画竜点睛

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「ジェノサイド」(77)

2017-03-05 | 雑談
前章で述べたように、進化系統の上位に位置する高等動物は、大雑把に言って、消化系、呼吸系、循環系と、それらを統轄する感覚・運動神経系から成っています。消化系、呼吸系、循環系は感覚・運動神経系を清掃、修復、保護し、外的環境からそれをできるだけ独立させる役割を担っていますが、他の何にも増して重要な役割は、感覚・運動神経系が運動の際に費やすエネルギーを供給することです。それゆえ有機体の複雑さが増大するのは、理論的に言えば(進化過程における偶発事に起因する例外は無数にあるにせよ)、神経系を複雑化する必要があるからに他なりません。有機体においては、どの部分が複雑になってもそれに伴って他の多くの部分も複雑になります。何故ならそれらの部分自身生きなければならないからであり、生体の或る箇所に生じた変化は、たとえそれがどんなに些細なものであれ、他のあらゆる場所に反響するからです。したがって有機体の複雑化は、どんな方向にでも際限なく波及し得る、と言えるでしょう。しかし事実上常にそうだとは言えないにしても、権利上、あらゆる複雑化を条件付けているのは神経系の複雑化です。では、神経系そのものの進歩はどこにあるのでしょうか。それは、自動的な活動と意志的な活動とが同時に発達するところにあります。まず自動的な活動について言えば、それは意志的な活動に適切な道具を提供します。例えばわたしたち人間のような有機体においては、脊髄や延髄にかなりの数の運動機構が装備されており、合図があれば直ちにそれぞれの機構に対応した行為が引き起こされます。次に意志的な活動について言えば、意志は或る場合には専らそうした機構を構築することに努め、また或る場合にはどの機構を発動させるか、どの機構とどの機構を組み合わせるか、いつその機構を発動させるかを決定することに努めます。或る動物の意志は、それが選択できる運動機構の数が多くなればなるほど、またすべての運動経路の交差する点が複雑になればなるほど、換言すればその動物の脳が発達すればするほど効力を増し、強力になります。神経系が発達するに従い、こうして行為の持つ正確性や多様性、有効性や独立性が増大し、有機体はあたかも新たな行動の度にそっくり組み立て直される行動機械のように、いつでもすべての部品の形を自由に変えられるゴムでできた行動機械のように振舞うようになります。もっともこうした動物的生の本質的な特性は、神経系が未だ形をなしていない、それどころか本来の意味での有機体として完成されていないアメーバの未分化な塊りのうちに既に見て取ることができます。この動物は、あらゆる方向に不規則に変形します。したがって発達した動物では様々な部分に分化した結果、感覚・運動系に局在化された機能を、アメーバの塊り全体が果たしている、と言うことができます。アメーバは感覚・運動系が果たしている機能のうち、初歩的な部分を大まかにしか行わないために、高等な有機体に見られるような複雑さを免れています。そこでは付随的な諸要素が、消費されるべきエネルギーを運動的な諸要素に手渡す必要がありません。この動物は未分化のまま運動し、同じく未分化のまま、細胞内に取り込んだ有機物質を介してエネルギーを獲得します。そういうわけで、動物の系列の高低を問わず、動物的生の特徴は次の二つの点、すなわち、(一)エネルギーを蓄積し、(二)できるだけ柔軟な物質を介して、その蓄積されたエネルギーを予見できない様々な方向に向けて消費する点にあることをわたしたちは常に確認します。

では、そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。摂取した食物からです。食物は一種の爆薬であって、火花が散っただけで蓄積されたエネルギーが放出される仕組みになっています。その爆薬を製造したのは何者でしょうか。動物の肉も確かに食物になりますが、その動物は他の動物を食べ、食べられた動物もまた他の動物を食べ、という風に捕食者と被食者が一つの連鎖をなしています。この連鎖は、動物内で尽きているわけではありません。最終的に辿り着くのは植物です。ただ植物だけが、真の意味で太陽エネルギーを蓄えることができます。動物は或る場合には植物から直接太陽エネルギーを借用し、或る場合には植物から借用した太陽エネルギーを、動物同士で次々に受け渡ししているに過ぎません。では植物はそのエネルギーを、どうやって蓄えたのでしょうか。主にクロロフィルの機能によってです。この独自の化学作用について、わたしたちはその仕組みを解明する手掛かりを未だ持っていません。恐らくそれは、実験室で目にする化学作用とは似ても似つかぬものだと考えられます。クロロフィルの役割は、太陽エネルギーを蓄積すること、そのために太陽エネルギーを利用して炭酸ガスの炭素を固定することにあります。それは例えば、水を運んで高所にある貯水槽に溜めることで、水を運んだ人のエネルギーを蓄積するようなものです。一旦高所に水を運んで置きさえすれば、好きなとき、好きなように水車やタービンを動かすことができます。クロロフィルの働きによって固定された炭素原子の一つ一つが、恐らく、運び上げられた水の重量に相当する何か、或いは炭酸ガスの中で、炭素を酸素に結び付けている弾力のある糸の緊張に相当する何かを表しています。起爆装置を作動させ、再び炭素が酸素に結合し得るようにしてやれば、緊張していた糸は緩み、重いものは落下して、蓄えられていたエネルギーが再び顕在化します。

そういうわけで、動物であれ植物であれ、生命全体はその本質において、エネルギーを蓄積し、蓄積したエネルギーを柔軟で変形可能な経路(運動経路)に放出する努力として現れます。この経路の末端で、生命は無限に多様な仕事を遂行します。エラン・ヴィタールは物質を貫くことによって、できることならそうした成果を一度に獲得したかったに違いありません。もしその力が無限であったならば、或いは外部から何らかの助けがあったならば、エラン・ヴィタールはそれに成功することができたかも知れません。しかしこのエランは有限で、一回限りしか与えられません。それはすべての障害を乗り越えることはできません。このエランが生じさせる運動は常に妨害を受け、その結果、或るときは脇道に逸らされ、或るときは分割されます。有機的世界の進化とは、このような(生命と物質の)相克の展開に他なりません。こうして有機的世界に起こるべくして起こった最初の大きな変動は、植物と動物という二つの世界への分裂でした。それゆえこの二つの世界は互いに補い合ってはいるものの、両者の間に調和が実現されなかったのは当然のことだと言わなければなりません。植物がエネルギーを蓄えるのは動物のためではなく、自分自身で消費するためです。しかし植物におけるエネルギーの消費は、本質的に自由な行為へと向けられている生命の原初のエランが要求しているほどには非連続的なものでも集中したものでもなく、したがって効果的なものでもありません。同一の有機体が、二つの役割、すなわちエネルギーを徐々に蓄積し、それを集中的に利用するという二つの役割を、同一の力で一度に果たすことはできなかったのです。そういうわけで、根源的なエランが二重の傾向を含んでおり、また物質がこのエランに抵抗することで、有機体は外部から強制されたわけでもないのに、自ずと或るものは植物の方向へと進み、或るものは動物の方向へと進みます。この二分化に続いて、他の多くの二分化が生じました。その結果、生命は進化するに従い、少なくともその本質的な面において様々な系統に分岐します。しかしそこには進化だけではなく、あらゆる種類の退行や停止があり、偶発的な出来事があったことも忘れてはなりません。中でもとりわけ留意しなければならないのは、個々の種は、あたかも生命の一般的な運動がそれらの種を通り抜けたかのように振舞うのではなく、そこで停止したかのように振舞う、という点です。個々の種は自分のことしか考えず、自分のためにしか生きません。ここから、自然を舞台に繰り広げられる数知れぬ闘争が生まれます。またここから、ひと目でそれとわかる不調和、目を覆うばかりの不調和が生まれます。しかしわたしたちは、このような不調和の責任を生命の原理そのものに帰してはなりません。

したがって進化においては、偶然が大きな部分を占めています。採用される形態、と言うより寧ろ発明される形態は、ほとんどが偶然採用され、或いは発明されたものです。原初の傾向は相互に補い合う様々な傾向として分離し、それら分離した傾向は多種多様な進化系統を創造しますが、この分離は或る特定の場所、或る特定の瞬間に出会った障害に相対的で、偶然に多くを負うています。停止や後退も偶然的なものであり、適応もそのほとんどが偶然的なものです。進化において必然的なのは、ただ次の二つのことだけです。(一)エネルギーを徐々に蓄積すること。(二)蓄積されたエネルギーを、様々な予見し得ない方向に導きその末端で自由な行為として放出するための柔軟な経路を開鑿すること。

