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Ⅰ.――わたしたちが事実から引き出し、推論によって確かめたことは、身体は行動の道具に過ぎないということ、それも専ら行動の道具に過ぎないということです。身体はいかなる状態においても、いかなる意味においても、いかなる面から見ても表象を準備するものではなく、ましてやそれを説明するものでもありません。まず外的知覚における身体の役割は何でしょうか。一般に脳の知覚機能と呼ばれているものと、脊髄の反射機能との間には程度の違いがあるだけで、性質の違いはありません。脊髄が受け取った刺激をほとんど自動的に遂行される運動に転換するのに対して、脳はそれを大なり小なり自由に選択された運動機構と関係付けます。しかしわたしたちの知覚のうち、脳によって説明できるのは既に開始された行動、或いは準備され、示唆された行動であって、知覚そのものではありません。――次に記憶における身体の役割は何でしょうか。身体は、過去を再び演じることのできる運動習慣を保存します。つまり或る態度を再現することによって、過去が挿入される枠組みを提供します。或いはまた、身体は過去の知覚を引き継いだ或る種の脳現象を再現することで、記憶に現在との接点を提供し、現在の状況に対して記憶が持ち得る失われた影響力を取り戻す手段を提供します。しかしいかなる場合においても、脳は記憶、或いはイマージュを保存するのではありません。このように、知覚においても、記憶においても、いわんや精神のより高度な働きにおいても、身体の役割は表象を直接生み出すことにあるのではありません。わたしたちはこの仮説をその様々な面において展開し、二元論を極限まで推し進めた結果、身体と精神を完全に分断してしまったように見えます。しかし実際には、わたしたちは両者を接近させ、結合させる唯一の手段を提示したのです。
Ⅱ.――実際、この問題が引き起こす困難のすべては、通常の二元論においても、唯物論や観念論においても、知覚や記憶の現象における身体的・物質的な側面と精神的な側面が互いに他方の複写と看做されていることに起因しています。まず、意識・随伴現象説を主張する唯物論の場合はどうでしょうか。その場合、何故或る種の脳内現象が意識を伴うのか、言い換えると、最初に措定された物質的宇宙の、意識による複写が何の役に立ち、それがどのように意識によって複写されるのか、わたしには皆目見当がつきません。――では観念論の場合はどうでしょうか。その場合、わたしに与えられるのは数々の知覚であり、わたしの身体もそのうちの一つです。ところでわたしが観察するところによれば、知覚されるイマージュは、わたしの身体というイマージュの極く些細な変化でその様相が一変するのに対し(というのも、例えばわたしが目を閉じるだけで視覚的世界が消滅してしまうからです)、科学がわたしに教えるところによれば、あらゆる現象は一定の秩序に従い、互いに条件づけ合いながら継起しており、結果は原因と正確に釣り合っています。そこでわたしたちは、(前者と後者の整合性を取るために)わたしの身体という、常にわたしについて回るイマージュの中に、身体の外部で継起するイマージュと同じ種類のもの、すなわち相互に調整され、互いに他方によって厳密に規定されているような変化を探さざるを得なくなります。そうして外部で継起するイマージュの等価物に無理矢理仕立てられた脳内運動が、ここでも知覚の複写と看做されます。確かに、脳内運動も他のイマージュと同じように知覚、「可能的」知覚であることに変わりはないので、この第二の仮説は第一の仮説より理に適っていると言えるかも知れません。その代わりこの仮説では、わたしが事物について現実に持っている知覚と、脳内運動についての可能的知覚、事物とは何一つ共通点のない可能的知覚との間に、説明不可能な対応を想定しなければならなくなります。この点に注目すれば、あらゆる観念論にとってのデッドロックがここにあることがわかるでしょう。すなわち、わたしたちの知覚に現れている体系(知覚の体系)から、科学が成功を収めている体系(科学の体系)へどのように移行するのか――カント的観念論に即して言えば、感性から悟性へどのように移行するのかわからない点に観念論の困難があります。――最後に通常の二元論の場合ですが、ここでは一方に物質が、他方に精神が置かれ、脳内運動が、わたしの持つ事物の表象の原因、或いは誘因とされます。しかし脳内運動が表象の原因であるとすれば、つまり、それだけで表象を生じさせることができるとすれば、わたしたちは遅かれ早かれ意識・随伴現象説に戻らざるを得なくなります。また脳内運動が表象の誘因に過ぎないとすれば、今度は観念論に逆戻りすることになります。何故なら脳内運動は表象と全く似ておらず、そのため必然的にわたしたちが表象において物質に認める性質をすべて物質から奪ってしまうことになるからです。したがってこの種の二元論は、観念論と唯物論を二つの極にして、その間を絶えず揺れ動きます。またこの二元論が、(スピノザのように)飽くまで精神と物質という二つの実体の二元性を堅持し、それらを同列に扱う場合には、両者は同一原文の二つの翻訳、或いは同一原理からの二つの展開、あらかじめ平行関係が成立するように定められた二つの展開と看做されます。こうして精神と物質の相互作用は否定され、その当然の帰結として自由が犠牲に供されます。
この三つの仮説を詳しく分析してみると、それらに共通の前提が見つかります。つまり三者とも、知覚と記憶という精神の基本的な働きを、純粋な認識の働きと看做しているのです。これらの仮説が意識の起源に置くのは、或るときは何の役に立つのかわからない外的実在の複写であり、或るときは全く利害を離れた知的構成のための素材、惰性的物質です。その反面、これらの仮説は知覚と行動、記憶と行為との関係を常に見落としています。理念的極限としては、利害を度外視した、つまり行動と無関係な知覚や記憶を思い描くこともできるかも知れません。しかし実際には、知覚と記憶は行動に向けられており、身体が準備するのも行動です。まず、知覚の役割とは何でしょうか。神経系が複雑になるにつれ、受け取られた刺激はより多くの運動機構と関係付けられるようになり、それと比例してより多くの可能的行動が下描きされるようになります。次に記憶の役割は何でしょうか。記憶の第一の機能は、現在の知覚と類似した過去のあらゆる知覚を喚起し、それに先立つ状況や後続する状況を思い起こさせること、それによって最も有効な行為を示唆することです。それともう一つ、記憶は持続の多数の瞬間を唯一の直観のうちに捉えることによって、事物の流れから、すなわち必然のリズムからわたしたちを解放します。記憶がより多くの事物の瞬間を唯一の瞬間に凝縮すればするほど、それだけわたしたちの物質に対する支配力は強固なものになります。以上のことから、生物の記憶機能とは何よりもまず事物に対する行動能力を示すものであり、行動能力を知性面で反映したものに他ならない、と結論することができます。そこでこの行動能力を真の原理として、そこから出発することにしましょう。身体は行動の中心であり、ただ行動の中心に過ぎません。このわたしたちの仮定から、知覚に関して、記憶に関して、さらに身体と精神の関係に関して、どんな帰結が得られるかを見てみましょう。
