それらの事実の代表的な例としてまず取り上げたいのは、わたしたちは感覚機能を(経験によって徐々に)学ばなければならない、という事実です。視覚にしろ、触覚にしろ、最初からその印象を正しくそれが所在する場所と関連付けることはわたしたちにはできません。それらの印象は一連の比較や類推を経て、少しずつ相互に関連付けられていくのです。人々はこの事実から、感覚というものは本来ひろがりを持たず、それらを相互に並置することによって延長が構成されるのだという結論に飛び移ります。それはひとまず措き、わたしたちが立脚している仮説においても、感覚機能が完成されるためには――(最初の仮説のように)感覚を事物と一致させるためではなく、様々な感覚同士を相互に一致させるために――訓練が必要であることは、考えればすぐにわかるのではないでしょうか。わたしたちの仮説においては、あらゆるイマージュの中心にわたしの身体というイマージュがあり、身体の行い得る行動が、周囲のイマージュのそれ自身への見かけ上の反射として示されます。身体の行い得る行動の種類がいくつもあれば、その数だけ、周囲の物体に対する異なった反射の体系が存在することになるでしょう。この反射の体系の各々が、わたしの感覚機能の一つに対応しています。したがってわたしの身体は、他のイマージュに対して、どんな行動を起こし得るかという観点からそれらのイマージュを分析しつつ、それらを反射している一個のイマージュであると言えます。またしたがって、異なった感覚機能が同一の対象の中に知覚している性質の一つ一つが、わたしの行動能力の或る一つの方向、或る一つの欲求を象徴しています。ところで、或る一つの物体をそれぞれ異なった様々な感覚機能によって知覚するとき、その知覚のすべてを合わせると、この物体の完全なイマージュが得られるでしょうか。答えは恐らく否です。何故ならそれらの知覚は、全体の中から拾い集められたものに過ぎないからです。あらゆる物体のあらゆる点からの作用をすべて知覚するということは、取りも直さず、物的対象の状態に堕するということでしょう。(それに対して)意識的に知覚するとは選択することであり、意識とは何よりもまず現実的なこの分離作用を意味します。それゆえ異なった感覚機能によって捉えられた同一の対象の様々な知覚を寄せ集めても、その対象の完全なイマージュを再構成することはできません。それらの知覚は、言わば、わたしの様々な欲求間の隙間に相当する隔たりによって相互に分離されています。そして感覚機能の訓練が必要なのは、まさにこの隔たりを埋めるためです。この訓練の目的は、わたしの様々な感覚機能を相互に調整し、身体の欲求の非連続性そのものによって分断されているそれらの感覚の所与の間に連続性を取り戻すこと、つまり物的対象の全体を近似的に再構成することにあります。感覚機能の訓練の必要性は、わたしたちの仮説においては以上のように説明することができます。この説明を、最初に述べた仮説における説明と比較してみましょう。第一の仮説では、視覚によるひろがりのない感覚が、触覚その他のひろがりのない感覚と合成され、その総合によって或る物的対象の観念が生まれる、とされます。しかしまず、それらの感覚がどのようにしてひろがりを獲得するのか、また特に、一歩譲ってひろがりを獲得することができたとしても、実際にどのようにしてそれらの感覚の一つが選ばれ、空間内の或る一つの点と結び付くのか理解できません。さらに、どんな偶然の一致や予定調和に恵まれれば、種類の異なるこれらの感覚が一つにまとまることができるのか、言い換えると、わたしだけでなくすべての人に共通のものとして経験され、また他の物体に対しては自然法則と呼ばれる不変の法則に従っている安定した堅固な外観を持つ対象がどのようにして形作られるのか、という疑問も残ります。一方、第二の仮説、わたしたちの仮説では、「わたしたちの様々な感覚の所与」はわたしたちのうちにおいてではなく、事物そのもののうちにおいて知覚されている事物の性質です。それらの性質は単に抽象によって分離されているに過ぎないのですから、それらが再度結び付いたとしても驚く必要があるでしょうか。――第一の仮説では、物的対象はわたしたちが表面的に知覚しているものとは異なる実在であると考えられています。この仮説では一方に感覚的性質を伴う意識という原理が置かれ、他方に物質が置かれますが、物質そのものについてわたしたちは何も知ることができず、物質がわたしたちに提示しているものを物質自体から最初にすべて剥ぎ取ってしまったために、否定によってしかそれを定義することができません。(一方)第二の仮説では、物質の認識を限りなく深めていくことが可能です。知覚されているものを物質から剥ぎ取る代わりに、あらゆる感覚的性質を接近させ、それらの親近性を再発見し、わたしたちの欲求が分断することで失われた連続性を、それら相互の間に再度取り戻すことができるに違いありません。そのときわたしたちの持つ物質の知覚は、少なくとも原理上、そしてこの後取り上げる感情的感覚や、とりわけ記憶を除外して考えれば、最早相対的なものでも主観的なものでもない、ということになります。