わたしたちの惑星では、或る一つのやり方でこの二つの目的が達成されました。しかしそれは、全く別のやり方で実現することもできたでしょう。生命が、特に炭酸ガスの炭素に目をつけなければならない必然性があったわけではありません。生命にとって本質的なことは、太陽エネルギーを蓄積することです。例えば生命は、酸素原子と炭素原子との分離を太陽に依頼する代わりに、別の化学的諸要素の分離を提案することも(それを実現する上での克服し難い困難はともかく、少なくとも理論上は)できた筈です。その場合には、わたしたちが知っているものとは全く異なる物理的手段によってそれらの要素を結合したり分離したりしなければならなかったでしょう。そうして炭素以外の要素が有機体のエネルギー物質の主要要素になっていた場合、有機物を形成する物質の主要要素の一つも窒素以外のものになっていたでしょうし、したがって生体に関する化学も、現にあるような化学とは根本的に異なったものになっていたと考えられます。その結果、わたしたちが知っているような生物の形態とは似ても似つかぬ生物の形態が生じ、解剖学も生理学も現在の解剖学や生理学とは別のものになっていたに違いありません。ただ感覚・運動機能に関してだけは、そのメカニズムはともかく、その働きは現在と同じであったと思われます。それゆえ地球以外の惑星や別の太陽系においても、生命がわたしたちの全く思いもよらないような形態で、わたしたちの生理学から見ると生命が絶対に忌避するような物理的諸条件のもと活動を行っていたとしても不思議ではありません。生命が本質的に、利用可能なエネルギーを獲得し、爆発的な行動のためにそれを消費することを目指すものであるならば、生命は恐らく、それぞれの太陽系やそれぞれの惑星において、地球上で行ったのと同じように、与えられた条件の下でそうした目的を達するために最も適した手段を選ぶでしょう。少なくとも類推によって推察する限り、以上のように考えることができます。地球における条件と別の条件が与えられた場合、生命は不可能になると主張する人は、この類推を逆向きに辿っているに過ぎません。実を言うと、エネルギーがカルノーの法則によって示される坂を下るところでは、そしてその下降が逆方向に進む原理によって遅らされるところならどこでも、つまり、すべての星にぶら下がっているすべての世界において生命は可能です。さらに言えば、生命は自らを集中させ、本来の意味での有機体、すなわち弾力的ではあるものの出来上がった経路をエネルギーの流れに提供する一定の身体として形をなす必要さえありません。例えば、エネルギーが何らかの形で蓄えられた後、未だ固体化されていない物質を貫いて進む可変的な流れに沿ってそのエネルギーが消費される、といった状況(そのような状況が明確に想定されることは滅多にないにせよ)が考えられます。その場合にもエネルギーが徐々に蓄積され、急激に消費され得る以上、生命の本質のすべてがそこにある、と言えます。この漠としたはっきりしない生命形態と、わたしたちが普段目にしている明確な生命形態との間には、わたしたちの心理生活における夢を見ている状態と覚醒している状態との間にある差異以上の違いは恐らくほとんどありません。生命が飛び立つのは、生命と逆の運動が行われた結果、星間物質が出現するまさにその瞬間であるというのが本当だとすれば、今述べたような条件こそ、物質の凝縮が完了する以前のわたしたちの星雲(銀河系)における生命の条件であった、ということは十分にあり得ます。

以上のことから判断すると、生命は現に見られるような外観とは全く別の外観を呈することもできたでしょうし、わたしたちの知っている形態とは全く別の形態を取ることもできた筈です。化学的基盤や物理的条件が現在とは異なっていた場合、エランそのものは同じでも、それは道中実際になされた分裂とは全く別の分裂の仕方をし、全体として別の道を通っていたでしょう。――通った道は現在より少なかったかも知れませんし、多かったかも知れません。どちらにしても、生物の系列全体を構成するどの種をとっても現在とは異なるものになっていたと考えられます。それはそうとして、そもそも生命が様々な系列や種に分裂しなければならない必然性はあったのでしょうか。何故、唯一つのエランが刻み込まれた唯一つの身体が無限に進化していかなかったのでしょうか。

わたしたちが生命を一つのエランに喩えるとき、恐らくそうした疑問が生まれてきます。わたしたちが生命をエランに喩えるのは、物理的世界から得られるイメージで、このエランというイメージ以上に生命に近似した観念を与えるものはないからです。しかしそれは飽くまでイメージに過ぎません。生命は、現実には心理的な秩序に属するものです。そして心理的なものの本質は、相互に浸透し合う潜在的な多数の項を含むところにあります。判然とした「多」が、空間において、ただ空間においてのみ可能であることは明らかです。事実そこでは、或る一つの点は別の点に対して絶対的に外的です。他方、純粋で空虚な「一」に出会うのもやはり空間においてでしかありません。それは数学的な点の一です。空間性と理知性とは相互に模倣し合っており、したがって抽象的な一と多は、空間の規定であるとも、悟性のカテゴリーであるとも任意に言うことができるでしょう。それに対して、心的な性質を持つものを空間に厳密に当て嵌めることはできませんし、悟性の枠に完全に収めることもできません。わたしの人格は、或る所与の瞬間、一であるのでしょうか、それとも多であるのでしょうか。もしわたしがわたしの人格を一であると主張するなら、内なる声、わたしの個性を分け持っている感覚や感情、表象の声が現れてわたしに抗議するでしょう。他方、わたしがそれを明瞭な多であると主張するならば、やはりわたしの意識は同じように強く抗議するでしょう。わたしの意識はこう抗弁します。わたしの感覚、わたしの感情、わたしの思考は、わたしがわたし自身に対して行った抽象であり、わたしの状態の各々が他のすべての状態を含んでいる、と。それゆえわたしは――悟性だけが言語を持っている以上、悟性の言葉を用いて表現すれば――わたしとは多なる一であり、一なる多である、とでも言う他はありません。しかし一にしろ多にしろ、悟性が自己のカテゴリーを通して捉えたわたしの人格性の一面に過ぎません。わたしは一というカテゴリーに入ることも、多というカテゴリーに入ることも、またこの二つを結び付けることによって、わたしがわたし自身の奥底に見出す相互浸透性や連続性の近似的な模倣物を得ることができるとしても、同時にこの二つのカテゴリーに入ることもありません。わたしの内的な生とはそういうものであり、生命一般もまたそういうものです。確かに生命は、物質との接触において、或る一つの衝動、或いは一つの弾みに喩えられますが、生命をそれ自体において考えれば、それは汲めど尽きせぬ潜在力、或いは相互に浸透し合う幾千もの傾向以外のものではありません。もっともそれらの傾向が相互に外在化し合った後でなければ、つまりそれらの傾向が空間化された後でなければ、生命が「幾千もの」傾向であると言うことはできません。物質との接触が、この分離を決定します。物質は、潜在的にしか多ではなかったものを実際に分割します。そういう意味で、個体化は部分的には物質によってなされたものであり、部分的には生命が内に孕んでいるものの進展の結果です。例えば詩的感情においても、これと同じことが起こります。詩的感情は相互に区別される節や行、語において姿を現しますが、このように個体化された多くの要素は、もともと詩的感情に含まれていたのです。しかしこの多数性を創造したのは言語の物質性である、という風に言えるでしょう。

とは言え諸々の語や行や節を貫いて単一なインスピレーションが流れており、それが全体としての詩を作り上げています。それと同じように、分離され、ばらばらになった各個体の間にも生命が流れています。個体化しようとする傾向は、それと対立しながらも相互に補い合っている傾向、すなわち結合しようとする傾向によって至る所で抵抗を受けると同時に完成されます。生命という多なる一は、多の方向に引っ張られると、その分だけ自己へと収縮しようと努力するかのようです。生命の或る部分は全体から分離された瞬間、即座に、爾余のすべてとではないにせよ、少なくともそれに最も近いものと再び結び付こうとします。その結果、生命の領域全体において個体化しようとする傾向と結合しようとする傾向との間に均衡が生まれます。個体が並列することで社会が形成されますが、社会は形成されるや否や並列している個体を新しくできた組織の中に溶かし込み、自ら個体となろうとします。こうして個体化した社会が、今度は新たな結合における構成要素となります。既に有機体の最も低い段階において、わたしたちは紛れもない社会的結合体を見出します。微生物の群体がそれです。最近の研究を信頼するなら、群体には一つの核を形成することによって個体化しようとする傾向が見られます。これと同じ傾向は、微生物よりもう少し高等な有機体にも認められます。例えば原生植物の中には、分裂することによって母細胞から離れた後も、それらの表面を覆うゼラチン状の物質によって互いに結合したままでいるものがあり、同様に原生動物の中にも、当初単に絡み合わせていた仮足が結合し、最終的に一つに合体するものがあります。周知のように、高等な有機体の形成を説明する理論に「群体」起源説と呼ばれるものがありますが、この説によれば、単一の細胞からなる原生動物が互いに並んで様々な集合体を形成し、さらにそれらの集合体同士が接近して集合体の集合体を形成します。ほとんど分化していない基礎的な有機体同士がこのように結合することによって次第に複雑化し、現在のような分化した有機体が形作られたのだと言います。この説はこうした先鋭な形で提示されたために、激しい反論を招きました。今日では、原初的な個体が結合することによって有機体が形成されるのは例外的で異常な事実に過ぎない、とする考え方が有力になりつつあります。とは言えあらゆる高等な有機体が、役割を分担している細胞同士の結合によって生まれたかのように見える、という事実に変わりはありません。なるほど、細胞が結合して個体を形成したのではなく、寧ろ個体が分裂して細胞を形成したというのが恐らく真相でしょう。しかしまさにこのことが示すように、個体の発生には社会的形式が付き纏います。あたかも個体は、それ自身個体性を持っているように見える諸要素、そして相互に結び付き社会的な外観を呈している諸要素に自らの実質を分割しなければ発達することができないかのように。自然が社会と個体という二つの形式の間を揺れ動き、二つの形式のいずれを取ろうか自問しているように見える例は少なくありません。そういう場合、わずかな刺激一つで均衡はいずれか一方に傾きます。例えばラッパムシのようなかなり大きい繊毛虫類を二分する際、双方に核の一部が含まれるように切断すると、どちらも独立したラッパムシとして再生します。また完全に切り離すのではなく、二つの間に原形質の繋がりを残して置いた場合には、両者が完全に連携した運動を行うのが見られます。したがってここでは、一本の糸が繋がっているか切れているかに応じて生命は或いは社会的形態を取り、或いは個体的形態を取ります。このように既に単細胞からなる原初的な有機体において、全体として一つの個体と見えるものが、潜在的に結合している不定数の潜在的個体の合成物であることが確認されます。ところでこれと同じ法則は、系列の高低を問わずあらゆる生物の段階において観察されます。そこで、こう結論付けることができるでしょう。一と多は、惰性的物質のカテゴリーである。生命のエランは純粋な一でもなければ、純粋な多でもない。生命のエランが自己の衝迫を物質に伝えるとき、物質が、一と多のいずれを選ぶかをエランに迫るのは事実だとしても、その選択は決して決定的なものではない。生命のエランは、一と多の間を際限なく飛び移るだろう、と。したがって生命が個体性と社会性という二つの方向に進化することには、偶然的なものは何もありません。それは生命の本質そのものに根差しています。

