●極端な目的論
しかしわたしたちは極端な機械論と同様、極端な目的論もまた、機械論を拒否するのと同じ理由によって受け入れることができません。例えばライプニッツに見られるような極端な形の目的論には、事物にしろ存在にしろ、前もって素描されたプログラムが実現されたものに過ぎない、という考えが含まれています。しかし宇宙には予想外のことは何一つなく、発明も創造も存在しないのであれば、時間はやはり無用なものだということになってしまうでしょう。機械論的な仮説と同様、目的論においてもまた、すべては与えられている、と想定されているのです。このような意味での目的論は、逆向きの機械論でしかありません。それは機械論と同じ前提から着想を得ています。唯一異なるのは、わたしたちの有限な知性が、外見上継起しているように見える事物とともに(時間の中を)進んでいく際、目的論は、わたしたちの背後に灯火を掲げて行く先を照らし出すのではなく、わたしたちを先導すべく行く手に灯火を掲げる、という点です。目的論は過去に一つの推進力を置くのではなく、未来に一つの牽引力を置くのです。しかしこのとき、事物が継起しているように見えるのは、知性そのものが持続しているように見えるのと同じく、精神に欠陥があるからに他ならない、と考える点では目的論も機械論と変わりません。ライプニッツの学説では、時間は、人間的観点と依存関係にある混乱した知覚に還元されます。そうした知覚(時間)が霧のごとく視界を遮っているように見えるのは、精神が不完全だからであり、事物の中心を占める完全無欠な精神であれば、霧を払うかのように時間を消滅させ、その結果、すべてを隈なく見通すことができる、という風に考えられているのです。
とは言え目的論は、機械論とは異なり、輪郭の定まった固定した学説ではありません。目的論には、どんな形をも取り得る柔軟性があります。機械論的哲学は、取るか捨てるか、二つに一つしかありません。たとえごく微細な塵一つであっても、それが力学の予測した軌道から逸れ、ほんのわずかでも自発性の痕跡が認められた瞬間、機械論的哲学は廃棄されなければならないでしょう。それに対して、目的因を主張する学説が決定的に論破されることは決してありません。この学説は、一つの形式が斥けられてもまた別の形式を取って現れます。目的論の原理は本質的に心理的なものであるがゆえに、極めて柔軟です。それはいくらでも引き伸ばすことができ、幅広い領域を覆うことができるので、わたしたちが純粋な機械論を斥けるや否や、目的論の原理の幾分かを受け入れることになります。したがってわたしたちが本書で述べるテーゼも、多かれ少なかれ、目的論の余沢に与っているのは間違いありません。そこで、わたしたちが目的論から何を取り、何を捨てようとしているのかを明確にすることが重要になってきます。
まず指摘したいのは、ライプニッツの先鋭的な目的論を無限に細分化することによって、その過激さを和らげようとするのは無意味である、ということです。ところが目的性を主張する学説が選んだのは、まさにこの(その場しのぎの)緩和策なのです。言うまでもないことですが、仮に宇宙全体が或る計画の実現であるとしても、それを経験的に証明することは不可能です。また有機的世界に範囲を限定したからと言って、そこであらゆるものが調和していることを証明するのが容易になるわけでもありません。様々な事実を見れば、すべては調和しているどころか、寧ろその逆であると言いたくなります。実際、自然は生物同士を互いに争わせています。自然は至るところで、秩序と無秩序がぶつかり合い、進歩と退歩が対立する様をわたしたちに見せつけます。ここで、目的論者はこう考えます。物質全体や生命全体については是認できないことでも、個々の有機体には当て嵌まるのではないだろうか。そこでは見事な分業や、部分相互の緊密な連携が見られ、無限の複雑さの中に、完璧な秩序が見出せるのではないだろうか。この意味で、生物は各自の実体に内在する一つの計画を実現している、と言ってもよいのではないだろうか、と。このテーゼは、要するに、目的性についての古い考え方を細分化したものでしかありません。他方、生物同士は互いに秩序ある関係に置かれている、という外的な目的性の観念は一般に全く相手にされず、嘲笑の対象になることさえあります。草は牝牛のために作られ、子羊は狼のために作られている、などと考えるのは馬鹿げている、と目的論者は言います。彼らによれば、外的目的性の他に内的目的性があります。すなわち、各々の生物は自分のために作られており、生物のあらゆる部分は全体(生物自身)の最大の利益のために協力し合い、この目的のために巧みに組織されている、と言うのです。長い間古典的なものとされてきた目的性の考え方とは、そのようなものです。このように目的論は縮小され、一度に一つの生物にしか当て嵌まらないものになります。この考え方の根底にあるのは、身を屈めて姿勢を低くすれば(先鋭的なものを平らに均せば)外的攻撃に曝されずに済む、という安易な発想でしょう。
しかし実際には、彼らの意に反して、この内的目的性という考え方は敵により多くの攻撃の機会を与えることになった、と言わざるを得ません。上述した目的性に関する世の通念を根底から覆すことになりますが、目的性は外的なものである、というのがわたしたちの見解です。さもなければそれは何物でもありません。