それはただ、わたしたちの多くの欲求によって分断されているに過ぎないのです。――第一の仮説では、物質と同じように精神もまた認識不能です。何故なら精神には、様々な感覚を呼び起こし、これを空間に投影して、物体を形成する不可思議な能力が与えられているのですが、どこから感覚を呼び起こし、どのようにそれを空間に投影するのかは誰にもわからないからです。第二の仮説では、意識の役割は極めて明瞭です。意識とはわたしたちの行い得る行動、可能的行動を意味します。この第二の仮説に照らして、精神が獲得した諸形式、意識の本質をわたしたちの目から覆い隠している諸形式を取り除かなければならないでしょう。このように、わたしたちの観点に立てば、精神を物質からより明確に区別し得る可能性と、両者を接近させ得る可能性とが、微かながら同時に見えてきます。しかし感覚機能の訓練の必要性について述べるのはこれくらいにして、次の事実に移りましょう。
次に取り上げたいのは、以前から「特殊神経エネルギー説」と呼ばれてきたものに関する事実です。周知のように、視神経に外部から衝撃を加えるなり電流を流すなりして刺激を与えると何らかの視覚を生じ、同じように聴神経や舌咽神経に電流を流すと音が聞こえたり味が感じられたりします。この特殊な事例から、(ドイツの生理学者、ミュラーによって)次のような極めて一般的な二つの法則が導き出されました。一つは、異なった原因でも同じ神経に作用すれば同じ感覚を生じる、ということであり、もう一つは、同じ原因でも異なった神経に作用すれば異なった感覚を生じる、ということです(つまり、刺激の如何にかかわらず「それぞれの神経はそれぞれに特有のエネルギーを有している」(竹内訳の訳注)、感覚は刺激によって生じるのではなく、神経の興奮によって生ずる、ということです)。そしてこの二つの法則そのものから、さらに、わたしたちの感覚は単なる信号に過ぎず、それぞれの感覚器官の役割は、空間における等質的で機械的な運動をその感覚に固有の言語に翻訳することにある、という推測がなされます。そして最後に、わたしたちの知覚を、最早結合しようにも結合しようのない二つの異なった要素、すなわち空間における等質的運動と、意識におけるひろがりのない感覚という二つの要素に分解しようとする傾向が生まれてきます。この二つの法則の解釈を巡って議論されている生理学上の問題を、ここで論じるつもりはありません。この法則をどのように解釈するにせよ、つまり、個々の神経に特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、中枢にのみ特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、解決困難な問題に直面することに変わりはありません。しかし解釈以前に、わたしたちとしてはこの二つの法則そのものに疑問を抱かざるを得ないのです。既にロッツェは、この法則に疑義を呈していました。それが真実であるためには、「音波が目に光の感覚を生じさせ、光の振動が耳に音を聞こえさせる」ことが必要である、と彼は述べています。この(特殊神経エネルギーという)仮説で例に挙げられている事実は、実際にはすべてただ一つのタイプに帰着するように思われます。すなわち、異なった感覚を生じさせる同一の刺激も、同じ感覚を生じさせる様々な刺激も、電流であるか、感覚器官内の電気的平衡を変化させる機械的作用なのです。ここでわたしたちは、こう問うことができます。電気的刺激には、種類の異なる様々な感覚に客観的に反応する多様な成分が含まれているのではないか、そして、それぞれの感覚器官の役割は、自分に関係のある成分を単に全体から抽出することにあるのではないか、と。そうだとすれば、同じ感覚を生むのは同じ刺激であり、異なった感覚を引き起こすのは異なった刺激だということになります。具体的に言えば、例えば舌が帯電すると、それと同時に舌に化学的変化が生じない筈がありません。そしてわたしたちが一般に味と呼んでいるのは、まさにこの化学変化なのです。また例えば、物理学者が光を電磁気的撹乱の一つに数えるとすれば、逆に電磁気的撹乱と呼ばれているものは光であると言うことができます。それゆえ視神経が帯電した際に客観的に知覚しているのは、まさに光だということになるでしょう。特殊神経エネルギー説が最もよく当て嵌まるのは、他のどの感覚にも増して聴覚であるように思われます。しかし聴覚においてほど知覚された事物が実際に存在するように感じられる感覚は他にないのもまた事実です。この点については最近刊行された著書の中で詳細な検討と解説が加えられているので、これ以上詳しく述べるのは差し控えます。ただここで問題になっている感覚は、わたしたちが自分の身体の外部に知覚しているイマージュではなく、身体そのものに場所を占める感情的感覚であるという点を指摘して置きたいと思います。ところでこの後述べるように、わたしたちの身体の性質と目的に鑑みて、わたしたちの身体のいわゆる感覚的要素は、身体が通常知覚している外界の対象に対して、それぞれ固有の現実的作用(この後出てくる痛みに関する記述を参照)を有しており、これは身体の可能的行動と同じ種類のものであると言うことができます。そう考えれば、それぞれの感覚神経が、何故感覚に応じて一定の仕方で振動するように見えるのかということも理解できるでしょう。しかしこの点をはっきりさせるためには、感情的感覚の性質を明らかにする必要があります。こうしてわたしたちは、取り上げる予定だった第三の、そして最後の事実に導かれます。