(感覚・運動神経系の複雑化に見られる)反省への歩みもまた、個体性と社会性への二重の進化と同様に本質的です。わたしたちの分析が正しいなら、生命の根源にあるのは意識です。或いは寧ろ、超意識と言った方が適切かも知れません。意識もしくは超意識を花火に喩えると、その燃え滓が落下して物質となります。花火そのもののうち、打ち上げられた後も命脈を保ち、燃え滓を貫いてそれらを有機体として照らし出しているものもまた意識に他なりません。しかし意識は創造への要求であり、創造が可能な場合にしか自己に対して姿を現しません。生命が自動機械の状態に甘んじているとき、意識は眠っており、選択の可能性が再び生まれるや否やすぐさま目を覚まします。そういうわけで、意識は、神経系を持たない有機体ではその有機体の有する運動能力と変形能力に応じて変化し、神経系を備えた動物ではいわゆる感覚経路と運動経路が交差する点、すなわち脳の複雑さに比例します。有機体と意識との間にあるこの関係は、具体的にどのように解釈されるべきでしょうか。

わたしたちは以前の著作で詳述した点について、ここで多言を費やすつもりはありません。ただ以下の点を思い起こすにとどめましょう。意識は例えば神経細胞(ニューロン)のいずれかに繋ぎ留められており、ニューロンの働きによってあたかも燐光のごとく浮かび上がってくる、とする理論があります。この種の理論は、分析の細部については学者の承認を得ることができるかも知れません。それは一つの便利な説明方法です。が、それ以上のものではありません。わたしたちの考えでは、生物は行動の中心です。それは世界に挿入される或る量の偶然性、すなわち或る量の可能的行動を象徴しています。この量は個体に応じて、とりわけ種に応じて際立って変化します。或る動物の神経系は、その動物が行動する際に辿るべき柔軟な線を素描しており(もっとも放出される位置エネルギーは、神経系そのものよりも、寧ろ筋肉に蓄えられます)、また神経中枢は、その発達の程度と形状に応じて、当の動物がどれだけの量の行動を遂行できるか、どれだけ複雑な行動を遂行できるか、という行動の選択の幅を示しています。ところで、或る生物における意識の覚醒は、その生物に委ねられる選択の余地が多ければ多いほど、また割り当てられる行動の量が多ければ多いほどそれだけ完全なものになるので、意識の発達は明らかに神経中枢の発達に依存しているようにわたしたちの目に映ります。さらに他方、あらゆる意識状態は或る意味で運動を行う生物の活動性に課せられた一つの問題であり、それに対する解答の端緒でもあるので、大脳皮質のメカニズムが関与していない心理的事実は存在しません。したがって外側から見ると、あたかも意識は脳から湧出しているように見え、意識の活動は一から十まで脳の活動に従って形作られているように見えます。実際には、意識は脳から湧出するのではありません。脳と意識が照応しているのは、片や脳はその構造の複雑さによって、片や意識はその覚醒の強さによって、両者がいずれも生物の有する行動の選択の幅を測る尺度となっていることに起因します。

脳の状態は、それに対応している心理状態のうち、専ら形成されつつある行動を表しています。それゆえ心理状態は、脳の状態よりも寧ろ生まれつつある行動について多くのことを語ります。或る生物の意識がその脳と密接な関係にあるのは間違いありませんが、わたしたちが別の著作や論文で証明しようと試みたように、それは鋭利な刃物とその切っ先とが不可分の関係にある、というのと同じ意味においてでしかありません。脳は外界に突き立てられた鋭い切っ先であり、意識はそこから諸々の出来事が稠密に織り込まれた外界という生地に浸透していきます。しかし切っ先と刃物とが同じひろがりを持つわけではないように、脳と意識も同じひろがりを持つわけではありません。したがって例えばサルの脳と人間の脳がよく似ているからと言って、それぞれの脳に対応している意識まで相互に比較可能であるとか、共通の尺度を持ち得ると結論することはできません。

もっともサルの脳と人間の脳が本当に似ているかと言えば、両者はわたしたちが考えているほど似ていない、というのが真実に近いように思われます。人間はどんな動きでも習得することができ、どんなものでも作ることができます。要するに人間はどんな運動習慣でも身に付けることができるのに対して、最も知能に恵まれた動物、例えばサルでさえ複数の新しい運動を組み合わせる能力は極く限られています。この事実にどうして驚かずにいられるでしょうか。人間の脳の特徴は、まさに今述べたように、どんな運動習慣でも身に付けられる点にあります。人間の脳は、他のあらゆる脳と同様、運動のメカニズムを構築し、いつでもその一つを選んで起爆装置を作動させられるように出来ています。しかし構築できるメカニズムの数、したがってまた選択できる起爆装置の数が無限である点で、人間の脳は他の動物の脳とは一線を画しています。ところで限定されたものと限定されていないものとの間には、閉じられたものと開かれたものとの間にある隔たりと同じだけの隔たりがあります。それは最早程度の違いではなく、本性の違いです。

このように動物の脳と人間の脳との間に程度の違い以上のものがあるとすれば、動物の意識(それが最も知的な動物の意識であれ)と人間の意識との差異もまた根本的なものであると考えられます。何故なら意識は、生物の持つ選択能力に正確に比例しているからです。意識は現実的行動の周囲を縁取っている可能的行動の暈と同じひろがりを持ち、発明や自由と同じ意味を持ちます。動物においては、発明は日常の習慣的な行動を主題とする変奏曲以上のものではありません。種の習慣に閉じ込められている動物といえども、確かに個体の自発的な行動によってそれらの習慣の枠を拡げることが全くできないわけではありません。しかし動物が自動性を免れ得るのは、ほんの一瞬、新たな自動性を創造する瞬間だけであり、牢獄の扉が開いたと思った次の瞬間には、その扉はすぐにまた閉ざされてしまいます。動物にできるのは、せいぜい自らを縛めている鎖を引っ張ってそれを伸ばすことでしかありません。人間において、ただ人間においてのみ意識は鎖を断ち切り、自己を縛めから解放します。それまでの生命の全歴史は、意識が物質を持ち上げようとする歴史であると同時に、再び落下してくる物質にその都度意識が圧し潰される歴史でもありました。生命の進化において意識が企てたのは――もっとも企てや努力という言葉を比喩として用いるのではなく、ここでも文字通りの意味で使ってよいとすればの話ですが――、逆説的としか言いようのない試みでした。意識に課せられた問題は、必然性そのものである物質で自由のための道具を創造することであり、メカニズムに打ち克つようなメカニズムを製作することであり、自然の決定論を用いて、それが張り巡らした網の目を潜り抜けることでした。しかし人間以外の生物では、意識は例外なく潜り抜けようとした網に引っかかり、自ら作り上げたメカニズムの虜となってしまいます。自動性を自由の方向に引っ張るつもりでいた意識は逆に自動性に取り囲まれ、自動性のうちに引きずり込まれます。そこから逃れるだけの力は、最早意識には残っていません。というのも、意識は物質を或る均衡状態に導いたはいいものの、意識が行為のために蓄えたエネルギーのほとんどすべてが、その無限に微妙で、本質的に不安定な均衡状態を保つことに費やされるからです。人間に至って、はじめて意識は自己の機械を維持するだけにとどまらず、それを意のままに使えるようになります。この成功を、恐らく人間はその優れた脳に負うています。その卓越した脳のお蔭で、人間は運動のメカニズムを際限なく構築し、新しい習慣を絶えず古い習慣と対立させることが可能となり、自動機械を分裂させ互いに争わせつつそれを支配することができるようになります。またこの成功を、人間は言語に負うています。言語によって意識は受肉するための非物質的な身体を与えられ、物質的な身体だけに依存しなくても済むようになります。もし言語が非物質的な身体を意識に提供しなかったならば、意識は物質的な身体の流れに引きずり込まれ、ひと溜まりもなくその流れに呑み込まれていたに違いありません。さらにこの成功を、人間は社会生活に負うています。社会生活は、言語が思考を蓄積するように様々な努力を集積、保存することによって平均的水準を定めます。その結果、個人はその水準まで一気に自己を高めなければならなくなり、この最初の刺激によって社会生活は一般的な人々を眠りに陥らせないようにさせ、衆に秀でた人々がさらなる高みを目指せるよう取り計らいます。とは言え今挙げたわたしたちの脳、わたしたちの言語、わたしたちの社会生活は、いずれも人間に備わるただ一つの内的優越性の外的な徴しに過ぎません。それらは、生命が進化の或る瞬間に勝ち取った唯一の例外的な成功を個々に語っています。この三つが表しているのは人間を他の動物と分かつ本性の差異であって、単なる程度の差異ではありません。それらの差異から、こう推論することができます。生命が勢いよく飛び立った巨大な踏切台の端で、人間以外の動物は飛び越えなければならない綱が余りにも高いところに張られているのを見てその台から降りてしまったが、人間だけがその障害を飛び越えたのだ、と。