Ⅲ.――まず知覚に関して。ここに種々の「知覚中枢」を持つわたしの身体があります。これらの中枢が刺激されることで、わたしは事物の表象を持ちます。他方、これらの中枢の刺激は、わたしの知覚を生み出すことも事物を知覚に翻訳することもできない、とわたしたちは考えました。したがってわたしの知覚は、中枢の刺激の外にあります。具体的にそれはどこにあるのでしょうか。答えは明白です。わたしたちは自分自身の身体を措定することによって一つのイマージュを措定しましたが、それは同時に、それ以外のイマージュの総体を措定することをも意味します。何故ならどんな物質的対象も、その性質、その属性、その存在を、その対象が宇宙全体の中で占める場所に負っていないものはないからです。それゆえわたしの知覚は、対象そのものの何かである他はありません。対象がわたしの知覚の中にあるというより、寧ろわたしの知覚が対象の中にあるのです。では、わたしの知覚は対象の何なのでしょうか。わたしの知覚が、いわゆる感覚的神経刺激に完全に随順しているように見えるのは事実だとしても、神経刺激の(真の)役割は、周囲の物体に対するわたしの身体の反応を準備し、可能的行動を下描きすることにあります。したがって知覚するとは、対象の総体から、それらに対するわたしの身体の可能的行動を分離することを意味します。つまり知覚とは、一つの選択、識別に他なりません。知覚は何物も創造しません。寧ろ逆に、知覚の役割はイマージュの総体から、わたしの行動力の及ばないイマージュをすべて取り除き、さらに残ったイマージュの各々から、わたしの身体というイマージュの欲求とかかわりのないものをすべて取り除くことにあります。以上が、少なくともわたしたちが純粋知覚と呼ぶものの極く概略的な説明であり、図式的な解説です。これを踏まえ、次に実在論と観念論との間で、わたしたちがどんな立場を採るに至ったのかを振り返ってみましょう。
観念論は、あらゆる実在は意識と類縁性、類似性を持つ、つまり意識と何らかの繋がりがあると考えます。わたしたちは事物を「イマージュ」と呼ぶことによって、事実上、観念論のこの立場を踏襲しました。どんな哲学説を唱えるにせよ、それが首尾一貫したものである限り、この結論から逃れることはできません。とは言え仮に意識を持つあらゆる存在の過去、現在、そしてあり得べきすべての意識状態を寄せ集めても、物質的実在の極く限られた部分しか知ることはできないでしょう。何故ならイマージュの総体は、あらゆる点で知覚を超えているからです。わたしたちの知覚は、鎖全体のうちのいくつかの環を捉えているに過ぎません。科学と形而上学は知覚から抜け落ちたミッシングリンクを発見して鎖全体を復元し、イマージュの総体を再構成しようとしているのです。しかし知覚と実在との間にこのように部分と全体の関係が確立されるためには、知覚にその本来の役割、すなわち行動を準備するという役割を残して置かなければなりません。観念論が見落としているのは、まさにこの点です。先ほども触れましたが、観念論は何故、知覚に現れている体系から、科学が成功を収めている体系へ、言い換えると、気紛れに(非連続的に)移り変わっていくように見える感覚から、決定論に支配されている自然現象へ移行することができないのでしょうか。それはまさに、観念論が知覚における意識に思弁的役割を与えているからであり、その結果この意識が、例えば或る感覚とそれに後続する感覚の間にある筈の中間項(ミッシングリンク)を、どういう理由ですべて見落としてしまうのかわからなくなってしまうからです。ミルのようにこの中間項を「可能的感覚」と考えたところで、或いはカントのようにこの中間項の秩序を非人格的な悟性によって構築される下部構造に帰したところで、中間項自体についても、その厳格な秩序についても、何もわからないことに変わりはありません。これに対して、わたしたちの意識的知覚は専ら行動を目的としたものであり、事物全体のうち、それに対する可能的行動とかかわりのあるものだけを描き出しているに過ぎない、と想定してみましょう。そうすれば、行動に関係のない爾余の部分がすべて除外されるのは当然であること、にもかかわらず、そうして除外されたものはわたしたちが知覚しているものと同じ性質のものであることが理解できるでしょう。したがって物質に関するわたしたちの認識は、イギリス観念論が主張するように主観的なものでもなければ、カント的観念論が主張するように相対的なものでもありません。主観的なものではない、というのは、それがわたしたちのうちにあるのではなく、事物のうちにあるからです。また相対的なものではない、というのは、「現象」と「物自体」との間にあるのは仮象と実在の関係ではなく、単に部分と全体の関係に過ぎないからです。
こうしてわたしたちは、実在論へと送り返されるように見えます。しかし実在論も観念論と同様、本質的な或る一つの点を修正しない限り、同じ理由によって受け入れることができません。先に述べたように、観念論は知覚に現れている体系から、科学が成功を収めている体系、すなわち実在に移行することができません。逆に実在論は、この実在から、わたしたちがこの実在について持つ直接的認識を引き出すことができません。まず素朴実在論の場合はどうでしょうか。その場合、一方に空間内に散乱する物質、多かれ少なかれ独立した多数の部分からなる物質が置かれ、他方にはこの物質とはいかなる接点もない精神が置かれます。せいぜい、精神は唯物論者の主張する随伴現象として物質と不可解な接点を持つ、と言い得るに過ぎません。次にカント的実在論の場合はどうでしょうか。その場合、一方に物自体、すなわち実在が置かれ、他方にわたしたちの認識を構成する素材となる感性の多様性が置かれます。が、それらの間にはいかなる関係も想定することができず、いかなる共通の尺度も見出せません。極端な形のこの二つの実在論を掘り下げてみると、両者は結局、同じ観点に帰着することに気付かされます。すなわち、どちらも知性と事物との間に、等質的空間という障壁を設けているのです。素朴実在論は、この空間を現実に存在する媒質と看做し、その中に事物が浮遊物のごとく散乱していると考えます。カント的実在論は、この空間を観念的媒質と看做し、そこで多様な感覚が相互に調整されていると考えます。しかしいずれの場合においても、この媒質が、そこに置かれるものの必要条件として真っ先に措定されているのです。両者に共通のこの前提をさらに詳しく分析してみると、一方はこの等質的空間に物質的実在を支える役割を付与しているのに対して、他方は等質的空間が諸々の感覚に相互調整の手段を与えていると考える点で見解を異にするものの、空間が思弁的な機能を持つと考え、行動と無関係な役割を空間に与える点で一致していることがわかります。したがって実在論の難点も、観念論の場合と同様、わたしたちの意識的知覚や意識的知覚の諸条件が、行動のためではなく、純粋認識のためのものであると考えることに起因している、と言えるでしょう。――これに対して、等質的空間は、事物やそれについてわたしたちが持つ純粋な認識に論理的に先立つものではなく、後から付け加えられるものだと考えてみましょう。言い換えると、延長は空間より先にあるものだと考えてみましょう。そして等質的空間は、わたしたちの行動、それも行動のみにかかわるものであって、物質を支配し、わたしたちの行動や欲求に応じて分解するために、物質的連続の下にわたしたちが張り巡らせる無限に細かい網目を持った網のようなものだと考えてみましょう。あらゆる事物は他のすべての事物に作用を及ぼしており、したがって或る意味で事物は延長全体を満たしている(もっともわたしたちが知覚しているのは事物の中心部だけであり、身体の影響力が及ばなくなる地点にわたしたちは事物とその周囲との境界、すなわち事物の輪郭を画定します)、ということを科学は明らかにしましたが、今述べたわたしたちの観点に立てば、この点で科学と認識を共有することができ、また形而上学において、空間の分割可能性が引き起こす矛盾、すなわち既に述べたように、行動と認識という二つの観点を区別しないことから常に生じる矛盾を解消し、或いは緩和することができます。