画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(59)

2015-08-17 | 雑談
●有機体

わたしたちは今、物質的対象を無作為に取り上げて考察しました。ではそれらとは異なる何か特別な対象はないのでしょうか。先に述べたように、単なる物体は知覚という鋏によって、言わば行動が通過するであろう点線に沿って自然という生地から切り取られます。これに対して、その行動そのものを起こすであろう物体、そして実際に行動を行う前に、あらかじめその潜在的行動の素描を物質の上に投影している物体、或いは実在の流れに感覚器官を向けるだけで、その流れを一定の形式に結晶化させることができ、そうやって他のすべての物体を創造することのできる物体、すなわち生物体は、他の物体と同じ物体なのでしょうか。

確かに生物体も、物質的対象と同じく、延長の一部であることには変わりありません。そしてその部分は延長の他の部分と結び付いて「全体」と連帯し、物質のあらゆる部分を支配しているのと同じ物理的、化学的法則に従っています。しかし物質が相互に孤立した物体に分割されるとき、その分割はわたしたちの知覚に相対的であり、また様々な質点が閉鎖系として構成されるとき、その構成はわたしたちの科学に相対的であるのに対して、生物体は自然そのものによって孤立させられ、閉鎖されます。それは相互に補足し合う異質な諸部分から構成されており、相互に関連する様々な機能を果たします。要するにそれは、一つの個体です。生物体以外のどんな対象も、結晶でさえ個体と言われることはありません。それは何故かと言えば、結晶は部分相互の異質性も機能の多様性も持たないからです。なるほど個体とそうでないものとを区別することは、有機体の世界においても容易ではありません。この困難は動物界において既に無視し得ないほど大きく、植物が問題になる場合にはほとんど乗り越え難いものになります。この困難は、或る深い原因に由来しています。それについてはこの後述べますが、そこで見るように、個体性には無限の度合いがあり、有機的世界のどこにおいても、人間においてさえ個体性は完全には実現されていません。しかしだからと言って、個体性は生命の特性ではない、ということにはなりません。幾何学者のような厳密さを好む生物学者は、個体性に正確かつ一般的な定義を与えることができない点を得意気に指摘しますが、それを指摘するだけでは不十分です。完全な定義は、出来上がった実在にしか当て嵌まりません。しかるに生命の特性は決して完全に出来上がったものではなく、常に実現の途上にあります。それらの特性は一つの状態ではなく、一つの傾向です。しかも或る傾向が完全に実現されるのは、その傾向が他のどんな傾向にも邪魔されないときだけです。生命の領域において、果たしてそんなことがあり得るでしょうか。生命の領域では、この後示すように、相反する傾向が互いに絡み合っています。個体性に関して言えば、個体化の傾向は有機的世界の至るところに存在するものの、この傾向は至るところでそれに抗う傾向、すなわち生殖の傾向によって行く手を阻まれ、その発現を妨げられているのだと言えるでしょう。個体性が完全であるためには、有機体のどの部分も、全体から切り離されるとそれ単独では生きてはいけない、というのでなければなりませんが、しかしそうなると生殖は不可能だということになってしまいます。事実、生殖とは、古い有機体から切り離された断片で新しい有機体を再構成することでなくて何でしょうか。そういうわけで、個体性(に限らずあらゆる傾向)は自分のうちに常に自分の敵対者を住まわせています。時間において永続したいという個体の欲求そのもののために、個体性は空間においては決して完成されないよう運命づけられているのです。生物学者の務めは、個々の場合においてこの二つの傾向を考慮(して個体性の度合いを判断)することでしょう。したがって、決定的に定式化され、どんな場合にも機械的に適用し得るような個体性の定義を生物学者に求めても意味がありません。

ところが生命現象について考えるとき、わたしたちは単なる物質の様態について推論するのと同じようにそれを扱うことが余りにも多すぎます。個体性について議論するときほどこの混同が顕著に現れることはありません。周知のように、オヨギミミズを幾つかの断片に切断すると、その断片から頭が再生し、それぞれ独立した個体となります。ヒドラの断片もそれぞれ新しいヒドラになり、ウニの卵を分割するとそれぞれ完全な胚に成長します。ではその卵やヒドラやミミズの個体性はどこにあったのか、という疑問が生じるかも知れません。しかし或る個体からいくつもの個体が再生したからと言って、分断される前の個体が一つの個体ではなかったということにはなりません。箪笥から幾つかの引き出しが抜き取られたのを見た後で、その箪笥が全体として一つのものであったと言う権利は最早ない、ということならわたしも認めます。しかしそれは単に、箪笥の現在には、箪笥の過去に存在していた以上のものが存在することはあり得ないからであり、また箪笥が幾つかの異質な部分から出来ているとしても、それは組み立てられたときからそうであった、というに過ぎないからです。より一般的な形で言えば、わたしたちが行動するために必要な無機的な物体、わたしたちの思考がそれに象って作られている無機的な物体においては、「現在が過去以上のものを含むことはなく、原因の中には結果の中に見出されるものが既に含まれている」からです。無機的な物体がこうした単純な法則に支配されているのに引き換え、有機体の特徴は、ごく大雑把に観察しただけでわかるように、絶えず成長し、自らを変化させることにあります。そうだとすれば、最初「一」であった有機体が、その後「多」になったとしても驚くには当たりません。単細胞の有機体の繁殖とはまさにそのようなものです。この種の生物は細胞が二つに分裂しますが、そのどちらも完全な個体なのです。より複雑な動物になると、確かに自然は、新たに全体を生み出す能力を生殖細胞というほとんど独立した細胞にのみ割り当てるようになります。しかし再生という事実が示しているように、この能力の幾分かが有機体のあちこちに散らばって残っている、ということはあり得ます。それゆえ何らかの特別な場合に、この能力が潜在的な状態で完全に残存し、機会があり次第姿を現すということも考えられないことではありません。実を言うと、或る有機体が、独立して生き続けることのできる幾つかの断片に分裂したとしても、依然わたしはその有機体の個体性について語ることができます。或る有機体の個体性について語り得るためには、分裂するに先立ってその有機体の幾つかの部分が或る種の有機的統一性を示しており、一旦分裂した後は、それらの断片に同じ種類の統一性が再現される傾向があればそれで十分なのです。そしてこれこそまさに、有機的世界において観察されることでもあります。したがって以上のことから、こう結論することができるでしょう。個体性は、決して完全なものではない。どれが個体で、どれが個体でないかを確定するのは往々にして困難であり、時には不可能でさえある。にもかかわらず、生命は個体性を追求する傾向を示しており、自然に孤立し、或いは自然に閉鎖した系を構成することを目指している。

