画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

adobeソフト(2)

2010-09-28 | 雑談
Illustratorについて触れたからには、InDesignについても触れないわけにはいきません。

ソフトの現状分析とか方向性といった巨きな問題は僕の手に余るので、ここでは常日頃感じている不満レベルの問題に限定します。

真っ先に挙げたいのは、画面の拡大・縮小、スクロールといった最も基本的な操作のキーボードショートカットに、スペースバーが割り当てられていることです。テキストを主な素材として扱うアプリケーションなのに、こんな不合理な仕様があるでしょうか。ショートカットによって何度も画面の拡大・縮小やスクロールを繰り返しているうちに、キーを押すタイミングの微妙なずれによってついうっかり編集中のテキストに余分なスペースが挿入されてしまった、といった事態になりません。幸い僕は今までのところそのような事態には至ったことがありませんが、作業中に余分なスペースが挿入されたのに気づいてあわてて取り消しをしたことなら何度となくあります。しかもこれはテキスト内だけでなく、オブジェクトのXY座標や縦横の長さの数値、フォントの大きさ、長体・平体率、インデント値など、パネル(パレット)の入力ボックスのありとあらゆるところで起こり得るのです。それ自体は小さなストレスにしか過ぎなくとも、常時ストレスにさらされつづけるのは不快以外の何物でもありません。

むろん画面の拡大・縮小、スクロールには別のメニューやマウスによる操作が用意されています。そちらを使えばいいじゃないか、という向きもあるかと思います。しかし近道(ショートカット)があるとわかっているのに、なぜわざわざ遠回りしなければならないんでしょうか。それこそショートカットの存在する意味がありません。

CS2になってAdobeもようやく問題の一端を認識したらしく、カーソルがテキスト中にある場合に限り、スペースバーの代わりにoptionキーでスクロールができるようになりました。そこまでしておいてなぜスクロールのショートカットをoptionキーに統一しないんでしょうか。理解に苦しみます。しかも画面の拡大・縮小のショートカットは依然元のままですから、この仕様変更の効果ははなはだ中途半端といわざるを得ません。ストレスからの真の解放はショートカットからスペースバーが一掃されたときにのみもたらされるのです。

これにはAdobeソフト間でなるべくキー操作を統一したい、という意向が働いているのかもしれません。それならそれで、せめてこれらのショートカットのカスタマイズができるようにしてほしいものです。

さて、上に述べたのはミスを誘発する不合理なショートカットという話でしたが、次はバグといってもいいものじゃないかと思います。ただバグにしてはいつまでもたっても直る気配がなく、この問題に触れたブログやネット上の書き込みも見たことがありません。何だかまわりは晴れ渡っているのに僕の上だけ雨が降り注いでいるといった按配で、狐につままれたような気分です。

これは他の多くのアプリケーションに共通の操作だと思うのですが、パレットメニューの入力ボックスにカーソルがあるとき、タブキーを押すと次の入力ボックスに移ることができます。わざわざマウスドラッグで選択しなくとも入力ボックスを移ると同時にそのボックス内の数値がハイライト表示されるので、連続して数値を入れたいときにとても便利です。

むろんInDesignにもこの機能は備わっており、フル活用しています、といいたいところですが、どういうわけかInDesignではかなり高い確率でこのハイライト表示が外れ、上書き入力されずにもともと入っていた数値のあとにつづけて入力されてしまうのです。結果、たとえば「2.75mm」を「3.25mm」に変更したいとき、通常であればタブキーを押してそのまま3.25と入力すればよいのですが、これが「2.75mm3.25」という意味不明の数値になってしまい、確定のためEnterキーを押した途端エラー音が鳴り響いてギョッとする、という経験をいやというほどしました。

僕がInDesignを本格的に使い始めたのはバージョンが2.0になってからで、当時PowerMacG4にCPUカードを挿して使用していました。この現象が起きるのはきっとそのせいで、次のバージョンが出れば直るに違いないと高をくくっていました。

ところがOSXになりInDesignのバージョンがCSに上がってもこの現象は直りませんでした。やっぱりCPUカードだから互換性の問題があるんだろうな、しかたないよな、とこれも自分の環境のせいだと諦めました。