(この段落は「特殊神経エネルギー説」に関する知識がないとよく理解できないのではないかと思います。「特殊神経エネルギー説」は簡単に言うと対象がなくとも神経の興奮のみによって感覚が生ずるという説なので、その点を批判しているのではないかと考えられます)
最後に取り上げるのは、わたしたちの知覚が、空間を占める表象的状態から、延長を持たないように見える感情的状態に少しずつ、わたしたちの気づかないうちに移行する、という事実です。ここから、感覚は本来ひろがりを持たないものであって、延長は後から付加されるものであるという思い込み、知覚のプロセスとは内的諸状態の外在化であるという思い込みが生まれます。実際、心理学者は自分の身体から出発します。そして身体の表面で受けた刺激だけで十分物質的宇宙の全体を再構成できるように思えるところから、彼はまず宇宙を自分の身体に還元します。しかしこの最初の立場を貫き通すことはできません。何故なら身体は他の物体以上のものでも以下のものでもないからです。そこで彼は更に一歩を進めて原則を徹底し、宇宙を身体の表面まで収縮させるだけにとどまらず、遂には身体そのものをひろがりを持たないと想定された一つの中心に凝縮します。一旦この中心が得られると、今度は逆にこの中心からひろがりのない感覚が生まれ、それが言わば膨張して徐々にひろがり、まず身体が、次いでそれ以外の物質的対象が延長を獲得するのだ、という風に彼は想像します。しかしこの奇妙な想像は、イマージュと観念との間に、言い換えるとひろがりを持つものとひろがりを持たないものとの間に、空間に場所を占めるとも占めないとも明言できない一連の中間的な状態、すなわち感情的状態が存在しなければ、こうも易々と人々に受け入れられることはなかったでしょう。わたしたちの悟性は、いつも陥っている錯覚にここでも陥り、事物はひろがりがあるかないかのどちらかだという二項対立を立てます。そして感情的状態は漠然としかひろがりを持たず、それが所在する場所を正確に指し示すことはできないことから、感情的状態は全くひろがりを持たない、と結論付けます。しかしそうなると、ひろがりのないものがひろがりを持つに至る過程や、またひろがりそのものも、ひろがりのない状態において獲得された特性、それがどんなものか知りようがない特性によって説明されることになり、知覚のプロセスは、内的でひろがりのない状態がひろがって外部に自らを投影するという、現実性の欠片もない夢物語に置き換えられることになります。以上の議論を、別の形で述べてみましょう。わたしたちの身体に及ぼされる対象の作用が増大すると、知覚はほとんどの場合、感情的感覚に変わり、とりわけ痛みに変わります。例えば尖端が肌に触れているピンを押す力を少しずつ強めていけば、その触感はいつしか刺すような痛みに変わります。逆に痛みが減っていくと、それは痛みの原因となっていたものの知覚と最終的に一致し、言わば外在化されて表象となります。こうしてみると感情的感覚と知覚との間には程度の違いがあるだけで、性質の違いはないように見えます。ところで感情的感覚は、わたしの人格と固く結ばれています。実際、痛みを感じている主体から切り離された痛みなどというものを考えることができるでしょうか。そこで、知覚についても事情は同じ筈であり、外的知覚は、無害になった(知覚でも痛みでもない)感情的感覚が空間に投影されることで構成されるのだ、という解釈が生まれます。実在論者も観念論者も、このように推理する点では一致しています。観念論者は、物質的宇宙とは主観的でひろがりのない(内的)状態の総合以外の何物でもないと考えます。実在論者はそれに付け加えて、この総合の背後にそれに対応する独立した実在が存在することを指摘します。しかし感情的感覚と表象との間に断絶が認められず、一方から他方に連続的、段階的に移行できる事実から、物質的宇宙の表象が相対的、主観的なものであると考える点ではどちらも同じです。そして両者はいずれも、わたしたちがまずそれらの表象から言わばわたしたち自身を引き出してきた事実を認めず、逆に表象がわたしたちから出てくる(生まれる)のだと結論します。
