画竜点睛

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「ジェノサイド」(62)

2015-11-06 | 雑談
●基準の探究

早速ですが、まずわたしたちの証明の原理を示して置くことにしましょう。既に述べたように、生命とは、起源にあった唯一の同じエランが脈々と受け継がれ、複数の進化系統に枝分かれしたものです。この過程を貫く一連の創造作用によって、様々な傾向が成長し発展しましたが、まさにこの発展の結果、それらの傾向は互いに分離しなければなりませんでした。というのもそれらの傾向は、或る水準以上に成長するためには、互いに両立することを断念せざるを得なかったからです。理屈の上では、唯一つの個体の中で、幾千世紀にわたって様々な変異が積み重なった結果、生命の進化が成し遂げられた、という考え方をしても特に不都合があるわけではありません。或いは唯一の個体の中で進化が成し遂げられたのではなく、多数の個体が次々に生まれ、一線上に並ぶかのように一つの系列を形作っている、という考え方をすることもできるでしょう。この二つの場合、こう言ってよければ、進化には唯一つの次元しか存在しないことになります。しかし現実には、進化は無数の個体を介して、様々な方向に分岐した線の上で成し遂げられました。そしてそれらの線の一つ一つが別の分岐点に達し、そこからまた新たな道が放射状に広がっていく、ということが際限なく繰り返されてきたのです。もしわたしたちの仮説に根拠があるなら、そしてそれら様々な道に沿って働く本質的な諸原因が心理的な性質のものであるなら、仮にそれがもたらす結果の間に共通のものが何もないとしても、ちょうど長い間離れ離れになっていた幼馴染同士が幼時の同じ思い出を共有しているように、それら諸々の原因は何か共通のものを持っている筈です。生命の進化においては幾多の分岐点が生じ、次々に脇道が開鑿され、そこで袂を分かった諸要素がそれぞれ独自の発展を遂げました。にもかかわらず各部分がそこで停止することなく前進を続けることができたのは、全体の原初的なエランがそれら各部分にも伝えられたからに他なりません。それゆえ全体の何かが、各部分の中にも残存している筈です。この共通の要素は、何らかの形で、例えば全くかけ離れた二つの有機体に、類似した器官が存在する、という事実によって確認することができるに違いありません。暫くの間、機械論の主張を全面的に認め(今述べたことが機械論によって証明され得るかどうか確かめ)てみましょう。機械論によれば、進化は一連の偶発的変異が積み重なった結果生じます。生物の現在の形態はそれ以前の有効な偶発的変異の総和であり、同様にそれ以降の新しい偶発的変異も、それが生物に有利に働く場合にのみ淘汰によって保存される、とされます。しかし偶発的変異が積み重なることで、全く異なる二つの系統における全く異なる二つの進化が似たような結果に辿り着く、などということがあり得るでしょうか。二つの進化系統がかけ離れていればいるほど、単なる偶発的で外的な影響や内的な偶発的変異によって、二つの系統に類似した器官が形成されることなどありそうもないように思えます。特にそれら二つの系統が分岐する際に、まだその器官が存在していなかったのであれば尚更です。逆にわたしたちの仮説に従えば、この類似は簡単に説明がつきます。水源で与えられた衝動は、末端の小さな支流の隅々にまでその衝動の幾分かを伝える、というのがわたしたちの仮説です。それゆえ分岐した諸々の進化系統において、生命は異なった手段で類似した器官を作り出すことができる、ということがもし立証されれば、純粋な機械論は論破されることになり、わたしたちが解するような特殊な意味での目的性も或る面で証明されることになるでしょう。その際、立証のために選んだ二つの進化系統が互いに隔たっていればいるほど、またその二つの進化系統に見出される類似した器官の構造が複雑であればあるほど、この証明の説得力は増すことになります。