こういった極めて特殊な意味で、人間は進化の「終着点」であり「目的」である、と言うことができます。生命はいかなるカテゴリーをも超越していますが、先に述べた通り、それは目的性についても例外ではありません。生命は本質的に、物質を貫いて奔出する一つの流れ、その際物質からできるだけ多くのものを引き出す一つの流れです。したがって生命が進化するに当たって、計画や設計図といったものが存在していたわけではありません。また人間以外の自然が、すべて人間に関係付けられているわけではないことも余りにも明白です。わたしたち人間は他の種と同じように闘っており、それらの種と常に闘ってきました。そして生命が進化の途上で遭遇した偶発事とは別の偶発事にぶつかり、それによって生命の流れが実際になされた分割とは異なるやり方で分割されていたならば、わたしたちは物理的にも精神的にも現在見られるような人類とはかなり違った存在になっていたでしょう。以上のような種々の理由から判断して、現在わたしたちの目にしている人類が進化運動の中にあらかじめ含まれていたと考えるのは間違っています。人類が、進化全体の到達点であるとさえ言うことはできません。何故なら進化は根源から分岐した複数の線上で成し遂げられたからであり、人類はそれらの線の一つの末端に位置するのは事実だとしても、人類へと至る線と同様に果てまで辿られた他の諸々の線の末端には別の種が位置しているからです。わたしたちが人類を進化の存在理由と看做すのは、目的論者がそう考えるのとは全く異なる意味においてです。

わたしたちの観点からすると、生命は全体として一つの巨大な波に喩えられます。その波は一つの点を中心に円状に広がり、その円周上のほぼすべての点で停止してそこで振動に変わります。ただ一つの点で障害は破られ、原初の推力が自由にそこを通り抜けました。人間の形態が記録しているのは、この自由に他なりません。意識は、人間以外の生物では例外なく袋小路に迷い込み、ただ人間においてのみ停止することなく前進を続けました。それゆえ人間は生命に含まれていた傾向をすべて背負っているわけではないとしても、生命の運動を限りなく継続します。そしてその間進化の他の線上では、生命に含まれていた別の諸傾向が進展しました。あらゆる傾向は相互に補い合っているがゆえに、人間はそれら別の諸傾向を幾分かは保持しているでしょうが、それは微々たるものに過ぎません。思うに、人間とも超人とも任意に呼べるような無限の可能性を秘めた存在が自己を実現するためには、その過程で自己の一部を捨てなければならなかったのです。人間以外の動物は、そればかりか植物界でさえ、少なくともそれらの持つ積極的な面、進化における偶発事以上の重要な部分に関しては、進化の途上、人間が捨て去ったものを象徴しています。

こう考えると、わたしたちの目にする自然の不調和な光景も不思議とさほど不調和とは思えなくなってきます。このような観点から見た場合、有機的世界の全体は、人間、或いは精神的に人間に似た存在がそこから芽生えてくる腐植土としての意味を帯びてきます。人間以外の動物は人類とかけ離れており、人類の敵でさえありますが、進化における有益な道連れには違いありません。意識は、それまで後ろに引きずっていた重荷をそれらに押し付けることで、人間とともに遥か彼方の地平が見渡せる高みにまで上ることができたのです。

無論、意識は厄介な荷物を捨てただけではありません。貴重な財産をも手放さなければなりませんでした。例えば、意識は人間においては何と言っても知性を意味しています。意識は直観の方向に進化することもできたでしょうし、直観の方向に進化すべきでもあったように思えます。直観と知性は、意識の働きの相反する二つの方向を表しています。直観が生命そのものの方向に進むのに対して、知性は逆の方向に進みます。そういうわけで、知性は極く自然に物質の運動に自己を適応させます。完全無欠な人間性とは、取りも直さず、この二つの意識の活動性の形式がともに完全に開花しているような人間性でしょう。そういった人間性とわたしたちの人間性との間には、多くの可能的な中間段階、知性と直観との、想像し得るすべての程度に対応している中間段階が考えられます。人間という種の心的構造に或る程度の幅があるのは、そうした理由によります。人間が実際に辿った進化とは別の仕方で進化していたならば、わたしたちは現在より知的な人間性に達することができたかも知れませんし、或いは逆に直観的な人間性に達することができたかも知れません。わたしたちが属している人間性においては、実際には直観はほぼ完全に知性の犠牲になっています。あたかも意識は、物質を征服すること、自分自身から自己を取り戻すことにその力の最良の部分を使い果たさなければならなかったかのように。物質を支配するためには、この地球という特殊な条件の下では、意識は物質の習性に自己を適応させ、注意をすべてそれに集中すること、つまり何よりもまず自己を知性として規定することが必要だったのです。それでもなお、漠然とした、そして何よりも非連続的な形ではあるにせよ、直観は存在しています。それはほとんど消えかかったランプのごとく、間隔をおいて、極くわずかの間明るさを取り戻すに過ぎません。にもかかわらず、このランプが人生の重大な局面では再び明るさを取り戻すのもまた疑いようのない事実なのです。このランプは、人格性について、自由について、人間が自然全体の中で占める位置について、人間の起源や、恐らくはその運命について、わたしたちのうちに光を投げかけ、示唆を与えてくれます。それは揺らめく弱々しい光に過ぎないにしても、知性がわたしたちを置き去りにした夜の闇に差し込んでそこを照らし出します。

この今にも消えそうな直観の光、対象を気紛れにしか照らし出さない直観の光を哲学はまず消さないように努め、次いでそれらの一つ一つを大きくし、それらを一つに纏めることによって自分のものにしなければなりません。そうすれば直観が精神そのものであり、或る意味で生命そのものであること、知性は物質を生み出した過程を模倣した過程によって直観から切り出されたものであることに哲学は気付くでしょう。こうして、精神の活動の統一が得られます。まず直観のうちに身を置き、そこから知性に進むことによって、はじめてわたしたちはその統一を認めることができます。何故なら、知性からは決して直観に移ることはできないからです。