それだけではありません。これによってわたしたちは、何と言っても、ひろがりのある事物と、わたしたちがその事物について持つ知覚との間に実在論が築いた越え難い障壁を取り除くことができるのです。事実、実在論では一方に分割された多様な外的実在が、他方に延長とは無縁な、つまり延長と接点を持ち得ない感覚が置かれるのに対し、わたしたちの観点に立てば、具体的延長は実際に分割されるものではなく、直接的知覚は本来非延長的なものではない、ということが理解できます。こうしてわたしたちは、実在論から出発して、先ほど観念論の分析によって導かれたのと同じ地点(知覚と知覚される事物が一致する地点)に導かれました。つまりわたしたちは、知覚を事物のうちに戻したのです。このように、実在論と観念論が何の疑いもなく受け入れ、双方の境界であると同時に、双方にとってデッドロックでもあった前提を取り除いてみると、この二つの仮説にはわたしたちが考えているほど大きな違いはない、ということが明らかになります。
知覚について述べたことを要約しましょう。まずどこまでもひろがる延長があり、その延長の連続そのものの中に、わたしたちの身体という形をとって現れる現実的行動の中心があります。身体が行動するにつれ、身体が働きかけ得る物質のすべての部分が、身体の行動能力によって刻々と照らし出されます。物質世界の中からわたしたちの身体を切り取った(有機体を生じさせた)のと同じ欲求、同じ行動するという能力が、わたしたちを取り巻く環境の中に個々の物体の輪郭を画定するのです。わたしたちの目から見ると、あたかも周囲の事物からの現実的作用をわたしたち自身が濾過することによって、潜在的作用が分離されるかのように事態が進行します。知覚とは、この濾過され、現実的作用から分離された作用、すなわち、事物がわたしたちの身体に及ぼし得る作用、或いはわたしたちの身体が事物に及ぼし得る作用に他なりません。その一方で、身体が周囲の物体から受け取る刺激は、脳内に常に反応を準備し、この脳内の運動は事物に対する可能的行動の概略を刻々と描き出しているので、脳の状態は正確に知覚に対応しています。しかし脳の状態は、知覚の原因でもなければ結果でもなく、またいかなる意味においても知覚の複写ではありません。それは単に、知覚を引き継ぐものなのです。つまり知覚がわたしたちの可能的行動だとすれば、脳の状態は現実化し始めた行動と言えるでしょう。
Ⅳ.――しかしこの「純粋知覚」の理論は、同時に二つの点で緩和、或いは補正されなければなりませんでした。というのも純粋知覚は、言ってみれば実在から(わたしたちが便宜的に)切り取った断片であり、身体の知覚とも言うべき感情的感覚を抜き取られた外的物体の知覚に過ぎず、或いは過去の直観とも言うべき記憶を抜き取られた現在の瞬間の直観に過ぎないからです。つまりわたしたちは、理解を容易にするために、まず身体を空間における数学点として扱い、意識的知覚を時間における数学的瞬間として扱ったのです。身体にひろがりを、知覚に持続を返すことで、意識に二つの主観的要素、すなわち感情的感覚と記憶を統合し、意識を元の状態に戻さなければなりません。
感情的感覚とは何でしょうか。先ほども述べたように、わたしたちの知覚は、他の物体に対するわたしたちの身体の可能的行動を素描しています。そして身体はひろがりを持つので、周囲の物体に作用するように、自分自身にも作用することができます。したがってわたしたちの知覚には、わたしたち自身の身体の何かが混入している筈です。ところで周囲の物体について言えば、それらはもともと様々な距離で身体と隔てられており、この距離が、それらの物体に対してわたしたちが抱く期待や脅威が現実のものになるまでの時間的隔たりを示しています。わたしたちの持つこれらの物体の知覚が、単に可能的なものでしかないのはそのためです。逆に、これらの物体と身体との距離が狭まるにつれて、可能的行動は現実的行動に近づき、距離が狭まった分だけ緊急性の高いものになります。そしてこの距離がゼロになったとき、すなわち知覚の対象が身体そのものになったとき、知覚が描くのは最早可能的行動ではなく、現実の行動です。まさにこの行動の持つ現実性に痛みの本性があります。痛みとは、傷付けられた身体の部分が自己を修復しようとする現在の努力、ただし局所的で、孤立しているがゆえに、全体的活動にしか適性を持たない生物においては失敗に終わらざるを得ない努力に他なりません。したがって痛みは、知覚される対象が知覚される場所にあるように、痛みが生じる場所にあります。感情的感覚と知覚されるイマージュの違いは、感情的感覚がわたしたちの身体の内にあるのに対し、イマージュはわたしたちの身体の外にある、という点にあります。わたしたちの身体の表面、すなわち身体と周囲の物体に共通の境界が、感覚とイマージュという二つの形で同時にわたしたちに与えられるのはまさにこのためです。
感覚の主観性は、このように感情的感覚が身体の内にあることに由来しており、イマージュの客観性は、イマージュ一般が身体の外にあることに由来しています。ところがここで、人々はこれまで常に繰り返されてきた誤り、本書を通じわたしたちが明らかにしてきた誤りを犯します。それは、感覚と知覚がそれ自体で存在している、と考える誤りです。人々は感覚と知覚に、純粋に思弁的な役割を与え、感覚や知覚と一体のものである行動、両者を区別する目安ともなる、一方は現実的で、他方は可能的な行動を見落としてしまいます。このため人々は、感覚と知覚との間に最早程度の違いしか見出すことができません。そして感情的感覚が(そこに含まれる努力感が混乱したものであるために)漠然としかその位置を特定できないことから、それがひろがりのないものだと即断し、このひろがりを奪われた感情、或いは非延長的な感覚を、空間においてイマージュを構成するための素材にしてしまいます。その結果、それぞれが絶対的なものとして措定される他はないこれら意識の諸要素、すなわち諸々の感覚がどこから生まれてくるのか、非延長的なこれらの感覚がどのように空間と結び付き、組織されるのか、何故それらの感覚が空間の中で特定の秩序を形成し、それ以外の秩序を形成しないのか、さらにそれらがどうしてすべての人に共通の安定した経験を形作るのか、説明する術を失ってしまうのです。(このように感情的感覚から出発するのではなく)、寧ろ逆に、すべての人に共通のこの経験、わたしたちの活動に必要不可欠な舞台であるこの経験から出発しなければなりません。そのためには、まず純粋知覚、すなわちイマージュを措定しなければならないのです。そうすれば、感情的感覚はイマージュを構成する素材などではなく、イマージュに混入される不純物であること、すなわちわたしたちが自分の身体から周囲の物体に混入させる不純物であることがわかるでしょう。
Ⅴ.――しかし感情的感覚と知覚の領域にとどまっている限り、わたしたちは精神の領域に完全に足を踏み入れたとはとても言えません。意識・随伴現象説(唯物論)に反して、確かに脳のいかなる状態も知覚と等価ではありません。またイマージュ一般から知覚を選択することは、そこに既に精神の働きが見て取れる分離作用の結果と言えます。そしてイマージュの総体である物質的宇宙そのものが、一種の意識、そこではすべてが相殺され、中和している意識、全体をどんな風に分割しようともあらゆる部分が常に等しい作用・反作用によって釣り合い、相互に打ち消し合っている意識と言っても差し支えないでしょう。しかし精神的実在に触れるためには、直前の過去が絶えず現在のうちに引き継がれては形を変えて繰り返されるだけの領域、つまり必然の法則に支配され、生起と消滅が繰り返されるだけの領域を脱し、過去が引き継がれて保持され、次第に豊かさを増していく現在を生きているような個人の意識に身を置かなければなりません。このように純粋知覚から記憶に移ることで、わたしたちは物質に決定的に別れを告げ、精神の領域へと入っていきます。