事実と異なるこのいかにも恣意的な解釈の誤りを指摘する前に、こうした解釈では痛みの本質や知覚の本質を説明することはできず、それらを理解する上でこの解釈は何の役にも立たないことを示して置きたいと思います。わたしの人格と分かち難く結ばれ、わたしが消滅すれば消滅する感情的状態が、ただ強度が減少しただけでひろがりを獲得し、空間内の特定の位置を占め、わたしを含めたすべての人に共通の安定した経験を形作るなどと言われても、誰も納得できる筈がありません。どんな形であれ、知覚される諸感覚にまずひろがりを、次にできれば認めたくなかった独立性を与えないわけにはいかないでしょう。さらに他方、この仮説では、感情的感覚も表象と同じように理解不能です。何故なら感情的感覚の強度を減じていくとどうして表象になるのかということがわからなければ、はじめに知覚として与えられた同じ現象が、強度を増していくとどうして感情的感覚になるのかもわかる筈がないからです。痛みには何かしら積極的なもの、能動的なものが含まれていますが、デカルトをはじめとする一部の哲学者のように、痛みとは混乱した表象であると考えても痛みのこの能動性を理解することはできません。しかし最大の問題はそこにはありません。刺激が徐々に増大していくと、知覚が最終的に痛みに変わるのは疑いようのない事実です。しかしこの変化が、或る特定の瞬間から生じるのもまた事実です。何故この瞬間であって、他の瞬間ではないのでしょうか。そしてまた、最初わたしが無関心な傍観者として立ち会っていた現象が、どんな特別な理由によって突然わたしの切実な関心事になるのでしょうか。この仮説では、こうした問題、つまり、同じ現象と目されているものが、強度を減じていくと何故特定の瞬間にひろがりと外見上の独立性を獲得するのかということも、また、強度を増していくと、何故他の瞬間ではなくこの瞬間に痛みという新たな特性、積極的作用の源泉となるものを生み出すのかということも理解できないのです。
ここでわたしたちの仮説に戻って、イマージュ(の全体)の中から、感情的感覚がどうして或る特定の瞬間にしか生じ得ないのかを示すことにしましょう。それによってわたしたちは、ひろがりを持つ知覚から、どのようにしてひろがりを持たないように見える感情的感覚に移行するのかも同時に理解することができるでしょう。しかしその前に、痛みの現実的な意味について若干の予備的考察をして置かなければなりません。
アメーバの突起(仮足)のいずれかに異物が触れると、この突起は収縮します。つまり原形質の塊であるアメーバはあらゆる部分において刺激を受け取ると同時に、これに反応することができる、と言えます。ここでは知覚と運動が、収縮性という唯一の特性の中で融合しています。しかし有機体が複雑化するにつれ、分業が発生して機能が分化し、その結果有機体を構成する解剖学的諸要素はその独立性を失っていきます。わたしたち人間のような有機体においては、いわゆる感覚神経線維は専ら刺激を中枢に伝える役割を担っており、中枢から刺激は運動神経へと伝えられます。このように考えると、感覚神経線維は前線の歩哨のように個々の活動を放棄し、身体全体の運動のために奉仕している、と言うことができます。ところで感覚神経線維の各々は、有機体そのものと同じように、有機体全体を損なう恐れのある原因に曝されています。そして有機体が危険を避けたり受けたダメージから回復するために運動する能力を持つのに対して、感覚神経は分業の一端を担っているため相対的に不動性を保たざるを得ません。この二つの要因によって痛みが生まれます。わたしたちの考えでは、痛みとは損傷を受けた神経要素がそれを修復しようとする努力――感覚神経における一種の動的傾向に他なりません。痛みの本質は努力、ただし効果のない無力な努力にあります。あらゆる痛みは局部的な努力であり、努力のこの孤立こそ無力さの原因です。何故なら有機体はその諸部分が緊密に連携しているがゆえに、最早全体によってしか効果を生むことができないからです。また痛みが生物の曝されている危険と全く釣り合わないのも、努力の局部性にその原因があります。致命的な危機に瀕しているにもかかわらず痛みが軽いこともあれば、痛みは耐え難いのに(例えば歯痛のように)危険は取るに足らない場合もあります。したがって痛みが生じる特定の瞬間があり、またその瞬間以外には痛みは生じ得ません。それは有機体のその部分が刺激を受け容れるのではなく、それを斥けるときです。知覚と感情的感覚との間にあるのは、したがって程度の違いではなく、性質の違いなのです。
わたしたちは生命体を一種の中心と考え、周囲の対象から生命体に及ぼされる作用が、その中心からそれらの対象に反射している、と考えました。この反射が外的知覚に他なりません。しかしこの中心は、数学における点ではありません。それは一つの物体であり、自然界のすべての物体と同様、それを破壊する恐れのある外的原因の作用に曝されています。そして先ほど述べた通り、生命体はそうした外的原因の作用に抵抗しています。生命体は、単に外部からの作用を反射するだけではありません。それは外部からの作用と戦い、戦うことによってその作用の或るものを吸収します。ここに感情的感覚の起源があります。したがって比喩的に言えば、知覚が外的原因の作用を反射する身体の能力を示す尺度だとすれば、感情的感覚は外的原因の作用を吸収する身体の能力を示す尺度だと言えるでしょう。