●老化と個体性

まさに今述べた傾向によって、生物は、わたしたちの知覚や科学が人為的に孤立させ、閉鎖させるすべてのものから区別されます。したがって生物を、物質的対象と同列に扱うのは間違いでしょう。強いて無機的なものに比較対象を求めるとすれば、生物は特定の物質的対象にではなく、寧ろ物質的宇宙全体にこそ比較されるべきです。とは言えこの比較自体には余り意味はありません。何故なら生物は観察可能な対象であるのに対して、宇宙全体は思考によって構成され、或いは再構成されるものだからです。しかしこの比較によって、少なくともわたしたちの注意は有機的統一性の本質的な特徴に向けられます。生きている有機体は、宇宙全体のように、或いは個別に取り上げられた個々の意識的存在と同じように持続するものです。有機体の過去はそっくりそのまま現在に引き継がれ、そこで現実化され現在に対して影響力を持ち続けます。そうでないなら、有機体が一定の段階を経て変貌していくこと、つまり歴史を持つことをどうして理解できるでしょうか。わたし自身の身体について考えてみると、わたしの身体は意識と同じように、幼年から老年へと年を経るにつれて少しずつ成熟し、そして老化しているのがわかります。わたしと同様、わたしの身体も老いるのです。と言うより寧ろ、成熟や老化は本来身体の属性であって、それに対応して起こるわたしの意識的人格の変化を成熟とか老化と表現するのは比喩に過ぎません。ところで、生物の段階を高いところから低いところへ降りていき、最も分化したものから最も分化していないものに、すなわち人間という多細胞の有機体から繊毛虫類という単細胞の有機体に目を移すと、この単純な細胞の中にも老化という同じ過程を見つけることができます。繊毛虫類は、分裂を一定回数繰り返すと寿命が尽きます。環境を変えることで、接合による若返りが必要になる時期を遅らせることはできるとしても、それを無限に遅らせることはできません。もっとも人間と繊毛虫類という二つの極端な例、有機体が完全に個体化している二つの極端な例の中間には、個体性がさほど顕著ではなく、老化は確かに起こっているものの、何が老化しているのか正確にはわからないような例も数多く存在します。もう一度言いますが、どんな生物にもそのまま機械的に適用できるような普遍的な生物学的法則は存在しません。存在するのはただ、生命が放射した様々な(生物)種が向かっていく一般的ないくつかの方向です。個々の種はそれぞれ自己を形成する働きそのものにおいて自己の独立を確保し、行き当たりばったりに前進して多かれ少なかれ脇道に逸れ、時には元来た坂道を引き返して本来の方向に背を向けることさえあります。そういうわけで、例えば木の梢は常に若々しく、また接ぎ木をすればいつでも新しい個体を作れることから、木が老化しないこと(老化の反例)を示すのはさして難しいことではありません。しかし木のような有機体――それは個体と言うより寧ろ社会と言うべきでしょうが――においてさえ、たとえそれが葉とか幹の内部に限られるとしても、何かが老化しており、さらに個別に細胞を調べれば、どの細胞も一定の仕方で変化しています。何かが生きているところでは、必ずどこかで時間の記入される帳簿が開かれているのです。

それは比喩に過ぎない、と言う人もいるかも知れません。――事実、時間に有効な働きや固有の実在性を与えるような表現をすべて比喩と看做すのが機械論の本質です。直接的な観察は、わたしたちの意識的存在の基盤をなしているのは記憶機能、言い換えると、過去の現在への延長であること、つまり生きて活動している持続、不可逆的な持続であることをわたしたちに示します。また事実に基づく推論は、常識と科学によって切り取られた対象や、孤立させられた系から遠ざかれば遠ざかるほど、過去を蓄積する記憶機能によって逆行することを禁じられているがゆえに、片時も同じ状態にとどまることなく内的傾向を変化させている実在に近づいていくことをわたしたちに示します。ところが精神の機械論的本能は、頑としてそれを認めようとしません。機械論的本能は理知より強く、直接的な観察より強いのです。わたしたちは無意識のうちに、一人の形而上学者、後述するように、生物全体の中で人間が占める位置によって説明される一人の形而上学者、独断的な要求やありきたりな説明、還元不可能なテーゼを持った一人の形而上学者を自分のうちに持っています。すべてが具体的な持続の否定に通じるそのテーゼはわたしたちにこう告げます。変化と呼ばれているものは、諸部分の配列や配列の変更に還元されなければならない。時間の不可逆性は、わたしたちの無知に起因する単なる見かけでなければならない。時間を逆行することができないということは、単に人間が或る物や状態を元に戻すことができないということを意味しているに過ぎない、と。そうなると老化は最早、何らかの物質が徐々に獲得されるか、もしくはそれが徐々に失われること、恐らくはその両方、すなわち何かが獲得されると同時に何かが失われることでしかない、ということになってしまいます。砂時計は、容器の上部が空になれば容器の下部が一杯になり、ひっくり返せば元の状態に戻ります。生物にとっても時間はそれと同じ程度の実在性しか持たなくなります。