Ⅵ.――本書の根幹をなす記憶理論は、純粋知覚理論の帰結であると同時に、経験に基づいて純粋知覚理論を検証する役割をも担っています。知覚に伴う脳の状態は、知覚の原因でも複写でもないという仮説、知覚とそれに随伴する生理的諸状態との関係は、可能的行動と開始された行動の関係に他ならないという仮説、すなわち純粋知覚理論を、わたしたちは事実に基づいて証明することはできませんでした。何故なら従来の仮説と同様、わたしたちのこの仮説においても、知覚は脳の状態から生じるかのように見えることに変わりはないからです。事実、純粋知覚における対象は現前する対象であり、わたしたちの身体に変化を引き起こす物体です。このため、身体の変化に応じて刻々と対象のイマージュがわたしたちに与えられることになり、現象だけを見ると、脳の変化は現実化されつつある身体の反応を描いている、と考えることもできれば、(それが納得できるものであるかどうかは別にして)現前するイマージュの意識的複写を生み出している、と考えることもできます。しかし記憶に関しては、事情は全く異なります。というのも記憶、すなわち不在の対象の表象に関しては、(純粋知覚理論と従来の仮説という)この二つの仮説は正反対の帰結をもたらすからです。対象が現前するとき、もし身体の状態だけで対象の表象を生み出すことができるとすれば、その対象が不在の場合にも、当然、身体の状態だけでその不在の対象の表象(記憶)を生み出すことができる筈でしょう(下記参照)。したがってこの仮説では、記憶は過去に知覚を引き起こした脳の状態が或る程度再現されさえすれば生じる筈であり、記憶とは知覚の弱まったものに過ぎない、ということになります。ここから次の二つの命題、すなわち、記憶は脳の機能に過ぎず、また、知覚と記憶には強度の違いがあるに過ぎない、という命題が導き出されます。――これに対して、脳の状態は決して現前する対象の知覚を生み出すものではなく、ただ知覚を引き継いでいるに過ぎないとすれば、この知覚を喚起する記憶に関しても、脳の状態はこの記憶を引き継ぎ、行動に繋げるだけであって、それを生み出すことはできない、と考えるのが妥当でしょう。さらに、現前する対象の知覚がこの対象自体の何物かである(純粋知覚理論のもう一つの面)とすれば、不在の対象の表象(記憶)は、知覚とは全く別の種類の現象ということになります。何故なら現存と不在との間には、いかなる段階、いかなる中間項もないからです。ここから、先ほどの命題とは正反対の次の二つの命題、記憶は脳の機能とは別のものであり、また、知覚と記憶との間には、程度の違いではなく、本性の違いがある、という命題が導き出されます。――このように記憶に関しては、これら対立する二つの仮説には最早どんな妥協点も存在しません。したがって記憶の働きを明らかにすれば、どちらの仮説が正しく、どちらの仮説が間違っているか、経験に基づいて判断できる筈です。
(何故なら、記憶は対象そのものに比べて不完全で、対象に備わっているものが少なからず欠けており、したがって記憶は対象より「少ない」ものだからです)
わたしたちが行った検証の全容を、ここで詳しく述べるわけにはいきません。重要な点をいくつか思い起こすにとどめたいと思います。記憶が大脳皮質に蓄積されている、という仮説の根拠として持ち出される事実は、すべて、脳の特定の部位に対応付けられた記憶障害の観察に基づいています。実際、記憶が本当に脳の中に蓄積されているのだとすれば、記憶の明らかな消失には、特定の脳の損傷が対応している筈です。ところが、例えば健忘、すなわち過去の一時期の記憶が突然すっぽり抜け落ちてしまう記憶喪失では、脳に明確な損傷は認められません。また他方、脳における局在性が明確な記憶障害、すなわち様々な失語症や、視覚的或いは聴覚的再認障害では、特定の記憶がそれを蓄えている部位から失われると言うより、想起能力がその活力において減退する結果、患者は記憶を現在の状況に結び付けることができなくなる、と言った方が真相に近いように思えます。したがって必要なのは、脳の役割は記憶そのものを細胞に蓄えることではなく、寧ろこの連結の機能を確実なものにすることではないか、というわたしたちの仮説が正しいかどうか確かめること、そのためにこの結合のメカニズムを解明することです。この点を確かめるべく、わたしたちは過去と現在がお互いに徐々に接触していく運動、すなわち再認の過程を隅々まで検討しました。その結果、現前する対象の再認は全く異なる二つの仕方で行われていること、しかしいずれの場合においても、脳はイマージュの貯蔵所ではないということをわたしたちは突き止めました。一つは、思考されるというより寧ろ演じられる再認、かつて知覚し、新たに繰り返された知覚に対し、身体が自動化された動作で対応する全く受動的な再認です。この場合、習慣によって身体の中に構築された運動メカニズムですべてを説明することができ、記憶の障害はこのメカニズムが破壊される結果として起こります。もう一つは、記憶イマージュが現在の知覚に向かうことによってなされる能動的な再認です。この場合、第一の再認の場合とは異なり、記憶は知覚に重なるに際して、行動するために通常知覚が脳内で作動させている器官と同じ器官を(別の方向から)作動させる手段を見つけなければなりません。さもないと本質的に無力なものである記憶は、無力な状態から脱して現実に移ることは永遠にできない、ということになってしまうでしょう。脳の損傷によって失われた個々の記憶のすべてに共通性があり、それを特定のカテゴリーに分類できる場合、それらの記憶が、例えば同じ時期に属しているとか、論理的な関連があるという点で類似しているのではなく、聴覚的なものである点で類似しているか、或いは視覚的なものである点で類似しているか、或いは運動的なものである点(要するに記憶の現実化の手がかりとなる感覚・運動的なものである点)で類似しているかのいずれかであるのはまさにそのためです。つまりこのとき損なわれるのは、感覚や運動の様々な領域、或いは多くの場合、(外的刺激のように外側からではなく)大脳皮質の内側からこの領域を作動させる付属器官であって、記憶そのものが損なわれるのではありません。わたしたちはさらに、言葉の再認や感覚性失語症の現象を注意深く検討することによって、この第二の再認は決して脳に眠っている記憶が機械的に覚醒することによって行われるのではない、ということを確かめました。第一の再認が自動的に行われるのに対し、この第二の再認は多かれ少なかれ意識の緊張(注意)を必要とします。つまり純粋な記憶が働いている領域にわたしたちが純粋記憶と呼ぶものを自ら探しに行き、これを徐々に具体化させ、現在の知覚に接触させるのが第二の再認です。
この純粋な記憶機能とは何でしょうか。そして純粋記憶とは何でしょうか。この問いに答えることで、先ほどわたしたちが提示した二つの命題の証明は完成します。第一の点、すなわち記憶機能は脳の働きとは別のものであるという点については、今明らかにした通りです。そこで最後に、「純粋記憶」を分析することによって、記憶と知覚との間には単なる程度の違いではなく、本性上の根本的な違いがあるという命題を証明しなければなりません。