とは言えこれは飽くまで比喩に過ぎません。事実をもっと詳細に観察し、知覚そのものの存在から必然的に感情的感覚が生まれることを理解する必要があります。わたしたちの考えるところでは、知覚は事物に対するわたしたちの可能的行動を示す尺度であり、逆に言えば事物がわたしたちに及ぼし得る作用を示す尺度でもあります。身体の行動能力(神経組織の高度の複雑化によって象徴される行動能力)が増せば増すほど、知覚が及ぶ領域もひろがっていきます。それゆえ身体と知覚される対象との距離は、まさに危険がどこまで迫っているか、予期した結果が得られるのはいつかということを示す尺度だと言えます。それゆえにまた、わたしたちの身体と区別される対象、身体と或る一定の距離によって隔てられている対象の知覚は、単なる可能的な行動以外の何物でもない、と言うこともできます。しかしこの対象とわたしたちの身体との距離が縮まれば縮まるほど、言い換えれば危険や予期したことが間近に迫れば迫るほど、可能的行動は現実的行動へと近づいていきます。両者の距離が限界まで縮まり、それがゼロになったとしましょう。すなわち、知覚される対象とわたしたちの身体とが一致し、身体そのものが知覚の対象になったとしましょう。その場合、この全く特殊な知覚が表しているのは最早可能的行動ではなく、現実の行動です。この現実の行動において経験されているものこそまさに感情的感覚なのです。したがってわたしたちの感情的感覚と知覚との関係は、わたしたちの身体の現実的行動と、可能的あるいは潜在的行動との関係に等しい、と言えます。身体の可能的行動は身体以外の対象に関係し、それらの対象のうちに現れます。身体の現実的行動は身体そのものに関係し、わたしたちの身体そのもののうちに現れます。つまり現実的作用がその作用点(身体)に回帰し、潜在的作用がその出発点(対象)に回帰することによって、外的イマージュは身体によって周囲の空間に反射され、現実的作用は身体によって身体の内部に留められます。だからこそわたしたちの身体の表面、すなわち内部と外部との共通の境界は、知覚されると同時に感じられる唯一の延長部分なのです。
つまり一言で言えば、知覚はわたしの身体の外にあり、逆に感情的感覚はわたしの身体の内にある、ということです。外界の対象はそれらが存在している場所、すなわちわたしのうちにおいてではなく、対象のうちにおいて知覚されるのと同様、感情的感覚もそれが生じる場所、すなわちわたしの身体の特定の場所において感知されます。物質的世界と呼ばれるイマージュの体系を思い浮かべてみましょう。わたしの身体は、それらのイマージュの一つです。この身体のイマージュの周囲に、表象、すなわち身体が他のイマージュに及ぼし得る作用が配列されます。身体のイマージュの内部には感情的感覚、すなわち身体が身体自身に及ぼす現実的努力が生じます。イマージュと感覚との間に、わたしたち各自が自然に、そして自発的に設けている区別とはまさにこのようなものです。イマージュがわたしたちの外にあると言うとき、そのイマージュはわたしたちの身体の外部にあるという意味が言外に含まれています。感覚が内的な状態と看做される時、暗黙のうちに、感覚はわたしたちの身体の内部に生じると解されています。わたしたちの身体が消滅しても知覚されるイマージュの総体は存続するのに対して、身体が消滅すれば必然的に感覚も消滅すると断言できるのはまさにこのためです。
(つづく)
次に取り上げたいのは、以前から「特殊神経エネルギー説」と呼ばれてきたものに関する事実です。周知のように、視神経に外部から衝撃を加えるなり電流を流すなりして刺激を与えると何らかの視覚を生じ、同じように聴神経や舌咽神経に電流を流すと音が聞こえたり味が感じられたりします。この特殊な事例から、(ドイツの生理学者、ミュラーによって)次のような極めて一般的な二つの法則が導き出されました。一つは、異なった原因でも同じ神経に作用すれば同じ感覚を生じる、ということであり、もう一つは、同じ原因でも異なった神経に作用すれば異なった感覚を生じる、ということです(つまり、刺激の如何にかかわらず「それぞれの神経はそれぞれに特有のエネルギーを有している」(竹内訳の訳注)、感覚は刺激によって生じるのではなく、神経の興奮によって生ずる、ということです)。そしてこの二つの法則そのものから、さらに、わたしたちの感覚は単なる信号に過ぎず、それぞれの感覚器官の役割は、空間における等質的で機械的な運動をその感覚に固有の言語に翻訳することにある、という推測がなされます。そして最後に、わたしたちの知覚を、最早結合しようにも結合しようのない二つの異なった要素、すなわち空間における等質的運動と、意識におけるひろがりのない感覚という二つの要素に分解しようとする傾向が生まれてきます。この二つの法則の解釈を巡って議論されている生理学上の問題を、ここで論じるつもりはありません。この法則をどのように解釈するにせよ、つまり、個々の神経に特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、中枢にのみ特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、解決困難な問題に直面することに変わりはありません。しかし解釈以前に、わたしたちとしてはこの二つの法則そのものに疑問を抱かざるを得ないのです。既にロッツェは、この法則に疑義を呈していました。それが真実であるためには、「音波が目に光の感覚を生じさせ、光の振動が耳に音を聞こえさせる」ことが必要である、と彼は述べています。