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『パントマイムの歴史を巡る旅』第33回(長井直樹さん(4))

2019-11-23 19:40:45 | スペシャルインタビュー

(インタビューの第4回は、バリでの活動と並木先生のマイム表現を中心について語っていただきました)

阿部(以下、A) その頃から、長井さんの中では、バリに行くという確固たるお気持ちがあったのですか。

長井(以下、N) いえ、その時はまだでした。でも、ちょくちょくバリに行っていたと思います。

佐々木(以下、S) どういう経緯があったのでしょうか。

 きっかけは、転形劇場です。なぜ、そこと細川さんがつながったのかな。

 ひろみさんによると、転形劇場の女優さんの1人とひろみさんがお知り合いで、その女優さんたちが狩野先生にヨガを習っていて、そこにひろみさんが参加していたのがきっかけでした。そして、ひろみさん、ながいさん、荒山さんら皆さんでヨガを習いに行くようになったのです。そこでヨガを教えてくださる狩野先生がバリと関係が深いんですね。

 うん、バリに移住するかなり以前から、狩野先生のところに通いつめていました。それで、バリの踊りは、指先や目の使い方がとっても参考になるから1回(現地で)観てみたらと言われて、自分の目で確かめたいと思ってバリに行ったのです。狩野先生には一切言わずに、自分で計画して行ったら、自分の宿泊先が、狩野先生の親しくされているところで、そこは楽団の本拠地みたいな場所を兼ねている宿泊所なんですが、そこでばったり会うという…。

 スゴイですね。

 狩野先生に紹介してって言ったら、ここ(宿泊先の楽団の本拠地)を紹介したいと言われました。

 それで、バリ舞踊にひかれていったのですか。

 そうだね。いきなり3、4回習わせてもらったかな。当然大してできないけど、ただ、体の使い方は分かっていたから、初心者ではないという意味で迷惑をかけていなかったと思います。その時に女踊りのメジャーな踊りを前半部分ですが習いまして、どうせなら、1曲全部やりたくなって通い出しました。

 通いだしたというのは。

 当時は、最初は(飛行機の)チケットの関係で3週間か90日のオープンチケットくらいしかなくって3週間じゃ足りないから、それ以上となると一年オープンっていうチケットがマックスでした。(今は格安航空会社が存在し、片道でも購入できるようになっていますし、気にしなくていいのですが、当時はインドネシアの観光ビザの最大滞在可能日と、エアチケットの購入できる日数との兼ね合いで、3週間以上は90日を選ぶしかない状況でした)ま、つまり段々とはまり始めて、3週間程度の滞在では勉強できないと思って、その頃、大学の講師をやっていたので、大学の休暇を利用して60日程度行っていました。

 最終的に長井さんがバリに渡ったのは何年ですか。

 2006年です。結局、バリで習っていた先生が、かなりの芝居系の踊りの方だから、並木先生がいなくなったあと、まだ自分はどうしていいか分からない状態でしたので、バリの踊りの先生のところにずっと何かを模索するために行っていました。

 

 それで、バリに移住してから、バリではバリ舞踊の活動を行っていたということですね。

 ええ。バリでは、小悪魔が躍るという、儀式ではほぼ行う踊りを頻繁に踊っていました。その踊りでは、ガムランの伴奏曲もインプロで、踊り手に合わせてもらえることが可能となり、道化をするシーンがあって、そこでは必ずパントマイムをやっていました。結局、アジアの踊りって、パントマイム的な要素がすごいあったのです。

 向こうでもパントマイムをやっていたのですね。

 実は、自分のパントマイム作品の女性の動きは、すっごくバリの踊りが生かされています。バリの踊りの女踊りは、とってもキレイだから、ちょっとしたしぐさは、絶対、女子を演じる動きに生かされています。体にしみついちゃっているのです。