(つづく)
Ⅰ.――わたしたちが事実から引き出し、推論によって確かめたことは、身体は行動の道具に過ぎないということ、それも専ら行動の道具に過ぎないということです。身体はいかなる状態においても、いかなる意味においても、いかなる面から見ても表象を準備するものではなく、ましてやそれを説明するものでもありません。まず外的知覚における身体の役割は何でしょうか。一般に脳の知覚機能と呼ばれているものと、脊髄の反射機能との間には程度の違いがあるだけで、性質の違いはありません。脊髄が受け取った刺激をほとんど自動的に遂行される運動に転換するのに対して、脳はそれを大なり小なり自由に選択された運動機構と関係付けます。しかしわたしたちの知覚のうち、脳によって説明できるのは既に開始された行動、或いは準備され、示唆された行動であって、知覚そのものではありません。――次に記憶における身体の役割は何でしょうか。身体は、過去を再び演じることのできる運動習慣を保存します。つまり或る態度を再現することによって、過去が挿入される枠組みを提供します。或いはまた、身体は過去の知覚を引き継いだ或る種の脳現象を再現することで、記憶に現在との接点を提供し、現在の状況に対して記憶が持ち得る失われた影響力を取り戻す手段を提供します。しかしいかなる場合においても、脳は記憶、或いはイマージュを保存するのではありません。このように、知覚においても、記憶においても、いわんや精神のより高度な働きにおいても、身体の役割は表象を直接生み出すことにあるのではありません。わたしたちはこの仮説をその様々な面において展開し、二元論を極限まで推し進めた結果、身体と精神を完全に分断してしまったように見えます。しかし実際には、わたしたちは両者を接近させ、結合させる唯一の手段を提示したのです。
Ⅱ.――実際、この問題が引き起こす困難のすべては、通常の二元論においても、唯物論や観念論においても、知覚や記憶の現象における身体的・物質的な側面と精神的な側面が互いに他方の複写と看做されていることに起因しています。まず、意識・随伴現象説を主張する唯物論の場合はどうでしょうか。その場合、何故或る種の脳内現象が意識を伴うのか、言い換えると、最初に措定された物質的宇宙の、意識による複写が何の役に立ち、それがどのように意識によって複写されるのか、わたしには皆目見当がつきません。――では観念論の場合はどうでしょうか。その場合、わたしに与えられるのは数々の知覚であり、わたしの身体もそのうちの一つです。ところでわたしが観察するところによれば、知覚されるイマージュは、わたしの身体というイマージュの極く些細な変化でその様相が一変するのに対し(というのも、例えばわたしが目を閉じるだけで視覚的世界が消滅してしまうからです)、科学がわたしに教えるところによれば、あらゆる現象は一定の秩序に従い、互いに条件づけ合いながら継起しており、結果は原因と正確に釣り合っています。そこでわたしたちは、(前者と後者の整合性を取るために)わたしの身体という、常にわたしについて回るイマージュの中に、身体の外部で継起するイマージュと同じ種類のもの、すなわち相互に調整され、互いに他方によって厳密に規定されているような変化を探さざるを得なくなります。そうして外部で継起するイマージュの等価物に無理矢理仕立てられた脳内運動が、ここでも知覚の複写と看做されます。確かに、脳内運動も他のイマージュと同じように知覚、「可能的」知覚であることに変わりはないので、この第二の仮説は第一の仮説より理に適っていると言えるかも知れません。その代わりこの仮説では、わたしが事物について現実に持っている知覚と、脳内運動についての可能的知覚、事物とは何一つ共通点のない可能的知覚との間に、説明不可能な対応を想定しなければならなくなります。この点に注目すれば、あらゆる観念論にとってのデッドロックがここにあることがわかるでしょう。すなわち、わたしたちの知覚に現れている体系(知覚の体系)から、科学が成功を収めている体系(科学の体系)へどのように移行するのか――カント的観念論に即して言えば、感性から悟性へどのように移行するのかわからない点に観念論の困難があります。――最後に通常の二元論の場合ですが、ここでは一方に物質が、他方に精神が置かれ、脳内運動が、わたしの持つ事物の表象の原因、或いは誘因とされます。しかし脳内運動が表象の原因であるとすれば、つまり、それだけで表象を生じさせることができるとすれば、わたしたちは遅かれ早かれ意識・随伴現象説に戻らざるを得なくなります。また脳内運動が表象の誘因に過ぎないとすれば、今度は観念論に逆戻りすることになります。何故なら脳内運動は表象と全く似ておらず、そのため必然的にわたしたちが表象において物質に認める性質をすべて物質から奪ってしまうことになるからです。したがってこの種の二元論は、観念論と唯物論を二つの極にして、その間を絶えず揺れ動きます。またこの二元論が、(スピノザのように)飽くまで精神と物質という二つの実体の二元性を堅持し、それらを同列に扱う場合には、両者は同一原文の二つの翻訳、或いは同一原理からの二つの展開、あらかじめ平行関係が成立するように定められた二つの展開と看做されます。こうして精神と物質の相互作用は否定され、その当然の帰結として自由が犠牲に供されます。
この三つの仮説を詳しく分析してみると、それらに共通の前提が見つかります。つまり三者とも、知覚と記憶という精神の基本的な働きを、純粋な認識の働きと看做しているのです。これらの仮説が意識の起源に置くのは、或るときは何の役に立つのかわからない外的実在の複写であり、或るときは全く利害を離れた知的構成のための素材、惰性的物質です。その反面、これらの仮説は知覚と行動、記憶と行為との関係を常に見落としています。理念的極限としては、利害を度外視した、つまり行動と無関係な知覚や記憶を思い描くこともできるかも知れません。しかし実際には、知覚と記憶は行動に向けられており、身体が準備するのも行動です。まず、知覚の役割とは何でしょうか。神経系が複雑になるにつれ、受け取られた刺激はより多くの運動機構と関係付けられるようになり、それと比例してより多くの可能的行動が下描きされるようになります。次に記憶の役割は何でしょうか。記憶の第一の機能は、現在の知覚と類似した過去のあらゆる知覚を喚起し、それに先立つ状況や後続する状況を思い起こさせること、それによって最も有効な行為を示唆することです。それともう一つ、記憶は持続の多数の瞬間を唯一の直観のうちに捉えることによって、事物の流れから、すなわち必然のリズムからわたしたちを解放します。記憶がより多くの事物の瞬間を唯一の瞬間に凝縮すればするほど、それだけわたしたちの物質に対する支配力は強固なものになります。以上のことから、生物の記憶機能とは何よりもまず事物に対する行動能力を示すものであり、行動能力を知性面で反映したものに他ならない、と結論することができます。そこでこの行動能力を真の原理として、そこから出発することにしましょう。身体は行動の中心であり、ただ行動の中心に過ぎません。このわたしたちの仮定から、知覚に関して、記憶に関して、さらに身体と精神の関係に関して、どんな帰結が得られるかを見てみましょう。