この(特殊神経エネルギーという)仮説で例に挙げられている事実は、実際にはすべてただ一つのタイプに帰着するように思われます。すなわち、異なった感覚を生じさせる同一の刺激も、同じ感覚を生じさせる様々な刺激も、電流であるか、感覚器官内の電気的平衡を変化させる機械的作用なのです。ここでわたしたちは、こう問うことができます。電気的刺激には、種類の異なる様々な感覚に客観的に反応する多様な成分が含まれているのではないか、そして、それぞれの感覚器官の役割は、自分に関係のある成分を単に全体から抽出することにあるのではないか、と。そうだとすれば、同じ感覚を生むのは同じ刺激であり、異なった感覚を引き起こすのは異なった刺激だということになります。具体的に言えば、例えば舌が帯電すると、それと同時に舌に化学的変化が生じない筈がありません。そしてわたしたちが一般に味と呼んでいるのは、まさにこの化学変化なのです。また例えば、物理学者が光を電磁気的撹乱の一つに数えるとすれば、逆に電磁気的撹乱と呼ばれているものは光であると言うことができます。それゆえ視神経が帯電した際に客観的に知覚しているのは、まさに光だということになるでしょう。特殊神経エネルギー説が最もよく当て嵌まるのは、他のどの感覚にも増して聴覚であるように思われます。しかし聴覚においてほど知覚された事物が実際に存在するように感じられる感覚は他にないのもまた事実です。この点については最近刊行された著書の中で詳細な検討と解説が加えられているので、これ以上詳しく述べるのは差し控えます。ただここで問題になっている感覚は、わたしたちが自分の身体の外部に知覚しているイマージュではなく、身体そのものに場所を占める感情的感覚であるという点を指摘して置きたいと思います。ところでこの後述べるように、わたしたちの身体の性質と目的に鑑みて、わたしたちの身体のいわゆる感覚的要素は、身体が通常知覚している外界の対象に対して、それぞれ固有の現実的作用(この後出てくる痛みに関する記述を参照)を有しており、これは身体の可能的行動と同じ種類のものであると言うことができます。そう考えれば、それぞれの感覚神経が、何故感覚に応じて一定の仕方で振動するように見えるのかということも理解できるでしょう。しかしこの点をはっきりさせるためには、感情的感覚の性質を明らかにする必要があります。こうしてわたしたちは、取り上げる予定だった第三の、そして最後の事実に導かれます。
(この段落は「特殊神経エネルギー説」に関する知識がないとよく理解できないのではないかと思います。「特殊神経エネルギー説」は簡単に言うと対象がなくとも神経の興奮のみによって感覚が生ずるという説なので、その点を批判しているのではないかと考えられます)
最後に取り上げるのは、わたしたちの知覚が、空間を占める表象的状態から、延長を持たないように見える感情的状態に少しずつ、わたしたちの気づかないうちに移行する、という事実です。ここから、感覚は本来ひろがりを持たないものであって、延長は後から付加されるものであるという思い込み、知覚のプロセスとは内的諸状態の外在化であるという思い込みが生まれます。実際、心理学者は自分の身体から出発します。そして身体の表面で受けた刺激だけで十分物質的宇宙の全体を再構成できるように思えるところから、彼はまず宇宙を自分の身体に還元します。しかしこの最初の立場を貫き通すことはできません。何故なら身体は他の物体以上のものでも以下のものでもないからです。そこで彼は更に一歩を進めて原則を徹底し、宇宙を身体の表面まで収縮させるだけにとどまらず、遂には身体そのものをひろがりを持たないと想定された一つの中心に凝縮します。一旦この中心が得られると、今度は逆にこの中心からひろがりのない感覚が生まれ、それが言わば膨張して徐々にひろがり、まず身体が、次いでそれ以外の物質的対象が延長を獲得するのだ、という風に彼は想像します。しかしこの奇妙な想像は、イマージュと観念との間に、言い換えるとひろがりを持つものとひろがりを持たないものとの間に、空間に場所を占めるとも占めないとも明言できない一連の中間的な状態、すなわち感情的状態が存在しなければ、こうも易々と人々に受け入れられることはなかったでしょう。わたしたちの悟性は、いつも陥っている錯覚にここでも陥り、事物はひろがりがあるかないかのどちらかだという二項対立を立てます。そして感情的状態は漠然としかひろがりを持たず、それが所在する場所を正確に指し示すことはできないことから、感情的状態は全くひろがりを持たない、と結論付けます。しかしそうなると、ひろがりのないものがひろがりを持つに至る過程や、またひろがりそのものも、ひろがりのない状態において獲得された特性、それがどんなものか知りようがない特性によって説明されることになり、知覚のプロセスは、内的でひろがりのない状態がひろがって外部に自らを投影するという、現実性の欠片もない夢物語に置き換えられることになります。以上の議論を、別の形で述べてみましょう。わたしたちの身体に及ぼされる対象の作用が増大すると、知覚はほとんどの場合、感情的感覚に変わり、とりわけ痛みに変わります。