例えば、考え得る限り複雑でしかも調和のとれた有機体を想定してみましょう。目的論者の言う通り、その有機体のすべての要素は全体の最大の利益のために協力し合っている、と仮定してみます。しかし有機体のそれぞれの要素は、場合によってはそれ自体一つの有機体たり得る、ということを忘れてはなりません。そしてこの小さな有機体の存在をより大きな有機体の生命に統合するとき、わたしたちは外的目的性の原理を受け入れることになる、という点に注意すれば、目的性が常に内的なものであるとする考え方は自ずと瓦解することに気付く筈です。有機体は様々な組織で構成されていますが、それらの組織も各々自分のために生きており、それら各組織を構成している細胞もまた、或る程度組織から独立しています。せめて個体のすべての要素は個体そのものに完全に従属している、ということだけでも証明できれば、それらの要素の一つ一つは有機体ではなく、有機体と呼べるのは個体だけである、と主張することもできるでしょうし、そうなれば内的目的性についてのみ語ることも許されるかも知れません。しかし周知のように、それらの要素は文字通り自立性を持つ場合があります。食細胞は自己の独立性を主張する余り、自分を養っている有機体に攻撃を加えることがあり、また生殖細胞は、体細胞とは別にそれ固有の生命活動を営んでいます。こういった例を持ち出すまでもなく、先の仮定(個体のすべての要素は個体そのものに完全に従属している)が誤りであることを証明するためには、再生という事実を挙げるだけで十分です。再生という事実が図らずもわたしたちに気付かせてくれるのは、或る一つの要素もしくは一群の要素は、平素ほんのわずかな場所しか占めておらず、特定の機能しか果たしていなかったとしても、いざというときにはそれを遥かに超える機能を果たすことができ、場合によっては全体と同等のものになることもできる、ということです。
今述べた点に、生気論の躓きの石があります。生気論は、通常、問題そのものによって問題に答えている、と言って非難されます。が、わたしたちはその点を非難するつもりはありません。生気論の想定する「生命原理」なるものは、確かに生命を説明する上で大して役には立ちません。とは言えそれは、言ってみればわたしたちの無知に貼り付けられたラベルのごときものであり、機械論がともするとわたしたちに自分が無知であることを忘れさせようとするのに対して、生命原理は折りに触れわたしたちに自分の無知を思い出させてくれるという効能を持っています。生気論にとって最大の難点は、自然界には純粋な内的目的性もなければ、完全に孤立した個体性もない、という二つの事実です。(まず個体性に関して言えば)、個体を構成している有機的要素は、それ自体或る種の個体性を備えています。したがってもし個体が生命原理を持っているなら、当然それらの有機的要素もそれぞれ自らの生命原理を要求することができる筈でしょう。しかし他方、個体そのものは固有の「生命原理」がそこに認められるほど他の個体から独立しているわけではなく、孤立しているわけでもありません。高等脊椎動物は、あらゆる有機体の中で最も個体化が進んだ有機体ですが、そうは言っても、それは母親の体の一部であった卵子と、父親の体の一部であった精子とが結合して発達したものでしかありません。卵(受精した卵子)は父親と母親双方の物質を共有しているのですから、二つの親を繋ぐ紛れもない連結符です。この点に着目すれば、人間を含むあらゆる有機的個体は、両親の結合体から発芽した単なる芽に過ぎない、ということがわかります。では個体の生命原理はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか。生物の進化を一つずつ遡っていくと、最終的に最も古い祖先にまで辿り着きます。つまり個体はあらゆる祖先と繋がりがあり、生命の系統樹の根元にあるゼリー状の原形質の小さな塊りとも無縁ではない、ということがわかるでしょう。個体はこの原初的な祖先と不完全ながらも一体をなしているのですから、そこから様々な方向に枝分かれしていったすべての生物とも繋がりがあることになります。この意味で、個体は生物全体と目に見えない紐帯で結ばれている、と言うことができます。そういうわけで、目的性の範囲を生物の個体性に限定しても意味がありません。生命の世界にもし本当に目的性があるなら、それは生命全体を丸ごと包み込むものである筈です。すべての生物が共有するこの生命は、確かに多くの矛盾や不調和を露呈しています。またそれは不可分のものであるとは言っても数学的な意味での「一」ではなく、したがって各生物が個体化することを或る程度は許容しています。そういう不完全な面はあるにせよ、この生命が唯一の全体を形作るものであることには変わりがありません。それゆえわたしたちは、(内的目的性という考え方に逃げ込むのではなく)目的性をきっぱり否定するか、それとも、有機体の諸部分はその有機体と結び付いており、同様に各生物は他の生物全体と結び付いている、と仮定する(外的目的性を仮定する)か、どちらかを選択しなければならないのです。
目的性を細かく砕いたからと言って、それが受け入れやすくなるわけではありません。目的性が生命に内在する、という仮説をそっくりそのまま捨て去るか(目的性そのものを否定するか)、或いはそれを全く別のものに作り変えるか、二つのうちどちらかを選択しなければなりません。わたしたちは後者を選択すべきだと考えます。