Ⅲ.――まず知覚に関して。ここに種々の「知覚中枢」を持つわたしの身体があります。これらの中枢が刺激されることで、わたしは事物の表象を持ちます。他方、これらの中枢の刺激は、わたしの知覚を生み出すことも事物を知覚に翻訳することもできない、とわたしたちは考えました。したがってわたしの知覚は、中枢の刺激の外にあります。具体的にそれはどこにあるのでしょうか。答えは明白です。わたしたちは自分自身の身体を措定することによって一つのイマージュを措定しましたが、それは同時に、それ以外のイマージュの総体を措定することをも意味します。何故ならどんな物質的対象も、その性質、その属性、その存在を、その対象が宇宙全体の中で占める場所に負っていないものはないからです。それゆえわたしの知覚は、対象そのものの何かである他はありません。対象がわたしの知覚の中にあるというより、寧ろわたしの知覚が対象の中にあるのです。では、わたしの知覚は対象の何なのでしょうか。わたしの知覚が、いわゆる感覚的神経刺激に完全に随順しているように見えるのは事実だとしても、神経刺激の(真の)役割は、周囲の物体に対するわたしの身体の反応を準備し、可能的行動を下描きすることにあります。したがって知覚するとは、対象の総体から、それらに対するわたしの身体の可能的行動を分離することを意味します。つまり知覚とは、一つの選択、識別に他なりません。知覚は何物も創造しません。寧ろ逆に、知覚の役割はイマージュの総体から、わたしの行動力の及ばないイマージュをすべて取り除き、さらに残ったイマージュの各々から、わたしの身体というイマージュの欲求とかかわりのないものをすべて取り除くことにあります。以上が、少なくともわたしたちが純粋知覚と呼ぶものの極く概略的な説明であり、図式的な解説です。これを踏まえ、次に実在論と観念論との間で、わたしたちがどんな立場を採るに至ったのかを振り返ってみましょう。
観念論は、あらゆる実在は意識と類縁性、類似性を持つ、つまり意識と何らかの繋がりがあると考えます。わたしたちは事物を「イマージュ」と呼ぶことによって、事実上、観念論のこの立場を踏襲しました。どんな哲学説を唱えるにせよ、それが首尾一貫したものである限り、この結論から逃れることはできません。とは言え仮に意識を持つあらゆる存在の過去、現在、そしてあり得べきすべての意識状態を寄せ集めても、物質的実在の極く限られた部分しか知ることはできないでしょう。何故ならイマージュの総体は、あらゆる点で知覚を超えているからです。わたしたちの知覚は、鎖全体のうちのいくつかの環を捉えているに過ぎません。科学と形而上学は知覚から抜け落ちたミッシングリンクを発見して鎖全体を復元し、イマージュの総体を再構成しようとしているのです。しかし知覚と実在との間にこのように部分と全体の関係が確立されるためには、知覚にその本来の役割、すなわち行動を準備するという役割を残して置かなければなりません。観念論が見落としているのは、まさにこの点です。先ほども触れましたが、観念論は何故、知覚に現れている体系から、科学が成功を収めている体系へ、言い換えると、気紛れに(非連続的に)移り変わっていくように見える感覚から、決定論に支配されている自然現象へ移行することができないのでしょうか。それはまさに、観念論が知覚における意識に思弁的役割を与えているからであり、その結果この意識が、例えば或る感覚とそれに後続する感覚の間にある筈の中間項(ミッシングリンク)を、どういう理由ですべて見落としてしまうのかわからなくなってしまうからです。ミルのようにこの中間項を「可能的感覚」と考えたところで、或いはカントのようにこの中間項の秩序を非人格的な悟性によって構築される下部構造に帰したところで、中間項自体についても、その厳格な秩序についても、何もわからないことに変わりはありません。これに対して、わたしたちの意識的知覚は専ら行動を目的としたものであり、事物全体のうち、それに対する可能的行動とかかわりのあるものだけを描き出しているに過ぎない、と想定してみましょう。そうすれば、行動に関係のない爾余の部分がすべて除外されるのは当然であること、にもかかわらず、そうして除外されたものはわたしたちが知覚しているものと同じ性質のものであることが理解できるでしょう。したがって物質に関するわたしたちの認識は、イギリス観念論が主張するように主観的なものでもなければ、カント的観念論が主張するように相対的なものでもありません。主観的なものではない、というのは、それがわたしたちのうちにあるのではなく、事物のうちにあるからです。また相対的なものではない、というのは、「現象」と「物自体」との間にあるのは仮象と実在の関係ではなく、単に部分と全体の関係に過ぎないからです。
こうしてわたしたちは、実在論へと送り返されるように見えます。しかし実在論も観念論と同様、本質的な或る一つの点を修正しない限り、同じ理由によって受け入れることができません。先に述べたように、観念論は知覚に現れている体系から、科学が成功を収めている体系、すなわち実在に移行することができません。逆に実在論は、この実在から、わたしたちがこの実在について持つ直接的認識を引き出すことができません。まず素朴実在論の場合はどうでしょうか。その場合、一方に空間内に散乱する物質、多かれ少なかれ独立した多数の部分からなる物質が置かれ、他方にはこの物質とはいかなる接点もない精神が置かれます。せいぜい、精神は唯物論者の主張する随伴現象として物質と不可解な接点を持つ、と言い得るに過ぎません。次にカント的実在論の場合はどうでしょうか。その場合、一方に物自体、すなわち実在が置かれ、他方にわたしたちの認識を構成する素材となる感性の多様性が置かれます。が、それらの間にはいかなる関係も想定することができず、いかなる共通の尺度も見出せません。極端な形のこの二つの実在論を掘り下げてみると、両者は結局、同じ観点に帰着することに気付かされます。すなわち、どちらも知性と事物との間に、等質的空間という障壁を設けているのです。素朴実在論は、この空間を現実に存在する媒質と看做し、その中に事物が浮遊物のごとく散乱していると考えます。カント的実在論は、この空間を観念的媒質と看做し、そこで多様な感覚が相互に調整されていると考えます。しかしいずれの場合においても、この媒質が、そこに置かれるものの必要条件として真っ先に措定されているのです。両者に共通のこの前提をさらに詳しく分析してみると、一方はこの等質的空間に物質的実在を支える役割を付与しているのに対して、他方は等質的空間が諸々の感覚に相互調整の手段を与えていると考える点で見解を異にするものの、空間が思弁的な機能を持つと考え、行動と無関係な役割を空間に与える点で一致していることがわかります。したがって実在論の難点も、観念論の場合と同様、わたしたちの意識的知覚や意識的知覚の諸条件が、行動のためではなく、純粋認識のためのものであると考えることに起因している、と言えるでしょう。――これに対して、等質的空間は、事物やそれについてわたしたちが持つ純粋な認識に論理的に先立つものではなく、後から付け加えられるものだと考えてみましょう。言い換えると、延長は空間より先にあるものだと考えてみましょう。そして等質的空間は、わたしたちの行動、それも行動のみにかかわるものであって、物質を支配し、わたしたちの行動や欲求に応じて分解するために、物質的連続の下にわたしたちが張り巡らせる無限に細かい網目を持った網のようなものだと考えてみましょう。あらゆる事物は他のすべての事物に作用を及ぼしており、したがって或る意味で事物は延長全体を満たしている(もっともわたしたちが知覚しているのは事物の中心部だけであり、身体の影響力が及ばなくなる地点にわたしたちは事物とその周囲との境界、すなわち事物の輪郭を画定します)、ということを科学は明らかにしましたが、今述べたわたしたちの観点に立てば、この点で科学と認識を共有することができ、また形而上学において、空間の分割可能性が引き起こす矛盾、すなわち既に述べたように、行動と認識という二つの観点を区別しないことから常に生じる矛盾を解消し、或いは緩和することができます。