画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(48)

2014-12-08 | 雑談
それらの事実の代表的な例としてまず取り上げたいのは、わたしたちは感覚機能を(経験によって徐々に)学ばなければならない、という事実です。視覚にしろ、触覚にしろ、最初からその印象を正しくそれが所在する場所と関連付けることはわたしたちにはできません。それらの印象は一連の比較や類推を経て、少しずつ相互に関連付けられていくのです。人々はこの事実から、感覚というものは本来ひろがりを持たず、それらを相互に並置することによって延長が構成されるのだという結論に飛び移ります。それはひとまず措き、わたしたちが立脚している仮説においても、感覚機能が完成されるためには――(最初の仮説のように)感覚を事物と一致させるためではなく、様々な感覚同士を相互に一致させるために――訓練が必要であることは、考えればすぐにわかるのではないでしょうか。わたしたちの仮説においては、あらゆるイマージュの中心にわたしの身体というイマージュがあり、身体の行い得る行動が、周囲のイマージュのそれ自身への見かけ上の反射として示されます。身体の行い得る行動の種類がいくつもあれば、その数だけ、周囲の物体に対する異なった反射の体系が存在することになるでしょう。この反射の体系の各々が、わたしの感覚機能の一つに対応しています。したがってわたしの身体は、他のイマージュに対して、どんな行動を起こし得るかという観点からそれらのイマージュを分析しつつ、それらを反射している一個のイマージュであると言えます。またしたがって、異なった感覚機能が同一の対象の中に知覚している性質の一つ一つが、わたしの行動能力の或る一つの方向、或る一つの欲求を象徴しています。ところで、或る一つの物体をそれぞれ異なった様々な感覚機能によって知覚するとき、その知覚のすべてを合わせると、この物体の完全なイマージュが得られるでしょうか。答えは恐らく否です。何故ならそれらの知覚は、全体の中から拾い集められたものに過ぎないからです。あらゆる物体のあらゆる点からの作用をすべて知覚するということは、取りも直さず、物的対象の状態に堕するということでしょう。(それに対して)意識的に知覚するとは選択することであり、意識とは何よりもまず現実的なこの分離作用を意味します。それゆえ異なった感覚機能によって捉えられた同一の対象の様々な知覚を寄せ集めても、その対象の完全なイマージュを再構成することはできません。それらの知覚は、言わば、わたしの様々な欲求間の隙間に相当する隔たりによって相互に分離されています。そして感覚機能の訓練が必要なのは、まさにこの隔たりを埋めるためです。この訓練の目的は、わたしの様々な感覚機能を相互に調整し、身体の欲求の非連続性そのものによって分断されているそれらの感覚の所与の間に連続性を取り戻すこと、つまり物的対象の全体を近似的に再構成することにあります。感覚機能の訓練の必要性は、わたしたちの仮説においては以上のように説明することができます。この説明を、最初に述べた仮説における説明と比較してみましょう。第一の仮説では、視覚によるひろがりのない感覚が、触覚その他のひろがりのない感覚と合成され、その総合によって或る物的対象の観念が生まれる、とされます。しかしまず、それらの感覚がどのようにしてひろがりを獲得するのか、また特に、一歩譲ってひろがりを獲得することができたとしても、実際にどのようにしてそれらの感覚の一つが選ばれ、空間内の或る一つの点と結び付くのか理解できません。さらに、どんな偶然の一致や予定調和に恵まれれば、種類の異なるこれらの感覚が一つにまとまることができるのか、言い換えると、わたしだけでなくすべての人に共通のものとして経験され、また他の物体に対しては自然法則と呼ばれる不変の法則に従っている安定した堅固な外観を持つ対象がどのようにして形作られるのか、という疑問も残ります。一方、第二の仮説、わたしたちの仮説では、「わたしたちの様々な感覚の所与」はわたしたちのうちにおいてではなく、事物そのもののうちにおいて知覚されている事物の性質です。それらの性質は単に抽象によって分離されているに過ぎないのですから、それらが再度結び付いたとしても驚く必要があるでしょうか。――第一の仮説では、物的対象はわたしたちが表面的に知覚しているものとは異なる実在であると考えられています。この仮説では一方に感覚的性質を伴う意識という原理が置かれ、他方に物質が置かれますが、物質そのものについてわたしたちは何も知ることができず、物質がわたしたちに提示しているものを物質自体から最初にすべて剥ぎ取ってしまったために、否定によってしかそれを定義することができません。(一方)第二の仮説では、物質の認識を限りなく深めていくことが可能です。知覚されているものを物質から剥ぎ取る代わりに、あらゆる感覚的性質を接近させ、それらの親近性を再発見し、わたしたちの欲求が分断することで失われた連続性を、それら相互の間に再度取り戻すことができるに違いありません。そのときわたしたちの持つ物質の知覚は、少なくとも原理上、そしてこの後取り上げる感情的感覚や、とりわけ記憶を除外して考えれば、最早相対的なものでも主観的なものでもない、ということになります。それはただ、わたしたちの多くの欲求によって分断されているに過ぎないのです。――第一の仮説では、物質と同じように精神もまた認識不能です。何故なら精神には、様々な感覚を呼び起こし、これを空間に投影して、物体を形成する不可思議な能力が与えられているのですが、どこから感覚を呼び起こし、どのようにそれを空間に投影するのかは誰にもわからないからです。第二の仮説では、意識の役割は極めて明瞭です。意識とはわたしたちの行い得る行動、可能的行動を意味します。この第二の仮説に照らして、精神が獲得した諸形式、意識の本質をわたしたちの目から覆い隠している諸形式を取り除かなければならないでしょう。このように、わたしたちの観点に立てば、精神を物質からより明確に区別し得る可能性と、両者を接近させ得る可能性とが、微かながら同時に見えてきます。しかし感覚機能の訓練の必要性について述べるのはこれくらいにして、次の事実に移りましょう。