それらの器官の構造が類似しているのは、進化の一般的諸条件が同じだったからだ、と言う人もいるかも知れません。すなわち、一時的な外的影響や偶発的な内的変異はそれぞれの進化系統において異なっていたかも知れないが、長期間同じ外的条件下に置かれていたために、或る特定の器官の形成にかかわる諸々の力が同じ方向に作用した、というわけです。――無論わたしたちも、適応という概念が現代科学において果たしている役割を知らないわけではありません。もっともこの概念は、すべての生物学者に同じように用いられているわけではありません。或る生物学者達は、外的諸条件は生命物質のうちに物理・化学的変化を惹き起こし、有機体を一定の方向に直接変異させることができる、と考えます。例えば、アイマーの仮説はそのようなものです。またダーウィン主義の精神により忠実な別の生物学者達によれば、それらの諸条件の影響は間接的にしか生命に作用しません。それらの影響は生存競争において、一つの種を構成する個体のうち、たまたま素質に恵まれ、環境にうまく適合した個体に有利に働くのだと言います。つまり一方は外的諸条件が積極的な影響を及ぼし得ると考えるのに対して、他方は消極的にしか作用しないと考えます。第一の仮説では外的原因は変異を生じさせるのに対して、第二の仮説では外的原因は変異を篩にかけるに過ぎません。しかしどちらの場合も、外的原因は有機体をその生存条件に正確に適合させるものと看做されています。そういうわけで、両者は恐らく器官の構造の類似を、今述べたような意味での適応によって機械的に説明しようとするに違いありません。しかしまさにこの器官の構造の類似という事実から、機械論の不備を突く反論を引き出すことができる、とわたしたちは考えます。そこで詳細な検討に入る前に、機械論者が「適応」から引き出す説明が、どういうわけでわたしたちにとって不十分なものに見えるかを大まかに述べて置きたいと思います。

まず指摘できるのは、上述した二つの仮説のうち、曖昧な点がないのは二番目の仮説の方だということです。適応とは、環境に適応できない物や者が生存競争から自動的に振り落とされることだ、というダーウィンの考え方(自然淘汰)は、単純明快で曖昧さの入り込む余地はありません。その反面、この考え方は進化を主導していると目されている外的原因に消極的な影響力しか認めていないために、これから検討するような複雑な器官が、どのようにして漸進的かつ直線的に発達してきたかを説明するには既に多くの難点を抱えています。様々な方向に分岐した進化系統上に、極めて複雑な構造を持つ同一の器官が認められることをこの立場から説明しようとすると、それはどんなものになるでしょうか。たとえごく小さな一つの偶発的変異であっても、そこには無数の微小な物理・化学的な原因が含まれています。複雑な構造が形成されるためにはこれら偶発的な変異が蓄積されなければならず、変異が蓄積されるためには、言わば無限数の微小な原因が一丸となって働かなければなりません。時間的、空間的に異なる二つ以上の点において、偶然、無数の同じ原因がすべて同じ順序で生じる、などということが果たしてあり得るでしょうか。そんなことを信じる人はいないでしょうし、ダーウィン主義者自身、恐らく、原因が異なっても同じ結果を生じ得るとか、同じ場所に通じる道は必ずしも一つではない、とでも言って誤魔化す他はないでしょう。しかし、そのような(苦し紛れの)比喩に騙されてはなりません。到達した場所は、そこに達するまでに辿った道筋を描き出しているわけではありません。それに対して有機体の構造は、進化がそこに到達するために辿らなければならなかった道筋、つまり蓄積された数々の微小な変異をそのまま描き出しています。したがって生存競争や自然淘汰は、問題のこの部分を解決する上で何の役にも立ちません。何故ならわたしたちは消滅した(淘汰された)ものを問題にしているのではなく、保存(蓄積)されたものを問題にしているからです。わたしたちが目にしているのは、それぞれ独立した進化系統において、諸々の結果が相互に付加され、少しずつ蓄積されることによって形作られた同一の構造です。この構造に行き着くまでに無数の原因が作用し、結果(器官の構造)も無限に複雑であるにもかかわらず、それら無数の原因が特に決まった順序もなく作用した結果、同一の構造に一度ならず辿り着いた、などということをどうして信じることができるでしょうか。