それだけではありません。これによってわたしたちは、何と言っても、ひろがりのある事物と、わたしたちがその事物について持つ知覚との間に実在論が築いた越え難い障壁を取り除くことができるのです。事実、実在論では一方に分割された多様な外的実在が、他方に延長とは無縁な、つまり延長と接点を持ち得ない感覚が置かれるのに対し、わたしたちの観点に立てば、具体的延長は実際に分割されるものではなく、直接的知覚は本来非延長的なものではない、ということが理解できます。こうしてわたしたちは、実在論から出発して、先ほど観念論の分析によって導かれたのと同じ地点(知覚と知覚される事物が一致する地点)に導かれました。つまりわたしたちは、知覚を事物のうちに戻したのです。このように、実在論と観念論が何の疑いもなく受け入れ、双方の境界であると同時に、双方にとってデッドロックでもあった前提を取り除いてみると、この二つの仮説にはわたしたちが考えているほど大きな違いはない、ということが明らかになります。
知覚について述べたことを要約しましょう。まずどこまでもひろがる延長があり、その延長の連続そのものの中に、わたしたちの身体という形をとって現れる現実的行動の中心があります。身体が行動するにつれ、身体が働きかけ得る物質のすべての部分が、身体の行動能力によって刻々と照らし出されます。物質世界の中からわたしたちの身体を切り取った(有機体を生じさせた)のと同じ欲求、同じ行動するという能力が、わたしたちを取り巻く環境の中に個々の物体の輪郭を画定するのです。わたしたちの目から見ると、あたかも周囲の事物からの現実的作用をわたしたち自身が濾過することによって、潜在的作用が分離されるかのように事態が進行します。知覚とは、この濾過され、現実的作用から分離された作用、すなわち、事物がわたしたちの身体に及ぼし得る作用、或いはわたしたちの身体が事物に及ぼし得る作用に他なりません。その一方で、身体が周囲の物体から受け取る刺激は、脳内に常に反応を準備し、この脳内の運動は事物に対する可能的行動の概略を刻々と描き出しているので、脳の状態は正確に知覚に対応しています。しかし脳の状態は、知覚の原因でもなければ結果でもなく、またいかなる意味においても知覚の複写ではありません。それは単に、知覚を引き継ぐものなのです。つまり知覚がわたしたちの可能的行動だとすれば、脳の状態は現実化し始めた行動と言えるでしょう。
Ⅳ.――しかしこの「純粋知覚」の理論は、同時に二つの点で緩和、或いは補正されなければなりませんでした。というのも純粋知覚は、言ってみれば実在から(わたしたちが便宜的に)切り取った断片であり、身体の知覚とも言うべき感情的感覚を抜き取られた外的物体の知覚に過ぎず、或いは過去の直観とも言うべき記憶を抜き取られた現在の瞬間の直観に過ぎないからです。つまりわたしたちは、理解を容易にするために、まず身体を空間における数学点として扱い、意識的知覚を時間における数学的瞬間として扱ったのです。身体にひろがりを、知覚に持続を返すことで、意識に二つの主観的要素、すなわち感情的感覚と記憶を統合し、意識を元の状態に戻さなければなりません。
感情的感覚とは何でしょうか。先ほども述べたように、わたしたちの知覚は、他の物体に対するわたしたちの身体の可能的行動を素描しています。そして身体はひろがりを持つので、周囲の物体に作用するように、自分自身にも作用することができます。したがってわたしたちの知覚には、わたしたち自身の身体の何かが混入している筈です。ところで周囲の物体について言えば、それらはもともと様々な距離で身体と隔てられており、この距離が、それらの物体に対してわたしたちが抱く期待や脅威が現実のものになるまでの時間的隔たりを示しています。わたしたちの持つこれらの物体の知覚が、単に可能的なものでしかないのはそのためです。逆に、これらの物体と身体との距離が狭まるにつれて、可能的行動は現実的行動に近づき、距離が狭まった分だけ緊急性の高いものになります。そしてこの距離がゼロになったとき、すなわち知覚の対象が身体そのものになったとき、知覚が描くのは最早可能的行動ではなく、現実の行動です。まさにこの行動の持つ現実性に痛みの本性があります。痛みとは、傷付けられた身体の部分が自己を修復しようとする現在の努力、ただし局所的で、孤立しているがゆえに、全体的活動にしか適性を持たない生物においては失敗に終わらざるを得ない努力に他なりません。したがって痛みは、知覚される対象が知覚される場所にあるように、痛みが生じる場所にあります。感情的感覚と知覚されるイマージュの違いは、感情的感覚がわたしたちの身体の内にあるのに対し、イマージュはわたしたちの身体の外にある、という点にあります。わたしたちの身体の表面、すなわち身体と周囲の物体に共通の境界が、感覚とイマージュという二つの形で同時にわたしたちに与えられるのはまさにこのためです。
感覚の主観性は、このように感情的感覚が身体の内にあることに由来しており、イマージュの客観性は、イマージュ一般が身体の外にあることに由来しています。ところがここで、人々はこれまで常に繰り返されてきた誤り、本書を通じわたしたちが明らかにしてきた誤りを犯します。それは、感覚と知覚がそれ自体で存在している、と考える誤りです。人々は感覚と知覚に、純粋に思弁的な役割を与え、感覚や知覚と一体のものである行動、両者を区別する目安ともなる、一方は現実的で、他方は可能的な行動を見落としてしまいます。このため人々は、感覚と知覚との間に最早程度の違いしか見出すことができません。そして感情的感覚が(そこに含まれる努力感が混乱したものであるために)漠然としかその位置を特定できないことから、それがひろがりのないものだと即断し、このひろがりを奪われた感情、或いは非延長的な感覚を、空間においてイマージュを構成するための素材にしてしまいます。その結果、それぞれが絶対的なものとして措定される他はないこれら意識の諸要素、すなわち諸々の感覚がどこから生まれてくるのか、非延長的なこれらの感覚がどのように空間と結び付き、組織されるのか、何故それらの感覚が空間の中で特定の秩序を形成し、それ以外の秩序を形成しないのか、さらにそれらがどうしてすべての人に共通の安定した経験を形作るのか、説明する術を失ってしまうのです。(このように感情的感覚から出発するのではなく)、寧ろ逆に、すべての人に共通のこの経験、わたしたちの活動に必要不可欠な舞台であるこの経験から出発しなければなりません。そのためには、まず純粋知覚、すなわちイマージュを措定しなければならないのです。そうすれば、感情的感覚はイマージュを構成する素材などではなく、イマージュに混入される不純物であること、すなわちわたしたちが自分の身体から周囲の物体に混入させる不純物であることがわかるでしょう。
Ⅴ.――しかし感情的感覚と知覚の領域にとどまっている限り、わたしたちは精神の領域に完全に足を踏み入れたとはとても言えません。意識・随伴現象説(唯物論)に反して、確かに脳のいかなる状態も知覚と等価ではありません。またイマージュ一般から知覚を選択することは、そこに既に精神の働きが見て取れる分離作用の結果と言えます。そしてイマージュの総体である物質的宇宙そのものが、一種の意識、そこではすべてが相殺され、中和している意識、全体をどんな風に分割しようともあらゆる部分が常に等しい作用・反作用によって釣り合い、相互に打ち消し合っている意識と言っても差し支えないでしょう。しかし精神的実在に触れるためには、直前の過去が絶えず現在のうちに引き継がれては形を変えて繰り返されるだけの領域、つまり必然の法則に支配され、生起と消滅が繰り返されるだけの領域を脱し、過去が引き継がれて保持され、次第に豊かさを増していく現在を生きているような個人の意識に身を置かなければなりません。このように純粋知覚から記憶に移ることで、わたしたちは物質に決定的に別れを告げ、精神の領域へと入っていきます。