次にIntel Macを購入し、InDesignもCS2となりました。さあ、これであの現象ともおさらばだと期待したのも束の間、相変わらずエラー音は鳴り響きつづけました。うーん、これはCS2がロゼッタ上で動いているからなのか、Universalアプリではないからなのか、だったらはやくCS3が使いたいなあ、ということでまたしても涙を飲みました。

そして念願のCS3。もうあの現象が起きるはずがないことを僕は露ほども疑いませんでした。意気揚々とタブキーを連打して数値を入力、確定。そして訪れるはずの勝利の瞬間、またもやポーンという呪いのエラー音が鳴り響きました。僕の勝ち誇った表情は一瞬にして凍りつき、なぜだ、一体なぜなんだ、とむなしく問いを発するばかりでした。

こうして三度びの裏切りを受けた僕は、疑惑と不信のどん底に突き落とされたのでした。

インプット・メソッドか入力モードが問題なのかとも思い、ATOKからことえりに変えたり入力モードを英数に変更しても結果は同じでした。おそらくバグなんでしょうが、これがまったく話題に上っていないように見えることのほうがもっと不思議です。この便利な機能を多くの人はほとんど使っていないということなんでしょうか。

もう一つの可能性として、これはInDesignの問題ではなく、OS側の問題ということも考えられなくはありません。しかしOS9からOSX10.5.8を通じて同じ現象が繰り返されている以上、その可能性は低いと思うのですが……。

まだ導入していないCS5ではこの問題が解消されていることを切に祈ります。

adobeソフト

2010-09-27 | 雑談
Illustratorでのフォントの修正作業はやっと3分の1程度が終了。

このadobeのIllustrator、ほぼ毎日といっていいくらいお世話になっているソフトではあるんですが、使用感はすこぶる満足、とはとても言いがたい。文字を組む作業にはできれば使いたくないソフトです。

まず僕の環境ではCS3が頻繁とは言わないまでもよく落ちる。そのあっけなさはこれが本当にプロフェッショナル向けのソフトかとあきれるばかりである。CS4は割りに安定しているのでできれば常時こちらを使いたいのだが、顧客にバージョンを指定されるとこちらには手も足も出ない。なぜこんなにCS3が不安定なのか、あるいはCS4など他のバージョンと同居している弊害かとも思えるが、僕のような下っ端オペレーターは指定されたバージョンで作業するしかないもんなあ。

どういうときに落ちるかというと、選択ツールからテキスト編集作業に入ろうとテキストをダブルクリックしたときに落ちる。考えてみると落ちるのはほぼこのケースに限られるので、何かテキスト処理に関する不具合があるのかもしれません。思えばこのIllustratorでは、CS3で作業して保存したファイルをCS4で修正してCS3の形式で保存する、もともとCS2で作られたファイルをCS3で修正して保存し、さらにCS4で開いて作業する、CS以前のバージョンで作られたファイルをCS4で開いて修正し、CS2やCS3のバージョンで保存しなおす……といったことが平気でできてしまいます。ファイルがあるバージョンから別のバージョンへと転々と渡り歩いているうちに、目には見えない齟齬が生じるのかもしれません。CS3ではその齟齬の解消がうまく行われない、ということなのかもしれません。

こんなにあっさり落ちてしまうのに、自動保存機能がないのも見識を疑うところです。
もう少しで作業が終わりという段階になって落ちられた日には、思わず「く○った○」と叫びたくなります。

それと今回フォントの修正をしていて思ったことなのですが、パスを変形させるに際してハンドル(制御点)が非常につかみづらい。ハンドルをつかもうとして空振りし、ポンポンというMacのあの不快なエラー音を何回聞かされたことでしょうか。

ハンドルをつかむためには、アンカーポイントの両端にある黒い点のいずれかを正確にクリックしてからドラッグを開始しなければなりません。少しでも黒い点を外れているとエラー音が鳴り、「ほらほら、もう一回やりなおし」とどやしつけられるのです。この黒い点の大きさは環境設定で申し訳程度に大きさを変えられるものの、実際上の操作ではほとんど効果が感じられません。そのためハンドルを正確につかむためには画面を必要以上に拡大しなければならず、瞳を凝らして狙いを定めなければなりません。