次に取り上げたいのは、以前から「特殊神経エネルギー説」と呼ばれてきたものに関する事実です。周知のように、視神経に外部から衝撃を加えるなり電流を流すなりして刺激を与えると何らかの視覚を生じ、同じように聴神経や舌咽神経に電流を流すと音が聞こえたり味が感じられたりします。この特殊な事例から、(ドイツの生理学者、ミュラーによって)次のような極めて一般的な二つの法則が導き出されました。一つは、異なった原因でも同じ神経に作用すれば同じ感覚を生じる、ということであり、もう一つは、同じ原因でも異なった神経に作用すれば異なった感覚を生じる、ということです(つまり、刺激の如何にかかわらず「それぞれの神経はそれぞれに特有のエネルギーを有している」(竹内訳の訳注)、感覚は刺激によって生じるのではなく、神経の興奮によって生ずる、ということです)。そしてこの二つの法則そのものから、さらに、わたしたちの感覚は単なる信号に過ぎず、それぞれの感覚器官の役割は、空間における等質的で機械的な運動をその感覚に固有の言語に翻訳することにある、という推測がなされます。そして最後に、わたしたちの知覚を、最早結合しようにも結合しようのない二つの異なった要素、すなわち空間における等質的運動と、意識におけるひろがりのない感覚という二つの要素に分解しようとする傾向が生まれてきます。この二つの法則の解釈を巡って議論されている生理学上の問題を、ここで論じるつもりはありません。この法則をどのように解釈するにせよ、つまり、個々の神経に特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、中枢にのみ特殊エネルギーが備わっていると考えるにせよ、解決困難な問題に直面することに変わりはありません。しかし解釈以前に、わたしたちとしてはこの二つの法則そのものに疑問を抱かざるを得ないのです。既にロッツェは、この法則に疑義を呈していました。それが真実であるためには、「音波が目に光の感覚を生じさせ、光の振動が耳に音を聞こえさせる」ことが必要である、と彼は述べています。この(特殊神経エネルギーという)仮説で例に挙げられている事実は、実際にはすべてただ一つのタイプに帰着するように思われます。すなわち、異なった感覚を生じさせる同一の刺激も、同じ感覚を生じさせる様々な刺激も、電流であるか、感覚器官内の電気的平衡を変化させる機械的作用なのです。ここでわたしたちは、こう問うことができます。電気的刺激には、種類の異なる様々な感覚に客観的に反応する多様な成分が含まれているのではないか、そして、それぞれの感覚器官の役割は、自分に関係のある成分を単に全体から抽出することにあるのではないか、と。そうだとすれば、同じ感覚を生むのは同じ刺激であり、異なった感覚を引き起こすのは異なった刺激だということになります。具体的に言えば、例えば舌が帯電すると、それと同時に舌に化学的変化が生じない筈がありません。そしてわたしたちが一般に味と呼んでいるのは、まさにこの化学変化なのです。また例えば、物理学者が光を電磁気的撹乱の一つに数えるとすれば、逆に電磁気的撹乱と呼ばれているものは光であると言うことができます。それゆえ視神経が帯電した際に客観的に知覚しているのは、まさに光だということになるでしょう。特殊神経エネルギー説が最もよく当て嵌まるのは、他のどの感覚にも増して聴覚であるように思われます。しかし聴覚においてほど知覚された事物が実際に存在するように感じられる感覚は他にないのもまた事実です。この点については最近刊行された著書の中で詳細な検討と解説が加えられているので、これ以上詳しく述べるのは差し控えます。ただここで問題になっている感覚は、わたしたちが自分の身体の外部に知覚しているイマージュではなく、身体そのものに場所を占める感情的感覚であるという点を指摘して置きたいと思います。ところでこの後述べるように、わたしたちの身体の性質と目的に鑑みて、わたしたちの身体のいわゆる感覚的要素は、身体が通常知覚している外界の対象に対して、それぞれ固有の現実的作用(この後出てくる痛みに関する記述を参照)を有しており、これは身体の可能的行動と同じ種類のものであると言うことができます。そう考えれば、それぞれの感覚神経が、何故感覚に応じて一定の仕方で振動するように見えるのかということも理解できるでしょう。しかしこの点をはっきりさせるためには、感情的感覚の性質を明らかにする必要があります。こうしてわたしたちは、取り上げる予定だった第三の、そして最後の事実に導かれます。
(この段落は「特殊神経エネルギー説」に関する知識がないとよく理解できないのではないかと思います。「特殊神経エネルギー説」は簡単に言うと対象がなくとも神経の興奮のみによって感覚が生ずるという説なので、その点を批判しているのではないかと考えられます)

最後に取り上げるのは、わたしたちの知覚が、空間を占める表象的状態から、延長を持たないように見える感情的状態に少しずつ、わたしたちの気づかないうちに移行する、という事実です。ここから、感覚は本来ひろがりを持たないものであって、延長は後から付加されるものであるという思い込み、知覚のプロセスとは内的諸状態の外在化であるという思い込みが生まれます。実際、心理学者は自分の身体から出発します。そして身体の表面で受けた刺激だけで十分物質的宇宙の全体を再構成できるように思えるところから、彼はまず宇宙を自分の身体に還元します。しかしこの最初の立場を貫き通すことはできません。何故なら身体は他の物体以上のものでも以下のものでもないからです。そこで彼は更に一歩を進めて原則を徹底し、宇宙を身体の表面まで収縮させるだけにとどまらず、遂には身体そのものをひろがりを持たないと想定された一つの中心に凝縮します。一旦この中心が得られると、今度は逆にこの中心からひろがりのない感覚が生まれ、それが言わば膨張して徐々にひろがり、まず身体が、次いでそれ以外の物質的対象が延長を獲得するのだ、という風に彼は想像します。しかしこの奇妙な想像は、イマージュと観念との間に、言い換えるとひろがりを持つものとひろがりを持たないものとの間に、空間に場所を占めるとも占めないとも明言できない一連の中間的な状態、すなわち感情的状態が存在しなければ、こうも易々と人々に受け入れられることはなかったでしょう。わたしたちの悟性は、いつも陥っている錯覚にここでも陥り、事物はひろがりがあるかないかのどちらかだという二項対立を立てます。そして感情的状態は漠然としかひろがりを持たず、それが所在する場所を正確に指し示すことはできないことから、感情的状態は全くひろがりを持たない、と結論付けます。しかしそうなると、ひろがりのないものがひろがりを持つに至る過程や、またひろがりそのものも、ひろがりのない状態において獲得された特性、それがどんなものか知りようがない特性によって説明されることになり、知覚のプロセスは、内的でひろがりのない状態がひろがって外部に自らを投影するという、現実性の欠片もない夢物語に置き換えられることになります。以上の議論を、別の形で述べてみましょう。わたしたちの身体に及ぼされる対象の作用が増大すると、知覚はほとんどの場合、感情的感覚に変わり、とりわけ痛みに変わります。例えば尖端が肌に触れているピンを押す力を少しずつ強めていけば、その触感はいつしか刺すような痛みに変わります。逆に痛みが減っていくと、それは痛みの原因となっていたものの知覚と最終的に一致し、言わば外在化されて表象となります。こうしてみると感情的感覚と知覚との間には程度の違いがあるだけで、性質の違いはないように見えます。ところで感情的感覚は、わたしの人格と固く結ばれています。実際、痛みを感じている主体から切り離された痛みなどというものを考えることができるでしょうか。そこで、知覚についても事情は同じ筈であり、外的知覚は、無害になった(知覚でも痛みでもない)感情的感覚が空間に投影されることで構成されるのだ、という解釈が生まれます。実在論者も観念論者も、このように推理する点では一致しています。観念論者は、物質的宇宙とは主観的でひろがりのない(内的)状態の総合以外の何物でもないと考えます。実在論者はそれに付け加えて、この総合の背後にそれに対応する独立した実在が存在することを指摘します。しかし感情的感覚と表象との間に断絶が認められず、一方から他方に連続的、段階的に移行できる事実から、物質的宇宙の表象が相対的、主観的なものであると考える点ではどちらも同じです。そして両者はいずれも、わたしたちがまずそれらの表象から言わばわたしたち自身を引き出してきた事実を認めず、逆に表象がわたしたちから出てくる(生まれる)のだと結論します。