Ⅵ.――本書の根幹をなす記憶理論は、純粋知覚理論の帰結であると同時に、経験に基づいて純粋知覚理論を検証する役割をも担っています。知覚に伴う脳の状態は、知覚の原因でも複写でもないという仮説、知覚とそれに随伴する生理的諸状態との関係は、可能的行動と開始された行動の関係に他ならないという仮説、すなわち純粋知覚理論を、わたしたちは事実に基づいて証明することはできませんでした。何故なら従来の仮説と同様、わたしたちのこの仮説においても、知覚は脳の状態から生じるかのように見えることに変わりはないからです。事実、純粋知覚における対象は現前する対象であり、わたしたちの身体に変化を引き起こす物体です。このため、身体の変化に応じて刻々と対象のイマージュがわたしたちに与えられることになり、現象だけを見ると、脳の変化は現実化されつつある身体の反応を描いている、と考えることもできれば、(それが納得できるものであるかどうかは別にして)現前するイマージュの意識的複写を生み出している、と考えることもできます。しかし記憶に関しては、事情は全く異なります。というのも記憶、すなわち不在の対象の表象に関しては、(純粋知覚理論と従来の仮説という)この二つの仮説は正反対の帰結をもたらすからです。対象が現前するとき、もし身体の状態だけで対象の表象を生み出すことができるとすれば、その対象が不在の場合にも、当然、身体の状態だけでその不在の対象の表象(記憶)を生み出すことができる筈でしょう(下記参照)。したがってこの仮説では、記憶は過去に知覚を引き起こした脳の状態が或る程度再現されさえすれば生じる筈であり、記憶とは知覚の弱まったものに過ぎない、ということになります。ここから次の二つの命題、すなわち、記憶は脳の機能に過ぎず、また、知覚と記憶には強度の違いがあるに過ぎない、という命題が導き出されます。――これに対して、脳の状態は決して現前する対象の知覚を生み出すものではなく、ただ知覚を引き継いでいるに過ぎないとすれば、この知覚を喚起する記憶に関しても、脳の状態はこの記憶を引き継ぎ、行動に繋げるだけであって、それを生み出すことはできない、と考えるのが妥当でしょう。さらに、現前する対象の知覚がこの対象自体の何物かである(純粋知覚理論のもう一つの面)とすれば、不在の対象の表象(記憶)は、知覚とは全く別の種類の現象ということになります。何故なら現存と不在との間には、いかなる段階、いかなる中間項もないからです。ここから、先ほどの命題とは正反対の次の二つの命題、記憶は脳の機能とは別のものであり、また、知覚と記憶との間には、程度の違いではなく、本性の違いがある、という命題が導き出されます。――このように記憶に関しては、これら対立する二つの仮説には最早どんな妥協点も存在しません。したがって記憶の働きを明らかにすれば、どちらの仮説が正しく、どちらの仮説が間違っているか、経験に基づいて判断できる筈です。
(何故なら、記憶は対象そのものに比べて不完全で、対象に備わっているものが少なからず欠けており、したがって記憶は対象より「少ない」ものだからです)
わたしたちが行った検証の全容を、ここで詳しく述べるわけにはいきません。重要な点をいくつか思い起こすにとどめたいと思います。記憶が大脳皮質に蓄積されている、という仮説の根拠として持ち出される事実は、すべて、脳の特定の部位に対応付けられた記憶障害の観察に基づいています。実際、記憶が本当に脳の中に蓄積されているのだとすれば、記憶の明らかな消失には、特定の脳の損傷が対応している筈です。ところが、例えば健忘、すなわち過去の一時期の記憶が突然すっぽり抜け落ちてしまう記憶喪失では、脳に明確な損傷は認められません。また他方、脳における局在性が明確な記憶障害、すなわち様々な失語症や、視覚的或いは聴覚的再認障害では、特定の記憶がそれを蓄えている部位から失われると言うより、想起能力がその活力において減退する結果、患者は記憶を現在の状況に結び付けることができなくなる、と言った方が真相に近いように思えます。したがって必要なのは、脳の役割は記憶そのものを細胞に蓄えることではなく、寧ろこの連結の機能を確実なものにすることではないか、というわたしたちの仮説が正しいかどうか確かめること、そのためにこの結合のメカニズムを解明することです。この点を確かめるべく、わたしたちは過去と現在がお互いに徐々に接触していく運動、すなわち再認の過程を隅々まで検討しました。その結果、現前する対象の再認は全く異なる二つの仕方で行われていること、しかしいずれの場合においても、脳はイマージュの貯蔵所ではないということをわたしたちは突き止めました。一つは、思考されるというより寧ろ演じられる再認、かつて知覚し、新たに繰り返された知覚に対し、身体が自動化された動作で対応する全く受動的な再認です。この場合、習慣によって身体の中に構築された運動メカニズムですべてを説明することができ、記憶の障害はこのメカニズムが破壊される結果として起こります。もう一つは、記憶イマージュが現在の知覚に向かうことによってなされる能動的な再認です。この場合、第一の再認の場合とは異なり、記憶は知覚に重なるに際して、行動するために通常知覚が脳内で作動させている器官と同じ器官を(別の方向から)作動させる手段を見つけなければなりません。さもないと本質的に無力なものである記憶は、無力な状態から脱して現実に移ることは永遠にできない、ということになってしまうでしょう。脳の損傷によって失われた個々の記憶のすべてに共通性があり、それを特定のカテゴリーに分類できる場合、それらの記憶が、例えば同じ時期に属しているとか、論理的な関連があるという点で類似しているのではなく、聴覚的なものである点で類似しているか、或いは視覚的なものである点で類似しているか、或いは運動的なものである点(要するに記憶の現実化の手がかりとなる感覚・運動的なものである点)で類似しているかのいずれかであるのはまさにそのためです。つまりこのとき損なわれるのは、感覚や運動の様々な領域、或いは多くの場合、(外的刺激のように外側からではなく)大脳皮質の内側からこの領域を作動させる付属器官であって、記憶そのものが損なわれるのではありません。わたしたちはさらに、言葉の再認や感覚性失語症の現象を注意深く検討することによって、この第二の再認は決して脳に眠っている記憶が機械的に覚醒することによって行われるのではない、ということを確かめました。第一の再認が自動的に行われるのに対し、この第二の再認は多かれ少なかれ意識の緊張(注意)を必要とします。つまり純粋な記憶が働いている領域にわたしたちが純粋記憶と呼ぶものを自ら探しに行き、これを徐々に具体化させ、現在の知覚に接触させるのが第二の再認です。
この純粋な記憶機能とは何でしょうか。そして純粋記憶とは何でしょうか。この問いに答えることで、先ほどわたしたちが提示した二つの命題の証明は完成します。第一の点、すなわち記憶機能は脳の働きとは別のものであるという点については、今明らかにした通りです。そこで最後に、「純粋記憶」を分析することによって、記憶と知覚との間には単なる程度の違いではなく、本性上の根本的な違いがあるという命題を証明しなければなりません。
(つづく)