●生物学と哲学
極端な目的論の誤りは、極端な機械論の場合と同様、わたしたちの知性が生まれつき持っているいくつかの概念を余りにも広範囲に適用してしまう点にあります。もともとわたしたちが思考するのは、行動するためでしかありません。わたしたちの知性は行動という鋳型の中に流し込まれ、鋳造されたものです。行動が必需品だとすれば、思考は贅沢品です。ところで、わたしたちは行動するに当たってまず目標を立てます。次いで計画を立て、それを実現する具体的なメカニズムの検討に入ります。メカニズムを正しく機能させるためには、何が当てになるかを前もって知っていなければなりません。そこで、未来の予見を可能にする様々な類似を自然から抽出する必要があります。したがって意識的にせよ無意識的にせよ、わたしたちはこのとき既に因果律を適用していることになります。さらに、動力因という観念がわたしたちの精神のうちにはっきりと描き出されるにつれて、それは次第に機械的な因果関係の形を取るようになります。この機械的な因果関係は、それがより厳密な必然性を表現するようになるにつれて、今度は数学的なものになっていきます。そういうわけで、精神の傾向に従ってさえいれば、わたしたちは自ずと数学者になることができます。わたしたちに備わるこの自然的数学は、見方を変えると、同じ原因を同じ結果に結び付けようとするわたしたちの意識的な習慣を無意識のうちに支えているものに過ぎない、と言うこともできます。そしてこの習慣の一般的な目的は、様々な意図(や着想)を実現に導くこと、或いは同じことですが、(様々な製作物や一連の動作などの)モデルを忠実に再現するために必要な運動を組織し方向付けることにあります。つまりわたしたちは生まれながらの幾何学者であるのと同様に、生まれながらの職人でもあるのです。と言うより寧ろ、わたしたちが幾何学者であるのは、わたしたちが生まれながらの職人であるからに他なりません。人間の知性は人間的行動の諸々の要求に合わせて作られたものである以上、何らかの意図と同時に計算によって働くものであり、或る目的のために諸々の手段を調整するものであると同時に、メカニズムをより一層幾何学的な形で表象するものでもあります。自然というものを、数学的法則に支配された巨大な機械と捉えるにせよ、或いは一つの計画の実現と捉えるにせよ、わたしたちは、精神に備わる二つの傾向、互いに補い合い、同じ生命的必要に由来する二つの傾向を最後まで辿っているに過ぎません。
このように、極端な目的論は多くの点で極端な機械論と極めてよく似ています。両者はいずれも、事物の経過に、或いは生命の発展にさえ、予見不可能な形態の創造が潜んでいると考えることを嫌います。機械論について言えば、機械論は実在のうち類似する側面、或いは反復する側面にしか関心を持ちません。機械論を支配しているのは、自然においては同じものは同じものしか生み出さない、という法則です。機械論に内在する幾何学が明確に姿を現してくるにつれて、機械論は何かが創造されること、形態が創造されることすら認められなくなります。つまりわたしたちは、幾何学者である限り予見不可能なものを受け入れることができないのです。芸術家であれば予見不可能なものを抵抗なく受け入れることができるでしょうが、それは、創造なくして芸術は成立しないからであり、芸術家は自然の自発性を暗黙のうちに信じているからです。もっとも利害を離れた行為である芸術は、わたしたちにとって純粋な思弁と同じく、贅沢品でしかありません。芸術家である以前に、わたしたちは職人(工作人・ホモファベル)です。そして職人の行うあらゆる製作は、それがどんなに簡単なものであれ、類似と反復に基づいて行われます。それは製作を陰で支えている幾何学が、類似と反復に基づいているのと同様です。また製作は再現されるべきモデルに基づいて行われ、何かを発明しようとする場合にも、職人は既知の諸要素を新たに並べ替えることによって、或いは少なくとも並べ替えることを意図して事を進めます。「同じものを作るためには、同じものが必要である」というのが製作の原理です。したがって目的論的な原理を厳密に適用しようとすると、機械論的な因果律の場合と同様、「すべては与えられている」という結論に行き着かざるを得ません。この二つの原理は、同じ必要に応えるものであり、同じことを異なる言葉で述べているに過ぎないのです。
そういうわけで、この二つの原理は、時間に一切の価値を認めない点でも一致しています。具体的な持続とは、事物に食い入り、そこに歯型を残すような持続です。時間のうちにあるものは、すべて内的に変化し、同一の具体的実在が反復することは決してありません。それゆえ反復は、抽象の中にしか存在しません。反復するのは、わたしたちの感覚が、とりわけわたしたちの知性が実在から切り取ったあれこれの側面だけです。知性のあらゆる努力は行動を目当てになされますが、知性が実在からそうした側面を抽出するのは、まさに行動が反復するものの中でしか行われ得ないからです。知性は反復するものに気を取られ、同じものを同じものに接合することに専念する余り、時間を見逃してしまいます。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく凝固させます。一方、実在的な時間は単なる思考の一対象ではありません。