蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

平成十七年だった(下)

2005年12月31日 22時59分46秒 | 古書
八月は最初から何も期待していなかったら、ほんとうに不毛な月になってしまった。なにか一つ上げるとすれば"Martin Heidegger karl Jaspers Briefwechsel 1920-1963"を高円寺南の都丸支店で八百円で買ったことくらいだろう。
九月はちょっと大きな買い物をした、といってもウン百万も使ったわけではない。わたしの買い物は基本的にセコいのだ。辻善之助の『日本佛教史』全十巻を神保町の山陽堂で一万円で手に入れた。同じ品が大雲堂で一万二千円で出ていたということは「新装開店」の回で書いているのでそちらを参照してください。また『ラテン語広文典』が白水社から復刊されていたので八重洲ブックセンターで少々高かったけれども買ってしまった。この本にまつわる馬鹿げた話を「古本は高くないって。」の回でちょっとふれているので興味のあるかたは見てください。その他巖松堂書店の二階で『正法眼蔵啓廸』上巻を購入しやっとこさこの本全三巻が揃ったこと、篠村書店でツェーラーの『ギリシャ哲學史綱要』を入手したことなどが、まあ出来事といえば出来事だろうか。
十月のイベントはもうこれしかない。東京古書会館の洋書展と神田古本まつり。洋書展も毎年つまらなくなっている。英語系の本ばかりのさばって来ているからだ。せめて独仏伊西語くらいは並べて欲しいもの。今回の洋書展での拾い物は都丸から出品された"Deutsche Grammatik Gotisch, Alt, Mittel- und Neuhochdeutsch"全四巻だろうか。コンディションはけっしてよろしくないにもかかわらず三千円の売値が付けられていた。しかしわたしはこれを安いと判断して買った。崇文荘からは"Bibliographie Pratique de la Litterature Grecque Des Origines á la Fin de la Periode Romaine"が出ていた。まるで他の本の間に隠れるように並んでいたこの綺麗な洋書を値段が八百円だったので思わず買った。崇文荘からは欲しくなるような美しい装丁のものが毎回出品されるのだけれども高くてとても手が出ない。しかしこういうこともごく稀にはあるものなのだと、自分の今回の幸運につくづく感謝したものだ。
神田古本まつりについては、言葉もない。すっかり有名になってしまい子供連れが多く見かけられる。へたなテーマパークより子供の情操教育にはこちらのほうがずっとよいことは確かなのだが、それでもなにか違うんじゃあないかと思ったりもする。すずらん通りのワゴンセールにしてからがちょっと書籍以外の品物を扱う店が多すぎるのではないか。出すなとまではいわないがもっとバランスを考えて出店してもらいたい。あくまで本のまつりだということを忘れてもらいたくはないものだ。そんなわけで今年も古本祭りでは一冊も買うことはなかった。
十一月に購入した本を改めて眺めてみると、買った量の割りにはどれもこれも概して小物ばかりだった。洋書展の売れ残りみたような"Ausführliche Grammatik der französischen Sprache"全五巻や大久保道舟の『道元禪師傳の研究』が目に付くだけだ。十二月は松下大三郎、渡邊文雄の『國歌大觀』『續國歌大觀』計四冊を定価の十三分之一の三千円で入手できたがこれが今年の最後の成果になってしまった。
来年の計画としては、今年と同じように辞書辞典類を中心に探していこうと考えている。それとこれは無理かもしれないけれども"Dictionnaire des Philosophes Antiques"のⅢ巻、Ⅳ巻そしてSupplementがどこかの洋古書屋に出ないものかと夢見ている。紀伊国屋あたりで新刊を注文すると一冊一万円くらいは取られるに違いないからこれは最初から念頭に無い。あくまで古書としての入手を目論んでいる。

平成十七年だった(中)