事実と異なるこのいかにも恣意的な解釈の誤りを指摘する前に、こうした解釈では痛みの本質や知覚の本質を説明することはできず、それらを理解する上でこの解釈は何の役にも立たないことを示して置きたいと思います。わたしの人格と分かち難く結ばれ、わたしが消滅すれば消滅する感情的状態が、ただ強度が減少しただけでひろがりを獲得し、空間内の特定の位置を占め、わたしを含めたすべての人に共通の安定した経験を形作るなどと言われても、誰も納得できる筈がありません。どんな形であれ、知覚される諸感覚にまずひろがりを、次にできれば認めたくなかった独立性を与えないわけにはいかないでしょう。さらに他方、この仮説では、感情的感覚も表象と同じように理解不能です。何故なら感情的感覚の強度を減じていくとどうして表象になるのかということがわからなければ、はじめに知覚として与えられた同じ現象が、強度を増していくとどうして感情的感覚になるのかもわかる筈がないからです。痛みには何かしら積極的なもの、能動的なものが含まれていますが、デカルトをはじめとする一部の哲学者のように、痛みとは混乱した表象であると考えても痛みのこの能動性を理解することはできません。しかし最大の問題はそこにはありません。刺激が徐々に増大していくと、知覚が最終的に痛みに変わるのは疑いようのない事実です。しかしこの変化が、或る特定の瞬間から生じるのもまた事実です。何故この瞬間であって、他の瞬間ではないのでしょうか。そしてまた、最初わたしが無関心な傍観者として立ち会っていた現象が、どんな特別な理由によって突然わたしの切実な関心事になるのでしょうか。この仮説では、こうした問題、つまり、同じ現象と目されているものが、強度を減じていくと何故特定の瞬間にひろがりと外見上の独立性を獲得するのかということも、また、強度を増していくと、何故他の瞬間ではなくこの瞬間に痛みという新たな特性、積極的作用の源泉となるものを生み出すのかということも理解できないのです。

ここでわたしたちの仮説に戻って、イマージュ(の全体)の中から、感情的感覚がどうして或る特定の瞬間にしか生じ得ないのかを示すことにしましょう。それによってわたしたちは、ひろがりを持つ知覚から、どのようにしてひろがりを持たないように見える感情的感覚に移行するのかも同時に理解することができるでしょう。しかしその前に、痛みの現実的な意味について若干の予備的考察をして置かなければなりません。

アメーバの突起(仮足)のいずれかに異物が触れると、この突起は収縮します。つまり原形質の塊であるアメーバはあらゆる部分において刺激を受け取ると同時に、これに反応することができる、と言えます。ここでは知覚と運動が、収縮性という唯一の特性の中で融合しています。しかし有機体が複雑化するにつれ、分業が発生して機能が分化し、その結果有機体を構成する解剖学的諸要素はその独立性を失っていきます。わたしたち人間のような有機体においては、いわゆる感覚神経線維は専ら刺激を中枢に伝える役割を担っており、中枢から刺激は運動神経へと伝えられます。このように考えると、感覚神経線維は前線の歩哨のように個々の活動を放棄し、身体全体の運動のために奉仕している、と言うことができます。ところで感覚神経線維の各々は、有機体そのものと同じように、有機体全体を損なう恐れのある原因に曝されています。そして有機体が危険を避けたり受けたダメージから回復するために運動する能力を持つのに対して、感覚神経は分業の一端を担っているため相対的に不動性を保たざるを得ません。この二つの要因によって痛みが生まれます。わたしたちの考えでは、痛みとは損傷を受けた神経要素がそれを修復しようとする努力――感覚神経における一種の動的傾向に他なりません。痛みの本質は努力、ただし効果のない無力な努力にあります。あらゆる痛みは局部的な努力であり、努力のこの孤立こそ無力さの原因です。何故なら有機体はその諸部分が緊密に連携しているがゆえに、最早全体によってしか効果を生むことができないからです。また痛みが生物の曝されている危険と全く釣り合わないのも、努力の局部性にその原因があります。致命的な危機に瀕しているにもかかわらず痛みが軽いこともあれば、痛みは耐え難いのに(例えば歯痛のように)危険は取るに足らない場合もあります。したがって痛みが生じる特定の瞬間があり、またその瞬間以外には痛みは生じ得ません。それは有機体のその部分が刺激を受け容れるのではなく、それを斥けるときです。知覚と感情的感覚との間にあるのは、したがって程度の違いではなく、性質の違いなのです。

わたしたちは生命体を一種の中心と考え、周囲の対象から生命体に及ぼされる作用が、その中心からそれらの対象に反射している、と考えました。この反射が外的知覚に他なりません。しかしこの中心は、数学における点ではありません。それは一つの物体であり、自然界のすべての物体と同様、それを破壊する恐れのある外的原因の作用に曝されています。そして先ほど述べた通り、生命体はそうした外的原因の作用に抵抗しています。生命体は、単に外部からの作用を反射するだけではありません。それは外部からの作用と戦い、戦うことによってその作用の或るものを吸収します。ここに感情的感覚の起源があります。したがって比喩的に言えば、知覚が外的原因の作用を反射する身体の能力を示す尺度だとすれば、感情的感覚は外的原因の作用を吸収する身体の能力を示す尺度だと言えるでしょう。

とは言えこれは飽くまで比喩に過ぎません。事実をもっと詳細に観察し、知覚そのものの存在から必然的に感情的感覚が生まれることを理解する必要があります。わたしたちの考えるところでは、知覚は事物に対するわたしたちの可能的行動を示す尺度であり、逆に言えば事物がわたしたちに及ぼし得る作用を示す尺度でもあります。身体の行動能力(神経組織の高度の複雑化によって象徴される行動能力)が増せば増すほど、知覚が及ぶ領域もひろがっていきます。それゆえ身体と知覚される対象との距離は、まさに危険がどこまで迫っているか、予期した結果が得られるのはいつかということを示す尺度だと言えます。それゆえにまた、わたしたちの身体と区別される対象、身体と或る一定の距離によって隔てられている対象の知覚は、単なる可能的な行動以外の何物でもない、と言うこともできます。しかしこの対象とわたしたちの身体との距離が縮まれば縮まるほど、言い換えれば危険や予期したことが間近に迫れば迫るほど、可能的行動は現実的行動へと近づいていきます。両者の距離が限界まで縮まり、それがゼロになったとしましょう。すなわち、知覚される対象とわたしたちの身体とが一致し、身体そのものが知覚の対象になったとしましょう。その場合、この全く特殊な知覚が表しているのは最早可能的行動ではなく、現実の行動です。この現実の行動において経験されているものこそまさに感情的感覚なのです。したがってわたしたちの感情的感覚と知覚との関係は、わたしたちの身体の現実的行動と、可能的あるいは潜在的行動との関係に等しい、と言えます。身体の可能的行動は身体以外の対象に関係し、それらの対象のうちに現れます。身体の現実的行動は身体そのものに関係し、わたしたちの身体そのもののうちに現れます。つまり現実的作用がその作用点(身体)に回帰し、潜在的作用がその出発点(対象)に回帰することによって、外的イマージュは身体によって周囲の空間に反射され、現実的作用は身体によって身体の内部に留められます。だからこそわたしたちの身体の表面、すなわち内部と外部との共通の境界は、知覚されると同時に感じられる唯一の延長部分なのです。