たしかに誤操作を防ぐためにはこれくらいの厳密さが必要なのかもしれませんが、もうちょっと融通が利かないものかと思ってしまいます。具体的には、そのとき選択されているツールの種類に応じてクリック範囲に許容値を設ければ、こういったつかみ損ないは激減するんじゃないでしょうか。それともそういう仕様にすることは開発上難しいのでしょうか。

IllustratorにしろInDseignにしろ日々機能が強化され、その恩恵を受けているのは間違いのないところです。しかし基本的な操作にかかわる部分において、ちょっとした不便を感じる場面が一向に減らない。もう少しコンピューターの方からこちら側に歩み寄ってもらうことはできないのだろうか、と個人的には思う次第です。

悪の教典

2010-09-26 | 雑談
ミステリとは言えないので先日挙げたタイトルには入れませんでしたが、最近読んだ本の中で印象に残っているのは、貴志祐介さんの「悪の教典」です。

「黒い家」「クリムゾンの迷宮」「天使の囀り」という圧倒的な傑作群があるせいか、この「悪の教典」に関しては面白かったが、どことなく物足りない、と感ずる読者も少なくないようです。

僕が貴志さんの本を読んだのは、「硝子のハンマー」が最初でした。いうまでもなくそれは「硝子のハンマー」が貴志さんの物したはじめてのミステリだからで、単純に数あるミステリの中の一冊として読んだのでした。
それからしばらく貴志さんの本からは離れていましたが、数年前に帰省したとき、たまたま「青の炎」を旅行鞄にしのばせて帰ったことがありました。これは今から思うとエンタテイメントとして文句なしに面白い、という性質の本ではありませんでしたが、ひどく感動したのを覚えています。

それからちょっと興味を持って近くの本屋に置いてあった「天使の囀り」を買って読み始めたところ、これがべらぼうに面白い。こんな面白い本があるのかと興奮しつつ夢中になって読みふけりました。

さすがにこれ以上面白い本はないだろうといくぶん懐疑的な気持ちで次に手を出した「クリムゾンの迷宮」も「黒い家」も、「天使の囀り」に勝るとも劣らない傑作で、それまで単に有名作家の一人に過ぎなかった貴志さんの名前は、僕の中で一躍最上位にランク付けられるようになりました。

「悪の教典」については本の出る一ヶ月くらい前にその情報を知り、出版を心待ちにしました。
優柔不断な僕は本を購入する前に躊躇することも多いのですが、「悪の教典」を買うことに迷いはありませんでした。

何の予備知識もなしに読み始めた「悪の教典」は、前半不吉な予兆を漂わせつつもどことなく牧歌的な調子で話が進んでいきます。爽やかイケメン教師である蓮実聖司が主人公であることはわかるにしても、蓮実以外にも底の知れない登場人物が教師側・生徒側のそれぞれにいて、話がどう転がっていくのか、先がまったく読めません。ちなみに蓮実が生徒から親しみを込めて奉られたハスミンというニックネーム、実在のある人物を思い出して苦笑せざるを得ませんでした。

蓮実の障碍となると思われた人物たちは途中あっけなく舞台から退場していき、ますます先が見えなくなります。ここからどんなドラマが展開し得るというんでしょうか。ふだん先読みをしない僕もあれこれと結末を思い描きつつ下巻を読み始めました。

そんなわけであるささいな出来事をきっかけに事態が急転し、血煙に霞む攻防戦の幕が切って落とされる後半の怒濤の展開には、なるほどそういうことだったのかと膝を打ちました。この一夜の出来事そのものがベールに覆われたこの本の最大の謎の核心であり、物語の要であると同時に、蓮実自身の怪物性をも象徴する出来事となっています。
釈迦の掌の上で踊らされている人間のように、数々の難関を乗り越えてようやく見つけた出口から外へ出てみると、そこは蓮実という人物の心の内側だったというわけです。

事件は一応の終息を迎えるものの、物語全体があたかも序章のような観を呈しています。これが何となく物足りなさを感じさせる一つの要因じゃないでしょうか。

それともう一つ、ここには「黒い家」の菰田幸子や、「クリムゾンの迷宮」の食人鬼や、「天使の囀り」のウアカリ線虫といった圧倒的な恐怖の対象が存在しません。恐怖の対象は外部に存在するのではなく、読者は否応なしにその内面に同化させられ、最後までそこから抜け出せません。そこには100%の共感も存在しないかわり、蓮実を悪の化身として客体化することもできません。