生まれてから死ぬまでの間に、何が獲得され、何が失われるかということについては、確かに研究者の間でも意見は一致していません。或る研究者は、細胞が生まれてから死ぬまでの間、原形質の量が不断に増加することに注目しています。もう少し有力な説によれば、有機体の更新が行われる「内的環境」中の栄養物質の量が減少する一方で、排泄されない残存物質の量が増加し、この残存物質が体内に蓄積される結果、身体が「殻で覆われたように硬化」するのだと言います。或いは老化を説明するためにはそれだけでは不十分で、さる著名な微生物学者が主張するように、食作用も考慮に入れなければならないのでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはこの問題に決着をつける資格はありません。しかし今紹介したこの二つの説は、何が獲得され、何が失われるかについては意見の一致を見ていないものの、何らかの物質が絶えず蓄積されたり失われたりすることを認める点では一致しています。この事実は、説明の枠がア・プリオリに用意されていることを暗示しています。これから考察を進めていくうちに明らかになるでしょうが、わたしたちが時間について考えるとき、砂時計のイメージから逃れるのは容易なことではありません。

老化の原因は、もっと深い筈です。わたしたちの考えでは、胚の発達と、完成された有機体の発達は完全に連続しています。つまり生物を発達させ、成長させ、老化させる推進力は、生物に胚生の諸段階を経過させる力と同じものなのです。胚の発達は、間断のない形態変化として現れます。その局面をすべて記述しようとすれば、連続を目の前にしたときのように、無限の中に迷い込んだかのように感じられるに違いありません。生命は、そうした出生以前の(胚の)発達の延長です。目の前にあるのが老化しつつある有機体なのか、それとも発達し続ける胚なのか、往々にして明言できないのがその証拠です。例えば、昆虫類の幼虫や甲殻類の幼生はまさにそのようなものです。他方、わたしたちのような有機体では、思春期や更年期における危機が個体の全面的な変化を惹き起こしますが、そうした危機における変化は、幼生や胚生の過程で起こる変化にそっくりなぞらえることができます。――しかしそれらの劇的変化も、老化の一過程であることには変わりありません。こうした危機は一定の年齢に達すると訪れ、ごく短期間のうちに劇的な変化をもたらします。しかしそうだとしても、ちょうど満二十歳になった成人に徴兵の通知が届くように、単に或る年齢に達したという理由だけでその危機がいきなり外からやってくるのだと考える人はいないでしょう。思春期に訪れるこの変化は、明らかに出生以来、否、出生以前から毎瞬間準備されてきたものであり、この危機に至るまでの生物の老化には、少なくとも部分的には、この漸進的な準備が関与しています。要するにここでわたしたちが言いたいのは、老化現象において本来の意味で生命とかかわりがあるのは、感知できないほど無限に分割された形態変化の連続ではないか、ということです。勿論その一方で、老化には有機体の壊廃現象が伴うのも事実です。老化を機械論的に説明する人は専らこの壊廃現象に着目します。そういう人は、(先ほど紹介したように)いくつかの硬化の事実や、残存物質の漸次的蓄積、細胞内の原形質の漸次的増加といった点を指摘するでしょう。しかしそのような目に見える結果の背後に、老化の内的な原因が隠されています。生物の発達も、持続が連続的に蓄積され、過去が現在のうちに存続する点では胚の発達と何ら変わりません。したがってそこには、少なくとも有機体的記憶とも言うべきものが存在する筈です。

単なる物質の現在の状態は、専ら直前の瞬間に起こったことに依存しています。科学によって規定され孤立させられた系における質点の位置は、直前の瞬間におけるその質点の位置によって決まります。つまり無機的物質を支配する諸法則は、原理的に、(数学者が解する意味での)時間が独立変数の役割を果たすような微分方程式によって表すことができます。生命の法則についても、事情は同じでしょうか。或る生物の状態は、直前の状態によって余すところなく説明することが可能なのでしょうか。生物を他の自然物と同じように扱い、自分の都合に合わせて、化学者や物理学者、天文学者が操作する人為的な系と生物とを同一視することにア・プリオリに同意するなら、答えは然りです。ところで、先ほど示した命題の持つ意味は、天文学や物理学や化学においては極めてはっきりしています。それが意味しているのは、科学にとって何よりも重要なもの、すなわち現在の様相は、直前の過去の関数として計算できる、ということなのです。生命の領域では、そんなことは到底ありそうにありません。生命の領域で計算できるのは、せいぜいのところ、或る種の有機的壊廃現象くらいでしょう。有機的壊廃とは逆の有機的創造、本来の意味で生命を構成する進化現象について言えば、どうすればそれを数学的に処理できるのか、わたしたちには皆目見当もつきません。それができないのは、わたしたちが無知なせいだ、と言う人がいるかも知れません。しかしそれを数学的に処理できないということは、次の二つのこと、すなわち第一に、生物の現在の瞬間の存在理由は、直前の瞬間の中に見出されるものではないということ、第二に、生物の現在の瞬間の存在理由を見出すには、その有機体の過去全体、その遺伝、つまり極めて長い歴史の全体を現在の瞬間に結び付けなければならないということを表していると考えることもできます。事実、生物学の現状のみならず、その趨勢をも示しているのはこの後者の仮説なのです。超人的な計算能力をもってすれば、太陽系と同じように生物も数学的に処理できる、という思想は、ガリレイの物理学上の諸発見以来、徐々に明確な形を取るに至った或る種の形而上学から少しずつ形成されたものですが、後ほど示すように、人間精神にとって自然なこの形而上学は、もともとわたしたちにとって身近なものであったとも言えます。この形而上学の見た目の明晰さ、それが真実であると考えようとするわたしたちの抜き難い欲求、多くの優れた哲学者や科学者が無批判に進んでそれを受け入れていること、要するにこの形而上学がわたしたちの思考を惹き付ける魅惑のすべては、逆にわたしたちがこの形而上学に対して警戒感を抱く要因ともなり得ます。この形而上学がわたしたちにとって魅力的なものであることは、それがわたしたちの生来の或る傾向を満足させている何よりの証拠です。しかるに後で見るように、知性の諸傾向は今でこそ生得的なものになっているとは言え、もともとは生命がその進化の過程で創造したものに違いありません。それらの傾向は、生命が自分自身を説明するために作られたのではなく、全く別の目的のために作られたものなのです。

