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東京大空襲

2014-03-10 23:43:58 | 紙芝居

今日は69年前の東京大空襲の日だ。 

午後、眼科でレーザー治療を受け、家に帰って、思い出したように紙芝居を開けた。そして声を出して読んだ。活字が小さくて、また間隔が詰まっていて、読みにくい。活字を治そうとしていじっているうちに本文も消してしまった。wordにはコピーが入れてあったが、それをブログに持ってくることが出来ない。CDに入れた画像があるはず、と探しているが見つからない。原画がなくなってしまっているので、頼みは私が持っている画像だけなのだが、困ったことにどこにあるのかわからない。wordに保存してある画像をなんとか復元して入れようとは思っている。

3月10日でもあり、アクセスがあり、本当にもうしわけない。お詫びします。


紙芝居 「原発のおはなし」

2011-05-16 18:01:19 | 紙芝居

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制作: 1993年 岩小のお母さんたち                                                                                                                                                         

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① ベラルーシ共和国から、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故で被曝した10歳前後の4人の子どもたちが、真鶴に保養にやってきました。

ルスラン、デニス、アーラ、エレーナ。そして付き添いのアンドレイさんです。

この子たちは外から見ると、どこも悪くないように見えます。でも、みんな甲状腺異常で、白血球の数も普通の子どもたちよりも少なく、抵抗力がないのです。

甲状腺というのは、のどの下部分、気管の上にあって、心と身体の発育に必要なホルモンを分泌するところです。そして血液中の白血球は、細菌を殺す働きを持っています。だから、この子たちは病気にかかりやすいのです。                             

                                                            

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② 大人と違って、子どもたちには生きる力があるので、薬よりも、放射能で汚染されていない土地で、汚染されていない食べ物を食べて暮らすと、免疫力が回復します。免疫力は回復すると病気にかかりにくくなります。

真鶴に来た子どもたちは、すっかり海が気に入って、ほら、みんな喜んで遊んでいますよ。ベラルーシには海がないのです。                                          

                                                                                                                           

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③ ルスランとアーラは年のわりに体が小さいのですが、それは放射能が原因で背が伸びないのです。二人の生まれ故郷は、チェルノブイリから、10キロ程度離れたところにありました。放射能汚染がひどく、今は人が住むことが禁止されて、死の村となっています。

事故当時、幼児だったルスランやアーラは、そのあと、国からの避難命令で疎開させられるまで、放射線を浴び続けていたのです。                                                           

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④ 「お~い、ルスラン、待ってよう」友達になった、ともちゃんたちが追いかけています。

ルスランは、ともちゃんたちがロシア語でアビジヤーナ(サル)と渾名をつけたように、とても快活な男の子ですが、白血病の発病のおそれがあります。白血病って知っていますか。血液中の白血球が異常に増加する病気で、一般に「血液のガン」と呼ばれています。                                 

                                                           

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⑤ 日本でも大勢の子どもたちが白血病で死にました。いつのことだと思いますか。そう、第二次世界大戦の後期、広島や長崎に原爆が落とされた後のことです。

「千羽鶴」という話を読んだことがありませんか。以前は、小学校の教科書に載っていました。被爆した子どもたちは、時間を追って衰弱し、苦しみながら死んで行きました。そして、いまでもその後遺症と闘い続けている人々がいます。

                                                           

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⑥ ベラルーシをはじめ、ウクライナ、ロシアなどで、多くの子どもたちが同じように苦しんで死んでいます。それはチェルノブイリ原発事故のせいなのです。

地図を見てください。ここがチェルノブイリ、ウクライナにあります。でも、ベラルーシに隣接しているでしょう。以前はソ連邦に属していましたが、今ではそれぞれが独立国となっています。

                                                                                                                                                          

                                                            

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⑦ ベラルーシ共和国を拡大してみましょう。チェルノブイリはここです。ベラルーシとの国境からすぐですね。真鶴に来た子どもたちの町、ホイニキはチェルノブイリから50kmのところにあります。

                                                         

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⑧ この地図も見てください。これはベラルーシが作った放射能汚染地域です。