つまり一言で言えば、知覚はわたしの身体の外にあり、逆に感情的感覚はわたしの身体の内にある、ということです。外界の対象はそれらが存在している場所、すなわちわたしのうちにおいてではなく、対象のうちにおいて知覚されるのと同様、感情的感覚もそれが生じる場所、すなわちわたしの身体の特定の場所において感知されます。物質的世界と呼ばれるイマージュの体系を思い浮かべてみましょう。わたしの身体は、それらのイマージュの一つです。この身体のイマージュの周囲に、表象、すなわち身体が他のイマージュに及ぼし得る作用が配列されます。身体のイマージュの内部には感情的感覚、すなわち身体が身体自身に及ぼす現実的努力が生じます。イマージュと感覚との間に、わたしたち各自が自然に、そして自発的に設けている区別とはまさにこのようなものです。イマージュがわたしたちの外にあると言うとき、そのイマージュはわたしたちの身体の外部にあるという意味が言外に含まれています。感覚が内的な状態と看做される時、暗黙のうちに、感覚はわたしたちの身体の内部に生じると解されています。わたしたちの身体が消滅しても知覚されるイマージュの総体は存続するのに対して、身体が消滅すれば必然的に感覚も消滅すると断言できるのはまさにこのためです。

(つづく)

「ジェノサイド」(47)

2014-12-08 | 雑談
意識を演繹する、というのであればそれは余りにも無謀な企てでしょうが、ここではその必要は全くありません。物質界を措定すると、(自動的に)イマージュの総体が、しかもただイマージュの総体だけが与えられます。どんな物質理論もこの点を認めないわけにはいきません。物質を運動する原子に還元するとしましょう。それらの原子は、仮に物理的性質を持たないとしても、あり得べき視覚や触覚、つまり、それが現実的には目に見えない視覚であろうが、物理的感触のない触覚であろうが、何らかの可能的な視覚や触覚と関係付けることなしにそれを規定することはできません。また原子を(ファラデーのように)力の中心と看做すにせよ、(トムソンのように)連続的流体(エーテル)の中の渦運動と看做すにせよ、この流体、この渦運動、この力の中心もまた、それが感触のない触覚であろうが、衝突のない衝撃であろうが、色彩のない光であろうが、やはり可能的な触覚や衝撃や光と関係付けることなしに規定することはできません。そしてこれらの感触なき触覚、衝突なき衝撃、色彩なき光もイマージュであることに変わりはないのです。実際、イマージュは知覚されなくても存在することが可能です。あるいは表象(意識)されなくても現前することが可能です。現前と表象というこの二つの言葉の隔たりは、物質そのものと、物質についてわたしたちが持つ意識的知覚との隔たりをそのまま表している、と言ってよいように思われます。しかし性急に結論を出す前に、この点をもう少し詳細に検討して、両者の違いがどこにあるかを正確に見極めましょう。仮に、現前するものよりも表象の方がより多くのものを含んでいるとすれば、すなわち、現前するものから表象へ移行するために何かを付け加えなければならないとすれば、両者の隔たりを埋めるのは不可能であり、物質から表象への移行は謎に包まれたまま永遠にその秘密を解き明かすことはできないでしょう。逆に、現前するものから表象へ減少によって移行することができるとすれば、言い換えると、あるイマージュの表象が、現前するそのイマージュよりも少ないものであるとすれば、事情は異なってきます。何故ならその場合、現前するイマージュはその一部を捨てるだけで、そのイマージュの表象に変わることができるだろうからです。例えばここに、わたしが物質的対象と呼ぶイマージュがあるとします。わたしはそれを表象しています。そのイマージュは、何故、それ自体としてはわたしに見えている通りに存在しているとは思えない(わたしが見ている以上のものを含んでいるように思える)のでしょうか。それは、そのイマージュが他のすべてのイマージュと密接に結び付いており、それに先行するイマージュと関係を結んでいるのと同時に、それに後続するイマージュとも関係を結んでいるからです。このイマージュの存在そのものを表象に変えるためには、それに後続するものや先行するもの、そしてそれが内に含んでいるものを一挙に消去し、その外殻だけを、あるいは表皮だけを残すようにすればよいでしょう。現前するイマージュ、客観的実在としてのイマージュにおいては、イマージュのあらゆる点が例外なく他のイマージュのすべての点に作用しており、そのイマージュのどの点も受け取った作用のすべてを例外なく他のイマージュに伝達し、受け取った作用に例外なく反作用を返しています。つまり現前するイマージュは、広大無辺な宇宙においてあらゆる方向に伝播される変化の通路であり、必然的法則の一環をなしています。まさにこの点にこそ、現前するイマージュと表象されるイマージュとの違いがあります。もしこのイマージュを孤立させることができれば、特に、その外皮をそれ以外のものから分離することができれば、わたしたちはこのイマージュを表象に変えることができるでしょう。表象は常にわたしたちの前にあります。ただしそれはあらゆる瞬間、現実のものになろうとする度に他の事物と混じり合って中和され、自己を失わざるを得ないという必然性によって常に潜在的な状態にとどまっているのです。現前するものから表象への転換を実現するために必要なことは、対象を照らし出すことではなく、逆に対象のいくつかの側面を暗くし、対象そのものの大部分を切り捨て、残りの部分が周囲に埋没して事物と化してしまうのを防ぐこと、周囲からそれを絵画のように浮き出させることです。ところで生物が宇宙における「非決定性の中心」を形成し、この非決定性の度合いはその生物の有する諸機能の数的、質的増大に比例しているとすれば、生物の存在そのものによって、対象から、生物の有する諸機能と関係を持たない部分がすべて自動的に除去されている、と考えることができます。生物は、外界から受ける作用のうち、自分と利害関係のない作用は素通りさせ、それ以外の作用を全体から分離する(濾し取る)ことで「知覚」に変えるのです。このときわたしたちの目には、あたかも、対象の表面から発する光、通常であれば無限に伝播するだけで決して目にすることがなかったであろう光を、わたしたち自身が対象の表面に反射しているように見えるに違いありません。わたしたちを取り巻いているイマージュは、今やはっきりと、身体と利害関係のある面をわたしたちの方に向け、それらのイマージュの内容のうち、それらから発する光をわたしたちが途中で遮った部分、わたしたちが働きかけ得る部分を浮き出させています。通常、これらのイマージュは純粋に機械的な法則によって結び付けられているがゆえに、お互いに関心を持つことはなく、お互いにすべての面を同時に見せ合っています。つまり、それらのイマージュはそのすべての要素の間で相互に作用し反作用しています。このため、どのイマージュも意識的に知覚されることもなければ、いずれかのイマージュを自ら意識的に知覚することもありません。それに対して、仮にそれらのイマージュの作用がどこかで自発的な反作用にぶつかるとすれば、その作用は反作用の持つ自発性の分だけ弱められます。作用のこの減少分こそ、まさにわたしたちがそれらについて持つ表象に相当する部分に他なりません。したがってわたしたちが事物について持つ表象は、それらの事物がわたしたちの自由にぶつかって反射することから生まれる、と結論することができます。

光線が或る媒質から別の媒質に移るとき、一般に進行方向を変えてその境界面を通過します。しかし二つの媒質のそれぞれの密度によっては、或る(一定以上の)入射角に対して最早屈折が生じない場合があります。そういう場合に起きるのが全反射です。このとき形作られる光源の虚像は、言わば、光線がそれ以上先へは進めないことを象徴しています。知覚はこれと同じ種類の現象です。(先ほど述べたように)わたしたちに今与えられているのは、物質界のイマージュの全体であり、その内的要素の全体です。もしこのイマージュの全体の中に、真の活動、すなわち自発的活動の中心が存在すると仮定すれば、その活動と利害関係のある光線がこの中心に達した場合、そこを通過することができず、後戻りして光を発している対象の輪郭を描き出すように見えるでしょう。そこには積極的なもの、イマージュに付け加わるもの、新たに創り出されるものは何もありません。対象は現実の作用の一部を捨て、その潜在的作用、正確に言えば生物がその対象に及ぼし得る影響力を描き出しているに過ぎません。このように、知覚は屈折が妨げられたときに生じる全反射という現象によく似ています。それは一種の蜃気楼のような現象だと言うことができるでしょう。
(もっとも知覚の発生には入射角などの条件は必要ないでしょうから、その点では全反射とは同じではありません)

以上のことからわかるのは、イマージュにとって、存在することと意識的に知覚されることとの間には単なる程度の違いしかなく、両者は性質の異なるものではない、ということです。物質の実在性は、その諸要素の全体と、それら諸要素間の様々な作用の全体から成っています。(一方)物質についてわたしたちが持つ表象は、物体に対するわたしたちの行動能力を示す尺度であり、わたしたちの諸々の欲求、より一般化して言えば、わたしたちの有する機能と利害関係を持たないものを除去することによって生まれます。意識を持たない任意の物質点が一瞬の間に持つ知覚は、或る意味で、わたしたちがその一瞬の間に持つ知覚よりも限りなく広大で、限りなく完全である、とも言えます。何故ならその物質点は物質界のすべての物質点の作用を受け取り、かつ伝えるのに対して、わたしたちの意識はそのうちの或る部分の、或る側面にしか達することができないからです。意識とは――外的知覚に関する限り――まさにこうした選択そのものを意味しています。それゆえ意識は、物質点の持つ知覚よりも必然的に貧しいものたらざるを得ません。しかしこの貧しさの中には、既に何か積極的なもの、精神の到来を予告するものがあります。それはdiscernement(分別・識別・見識など)という言葉の語源的意味、分離する、という働きです。

今扱っている問題の難しさは、ひとえに、わたしたちが知覚を事物の写真のようなものと看做し、その写真は例えば知覚器官のような特殊な装置によって特定の場所から撮影されたのち、脳の中で、まだ知られていない何らかの化学的な、もしくは心理的な処理を経て現像されるのだ、という風に考えてしまうところから来ています。しかしもしそういう写真が存在することを認めるのであれば、(脳の中だけに限らず)既に事物そのもののうちで、空間内のあらゆる点が撮影され、現像されている筈であることをどうして同じように認めないのでしょうか。どんな形而上学も、あるいはどんな物理学も、そういう結論に行き着かざるを得ない筈です。宇宙は原子で構成されているとしましょう。原子の各々には、物質を構成するすべての原子から、原子間の距離に応じて質と量が変化する作用が及ぼされています。次に、宇宙は力の中心で構成されていると仮定した場合はどうでしょうか。すべての力の中心からあらゆる方向に発せられる力線は、それぞれの力の中心に物質界全体の作用を及ぼしています。最後に、宇宙はモナドで構成されていると仮定した場合はどうでしょうか。ライプニッツによれば、モナドとはそれぞれがすべてのモナドを映し出す鏡です。したがってどんな物質理論も、宇宙のあらゆる構成要素は他のすべての構成要素の作用を受けている、それぞれの構成要素は相互に作用し合っていると考える点で一致しています。ただ、(非決定性の中心ならぬ)宇宙の任意の場所においては、物質界全体の作用はそこを抵抗なく、また何も失うことなく通過するだけなので、宇宙全体の写真はそこでは透明であるというに過ぎません。乾板の背後に置かれ、像を浮き出させる黒のスクリーンが欠けているのです。わたしたちの言う「非決定の領域」は、言わば、このスクリーンの役割を果たしています。それは存在するものに何も付け加えません。ただ現実の作用を通過させ、潜在的作用をそこに留めるに過ぎません。