人為的な系と自然的な系、生命のあるものと生命のないもの、これら二つのものを区別しようとすると決まってわたしたちの前に立ちはだかるのが、この知性の傾向の抵抗です。この知性の傾向のために、有機的なものは持続すると考えることにも、無機的なものは持続しないと考えることにも、わたしたちは等しく困難を覚えます。その内なる傾向はわたしたちにこう反論します。「何だって! 君は或る人為的な系の状態は専ら直前の状態に依存している、と述べたにもかかわらず、自分が時間を持ち込んでいないと言い張るのか。君はその系を持続の中に位置付けているではないか。また君の言うように、過去は生物の現在の瞬間と一体になるということは、有機的な記憶機能がこの過去全体を直前の瞬間に凝縮するということである。そうなると結局、直前の瞬間が現在の状態の唯一の原因だということになるではないか」。こんな風に知性が反論するとき、知性が見落としているのが、具体的な時間と抽象的な時間とを分かつ根本的な違いです。実在的な系は具体的な時間に沿って展開され、抽象的な時間はわたしたちが人為的な系について考えるときに介入してくるに過ぎません。人為的な系の状態は直前の瞬間の状態に依存する、と言うとき、わたしたちはどういう意味でそう言っているのでしょうか。まず注意して置くと、或る数学的な点に隣接する数学的な点など存在しないのと同様に、或る瞬間の直前の瞬間などというものは存在しませんし、存在し得ません。「直前の」瞬間とは、実は間隔dt(無限小の時間間隔)を隔てて現在の瞬間に結び付いている瞬間です。つまりこの命題は、人為的な系の現在の状態は、de/dtとかdv/dtといった微分係数、すなわち現在の速度や現在の加速度が組み込まれている方程式によって決定される、ということを述べているのです。したがって結局のところ、ここで問題になっているのは現在以外の何物でもありません。傾向とともに取り上げられているのは事実であるにせよ、問題になっているのは現在だけなのです。実際、科学が扱う系は、絶えず更新される瞬間的な現在のうちに存在するのであって、過去が現在と一体化しているような実在的で具体的な持続のうちに存在するのではありません。例えば数学者が、時間tが経過した後の或る系の未来の状態を計算するとしましょう。その場合、時間tが経過する間、物質的宇宙が消滅し、時間tが経過した瞬間突如また出現する、と想定しても(計算を行う上では)何の支障もありません。重要なのはt番目の瞬間――純粋に瞬間的なものに過ぎないt番目の瞬間だけです。その瞬間に達するまでの間に流れるもの、すなわち実在的な時間は数学者にとって何の意味も持たず、彼の計算に入ってくることもありません。仮に数学者がその間隔の間に身を置くと称しても、彼が身を移すのは常に或る点であり、或る瞬間であり、つまりは時間t'の末端です。そうである以上、時刻T'までの間隔が問題になることはないのです。また仮に、微分dtを想定してその間隔を無限小の諸部分に分割したとしても、それが意味しているのは、ただ彼が加速度や速度を考慮しているということ、すなわち傾向を示す数、或る所与の瞬間における系の状態の計算を可能にする数を考慮しているということに過ぎません。しかし間隔をどんなに細かく分割したところで、彼が問題にしているのは相変わらず或る所与の瞬間、つまり停止した瞬間であって、流れる時間ではない、という事実に変わりはないのです。要するに数学者が扱う世界とは、瞬間毎に死滅しては再生する世界、デカルトが連続的創造について語っていたときに考えていたような世界に他なりません。しかしそんな風に想定された時間で、進化、すなわち生命の特性をどうして表象することができるでしょうか。進化には、現在が過去を現実に引き継ぐという観念、言うなれば連結符によって音符と音符が結ばれるという観念、すなわち持続という観念が含まれています。生物、或いは自然的な系についての認識が、持続の間隔そのもの(連結符)にかかわる認識であるとすれば、人為的な系、或いは数学的な系についての認識は、その末端(音符)にしかかかわらない認識と言えるでしょう。

以上のことから、生物は、変化の連続、現在における過去の保存、真の持続といった属性を意識と共有している、と考えてよいように思えます。さらに一歩進んで、生命は意識的活動と同じく発明であり、不断の創造である、と言えるでしょうか。

(つづく)

「ジェノサイド」(58)

2015-08-17 | 雑談
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●意識一般について

わたしたちがその実在を最も確信し、最もよく知っている存在は、疑いもなくわたしたち自身の存在です。何故なら、他のすべての対象について抱く観念は外的で表面的なものに過ぎないと考えられるのに対して、わたしたちは自分自身を内的に、深く知覚しているからです。このように自分自身を知覚するとき、わたしたちが確認するのはどんなことでしょうか。この特別な場合に、「存在する」という言葉は正確には何を意味しているのでしょうか。ここで簡単に、先に発表した研究の結論を思い出してみましょう。

最初にわたしが確認するのは、わたしが或る状態から別の状態に移行している、ということです。わたしは暑いと感じることもあれば、寒いと感じることもあります。楽しいと感じることもあれば、悲しいと感じることもあります。働いていることもあれば、何もしていないこともあります。周囲の光景や出来事に目を奪われていることもあれば、目前の出来事とは関係のないことに気を取られていることもあります。感覚、感情、意欲、表象、こういったものの変化がわたしの存在を分有し、わたしの存在を刻々と彩っていきます。それゆえわたしは、絶えず変化しています。しかしそう言っただけでは十分ではありません。変化というものは、わたしたちが考えているよりも遥かに深く存在に根を下ろしているものなのです。