知性はそれを浸している生命の流れの一部でしかない以上、わたしたちは実在的な時間を思考すると言うより寧ろそれを生きるのです。わたしたち自身は勿論、あらゆる事物は純粋持続の中で進化している、ということをわたしたちは感じ取っており、この感情(直観)が、(月のように輝く)知的表象の周囲を、夜闇の中に溶け込むおぼろな暈のごとく縁取っています。機械論と目的論は、これらのうち、中心で輝く核(知的表象)しか考慮しない、という点で共通しています。両者は、この核が生命の流れが凝固して出来たものであること、生命の内的運動を捉え直すには、それらすべて、すなわち、凝固したものと同じく、否、それ以上に流動的なものをも考慮に入れなければならない、ということを見落としているのです。
事実、そういう暈が存在するのであれば、たとえそれが不明瞭でぼんやりしたものであっても、哲学者にとってその暈はそれに縁取られている輝く核よりも遥かに重要です。何故ならその暈があればこそ核が核である所以を理解することができ、知性そのものが知性以上に広大な力が凝固した結果出来たものであることを理解することができるからです。この直観という漠たる暈は、事物に対するわたしたちの行動、すなわち実在の表面で展開される行動を導くという点に関しては、確かに何の役にも立ちません。しかしまさにそうであるからこそ、直観は知性のように実在の表面で働くのではなく、実在の深い層で働いているのではないか、と推測することができます。
極端な機械論と目的論とがわたしたちの思考を閉じ込めている枠から一歩外に出ると、実在は新しいものの絶えざる湧出としてわたしたちの前に現れます。この新しいものは次々に現れては現在となり、すぐにまた過去へと没し去ります。知性が新しいものを視界に捉えるのは、まさにこの瞬間です。というのも、知性の目は常に後ろを向いているからです。わたしたちの内的生活においてもそれは例外ではありません。人々はわたしたちの行為の一つ一つのうちに先行因子を苦もなく見つけ出し、当該行為を言わばそれらの力学的合成と考えるでしょう。同様に、それらの行為のうちに何らかの意図の実現を見て取るのは容易いことです。この意味で、わたしたちの行動が展開される局面の至るところに機械性があり、目的性がある、と言うことができます。しかし行動が曲がりなりにもわたしたちの人格全体にかかわるものであり、真にわたしたちのものであるならば、一旦行動がなされてしまえば先行因子によってそれを説明できるからと言って、前もってその行動が予見できるわけではありません。またその行動は一つの意図の実現だとしても、行動は飽くまで現在の新しい実在であり、意図は過去のやり直し、或いは過去の要素を並べ替えた一つの企てでしかない以上、為された行為は意図されたものとは異なる何物かです。したがってこの場合、機械論と目的論はわたしたちの行動を外から眺めたものでしかありません。両者はわたしたちの行動から知的なものを抽出しますが、わたしたちの行動はそれら知的なものの間からすり抜け、遥か遠くまで広がっています。と言っても以前発表した著作で指摘したように、自由な行動とは気紛れで不合理な行動のことではありません。気紛れに行動するということは、二つもしくはそれ以上の既成の選択肢の間を機械的に行きつ戻りつした挙句、最終的にいずれか一つに落ち着くことです。それは内的状況が成熟したということでもなければ、進展したということでもありません。逆説的に聞こえるかも知れませんが、気紛れに行動するとは、意志に知性のメカニズムを無理やり模倣させることに過ぎない、と言うことができます。これに対して、真にわたしたちのものであるような行動とは、知性を模倣しようとしない意志的行動です。意志は自己自身を発展させながら、徐々に成熟して行為に達します。知性は事後、この行為を際限なく知的な要素に分解しようとするでしょうが、それを完全に分解し尽くすことは決してできないでしょう。自由な行為は観念とは通約不可能であって、自由な行為の「合理性」はこの観念との通約不可能性そのものによって定義されなければなりません。自由な行為はまさに観念と通約不可能なものであるからこそ、わたしたちはそこに好きなだけ知的なものを見出すことができます。今述べた自由な行為の性格はわたしたちの内的進展の特徴であると同時に、疑いもなく生命進化の特徴でもあります。
わたしたちの理性は救い難いほど自惚れが強く、生まれながらの権利によって、或いは獲得した権利によって、先天的もしくは後天的に、真理の認識の本質的な要素をすべて手にしている、と思い込んでいます。理性は目の前に差し出されたものを知らないと認めるときでさえ、それを知らないということは、この新しい対象が既成のカテゴリーのどれに当て嵌まるのかわからないということに過ぎない、と考えます。すなわち、抽斗はいつでも引き出せる状態にある。問題はどの抽斗にその対象を入れるのか、ということだ。或いは、様々な規格の服は既に用意されている。問題はどの服をその対象に着せるのか、ということだ。これか? あれか? それとも別の服か? この「これ」も「あれ」も「別の服」も、わたしたちにとっては常に、既に考えられたものであり、既知のものに過ぎません。新しい対象のために新しい概念を、恐らくは新しい思考法をさえ一から創り出さなければならない、と考えるのはわたしたちにとって心底疎ましいことなのです。