機械論の原理は、「同じ原因は同じ結果を生む」ということです。もっともこの原理は、同じ結果は同じ原因を持つ、ということを常に含意しているわけではありません。しかし原因が引き起こした結果の中に、当の原因がはっきり残っており、その結果を構成する要素になっているような特殊な場合(器官はその一例)には、この原理はそうした帰結(同じ結果は同じ原因を持つ)を伴います。異なる場所から出発した二人の人物が、自然の中を気の向くまま散策している途中ばったり会う、というのはごくありふれた出来事です。しかし気の向くまま歩き回った二人の経路が同じ曲線を描き、ぴったり重なり合う、などということはとてもありそうもありません。まして二人の辿った経路が、複雑に曲がりくねっていたとすれば尚更です。さらに、もし二人の歩いた経路が限りなく複雑なものだったとすれば、そんなことはありそうもないどころか、あり得ない、と判断せざるを得ないでしょう。ところで、散策の経路の複雑さは、幾千もの異なる細胞が或る秩序に従って配列され、それらの細胞の一つ一つが一種の有機体であるような器官の複雑さに比べれば物の数ではありません。

そこでこの仮説による解決は一旦諦め、もう一つの仮説がこの問題をどう解決するかを見てみることにしましょう。もう一つの仮説では、適応とは最早、環境に適応できないものを篩いにかけ、除去することではありません。適応とは、外的諸条件が有機体に積極的に影響を及ぼすことであり、それ固有の形に合わせて有機体を形作ることである、とされます。そうなると確かに、結果の類似は原因の類似によって説明されます。したがってここでは、純粋な機械論によって器官の類似を説明できるように見えるかも知れません。しかし、適応に関する今の説明をもう一度よく吟味してみましょう。そうすればこの説明は言葉の上だけのものであり、わたしたちはここでもやはり言葉に騙されていることがわかるでしょう。このもう一つの仮説による解決のからくりは、「適応」という言葉を同時に全く異なる二つの意味に解するところにあります。

水の入ったグラスを空にして同じグラスにワインを注ぐと、(当然)水もワインも同じ形状になります。二つの種類の液体の形の相似は、容器に対する内容物の適応の仕方が同じであるところから来ています。この場合、適応とはまさに或るものが別のものに機械的に嵌り込むことを意味しています。つまり、内容物が適応する形式(グラス)は完全に出来上がった状態で既に存在しており、その形式が内容物に自分の形状を押し付けるというわけです。しかし有機体が生存条件に適応する、と言われるとき、あらかじめ存在し、内容物を待ち構えているような形式がどこにあると言うのでしょうか。生存条件は、生命がそこに嵌め込まれ、自分の形態を手に入れる鋳型ではありません。生存条件が鋳型と看做されるとき、人々は比喩に騙されています。形態は、あらかじめ存在しているわけではありません。生命は自分に課せられた諸条件に適した形態を、自分自身のために創造するのです。そこで、生命はそれらの条件のうち不都合なものを無効化し、利用できるものを選んでそれを活用しなければなりません。要するに生命は、外的諸条件に対して、一つのメカニズム、ただし(存在していないものを真似ることはできない以上)外的諸条件には少しも似ていないメカニズムを構築し、それに反応しなければならないのです。したがってこの場合、適応とは、反復(鋳型から同じ形状のものを鋳造すること)を意味しているのではなく、応答(問題に答えること)を意味しています。この二つは全く別のものです。この場合の適応は、例えば幾何学の問題において、解答は問題の条件に適応している、と言う場合の適応に該当します。異なる進化過程が類似した形態に辿り着いた理由を、こういう意味での適応によって説明してよいのであれば、最初から誰も苦労せずに済んだに違いありません。実際、その場合、問題が同じであれば同じ解答が導き出されるでしょうが、その代わり幾何学の問題を解く場合と同じように、或る種の知的活動、或いは少なくともそれと同じ働きをする何らかの原因を適応の過程に持ち込まなければならなくなるでしょう。こうしてまたしても目的性が、しかも今度は擬人的な要素がたっぷりと盛り込まれた目的性が導入されます。そういうわけで、第一の場合、すなわちいわゆる適応が受動的なもので、諸条件が凹状で与えるものを凸状で反復しているに過ぎない、と仮定した場合には、適応はわたしたちが期待するような同一の器官を形成することができません。逆に第二の場合、すなわち適応が能動的なもので、諸条件が提出する問題に対して演繹によって解答を導き出すことができる、と仮定した場合には、科学はわたしたちが最初に示した方向(目的性)にわたしたち以上に進むことになる、と言うより、進み過ぎることになります。しかし実を言えば、科学はこの二つの意味の(いずれか一方にとどまるのではなく)一方と他方の間を無意識のうちに行ったり来たりしています。適応を第二の意味で用いて目的論の現行犯で捕まりそうになると、科学はその度に第一の意味に逃げ込むのです。科学の現場において通常用いられているのは第二の意味の適応ですが、適応に関する科学の考え方を支配しているのはほとんどの場合第一の意味の適応です。つまり科学は、個々の事例においては適応の過程を、外的諸条件をできるだけうまく利用できるようなメカニズムを形成する有機体の努力であるかのように語り、適応一般を論じるときだけ、適応とはあたかも無機的物質が無抵抗に受け入れた環境の刻印そのものであるかのように語るのです。

