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国家間に真の友人はいない:シャルル・ド・ゴール、我が国以外は全て仮想敵国である:チャーチル

2022-04-13 09:32:41 | 連絡
「国家間に真の友人はいない」(フランスの元大統領シャルル・ド・ゴール)
:シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(フランス語: Charles André Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日,79歳没
)は、フランスの政治家、軍人。同国第18代大統領(在任:1959年1月8日 - 1969年4月28日)。1940年5月のナチスの侵攻によって本国が失陥した後、イギリスのロンドンにてロレーヌ十字の自由フランスを樹立してレジスタンスと共闘した。臨時政府で最初の首相となり、1959年1月に第五共和政で最初の大統領に就任した。任期中はアルジェリアの独立の承認・フランスの核武装・NATOからの脱退などを実現した。 
   大統領辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ(英語版)に住居を移して執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で死去した。『希望の回想』と題した回想録が未完の絶筆となった。
「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」という遺言に従い、簡素に行われた。霊柩は第4偵察連隊の装甲車によって運ばれた。
フランス政府の希望により、追悼式という形での国葬もパリ・ノートルダム寺院にて執り行われた[34]。
 第二次世界大戦で同じ連合国のリーダーであった、チャーチルやアイゼンハワーの国葬より多くの政府参列者があった。
 理由として旧フランス植民地のアフリカ諸国や、軍事・経済で良好な関係を維持していた中近東諸国などからの参列が多かったことも挙げられる。
 墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズにある。

「国家に真の友人はいない」 -キッシンジャー
:ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(英語: Henry Alfred Kissinger、1923年5月27日 - 98歳)は、アメリカ合衆国の国際政治学者。ニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。 
ー略ー
冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な役割を果たした。1971年にはニクソンの「密使」として、当時中ソ対立でソ連と緊張状態にあった中華人民共和国を極秘に二度訪問。周恩来中国首相と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける[9]。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。また、同時期の第三次印パ戦争ではソ連の影響力を抑えるためにニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した[10][11][12]。1973年には毛沢東中国共産党主席はキッシンジャーとの会談で米国、日本、中国、パキスタン、イラン、トルコ、欧州によるソ連包囲網の構築を提案した[13]。
ー略ー

「隣国を援助する国は滅びる」 -マキャべリ
ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日、58歳没)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。
著書に『君主論』[1]、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。
理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。
ー略ー
メディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年5月6日に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。
一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され、失意のうちに病を得て翌月に急死した。
 マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として以下のことが挙げられる。
1.軍事力の重要性を論じている。『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備が挙げられている。
また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。
2.軍事訓練の重要性を論じている。マキャヴェッリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第1段階に整列の動作の訓練、第2段階に整列行進の動作の訓練、第3段階に戦闘訓練、第4段階に信号や命令伝達の教育としている。
3.司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく、勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。

「我が国以外は全て仮想敵国である」チャーチル
サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA (英語: Sir Winston Leonard Spencer Churchill、1874年11月30日 - 1965年1月24日、90歳没)は、イギリスの政治家、陸軍軍人、作家。
1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党のヒトラー独裁政権への宥和政策に反対した。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、
1940年に後任として首相職に就き、
1945年の勝利達成まで戦争を主導した。西方電撃戦、ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためスターリンのソ連と協力し、またルーズベルト大統領のアメリカとも同盟関係となった。
しかし
1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍敗退による相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。
1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、同年7月の総選挙でアトリー政権が成立し保守党は惨敗した。第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で「鉄のカーテン」演説を行うなど独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後にアトリー労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを、帝国主義の立場から批判し植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失い消滅することとなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。
1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退いた。


〇アングロ、サクソンの移動




一、隣接する国は互いに敵対する。
二、敵の敵は戦術的な味方である。
三、敵対していても、平和な関係を作ることはできる。
四、国際関係は、善悪でなく損得で考える。
五、国際関係は利用できるか、利用されていないかで考える。
六、優れた陸軍大国が同時に海軍大国を兼ねることはできない。
その逆も然り。
七、国際政治を損得で見る。善悪を持ちこまない。
八、外国を利用できるか考える。
九、日本が利用されているのではないか疑う。
十、目的は自国の生存と発展だけ。
十一、手段は選ばない。
十二、損得だけを考える。道義は擬装である。
十三、国際関係を2国間だけでなく,多国間的に考える。
十四、油断しない。十五、友好,理解を真に受けない。
十六、徹底的に人が悪い考えに立つ。
十七、科学技術の発達を考慮する。
https://rekishi-no-uzu.info/2018/05/21/post-992
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