しかし哲学の歴史は、諸体系間で果てしない闘争が繰り広げられていること、したがって実在を既製服に、すなわち既成概念にぴったり嵌め込むのは不可能であり、実在毎に新しい服を誂えなければならない、ということをわたしたちに教えてくれます。一方わたしたちの理性は、そこまで徹底してやるよりも、寧ろ、認識し得るのは相対的なものだけで、絶対的なものは理性の領分に属していない、と一見謙虚に、その実尊大に宣告することを好みます。こう宣告して置けば、理性は自分の習慣的な思考法をどこでも遠慮なく適用することができ、絶対的なものには触れることができないということを大義名分として、すべての事象について絶対的な判断を下すことができます。実在を認識するとは、その実在に、その実在のイデアを見つけてやることである、言い換えると、わたしたちの掌中にある永遠の枠に実在を嵌め込むことである――あたかもわたしたちは知らぬ間に普遍的知識を掌中に収めているかのように――という考えを初めて理論化したのはプラトンです。とは言えこの信念は、人間的知性にとって自然なものです。人間的知性はどんな新しい対象についても、それを既知のどの項目に分類すべきかということに常に留意しています。したがって或る意味では、わたしたちは皆生まれながらのプラトニストである、と言うことができるでしょう。
この方法の無力さがはっきりと露呈するのは、生命に関する理論を構築するときです。生命は、総じて脊椎動物の方向に、とりわけ人間と知性の方向に進化する際、この特定の有機的組織化の様態と相容れない多くの要素を途中で放棄し、後述するように、それらを他の幾つかの発達の系統に委ねなければなりませんでした。したがって生命活動の真の本性を捉え直すためには、これらの要素全体を探求し、それを純然たる知性と融合させる必要があります。このとき、明晰な表象、すなわち知的な表象を縁取っている例の漠たる表象の暈が、わたしたちの助けとなることは言うまでもありません。事実、この無用と見える暈は、進化しつつある根本的要素のうち、知性という特定の形式に凝縮されることなく、その周囲に密かに紛れ込んだ部分でなくて何でしょうか。わたしたちはそこにこそ、わたしたちの思考の知的形式を拡張するための手掛かりを探しに行くべきでしょう。そしてそこでこそ、わたしたちはわたしたち自身を超えるための原動力を汲み取ることができるでしょう。生命の全体を表象するとは、生命が進化の過程でわたしたちのうちに沈殿させた様々な単純な観念を組み合わせることでは決してありません。部分が全体に、含まれるものが含むものに、生命活動の残滓が生命活動そのものに匹敵する、などということがどうしてあり得るでしょうか。とは言え生命の進化を(スペンサーのように)「同質のものから異質のものへの移行」として定義するとき、或いは知性の断片を組み合わせて作った別の概念によって生命の進化を定義するとき、わたしたちが陥っているのはそういう錯覚です。わたしたちは、進化の到達点の一つに身を置いています。そしてこの到達点は確かに主要なものには違いないとしても、唯一のものではありません。しかもこの一つの到達点においてさえ、わたしたちはそこに見出されるすべてのものを取り上げているわけではありません。何故ならわたしたちは知性のうち、知性の表れである概念の幾つかを取り上げるに過ぎないからです。にもかかわらず、この部分の部分が全体を代表している、とわたしたちは宣言します。のみならずこの部分の部分が、凝固した全体(知性)から溢れている何物か、つまり、この凝固した「全体」を現在の一局面として包摂するような進化運動を代表している、とさえ言い張るのです。実際には、ここでは知性全体を取り上げても十分過ぎるということはなく、寧ろそれだけでは不十分です。知性全体を取り上げるだけでなく、他の進化系統の終点に見出される要素もそれに付け加える必要があります。そして最古の祖先が様々な方向に枝分かれした結果分散したそれらの要素を、相互に補足し合う全体の抽出物として、或いは少なくとも、最も原始的な形態では相互に補足し合っていたであろう抽出物として位置付ける必要があるでしょう。そうすることによって初めて、進化運動の真の本性を感じ取ることができます。――もっともその場合でも、わたしたちはせいぜいそれを感じ取ることしかできません。何故ならわたしたちが実際に手に取って確かめることができるのは、常に進化を遂げたもの、すなわち一つの結果であって、進化そのもの、すなわち結果をもたらす作用ではないからです。
以上が、これからわたしたちが検証しようとしている生命の哲学です。この哲学が目指しているのは、機械論と目的論を同時に乗り越えることです。しかしあらかじめ注意を促して置いたように、それは機械論よりも、どちらかと言えば目的論に近い立場を取ります。この点を強調し、それがどの点で目的論に似ており、どの点で目的論と異なるかをより正確に示して置くのは無駄ではないと考えます。