この視点の転換が意図的になされたものかどうか、僕にはわかりません。少なくともまったく作者の念頭になかったとはいえないんじゃないだろうか、と夢想するだけです。

というわけで、僕はこの「悪の教典」を十分に面白く読みました。
貴志さんの本は年内にもう一冊出るかもしれないらしいので、今から楽しみです。

575

2010-09-25 | 雑談
ちょっと前からいいなと思っていたとある携帯電話のCM曲。
perfumeの「575」というんだそうです。
最後まで聴いてみたくなってyoutubeでさがしてみました。

いくつかアップされたものの中に、AppleのKeynote(プレゼンテーションソフト)で作ったというムービーがありました。
曲をバックに歌詞がアニメーション表示されるといういたってシンプルな作りのものです。

歌詞に使用されているのはヒラギノ角ゴシックで、Macを使っている人ならふだん最も目にするフォントの一つでしょう。
この見慣れたヒラギノ角ゴシックが音楽によって生命を吹き込まれ、一種のオーラを帯びてさえ見えてくるから不思議です。

その一方、職業病とでもいいますか、ヒラギノ角ゴシックを別の書体に置き換えたらどうなるだろうという想像も働きました。
そこからさらに一歩飛躍して、書体によって音楽を喚起することもできるんじゃなかろうか、という取り留めのない考えが浮かんだりもしました。
こんなことを僕に考えさせるのも紛れもなく「575」という曲の力でしょう。

築地初号ゴシック

2010-09-23 | 雑談
築地初号明朝体が各書体メーカーによって少しずつ形を変えながら現在に命脈を保っているように、築地初号ゴシック体もいくつかのバリエーションを派生させています。
僕は直接築地初号ゴシックを目にしたことがないので、写研からリリースされた「仮名民友ゴシック」(KMYEG)をもとに話を進めるしかないのですが、この仮名ゴシック体は一見したところひと癖もふた癖もある書体なので、最近のデジタル・フォントを見慣れた方には、少し癖が強すぎるように感じられるかもしれません。
現在も写研のシステムから出力可能な書体で、ほんの五年から十年くらい前まではちょくちょく雑誌で見かけましたが、最近めっきり目にしなくなりました(もっとも僕自身があまり雑誌を読まなくなったせいもあるかと思われます)。

話は変わりますが僕の田舎はT県で、ほぼ年に一度帰省します。
田舎ではすることがないので自室のベッドに寝っ転がって本ばかり読んでいるのですが、ボックスの粗末な本棚にはいまだに小学生時代に購入した児童文学の本が置いてあったりします。
むろん今はそんな昔の本を読み返す興味もなく、すぐ目と鼻の先にありながら置物以上の注意を向けたことはありませんでした。
今から数年前に帰郷したおり、ふと本棚に納まった児童文学の背表紙に目がとまりました。
思わず口元がにやけてしまったのは、その背表紙のタイトルに使われていた書体が、まさにこの「仮名民友ゴシック」だったからでした。
よく見てみると、目につくタイトルのほとんどに仮名民友ゴシックが使われています。
何十年も目にしていながら見落としていたんですね。

これらの本が出版された昭和40年代には、特太ゴシック体として仮名民友ゴシックが広く使われていたことが推測されます。Wikipediaで調べたところゴナが出たのが1975(昭和50)年あたりですから、このことからも何となく頷ける話ですね。子供の頃に読んだ本のタイトル文字から印刷文化の栄枯盛衰を垣間見る思いでした。

実は築地初号ゴシック体をベースにしたと思われるフォントは、ヒラギノで有名な字游工房からも数年前に「游築初号ゴシックかな」ファミリーとしてリリースされています。写研の「仮名民友ゴシック」も字游工房の「游築初号ゴシックかな」も僕の使用できる環境にないので、一字一字細かく比較することはできません。ただうろ覚えの記憶を頼りにいうと、「游築初号ゴシックかな」の方が現代風に多少単純化されてすっきりした印象になっていたような気がします。しかし細かいことは抜きにして、この一見古めかしいゴシック体は、なんとも形容しがたい魅力にあふれた書体だと僕には思われます。