今述べたことは仮説ではありません。わたしたちは、どんな知覚理論も受け入れざるを得ない与件を述べたまでです。実際、どんな心理学者であれ、少なくとも物質的世界の存在を措定しない限り、ということはつまり、すべての事物の可能的知覚を措定しない限り、外的知覚の研究に着手することはできません。彼らはこの単なる可能的知覚としての物質の総体から、わたしの身体という特別な対象を分離し、身体から知覚中枢を分離します。そして空間内の任意の点から伝えられる振動が、神経を通ってこの知覚中枢に達することを示します。ところがここで、舞台が一転します。身体を取り巻いている物質界や、脳を包んでいる身体、諸中枢が各部に割り当てられている脳、これらのものが突如舞台から消され、代わりに最初に措定された物質的世界の表象が、魔法の杖を一振りしたかのようにいきなりその場に出現させられるのです。この表象は空間の外に押し出され、そのため、最初の出発点であった物質と共通のものは何も持っていません。物質そのものについて言えば、彼らはできればその実在性を認めたくないところでしょうが、そういうわけにはいきません。何故なら物質現象は相互に極めて厳格な、観測者の位置に左右されない法則に従っており、この規則性と不変性が、紛れもなくわたしたちから独立した実在を構成しているからです。それゆえ、不本意ながら物質の幻影くらいは残して置かないわけにはいかないとしても、少なくとも物質に生気を与えている諸々の性質を、彼らは物質からすべて剥ぎ取ってしまうでしょう。彼らは生彩の失われた空間から運動する様々な図形を切り取り、あるいは(ほとんど同じことですが)それらの図形の間に固定的な量的関係や、内容を展開しつつ変化する関数を想定するでしょう(下記参照)。その一方、物質から奪ったもので膨れ上がった表象は、ひろがりを持たない意識の中で好きなように振る舞うことができます。とは言うものの、物質から性質を剥ぎ取ったままで済ますわけにはいきません。それらを再度縫い合わせる必要があります。つまり、彼らが物質的基体から剥ぎ取った性質が、どのようにしてその物質的基体と結び付くのかを今度は説明しなければならないのです。彼らが物質からその属性を剥ぎ取る度毎に、表象とその対象との隔たりはどんどん広がっていきます。この物質が非延長的なもの(物質点)であると言うなら、どのようにしてそれはひろがりを獲得するのでしょうか。あるいは物質を等質的運動に還元するのであれば、性質はどこから生まれるのでしょうか。そして何より、事物とイマージュ、物質と思考という、定義上、それぞれが他方に欠けているものしか持っていないこれら二つの項の関係を、どのように捉えたらよいのでしょうか。こうして難問が続出し、その一つを解決しようとする努力そのものが、また別の難問をいくつも生み出してしまいます。では一体、彼らはどうすればよいのでしょうか。必要なのは、ただ魔法の杖の一振りをやめること、進み始めた道をそのまま進み続けることです。わたしたちに示されたのは、外界のイマージュが感覚器官に達し、神経を変化させ、その変化によって刺激が脳に伝わるということです。この道を最後まで辿ってみましょう。脳に伝わった刺激は、そこを通過しようとするでしょうが、場合によってはしばしそこに留まり、その後意志的行動となって開花するでしょう。これが知覚のメカニズムのすべてです。知覚そのものについて言えば、それがイマージュである限り、その発生の過程を辿る必要はありません。というのも知覚は最初に措定されていたからであり、またそれを措定しないわけにはいかなかったからです。脳の存在を認め、ほんのわずかでも物質の存在を認めた時点で、自ずとイマージュの全体を認めたことになるのではないでしょうか。したがって、説明しなければならないのはどのようにして知覚が生まれるかということではなく、それがどのようにして自己を限定するかということ、理論上イマージュの全体である知覚は、どういうわけで、事実上わたしたちと利害関係のあるものだけに縮減されるのかということです。ところで知覚がイマージュそのものから区別されるのは、知覚の諸部分が或る一つの可動的な中心(身体)に対して配列される点にあるとすれば、それがどのように限定されるのかは難なく理解することができます。知覚は理論上無際限なものであるとしても、現実には、自己の身体という特別なイマージュが選択し得る行動の非決定の領域だけを描くのです。逆に言えば、脳の灰白質の構造によって決まる身体の運動の非決定の度合いは、知覚の及ぶ範囲の正確な尺度となります。それゆえ知覚があたかも脳の内部運動の結果であるように見え、脳皮質の中枢から生まれてくるように見えたとしても驚くには当たりません。勿論、実際には知覚は脳から生まれるのではありません。脳は他のイマージュと同じ一個のイマージュであり、イマージュの総体に含まれているものであって、容器がその中身から出てくるというのは理屈に合わないからです。しかし脳の構造は、わたしたちが選択し得る身体の運動の精密な見取り図を提示し、他方、外界のイマージュがあたかも(非決定の領域にぶつかって)自分自身に反射するかのように(意識的)知覚を構成している部分は、まさにその身体の運動が作用し得る宇宙のすべての点を描いているのですから、意識的知覚と脳内の変化は厳密に対応しています。つまりこの二つの項が相関関係にあるのは、単に、両者がいずれも意志の非決定という第三の項の関数であることの結果に過ぎないのです。
(この表現は、「意識に直接与えられているものについての試論」第三章に出てくる表現とほぼ同じものです。「要するに物質から、わたしたちの感覚がそれに纏わせている具体的な諸性質、例えば色や熱や抵抗、さらには重さといったものまで剥ぎ取っていけば、自ずと等質的な延長、物体なき空間に行き当たる、ということです。ここまで来ると、空間の中で図形を切り取り、それらの幾何学的図形を数学的に定式化された法則に従って運動させ、その(切り取った)図形の形、位置、運動によって物質の持つ外見上の質を説明すること以外、わたしたちにできることはほとんどありません。ところで(形、位置、運動という三つの要素のうち)位置は固定的な大きさの体系によって与えられ、運動は法則によって、すなわち可変的な量の間の恒常的関係によって表現されます。一方、形はイメージであり、どんなに薄く透明なものであろうと、わたしたちの想像力がそれを言わば視覚的に知覚する限り、形は依然として物質の持つ具体的な、したがって還元不可能な質を構成することをやめません」。――ここには詳しく書きませんが、この段落を十分に理解するためにはこの後の文章に加えて、「脳と思考」を読むことが不可欠であるように思われます)

例えばPという光源があり、そこから発せられる光線が網膜上の異なった点a、b、cに作用を及ぼしているとしましょう。科学は、この光源Pに一定の振幅と持続を持った振動を認めます。その同じ光源Pに、意識は光を知覚します。本書の中で、わたしたちは両者がともに正当であること、つまり意識が知覚する光と、科学が認める振動との間には本質的な相違はないこと、ただしその場合、抽象的力学が剥奪した統一性、不可分性、異質性を振動に返還し、また感覚的諸性質のうちには、わたしたちの記憶による(振動の)凝縮を認めなければならないことを論証したいと思います。科学と意識は、瞬間においては一致しています。しかしさしあたりここでは、言葉の意味をあまり深く考えず、光源Pは網膜に光の刺激を伝える、とだけ言って置きましょう。このとき何が起こるのでしょうか。もし光源Pのイマージュがわたしたちに与えられていないとすれば、それがどのように形成されるのかを探究しなければならず、たちまち解決できない問題に直面することになるでしょう。しかし意識するにせよしないにせよ、最初にそのイマージュを措定しない理論は実際には存在しません。したがって唯一の問題は、このイマージュが何故、どのように選ばれてわたしの知覚の一部となり、それ以外の無数のイマージュはわたしの知覚から締め出されたままであるのか、ということです。既に述べたように、光源Pから網膜の様々な細胞に伝えられた刺激は、大脳の皮質下や皮質の視覚中枢に、また多くの場合それ以外の中枢にも伝えられ、これらの中枢は受け取った刺激を或るときは運動機構に伝達し、或るときは一時的にそこに留めて置きます。それゆえこれらの神経要素は(受け取った刺激を最終的に運動機構に伝達する点で)、刺激に有効性を賦与しているのだと言うことができます。それは意志の非決定性を象徴し、意志の非決定性はこれらの神経要素の健全さ、完全性に依存しています。そのためこれらの神経要素が少しでも損なわれると、わたしたちの行動の可能性は減少し、その分だけ知覚も減少します。そういうわけで、物質界に、受け取られた刺激が機械的に伝達されない場所、すなわちわたしたちが想定したような非決定の領域があるとすれば、それは感覚と運動の間、感覚・運動的と呼ばれるプロセスを措いて他にはありません。光線Pa、Pb、Pcがあたかもこのプロセスに沿って知覚された後、Pに投射されるかのように見えるのはこのためです。しかも非決定性は実験や計算の中に入ってくることはなく、実験や計算のうちに取り込むことができるのは、刺激を受け取ったり伝えたりしている神経要素だけです。したがって生理学者や心理学者がこれらの神経要素を対象とするのは自然の成り行きであり、外的知覚を細部に至るまですべてこれらの神経要素に従って規定し、説明しようとするのは仕方のないことでしょう。例えば、刺激はこれらの神経要素に沿って進み、中枢に達した後、そこで意識的イマージュに変換され、それがPにおいて外在化されるのだ、という風に。しかしこのような説明は科学的方法の要求に従っているだけで、現実のプロセスの説明には全くなっていません。実際には、意識の中で形成され、Pに投射されるひろがりのないイマージュというものは存在しません。実際のところは、光源Pや、それが発する光線、網膜、それらと関係を持つ神経要素は不可分の全体を構成しています。そしてこの全体の一部である光源Pのイマージュが形作られ、知覚されるのは、他のどこでもなく、まさにPにおいてなのです。

知覚のプロセスに関する以上のような考え方は、常識の考えるところとと一致しています。したがって結果だけから言えば、わたしたちは単に常識の素朴な信念に戻ったに過ぎません。最初は誰もが、わたしたち自身が対象のそのものに身を置き、そこにおいて対象を知覚しているのであって、わたしたちの内部で知覚しているのではない、という風に信じていたのです。これほど単純で、これほど現実に即した考え方はないにもかかわらず、心理学者がそうした考え方を軽んじるのは、脳内のプロセスという知覚のごく一部に過ぎないものが、彼らには知覚全体と等しいように思われているからです。この脳内のプロセスだけを残して、知覚される対象を消去してみましょう。心理学者は、それでも対象のイマージュは存続すると考えます。そして彼らがそう考える理由は簡単に説明することができます。幻覚や夢のように、あらゆる点で外的知覚に類似したイマージュが出現する状況が数多く存在します。そういう場合、対象がなくても脳は存在しています。ここから、脳内現象だけでイマージュを創り出すのに十分だと結論付けるのです。しかし忘れてはならないのは、この種の心理状態のすべてにおいて、記憶機能が主役を演じているということです。ところで、わたしたちが理解しているような知覚を認めれば、自ずと記憶機能も与えられる筈であること、そして脳の状態は、知覚の存在条件ではないのと同じように、記憶機能の現実的で十分な存在条件ではないことをわたしたちは明らかにするつもりです。この二つの点については後で検討することにして、ここではごく単純な、さして目新しくもない事実を指摘して置きましょう。それは、生まれつき盲目の人の視覚中枢には、多くの場合、何の損傷も認められないということです。にもかかわらず、彼らは視覚イマージュを一度も形作ることがないまま一生を過ごします。ということは、こうしたイマージュが現れるためには、外的対象が少なくとも一度は何らかの働きをしなければならない、つまり、外的対象が少なくとも一度は実際に表象の中に入ってこなければならない(意識的に知覚されなければならない)、ということです。今問題にしていることに関する限り、この事実以外のものは必要ありません。ここで問題にしているのは純粋知覚であって、記憶機能と一体化した知覚ではないからです。そこで、記憶機能が付け加えるものを除去し、純粋な状態で知覚を考察した場合、今述べた事実から、対象なきイマージュというものは存在し得ないことがわかるでしょう。外的対象を脳の内部プロセスの原因と考えれば、この対象のイマージュが、どのようにしてこの対象とともに、この対象そのものにおいて与えられるかということはよく理解できます。しかし逆は必ずしも真ならずで、脳の内部運動がこの対象のイマージュの原因だとすれば、対象のイマージュが一体どのように脳から生み出されるのか、わたしたちには皆目見当もつかないのです。

神経や中枢の損傷によって神経刺激の進路が遮断されると、その分だけ知覚は減少します。これは至極当然のことではないでしょうか。神経系の役割は、刺激に効力を与え、これを現実的な行動、あるいは実行し得る潜在的な行動に変換することです。もし何らかの理由によって刺激が最早伝わらなくなったとすれば、その刺激に対応する知覚が同じように生じるというのはおかしな話でしょう。何故なら、そのときこの知覚はわたしたちの身体を、身体に直接的には何も選択を要求しない空間内の点と関係付けるだけだからです。或る動物の視神経を切断したとしましょう。光源から来る振動は最早脳には伝わらず、脳から運動神経に伝えられることもなくなります。視神経を介して、外的対象をこの動物の運動器官に結び付けていた糸が切られ、その結果視覚は無力となります。この無力こそ、無意識と呼ばれているものに他なりません。神経系の協力なしに、あるいは感覚器官なしに物質が知覚される、ということも理論的には考えられないことではありません。しかし、現実的にはそれは不可能です。何故ならそういう知覚は何の役にも立たないだろうからです。そのような知覚は幽霊には相応しいかも知れませんが、生きている存在、すなわち行動する存在にとっては意味のないものでしょう。一般に生命体は、国家の中の国家のように周囲から独立したものと考えられ、その中でも独立した存在である神経系の役割は、まず知覚を作り出し、次いで運動を生み出すことにあると考えられています。しかし実際には、神経系は身体に振動を伝える対象と、わたしたちが作用を及ぼし得る対象との間に介在し、運動を伝えたり、振り分けたり、抑止したりする単なる伝導体の役割を務めているに過ぎません。この神経系という伝導体は、末梢から中枢へ、また中枢から末梢へと張り巡らされた無数の神経線維によって構成されています。末梢から中枢への線維の数だけ、わたしの意志を喚起する空間内の点、わたしの行動能力に対して、言わば生命活動における基礎的な問題を提起する(下記参照)空間内の点が存在することになります。この提起された一つ一つの問題こそ、まさに知覚と呼ばれるものです。したがって、感覚神経線維が一つ切断される毎に、外界の対象の一部が行動を引き起こすことができなくなるので、知覚の構成要素はその分減少します。またわたしたちが一つの習慣を完全に身に付ける度に、一定の問題に対する応答が確立され、行動能力に対するその問題の提起が不要になるので、この場合にも同様に知覚の構成要素は減少します。どちらの場合にも、消失するのは、対象から発する振動のそれ自身への見かけ上の反射、光線の、光源のイマージュへの回帰、或いはむしろ、イマージュから知覚を浮き出させる分離作用、識別する、という働きです。このように、知覚の細部はいわゆる感覚神経の細部とぴったり噛み合っているとしても、全体としての知覚は、身体の行動しようとする傾向にその存在理由を持つ、と言うことができます。
(この箇所は訳書によって「基礎的」、「要素的」、「具体的」などと訳されています。「創造的進化」に「位置とか数量とかの問題は、われわれの行動性に対して最初に呈示される問題群であり、行動において外在化されている知性が反省的知性の出現するはるか以前に解決しなければならなかった問題群なのである」という一文があり、「基礎的」という語は恐らくこのことを指しているのではないかと考えられます)

一般にこの点(知覚が行動に存在理由を持つこと)が誤解されているのは、わたしたちの身体の運動が、一見それを引き起こす刺激(作用因)と関係がないように見えるからです。或る対象に触れようとしたり、それを動かそうとしたりするわたしの身体の運動は、その対象の情報が聴覚によってもたらされるか、視覚、あるいは触覚によってもたらされるかに関係なく、常に同じ運動であるように思われます。その結果、わたしたちの活動能力は独立的な実体、一種の貯水池のごときものと看做されるようになり、或る刺激に対して同じ反応を返すに際しては、反応を引き起こしたイマージュの種類にかかわらず、その一種の貯水池から常に同じ運動が無尽蔵に湧き出てくると考えられるようになります。しかし実を言うと、外見的には同じように見える運動も、それが視覚的印象、触覚的印象、あるいは聴覚的印象のいずれによって引き起こされるかに応じて、内的には異なった性質を帯びています。例えば今、わたしの目の前には多くの対象があります。それらの対象の各々が、視覚的にわたしに行動を促しています。ここで突然、わたしの視覚が失われたとしましょう。その場合でも、確かにわたしは以前と同じ量、同じ質の運動を空間の中で行うことができるかも知れません。しかしそれらの運動は、最早視覚的印象によって制御されることはありません。それは今や、例えば触覚的印象に従う他はないでしょうし、脳内の状態は恐らくこれまでと違った新しいものになっているでしょう。大脳皮質内の運動神経の樹状突起は、以前よりはるかに少ない感覚神経としか関係を結べなくなるに違いありません。したがって、たとえわたしが以前と同じ運動をすることができたとしても、対象がわたしに行動の可能性を提供する機会が減るという意味で、わたしの行動能力は実際に減少します。つまり視覚的伝導路の突然の遮断の本質的で重大な結果として、わたしの行動を引き起こす作用因の一部が完全に消滅してしまったのです。この行動の作用因こそ知覚そのものであることは、先ほど述べた通りです。この作用因は通常は感覚刺激と呼ばれていますが、知覚がこの感覚刺激から生まれてくると主張する人々の誤りがここで明らかとなります。知覚はわたしたちの行動能力に対する一種の問いかけに他ならないにもかかわらず、彼らはこの行動能力を知覚のプロセスから切り離し(逆に言えば知覚を行動能力から切り離し)、知覚が消滅しても行動能力は(無尽蔵の貯水池として)存続するように見えることから、知覚はいわゆる感覚神経の中に局在化できると結論するのです。しかし実際には、知覚は感覚中枢の中に存在しているのでもなければ、運動中枢の中に存在しているのでもありません。知覚はそれが現れている場所に存在し、その場所において両者(感覚中枢と運動中枢)の関係の複雑さの度合いを映し出しているのです。

幼児期の研究をしたことのある心理学者ならよく承知していることですが、わたしたちの表象は最初は非人格的なものです。経験と推論を少しずつ積み重ねることによって、(もともとは中心を持たない非人格的な)表象はわたしの身体を中心に形成されるようになり、最終的にわたし自身の表象となるのです。こうした移行のメカニズムを理解するのは難しくありません。わたしの身体が空間内を移動するにつれ、身体以外のすべてのイマージュが変化するのに対して、わたしの身体は一定の状態を維持しています。このためわたしは自ずと身体を世界の中心と看做すようになり、他のすべてのイマージュをこれと関係付けるようになるのです。外部世界というものの存在をわたしが信じているのは、一般に考えられているように、ひろがりのない感覚を自分の外部に投影しているからではありません。一体どうすればひろがりのない感覚がひろがりを獲得し、また感覚がひろがりのないものだとすれば、わたしはどこから外部性という観念を引き出すことができると言うのでしょうか。逆に経験が示すように、最初にイマージュの全体が与えられていることを認めるならば、わたしの身体がこの全体の中で、どのように特権的な位置を占めるに至るのか、また、その際どのように内と外の観念が生じるのか、容易に理解することができます。内と外の観念は、もともとはわたしの身体とそれ以外の物体との区別を表すものだったのです。一般に考えられている通り、自分の身体から出発してみましょう。その場合、わたしの身体の表面で受け取られ、わたしの身体にのみ関係している刺激が、どのようにしてわたしから独立した対象を構成し、外部世界を形成するに至るのか、決して理解できないでしょう。反対にイマージュの全体から出発すれば、わたしの身体は必然的に、イマージュの全体からはっきりと区別される事物として現れます。何故なら他のイマージュは絶えず変化するのに、身体は(相対的に)変化しないからです。内と外の区別は、こうしてみると、部分と全体の関係に帰着します。最初にあるのは、イマージュの全体です。そしてイマージュの全体の中に「行動の中心」があり、この中心と利害関係のあるイマージュがそれにぶつかって反射します。こうして知覚が生まれ、行動が準備されます。わたしの身体とは、これらの知覚の中心に位置するものであり、わたしの人格とは、これらの行動と切っても切れないもの、行動の原因です。幼児と同じように、あるいは直接的な経験や常識が示唆するように、表象の周辺から中心に向かって進むならば、このように事の次第が自ずと明瞭になります。逆に、学者達のように中心から周辺に向かって進むならば、すべてが不明瞭になるばかりか、問題が増える一方です。ひろがりのない感覚が、どのようにして延長ある表面を形成し、どのようにしてわたしたちの身体の外に投影されるのかもわからないのに、ひろがりのない感覚によって、外部世界が少しずつ人為的に構築されていくという考え方は一体どこから生まれてきたのでしょうか。わたしたちはまず物質界全体に身を置き、そこから徐々にわたしの身体という行動の中心を限定して、これを他のすべてから区別するに至ったことは明白であるにもかかわらず、何故そうした常識に反して、意識的自我から自分の身体へ、身体からそれ以外の物体へと進んでいくという考え方が生まれたのでしょうか。外的知覚はもともとはひろがりを持たないものであるというこの誤った信念には、多くの錯覚が付随しており、また純粋に内的な状態を外部に投影するという考え方には多くの誤解や、問題の立て方を誤ることで本筋から外れた多くの見当違いの判断が含まれているので、それらを一挙に解明しようとしてもできるものではありません。この後、それらの錯覚の背後にある、形而上学における不可分の延長と等質的空間との混同、心理学における「純粋知覚」と記憶との混同をより明確に示すことによって、徐々にそれらを解明することができるでしょう。しかしこれらの錯覚は今述べた二つの混同以外に、容易に観察できる事実とも関係しています。ここではそれらの事実を一つずつ取り上げ、それらに関する間違った解釈を正して置きたいと思います。

(つづく)