色が濃くなるほど、汚染はひどいのですが、ホイニキはすっかり入っているでしょう。子どもたちの住んでいるところはこういう汚染地域なのです。

                                                          

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⑨ 放射能汚染というのは、放射性物質が身の回りの至る所にあるということです。

水の中にも、大地の上にも。そして地面の上の放射能は、風が吹くと舞い上がり、口や鼻などの呼吸器を通って、人の体の中に入ります。

プルトニウムという、放射性物質は、ほんの少し吸っただけで、肺ガンになります。

もちろん事故で放出された放射能は至る所にありますから、水も農作物も家畜もみんな汚染されてしまいます。そしてその水を飲み、農作物やミルクや肉を食べるのですから、人間も汚染されてしまいます。
                                                            

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⑩ 体内に入った放射能は体の中の臓器や骨や筋肉などに溜まり、その放射能が安定するまで、放射線を出し続け、細胞を破壊しつづけます。これが体内被曝です。

放射能は種類により、溜まるところ、放射線の種類、強弱など、違いはあります。

例えば、チェルノブイリの原発事故で放出されたヨウ素は甲状腺に溜まるので、多くの子どもたちが甲状腺異常になりました。同じくストロンチウムは骨に溜まるので、これからベラルーシでは白血病や骨のガンが増えるでしょう。 

                                                         

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⑪ また、この事故の時には、8千キロ離れた日本にもジェット気流に乗って、死の灰がやってきました。母乳から、市販の牛乳からもヨウ素が検出されました。

では、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

                                                          

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⑫ いま、日本や先進国と呼ばれるアメリカやヨーロッパでは、原子力発電をしています。

ウラン235という物質に中性子をぶつけ、核分裂させ、そのとき出るエネルギーで発電機を回し、発電しているのです。

ところが問題がいっぱいあります。

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⑬ 広島や長崎でわかるように、核分裂にはすさまじいエネルギーがでます。

リトルボーイという可愛い名前の付いた重さ1kgの原爆が広島落とされたとき、7000℃というとてつもない温度になりました。

だから原子力発電では、核分裂を少しずつ起こさせ、一度に温度が上がらないようにコントロールしなければなりません。これがうまくいかないと、スリーマイル島やチェルノブイリで起こったような大事故になります。

放射能が危険であることを十分知っているので、原子力発電所では、事故防止はもちろんですが、放射能が外に漏れないように努力しています。しかし、未だ完全ではありません。しばしば放射能漏れ事故が起こっています。

86年の美浜原発事故では操作ひとつ間違えればチェルノブイリの二の舞、同じく91年の2号機の細管破断事故は最悪事態になる一歩手前でした。

                                                            

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⑭ 原発で働く人々は、これ以上放射線を浴びては危険だという計測器をつけていますが、一番汚染のひどい原子炉の掃除には、原発関係以外の下請け労働者が作業しています。

かつて福井県の敦賀原発で、黒人労働者にこの危険な作業をさせていた事実が国会で問題になったことがあります。ここには人種差別の問題も窺われました。

しかし、このような危険な作業をしてくれる人々がいなければ原発は動いていきません。

つい最近、日本でこういった人々の、被爆による白血病やガンが職業病として一部ですが認定されました。でも認定され、補償をもらっても健康が戻るわけではありません。病気は治らないのです。そして何の補償もなく、原子炉の危険な作業をしていた延べ200人もの黒人労働者たちは、いったい今ごろどうしているのでしょう。

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⑮ 放射能で汚染されたものや原子炉の中のウランの燃えカスは、高レベル放射性廃棄物といわれていますが、これらの処理に頭を悩ましています。日本では、使用済みの燃料からプルトニウムを取り出して、もう一度使おうというプルサーマル計画があります。

「もんじゅ」という名前を聞いたことがありませんか。プルトニウムは毒性が強いので、世界中どこの国も、プルトニウム利用は危険が大きすぎるといって計画を断念したのですが、日本だけは推し進めようとしています。プルトニウムからは原爆がつくれます。世界が日本のプルトニウム利用を快く思っていないのは、いずれ日本が、このプルトニウムから原爆を作るのではないかと心配しているからです。長崎に落とされたファットマンという原爆はこのプルトニウム爆弾でした。