哲学は、こうしてわたしたちを精神の活動に導くと同時に、精神の活動と身体の活動との関係を明らかにします。唯心論的学説の最大の誤りは、精神の活動を他の一切のものから切り離し、地上からできるだけ離れたところに後生大事に安置すればあらゆる攻撃から護ることができる、と信じた点にあります。それによって却って精神の活動とは幻影の結果に過ぎないと看做されかねないにもかかわらず、そうした否定的な反応が生じ得ることを全く予測していないかのように。なるほど唯心論的学説が、人間の自由を肯定する意識の声に耳を傾けるのは間違いではありません。――しかしそれに対しては、知性がこう反論するでしょう。原因が結果を決定し、同じものが同じものを条件付ける。すべては反復し、すべては与えられている、と。また唯心論的学説が、人格は絶対的な実在性を持ち、物質から独立している、と主張するのは間違いではありません。――しかしそれに対しては、科学が、意識の活動と脳の働きとが連帯関係にあることを示します。また唯心論的学説が、人間は自然の中で特権的な地位を占めており、動物と人間との間には無限の隔たりがある、と考えるのは間違いではありません。――しかしそれに対しては、生命の歴史が、単純な生命の形態に次々と変形が加えられることによって諸々の種が形成されたことを証言し、人間を再び動物の中に組み入れます。また唯心論的学説が、人格は不滅であるとする力強い本能の声を看過しなかったのは間違いではありません。――しかし独立した生を営む能力を持った「魂」が存在するとすれば、それは一体どこから来たのでしょうか。わたしたちは、雌雄の生殖細胞が結合してできた一つの細胞から身体が生まれてくるのを毎日のように目撃しています。それらの魂は、いつ、どのようにして、どういうわけでその身体に入ってくるのでしょうか。もし直観哲学が、身体の活動をその本来の場所で、すなわち精神の活動へと至る道の途中で見ようとしないならば、いつまで経ってもその問題に答えることはできないでしょうし、直観哲学は単なる科学の否定となり、早晩科学によって駆逐されるに違いありません。身体の活動を精神の活動へと至る道の途中で捉えようと思うならば、直観哲学が問題にしなければならないのは最早あれこれの特定の生物ではありません。真の直観哲学にとって、生命全体は、原初の推進力が世界に生命を生み出して以来、物質の下降運動に妨げられながら上昇し続ける上げ潮のごときものとして現れます。様々な高さに達するこの上げ潮はその表面のほとんどすべてで、物質との接触によって表層での渦巻きに変えられます。それは障害物を引きずりながらも、ただ一つの点において障害を突破し自由に流れました。その一点では、障害物は流れを遅らせることはあっても、それを押し留めることはできません。人類が位置しているのはその一点であり、そこに人類の置かれた特権的な状況があります。他方、この上げ潮とは生命であると同時に(超)意識でもあって、あらゆる意識と同様、無数の潜在性を蔵しています。それらの潜在性は相互に浸透し合っているがゆえに、惰性的物質のために用意された「一」というカテゴリーにも「多」というカテゴリーにも当て嵌まりません。この潮の流れは物質を押し流し、物質の隙間に浸透します。潮の流れは物質によって、そうしてはじめて相互に区別される複数の流れに分割されます。この潮は幾世代にもわたる人類を貫き、次々に枝分かれしながら流れていきます。分割される各部分の境目は潮の中に漠然と描かれていたにせよ、物質が存在しなければ明瞭になることはなかったでしょう。このように絶えず創造される流れ、すなわち魂は、或る意味で先在していたとも言えます。というのも、魂とは、(個体に固着したものではなく)、生命の大河から分岐した支流、身体を貫いて流れる支流に他ならないからです。流れ(魂)は必然的にそれが通っていくもの(身体)の曲折をなぞりますが、それらは同じものではありません。両者は飽くまで別のものです。同様に、有機体に生命を与えている意識は有機体の移り変わりに左右されないわけではないにしても、意識と有機体とは別物です。或る意識状態には可能的な行動が素描されており、それらの可能的な行動は神経中枢で実行に移される指令を常に待っているので、脳はあらゆる瞬間にその意識状態に素描された行動の分節をはっきりと描き出します。しかし意識と脳の相互依存はその範囲に限られ、意識が脳物質と運命をともにすることはありません。したがって意識は本質的に自由であり、自由そのものである、と言うことができます。とは言え意識が物質を貫いて進むためには、物質のうちに身を置き、物質に自己を適応させる他はありません。この意識の物質への適応が理知性と呼ばれるものです。物質が一つの枠に収まるのを見慣れている知性は、後ろを振り向いて、活動している意識、すなわち自由な意識を見る際にも意識を自然にその枠の中に入れてしまいます。知性が、自由を常に必然性の形式の下にしか認められないのはそのためです。知性は自由な行為に内在する新しさ、つまり創造的な面を常に見落とし、行動そのものを人為的、近似的な模造品に、言い換えると古いものによって組み立てられた古いものに、同じものによって組み立てられた同じものに置き換えるでしょう。知性を直観に再び吸収しようとする哲学者の視点から見ると、以上のように多くの困難は解消され、或いは軽減されます。こうした学説は、単に思弁を誰の目にもわかりやすいものにするだけではありません。それは行動するための力、生きるための力を他のどんな学説よりも多く与えてくれます。何故ならこのような見地に立つとき、わたしたちは最早自分が人類の中で孤立しているとは感じないでしょうし、人類も自分が支配している自然の中で孤立しているとは思わないだろうからです。極めて微小な塵でさえわたしたちの太陽系全体と連帯しており、太陽系もろとも物質性そのものである不可分な下降運動に引きずり込まれています。その一方で、最も下等なものから最も高等なものに至るあらゆる有機的存在が、生命の始原から現在に至るまで、あらゆる場所、あらゆる瞬間において、唯一の衝動、物質の運動とは逆の、それ自体不可分な唯一の衝動をわたしたちの目に見えるものにしようとひたすら努力しています。すべての生物は相互に連帯し、すべてのものが生命の巨大な推進力に服しています。そして植物に支えられた動物の背に跨り、空間においても時間においても巨大な軍団を形成した全人類は、わたしたち一人ひとりの傍らを、さらには前や後ろを疾駆し、行く手を遮る障害に一斉に攻撃を仕掛けています。その目覚ましい攻撃はあらゆる抵抗を退け、多くの困難を、恐らくは死をも克服するに違いありません。

(つづく)

「ジェノサイド」(76)

2017-03-05 | 雑談
●物質の観念的生成

わたしたちはこの原理を、他に適当な言葉がないので意識と呼びました。ただし意識とは言っても、わたしたち各自のうちで働いている弱々しい意識のことではありません。わたしたちの意識は、空間の或る一点を占める一生物の意識です。わたしたちの意識は自らの原理と同じ方向に進んではいるものの、絶えず逆の方向に引っ張られ、前進しながらも後ろを振り返らずにはいられません。既述のように、過去を回顧するがごとく後ろを振り返って物事を見るのが知性の、つまりは判明な意識の自然な機能です。わたしたちの意識が自らの原理と部分的にでも一致するためには、意識は既に出来上がったものから離れて出来つつあるものに自らを結び付け、見る能力が反転して自己の内部と向き合い、意志する働きと一体にならなければならないでしょう。これは苦しい努力です。わたしたちは自然に抗って束の間そうした努力を行うこともありますが、極くわずかの間しかそれを維持することができません。自由な行動においてわたしたちが自己の全存在を収縮させ、然る後それを前方に解き放つとき、わたしたちは様々な動機や原動力について、或いは少なくともそれらの動機や原動力が有機的に組織され行為へと転じる際の生成について、多少なりとも明確な意識を持ちます。しかし純粋な意志、すなわち物質を貫いてそれに生命を伝える流れについてはほとんどそれを感じ取ることができず、通りすがりにその流れに指先で触れるのが精一杯です。たとえわずかの間にもせよ、わたしたちはこの純粋な意志の流れに身を置くように努めましょう。そのときでさえ、わたしたちが捉え得るのは個々人の断片的な意志でしかありません。あらゆる生命の原理であり、同時にあらゆる物質性の原理でもあるこの原理に達するためには、もっと先まで進む必要があります。それは不可能でしょうか。否、決してそんなことはありません。他ならぬ哲学の歴史が、それが不可能ではないことを証明しています。哲学の体系は、それが永続するものである限り、少なくともその中の幾つかの部分が直観によって生気を吹き込まれていないものはありません。なるほど直観を検証するためには弁証法が必要であり、直観を概念に屈折させ、他の人々に伝えるためにも弁証法が必要です。しかし弁証法は、ほとんどの場合、単に当の弁証法を超越している直観の結果を展開しているに過ぎません。実を言うと、直観と弁証法はそれぞれ逆の方向に進みます。観念と観念とを相互に結び付けようとする努力が、同時に、観念が蓄えようとしていた直観を打ち消し消滅させてしまうのです。哲学者は直観からエランを受け取るが早いか直観を放棄することを余儀なくされ、その結果、なおも運動を続けるために自分自身を頼りに次々に概念を取り上げざるを得なくなります。しかし哲学者は、やがて自分が足場を失ってしまったことに気付きます。そこで、実在との新たな接触が必要になってきます。それまでに彼が積み上げてきたものの大部分は、その際取り壊されなければならないでしょう。弁証法とは、一言で言えば、思考がそれ自体と一致するのを保証してくれるものです。ところが弁証法――それは直観が弛緩したものに他なりませんが――に依拠した場合、真実は一つしかないにもかかわらず、互いに異なる多くの一致が可能になってしまいます。それに対して、もし直観が瞬時に消え去ることなく長続きするならば、直観は哲学者と彼自身の思考との一致を保証するだけにとどまらず、すべての哲学者同士の一致をも保証してくれるに違いありません。確かに個々の直観は捉え難く不完全なものだとしても、それぞれの体系において体系そのものよりも価値があり、体系が朽ちた後も生き続けます。この個別的な直観が維持され長続きし、一般化されるならば、そしてとりわけ道に迷わないように直観によって外的な道標を確保することができるならば、哲学の目的は達成されたと言っても過言ではありません。そのためには、自然と精神との間を不断に行き来する必要があります。

