蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

金木犀

2005年10月10日 04時30分47秒 | 悼記
今年も金木犀の香る季節になった。わたしは二十歳頃までこの花の香りを嗅いだことがなかった。いや、これは正確な表現ではない。嗅いだ記憶がないというべきだ。香りそのものは嗅いだことがあるのかもしれないけれど、その香りと金木犀の花を関連付けたことがなかったから。しかしわたしの生まれ育った街には今でもほとんど金木犀を見かけないので、ほんとうに嗅いだことがなかったのかもしれない。
金木犀が濃い黄色の小さな花を咲かせるということと、その香りとに関連付けができたのはSが西荻に住んでいた頃だった。Sとは中央線沿線の古書店を何度が巡り歩いている。Sはけっして古書マニアではなかった。本はけっこう読んでいたが集めるという趣味はまったくなかったはずだ。もっともお互い金がない身なので本を蒐集するなどいった大それたことなどできる筈もなかったが。今ではもうよく思い出せないのだがSとそのほかにTやHもいたかもしれないが、皆で西荻窪駅南側の古書店を覗いた帰りだった。待晨堂ではなかったはずだ。この店にSと一緒にいった記憶はないから。たしか道を立教女学院の方向に歩いているときだった。急にあの甘い香り、桃の缶詰を開けたときに香ってくるのと同じような香りがしたので、わたしはSに「これは何の匂いだ」と聞くと、彼は「金木犀じゃねえか、そこいらに木があるんだろう」という。このとき初めて金木犀という植物名がわたしにとってとてもリアルなものになった。匂いの元を探すと、すぐ横にある民家の垣根から黄色い花をつけた潅木がほんの少し突き出ていた。
金木犀を知っていようがいまいが別にどうということではない。ないのだが、しかしまたしてもやられたとわたしは思った。Sには基礎学力でも、文学でもそしてフランス思想に関する知識でも完全に負けていたが、その上今度は植物というわけだ。わたしはSたちと別れて井の頭線の三鷹台駅まで歩いた。とにかくすべてのことが嫌でたまらなかった。Sが話題にする事々はみなナンセンスなのだと思い込もうとした。それほど嫌ならSから離れてしまえばそれでよいではないか。なにも彼と付き合わなくとも日々は過ぎてゆく。ジャン・ジュネやジョルジュ・バタイユを解ろうなどと努力する必然性はどこにもない。もうSと議論するようなことは一切止めにしよう。そう思うとほんの少しだけ気分は楽になったのだが、不満が残った。Sと没交渉になるのはよいとしても、それは結局わたしが彼に敗北したということではないのか。あらゆる分野において(当時は本気でそう思っていた)彼に敵わないという事実が残るだけではないのか。
翌日の昼食時、わたしは相変わらずSやH、Tたちと学生食堂にいた。べつにSにたいしてリターン・マッチを試みたわけではない。でもわたしはそこにいた。惰性というのではない。延々と続く観念的話題の繰り返しのなかにいることが、なんとなく心地良かっただけだ。

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