例えば尖端が肌に触れているピンを押す力を少しずつ強めていけば、その触感はいつしか刺すような痛みに変わります。逆に痛みが減っていくと、それは痛みの原因となっていたものの知覚と最終的に一致し、言わば外在化されて表象となります。こうしてみると感情的感覚と知覚との間には程度の違いがあるだけで、性質の違いはないように見えます。ところで感情的感覚は、わたしの人格と固く結ばれています。実際、痛みを感じている主体から切り離された痛みなどというものを考えることができるでしょうか。そこで、知覚についても事情は同じ筈であり、外的知覚は、無害になった(知覚でも痛みでもない)感情的感覚が空間に投影されることで構成されるのだ、という解釈が生まれます。実在論者も観念論者も、このように推理する点では一致しています。観念論者は、物質的宇宙とは主観的でひろがりのない(内的)状態の総合以外の何物でもないと考えます。実在論者はそれに付け加えて、この総合の背後にそれに対応する独立した実在が存在することを指摘します。しかし感情的感覚と表象との間に断絶が認められず、一方から他方に連続的、段階的に移行できる事実から、物質的宇宙の表象が相対的、主観的なものであると考える点ではどちらも同じです。そして両者はいずれも、わたしたちがまずそれらの表象から言わばわたしたち自身を引き出してきた事実を認めず、逆に表象がわたしたちから出てくる(生まれる)のだと結論します。
事実と異なるこのいかにも恣意的な解釈の誤りを指摘する前に、こうした解釈では痛みの本質や知覚の本質を説明することはできず、それらを理解する上でこの解釈は何の役にも立たないことを示して置きたいと思います。わたしの人格と分かち難く結ばれ、わたしが消滅すれば消滅する感情的状態が、ただ強度が減少しただけでひろがりを獲得し、空間内の特定の位置を占め、わたしを含めたすべての人に共通の安定した経験を形作るなどと言われても、誰も納得できる筈がありません。どんな形であれ、知覚される諸感覚にまずひろがりを、次にできれば認めたくなかった独立性を与えないわけにはいかないでしょう。さらに他方、この仮説では、感情的感覚も表象と同じように理解不能です。何故なら感情的感覚の強度を減じていくとどうして表象になるのかということがわからなければ、はじめに知覚として与えられた同じ現象が、強度を増していくとどうして感情的感覚になるのかもわかる筈がないからです。痛みには何かしら積極的なもの、能動的なものが含まれていますが、デカルトをはじめとする一部の哲学者のように、痛みとは混乱した表象であると考えても痛みのこの能動性を理解することはできません。しかし最大の問題はそこにはありません。刺激が徐々に増大していくと、知覚が最終的に痛みに変わるのは疑いようのない事実です。しかしこの変化が、或る特定の瞬間から生じるのもまた事実です。何故この瞬間であって、他の瞬間ではないのでしょうか。そしてまた、最初わたしが無関心な傍観者として立ち会っていた現象が、どんな特別な理由によって突然わたしの切実な関心事になるのでしょうか。この仮説では、こうした問題、つまり、同じ現象と目されているものが、強度を減じていくと何故特定の瞬間にひろがりと外見上の独立性を獲得するのかということも、また、強度を増していくと、何故他の瞬間ではなくこの瞬間に痛みという新たな特性、積極的作用の源泉となるものを生み出すのかということも理解できないのです。
ここでわたしたちの仮説に戻って、イマージュ(の全体)の中から、感情的感覚がどうして或る特定の瞬間にしか生じ得ないのかを示すことにしましょう。それによってわたしたちは、ひろがりを持つ知覚から、どのようにしてひろがりを持たないように見える感情的感覚に移行するのかも同時に理解することができるでしょう。しかしその前に、痛みの現実的な意味について若干の予備的考察をして置かなければなりません。
アメーバの突起(仮足)のいずれかに異物が触れると、この突起は収縮します。つまり原形質の塊であるアメーバはあらゆる部分において刺激を受け取ると同時に、これに反応することができる、と言えます。ここでは知覚と運動が、収縮性という唯一の特性の中で融合しています。しかし有機体が複雑化するにつれ、分業が発生して機能が分化し、その結果有機体を構成する解剖学的諸要素はその独立性を失っていきます。わたしたち人間のような有機体においては、いわゆる感覚神経線維は専ら刺激を中枢に伝える役割を担っており、中枢から刺激は運動神経へと伝えられます。このように考えると、感覚神経線維は前線の歩哨のように個々の活動を放棄し、身体全体の運動のために奉仕している、と言うことができます。ところで感覚神経線維の各々は、有機体そのものと同じように、有機体全体を損なう恐れのある原因に曝されています。そして有機体が危険を避けたり受けたダメージから回復するために運動する能力を持つのに対して、感覚神経は分業の一端を担っているため相対的に不動性を保たざるを得ません。この二つの要因によって痛みが生まれます。わたしたちの考えでは、痛みとは損傷を受けた神経要素がそれを修復しようとする努力――感覚神経における一種の動的傾向に他なりません。