わたしは今、わたしの状態がそれぞれひと纏まりのものであるかのように語っています。確かにわたしは変化という言葉を使い、自分が変化している、と口では言っているものの、変化を或る状態から次の状態への移行としか捉えていません。つまりそれぞれの状態を個別に取り上げれば、次の状態に移るまでの間ずっとそれは同じ状態にとどまっている、という風にわたしたちは考えるのです。しかしどんな感情や表象や意欲であれ、それらをほんのちょっと観察すれば、一瞬毎に変化しない状態は存在しない、ということにきっと気付くに違いありません。もし或る心的状態が変化するのをやめれば、その時点で持続の流れも止まるでしょう。最も安定していると考えられる内的状態、すなわち静止している外的対象の視覚的知覚を例にとって考えてみましょう。その対象は静止したまま動かず、わたしはその対象の同じ面を、同じ角度から、同じ明るさの下で見ているとします。しかし仮にそのような条件下で見たとしても、その対象の視覚は、単に一瞬が経過したというただそれだけの理由によって、最早一瞬前の視覚と同じものとは言えません。わたしの記憶機能が、自分の過去の幾分かを現在のうちに持ち込むのです。わたしの心的状態は持続を満身に吸い寄せながら時間の中を進み、進めば進むほどどんどん太っていきます。あたかも自分で自分自身の雪だるまを作っているかのように。感覚、感情、欲望といったより深い内的状態、つまり単純な視覚的知覚とは違い、不動の外的対象とは何ら関係のない内的状態については、なおさら同じことが言えるでしょう。もっともわたしたち自身の立場からすると、そうした瞬間毎の変化はやり過ごして、変化が身体に新しい態度を取らせ、注意を新しい方向に向けさせるほど顕著になったときにそれに気付いた方が好都合です。実際、状態が変わったことに人々が気付くのはまさにその瞬間です。しかし実を言うと、人は常に変化しており、状態そのものが既に変化なのです。

このことが意味しているのは、或る状態から別の状態へ移行することと、同じ状態にとどまることとの間には本質的な違いはない、ということです。「同じままにとどまっている」状態がわたしたちが想像する以上に変化の激しいものだとすれば、逆に或る状態から別の状態への移行は、同じ状態の連続とほとんど見分けがつきません。状態の変遷は連続的なものですが、わたしたちは一つ一つの心理状態の絶え間のない変遷、連続的な変遷を見落としてしまいます。状態の変化が顕著になり、わたしたちの注意を惹くようになったとき、あたかも新しい状態が先行する状態に並置されるかのように(つまり連続など存在しないかのように)わたしたちが語るのはまさにそのためです。このとき先行する状態は(新しい状態が出現するまでの間)同じ状態にとどまっていたと看做され、かくてわたしたちは状態から状態へ(飛び飛びに、つまり非連続的に)果てしなく飛び移っていきます。わたしたちの心的生活が一見非連続的なものに見えるのは、したがって、わたしたちが一連の非連続的な注意を介して心的生活を見ていることに起因します。わたしたちは破線のように非連続的に注意を移していくために、実際にはなだらかな坂しかないのに、階段の踏み段を見ているかのように錯覚してしまうのです。わたしたちの心的生活は、確かに予期せぬ出来事に満ちています。それら無数の出来事はそれ以前の出来事とは全く異なり、それ以後の出来事とも全く関係がないように見えるかも知れません。しかし一つの連続から出現してくるこれらの出来事の非連続性は、その連続を背景に浮かび上がるものであり、またそれらの出来事を隔てている間隙そのものも、この背景の連続の上に成り立っています。これら非連続的な出来事は、言うなれば交響曲で断続的に鳴り響くティンパニの音のようなものです。ティンパニの音はひときわ注意を惹くがゆえに、わたしたちの注意は自ずとその音に向けられます。しかしそれらの音の一つ一つを支え、運んでいるのは、わたしたちの心的生活の全体、途切れることのない流れの全体です。この太い流れの帯は、わたしたちが感じ、考え、欲していることのすべて、つまり或る一定の瞬間におけるわたしたちのすべてを含んでいます。ティンパニの音は、流れの帯の中で最も明るく照らし出された点に過ぎません。実際にわたしたちの状態を形作っているのは(非連続的な点の連なりではなく)この流れの全体です。状態というものを以上のように定義すれば、状態とは、一つ一つ明確に区別し得るような要素ではない、と言うことができます。それらは相互に連続し、果てしなく続く一つの流れを形成しているのです。

ところで諸々の状態を注意によって人為的に分離してしまったために、わたしたちはその代償として、今度はそれらを何らかの手段によって人為的に繋ぎ直さなければならなくなります。そこでわたしたちは、無定形で自己同一的な自我、不動の自我なるものを(後述するように「基体」として)想定します。そして次々に現れる心理状態をそれぞれ独立したものと看做し、それらが自我の上に列をなして並んでいる、という風に想定します。つまり相互に浸透しながら流動している様々な色合いの連続的な変化の中に、わたしたちの注意は明瞭な様々な色彩、言わば凝固した様々な色彩を切り取り、切り取った色彩を、色とりどりの真珠の連なったネックレスのように並置していくのです。そうなると真珠をただ並べるだけではなく、すべての真珠を繋ぎ合わせるための一本の紐、凝固した紐が必要になってきます。しかしこの無色の基体(紐或いは自我)がそれを覆う色彩によって絶えず彩色されていくのだとすれば、それは永遠に規定されず、したがってわたしたちにとっては存在しないのも同然です。ところで、わたしたちは彩色されたもの、すなわち様々な心理状態以外のものを知覚することはありません。わたしたちが想定したこの「基体」とは、実を言うと、実在するもの(知覚し得るもの)ではありません。一つの連続が展開するところに次々に状態を並置していくのがわたしたちの注意特有のやり方ですが、わたしたちの意識にとってこの「基体」は、そうした操作の人為的な性格をその都度思い出すための単なる記号なのです。もしわたしたちの存在がばらばらの状態によって構成されているのだとすれば、そして何事にも無関心な「自我」がそれらばらばらの状態を一つに纏めなければならないのだとすれば、わたしたちにとって持続は存在しないことになるでしょう。何故なら変化しない自我は持続せず、次の状態に取って代わられるまでの間ずっと自己同一的であるような状態も同様に持続しないからです。それゆえ状態を支える役割を与えられた「自我」(基体)の上にいくらそれらの状態を並べていったところで、持続を創り出すことはできません。凝固したものの上に凝固したものを並べたところで、それが流動する持続を生み出すことは決してないでしょう。事実、そうして得られるのは、せいぜいのところ内的生の人為的な模造品であり、或いはその静的な等価物、実在的な時間が抜き取られているがゆえに、論理や言語の要求により適合する内的生の等価物です。これに対して、記号によって覆い隠され、記号の下で展開されている心的生活を注意して観察すれば、そこでは時間こそ実体そのものであることに容易く気付くに違いありません。