わたしたちが自己の存在を意志のうちに引き戻し、当の意志をその源たる衝動のうちに引き戻すとき、わたしたちは実在が絶えざる増大(成長)であり、無限に続けられる創造であることを理解し、感得します。わたしたちの意志自体、既にそうした奇跡を行っています。あらゆる人間の作品には幾分かの発明が、またあらゆる意志的行為には幾分かの自由が、そして有機体の行うあらゆる運動には幾分かの自発性が含まれており、それらは新しい何物かを世界にもたらします。なるほど、それは(素材の創造と言うより)形式の創造でしかありません。どうしてそれ以外のものであり得るでしょうか。わたしたちは生命の流れそのものではなく、既に物質を、言い換えると生命の流れが運んでくるその流れの実質の凝固した諸部分を背負わされている傍流に過ぎません。とは言えわたしたちは独創的な作品の創作において、また自由な決断においても、行動力のバネを最高度に緊張させ、素材を単に寄せ集めただけでは決して創造し得ないものを創造します(実際、既知の曲線を並べただけでどうして偉大な芸術家の筆致に匹敵するものができるでしょうか)。確かにそこには有機的に組織化される以前から存在している要素が存在し、それらは有機的な組織化がなされた後も存在し続けます。しかし、もし形式を生み出す行為が単に停止しただけでその素材を形成することができるとすれば(芸術家が描く独創的な線は、それ自体まさに一つの運動が固定したものであり、言わば凝固したものではないでしょうか)、最早素材の創造は理解不能なものでも、不合理なものでもなくなるでしょう。何故ならわたしたちは形式の創造を内側から把握し、常にそれを生きているからです。そして形式が純粋で、かつ創造の流れが瞬間的に停止するようなとき、素材の創造が行われるのでしょう。例えば、現在までに著されたあらゆる著作物を構成しているアルファベットの総体を思い浮かべてみましょう。一つの新しい詩が作られるに際して、それまでになかった別の新しいアルファベットが現れてそれらのアルファベットに付加されるのだ、という風には誰も考えません。しかしその一方で、詩人が詩を創造し、その結果人間の思考が豊かになる事実をわたしたちは十分に理解しています。この創造は精神の単純な行為です。その行為が継続され新しい創造へと至る代わりに、単に停止しさえすれば、それは自ずと散らばって文字となり、それらの文字は既に世界に存在していたすべての文字に付加されるでしょう。このように或る特定の瞬間に世界を構成する原子(諸要素)の数が増えるということは、確かにわたしたちの精神の習慣に反しますし、経験とも矛盾します。しかし詩人の思考がアルファベットと対照をなしているように、原子と対照をなしている全く別の秩序の実在が突発的な付加によって増大する、ということは考えられないことではありません。こうした付加のそれぞれの裏返しの世界こそ、わたしたちが原子の並列として象徴的に表象している世界であると言えます。

宇宙を包み込んでいる神秘の大半は、実際のところ、宇宙が一挙に創造された、と考えるわたしたちの精神の習慣によって、或いは物質全体を永遠なものと考えるわたしたちの精神の習慣によって作り出されたものです。創造について語るにせよ、創造されざる永遠の物質を措定するにせよ、わたしたちが問題にするのはいずれの場合にも宇宙全体です。精神のこの習慣を掘り下げていくと、そこには或る先入観が潜んでいることがわかります。それについては次章で分析しますが、それは唯物論者にも唯物論に反対する人々にも共通する先入観で、現実に作用している持続など存在しない、という観念、絶対的なもの――それが物質であれ精神であれ――は、具体的な時間、すなわちわたしたちが自己の存在の生地そのものであると感じている時間のうちに場所を占めることはできない、という観念です。ここから、宇宙のすべては一度に決定的に与えられた、という風に結論付けられ、物質的多様性そのものを永遠のものとして措定するか、さもなければその物質的多様性を創造する行為を、神的本質において余すところなくすべて与えられたものとして措定しなければならない、と結論付けられます。以上のような先入観を取り除きさえすれば、創造という観念はもっと明瞭なものになります。何故ならそのとき、創造という観念と成長という観念は一つのものになるからです。しかしそうなると、わたしたちは最早宇宙全体について語る必要はないし、語るべきでもない、ということになります。

わたしたちは、何故宇宙全体について語るのでしょうか。宇宙は多数の太陽系の集合であり、それら諸々の太陽系はわたしたちの太陽系に似たものと考えて差し支えないように思われます。それらの太陽系の一つ一つは、恐らく絶対的に独立しているわけではありません。わたしたちの太陽は最も遠い惑星の彼方にまで熱と光を放射していますが、他方、わたしたちの太陽系全体も何物かに引き寄せられるように或る一定の方向に移動しています。したがって(わたしたちの太陽系を含む)これら様々な世界の間には、それらを相互に結び付けている絆が存在している、と推測することができます。もっともその絆は、同じ世界の諸部分相互の結び付きに比べ無限に緩いものであると考えられます。それゆえわたしたちは、わたしたちの太陽系を単なる便宜上の理由で他の太陽系から人為的に分離するわけではありません。自然そのものが、そうするようわたしたちを仕向けるのです。生物としてのわたしたちは、わたしたちの住む(地球という)惑星に、またこの惑星を養っている太陽に専ら依存しており、他の何物にも依存していません。また思考する存在としてのわたしたちは、物理学の諸法則をわたしたち固有の世界に適用する権利を持つと同時に、わたしたちが分離した世界の各々にもそれらの法則を当て嵌める権利を持ちます。しかし物理学の諸法則を全体としての宇宙に適用することができる、と保証してくれるものは何もありませんし、そう信じることに何か意味があると言うことさえできません。何故なら宇宙は既に出来上がったものではなく、絶えず自らを創造していくものからです。恐らく宇宙は、新しい世界を次々に付け加えながら無限に成長しているのです。

そこで実際に、わたしたちの科学の最も一般的な二つの法則、すなわちエネルギー保存の法則(熱力学第一法則)とエネルギー散逸の原理(熱力学第二法則)とをわたしたちの太陽系全体に適用してみましょう。ただし他の相対的に閉じた諸々の系を問題にする場合と同様、相対的に閉じたこの太陽系に話を限るものとします。その場合、どんなことが結論できるでしょうか。まず指摘しなければならないのは、この二つの法則の形而上学的な有効範囲は同じではない、ということです。エネルギー保存の法則は量に関する法則であり、したがってわたしたちの測定方法に部分的に依存しています。この法則が意味しているのは、閉じていると看做された系の中では、エネルギーの総量、すなわち運動エネルギーと位置エネルギーとの総和は一定である、ということです。ところで、もし世界に運動エネルギーしか存在しないのであれば、或いは運動エネルギーに加え一種類の位置エネルギーしか存在しないのであれば、測定が人為的なものだからと言ってこの法則まで人為的なものと考える必要はありません。エネルギー保存の法則は、紛れもなく何物かが一定の量に保たれることを表現していることになります。ところが実際には、性質の異なる様々なエネルギーが存在しており、それら各エネルギーの測定基準には、明らかにエネルギー保存の法則を正当化し得るものが選ばれています。なるほど、同一の系を構成している様々なエネルギーの間には何らかの関連があり、そのため測定の仕方を適切に選びさえすれば、その関連によってエネルギー保存の法則を拡張することは可能だとしても、この法則に内在する規約的な部分は極めて大きい、と言わなければなりません。したがって哲学者がこの法則を太陽系全体に適用するに際しては、少なくともその輪郭をぼかさなければならないでしょう。そうだとすれば、エネルギー保存の法則は最早或るものの量が一定のまま変化しない、という客観的事実を表現していると言うよりも、寧ろ、生起するあらゆる変化は、どこか別の過程で逆方向の変化によって相殺される、ということを表現しているに過ぎない、と言うことができます。つまりエネルギー保存の法則がわたしたちの太陽系全体を支配しているのが仮に事実だとしても、それはわたしたちにこの系全体の本性を教えてくれるのではなく、この系の或る断片と別の断片との関係を教えてくれるに過ぎません。