この哲学は極端な目的論と同じく、ただし極端な目的論より漠然とした形で、有機的世界を調和的な全体として思い描きます。しかしこの調和は、従来考えられていたような完全なものではありません。それは多くの不協和を許容します。というのも、各々の種や、各々の個体は、生命の全体的推進力のうち特定のエラン(弾み)しか保持しておらず、そのエネルギーを自分自身の利益のためにしか利用しようとしないからです。適応と呼ばれるものは、まさにこの点に存します。種や個体はこのように、自分の利益しか追求しません。――そしてそこから、他の生命形態とのあらゆる闘争が起こります。したがって調和は、事実として存在するのではなく、権利として存在します。つまり、原初のエランこそ種や個体に共通のものであって、原初の状態に遡れば遡るほど、(相反する)諸々の傾向が相互補完的なものとして現れる、ということです。ちょうど四つ角で様々な方向に流れる風が、もともとはそこに吹き込んだ一陣の風でしかないように。調和、或いは寧ろ「相互補完性」は、大まかにしか現れません。それは状態として現れるというより、傾向として現れます。とりわけ肝心な点は(そしてこの点で目的論は最大の過ちを犯しているのですが)、調和は前方にあるのではなく、後方にある、ということです。調和は同一の推進力に由来するのであって、共通の牽引力に由来するのではありません。生命に、人間的な意味での目的を賦与するのは意味のないことです。或る目的について語るとき、わたしたちの念頭にあるのは、既に存在し、後はただ実現されるのを待つだけのモデルのことです。したがってわたしたちは、結局のところ、すべては与えられており、未来は現在の中に読み取ることができる、と考えています。そのように考えることは、生命の運動、生命全体がわたしたちの知性と同じように働く、と信じることです。わたしたちの知性は生命についての不動で断片的な眺めに過ぎず、本性上、常に時間の外に身を置いています。それに対して、生命は発展し、持続します。確かに一旦事を為し終えた後であれば、自分が通った跡から方向を読み取ってそれを心理学的な用語で記述し、あたかも何らかの目的が追求されたかのように語ることは可能でしょう。事実、わたしたちは自分自身の行為をそのように解釈します。しかしこれから進もうとする道については、人間精神は何も語ることができません。何故ならその道は進行と同時に創造されるものであり、行為そのものの方向を表しているからです。それゆえ進化は、あらゆる瞬間に心理学的な解釈を許すにしても、そしてその解釈は、わたしたちの観点からすると進化に関する最良の説明には違いないとしても、その価値や或いは意味すらも回顧的なものでしかありません。わたしたちがこれから提示する目的論的な解釈も、未来の予想という意味に解釈してはなりません。それは現在の光で照らした過去の一つの見方に過ぎない、と解釈すべきです。目的性に関する古典的な理論は、以上のことから、一面では前提が多すぎ、他面では少なすぎる、と言うことができるでしょう。それは一面では広すぎ、他面では狭すぎます。まず、古典的な理論が生命を知性によって説明するとき、それは生命の意義を不当に狭めてしまいます。知性は、或いは少なくともわたしたちのうちに見られるような知性は、進化がその道すがら形成したものです。知性はより広大な何物かから切り取られたもの、或いは寧ろ、起伏や奥行きのある実在を無理やり平面上に投影したものに過ぎません。真の目的論なら、そうしたより広大な実在をこそ再構成すべきでしょうし、或いは寧ろ、可能ならばそれを単一の視野に収めるよう努めるべきでしょう。他面、この実在は知性の枠に収まり切らず、同じものを同じものに結び付け、反復を見出すと同時に反復を生じさせる知性という能力を超えるものであるがゆえに、疑いもなく創造的なものです。言い換えると、この実在は様々な結果を生み出し、それらの結果の中で自己を拡大し、自己自身を超越します。したがってそれらの結果は、前もってこの実在に与えられていたのではありません。別言すると、それらの結果は一旦生み出されてしまえば一つのモデルを実現した製作物のように合理的な説明を許すにせよ、この実在は前もってその結果を目的として表象していたわけではない、ということです。要するに目的因を立てる理論は、自然の中に知性を置くだけで満足しているとき、不十分であり、未来が観念という形で現在の中に前もって存在すると想定するとき、行き過ぎである、と言うことができます。もっとも行き過ぎという点で間違っている第二のテーゼは、不十分である点で欠陥のある第一のテーゼの当然の帰結です。わたしたちは、純粋な知性を措定する前に、まず知性以上に広大な実在を措定しなければなりません。何故なら知性は、この実在が収縮したものに過ぎないからです。そうすると未来は、現在の拡張として現れてきます。つまり未来は、表象された目的という形で現在の中に含まれているのではない、ということです。しかしひとたび未来が現実のものとなった暁には、現在が未来を説明するのと同じくらい、否それ以上にそれは現在を説明するでしょう。未来は結果として考えられなければならないのと同じくらい、否それ以上に目的(外的目的性)として考えられなければならないでしょう。もともとわたしたちの知性そのものが、未来を生み出す原因から抽出されたものなのですから、知性が自分の習慣的な観点から未来を抽象的に考えるのは仕方のないことなのです。