ここで一つ付言して置くと、実は時間ほど不朽不滅の実体は存在しません。というのも、持続とは或る瞬間が別の瞬間に取って代わられることを意味するものではないからです。仮に或る瞬間が別の瞬間に置き換えられるだけだとすれば、現在の他には何も存在しないことになるでしょうし、過去が現在の中に延長することもなく、進化も具体的持続も存在しない、ということになってしまうでしょう。過去が未来を侵蝕し、膨張しながら前進していくこと、この過去の連続的な進展が持続です。過去は絶えず増大するものであり、したがってまた自らを無際限に保存するものでもあります。わたしたちがかつて証明しようとしたように、記憶機能とは、様々な記憶を引き出しにしまって置く能力でもなければ、それらを帳簿に記載する能力でもありません。そこには引き出しも帳簿もなく、厳密に言えば能力すら存在しません。何故なら能力とは、わたしたちが欲するとき、或いはそれを行使し得るとき、断続的に行使されるものですが、過去の自己自身への蓄積は間断なく続けられるからです。実際、過去はひとりでに、自動的に自らを保存します。現に、わたしたちには常に過去の全体がついて回ります。わたしたちの背後には幼い頃からわたしたちが感じ、考え、欲してきたもののすべてが、現在の中に侵入しようとその上に身を乗り出しながら付き従い、それらを外に締め出そうとする意識の扉めがけて次々に押し寄せます。脳のメカニズムは、まさに、過去の大半を無意識の中に押し返すように出来ており、現在の状況を照らし出すことのできるもの、準備中の行動の助けになるもの、要するに有用な働きができるものしか意識の中に入れないように出来ています。無論例外はあるにせよ、それはせいぜい、脳の監視の目を逃れた記憶が、微かに開いた扉からこっそり侵入してくる程度のことに過ぎません。侵入してきたそれらの記憶は無意識の使者であり、わたしたちが無自覚に背後に引きずっているものの存在を知らせてくれます。もっとも過去について明瞭な観念を持っていないときでも、わたしたちは自分自身の過去が相変わらず現前していることを漠然と感じていないわけではありません。実際、わたしたちの存在が、誕生以来の、否、わたしたちが先天的な素質をもって生まれてくることからすると、誕生前からのわたしたちの生きた歴史の凝縮でないとしたら、わたしたちとは、或いはわたしたちの性格とは一体何でしょうか。わたしたちが思考する際に参照するのは、確かに自分の過去のごく一部に過ぎません。しかし(単に思考するだけではなく)欲したり意志したり行動する際にわたしたちの背中を押してくるのは、わたしたちの持って生まれた心的傾向を含む過去の全体です。したがって表象となって現れるのは過去のごく一部に過ぎないとしても、わたしたちの過去の全体はその推力によって、傾向という形で紛れもなく現前しています。

このように過去は決して消滅することがないという事実から、意識は同じ状態を二度と経験することができない、という命題を導き出すことができます。たとえ環境が同じであったとしても、環境が働きかける人間の人格はそれ以前の人格と同じものではありません。環境がその人物と接点を持つのは、その人物の歴史の新しい瞬間に他ならないからです。わたしたちの人格は経験が蓄積されていくことによって瞬間毎に作り直されるので、絶えず変化しています。人格が変化する以上、或る状態が表面的には同じように見えたとしても、それが深みにおいて反復することはあり得ません。持続が不可逆的なのは、まさにそのためです。持続のほんのわずかな部分さえ、わたしたちは二度と経験することはできないでしょう。何故ならそれをもう一度経験するためには、まず、それに続いて起こったあらゆる出来事の記憶をすべて消去しなければならないからです。わたしたちは知性からは何とかそれを消し去ることができるかも知れませんが、意志から消し去ることはできません。

そういうわけで、わたしたちの人格は絶えず成長し、発展し、そして成熟します。わたしたちの人格の一瞬一瞬は、それ以前にあったものに付け加えられる新しいものです。さらに一歩進めて言うと、それは新しいものであると同時に、予見不可能なものでもあります。なるほどわたしの現在の状態は、わたしのうちにあったものや、つい先ほどまでわたしに働きかけていたものによって説明されます。現在の状況を分析してみても、それ以外のものは見つかりません。しかしこれら全く抽象的な要素を具体的に組織化している単一で不可分な形式に関して言えば、どんな超人的な知性もそれを予見することはできないでしょう。何故なら予見するとは、過去に知覚したものを未来に投影することであり、或いは既に知覚したものを並べ替えて再構成し、それを未来の中に表象することですが、これまで一度も知覚したことがなく、しかも単一のものは予見しようがないからです。ところでわたしたちの状態の一つ一つは、展開される歴史の一瞬として捉えた場合、まさにそういった(予見し得ない)ものに該当します。それらは単一で、既に知覚されたものではあり得ません。わたしたちの状態という不可分のものの中には、既に知覚されたものすべてに加えて、現在がそれに付け加えるものも凝縮されているからです。わたしたちの状態の一つ一つは二つとない歴史の、唯一無二の瞬間なのです。