                                                                                                                                                          

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⑯ また、原子力発電所で使われた衣類、冷却水から放射能を除去するイオン交換樹脂などは、低レベル放射能廃棄物と呼ばれています。これらは現在焼却などで体積を減らした後、コンクリートやプラスチックで固めて、ドラム缶に詰めた状態で山積みにしてあります。

                                                                                                                                                            

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⑰ 1957年、ソ連の南ウラル地方では、この廃棄物が地下に貯まり大爆発を起こしました。推定、数百人が死に、数千人の人々が病院に収容されたというウラルの核惨事です。

そんな危険な低レベル放射性廃棄物を日本は太平洋に捨てようとして、ベラウ共和国など,太平洋諸国から猛反対され、やめたことがあります。

「そんに安全なものなら東京湾に捨てなさい」と言われもしました。

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⑱ 原子炉の寿命は30年程といわれています。アメリカではコンクリートで覆っています。ところが、コンクリートで固めたところにヒビが入り、放射能が漏れて、ガイガー計数管をあてるとピーピーいっているのをテレビで見たことがあります。旧ソ連では野ざらし。

国土の狭い日本ではどうするのでしょうか。寿命の来た原子炉も完全に管理していくことができなければ、放射能という恐ろしい物質を出し続ける巨大なゴミになってしまうのですね。

ちなみに、日本で現在、運転中の原発は、研究開発段階の「ふげん」を含め、44基になります。

注:2011年現在 国内の原発は57基。

                                                                                                                                                         

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⑲ 放射能から出る放射線が半分の量になるときを、半減期といいますが、放射能によってさまざまです。

何分の1秒という短いものもあれば、何億年という長い半減期をもつものもあります。半分の量になった放射能は、またその半分の量の放射線になるまで、同じ半減期を永久的に繰り返しいくので、半減期の長いものほど人体に害を与え続けることになります。

                                                                                                                                                          

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⑳ 放射能が危険であることは分かりましたね。では、どうしてこういう危険を冒してまで原発をつくるのでしょう。

先ず第一にエネルギーを消費続ける社会があるからです。私たちはこんなことも考えず、やたらとエネルギーを無駄使いしています。増え続けるエネルギー消費量を理由に原発を作らなければならない、という人々がいます。

しかし一方、原発を開発し、運転することによって、電力会社はもちろんのこと、これに携わる人々には、お金が儲かるようになっています。危険は分かっていても、お金がほしいというわけです。私たちが納めている税金や電気料金の一部が、原発開発に当てられているのです。どれくらいかと言うと、赤ちゃんも含めた国民一人当たり、1年間で1万数千円になります。ここには生きものの命を大切にした思想はありません。

本当に命を大切に考えるなら、安全性が確かめられ、放射性廃棄物の処理がきちんとできるようになってから、原発を作ってもいいはずですね。                                                                                                                                                         

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(21)  2~30年前を思い出してください。日本は高度成長期にありました。お金儲けのためなら、住民の健康など知ったものかと有害な汚染物質を空中に出し、川に大量に流しました。

四日市や川崎喘息、水俣病、イタイイタイ病、いっぱいあります。公害との闘いには時間がかかりました。大勢の人々が苦しみながら、国を企業をうらみながら死んで行きました。

                                                                                                                                                          

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(22 )  スウェーデンでは原発を続けるのなら、子どもを産まない、と若い女性たちが署名運動を始め、とうとう国は中止の宣言をしました。今ある以上に増やさないと決めた国もあります。

放射性廃棄物などの処理がきちんとできるようになるまで、原発を使わないでいては、エネルギーが足りなくなる、今の生活を維持していかれないのではないか、また、原発にかわる発電、火力の場合、そこから出る二酸化炭素の影響で、大気汚染や酸性雨、温室効果で気候変化をもたらす、水力の場合、貯水池が広大な面積の土地を奪ってしまう、などの意見があります。

                                                                                                                                                          

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(23)   まだまだ不十分なところはありますが、公害対策基本法や防止条例などができ、それでも当時よりはずっとよくなりました。公害を出さないようにする技術が開発されたからです。

