蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

実存主義

2005年08月25日 05時42分16秒 | 悼記
八重洲ブックセンターにいったらサルトルの『存在と無』の新装版が平積みされていた。実存主義だって。まだそんなものがあったのか、とっくの昔に死滅してしまったものと思っていたが。
むかしむかし高等学校倫理社会の教科書ではハイデガーを実存哲学者として、キェルケゴールやサルトルなどの実存主義者と同列にとりあげていたが、これはどう考えてもおかしい。たとえばサルトルは哲学者だったのか。あの不健康極まりない容姿のキェルケゴールが精力的なハイデガーと同じ思考回路を持つはずがないではないか。「実存」というキーワードで彼らをひとからげにはできない、などと若い頃のわたしは考えたものだ。ごく大雑把にいえば実存主義ってやつは合理的概念の体系としてのヘーゲル哲学への反発から生じたものであって、つまり具体的個体としての人間は普遍的なものに還元できない現実の存在(実存)であるとするもの。今では当たり前の主張に聞こえるかも知れないけれども、それはわたしたちがキェルケゴールやハイデガー、サルトルよりも後の世界に生れたからだ。よく個人の自由とか、個人の権利とかいわれるが、そもそも「個人」という概念はきわめて近代の産物なのであって、たとえばヘーゲルにとって個人とは国家があって初めて成立する概念だった。
今は亡きわたしの親友Sはサルトルを読んでいた。正直言ってわたしはサルトルに限らずどうもフランスの思想家は苦手だったしそれは今でも変わりない。わたしは仏語がよく判らないのでバタイユもメルロ・ポンティも、そしてドゥールーズにしてもみな日本語訳で読んでいるのだが、それらすべての文体について同じような印象を受ける。簡単にいうと「気取り」を感じてしまうのだ。もちろん翻訳者はそれぞれ異なっているのだから訳者のクセというのでないことは明らかで、原因は元のフランス語文章にある。そのような気取った文章はフランスのインテリゲンチャに特有のもの、もっというならばあの超エリート学校エコールノルマルシューペリュー出身者の身についた文体なのだろうか。その辺りの事情をフランス語の専門家に聞いてみたいもの。
ところでSは学校に入った当初、杉並区の西荻にある学生専用の下宿屋で生活していた。わたしたちクラスの仲間が訪れると三畳の部屋は満室状態になってしまい、おまけにちょっとでも大きな笑い声を立てると隣室の受験生が壁を叩いて「Sさん静かにしてください」とクレームをつけてくる、なんとも窮屈なところだった。Sの部屋の壁には当時流行っていたヴィーン幻想派絵画の展覧会の大判ポスターが貼られていて、そこに描かれている男の顔がやけにSに似ていたのが今でも印象的に残っている。Sやわたしたちがそのときどのような話をしていたのか、もう憶えてはいない。多分サルトルも話題に上ったことと思うのだが、そうだとしてもわたしにはほとんど理解できなかったはずだ。
しかし、Sが自分の住んでいる下宿屋の正面が松浪信三郎の屋敷だとうれしそうに言っていたことだけは、鮮明に憶えている。

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