●一つの例についての議論

ではここから、具体的な例を見ていくことにしましょう。手始めに植物と動物とを全体的に見渡して両者を比較してみると、興味深い事実に気付かされます。それは、植物も動物も雌雄性(有性)の方向に発達してきたということです。この事実にどうして驚かずにいられるでしょうか。まず受精の仕方そのものが高等植物と動物とで同じであり、いずれの場合も受精は染色体数の半減した細胞核の結合によって行われます。これらの細胞核は互いに接触する前は性質も構造も異なるにもかかわらず、接触後直ちに等価なものになります。両者に共通しているのは受精の仕方だけではありません。性的な諸要素の形成も似たような条件の下で進められます。どちらの場合も染色体数が減少し、一定量の染色質が失われるのがその特徴です。ところで、植物と動物は互いに独立した系統において、それぞれ異なる環境に助けられ、或いは異なる障害に妨げられながら進化してきました。つまり植物と動物というこの二大系列は、徐々に分岐しながら発達してきたのです。両者が進展するにつれて、それぞれの系統において無数の原因が組み合わされ、形態上、機能上の進化の様態が決定されました。そしてそれら無限に複雑な原因の総和が、どちらの系統にも(雌雄性という)同じ結果を生み出したのです。この結果(雌雄性)が、「適応」現象によって獲得されたものだと考える人はいないでしょう。そもそも有性生殖の効用が何であるか、未だにはっきりとはわかっていません。それに関する解釈は実に多種多様であり、(動物の雌雄性はともかく)少なくとも植物の雌雄性は、それなしで済ますこともできる自然の贅沢だと考える著名な学者もいます。効用も明らかではないのにどうして適応について語ったり、外的環境の圧力を持ち出すことができるでしょうか。しかしこのように諸説紛々として定説のない事象について、これ以上言葉を費やすのは止めて置きましょう。「適応」という言葉の曖昧さや、機械論的な因果性の観点と擬人的な目的性の観点とを同時に乗り越えなければならないことについては、(この後示すような)もっと簡単な例で一層明らかにすることができる筈です。さて、古来目的性を主張する人々は、感覚器官の精妙な構造に感嘆し、その構造を形作った自然の働きを知的な職人の技になぞらえるのが常でした。これらの器官は下等動物においても原始的な状態で認められ、例えば眼に関して言えば、極めて単純な有機体における眼点から、脊椎動物の極めて複雑な眼に至るまでの間に、あらゆる中間段階が存在することを自然はわたしたちに教えてくれます。したがって眼の進化に関しても、器官の完成度を徐々に高める働き、すなわち自然淘汰という純粋に機械的な働きを仮定しても差し支えない筈です。つまり適応という言葉を使ってもよい場合があるとすれば、それはまさにこの眼の進化の場合に他なりません。何故なら有性生殖の役割や意義、また有性生殖とそれが行われる諸条件との関係については様々な異論があるのに反し、眼と光との関係は明白であり、ここでは適応という言葉を使ってもその意味が曖昧になる恐れがないからです。それゆえこの特別な事例において、機械論と目的論の双方が依拠する原理の不十分さを示すことができれば、わたしたちの証明はそれだけで十分高い普遍性に達することになります。

