Cogito

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ナベヅル

2006-01-31 11:40:04 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のテレビで八代盆地のナベヅルの10年間の記録を放映していた。とてもたのしかった。そして鶴を見守るそこの人々の、まるで隣の家族のように見守るような温かいまなざしに感激。

1 ナベヅルやマナヅルの渡来地としては鹿児島県の出水地方が有名である。山口県の八代盆地は本州で唯一ナベヅルが渡来する地である。この山間の地に鶴が訪れるのは、こんなわけがある。江戸幕府は鶴の捕獲を禁止していたので、日本中あちこちで鶴の姿は見られ、人と鶴は共存していたのである。たしかに昔話として残っている鶴の話はあちこちにある。それだけ鶴は身近にいた鳥といえる。ところが明治になると、その禁制がなくなり、多くのツルが乱獲され、いっぺんにその数を減らしてしまった。八代盆地も例外ではなく、個体数は激減、鶴を守ろうとする農民と狩猟者とが対立した。時の山口県令は鶴の捕獲を禁止、日本で初めての自然保護条例が生まれ、八代盆地の鶴は生存権を得たのだそうだ。

ナベヅルは八代盆地で冬を過ごし、春先、3月にシベリアに渡っていく。刈入れが済んだ田んぼで落穂を拾う。そして鶴が帰った後に田んぼを耕す、こういう生活のサイクルができていたようだ。鶴は雑食。

番組は飛来する鶴の一家族に焦点をあてストーリーを組み立てている。その家族は「黒太郎一家」。黒太郎一家の様子を、単に鶴の観察記録としてだけでなく、村人の目を通して描いている。村人の鶴に対する心遣いがよくつたわって来る。とはいえ、10年間、じっくりと生態を撮り続けた記録は、貴重なものだ。

鶴は昼間は田んぼに来て餌を拾い、夜は近くの山で眠る。鶴はそれぞれに縄張りを持っていて、そこで通常は過ごすようだ。鶴がいる田んぼの前には鶴観測所がつくられ、鶴の観察員、研究者もいる。そこは農閑期の村人の集会所でもある。手の手に双眼鏡や望遠鏡を持った村人たちが鶴を見にやってきて、そこで話の花を咲かせている。鶴が村人のコミュニケーションを育てている。こういうことができる村の雰囲気はまことにうらやましい。

もちろん大人たちがそうだから、子どもたちも鶴が好きである。放課後の鶴観察も続けている。

ある年、何年という文字は出るのだが、記憶していないので、すべてある年としておく、23羽の鶴が飛来した。黒太郎一家も2羽の幼鳥を連れて帰ってきた。そして翌年3月、

渡りの時期。渡りを始めようとする鶴たちは縄張りを捨て、一緒に集まり、西を向き、短くクックッと鳴く。陽炎がたつ。鶴たちは陽炎の立つ上昇気流に乗って空中を旋回しながら高度を上げていくのだ。

村人はこの日を見送る。小学校も例外ではない。校長先生が双眼鏡を持ち、校庭でつるが飛び立つのを見守っている。鶴が飛び立つと、すぐ全校生徒に知らされ、子どもたちみんなが鶴を見送る。「元気でね~」「また来いよ~」とかわいい声があがる。鶴は高度を上げるために、何回も小学校の上を旋回することになる。これが子どもたちには「さよなら」といっているように見える。このとき、校長先生は異常をみつけた。23羽飛来したはずなのに、一団は19羽しかいないのだ。連絡が鶴観測所に行く。なんと黒太郎一家だけが残っていたのだ。少し遅れて黒太郎一家も飛び立つが、子鶴が上昇気流に乗れず、高度を下げてしまう。幾度も試みるがどうしても上昇気流に乗れない。黒太郎はもとの田んぼに引き返す。無理をして飛んでも、子どもはどこかで力尽きて落ちてしまうことを知っているようだ。飛び立たなかったのも、子どもの調子が悪いことを察知していたからのようだ。

そして1時間余りあと、先に飛び立った群れが戻ってきたのだ。仲間を見捨てることなく。

数日後、陽炎の立つ晴れた日、上昇気流に乗って鶴たちが旅立った。黒太郎一家もいっしょに。

ある年、黒太郎の奥さんが足に怪我をしたらしく、足を引きずっている。すぐ座り込んでしまう。黒太郎は弱った妻のそばに付きっ切りでいる。弱っている鶴の天敵はキツネ。そのキツネを追い払うのために黒太郎がまもっていたようだ。傷ついた鶴が飛んで帰れるかどうか、村人ははらはらしながら見守っている。渡りが始まった。傷ついた鶴を先頭に上昇気流に乗っていく。傷ついた鶴のペースに全体があわせているのだという。

