ベルリンの戦いの末期に当たる、1945年4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは総統地下壕で自殺した(アドルフ・ヒトラーの死)。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領に指名され、新たな政府を組織した(フレンスブルク政府)。デーニッツは連合軍への降伏は不可避であると考えていたが、できるだけソ連軍ではなく米英軍に将兵を降伏させたいと考えていた。このためデーニッツは各軍の降伏タイミングを熟考していた。5月2日にはC軍集団の降伏を決断したケッセルリンク元帥が、E軍集団とG軍集団の降伏をデーニッツに求めたが、ソ連軍に近いとして降伏を拒絶している[7]。
一方で各軍の降伏は相次ぎ、5月2日にはヴァイクセル軍集団指揮下の第3装甲軍と第21軍、5月3日には第12軍が降伏した。これを受けてデーニッツもG軍集団を降伏させるようケッセルリンクに伝えた。
5月4日は「西部戦線降伏の日」となり、ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将がオランダ・デンマーク・北ドイツの全艦艇が無条件降伏し、5月5日午前8時(英国夏時間)に停戦する文書に調印した。この際フリーデブルク大将と会見した連合軍のバーナード・モントゴメリー元帥はソ連軍戦線内のドイツ軍将兵が米英軍に投降する事は認めないが、投降してきた捕虜をソ連に引き渡す事はないと告げた。デーニッツはこれを米英軍が対ソ連のためにドイツ軍を必要としている証拠だと考えた[8]。そして米英軍に対し、ドイツ軍の全面降伏が困難なので個別降伏が可能になるよう交渉した。
5月5日にはG軍集団が正式に降伏したが、連合軍参謀長ウォルター・ベデル・スミス中将は個別降伏を拒否し、一括降伏を求めた。5月6日、デーニッツはドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将をフランス・シャンパーニュ地方のランスにあった連合国遠征軍最高司令部に派遣し、ドイツ軍将兵を米英軍戦線に降伏させるための交渉に当たらせた。「もっともタフな折衝家」と論評されるヨードルの交渉の結果、スミスはドイツ側へ48時間の猶予を与えることに合意した[9]。
降伏
5月7日0時15分、ヨードルの連絡を受けたデーニッツはドイツ軍全軍の降伏を決意し、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥名でヨードルに降伏文書調印の権限を与えた。また同時に西方総軍とその指揮下にある中部軍集団、南部軍集団、E軍集団に対して西への脱出を命令した[10]。
5月7日0時15分、ヨードルの連絡を受けたデーニッツはドイツ軍全軍の降伏を決意し、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥名でヨードルに降伏文書調印の権限を与えた。また同時に西方総軍とその指揮下にある中部軍集団、南部軍集団、E軍集団に対して西への脱出を命令した[10]。
中央ヨーロッパ時間午前1時41分(英国夏時間午前2時41分)、連合国軍司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥とヨードル大将は無条件降伏文書に調印した。文書での停戦発効時間は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていた。文書にはソ連軍代表のイワン・ススロパロフ(英語版)大将が証人として署名している。正式な降伏文書調印はここで成立した[11]。イギリスは当時英国夏時間をとっていたため、停戦時間は5月9日0時01分にあたる。
しかし連合国側は第一次世界大戦の講和がドイツ国民に受け入れられず、「背後の一突き」伝説を生み出してナチ党の台頭を招いたことを繰り返す可能性を感じていた。このため連合国は戦場での降伏文書だけでは足らず、批准文書が必要であると考えた。この調印を行う人物は陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物、ドイツ国防軍最高司令部長官カイテル元帥でなければならないと考えられていた[12]。ソ連側は調印式にアイゼンハワー元帥の参加を要請したが、アイゼンハワーは代理として副司令官でイギリスのアーサー・テッダー(英語版)元帥を派遣した。
降伏文書の批准[編集]
5月8日、ベルリン市内のカルルスホルスト(英語版)におかれた赤軍司令部(ドイツの工兵学校兵舎を利用した)に、
カイテル元帥らドイツ代表が到着した。調印式は同日正午すぎに予定されていたが、夜半までずれ込んだ。これは調印文書をロシア語訳するのに時間がかかったという技術的理由があったからという説[13]と、連合軍側証人として参加する予定だった
フランスのジャン・ド・ラトル(英語版)大将が、正式代表として調印に参加する事を要求したためであったという説[14]がある。後者の説では証人の署名欄を代表のすぐ下にして準代表としての形を整える事でド・ラトルも承諾したとされる。
停戦時間を過ぎた午後11時から、
赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥、そして
ドイツ国防軍のヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印した。
連合軍側証人としてはド・ラトル将軍のほか、
アメリカのカール・スパーツ准将が副署している。
調印時間はベルリン時間5月9日午前0時15分
、西ヨーロッパ夏時間では5月8日午後11時15分、
モスクワ夏時間では5月9日午前2時15分であった[15]。
ロシアをはじめウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。(詳細は戦勝記念日 (5月9日)(ロシア語版、英語版)を参照)
戦争状態の終結
6月5日には連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国による主権掌握が発表された。
しかし1948年に西側連合国占領区域ではドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域ではドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足した。その後1951年7月9日と7月13日にはイギリスとフランスが、10月24日にはアメリカがドイツとの戦争状態終結を宣言した[16]。1955年1月25日にはソ連がドイツとの戦争状態終結を宣言している。また1955年5月5日のパリ協定発効により、西ドイツは主権を回復
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E7%B7%9A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%B5%82%E6%88%A6_(%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)
<ドレスデン爆撃はハーグ陸戦条約第25条違反か>
極西大陸,世界化,ハーグ陸戦条約 東京大空襲 下町空襲・・・は ハーグ陸戦条約第25条違反か
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/2b731c7a8f2fdcc83e5a4bdef15956cd
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/2b731c7a8f2fdcc83e5a4bdef15956cd
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ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden、独: Luftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われた、ドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。
ドレスデン爆撃は基本的な爆撃手法に基づくもので、大量の榴弾で屋根を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、さらに榴弾を落として消火及び救助活動を妨げようという意図からなっていた。こうした基本的な爆撃手法はドレスデンでは特に効果的だった。爆撃の結果、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が収まることなく燃え続けた。市街広域で発火するとその周囲の空気は非常に高温となり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。
空襲の影響
この空襲には「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という一応の名目はあったが、実際は戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲であり、ドイツ空軍の空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。
『Oxford Companion to the Second World War』によれば、爆撃の2日後に開かれた連合軍のオフレコの記者会見に拠れば、イギリス空軍代将コリン・マッケイ・グリアソン(Colin McKay Grierson)は記者達に対し、かつて立てられた「サンダークラップ作戦」の目的は住宅密集地を爆撃して救援物資を行き渡らせなくしようとするものだったと言う。AP通信の戦争特派員ハワード・コーエンはこれを基にした記事で、連合国軍は「テロル爆撃(terror bombing)」に頼っていると述べた。この記事に続いて多くの社説が書かれ戦略爆撃に対する論争が起こり、英国議会下院でリチャード・ストークス議員による質問がなされた。
ドレスデンの破壊はイギリスの知識層に不快感を呼び起こした。マックス・ヘイスティングズによれば、1945年2月までに、ドイツ諸都市への空襲は戦争の結果とはほとんど無関係に見られ始め、「ドレスデン」という言葉が全ヨーロッパの知識人に「とても多くの魅力と美の故郷、トロロープ(en)の作品のヒロインたちの逃げ場所、グランドツアーのランドマーク」という響きを与えていた。彼は、ドレスデン爆撃は連合国の国民がはじめてナチスを倒すための軍事作戦に疑問を持った瞬間だったと論じている。
アメリカではドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際、アメリカ陸軍軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と語った[2
ドレスデン爆撃によって市民や多くの難民が犠牲になり、歴史的建造物の多くが瓦礫の山と化した。この空襲のことを、チャーチルは「テロ爆撃」という名前で説明している。
ドレスデンには目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であり、高射砲などの兵器も、戦争末期には他地域に移動するなどして、空襲への防備は手薄となっていた。また、資料によってばらつきが存在するものの、当日迎撃したドイツ軍機は皆無と言っていいほどで、イギリス側の損害はごく僅かなものであった。