目的性を支持する人々が常に重視してきた例、すなわち人間に見られるような眼の構造を考えてみましょう。このように複雑な器官において、あらゆる要素が驚くほど正確に調整されていることを示すのは目的論者にとっては造作もないことでした。「目的因」という有名な本の著者は、視覚が機能するための条件を次のように記しています。すなわち、視覚が働くためには「眼の鞏膜の表面の一部が透明になり、そこから光が通過することができなければならない。(中略)角膜は、眼窩、すなわち眼球の収まる開口部に正確に適合していなければならない。(中略)この透明な開口部の背面に、光を収斂させるための媒質(水晶体)が控えていなければならない。(中略)眼という暗箱の一番奥には、網膜が配されていなければならない。(中略)網膜の内部(主に光を受容する中央部分)には、網膜上のどの点の接線に対しても垂直な向きに配置された錐状体という(細長い円錐形の)透明な視細胞がびっしりと並んでおり、この錐状体の軸方向に平行に入ってくる光だけが視神経に達するようになっていなければならない(後略)」。――機械論者はこうした(機能優先の)考え方に反対し、目的因を支持する人々に進化論の立場に立つよう求めました。機械論者の反論は以下のようなものです。われわれの持っているような眼において、幾千もの要素が一つの機能を果たすべく連携し合っている、と考えると、なるほどすべてが驚くべきことのように思えてくる。しかし器官の機能はその起源において、つまり繊毛虫類において捉えるべきだろう。繊毛虫類における染みのような小点の(ほとんど純粋に化学的な)感光性に帰着するこの機能は、もともと偶発的な一つの事象に過ぎなかった。ところが或る未知のメカニズムによって直接的に、或いは、この機能によって生物が優位性を獲得し、自然淘汰のきっかけを得たという事実によって間接的に、器官の軽微な複雑化が惹起され、次いでこの軽微な複雑化が機能の改善をもたらした、と考えることを妨げるものは何もない。このように考えれば、眼が徐々に形成される過程は、たとえそれがわれわれの眼のように極めて精巧なものであっても、機械的原因以外の原因(目的因その他)を介入させることなく、機能と器官との際限のない作用・反作用だけで説明できる筈だ。

かつて目的論がそうしたように、そして機械論が今またそうしているように、問題をいきなり機能と器官との間に立てると、以上のようにその解決が難しくなります。というのも、器官と機能とは異質な項であるにもかかわらずお互いになくてはならない関係にあるので、両者の関係を述べるに際し、機械論の主張するように器官を優先すべきか、目的論の主張するように機能を優先すべきか、ア・プリオリに決めることは不可能だからです。しかし最初に同質の二項を比較することにすれば、つまり器官と機能とを比較するのではなく、器官と器官とを比較することにすれば、議論の展開は先ほどとは全く違ったものになり、今度は誰もが納得できるような解決に向かって少しずつ前進することが可能になるでしょう。このとき進化論的仮説により深く依拠すればするほど、解決の見込みもそれだけ高くなるに違いありません。

(つづく)

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