痛みの本質は努力、ただし効果のない無力な努力にあります。あらゆる痛みは局部的な努力であり、努力のこの孤立こそ無力さの原因です。何故なら有機体はその諸部分が緊密に連携しているがゆえに、最早全体によってしか効果を生むことができないからです。また痛みが生物の曝されている危険と全く釣り合わないのも、努力の局部性にその原因があります。致命的な危機に瀕しているにもかかわらず痛みが軽いこともあれば、痛みは耐え難いのに(例えば歯痛のように)危険は取るに足らない場合もあります。したがって痛みが生じる特定の瞬間があり、またその瞬間以外には痛みは生じ得ません。それは有機体のその部分が刺激を受け容れるのではなく、それを斥けるときです。知覚と感情的感覚との間にあるのは、したがって程度の違いではなく、性質の違いなのです。
わたしたちは生命体を一種の中心と考え、周囲の対象から生命体に及ぼされる作用が、その中心からそれらの対象に反射している、と考えました。この反射が外的知覚に他なりません。しかしこの中心は、数学における点ではありません。それは一つの物体であり、自然界のすべての物体と同様、それを破壊する恐れのある外的原因の作用に曝されています。そして先ほど述べた通り、生命体はそうした外的原因の作用に抵抗しています。生命体は、単に外部からの作用を反射するだけではありません。それは外部からの作用と戦い、戦うことによってその作用の或るものを吸収します。ここに感情的感覚の起源があります。したがって比喩的に言えば、知覚が外的原因の作用を反射する身体の能力を示す尺度だとすれば、感情的感覚は外的原因の作用を吸収する身体の能力を示す尺度だと言えるでしょう。
とは言えこれは飽くまで比喩に過ぎません。事実をもっと詳細に観察し、知覚そのものの存在から必然的に感情的感覚が生まれることを理解する必要があります。わたしたちの考えるところでは、知覚は事物に対するわたしたちの可能的行動を示す尺度であり、逆に言えば事物がわたしたちに及ぼし得る作用を示す尺度でもあります。身体の行動能力(神経組織の高度の複雑化によって象徴される行動能力)が増せば増すほど、知覚が及ぶ領域もひろがっていきます。それゆえ身体と知覚される対象との距離は、まさに危険がどこまで迫っているか、予期した結果が得られるのはいつかということを示す尺度だと言えます。それゆえにまた、わたしたちの身体と区別される対象、身体と或る一定の距離によって隔てられている対象の知覚は、単なる可能的な行動以外の何物でもない、と言うこともできます。しかしこの対象とわたしたちの身体との距離が縮まれば縮まるほど、言い換えれば危険や予期したことが間近に迫れば迫るほど、可能的行動は現実的行動へと近づいていきます。両者の距離が限界まで縮まり、それがゼロになったとしましょう。すなわち、知覚される対象とわたしたちの身体とが一致し、身体そのものが知覚の対象になったとしましょう。その場合、この全く特殊な知覚が表しているのは最早可能的行動ではなく、現実の行動です。この現実の行動において経験されているものこそまさに感情的感覚なのです。したがってわたしたちの感情的感覚と知覚との関係は、わたしたちの身体の現実的行動と、可能的あるいは潜在的行動との関係に等しい、と言えます。身体の可能的行動は身体以外の対象に関係し、それらの対象のうちに現れます。身体の現実的行動は身体そのものに関係し、わたしたちの身体そのもののうちに現れます。つまり現実的作用がその作用点(身体)に回帰し、潜在的作用がその出発点(対象)に回帰することによって、外的イマージュは身体によって周囲の空間に反射され、現実的作用は身体によって身体の内部に留められます。だからこそわたしたちの身体の表面、すなわち内部と外部との共通の境界は、知覚されると同時に感じられる唯一の延長部分なのです。
つまり一言で言えば、知覚はわたしの身体の外にあり、逆に感情的感覚はわたしの身体の内にある、ということです。外界の対象はそれらが存在している場所、すなわちわたしのうちにおいてではなく、対象のうちにおいて知覚されるのと同様、感情的感覚もそれが生じる場所、すなわちわたしの身体の特定の場所において感知されます。物質的世界と呼ばれるイマージュの体系を思い浮かべてみましょう。わたしの身体は、それらのイマージュの一つです。この身体のイマージュの周囲に、表象、すなわち身体が他のイマージュに及ぼし得る作用が配列されます。身体のイマージュの内部には感情的感覚、すなわち身体が身体自身に及ぼす現実的努力が生じます。イマージュと感覚との間に、わたしたち各自が自然に、そして自発的に設けている区別とはまさにこのようなものです。イマージュがわたしたちの外にあると言うとき、そのイマージュはわたしたちの身体の外部にあるという意味が言外に含まれています。感覚が内的な状態と看做される時、暗黙のうちに、感覚はわたしたちの身体の内部に生じると解されています。わたしたちの身体が消滅しても知覚されるイマージュの総体は存続するのに対して、身体が消滅すれば必然的に感覚も消滅すると断言できるのはまさにこのためです。
(つづく)