例えば完成した肖像画は、モデルの容貌や、画家の気質、パレットに溶かれた絵の具などによって説明されます。しかし肖像画を説明するものをあらかじめいくら知っていたところで、その肖像画がどんなものになるか誰にも想像がつかないでしょうし、当の画家本人でさえ正確にそれを予見することはできないに違いありません。何故ならそれを予見するということは、肖像画が完成する前にそれを仕上げることであり、最初から破綻している不条理な仮定でしかないからです。わたしたちの生の各瞬間、わたしたちがその作者である生の各瞬間についても同じことが言えます。それらの瞬間は、その一つ一つが一種の創造です。画家の才能は、彼が生み出した作品が彼自身に与える影響の下に開花したり萎んだり、その時々で変化します。同様にわたしたちの状態の各々もわたしたちが自ら生命を吹き込んだばかりの新しい形式であって、それらはわたしたちから生まれたものでありながら、わたしたちの人格を変化させます。わたしたちの為すことは、わたしたちがいかなる存在であるかによって決まる、と言うのは間違いではありませんが、今述べたことを考え合わせると、それにはこう付け加えなければなりません。わたしたちの存在の幾分かは、わたしたちがまさに為していることから形作られているのであって、わたしたちは絶えず自己を創造しているのだ、と。しかもこの自己による自己の創造は、自分が何をしているかを理性が正確に把握すればするほどほどより一層完全なものになります。理性はこの場合、幾何学において働くのとは違い、わたしたちに人格と無関係な前提を一度にすべて与えるようなことはせず、人格と無関係な結論を有無を言わさず突き付けたりもしません。寧ろ逆に、同じ理性であっても、人によって、或いは同じ人に対しても時と場合によって、いずれも合理的ではあるものの根本的に異なる行為を命じることもあり得ます。実を言えば、それらの理性自体そもそも完全に同じものではありません。何故なら理性は人によって異なり、また時と場合によっても異なるからです。このためそれらの理性を、幾何学の場合のように抽象的に外から操作することはできず、したがってまた、他の人に対して提起された人生の問題をその人に代わって解くこともできません。それらの問題は、各人が自分自身で内的に解決する他はないのです。しかしこの点についてこれ以上述べるのはやめましょう。わたしたちがここで問題にしているのは、飽くまで「存在する」という言葉に意識が与える正確な意味は何か、ということです。以上の考察によってわかったのは、意識を持つ存在にとって存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは限りなく自己を創造することだ、ということです。存在一般についてもこれと同じことが言えるでしょうか。

●無機物

物質的対象を観察すると、それらは例外なく、わたしたちが今挙げた性格とは逆の性格を示します。物質的対象はいつまでも現在の状態のままとどまり、外力の影響によって変化する場合でも、恐らくその変化はそれ自体としては変化しない諸部分の移動でしかありません。それらの部分そのものが変化すれば、わたしたちは今度はそれをさらに細かい部分に分割します。こうしてわたしたちはそれらの細片を形成している分子へ、ついで分子を構成している原子へ、原子を構成している微粒子へ降りていき、最後に「測定し得ないもの」に、すなわち微粒子を形成していると考えられる単純な渦運動の発生する媒質に辿り着きます。このようにわたしたちは、分割や分析をどこまでも必要なだけ推し進めます。唯一わたしたちが立ち止まることがあるとすれば、それは不動のものに行き当たったときです。

わたしは今、合成された対象がその諸部分の移動によって変化する、と述べました。しかし或る部分がその位置を離れたとしても、それが再び元の位置に戻ることを妨げるものは何もありません。それゆえ或る状態から別の状態に移り変わった諸要素の集まりは、自力で元の位置に戻ることはできないにせよ、少なくともそれらすべてを元の位置に戻すことのできる外的な原因の働きによっていつでも以前の状態に戻ることが可能です。これはつまり、この諸要素の集まりの或る状態は何度でも好きなだけ反復し得る、ということであり、この集まりは年を取ることがない、ということです。この諸要素の集まりには歴史というものが存在しません。

したがってそこでは、形式にせよ質料にせよ、何一つ新しいものは生まれません。この諸要素の集まりの現在に、それらと相互に作用し合っていると考えられる宇宙のすべての点を含めてよいとすれば、この諸要素の集まりの未来はその現在の中に既に現前している、と言えます。超人的な知性ならば、この系(諸要素の集まりと、それらと相互に作用し合っている宇宙のすべての点)の中の任意の点が任意の時刻において占める空間内の位置を計算によって割り出すことができるでしょうし、そうであれば、この系では全体の形式に諸部分の配列以上の意味はないので、この系の未来の形式は理論上、現在の配列の中に現れている筈だからです。

事実、諸々の対象についてわたしたちが抱いている観念や、科学が孤立させる諸々の系に対して行うわたしたちの操作のすべては、時間はそれらの対象や系を侵蝕しない(それらは永久に変化しない)という考えの上に成り立っています。わたしたちは以前の著作(「意識に直接与えられているものについての試論」)の中で、この問題に簡単に触れたことがあります。それについては本書の後半でもう一度触れますが、さしあたりここでは次の点を指摘するにとどめたいと思います。それは、物質的対象や孤立した系に科学が割り当てる抽象的な時間tとは、或る一定数の同時性、より一般的な言葉で言えば、或る一定数の対応関係以外の何物でもない、ということ、そしてそれらの対応関係を相互に隔てている間隔の性質如何にかかわらず、その対応関係の数は常に一定である、ということです。単なる物質を扱う場合、この対応関係相互の間隔が問題になることは決してありません。仮に間隔を考慮に入れるとしても、それは、その間隔の中に新たな対応関係を数えるためであり、この新しい対応関係相互の間で、どんなことが起ころうがそれが問題になることはないのです。孤立した系にしか注目しない科学や、個々別々の対象にしか注意を払わない常識は、どちらもこの間隔の両端に身を置き、間隔そのものに沿って進むことはありません。科学において、もしも時間の流れが無限に速くなったら、とか、もしも物質的対象や孤立した系の過去、現在、未来すべてが空間に一挙に展開されたら、と仮定し得るのはこのため(間隔は無視しても差し支えないため)です。対応関係相互の間隔を無視しても、科学の公式や常識の言語を変更する必要は全くなく、tという数は常に同じものを意味するでしょう。もっとも間隔を無視すれば、「時間の流れ」を既に引かれた一本の線と同一視することになるのは避けられませんが、仮にそうなったとしても、対象或いは系の諸状態と、この線上の複数の点との対応関係の数はやはり同じままでしょう。