この未来を生み出す原因を捉えることは、一見不可能であるように思えるかも知れません。生命に関する目的論的な理論を明確に実証すること自体、不可能です。さらに、目的論が辿った道の一つを、目的論以上に進むことに一体どんな意味があるのか、という疑問を呈する人もいるでしょう。ここでわたしたちは、回り道をして予備的な考察を行った末に、わたしたちが本質的と考える問題、すなわち、機械論の不十分さを、事実によって証明することができるか、という問題に自ずと立ち戻ることになります。既に述べたように、機械論の不十分さを証明するためには、進化論の立場に先入観なく身を置かなければなりません。機械論が進化を十分に説明し得ないのが事実だとしても、それを証明するために必要なのは目的性に関する古典的な考え方にとどまることではなく、ましてやそれを縮小することでも緩和することでもありません。必要なのは寧ろそれを越えていくことです。そのことを明らかにするときがいよいよ来ました。
(つづく)
しかしわたしたちは極端な機械論と同様、極端な目的論もまた、機械論を拒否するのと同じ理由によって受け入れることができません。例えばライプニッツに見られるような極端な形の目的論には、事物にしろ存在にしろ、前もって素描されたプログラムが実現されたものに過ぎない、という考えが含まれています。しかし宇宙には予想外のことは何一つなく、発明も創造も存在しないのであれば、時間はやはり無用なものだということになってしまうでしょう。機械論的な仮説と同様、目的論においてもまた、すべては与えられている、と想定されているのです。このような意味での目的論は、逆向きの機械論でしかありません。それは機械論と同じ前提から着想を得ています。唯一異なるのは、わたしたちの有限な知性が、外見上継起しているように見える事物とともに(時間の中を)進んでいく際、目的論は、わたしたちの背後に灯火を掲げて行く先を照らし出すのではなく、わたしたちを先導すべく行く手に灯火を掲げる、という点です。目的論は過去に一つの推進力を置くのではなく、未来に一つの牽引力を置くのです。しかしこのとき、事物が継起しているように見えるのは、知性そのものが持続しているように見えるのと同じく、精神に欠陥があるからに他ならない、と考える点では目的論も機械論と変わりません。ライプニッツの学説では、時間は、人間的観点と依存関係にある混乱した知覚に還元されます。そうした知覚(時間)が霧のごとく視界を遮っているように見えるのは、精神が不完全だからであり、事物の中心を占める完全無欠な精神であれば、霧を払うかのように時間を消滅させ、その結果、すべてを隈なく見通すことができる、という風に考えられているのです。
とは言え目的論は、機械論とは異なり、輪郭の定まった固定した学説ではありません。目的論には、どんな形をも取り得る柔軟性があります。機械論的哲学は、取るか捨てるか、二つに一つしかありません。たとえごく微細な塵一つであっても、それが力学の予測した軌道から逸れ、ほんのわずかでも自発性の痕跡が認められた瞬間、機械論的哲学は廃棄されなければならないでしょう。それに対して、目的因を主張する学説が決定的に論破されることは決してありません。この学説は、一つの形式が斥けられてもまた別の形式を取って現れます。目的論の原理は本質的に心理的なものであるがゆえに、極めて柔軟です。それはいくらでも引き伸ばすことができ、幅広い領域を覆うことができるので、わたしたちが純粋な機械論を斥けるや否や、目的論の原理の幾分かを受け入れることになります。したがってわたしたちが本書で述べるテーゼも、多かれ少なかれ、目的論の余沢に与っているのは間違いありません。そこで、わたしたちが目的論から何を取り、何を捨てようとしているのかを明確にすることが重要になってきます。
まず指摘したいのは、ライプニッツの先鋭的な目的論を無限に細分化することによって、その過激さを和らげようとするのは無意味である、ということです。ところが目的性を主張する学説が選んだのは、まさにこの(その場しのぎの)緩和策なのです。言うまでもないことですが、仮に宇宙全体が或る計画の実現であるとしても、それを経験的に証明することは不可能です。また有機的世界に範囲を限定したからと言って、そこであらゆるものが調和していることを証明するのが容易になるわけでもありません。様々な事実を見れば、すべては調和しているどころか、寧ろその逆であると言いたくなります。実際、自然は生物同士を互いに争わせています。自然は至るところで、秩序と無秩序がぶつかり合い、進歩と退歩が対立する様をわたしたちに見せつけます。ここで、目的論者はこう考えます。物質全体や生命全体については是認できないことでも、個々の有機体には当て嵌まるのではないだろうか。そこでは見事な分業や、部分相互の緊密な連携が見られ、無限の複雑さの中に、完璧な秩序が見出せるのではないだろうか。この意味で、生物は各自の実体に内在する一つの計画を実現している、と言ってもよいのではないだろうか、と。このテーゼは、要するに、目的性についての古い考え方を細分化したものでしかありません。他方、生物同士は互いに秩序ある関係に置かれている、という外的な目的性の観念は一般に全く相手にされず、嘲笑の対象になることさえあります。草は牝牛のために作られ、子羊は狼のために作られている、などと考えるのは馬鹿げている、と目的論者は言います。彼らによれば、外的目的性の他に内的目的性があります。すなわち、各々の生物は自分のために作られており、生物のあらゆる部分は全体(生物自身)の最大の利益のために協力し合い、この目的のために巧みに組織されている、と言うのです。長い間古典的なものとされてきた目的性の考え方とは、そのようなものです。このように目的論は縮小され、一度に一つの生物にしか当て嵌まらないものになります。この考え方の根底にあるのは、身を屈めて姿勢を低くすれば(先鋭的なものを平らに均せば)外的攻撃に曝されずに済む、という安易な発想でしょう。