2005年12月31日 22時14分53秒 | 古書
前回「四月の異動の結果は五月になって出始める」などといっておきながらその舌の根も乾かぬうちにこんなことは書きたくないのだけれども、五月も全滅だった。しかし一冊だけ取り上げるとするならば高円寺南の都丸支店で手に入れた"Lectiones Latinae Latenisches Unterrichtswerk für Gymnasien"だろうか。読んでの通りギムナジウムの授業用文法書で一九六八年の発行だが、初版はもっと古く一九四七年頃らしい。しかも本文がフラクトゥーア体で印刷されているので比較的最近の出版であるにも関わらず古色蒼然とした感じがする代物だ。でもこんな文法書でラテン語をみっちりと叩き込まれるドイツのギムナジウム生徒がわたしには本当に羨ましい。動物が獲物の捕らえ方を親から学ぶのと同様に、人間だってあらゆることは学んで憶えなくてならない。これは食事から排泄、セックスにまで及ぶ、とすれば芸術や文化はなおさらのこと。よいもの、美しいものは無条件的に誰にでも判るということは先ずありえないといってよい。あの天才三島由紀夫だって若い頃の芸術的訓練がなかったなら後々の活躍はありえなかったはずだ。その彼についての関係書籍をこの月も購入した。『三島由紀夫エロスの劇』という題名だった。『三島由紀夫と橋川文三』もまだ読み終わっていないというのに。
六月は東京駅近くの八重洲ブックセンターが洋書売場レイアウト替え前のバーゲンセールをやっていてドイツ語書籍がかなり値引きされていたので連日通って購入していた。このときは幸運にも職場が八重洲だったのだ。ハードカバー物はなくすべてがソフトカバーだったがトーマス・マンに関係する出版物を多く手に入れた。しかしなかには"Das Lexikon der Nietzsche Zitate"や"Der Untergang Das Filmbuch"といったものも混じっている。前者は読んで判るとおりニーチェ引用語辞典で後者はあの名優ブルーノ・ガンツがヒトラーを演じた映画、邦題「ヒトラー最後の十日間」の元ネタの一部であるヨアヒム・フェストの"Der Untergang"と映画の台本を合体した本でRowohlt Taschenbuch Verlagから出版されたもの。この本の邦訳はおそらく版権などの問題で日本では出されることがないのではないだろうか。そうだとしたらとても残念なことだ。そのほか大島書店でコジェーブの"Introduction á la Lecture de hegel"(傍線有り)を見つけたので買っておいた。これの日本語版は随分と前に国文社から上妻精と今野雅方の共訳で『ヘーゲル読解入門『精神現象学を読む』』という題名で出版されていて大方の好評を得ているが、まことに残念なことにこの本は抄訳である。そんなわけで今回原書を手に入れてその全体像をやっと知ることができ勉強になった。
わたしは七月になるのを待ち望んでいた。東京ブックフェアが開催されるからだ。好例の洋書バーゲンは回を重ねるごとにヴィジュアル系に傾いてきてはいるものの、必ず一つや二つは光るものが見つかる。今回の光るものはソフトカバーの"Logische Untersuchungen"全三巻だった。亡くなったわたしの親友Sがこれのみすず書房版日本語訳『論理学研究』を読了したとうれしそうに電話で報告してきたことを思い出した。七月の収穫としてはこの他に東京古書会館趣味展で沼袋の訪書堂書店から出品されていた吉川弘文館版『大日本史』全六巻と『正法眼蔵思想大系』全八巻だろうか。『大日本史』はもちろんあの黄門様が編纂した歴史で、正直なところ読んでもあまり面白くはない。漢文であるということ、そしてわたしが歴史に興味を持てないことが原因だ。『正法眼蔵思想大系』は題名そのものが説明しているように道元禅師の名著『正法眼蔵』の解説書で著者は岡田宣法、たしか駒沢大学の先生だったと思う。この本の旧所有者の鉛筆による書き入れがあるものの、それらはほんのマーキング程度のものでしかも薄く書かれているためほとんど気にならない。しかもこれらのマーキングから旧所有者の学識の高さまで窺がわれる。浅学非才なわたしは蔵書に書き込みなど努々しいないよう自戒した。参考までに購入価格を公表すると"Logische Untersuchungen"が三千五百円、『大日本史』二千円、そして『正法眼蔵思想大系』がフッセルと同じく三千五百円だった。
自分として気になった本を最後に上げると池田彌三郎、加藤守雄による『迢空・折口信夫研究』がある。六、七年ほど前、折口信夫の研究書を集中的に読んでいた時期があった。加藤守雄や岡野弘彦などの書いたものを読んでいると、わたしなどとても折口の傍にはいられないだろうと想像するのだが、しかしだから一層のこと折口信夫という人物に興味を覚える。

平成十七年だった(上)