一方、熱力学第二法則においては第一法則の場合とは事情が異なります。事実、エネルギー散逸の原理は本質的には量にかかわる法則ではありません。確かにこの法則の最初の着想は、カルノーが熱機関の作業効率に関する量的な考察を行っている際に生まれたものです。さらにその後クラウジウスがカルノーの原理を数学的な用語で一般化し、「エントロピー」という計算可能な量概念に到達しました。このように数学的な用語で正確に表現することは、法則を応用する上で欠かせないことです。しかし仮に物理的世界の様々なエネルギーを計測することを誰一人思いつかなかったとしても、またエネルギーという概念が作り出されなかったとしても、漠然とした形ではあれこの法則は定式化され得たでしょうし、少なくともその概略は定式化することができたでしょう。実際、この法則が表現している本質的なことは、すべての物理的変化には熱となって散逸する傾向があり、また当の熱には諸物体に均等に行き渡る傾向がある、ということです。このように大雑把な形で言い表すと、この法則はあらゆる規約から独立したものとなります。エネルギー散逸の原理は、記号を介入させることなく、また測定のための工夫をあれこれ凝らすこともなく(物質的)世界の進む方向を端的に指し示している点で、あらゆる物理法則の中で最も形而上学的なものです。この法則が意味しているのは、相互に異質な目に見える変化は徐々に稀薄になって目に見えない等質的な変化と化す、ということであり、わたしたちの太陽系で生起する変化の豊富さや多様さの原因と考えられる不安定性は、相互に限りなく繰り返される要素的振動の相対的な安定性に少しずつ取って代わられる、ということです。人間の活動に喩えると、この法則は、行動するだけの力がありながら徐々にその力が行動のためには使われなくなり、遂には肺を呼吸させ心臓を鼓動させるためにしか費やされなくなる過程を表している、と言うことができます。

以上のことから判断すると、わたしたちの太陽系のような世界では、その世界が有する変動性(原語は「変わりやすさ」という意味のmutabilite。前段落の「不安定性」とほぼ同じものを表していると思われます)が不断に少しずつその力を消費されているものと考えられます。この変動性の利用可能なエネルギーが最大だったのは、原初、ちょうどそれが世界に生み出された瞬間で、以後それは減少の一途を辿ります。では、この変動性は一体どこから来たのでしょうか。まず、それは空間上のどこか別の点から来た、と考えることができます。しかしそれでは問題が先送りされたに過ぎません。そうした外的起源については、同じ問題を立てることができるからです。次に第二の仮説として、なるほど、第一の仮説にこう付言することもできるでしょう。変動性を交換し合うことのできる世界の数は無限であり、宇宙に含まれる変動性の総和は無限である。したがって変動性の終極を予見する必要がないのと同じく、その起源を問う必要もない、と。この種の仮説は反駁することができない代わりに、証明することもできません。ところで、無限の宇宙を想定することは、物質と抽象的な空間との完全な一致を認めることであり、それゆえ物質のあらゆる部分相互が絶対的に外的であると認めることです。この後者の命題(物質のあらゆる部分相互は絶対的に外的である)をどう捉えるべきか、またこの命題と、物質のすべての部分は相互に影響を及ぼし合っている(この、物質のあらゆる部分間の相互作用がまさに第二の仮説の根拠とされているのですが)という考えを調停させることがいかに困難であるか、という点については、先に示した通りです。最後に第三の仮説として、次のように想定することができるかも知れません。全体の不安定性は、全体の安定した状態から生まれたものである。わたしたちの生きるこの時代は利用可能なエネルギーが減少しつつある期間であるが、それ以前は変動性が増大する期間であった。エネルギーの増加する期間と減少する期間がこうして交互に果てしなく繰り返されるのだ、と。最近明確に示されたように、理論上はこうした仮説も成り立ち得ます。しかしボルツマンの計算によれば、この仮説が成立し得る蓋然性は数学的に見て極めて低く、事実上、絶対に成立し得ないと考えて差し支えありません。実を言うと、わたしたちが物理学の領域にとどまっている限り、この問題を解決することはできません。何故なら、物理学者はエネルギーをひろがりを持つ微粒子に結び付けないわけにはいかず、仮に微粒子をエネルギーの貯蔵庫としか看做さないにしても、彼が空間のうちにとどまっていることに変わりはないからです。もし物理学者がエネルギーの起源を空間外の過程に求めるならば、彼は物理学者としての本分に背くことになるでしょう。しかしわたしたちの考えでは、エネルギーの起源はまさにそこにこそ求められなければなりません。

ひろがり一般を抽象的に考察してみましょう。その場合、既に述べたように、ひろがりは緊張の単なる中断と看做されます。次に、このひろがりを満たしている具体的な実在に注目してみましょう。そのような実在を支配している秩序、自然法則を通して姿を現す秩序は、逆の秩序が欠落することによって自ずと生じる秩序以外の何物でもありません。意志の弛緩は、まさにそうした欠落を引き起こすでしょう。そういうわけで、この秩序が進む方向は、自己を解体していく事物という観念をわたしたちに暗示します。そしてそれこそ、疑いもなく物質性の本質的な特徴の一つである、と言うことができます。以上のことから結論できるのは、この事物が自己を形成する過程は物理的な過程と逆の方向に向かっており、したがってその過程は、定義そのものから言って非物質的なものである、ということでなくて何でしょうか。わたしたちのイメージする物質的世界は、落下する錘に喩えることができます。本来の意味での物質からどんなイメージを引き出すにしろ、上昇する錘という観念は決して得られません。わたしたちがこの実在をもっと詳細に検討し、物質一般だけでなく物質のうちに身を置いて生物をも考察するならば、この結論はさらに説得力を増すでしょう。
(このあたりの文章を読むと、自由の問題と、質と量の対立、延長と非延長の対立の問題が一つに繋がっていることがわかります。またここでベルグソンがエネルギー散逸の原理に関して述べていることは、第一章で老化や進化論について述べていることと重ね合わせることができます。シュヴァリエの「ベルクソンとの対話」からもう一度以下の文章を引用して置きます。
「ベルクソンは(中略)、世界の始原においてある自由な行為がなかったものとすれば、この世界の中に自由の存在する余地のないことをわれわれに悟らせようとしたのだが、カントにおける因果律についておこなった彼の講義の中でこの点を示唆した仕方は印象深いものであった。第一と第三の二律背反を結ぶ関係について、カントの独創性が人間の自由の問題を万物の始原の問題に引き戻した点にあったというのだ。もし万物に始原というものがあったとし、持続が有限なものであるとすれば、万物の初めにおいて自由が存在していたし、したがって事物の中に自由が存在する。もし反対に万物に始原がなく、持続は永遠無限で絶対的な初めがないなら、この系列の中には自由があるはずがない。カントはこのような二律背反につまずいたのだが、ベルクソンはこれを次のように解説する。もし、持続が有限で、世界に初めがあったことを事実によって証明するならば――数年ののちベルクソンは、エネルギー散逸の法則を注意深く考察してこれを証明することになるのだが――二律背反は消滅し、自由が可能となって姿を現す。しかも、意識はわれわれにこの可能性が現実の重みを持っていること、もっと的確に表現するなら、われわれの自由は、われわれの存在の原理に属する創造的努力と接触することによって実現することができるというのだ」)

実際、わたしたちの分析のすべてが、生命のうちに物質が下っていく坂を登ろうとする努力があることを示唆しています。それは同時にまた、物質とは逆の過程、ただ中断するだけで物質が創造されるような過程が可能であり、寧ろそのような過程が存在しなければならないことをわたしたちに教えてくれます。わたしたちの惑星の表面で進化する生命は、確かに物質に結び付けられています。もし生命が純粋な意識であったならば、ましてや超意識であったならば、生命は純粋な創造的活動性たり得たかも知れません。現実には生命は有機体に縛り付けられており、そのため惰性的な物質の一般的諸法則に服しています。とは言え生命は、それらの法則から自己を解放するために最大限の努力を払っているように思えます。生命は、カルノーの原理が規定しているような物理的変化の方向を覆すだけの力は持っていません。しかし少なくとも、何物にも制約を受けない場合、物理的な力とは逆方向に働く力が振舞うような仕方で振舞っています。生命は物質的変化の進行を止めることはできないにしても、それを遅らせることには成功しています。事実、わたしたちが示したように、生命の進化は原初のエランを引き継いでおり、植物においてクロロフィルの機能の発達を規定し、動物において感覚・運動系の発達を規定したこのエランは、徐々に強力になっていく爆発物を製造し、利用することによって、徐々に効果的になっていく行為へと生命を導きます。ところで、この爆発物とは太陽エネルギーが流れ込んだ地球上の幾つかの地点で、その散逸が一時的に抑制され、その分だけ貯蔵されたエネルギーでなくて何でしょうか。なるほど、爆発物に含まれる利用可能なエネルギーは爆発の際に消費されます。しかし有機体がそこでエネルギーの散逸を防ぎ、それを保持し、貯蔵しなかったならば、そのエネルギーはもっと早く消費されていたでしょう。今日わたしたちの目にする生命は、生命のうちに含まれていた相互補完的な諸々の傾向が分裂した結果生まれたものであって、現在では生命全体が専ら植物のクロロフィルの機能に依存しています。つまり生命とは、あらゆる分裂が生じる前の原初的なエランとして捉えた場合、生命が存在しなければ散逸したであろう何物かを、今日動物が行っているように瞬間的かつ効果的に消費するために、今日植物が行っているように、とりわけその緑色部分が行っているように貯蔵庫に蓄えようとする傾向であった、と言うことができます。生命とは、落下する錘を持ち上げようとする努力のようなものです。それは錘の落下を遅らせることしかできないにしても、錘が上昇するとはどういうことか、少なくともその観念をわたしたちに与えてくれます。