その翌年、村人は思案顔につるの飛来を待つ。あの傷ついた鶴の安否が気になっているのだ。いた、いた、黒太郎と傷ついた奥さん鶴が。

10年の間にナベヅルの数が減った。一桁になったこともある。村人たちはツルがねぐらに帰ったあと、田んぼに落穂をまく。鶴が北に帰った後、ねぐらの山の田んぼを整備して水をはり、昔のように鶴が安心して眠れる場所作りも始めた。

ストリ-のクライマックスは黒太郎一家を襲った悲劇。

あの傷ついたツルがある朝、忽然と姿を消してしまったのだ。黒太郎の様子もおかしい。

村人もねぐらを始め、探し回るが見つからなかった。キツネにやられたのなら、痕跡は残っているはずだが、それすらない。集団で行動する動物は、自分が集団の重荷になると察知すると自ら身を隠してしまうことがあるのだそうだ。

渡りが始まった。しかし黒太郎一家は残った。2羽の子どもをつれて、探し回るかのように、盆地を飛び回っている姿が村人たちの胸を痛める。「やりきれないですね~

そしていつもよりずっと遅れて325日、あきらめた一家は西に向かって旅立っていった。

昨年、飛来した黒太郎は新しい奥さんと2羽の子どもを連れてきた。黒太郎一家のおかげで飛来鶴は11羽になった。

ツルを観察している小学校も児童数が減り、複式学級を余儀なくされている。鶴より先に子どもがいなくなってしまうのではと思うぐらいだ。しかし元校長先生の「子どもが少なくなっても、鶴を愛する村人がいるかぎり、この村の心は引き継がれて、この村はなくならない。」

ネットで山口県の八代盆地を探してみた。熊毛町に鶴の飛来地の記載があった。鶴が来ているうちに行ってみたい。熊毛町もまわりと合併して周南市になっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クモ日記 06-1

2006-01-28 09:16:38 | クモ日記

ツグミがハゼの実をついばんでいる。数日前からツグミらしき影は見ていたが、確認できなかったので「見た」とは書かなかった。ちゃんと戻ってきていたのだ。うれしいね。シベリア組みはあとシロハラの姿をみないと。

白木蓮の綿毛のような蕾が膨らんでいる。この大きさは2月下旬の大きさだね、なんていっているんだけど、考えたら2月はもうすぐそこだ。秋が終わらないうちにいきなり普段より寒くなったから、木々もおかしくなっているんだろう、と思っていたら、そうでもないんだな。

クモ日記が出来そうだ。

2811 トイレの天井近くになにやら繭みたいなものがある。ホコリの塊かもしれない。でも、気になるので棒を探してきて、そっとその塊を触ってみた。すると、いきなりクロっぽい虫が飛び出して、桟に沿って逃げていく。クモだ。ということはヒラタグモだな。

メガネとルーペと椅子を持ってトイレに戻った。椅子に乗って、メガネをかけルーペをかざしても、クモは小さいのではっきりとは見えない。もう一度戻ってカメラを持ってきた。もちろんレンズはマクロに付け替えて。ついでにものさしも持ってきた。

28 やはりヒラタグモだ。体長4mm。

281 ヒラタグモってアップするとかなり毛むくらじゃだなぁ。

282 オオヒメグモの母さん

風呂場のオオヒメグモは卵のうを4つもつけている。

283

卵のうだけ撮ると、まるで火星の衛星みたいだ。クモ先生に見せると、今時分卵は産まないはずだから、空ではないかという返事。そこでひとつ頂いてきて、黒い紙のうえにのせ、ピンセットで開けてみた。中に小さな白い粒々がいっぱいある。

卵入ってる。でもびっしり詰まった感じではない。そこで粒々を取り出し、つぶしてみた。抵抗がない。汁も出ない。これは空だ。あと二つ取って来て、開けてみた。同じく空だった。オオヒメグモの母さんがしっかり守っているから、有精卵だと思ってしまったのだが。とはいえ、オバサンが傍についているから全部取り上げるのも気の毒、とひとつは残してきた。オバサン、空でもちゃんと傍にいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006-01-27 12:24:55 | 

玉姫酢というのを頂いた。さっそくなめてみると、つんと来る酸っぱさはなく、まことにまろやかで美味しい。むしろ甘いくらいだ。表示を読むと京都の小さなメーカーで、酢は2、3年置いたほうが美味しいと書いてあった。なら、少し多めにとって、みんなにも分けてあげようと、電話をしてみた。なかなかつながらなかったが、やっとつながったと思ったら、新規申し込みは受け付けていないと断られてしまった。理由は主が病気で、生産が出来ないので、少しずつある分を申し込みのあった人達に送っているとのことだった。まっ、仕方がない。どうしてもなければならないものでもないので、「お大事に」と言って電話を切った。WEBで探すと、なるほど限定ものと書いてある。こういう事情だったのだ。