2005年12月31日 21時43分46秒 | 古書
今年の反省を行う。といっても別に己が品行を省みようなどというのではない。書痴の反省とはこの一年間に購入した図書を改めて一点ずつ評価して、世間様から見た自分がいかにアホ馬鹿であるかを再認識する、まあなんといったらよいか、つまりは少々自虐的な一人忘年会なんです。
わたしは記録するというのが大の苦手で、したがって帳簿類の作成など想像したことさえないのだけれども、購入した書籍についてはその題名、出版年月日、定価、支払った代金、買った店の名前などなどを記録に残している。面倒には違いないけれどもこれが後々結構役に立つことがある。むかしはノートに手書きで作っていたものだがそれがワープロに替わり今ではEXCELシートを利用している。残念なことにノートはどこかに消えてしまい、ワープロもFDDをぶっ壊してしまって当時の記録を参照することができなくなってしまった。現在の記録は四年前からのものだけれども、それ以前のものはパソコンがヴィルス感染してお釈迦になってしまった。バックアップを採っていなかったことがつくづく悔やまれる。
前置きはこのくらいにして早速本題に入ると、今年の端は一月八日東京古書会館での下町書友会だった。古書展では成果がなかったものの大島書店で"Der Schauspiel Führer"全七巻を千八百円で購入している。しかし一月はこれで終わってしまった。歳の初めであまり期待できない中だったので大島書店で"Der Schauspiel Führer"を手に入れることができたことを寿ぐべきなのだろう。
二月の二十六日に年が明けて初めて高円寺の都丸を覗いた。"Diccionario de USO del Espanol"二巻物が表に並んでいたので購入している。千六百円で少々高いとも思ったけれども、いずれ何かの役に立ちそうな予感がしたので重いのを堪えて持ち帰った。このような予感は結構あたるもので、といっても結果が出るのは十年ほど先になるのだが。新刊書籍としてはヘーゲルの『自然哲学 哲学の集大成・要綱 第二部』を購入している。長谷川宏の訳文はたしかにこれまでのヘーゲルものとは趣を異にしているとはいえ、原文そのものが難しいのだから長谷川版ヘーゲルだってそんなに簡単に読めるものではない。そもそもなぜヘーゲルが難解かというと、その独特な言葉遣いにある。ということは逆にそのような言葉遣いについて伝統的な解釈の仕方というものがあるわけで、それを習得すれば理解がそれほど困難ではなくなる。これを伝授するのがいままでは大学のゼミだったりしていたわけだ。皮肉ないい方をするならば教授先生方にとってこれほど気楽な授業はない。
三月には馬車道に引っ越した誠文堂を訪ねてみた。樫山欽四郎の『ヘーゲル精神現象学の研究』があったのでご祝儀代わりに買った。千二百円だった。ショーウインドウにどっしりとした装丁のアクィナスの"Summa Theologica"が置かれていたのだがかなり高めだったので買えなかった。もっともSummaを読むのだったら今ではインターネットでラテン語原文を参照することもできる。したがって買うのだったら当然見てくれのよいものでなくてはならない。一誠堂や崇文荘にも偶さか並ぶことがあるので、そちらの方のチェックもしておいたほうがよさそうだ。因みに都丸では"Handbuch der deutschen Gegenwartsliteratur Einleitung und Autorenartikel"三巻本を千円で購入している。そして今年の目玉の一つ"Die Religion in Geschichte und Gegenwart Handworterbuch für Theologie und Religionswissenschaft"全七巻を散々迷った末に崇文荘で購入。この件については既に「正当恁麼時」の回その他で触れてるのでもうこれ以上は書かないことにする。
四月は全滅状態。去年まではこの月にブックフェアが東京ビッグサイトで開かれていたものだったが今年から七月開催となり四月がつまらない月になってしまった。古書店に新しい品が並ぶのは異動のある季節と連動しているが、たとえば四月の異動の結果は五月になって出始める。つまり五月から六月にかけて目新しい品々が店頭に並ぶことになる。
買い込んだ新刊書のなかに『三島由紀夫が死んだ日』なんてものがあった。じつは二月にも『三島由紀夫と橋川文三』を購入している。三島由紀夫関係の出版物は現在刊行中の全集を除いて大方買っている。彼が市谷で割腹死してから三十五年も経ってしまったけれども、いまだに語られることの多い作家だ。わたしはこのような例を他に知らない。ところでもし彼が今なお健在であったなら今年で八十歳ということになるのだが、老作家三島由紀夫なぞ想像するだけで気分が悪くなってくる。