公害防止にはお金がかかります。害を出さなくするための設備にお金をかければ、出来上がった製品はコストが高くなるかもしれません。例えば、自動車の排気ガス、特にトラックのディーゼルの排気ガスなどの規制は技術的に可能なのですが、運送費がコスト高になると消費者に売れなくなるから、と産業や商業に携わっている人たちからの強い反対で、日本はまだ実現していません。

ここで、私たちの選択になってくるのです。

                                                                                                                                                            

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( 24)  いま、世界中で地域にあった発電が進められています。

風の強いところは風力発電、火山のあるところは地熱発電、太陽光発電はもちろん、海辺では潮の満ち干きや波の力を利用した発電も研究されています。たいていのゴミ焼却場では、ゴミを燃やした熱で発電し、施設の電気に使っています。こういうことに、もっとお金を出し、積極的に進めれば、エネルギーもずっと有効に使えるでしょう。                                                                                                                                                            

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(25)   真鶴で栄養価の高い食事をし、きれいな環境の中で、せいいっぱい遊び、一ヶ月を過ごした4人の子どもたちはとても元気になって、ベラルーシに帰っていきました。

もう2年も身長の伸びが止まり、医者から成長が止まったとカルテに記入されていた、あの小さなルスランの身長が、なんと8mm伸びたのです。これは奇跡です。

子どもたちにとって、どんなに生活環境が大事か、よくわかりますね。

                                                                                                                                                          

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(26)  しかし、もうすでにツケはまわされました。原発の大事故、そしてそれに便乗し、放射能廃棄物を垂れ流した原発。汚染は世界中に広がり、今後、もっとひどい状況が起こるだろうことは目に見えています。環境を守るためなら、コストが少しぐらい高くても我慢する。安いからと無駄にしない。物を大切にする。この先、可愛い子どもたちを持つ親なら、そんな危険なゴミや汚染を。子どもたちに押し付けるような無責任なことはできないでしょう。そして子どもたちも不安だらけの将来を譲り受けても困ってしまうでしょう。                                                                                                                                                 

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(27)  自分の命は祖先から営々と引き継がれ、さらに子孫に受け継がれていくものなのです。自分たちだけが、いきなりここに存在しているわけではありません。

地上に生きるもの、誰しもが健康で幸せに生きられる世の中であってほしいものです。

そういう世界にするために、私たちは事実を見据え、自分で出来ることは実行し、知恵を出し合い、協力して行こうではありませんか。         

                                                                                                                                                          


東京大空襲(紙芝居)

2007-03-04 12:26:38 | 紙芝居

東京大空襲(紙芝居) 東京大空襲マッちゃんの思い出                                                                                                   

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これは真鶴在住の、現在74歳になるMおばさん(マッちゃん)が6年生の時に実際に体験した3月10日の東京大空襲を紙芝居にしたものである。1983年、神奈川県立図書館が主催する紙芝居コンクールで最優秀賞をとった作品である。                                                                                                                                                                                                                                       

                                                

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① 昭和20年2月27日。いま、マッちゃんは疎開先の新潟からなつかしい我が家へ帰るところです。                                 第二次世界大戦、または太平洋戦争とよばれている戦争の話は、おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんから聞いたことがあるでしょう。その戦争も終わり近く、東京は空襲が激しくなりました。そこで、都市に住む子どもたちは先生に連れられて、家族と別れ、あちこち安全な場所に集団でくらしていました。それを学童疎開というのです。マツちゃんは六年生、もうじき卒業式です。そこで、マツちゃんたち六年生だけが、雪深い新潟から東京に帰ってきたのです。                                                                                     

                                               

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② 電車の窓から見ると、あちこちに焼け野原が目立ちます。空襲で家が焼かれてしまったのです。「私の家は?」「ぼくの町は」心配そうにみんなの目が窓の外に注がれています。

                                                 

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③ マツちゃんの家は東京の深川にありました。深川は隅田川の側の材木業の多い、活気のある下町でした。お父さん、お母さん、マツちゃんと3歳になる妹のえみちゃん、と2歳の弟のくにちゃんの5人家族で、お父さんはお寿司やをしていました。帰ってきたマツちゃんを家族は喜んで迎えてくれました。でも、東京は毎日のように空襲警報がなりひびいています。火事の時のあのサイレンの音です。「敵の飛行機が爆撃に来たから避難しなさい」という知らせです。サイレンが鳴ると、どこにいてもあわてて防空頭巾をかぶり、防空壕へ逃げ込みます。                                           

空襲は恐いけど、お父さん、お母さん、妹も弟もいます。ごうごうと不気味に響く飛行機の爆音に怯えながらも、そばに家族のいることにマツちゃんはほっとしていました。                                                                         

                                               

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④ 裏の路地で、仲良しの秀子ちゃんと石蹴りをしています。「マツちゃんは女学校に行くの」「うん。大きくなったら先生になるの」「マツちゃんは勉強が好きだから。私は看護婦さんになりたいな」                                                               

                                                

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⑤  空襲警報です。急いで家にかけこむと、防空頭巾をかぶり、空き地に作ってある防空壕に入ります。深川は土地が低いので、少し土を掘ると水がでます。そこで防空壕は土を盛り上げてつくってあります。防空壕の中には大切なものが入っていました。                                

空襲は夜もあります。眠い目をこすりながら、枕元においてある防空頭巾をかぶって、真っ暗な防空壕にとびこみます。空襲は毎晩のことなので、マツちゃんは疎開から帰って、寝間着で寝たことがありません。                                  

                                                  

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⑥ 3月9日、今日は学校で卒業記念の写真を撮りました。前から3人目のおかっぱ頭がマツちゃんです。お姉さんぶってすましていますね。お友達もみんな気取っています。 この卒業記念写真がマツちゃん達の手元にとどくのは、25年ほど経ってからです。いえ、まだ手元に届けたくても届けられない人が多勢います。この写真に写っている友達の三分の二以上が、この日以来、いまだに消息がわからないのです。                               

                                                

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⑦ その夜また空襲です。サイレンの音がけたたましく鳴り響きました。飛び込んだ防空壕の入り口から見ると、焼夷弾が花火のように炸裂し、燃え上がった炎で空は真っ赤です。「風向きが変わったぞ。危ない、逃げるんだ」と言うお父さんの声に、お母さんは弟を、マツちゃんは妹のえみちゃんをおぶって防空壕をでました。

「荷物は持つな」「洲崎の遊郭は火の手がないわ。あそこへ逃げましょう」「いや、だめだ。高射砲陣地へ逃げるんだ」お父さんとお母さんは関東大震災を体験しています。関東大震災のとき、最後に洲崎に火が入り、たくさんの人が死んだことを知っていたのです。                               

                                                 

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⑧ お父さんの指示で、高射砲陣地の方へ走り始めました。高射砲は飛んでくる敵の飛行機をサーチライトでつかまえて、地上から打ち落とす大砲です。ここは広い敷地で、砲台はその一隅にありました。

来る人、行く人、たくさんの人が思い思いの方向へ、こっちが安全だと信じて走っていきます。マツちゃんはえみちゃんを背中におぶって、お父さんやお母さんに遅れないように一生懸命走りました。                                          

                                               

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⑨ 火が風をよび、風がさらに火をあおります。火の粉が容赦なく、逃げまどう人々の上にふりかかります。マツちゃんも走ります。しかし六年生のマツちゃんには三歳のえみちゃんは重すぎます。次第に遅れがちになるマツちゃんをみかねて、お父さんがえみちゃんをおぶってくれました。                                        

ごうごうとB29の爆音が空一杯に響き、ヒューンと空気を切り裂いて焼夷弾が落ちてきます。いつ頭の上に落ちてくるかわかりません。炎と火の粉が渦巻いて、人影をのみこんでいきます。恐くて恐くて、マツちゃんは無我夢中でひた走りに高射砲陣地へ走りました。

 

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⑩ 広い高射砲陣地の行き止まりはコンクリートの堤防です。その向こうは海に続く川で、燃えるものは何もありません。かわりに正面からもろに強い風が火の粉を吹き付けます。こぶしほどもある、大きな火のかたまりが、ごろんごろんと、マツちゃんたちに襲いかかります。火の粉を浴び、逃げまどっている間に乾ききった衣類は、小さな火の粉でもつくとぼっと燃え上がります。お母さんがすばやくたたき落とします。毎晩の空襲でろくに寝ていないので眠気がおそいます。「マツちゃん、眠っちゃだめ」お母さんが怒鳴ります。                               

                                               

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⑪ 風にあおられてトタン板がとんできました。お母さんとマツちゃんはトタン板を捕まえて火をよけました。強い風に必死になっておさえていないと、すぐもっていかれてしまいそうです。

少し離れた所から、女の子の泣き声が聞こえます。「あっ、えみちゃんだ」その時、えみちゃんは火の粉でおでこに火傷をして、泣いていたのです。でもお母さんもマツちゃんもトタンを抑えているのが精一杯で動くことが出来ませんでした。                               

                                                

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⑫ 高射砲陣地から兵隊さんたちがばらばらと駈けてきて、堤防を越えていきます。堤防を越えて、向こう側に行けたら、大きな火の粉を浴びなくてすむのに、堤防は高すぎて、マツちゃんたちには乗り越えられません。 

その時、兵隊さんのひとりが自分の鉄兜を脱いで、マツちゃんの頭にかぶせてくれました。「がんばれよ」と兵隊さんは言いました。「ありがとう」兵隊さんの顔も、もちろん名前も知りません。                               

                                                 

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⑬ 夜が明け始めました。空襲は終わりました。しかし陣地からは、まだドカンドカンという音が止みません。弾薬庫に火が入り、爆発しているのです。お腹の底まで響く音が恐ろしさをつのらせます。恐ろしさに顔を引きつらせながら見た日の出をマツちゃんは今もはっきり思い浮かべることが出来ます。

昭和20年3月10日の日の出です。この空襲で、東京の下町はほとんど灰となりました。何万人と言う人たちが死に、何十万人という人たちが焼け出されました。私たちに生命を与えてくれている太陽は、どんな気持ちで人間達の行いをみたのでしょう。                               

                                                   

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⑭ みんなの顔はすすけ、衣類は焦げてぼろぼろ。煙で目をやられて、目は真っ赤。ふつうに開けていることが出来ず、それぞれつかまりあって、目をつぶって歩いている状態です。逃げているうちに、どこかで靴をなくしてしまったのでしょう。マツちゃんははだしです。 あちこち小さな火傷を負い、疲れ果ててとぼとぼと自分の家の建っていたところまで歩いていきました。

見渡す限りの焼け野原、建っているものはなにもありません。チロチロと炎の見える燃えがらの原。立木が焼けこげ、鉄骨は曲がり、動いているのは煙だけです。マツちゃんの家も防空壕もぺしゃんこになって、ぶすぶすとくすぶっています。                               

                                                

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⑮ 「正雄がいない。正雄がいない」飛び込んできたのは隣の食堂のおばさんです。おんぶしていた赤ちゃんが、火に追いつめられて川に入っているうちに、気がついたらいないんだと、半狂乱です。

「正雄が見つからないよう、あちこち探したのに」と大泣きです。マツちゃんは口もきけず、ただただ大声で泣き叫ぶおばさんの姿を見つめていました。                               

                                                     

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⑯ 左隣のふとん屋の小さい兄さんが両手に大やけどをして戻ってきました。青鼻が口まで垂れているのに、手に火傷をしているので拭くことが出来ないのです。火傷の痛みより小さい兄さんははぐれた家族の方が心配です。足が棒になるほど探してもみつからなかった、とその場にへたへたと座り込んでしまいました。

「待ってみよう、ここに帰ってくるかもしれない。それより火傷の手当をしなければ」というお父さんの声が聞こえます。でも、ふとん屋のおじさんもおばさんも、大きい兄さんも、仲良しの秀子ちゃんも、とうとう帰って来ませんでした。 後で知ったことでしたが、マツちゃんの家のように、一家全員が無事だったのは、隣組には他にありませんでした。                               

                                                       

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⑰ お父さんの知り合いの家を頼って行くことになりました。

道に真っ黒に焦げた大きな人形がふたつ、転がっていました。でも近づいてみると、それは人形ではなく、空をつかむかのように両腕をあげて死んでいる人間だとわかりました。  

はじめて見る黒こげの人の死体に足がふるえ、マツちゃんはお母さんの袖を握りしめました。そこからお父さんの知り合いの家まで行くうちに何十、何百という死体を見たでしょう。真っ黒に焦げた姿。まるでつるんとして生きているような姿。煙にやられて目はみんな鬼のように真っ赤です。                               

                                                

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⑱ 子どもをかばうように覆い被さっている母親。防火用水に上半身だけ突っ込んでいる死体。何時間か前までは、笑ったり、泣いたりしていた人たちの、火と煙に追いつめられ、変わり果てた動くことのない、無惨な無惨な姿です。                                                   

                                                

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⑲ 川向こうの隣町にはマツちゃんのおじいさんとおばあさんが住んでいました。焼け落ちた橋の焼けぼっくいの上をこわごわ渡って、隣町に二人を捜しに行きました。火の勢いが強かったのでしょう。おじいさんとおばあさんは防空壕の中で、白骨に近い状態で死んでいました。体の悪いおじいさんをおいて逃げずに、おばあさんは焼け死にを覚悟で座っていたのでしょうか。鉄骨を拾ってきて防空壕にわたし、燃えかすを拾い集め、火をつけて、おじいさん、おばあさんをもう一度焼きました。                                

                                                 

白い煙が高く青い空にのぼっていきます。優しかったおじいさん、おばあさんを思い、マツちゃんの顔は涙でぐしょぐしょになりました。声をあげたくとも声にならず、 黙ってじっと煙を見守るだけでした。同じように、あちこちからあがる白い煙は、同じように肉親を自分たちの手でダビにふす煙。いくすじもの煙。                                  

                                                     

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⑳ それから毎日毎日、お父さんは親戚を捜しました。でも、マツちゃんのいとこのつね子ちゃんはとうとう見つかりませんでした。もちろん、死体も分からずじまいです。そのうち死体処理班が来て、トビ口という先がかぎになっている道具で、死体をひっかけ、トラックに積み込んでいきました。何回も、何回も。死体をどこへ運んで、どうしたのか、知りません。大人達の話では、公園に大きな穴を掘って、ただ埋めただけだとききました。黒こげの死体は名前はもちろん、男か女かもわかりませんでした。                               

                                                

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21 初めて黒こげの死体を見た時の怖さ、その後二、三日は ごはんがのどを通りませんでした。でもそのうちにみんな平気になりました。死体をまたいで通ったあと、その話をしながら食事をするようにもなりました。人の死にも、無惨な死体にも、心を動かすことのなくなる馴れ、そのおそろしさ。こんな異常なことがあっていいのでしょうか。                                      

                                                      

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22 これは六年生のマツちゃんが体験した東京大空襲のほんとの話です。親しかった友達、クラスのほとんどの人も死んでしまったのでしょう、未だに消息がわかりません。 疎開から死にに帰って来たようだと、生き残った人はいいます。                                                    

                                                    

私たちの平和な今は、こういう多勢の人の死の上にできあがったものです。これを忘れてはいけません。大きくなったマツちゃんの願いは、世界中のだれもが、こんな悲しい異常な経験をしない平和な世界であってほしいということです。でも、世界のあちこちではまだ戦争が起こっています。悲しいことです。 この世から戦争をなくすために、私達みんなが力をあわせて、戦争のない平和世界を築いて行きましょう。                          

                                              

                                 1983年制作

                                                   

                  ・・・・・・・・・・・・・・・

参考:まだ行ったことはないけれど、

東京大空襲資料センター  http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/

                                               

アクセスがあった中から

◇3月10日は東京大空襲の日 http://kyudan.com/column/kuushuu.htm

                                                 

◇東京大空襲  http://www.interq.or.jp/green/mj23/peace/daikusyu.htm http://www.asahi-net.or.jp/~QT7K-NGC/index4.htm

◇3月10日は風が強い日らしいですね http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html

◇学童集団疎開の記録  http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-0-3.htm                           

◇カーチス・ルメイ  http://sidenkai21.cocot.jp/m363.html

◇朝鮮人被災者を記録する  http://www4.ocn.ne.jp/~uil/45310-4.htm