蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

論理学研究

2005年08月18日 13時02分56秒 | 悼記
七月に東京ブッグサイトで開催された第12回東京国際ブックフェア2005に行ったおり、恒例の洋書バーゲンにフッセルの"Logische Untersuchungen"(注1)が出ていたので買ってしまった。よい本なのに誰も手を出そうとはしない。大方の客の目当ては英語系ビジュアル物だからしようがないといえばそれまでなのだが、それにしても「国際」と謳っているにもかかわらずどうしてこうも英語ばかりなのだ。ヨーロッパはもちろんアジア諸国のブースもあるのだから、バーゲンだって各国語の書籍があってもよさそうなものなのに。しかも英語本の占める割合が年毎に増えているように思える。これは単なるわたしの僻みなのだろうか。
わたしの学校時代からの親しい友人Sが数年前に亡くなった。土曜日の朝だったか、これから検査入院するというEメールが届いたので、早速「一刻も早い社会復帰を祈る」なんて返信したのだが、後になって聞いたところではこのメールのやり取りの後、数時間後に病院で突然逝ってしまったという。家族は死目にも会えなかったそうだ。結局この日届いたEメールがわたしにとってSの最後の言葉となってしまった。このSとは学校を卒業してお互い職に就いてからも電話で連絡を取り合っていた。当時はEメールなどという便利なものはなかった。Sからの電話は一度かかってくると通話時間が一時間を超えるのがざらだった。よほど鬱積したものがあったに違いない。それでも数年に一回くらいは東京で会ったものだがそれも三十代までだった。それ以降はもっぱら電話かEメールが主で、所用で彼が上京してきても会うことはなかった。わたしは「上京したら連絡してくれ」と再三言っていたのだけれども、しかし直接会う機会はなかった。わたしもSに対して会うことを無理強いしなかったのは、そのような彼の心情がなんとなくわかるような気がしたから。
Sとの間で話題となったのは仕事の話でも身辺の雑事でもなかった。双方ともにそのような話題は意識的に避けていたように思う。そうなると話は必然的に抽象的な話題、例えばキリスト教の教理、オカルティズム、サルトル的実存主義、精神分析、なかでもフロイトとラカン、要すればなるべく現実に抵触することの少ない分野になってくる。いつだったかロートレアモンの『マルドロールの歌』のフランス語版を読みたいとSが言ってきたので、わたしは日本橋丸善でどこの版だったかは忘れてしまったけれども、それを購入して彼に届けたことがある。Sの住んでいた地方都市には当時フランス語の書籍を常時商う店がなかった。『マルドロールの歌』の原書を初めて読んだSは、邦訳書がなんといい加減なものかと嘆いていたものだった。そんなSがあるときの電話でみすず書房版のフッセル『論理学研究』を全巻読み終えた、ととてもうれしそうに報告してきた。わたしはちょっと嫉妬して「それで、いったい何がわかったんだい」と邪険に答えてしまった。Sがうれしそうに電話をかけてくることなど滅多になかったのに。わたしはつくづく自分の狭隘な心根を恥じ入ったし、いまでもその思いは変わらない。
ブックフェアで"Logische Untersuchungen"を購入したことについては、もちろん値段が安かったこともあるが、しかしそれとともにいま書いたような事情もあって、Sにかわって『論理学研究』の原書を読んでみようかな、という気分になったからなのだ。

(注1) "Logische Untersuchungen" Edmund Husserl Siebte Auflage Max Niemeyer Verlag Tübungen 1993

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