊塔の正面に建てられたのはちょうど満4周年の命日(1965年4月30日)のことだった。

 浄閑寺から南に進むと、樋口一葉に関連の深い土地が点在する。以前一葉の生涯を特集したので詳しくは触れないが、一通り歩いてみよう。

 まず、一葉の代表作「たけくらべ」に登場する千束稲荷神社には、一葉の肖像がある。

 少し歩くと一葉記念館。

 その向かいの小公園には「たけくらべ記念碑」があり、

 一葉が雑貨店を営んでいた旧居跡の説明版もある。

 鳳神社では大きなおかめの面が出迎えてくれる。

 ここの酉の市は有名だ。

 以前出かけた時には

 まさに江戸時代以来の熱気を感じることが出来た。

 芸能人の名前が多数書かれた提灯も掲げられていた。



 
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隅田川㉙ 吉田松陰らの眠る旧小塚原刑場に、「解体新書」誕生の秘密があった。

2018-04-07 | 東京探訪・隅田川の橋
 千住汐入大橋でいったん散策を中断して、後日改めて千住大橋を目指して地下鉄日比谷線に乗り、南千住で降りた。

 この駅のすぐ南側は江戸時代小塚原(こづかっぱら)刑場のあった場所だ。刑場は罪人を処刑するところ。南の鈴ヶ森刑場(現品川区南大井)、西の大和田刑場(現八王子市大和田町)と並んで江戸の三大刑場だった。

 同刑場は間口108m、奥行54mの広さ。磔刑、火刑などの刑が執行され、池波正太郎の「鬼平犯科帳」でもしばしばこの刑場の話が登場する。

 その場所に小塚原回向院が建立されたのは1667年。処刑された遺体を供養する寺としての役割を担った。刑場が明治に廃止されるまで、約20万人の遺体がこの区域に葬られた。

 それにしても回向院はコンクリートの近代的な建物で、敷地もそんなに広くない。「ん?」と思ったら、本来の敷地はすぐ横を通るJRの線路をまたいで反対側にも広がっているという。そちらには延命寺という寺がもう1つ建てられているのだ。
 つまり、20万人の遺体が埋まった土地の上を、今日は絶え間なく電車が通り抜けているということになる。

 著名人の墓もあった。吉田松陰。安政の大獄で逮捕され、1859年、伝馬町の牢屋敷で処刑された後ここに移され葬られた。

 同様に橋本佐内の墓もあった。

 そのすぐ近くに、鼠小僧治郎吉の墓も。源達信士とあるが、これが鼠小僧のこと。彼の墓は両国の回向院にもあった。それとは別に彼から恩恵を受けたとされる人たちがこちらにも建てたという。

 1つおいて、高橋お伝。毒婦と呼ばれた伝説の女性。

 さらに隣にはげんこつの墓。喧嘩で深手を負った腕が見苦しいと、子分にのこぎりで斬り落とさせたという侠客「腕の喜三郎」の墓だ。

 義賊、毒婦、侠客。何ともバラエティに富んだ墓の列だ。

 回向院にはもう1つ歴史に残る史実がある。本の絵扉をかたどった浮き彫り板があった。「解体新書」の扉絵だ。
 実は1771年、杉田玄白と前野良沢は「ターヘルアナトミア」の原稿を入手したものの、実際の人体がどうなっているのかは、当時わからなかった。

 それでここ小塚原刑場で女囚の人体解剖が行われた。史実に残る我が国初の人体解剖だ。その場に立ち会った杉田玄白は「ターヘルアナトミア」の内容の正確さに驚くとともに、翻訳出版へ踏み切る強い動機となった。

 両国の回向院が明暦の大火の犠牲者を供養するために建てられたのと同様に、ここの回向院も大多数は無名の庶民たちの供養の場となった。

 また、昭和の事件史に残る吉展ちゃん誘拐事件の犠牲者、吉展地蔵尊があった。この事件までは誘拐事件の報道は無制限に行われていたが、これによって人命最優先の原則から、誘拐された被害者の安否が不明の段階では報道を控えるという報道協定が結ばれるようになった。


 
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隅田川㉘ 白髭、水神、千住汐入。この百年で続々誕生した橋たち。新しい親水の方式が採用された。

2018-04-03 | 東京探訪・隅田川の橋

 さらに上流に進もう。白髭橋が見えてくる。ただ、工事中で橋がカバーで覆われている。アーチのすっきりした姿が見えないのが残念、

 この橋も厩橋と同様に地元有志が基金を募って架けられた民間の橋だった。1914年完成で、当時の通行料は一人一銭だったという。

 ここも関東大震災で破壊され、その後東京府が買い取って現在の橋に架け替えられた。
 橋が出来る前は、平安期に設けられた隅田川最古の渡し「橋場の渡し」があり、伊勢物語の在原業平が渡ったとされる渡しはここだったというのが有力だ。

 この付近からも東京スカイツリーの全体がすっきりと見渡される。

 司馬遼太郎は著書「街道をゆく」の本所深川編で、この白髭橋について触れている。

 源頼朝は1180年に挙兵したが、石橋山で平家に敗れた。舟で安房の国に一旦逃れ、再び平家に対峙しようとした時、隅田川の水かさが増していた。
 それで舟を横並びにつなげた浮橋を造り、川を渡って武蔵の国に入った。そうして時間をかけていた間に周辺の軍勢が次々と味方に付き、やがて平家を討つ結果となった。
 その舟橋が造られたのが、今の白髭橋あたりだったという。


 橋の西詰にある石浜神社に「名にしおはば・・・」の都鳥の歌碑があると聞いて訪ねてみた。だが、よくわからない。神社の窓口で「あのあたり」とさされた場所でいくつかの石碑を見てみたが、どれも刻まれた文字が薄れていて特定できなかった。

 このいくつかの碑のうちのどれかのようです。

 さらに西側には平賀源内の墓があった。住宅地の中にぽつんと。ここにはもともと総泉寺という寺があり、そこに葬られたのだが、寺が板橋区に移転した。

 ただ、源内の墓だけがここに残されたのだという。源内はエレキテルの発明などで有名だが、1778年誤って2人を殺傷、

 伝馬町の牢屋敷で獄中死している。


 この周辺の川岸を見ても緩やかな護岸と川岸公園的な水に親しめる形が広がっている。このような堤防はスーパー堤防と呼ばれる。
 以前高度成長期の1960年代からは水害防止のため水面から切り立ったコンクリート護岸の堤防=カミソリ堤防=が続々と築かれ、その結果人と川とが完全に分離されてしまった。

 この反省を踏まえて1985年以降は傾斜は緩やかでも決壊しないような幅広い岸辺を設ける現在の堤防方式が採用されて、隅田川でも川と人との交流が各所で見られるようになっている。

 その上流にあるのが水神大橋。こちらも平成になってから架けられたもので(1989年)、中央に大きなアーチがついている。

 東岸にある隅田川神社の別名「水神宮」にちなんだネーミングだ。

 水神大橋の北側、隅田川が大きく西へカーブした先にあるのが千住汐入大橋だ。

 千住地区の再開発によってマンション群が増え、川横断の需要が増したことから、2006年に架けられた新しい橋だ。
 かつては汐入地区と千住曙町の鐘ヶ淵紡績とを結ぶ「汐入の渡し」があったところだ。





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