とは言え物質世界においても、現象が継起するのは紛れもない事実です。孤立した系について、各系の過去、現在、未来は扇状に一挙に展開され得る、とわたしたちが推論によっていくら勝手に判断したところで、推論はこの事実を覆すことはできません。系の歴史は、あたかもわたしたちの持続に類似した持続を持つかのように徐々に繰り広げられます。一杯の砂糖水を作ろうと思えば、わたしは何はともあれ砂糖が溶けるのを待たなければなりません。このごく当たり前の事実は極めて重要なことを教えてくれます。というのもこの事実は、わたしが待たなければならない時間は、最早科学者や数学者の語る抽象的時間、物質界の歴史全体が空間の中に一挙に展開されるときでさえ、この歴史全体のどこにでも適用できるような抽象的時間と同じものではない、ということに気付かせてくれるからです。わたしが待たなければならない時間は、わたしの待ち遠しさ、言い換えると、好きなように伸ばしたり縮めたりすることのできないわたし自身の持続の或る部分と一致しています。それは最早思考される時間ではなく、生きられる時間です。一つの関係ではなく、一つの絶対的なものです。この事実が意味しているのは、要するに、一杯の水、砂糖、砂糖が水に溶ける過程、これらはわたしの感覚や知性が(行動の必要や欲求に従って)「全体」から切り取った抽象物に過ぎず、「全体」は恐らく、意識と同じような仕方で進展している、ということではないでしょうか。

科学が或る一つの系を孤立させ、或いは閉鎖させる操作は、確かに完全に人為的な操作とは言えません。この操作に客観的根拠がないなら、或る場合にはこの操作がうまくいくのに、別の場合にはうまくいかないことの説明がつかないでしょう。後述するように、物質は孤立的な系、幾何学的に扱うことができる系を構成する傾向を持っています。わたしたちは物質を、まさにこの傾向によって定義します。しかしそれは飽くまで一つの傾向に過ぎません。物質がこの傾向を極限まで進むことはなく、完全に孤立することも決してありません。科学がこの傾向を極限まで進み、それを完全に孤立させるのは研究の便宜のためです。いわゆる孤立系がわずかながらも外的影響を受け続けていることは、科学も暗黙の裡に認めています。ただその影響が極めて小さいために無視しても構わないと判断しているか、後で考慮に入れるつもりでいるか、いずれにせよ一旦それを脇に置いているに過ぎません。とは言えその影響がいかに小さいものであるにせよ、これらの影響が、或る系を別のより規模の大きい系に結び付けるに足る糸であることに変わりはありません。この糸はさらにこの第二の系を、第一の系と第二の系をともに含む第三の系に結び付けます。こうして最後には、最も客観的に孤立した系、他のすべての系から最も独立している系、すなわち太陽系全体に辿り着きます。しかしここに至ってもまだ孤立は絶対的ではありません。太陽は最も遠い惑星の彼方にまで熱と光を放射し、また他方で、様々な惑星とその衛星を引き連れて一定の方向に運動しています。太陽を宇宙の他の部分に結び付けている糸は、確かに極めて細いものでしかありません。しかしまさにこの糸を介してこそ、わたしたちの生きているこの世界の最も微細な部分にまで宇宙全体に内在する持続が伝わってくるのです。

実際、宇宙は持続しています。そして時間の本性を深く知れば知るほど、持続とは発明であり、形式の創造であり、絶対的に新しいものの絶えざる生成であることをわたしたちは理解します。科学によって限定された系が持続するのは、それが宇宙の他の部分と分かち難く結ばれているからに他なりません。もっとも後で触れるように、宇宙そのもののうちにも、相反する二つの運動、すなわち「下降」と「上昇」という二つの運動を区別しなければなりません。下降運動は、既に出来上がった状態で軸に巻かれている巻物を広げるだけの運動です。この運動はゼンマイがほどけるときのように、原理的にはほぼ一瞬で完了します。一方、成熟とか創造といった内的な働きに対応している上昇運動は、本質的に持続し、そのリズムを下降運動に伝えます。このため下降運動と上昇運動とは切り離すことができません。

したがって科学が孤立させた様々な系を「全体」に再統合(下記参照)するなら、それらの系に一種の持続を、わたしたちの存在形式と類似した存在形式を付与しても差し支えありません。ただしそのためには、飽くまでそれらの系を「全体」に再統合しなければなりません。わたしたちの知覚が限定する対象については、なおさら同じことが言えます。わたしたちが或る対象に認める明瞭な輪郭、その対象に個別性を与えている輪郭は、わたしたちが空間の或る点に及ぼし得る或る種の影響を素描したものに他なりません。それは言わば、わたしたちが行い得る行動の下描きです。この下描きは、わたしたちが事物の面やエッジを知覚するとき、あたかも鏡によって反射されるかのようにわたしたちの目に送り返されます。試しに世界から行動が無くなったと仮定してみましょう。そして行動のみならず、行動が行われる前に、知覚があらかじめ錯雑した実在の中に切り開く大まかな道筋(下描き)も無くなったと仮定してみましょう。すると物体の個別性は、普遍的な相互作用に解消されます。この相互作用こそ、恐らく実在そのものなのです。
(言うまでもなく、この「再統合」は質的に異なる二つのものの「存在論的統一」を表しています)

(つづく)