 バリ舞踊は、どういう場所で踊っていたのでしょうか。

 お寺です。お寺の誕生祭の行事みたいなお祭りで、バリ舞踊は、神様に見せるための出し物です。その出し物を人間が垣間見るということになります。

 長井さんは、ジマットさんという世界的に有名な方のお弟子さんです。だから、色々な世界の各地の人が訪れるような場所に、

 住み込みで活動していました。

 バリ舞踊では、仮面が特徴的ですよね。

 仮面の動きは、大変勉強になったと思います。色々なお寺で踊りましたが、すべて仮面をつけた踊りをやれって、よく言われました。他にもさまざまな踊りがあるのですが。メインで踊ったのは、その小悪魔と老人の男との演目でした。

 それで、長井さんご自身で仮面を作って…

 以前から、仮面を付けて並木作品の「時よ!」を上演したかったんです。並木さんと能面師さんとのコラボで作った、無垢の木のままの仮面を使った「時よ!」のイメージが非常に強かったのです。やはり、仮面の存在がすごかったのです。それで、日本のハンズで買ったプラスチックの「小面」のお面を参考にして、向こうの非常に偉大な仮面の制作者に仮面を作っていただきました。それができたのが、今、使っているお面です。

 TMCの課題作品の「鏡」とかで使用しているお面ですね。

 あれは、なかなか手に入らない木の素材で、大変貴重なものです。

 それに儀式で命を吹き込むのですよね。

 その仮面が大変気に入っていたので、その後、その素材が見つかったら、彼が僕のために、ストックで保管してくれました。で、一回日本に帰国した後に、素材があるよといわれて、その仮面と同じのを作ってもらいました。だから、姉妹がいっぱいいます(笑)

 

 話が戻りますが、並木先生の演出で重視されていた点はどういうところになるのでしょうか。

 芝居的な要素は、非常に大きかったと思います。しっかり心で感じろというのはあったし、あとは、東マ研の頃はなかったけれど、気球座に入ってからは、アトリエ公演の頃はやっぱり、(演じる人の)履歴書をちゃんと作れと言われました。

 芝居ですね。

 だから、ものすごく芝居っぽい作りでした。あとは、すごい無対象を大事にしていた人だから、しっかり無対象を見ないといけないということは叩き込まれたし、見るだけじゃいけないし、感じないといけないし、空間を肌で感じないといけないし。その無対象のモノの素材を色もニオイも味もと、そういうのを全部しっかりと感じろと。

 ひろみさんがおっしゃっていることと一緒ですよね。

 そういうことをやるために、どういう稽古をしていたのでしょうか。

 それは、東マ研の頃にはあまり言われませんでした。レベルが高い話だから、具体的に言われたのは気球座からだと思います。東マ研の試演会では、そこまで一気に言ったら潰れてしまうから。そこまでは要求されなかった。でも、自分は後半の方でやったような気がします。芝居的な作りにこだわっていたのは、やはり、文学座出身で文学青年だった並木先生だからだと思います。

 

 当時の並木先生の印象ってどうでしたか。

 まっすぐでした。パントマイムがとにかく大好きな人だったと思います。文学座の同期が角野卓造さんです。先生から直接聞いたのか覚えていませんが、「なぜ芝居ではなく、パントマイムにしたかというと、人間はしゃべってない時間の方が長い。もちろん、アナウンサーや電話交換手とかしゃべりの職業の人は一部違うかもしれませんが、ごく一般的な職業の人は、24時間の中で話をしてない時間の方が長い。話をしていないのは、聞いている時間かもしれないし、1人きりの時間かもしれないし。でも、人間は言葉を巧みに使える生き物だから、嘘も上手でごまかせる。好きでもないのに、好きと言ったり、うまくまるめこんだりとか。実は、そんなに言葉を使っている時間はなくって、そこに人間の本質が見えてくるのではないか。ということで、パントマイムはすごくそういう意味では、そこに注目して表現できる面白いやり方だと思う」という話を聞いたことがあります。パントマイムの面白さは、そういうことにあるって納得しています。あと、並木先生は学校公演をものすごくやりたかったことが印象的でした。

(つづく)

 

 

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