同じく京都の千鳥酢がブログに載っていて、ロビンソンで売っていたので買ってきてみた。まろやかさは玉姫酢の方が上。

よくデパートで酢を勧められる。いつも断って口にすることはない。健康のために酢を飲むように加工されているらしい。そういうものは私は絶対に買わない。へそ曲がりもいいところだ。美味しいものはほしい。とはいえ、行列に並んで買ったり、食べたりするようなこともしない。なんか子どものころの配給のトラウマが未だに残っているようだ。

酢の物は好きである。消費者運動をしていたから、物の品質は知っている。日頃、質の悪い酢は使ってはいないが、それでも美味しい酢との出会いはいい。玉姫酢は無理としても他にも美味しい酢はあるだろう。美味しい酒がこれだけあるのだから。道楽をしてみるか。

大根をことこと煮て、たっぷりのダシをしませ、ふろふきにした。味噌は赤味噌を練った。美味しいね。冬の食べものだね。これにはお酒が合うなぁ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラビアの歌

2006-01-26 18:13:56 | 日記・エッセイ・コラム

砂漠に日が落ちて 夜となるころ

恋人よなつかしい歌を歌おうよ

あのさびしい調べに 今日も涙流そう

恋人よアラビアの歌を歌おうよ

訳詞:堀内敬三  作曲 Fred Fisher

テレビのアラビア語講座のテーマ曲。

なぜか私はこの古い歌を知っている。昔、よく口ずさんでいたものだ。たぶん母親が歌っていたもののようだ。ということは映画かなんかに使われていたものかもしれない。そこで「アラビアの歌」をWEBで探してみた。なんと外国の歌だったのだ。へぇ~、訳詞は堀内敬三さん。

Fred Fisherってだれだろう、と探すとジャズマンだった。

原題は「Sing Me A Song Of Araby

毎週、月曜日の真夜中に放映されているこのアラビア講座を見ている。時々気が向けばノートしたりもしている。見ているというと、アラビア語を勉強しているように思われるだろうが、でもアラビア語はなんとも難しくて、私には歯がたちそうもない。名詞も男性、女性があり、複雑に語尾変化する。単数と複数にさらに2つの場合の双数というのがある。第一あの文字を覚えるのが大変だ。

チュニジアの町にはあの文字だけしか書いてなかった。読めなくて、困ったことがある。でも勝手に動き回った。

エジプトではルームナンバーを書いて署名するとき、Papasanがアラビア文字で数字を書いて、スタッフ達から受けていた。

この講座で挨拶を「アッサラーム アライクム」と書いてあった。カルカクパックへ行ったとき、私を見てお年寄りが右手を胸に当て、「アッサラーム アライクム」と挨拶してくれた。私も胸に手をおき、「アライクム アッサラーム」と挨拶を返した。ちょんと通じた。で、挨拶はこういうのだと信じていた。

知人がいまヨルダンにいる。一年滞在するのでアラビア語講座を受けていた。で、さっそく冒頭に「アッサラーム アライクム」と挨拶を入れてメールした。ところが、「アラビア語のテキストにはどれも{アッサラーム アライクム}とは載っているんだけど、だれもそんな言葉を使いません」という返事がかえって来た。「マルハバ」というのだそうである。

調べると「おはよう」「こんにちは」、「HELLO」の意味のようである。ということは「アッサラーム アライクム」は丁寧な言葉遣いで、普通挨拶には「マルハバ」が使われているようだ。そういえばトルコは「メルハバ」だったな、なんて思い出した。

知人はヨルダンに10月までいる。いる間に行ってみたいのだが、無理のようだ。シャロンは病気だし、ハマスは主権を握ったし、中東情勢がどうなるのかな・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2006-01-25 17:36:16

2006-01-25 17:36:16 | 日記・エッセイ・コラム

アカハラが来た。「おひさしぶり!」って感じだ。

昨夜、チャンネルを回すと古い映画をやっていた。 佐野周二、原節子、香川京子、小林圭樹といった人達が出ていた。なんて題名か知らないが、まだ戦後のまだ貧しい時代の映画である。佐野周二、原節子の夫婦も長屋のような家に住んでいる。テレビも冷蔵庫も、洗濯機もない。そういう時代なのだが、会話の内容はばかばかしいような日常的なことだったが、ただだれもがとってもきれいな日本語を話しているのに驚いた。

いまこんな会話が話されるのは、どういう人たちだろう。いわゆる日本の金持ちも政治かも言葉は美しくはない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする