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「ジェノサイド」(63)

2015-11-06 | 雑談
●微小な変異

そこで、脊椎動物の眼とホタテガイのような軟体動物の眼とを実際に比較してみましょう。本質的な部分はどちらも同じであり、同じような要素で構成されています。ホタテガイの眼もわたしたちの眼と同じく、網膜、角膜、脊椎動物の眼と同じ細胞構造を持つ水晶体を備えており、そこには一般に無脊椎動物の網膜には見られない特殊な構造、すなわち反転網膜と呼ばれる構造まで認められます。ところで軟体動物の起源については諸説ありますが、どの説に与するにせよ、軟体動物と脊椎動物が共通の幹から枝分かれしたのは、ホタテガイに見られるような複雑な眼が現れるずっと前であった、という点については誰しも異存のないところでしょう。では、両者の構造の類似は一体何に起因しているのでしょうか。

この点を二つの相反する進化論的仮説によって説明するとどうなるか、一つずつ検証していくことにしましょう。一つは純粋に偶発的な変異という仮説であり、もう一つは外的諸条件の影響が一定の方向に作用することで生じた変異という仮説です。

第一の仮説について言えば、周知のように、今日ではそれはかなり異なる二つの形で提示されています。ダーウィンが想定したのはごく軽微な変異であり、それが自然淘汰によって相互に累積されていくのだと彼は考えました。ダーウィンも突然変異という事実を知らなかったわけではありません。ただ彼が「変わり種」と呼んだそれらの変異は、永続する力のない奇形しか生み出さない、というのが彼の考えでした。そういうわけで、彼は種の発生を目に見えない微小な変異によって説明したのです。この考え方を支持する博物学者は今でも少なくありません。とは言えダーウィンのこの考え方は、別の考え方に取って代わられつつあります。それは他でもない、もともと種に備わっていた特徴とはかなり異なるいくつかの新しい特徴が突如一斉に現れ、その結果一つの新しい種が形成される、という(ダーウィンの否定した突然変異の)考え方です。この仮説は過去にも何人かの研究者が提案し、中でも(ウィリアム)ベイトソンは、注目すべき著作の中でこの説を主張し(てダーウィンに反対の立場を鮮明にし)ました。しかしこの仮説が深い意味合いを持ち、極めて大きな勢力を獲得するに至った最大の要因は、何と言ってもユーゴー・ド・フリースが行った驚くべき実験でしょう。この植物学者はオオマツヨイグサの栽培実験を何世代かにわたって繰り返すうち、幾つかの新しい種を生み出すことに成功しました。彼がこの実験から引き出した理論は実に興味深いものです。彼によれば、種は安定期と変形期を交互に経た後、「変異」期に至ってそれまでの形態からは想像もつかないような形態を創り出す、と言うのです。わたしたちとしては、突然変異の仮説と、目に見えない変異の仮説のいずれか一方に敢えて与するつもりはありません。わたしたちがここで証明したいのは、今挙げた二種類の変異がその大小にかかわらず偶発的なものである限り、それによって先に示したような構造の類似を説明することはできない、ということです。

まず、目に見えない変異というダーウィンの説を受け入れてみましょう。ダーウィンのいわゆる微小変異は偶発的で、絶えず累積されていくものと仮定します。しかし忘れてはならないのは、有機体のすべての部分はどんな場合でも相互に調整されていなければならない、ということです。機能が器官の結果であるか、それとも原因であるか、それは大きな問題ではありません。唯一つ確かなことは、器官は機能しない限り、自然淘汰の役に立たず、その手掛かりになることもない、ということです。網膜の精細な構造がいくら発達し複雑になっても、それと同時に視覚中枢や視覚器官そのものの様々な部位が発達しなければ、その進歩は視覚を高めるどころか、逆にその混乱を招くに違いありません。変異が偶発的なものに過ぎないなら、変異同士が示し合わせて器官のあらゆる部分で一斉に生じ、器官がその機能を果たし続けることができるよう配慮する、などということはあり得ないのは余りにも明らかです。ダーウィンもその点はよく心得ていました。彼が変異を、人間には感知できない微小なものと想定した理由の一つはそこにあります。視覚器官の或る一点に偶然生じた変異も、それが極めて軽微なものであれば、その器官の機能を妨げることはなく、したがってこの最初の偶発的な変異は、別の変異がそこに付け加わってそれを補い、その結果、視覚がより高い完成度に達するのを言わば待つことができる、というのが彼の考えです。仮にその通りだとしてみましょう。しかし目に見えない変異は眼の機能を妨げないとしても、それを補う変異が生じない限り、それは眼の機能にとって何の利益にもなりません。ではその変異は、どういう理由で自然淘汰によって保存されるのでしょうか。微小な変異とは、有機体が将来建物を継ぎ足すことを見越して設置した待歯石のごときものである、とでも考える他はないでしょう。こういう考え方はダーウィンの原理にはそぐわないものですが、例えば脊椎動物の眼のように、一つの大きな進化系統に沿って発達してきた器官を考察する場合には、この仮説を拒否するのは難しいように思えます。まして脊椎動物の眼と軟体動物の眼の構造の類似が問題となる場合には、最早この(苦し紛れの)仮説を拒否するのは不可能だと言っても過言ではありません。要するにダーウィンの説に対しては、次のような疑問を呈することができます。変異が純粋に偶発的なものである場合、二つの独立した進化系統において、数限りない同じ微小な変異が同じ順序で生じる、などということが本当にあり得るのか。またそれらの微小な変異は一つ一つでは何の効用も持たないのに、どちらの系統においても同じ変異が自然淘汰によって保存され、同じ順序で累積されていく、などということがどうすれば起こり得るのか。

●突然変異

そこで次に、突然変異の仮説によって問題を解決できるかどうか検討してみましょう。この仮説を受け入れた場合、確かに或る面で困難が緩和されます。しかし別の面では、逆に困難が増大します。軟体動物の眼も脊椎動物の眼も、比較的少ない回数の突然の飛躍によって現在の形態に辿り着いた、と考える方が、それら二つの器官の類似は、数え切れないほどの微小な相似が次々に獲得されたことに起因する、と考えるよりも理解しやすいのは事実です。偶然が作用する点ではどちらも同じだとしても、先ほどの場合には偶然が奇跡を起こさなければならなかったのに対して、この場合には偶然にそのような要求をする必要はありません。しかもこの場合、累積されるべき類似の数を抑えることができるばかりではなく、個々の類似がどのように保存され次々に累積されていくのかもよく理解できます。というのもこの仮説では基本的な変異はひと目でそれと分かるほど顕著なものであるために、各々の変異は生物に利益を保証することができ、したがってそこには自然淘汰のメカニズムが働いて然るべきだからです。ただしそうなると、ダーウィン説の場合と同じくらい厄介な別の問題が生じてきます。視覚器官のすべての部分が突然(一つの例外もなく)変化し、しかもそれらの部分が以前と変わらず相互に調整され、眼が引き続きその機能を果たし続けることをどう説明したらよいのでしょうか。変異は最早微小なものではない以上、それが器官の或る一部分だけに生じる場合、(微小な変異のように別の変異が生じるのを「待つ」ことができないため)視覚はその能力を喪失してしまう筈です。それゆえあらゆる部分が他のすべての部分と示し合わせ、一斉に変化するのでなければなりません。もっともこう考えることもできます。すなわち、相互の調整がうまくとれていない一群の変異が運悪く幾つかの個体に生じたものの、それらの個体は生存競争から脱落し、器官が機能し得る変異の組み合わせ、つまり視覚を保持しそれを改善できる変異の組み合わせを獲得した個体だけが生き残ったのだ、と。仮にそうだとしても、そういう組み合わせが現実に生じなければ話になりません。或るとき突然、驚くほど調整のとれた新しい変異の組み合わせが、以前の組み合わせの延長として生じることが一度くらいはあったとしても、そういう幸運が一つの種の歴史を通じて繰り返されてきた、などということをどうして信じることができるでしょうか。それだけでも疑わしいのに、一連の単なる「偶発事」によって、これらの突然変異が(一つの種のみならず)二つの独立した進化系統に沿って同じ状態、同じ順序で生じ、しかも変異の度に数を増し複雑になっていく諸要素が常に完璧に調和している、などということをどうして想定することができるでしょうか。

ここで、相関の法則を持ち出す人がきっといるに違いありません。ダーウィン自身、この法則に解決の手段を求めています。或る一つの変化は有機体の唯一つの点に限定されるものではなく、他の諸々の点にも自ずと波及する、というのが相関の法則です。ダーウィンの挙げた例は、既に古典的なものになっています。例えば、眼の青い白猫は一般に難聴である。毛のない犬は歯の発育が不完全である、等々。なるほどそれは事実でしょう。しかし「相関」という言葉の意味を弄んではなりません。相互に関連があるだけの一群の変化と、相互に補い合っている一連の変化とは別のものです。或る器官の機能が、次第に複雑になっていく諸条件においても維持され、その都度改善されていくように諸々の変化が相互に調整されるのが後者です。(前者について言えば)、毛の異常に常に歯の異常が付随しているとしても、それを説明するのに特別な原理は必要ありません。毛と歯の形成は類似しており、毛の形成を妨げるような化学的変質が胚に起これば、当然、歯の形成も阻害されるだろうだからです。眼の青い白猫が生まれつき耳が聴こえないのも、恐らく似たような原因によるものと推察されます。今挙げた例の場合、「相関的」変化とは単に相互連関的な変化のことに他なりません(これらの例は、すべて何らかの障害である点にも注意を払う必要があります。つまり何かが減退もしくは停止することであって、何かが付加されることではありません。この二つは全く別のものですが、それについては(新ラマルク主義の項で)後述します)。一方、眼の様々な部分に「相関的」変化が突然現れる、と言われるとき、この言葉は先ほどとは全く別の意味に解されています。ここで問題になっている一群の変化は、単に同時に生じるだけのものではなく、起源が共通であるために相互に関連があるというだけのものでもありません。この変化では、器官が引き続き同じ単一の機能を果たし、しかも機能がより有効に働くように相互調整が行われます。網膜の形成に影響を及ぼすような胚の変化が、角膜や虹彩、水晶体、視覚中枢などの形成に同時に影響を及ぼす点では、先ほどの場合と同じであることはわたしたちも認めます。しかしそれらの形成は恐らく毛や歯の形成とは異なり、相互に異質的なものでしょう。それは措くとしても、突然変異説を採る限り、眼の各部に同時に生じるこれらすべての変異が、視覚を改善し、少なくとも視覚を維持するように働くことはあり得ない、とわたしたちは考えます。何らかの神秘的な原理を介入させ、それが機能の利害を監視する役割を果たしている、とでも仮定すれば話は違ってくるでしょうが、そうなると「偶発的」変異という最初の仮定を放棄することになってしまいます。実を言うと、「相関」という言葉の持つこれら二つの意味は、「適応」という言葉の場合と同様、生物学者の頭の中でしばしば混同されています。植物学の場合であれば、そうした混同も許されるかも知れません。植物学では、種の形成を突然変異によって説明する理論がこの上なく強固な土台の上に、すなわち実験という土台の上に打ち立てられているからです。実際、植物においては、動物の場合ほど機能は形態に密接に結び付いていません。例えば葉の形態の変化のように形態学的に見れば著しい諸々の差異も、機能の遂行にこれといった影響を及ぼすことはなく、したがってそれらの差異が全体にわたって補足的修正を受けなくても、植物は以前と変わらず生命を維持することができます。しかし動物の場合には、殊に眼のように極めて複雑な構造を持ち、同時に極めて精妙な機能を持つ器官を考察する場合には事情が違ってきます。この場合、相互に関連がある変異と、単に関連があるだけでなく、相互に補足し合っている変異とを同一視すれば重大な混乱を招くことになるでしょう。「相関」という言葉の持つ二つの意味は、ここでは慎重に区別されなければなりません。推論の前提で一方の意味を採用し、結論で他方の意味を採用したりすれば、紛れもない誤謬推理を犯すことになります。事実、人々が細部の説明では相関の原理を援用して相互補完的な変異を説明して置きながら、相関一般について論じる際には、それが胚の任意の変化によって惹き起こされた一群の変異でしかないかのように語るとき、彼らはまさに誤謬推理を犯しています。現代の科学においても、生物学者は相関という観念を、最初は目的論の信奉者が解しているような意味で用いています。そしてこう自分に言い聞かせます。「これ(相関の原理による目的論的な説明)は飽くまでその場凌ぎの説明に過ぎない。原理の本性を明らかにし、科学から哲学に移るときに、こういう説明の仕方を改めて純粋な機械論に戻ればいいのだ」。確かにそのとき、彼らは機械論に戻ります。ただし彼らは「相関」という言葉を、最早細部の説明には適していない新しい意味に解した上で機械論に戻るのです。

要するに進化の決定要因である変異を偶発的なものと看做す仮説に関しては、次のように言うことができます。まず、偶発的変異を目に見えない微小なものと想定する場合、それらの変異が保存され累積されるためには、何らかの守護神――未来の生物種の守護神――の力に頼らなければなりません。何故なら自然淘汰には、そうした任に堪えるだけの機能は備わっていないからです。次に、偶発的変異が突然生じると想定する場合、現れたすべての変化が一致協力して一つの効果を果たすよう相互に補い合わない限り、従来の機能は働き続けることができず、新しい機能がそれに取って代わることもありません。そこでこの場合もやはり、守護神の力を借りなければならなくなります。第一の場合には、継起する諸変異に方向の恒常性を保つために守護神の力が必要でしたが、この場合守護神の力が必要なのは、同時に生じる諸変化に収斂性を持たせるためです。いずれの説を採るせよ、それぞれ独立した複数の進化系統において、同じ複雑な構造が並行して発達してきたのは偶発的変異の累積に起因する、と考えることには無理があるように思えます。そこで、検討すべき二つの主な仮説のうち、残された第二の仮説、すなわち変異は偶発的で内的な原因によって生じるのではなく、外的諸条件の直接的な影響によって生じる、とする仮説を検討することにしましょう。相互に独立した系統における眼の構造の類似が、系統発生説(定向進化説)の見地からはどのように説明されるかを見ていくことにします。

軟体動物と脊椎動物とは別々に進化してきたのは事実だとしても、どちらも光の影響を受けてきた点では共通しています。ところで、光は一定の諸結果をもたらす物理的原因であり、光が連続的に作用することで、一定の方向に連続的な変異を生じさせた、という風に想定することはできるかも知れません。無論、脊椎動物の眼と軟体動物の眼が、単なる偶然による一連の変異によって形成されたとは到底考えられません。そのとき淘汰の手段として光が介入し、有用な変異だけが存続させられたのだとしても、つまり外部から偶然の働きが監視され制約されていた、という条件を付け加えたとしても、脊椎動物の眼と軟体動物の眼の諸要素が同じように調整され、同じように配列されることはあり得ないでしょう。しかし光が有機物質に直接作用してその構造を変化させ、有機物質を言わば光自身の形態に適応させる、というのであれば話は別です。その場合、両者の結果の類似は、単に原因が同一であることによって説明されます。眼が複雑になるとは、有機化され、光を受容する独自の性向を備えた物質が、光の刻印をより深く捺されることだ、ということになるでしょう。

●定向進化

しかし有機体の構造は、本当に刻印に譬えられるものなのでしょうか。わたしたちは先ほど既に、「適応」という言葉の曖昧さを指摘しました。形態が徐々に複雑化し、外的諸条件という鋳型にうまく嵌り込むようになることと、器官の構造が複雑になり、器官そのものがそれらの条件を自分の有利になるように利用することとは別のことです。前者の場合、物質は単に刻印を捺されるだけですが、後者の場合、物質は能動的に反応して問題の解決を図ります。眼が光の影響に適応する、と言われるとき、この言葉の二つの意味のうち、人々は明らかに第二の意味で述べています。ところが人々は多かれ少なかれ無意識のうちに、第二の意味から第一の意味に移行します。こうして純粋に機械論的な生物学は、単なる物質が環境の影響を受けるだけの受動的適応と、有機体がこの影響を適切に活用する能動的適応とを、あの手この手を使ってわたしたちに同一視させようとします。それだけではありません。わたしたちの見るところ、自然そのものがわたしたちの精神を誘導して、二種類の適応を混同するよう仕向けているように思えます。何故なら自然は、能動的に反応するようなメカニズムを後で作る際にも、最初は受動的に適応することから入るのが普通だからです。今取り上げている問題に関して言えば、眼の基となる部分は、単純な有機体における染みのような小点に見出される、という点については疑問を挟む余地はないでしょう。この眼点と呼ばれる小点は光の作用そのものによって物理的に生じたと考えて差し支えないでしょうし、眼点と脊椎動物に見られるような複雑な眼との間には、極めて多くの中間段階が観察されるからです。――しかし或るものから別のものに段階的に移行したからと言って、それら二つのものが同じ性質を持つ、ということにはなりません。例えば演説家がまず聴衆の感情を受け入れ、最終的に聴衆の心を支配するに至ったとしても、従うことと導くことが同じことだとは誰も考えないでしょう。ところで生命ある物質も、まず環境に受動的に自己を適応させる以外に、環境を利用するいかなる手段も持ち合わせていません。そこで生命ある物質は、何らかの運動を導かなければならない場合、まずその運動を受け入れることから始めます。生命は対象の中に入り込むことによって事を進めるのです。眼点と眼との間にあるすべての中間段階を持ち出してわたしたちに反論しようとしても無駄でしょう。両者の間には、写真と写真機との間にあるのと同じ隔たりが厳として存在します。確かに、眼点という写真が徐々に眼という写真機に転化した事実は否定できません。しかしそうした転化が惹き起こされ、光が生命ある物質に残した印象が逆に光を利用し得るメカニズムに変容したのは、果たして光の物理的な力だけによるものなのでしょうか。

次のように反論する人もいるでしょう。「有用性に関する考察をここに持ち込むのは筋違いである。眼は見るために作られたのではなく、眼があるからわれわれは見るのだ。器官は器官以上のものでも以下のものでもなく、「有用性」という言葉は単に器官に備わる機能がもたらす諸結果を表しているに過ぎない」と。しかし眼は光を「利用」する、とわたしが言うとき、わたしは単に眼は見る能力を持つ、という意味でそう言っているのではありません。眼という器官と、運動器官との間にある極めて密接な関連をも暗に示しているのです。脊椎動物の眼の網膜は視神経に繋がり、さらに視神経は、脳の様々な中枢を介して運動メカニズムと結び付いています。眼があるお蔭で、わたしたちは自分にとって有利と看做されるものを利用し、有害と看做されるものを回避するという反応運動を行うことができます。わたしたちの眼が光を利用する、というのはそういう意味です。ところで、光が物理的に眼点を生じさせたのだとすれば、或る種の有機体の運動をも光は物理的に決定することができる筈です。例えば光に反応する繊毛虫類など、そうした実例には事欠きません。しかし神経系、筋肉系、骨系など、脊椎動物の視覚器官と関係のあるすべてのものが、光の物理的影響によって形成されたと考える人はいないでしょう。実を言うと、眼と不可分の関係にあるものを眼と関連付けて考える場合には勿論ですが、単に眼が次第に形成されてきた、と言うときでさえ、人々は既に光の直接的作用とは別の要因を持ち込んでいます。彼らは、或る種の独自の能力、すなわち有機的物質に影響を与えている単純な刺激を利用するために、極めて複雑なメカニズムを自力で組み立てる神秘的能力を、暗黙のうちに有機的物質そのものに賦与しているのです。

ところが、進化にそのような神秘的なものを介入させる必要はない、と機械論者は主張します。彼らは、物理学と化学がすべてを解く鍵を与えてくれる、と信じています。アイマーの主著は、そうした考え方を知る上で非常に参考になります。周知のように、この生物学者は研究を重ねた末、有機体に生じる変化はダーウィンが主張したように偶発的変異に基づくものではなく、外的環境が有機体の内部に恒常的に影響を及ぼし、一定の明確な方向に作用することによって生じるものであることを示しました。彼の説は極めて興味深い観察に基づくものですが、その出発点となったのは、或るトカゲの皮膚色の変化過程に関する研究でした。アイマー以前にも、既にドルフマイスターは、同じ蝶の蛹であっても低温で羽化するか高温で羽化するかに応じて、かなり異なった成虫になる場合があることを実験によって明らかにしています。これら二つの蝶は、長い間、タテハチョウ春型(ワネサ・レハナ)、タテハチョウ夏型(ワネサ・プロルサ)というそれぞれ別種の蝶と考えられていたのです。因みにこの蛹が低温と高温の中間の温度で羽化した場合、成虫は春型と夏型との中間的なものになると言います。またアルテミア・サリーナという小型の甲殻類が生息する塩水湖の塩分濃度を増減させると、この小動物には著しい変形が生じることが知られていますが、これも同種の事例と考えてよいでしょう。これら種々の実験において、外的因子はいかにも変形の原因として作用しているように思えます。しかし一口に原因と言っても、この場合、原因という言葉をどういう意味に解したらよいのでしょうか。因果性という概念をここで詳細に分析するのは控えますが、一つだけ指摘したいのは、人々は通常、この言葉の持つ三つの意味を混同している、ということです。原因には、衝撃によって作用するものと、発動によって作用するものと、展開によって作用するものの三つがあります。ビリヤードの玉を第二の玉に当てると、その衝撃によって第二の玉の運動が決定されます。火花は火薬の爆発を誘発しますが、これは発動による作用と言えます。蓄音機のゼンマイが徐々に弛んで蝋管と呼ばれる円筒が回転すると、蝋管に録音された旋律が展開します。再生された旋律を結果と看做し、ゼンマイの弛緩を原因と看做すならば、ここでは原因が展開によって作用している、と言えるでしょう。これら三つの原因を分かつのは、原因と結果との連帯関係の強弱です。第一の場合、結果の量と質は、原因の量と質に応じて変化します。第二の場合、結果の量と質は、原因の量と質が変わっても変化しません。結果は常に一定しています。最後に第三の場合、結果の量は原因の量に応じて変化するものの、原因が結果の質に影響を及ぼすことはありません。ゼンマイの作用によって蝋管が回転する時間が長くなれば、わたしが旋律を耳にする時間もそれだけ長くなります。しかしわたしが耳にする旋律の性質は、それが全体的なものであれ部分的なものであれ、ゼンマイの作用には依存していません。実を言うと、これら三つの原因のうち、結果の説明となり得るのは第一の場合だけです。他の二つの場合には、結果は多かれ少なかれ前もって与えられており、条件として持ち出されているもの(火花・ゼンマイの弛緩)は結果の原因と言うよりも、寧ろ――程度の差こそあれ――その機会なのです。ところで、水中の塩分濃度がアルテミアの変形の原因であると言われるとき、或いは気温の高低が、蛹から羽化する蝶の羽の色や模様を決定すると言われるとき、原因という言葉は第一の意味に解されているのでしょうか。答えは明らかに否です。因果性はこの場合、展開と発動の中間の意味を持っている、と言うことができます。アイマーが変異の「万華鏡的」性格について語ったり、無機物が一定の方向に結晶化するように、有機物の変異も或る一定方向に進行する、と語るとき、彼自身、原因という言葉をそういう意味に解しているのです。問題が皮膚色の変化にかかわるものである限り、一歩譲って、変異は純粋に物理・化学的な過程であるとするアイマーの主張を認めてもよいかも知れません。しかし、例えば脊椎動物の眼の漸進的形成にもそうした説明の仕方を拡大しようとすれば、有機体の物理・化学的過程を、次のような不可思議なものと想定せざるを得なくなります。すなわち「光の影響によって視覚器官が徐々に形作られ、それらはいずれも極めて複雑でありながら見る能力を持ち、しかも次第にその能力を高めていった(原注:アイマー「種の発生」)」。頑迷な目的論の信奉者ですら、これほど露骨に目的論的な言辞を弄することがあるでしょうか(下記参照)。さらに(アイマーをはじめとする)機械論者に向かって、軟体動物の卵は脊椎動物の卵と同じ化学的成分を持ち得ないこと、それゆえ軟体動物の方向に進化した有機物質は、脊椎動物の方向に進化した有機物質と化学的には同一ではあり得ないこと、にもかかわらず、どちらにおいても光の影響によって同一の器官が形作られたことを指摘するならば、機械論的哲学はますます苦しい立場に追い込まれるのではないでしょうか。
(これは恐らく、目的論の反対者である筈のアイマーが、目的論者以上に目的論的な物言いをしていることへの皮肉だと思われます。
ところでこのあたりのベルグソンの分析は、定向進化説や新ラマルク主義に対する現在の一般的な見方とはやや異なっています。というのも、ここで取り上げられているアイマーと、この後新ラマルク主義の項で取り上げられるコープは、どちらも定向進化説の提唱者の一人に数えられているからです。ベルグソンがアイマーの定向進化説の特徴として挙げているのは、変異を「純粋に物理・化学的な過程」と看做している、という点です。またすぐ後の文章を読むとわかるように、ベルグソンはアイマーの定向進化説を「外的な力と内的な力との一種の力学的合成によって、様々な器官の進化に一定の方向が与えられるとする説」とも規定しています。このことから判断すると、ベルグソンの見立てでは、アイマーは外的な力も内的な力も物理・化学的なものと看做し、コープは内的な力を心理的なものと看做している点で両者は異なる、ということなのかも知れません)

このように見てくると、無数の微小な原因が二つの異なる過程を経て累積された末に同じ結果に達するという考え方が、機械論的哲学の依拠する原理(同じ原因は同じ結果を生む)にいかに反するものであるかがよくわかるでしょう。わたしたちは専ら系統発生論から引用した例に絞って議論しましたが、系統発生論に劣らず個体発生論も、この点に関して確かな証拠となる事実を提供してくれます。わたしたちは毎日のように、自然が様々な種において、時には親近な関係にある幾つかの種においてさえ、全く異なる胚発生の過程を経て同じ結果に達する様を目撃しています。近年、「異胚形成」(原注によると、サレンスキーという学者の造語)の観察例が増加し、その結果、ほとんど古典的なものになっていた胚葉の特殊性に関する学説は放棄されなければならなくなりました。もう一度脊椎動物の眼と軟体動物の眼との比較に戻って言えば、脊椎動物の眼の網膜は、幼胚において形をなしつつある脳が拡張して出来たものです。それは紛れもなく神経中枢が外側に膨らんだものに他なりません。一方、軟体動物の眼の網膜は胚生期の脳を介して間接的に生じたものではなく、外胚葉から直接生じたものです。してみると人間とホタテガイでは、それぞれ異なる胚の部分が異なる進化過程を経て同じ網膜に辿り着いた、ということになります。もっともこれほどかけ離れた二つの有機体を比較するまでもなく、同一の有機体において観察することのできる興味深い事実、すなわち再生という事実を調べれば同じ結論が得られるでしょう。イモリの眼の水晶体を摘出すると、虹彩から水晶体が再生します。ところが元の水晶体は外胚葉から形成されたものであり、虹彩は中胚葉から形成されたものなのです。またサラマンドラ(サラマンダー)・マクラタ(サンショウウオの一種)の虹彩を傷付けないように水晶体を摘出した場合も、やはり虹彩の上部から水晶体が再生します。さらにこの虹彩の上部も取り除くと、驚くべきことに今度は残った部分の内層や網膜の層に再生の兆しが現れます。このように、位置も構成も異なり、通常は異なる機能を果たしている様々な部分が、失われた部分の機能を補い、必要とあらば器官の同じ部品を作ることができます。生命の領域においては原因の組み合わせが異なっても、同じ結果を得ることが可能なのです。

結果がこのように一点に収斂することを説明するためには、好むと好まざるとにかかわらず、方向を定める内的な原理に訴える他はありません。そうした収斂の可能性は、ダーウィン主義にも、より正確に言えば目に見えない偶発的な変異を主張する新ダーウィン主義にも、偶発的な突然変異を主張する説にも、或いは外的な力と内的な力との一種の力学的合成によって、様々な器官の進化に一定の方向が与えられるとする説にも見て取ることはできませんでした。そこで最後に、現在流布している諸々の進化論のうち、唯一まだ取り上げていない学説、すなわち新ラマルク主義を検討してみることにしましょう。

(つづく)

「ジェノサイド」(62)

2015-11-06 | 雑談
●基準の探究

早速ですが、まずわたしたちの証明の原理を示して置くことにしましょう。既に述べたように、生命とは、起源にあった唯一の同じエランが脈々と受け継がれ、複数の進化系統に枝分かれしたものです。この過程を貫く一連の創造作用によって、様々な傾向が成長し発展しましたが、まさにこの発展の結果、それらの傾向は互いに分離しなければなりませんでした。というのもそれらの傾向は、或る水準以上に成長するためには、互いに両立することを断念せざるを得なかったからです。理屈の上では、唯一つの個体の中で、幾千世紀にわたって様々な変異が積み重なった結果、生命の進化が成し遂げられた、という考え方をしても特に不都合があるわけではありません。或いは唯一の個体の中で進化が成し遂げられたのではなく、多数の個体が次々に生まれ、一線上に並ぶかのように一つの系列を形作っている、という考え方をすることもできるでしょう。この二つの場合、こう言ってよければ、進化には唯一つの次元しか存在しないことになります。しかし現実には、進化は無数の個体を介して、様々な方向に分岐した線の上で成し遂げられました。そしてそれらの線の一つ一つが別の分岐点に達し、そこからまた新たな道が放射状に広がっていく、ということが際限なく繰り返されてきたのです。もしわたしたちの仮説に根拠があるなら、そしてそれら様々な道に沿って働く本質的な諸原因が心理的な性質のものであるなら、仮にそれがもたらす結果の間に共通のものが何もないとしても、ちょうど長い間離れ離れになっていた幼馴染同士が幼時の同じ思い出を共有しているように、それら諸々の原因は何か共通のものを持っている筈です。生命の進化においては幾多の分岐点が生じ、次々に脇道が開鑿され、そこで袂を分かった諸要素がそれぞれ独自の発展を遂げました。にもかかわらず各部分がそこで停止することなく前進を続けることができたのは、全体の原初的なエランがそれら各部分にも伝えられたからに他なりません。それゆえ全体の何かが、各部分の中にも残存している筈です。この共通の要素は、何らかの形で、例えば全くかけ離れた二つの有機体に、類似した器官が存在する、という事実によって確認することができるに違いありません。暫くの間、機械論の主張を全面的に認め(今述べたことが機械論によって証明され得るかどうか確かめ)てみましょう。機械論によれば、進化は一連の偶発的変異が積み重なった結果生じます。生物の現在の形態はそれ以前の有効な偶発的変異の総和であり、同様にそれ以降の新しい偶発的変異も、それが生物に有利に働く場合にのみ淘汰によって保存される、とされます。しかし偶発的変異が積み重なることで、全く異なる二つの系統における全く異なる二つの進化が似たような結果に辿り着く、などということがあり得るでしょうか。二つの進化系統がかけ離れていればいるほど、単なる偶発的で外的な影響や内的な偶発的変異によって、二つの系統に類似した器官が形成されることなどありそうもないように思えます。特にそれら二つの系統が分岐する際に、まだその器官が存在していなかったのであれば尚更です。逆にわたしたちの仮説に従えば、この類似は簡単に説明がつきます。水源で与えられた衝動は、末端の小さな支流の隅々にまでその衝動の幾分かを伝える、というのがわたしたちの仮説です。それゆえ分岐した諸々の進化系統において、生命は異なった手段で類似した器官を作り出すことができる、ということがもし立証されれば、純粋な機械論は論破されることになり、わたしたちが解するような特殊な意味での目的性も或る面で証明されることになるでしょう。その際、立証のために選んだ二つの進化系統が互いに隔たっていればいるほど、またその二つの進化系統に見出される類似した器官の構造が複雑であればあるほど、この証明の説得力は増すことになります。

それらの器官の構造が類似しているのは、進化の一般的諸条件が同じだったからだ、と言う人もいるかも知れません。すなわち、一時的な外的影響や偶発的な内的変異はそれぞれの進化系統において異なっていたかも知れないが、長期間同じ外的条件下に置かれていたために、或る特定の器官の形成にかかわる諸々の力が同じ方向に作用した、というわけです。――無論わたしたちも、適応という概念が現代科学において果たしている役割を知らないわけではありません。もっともこの概念は、すべての生物学者に同じように用いられているわけではありません。或る生物学者達は、外的諸条件は生命物質のうちに物理・化学的変化を惹き起こし、有機体を一定の方向に直接変異させることができる、と考えます。例えば、アイマーの仮説はそのようなものです。またダーウィン主義の精神により忠実な別の生物学者達によれば、それらの諸条件の影響は間接的にしか生命に作用しません。それらの影響は生存競争において、一つの種を構成する個体のうち、たまたま素質に恵まれ、環境にうまく適合した個体に有利に働くのだと言います。つまり一方は外的諸条件が積極的な影響を及ぼし得ると考えるのに対して、他方は消極的にしか作用しないと考えます。第一の仮説では外的原因は変異を生じさせるのに対して、第二の仮説では外的原因は変異を篩にかけるに過ぎません。しかしどちらの場合も、外的原因は有機体をその生存条件に正確に適合させるものと看做されています。そういうわけで、両者は恐らく器官の構造の類似を、今述べたような意味での適応によって機械的に説明しようとするに違いありません。しかしまさにこの器官の構造の類似という事実から、機械論の不備を突く反論を引き出すことができる、とわたしたちは考えます。そこで詳細な検討に入る前に、機械論者が「適応」から引き出す説明が、どういうわけでわたしたちにとって不十分なものに見えるかを大まかに述べて置きたいと思います。

まず指摘できるのは、上述した二つの仮説のうち、曖昧な点がないのは二番目の仮説の方だということです。適応とは、環境に適応できない物や者が生存競争から自動的に振り落とされることだ、というダーウィンの考え方(自然淘汰)は、単純明快で曖昧さの入り込む余地はありません。その反面、この考え方は進化を主導していると目されている外的原因に消極的な影響力しか認めていないために、これから検討するような複雑な器官が、どのようにして漸進的かつ直線的に発達してきたかを説明するには既に多くの難点を抱えています。様々な方向に分岐した進化系統上に、極めて複雑な構造を持つ同一の器官が認められることをこの立場から説明しようとすると、それはどんなものになるでしょうか。たとえごく小さな一つの偶発的変異であっても、そこには無数の微小な物理・化学的な原因が含まれています。複雑な構造が形成されるためにはこれら偶発的な変異が蓄積されなければならず、変異が蓄積されるためには、言わば無限数の微小な原因が一丸となって働かなければなりません。時間的、空間的に異なる二つ以上の点において、偶然、無数の同じ原因がすべて同じ順序で生じる、などということが果たしてあり得るでしょうか。そんなことを信じる人はいないでしょうし、ダーウィン主義者自身、恐らく、原因が異なっても同じ結果を生じ得るとか、同じ場所に通じる道は必ずしも一つではない、とでも言って誤魔化す他はないでしょう。しかし、そのような(苦し紛れの)比喩に騙されてはなりません。到達した場所は、そこに達するまでに辿った道筋を描き出しているわけではありません。それに対して有機体の構造は、進化がそこに到達するために辿らなければならなかった道筋、つまり蓄積された数々の微小な変異をそのまま描き出しています。したがって生存競争や自然淘汰は、問題のこの部分を解決する上で何の役にも立ちません。何故ならわたしたちは消滅した(淘汰された)ものを問題にしているのではなく、保存(蓄積)されたものを問題にしているからです。わたしたちが目にしているのは、それぞれ独立した進化系統において、諸々の結果が相互に付加され、少しずつ蓄積されることによって形作られた同一の構造です。この構造に行き着くまでに無数の原因が作用し、結果(器官の構造)も無限に複雑であるにもかかわらず、それら無数の原因が特に決まった順序もなく作用した結果、同一の構造に一度ならず辿り着いた、などということをどうして信じることができるでしょうか。

機械論の原理は、「同じ原因は同じ結果を生む」ということです。もっともこの原理は、同じ結果は同じ原因を持つ、ということを常に含意しているわけではありません。しかし原因が引き起こした結果の中に、当の原因がはっきり残っており、その結果を構成する要素になっているような特殊な場合(器官はその一例)には、この原理はそうした帰結(同じ結果は同じ原因を持つ)を伴います。異なる場所から出発した二人の人物が、自然の中を気の向くまま散策している途中ばったり会う、というのはごくありふれた出来事です。しかし気の向くまま歩き回った二人の経路が同じ曲線を描き、ぴったり重なり合う、などということはとてもありそうもありません。まして二人の辿った経路が、複雑に曲がりくねっていたとすれば尚更です。さらに、もし二人の歩いた経路が限りなく複雑なものだったとすれば、そんなことはありそうもないどころか、あり得ない、と判断せざるを得ないでしょう。ところで、散策の経路の複雑さは、幾千もの異なる細胞が或る秩序に従って配列され、それらの細胞の一つ一つが一種の有機体であるような器官の複雑さに比べれば物の数ではありません。

そこでこの仮説による解決は一旦諦め、もう一つの仮説がこの問題をどう解決するかを見てみることにしましょう。もう一つの仮説では、適応とは最早、環境に適応できないものを篩いにかけ、除去することではありません。適応とは、外的諸条件が有機体に積極的に影響を及ぼすことであり、それ固有の形に合わせて有機体を形作ることである、とされます。そうなると確かに、結果の類似は原因の類似によって説明されます。したがってここでは、純粋な機械論によって器官の類似を説明できるように見えるかも知れません。しかし、適応に関する今の説明をもう一度よく吟味してみましょう。そうすればこの説明は言葉の上だけのものであり、わたしたちはここでもやはり言葉に騙されていることがわかるでしょう。このもう一つの仮説による解決のからくりは、「適応」という言葉を同時に全く異なる二つの意味に解するところにあります。

水の入ったグラスを空にして同じグラスにワインを注ぐと、(当然)水もワインも同じ形状になります。二つの種類の液体の形の相似は、容器に対する内容物の適応の仕方が同じであるところから来ています。この場合、適応とはまさに或るものが別のものに機械的に嵌り込むことを意味しています。つまり、内容物が適応する形式(グラス)は完全に出来上がった状態で既に存在しており、その形式が内容物に自分の形状を押し付けるというわけです。しかし有機体が生存条件に適応する、と言われるとき、あらかじめ存在し、内容物を待ち構えているような形式がどこにあると言うのでしょうか。生存条件は、生命がそこに嵌め込まれ、自分の形態を手に入れる鋳型ではありません。生存条件が鋳型と看做されるとき、人々は比喩に騙されています。形態は、あらかじめ存在しているわけではありません。生命は自分に課せられた諸条件に適した形態を、自分自身のために創造するのです。そこで、生命はそれらの条件のうち不都合なものを無効化し、利用できるものを選んでそれを活用しなければなりません。要するに生命は、外的諸条件に対して、一つのメカニズム、ただし(存在していないものを真似ることはできない以上)外的諸条件には少しも似ていないメカニズムを構築し、それに反応しなければならないのです。したがってこの場合、適応とは、反復(鋳型から同じ形状のものを鋳造すること)を意味しているのではなく、応答(問題に答えること)を意味しています。この二つは全く別のものです。この場合の適応は、例えば幾何学の問題において、解答は問題の条件に適応している、と言う場合の適応に該当します。異なる進化過程が類似した形態に辿り着いた理由を、こういう意味での適応によって説明してよいのであれば、最初から誰も苦労せずに済んだに違いありません。実際、その場合、問題が同じであれば同じ解答が導き出されるでしょうが、その代わり幾何学の問題を解く場合と同じように、或る種の知的活動、或いは少なくともそれと同じ働きをする何らかの原因を適応の過程に持ち込まなければならなくなるでしょう。こうしてまたしても目的性が、しかも今度は擬人的な要素がたっぷりと盛り込まれた目的性が導入されます。そういうわけで、第一の場合、すなわちいわゆる適応が受動的なもので、諸条件が凹状で与えるものを凸状で反復しているに過ぎない、と仮定した場合には、適応はわたしたちが期待するような同一の器官を形成することができません。逆に第二の場合、すなわち適応が能動的なもので、諸条件が提出する問題に対して演繹によって解答を導き出すことができる、と仮定した場合には、科学はわたしたちが最初に示した方向(目的性)にわたしたち以上に進むことになる、と言うより、進み過ぎることになります。しかし実を言えば、科学はこの二つの意味の(いずれか一方にとどまるのではなく)一方と他方の間を無意識のうちに行ったり来たりしています。適応を第二の意味で用いて目的論の現行犯で捕まりそうになると、科学はその度に第一の意味に逃げ込むのです。科学の現場において通常用いられているのは第二の意味の適応ですが、適応に関する科学の考え方を支配しているのはほとんどの場合第一の意味の適応です。つまり科学は、個々の事例においては適応の過程を、外的諸条件をできるだけうまく利用できるようなメカニズムを形成する有機体の努力であるかのように語り、適応一般を論じるときだけ、適応とはあたかも無機的物質が無抵抗に受け入れた環境の刻印そのものであるかのように語るのです。

●一つの例についての議論

ではここから、具体的な例を見ていくことにしましょう。手始めに植物と動物とを全体的に見渡して両者を比較してみると、興味深い事実に気付かされます。それは、植物も動物も雌雄性(有性)の方向に発達してきたということです。この事実にどうして驚かずにいられるでしょうか。まず受精の仕方そのものが高等植物と動物とで同じであり、いずれの場合も受精は染色体数の半減した細胞核の結合によって行われます。これらの細胞核は互いに接触する前は性質も構造も異なるにもかかわらず、接触後直ちに等価なものになります。両者に共通しているのは受精の仕方だけではありません。性的な諸要素の形成も似たような条件の下で進められます。どちらの場合も染色体数が減少し、一定量の染色質が失われるのがその特徴です。ところで、植物と動物は互いに独立した系統において、それぞれ異なる環境に助けられ、或いは異なる障害に妨げられながら進化してきました。つまり植物と動物というこの二大系列は、徐々に分岐しながら発達してきたのです。両者が進展するにつれて、それぞれの系統において無数の原因が組み合わされ、形態上、機能上の進化の様態が決定されました。そしてそれら無限に複雑な原因の総和が、どちらの系統にも(雌雄性という)同じ結果を生み出したのです。この結果(雌雄性)が、「適応」現象によって獲得されたものだと考える人はいないでしょう。そもそも有性生殖の効用が何であるか、未だにはっきりとはわかっていません。それに関する解釈は実に多種多様であり、(動物の雌雄性はともかく)少なくとも植物の雌雄性は、それなしで済ますこともできる自然の贅沢だと考える著名な学者もいます。効用も明らかではないのにどうして適応について語ったり、外的環境の圧力を持ち出すことができるでしょうか。しかしこのように諸説紛々として定説のない事象について、これ以上言葉を費やすのは止めて置きましょう。「適応」という言葉の曖昧さや、機械論的な因果性の観点と擬人的な目的性の観点とを同時に乗り越えなければならないことについては、(この後示すような)もっと簡単な例で一層明らかにすることができる筈です。さて、古来目的性を主張する人々は、感覚器官の精妙な構造に感嘆し、その構造を形作った自然の働きを知的な職人の技になぞらえるのが常でした。これらの器官は下等動物においても原始的な状態で認められ、例えば眼に関して言えば、極めて単純な有機体における眼点から、脊椎動物の極めて複雑な眼に至るまでの間に、あらゆる中間段階が存在することを自然はわたしたちに教えてくれます。したがって眼の進化に関しても、器官の完成度を徐々に高める働き、すなわち自然淘汰という純粋に機械的な働きを仮定しても差し支えない筈です。つまり適応という言葉を使ってもよい場合があるとすれば、それはまさにこの眼の進化の場合に他なりません。何故なら有性生殖の役割や意義、また有性生殖とそれが行われる諸条件との関係については様々な異論があるのに反し、眼と光との関係は明白であり、ここでは適応という言葉を使ってもその意味が曖昧になる恐れがないからです。それゆえこの特別な事例において、機械論と目的論の双方が依拠する原理の不十分さを示すことができれば、わたしたちの証明はそれだけで十分高い普遍性に達することになります。

目的性を支持する人々が常に重視してきた例、すなわち人間に見られるような眼の構造を考えてみましょう。このように複雑な器官において、あらゆる要素が驚くほど正確に調整されていることを示すのは目的論者にとっては造作もないことでした。「目的因」という有名な本の著者は、視覚が機能するための条件を次のように記しています。すなわち、視覚が働くためには「眼の鞏膜の表面の一部が透明になり、そこから光が通過することができなければならない。(中略)角膜は、眼窩、すなわち眼球の収まる開口部に正確に適合していなければならない。(中略)この透明な開口部の背面に、光を収斂させるための媒質(水晶体)が控えていなければならない。(中略)眼という暗箱の一番奥には、網膜が配されていなければならない。(中略)網膜の内部(主に光を受容する中央部分)には、網膜上のどの点の接線に対しても垂直な向きに配置された錐状体という(細長い円錐形の)透明な視細胞がびっしりと並んでおり、この錐状体の軸方向に平行に入ってくる光だけが視神経に達するようになっていなければならない(後略)」。――機械論者はこうした(機能優先の)考え方に反対し、目的因を支持する人々に進化論の立場に立つよう求めました。機械論者の反論は以下のようなものです。われわれの持っているような眼において、幾千もの要素が一つの機能を果たすべく連携し合っている、と考えると、なるほどすべてが驚くべきことのように思えてくる。しかし器官の機能はその起源において、つまり繊毛虫類において捉えるべきだろう。繊毛虫類における染みのような小点の(ほとんど純粋に化学的な)感光性に帰着するこの機能は、もともと偶発的な一つの事象に過ぎなかった。ところが或る未知のメカニズムによって直接的に、或いは、この機能によって生物が優位性を獲得し、自然淘汰のきっかけを得たという事実によって間接的に、器官の軽微な複雑化が惹起され、次いでこの軽微な複雑化が機能の改善をもたらした、と考えることを妨げるものは何もない。このように考えれば、眼が徐々に形成される過程は、たとえそれがわれわれの眼のように極めて精巧なものであっても、機械的原因以外の原因(目的因その他)を介入させることなく、機能と器官との際限のない作用・反作用だけで説明できる筈だ。

かつて目的論がそうしたように、そして機械論が今またそうしているように、問題をいきなり機能と器官との間に立てると、以上のようにその解決が難しくなります。というのも、器官と機能とは異質な項であるにもかかわらずお互いになくてはならない関係にあるので、両者の関係を述べるに際し、機械論の主張するように器官を優先すべきか、目的論の主張するように機能を優先すべきか、ア・プリオリに決めることは不可能だからです。しかし最初に同質の二項を比較することにすれば、つまり器官と機能とを比較するのではなく、器官と器官とを比較することにすれば、議論の展開は先ほどとは全く違ったものになり、今度は誰もが納得できるような解決に向かって少しずつ前進することが可能になるでしょう。このとき進化論的仮説により深く依拠すればするほど、解決の見込みもそれだけ高くなるに違いありません。

(つづく)