例えば、あちこちに亀裂の入った容器に高圧の蒸気が充満しており、それらの亀裂から蒸気が噴き出している光景を思い浮かべてみましょう。空気中に放出された蒸気はそのほとんどが凝縮し、水滴となって落下します。この蒸気の凝縮と水滴の落下が表しているのは、何物かの単なる喪失であり、中断であり、欠損です。しかし噴出した蒸気の極く一部は、数瞬の間凝縮せずにそのまま残ります。残ったこの極く一部の蒸気が、落下する水滴を持ち上げようと努力します。たとえその努力が、せいぜい水滴の落下を遅らせることしかできないとしても。ちょうどこの蒸気の噴き出している容器のように、恐らく生命の巨大な貯蔵庫からも絶えず生命が噴き出しており、噴出した生命の一つ一つが落下して世界となります。生命が落下してできた世界の内部における生物種の進化は、原初の噴出の根源的傾向の残存部分、つまり物質性とは逆の方向に伝わっていくエランの残存部分を表しています。とは言え今述べた比喩に余りとらわれないようにしましょう。こういった比喩は実在について粗雑なイメージしか与えてくれませんし、それどころか誤ったイメージさえ与えかねません。というのも、亀裂や蒸気の噴出、水滴を持ち上げることは既定のものでしかないのに対して、世界を創造することは自由な行為であり、生命は物質的世界の内部においてこの自由を分有しているからです。それゆえ、蒸気の噴き出している容器のようなものよりも、寧ろ腕を持ち上げる動作を思い浮かべましょう。上げた腕は力を抜くと下に垂れますが、腕に活力を与えていた意志の幾ばくかが脱力した腕に残っており、それが腕を持ち上げようと努めている、という風に想像してみましょう。そうすれば、自己を解体する創造的な動作というイメージとともに、物質についてのより正確な表象を容易く手に入れることができます。それと同時に、わたしたちは生命活動のうちに、生命とは逆向きの運動の中に残存している原初の運動、すなわち自己を解体するものを貫いて自己を形成する実在を垣間見るでしょう。

創造というものを考えるとき、一方に創造されるものを置き、他方に創造するものを置くならば、すべてが曖昧になります。わたしたちは習慣的にそのようにしがちであり、悟性はそうせずにはいられません。次章において、わたしたちはこの錯覚の起源を示したいと思います。本質的に実践的な機能であり、変化や行為を表象するよりも事物や状態を表象するようにできているわたしたちの知性にとって、この錯覚は自然なものです。しかし事物や状態といったものは、わたしたちの精神が捉えた生成の瞬間的な一齣でしかなく、わたしたちが事物と呼んでいるものは存在しません。存在するのは作用だけです。さしあたりわたしたちの住む世界だけを取り上げて考察してみると、この世界では、一見見事な結び付きを見せている全体の進化、自動的・厳密に規定された全体の進化は自己を解体する作用に属し、生命がこの世界で切り取る予見不可能な形態、そしてそれが自己を延長して予見不可能な運動となり得る形態は自己を形成する作用を表している、ということがわかります。ところで、わたしたちの生きる世界とは別の世界もわたしたちの世界に類似しており、そこでもわたしたちの世界と同じように物事が進行している、と考えることを妨げるものは何もないように思われます。さらにわたしは、それらの世界がすべて同時に形成されたのではないことも知っています。何故なら、今現在も諸々の星雲が形成されつつあることを観測によって知ることができるからです。自己を解体する作用であれ、再び自己を形成する作用であれ、至る所で同じ種類の作用が働いていると仮定した場合、ここでわたしが、巨大な花火から火花が散るように諸々の世界が湧出してくる中心を想定したとしても、それはただ今述べたような蓋然性の高い類推を言い表したに過ぎません。ただしわたしは、その中心を事物として捉えているのではなく、連続的な湧出として捉えています。このように定義されるならば、神は既に出来上がったものではなく、不断の生命であり、作用であり、自由である、と言うことができます。またこのように考えるならば、創造を神秘的なものと看做す必要もありません。わたしたちが自由に行動するや否や、わたしたちは自己のうちで実際に創造を体験します。なるほど、新しい事物が現存する事物に付加され得る、と考えるのは明らかに馬鹿げています。事物と呼ばれるものはわたしたちの悟性の固定化の働きによって生まれたものであり、悟性が構成したもの以外に事物は存在しないからです。したがって事物の創造について語ることは、結局のところ、悟性は自らに与え得る以上のものを自らに与え得る、と言うのも同然でしょう。――これは矛盾した言い分であり、空疎で意味のない表象です。それに対して、行動が進展するに従って増大し、何物かを創造することは、わたしたち各自が行動する際に確認できることです。このような行動の流れの中で、所与の瞬間、悟性がその流れを瞬間的に切断することによって事物が構成されます。それらの切断面を相互に比較した場合神秘的と思えるものも、元の流れに立ち返って見れば明瞭なものとなります。生物の諸形態の有機的組織化において働く創造的作用の様々な様態でさえ、こうした視点から見ると思いのほか単純なものと映ります。ところがわたしたちの悟性は、有機体の複雑さや、その複雑さの底に透けて見える分解と統合のほとんど無限の交錯を前にしてたじろぎ、後ずさりします。悟性はこう考えます。単なる物理・化学的な力がこのように驚嘆すべきものを作り出し得るとは、到底信じられない。仮にそこに深遠な叡智が働いているのだとしても、素材なき形式が形式なき素材に影響を及ぼすことをどうやって理解したらよいのか、と。しかしこの困難は、わたしたちが物質的粒子を静的に、つまり相互に並列されているような既に出来上がった物質的粒子を表象し、それら物質的粒子を巧妙に有機的組織化させるような外的原因をこれまた静的に表象するところから生まれたものに過ぎません。実際には、生命とは一つの運動であり、物質性はそれと逆の運動です。この二つの運動は、どちらも単純なものです。一つの世界を形成している物質は不可分な一つの流れであり、物質を貫きながらそこに諸々の生物を切り取る生命もまた不可分な一つの流れです。この二つの流れのうち、物質の流れは生命の流れに逆らいますが、生命の流れは物質の抵抗を受けながらもそこから何物かを獲得します。その結果、二つの流れの間に一つの妥協点が生じます。この妥協点こそ、有機的組織に他なりません。わたしたちの感覚や知性にとって、有機的組織は時間と空間において相互に全く外的な諸部分という形を取って現れます。わたしたちは、幾つもの世代を貫いて個体と個体を、そして種と種を結び付け、生物の系列全体を物質の上を流れる一つの巨大な波たらしめているエランの統一性を見過ごしているばかりではなく、わたしたちの目には、それぞれの個体そのものが一つの集合体として、分子や事実の集合体として映るのです。その理由は、わたしたちの知性の構造のうちにあります。わたしたちの知性は外から物質に働きかけるようにできており、実在の流れの中で瞬間的な切断を行うことによってしか物質に働きかけることができません。それらの切断面の各々は固定したものであるがゆえに、際限なく分割することが可能です。悟性は有機体のうちに相互に外的な諸部分しか認めることができないために、無限に複雑な(したがって無限に巧緻な)有機的組織を偶然にできた集合体と考えるか、不可思議な外力の作用によって有機的組織の諸要素が結び付けられたと考えるか、二つの説明のいずれか一方を選択する他はありません。しかし複雑さにせよ不可思議さにせよ、どちらも悟性が作り出したものなのです。わたしたちは、既に出来上がったものを外から捉えることしかできない知性の目で物事を見るのではなく、精神の目で、言い換えると行動能力に内在する見る能力によって、意志が言わば身を翻し自己を省みることから生まれる視覚能力によって見るように努めましょう。そうすればすべてが運動のうちに置き直され、すべてが運動に帰着するでしょう。悟性が一つの進展を固定したものと看做し、その固定したイメージをもとに無限に多くの部分と無限に巧緻な秩序を示すところに、わたしたちは一つの単純な過程を、例えば燃え尽きた花火が燃え滓となって舞い落ちてくる中で最後の輝きを放つ火花が切り開く道のごときものを、自己を解体するのと同じ種類の作用を貫いて自己を形成する作用を見るでしょう。

●進化の意義

こうした観点から見ると、わたしたちが生命の進化について示した一般的な考察はより一層明らかなものとなり、完全なものとなります。今やわたしたちは、生命の進化における偶然的なものと本質的なものとを、より一層明確に区別できるに違いありません。

わたしたちが生命のエランと呼んでいるものは、要するに、創造への要求に根差しています。このエランは、無制限に創造することはできません。それは前進しようとするや否や忽ち物質に、つまり自己と逆の運動に出会うからです。そうした制約の中で、生命のエランは必然性そのものであるこの物質を捉え、そこにできるだけ多くの非決定性、すなわち自由を挿入しようと試みます。このエランは、そのためにどう振舞うのでしょうか。

(つづく)