しかし実際には、彼らの意に反して、この内的目的性という考え方は敵により多くの攻撃の機会を与えることになった、と言わざるを得ません。上述した目的性に関する世の通念を根底から覆すことになりますが、目的性は外的なものである、というのがわたしたちの見解です。さもなければそれは何物でもありません。
例えば、考え得る限り複雑でしかも調和のとれた有機体を想定してみましょう。目的論者の言う通り、その有機体のすべての要素は全体の最大の利益のために協力し合っている、と仮定してみます。しかし有機体のそれぞれの要素は、場合によってはそれ自体一つの有機体たり得る、ということを忘れてはなりません。そしてこの小さな有機体の存在をより大きな有機体の生命に統合するとき、わたしたちは外的目的性の原理を受け入れることになる、という点に注意すれば、目的性が常に内的なものであるとする考え方は自ずと瓦解することに気付く筈です。有機体は様々な組織で構成されていますが、それらの組織も各々自分のために生きており、それら各組織を構成している細胞もまた、或る程度組織から独立しています。せめて個体のすべての要素は個体そのものに完全に従属している、ということだけでも証明できれば、それらの要素の一つ一つは有機体ではなく、有機体と呼べるのは個体だけである、と主張することもできるでしょうし、そうなれば内的目的性についてのみ語ることも許されるかも知れません。しかし周知のように、それらの要素は文字通り自立性を持つ場合があります。食細胞は自己の独立性を主張する余り、自分を養っている有機体に攻撃を加えることがあり、また生殖細胞は、体細胞とは別にそれ固有の生命活動を営んでいます。こういった例を持ち出すまでもなく、先の仮定(個体のすべての要素は個体そのものに完全に従属している)が誤りであることを証明するためには、再生という事実を挙げるだけで十分です。再生という事実が図らずもわたしたちに気付かせてくれるのは、或る一つの要素もしくは一群の要素は、平素ほんのわずかな場所しか占めておらず、特定の機能しか果たしていなかったとしても、いざというときにはそれを遥かに超える機能を果たすことができ、場合によっては全体と同等のものになることもできる、ということです。
今述べた点に、生気論の躓きの石があります。生気論は、通常、問題そのものによって問題に答えている、と言って非難されます。が、わたしたちはその点を非難するつもりはありません。生気論の想定する「生命原理」なるものは、確かに生命を説明する上で大して役には立ちません。とは言えそれは、言ってみればわたしたちの無知に貼り付けられたラベルのごときものであり、機械論がともするとわたしたちに自分が無知であることを忘れさせようとするのに対して、生命原理は折りに触れわたしたちに自分の無知を思い出させてくれるという効能を持っています。生気論にとって最大の難点は、自然界には純粋な内的目的性もなければ、完全に孤立した個体性もない、という二つの事実です。(まず個体性に関して言えば)、個体を構成している有機的要素は、それ自体或る種の個体性を備えています。したがってもし個体が生命原理を持っているなら、当然それらの有機的要素もそれぞれ自らの生命原理を要求することができる筈でしょう。しかし他方、個体そのものは固有の「生命原理」がそこに認められるほど他の個体から独立しているわけではなく、孤立しているわけでもありません。高等脊椎動物は、あらゆる有機体の中で最も個体化が進んだ有機体ですが、そうは言っても、それは母親の体の一部であった卵子と、父親の体の一部であった精子とが結合して発達したものでしかありません。卵(受精した卵子)は父親と母親双方の物質を共有しているのですから、二つの親を繋ぐ紛れもない連結符です。この点に着目すれば、人間を含むあらゆる有機的個体は、両親の結合体から発芽した単なる芽に過ぎない、ということがわかります。では個体の生命原理はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか。生物の進化を一つずつ遡っていくと、最終的に最も古い祖先にまで辿り着きます。つまり個体はあらゆる祖先と繋がりがあり、生命の系統樹の根元にあるゼリー状の原形質の小さな塊りとも無縁ではない、ということがわかるでしょう。個体はこの原初的な祖先と不完全ながらも一体をなしているのですから、そこから様々な方向に枝分かれしていったすべての生物とも繋がりがあることになります。この意味で、個体は生物全体と目に見えない紐帯で結ばれている、と言うことができます。そういうわけで、目的性の範囲を生物の個体性に限定しても意味がありません。生命の世界にもし本当に目的性があるなら、それは生命全体を丸ごと包み込むものである筈です。すべての生物が共有するこの生命は、確かに多くの矛盾や不調和を露呈しています。またそれは不可分のものであるとは言っても数学的な意味での「一」ではなく、したがって各生物が個体化することを或る程度は許容しています。そういう不完全な面はあるにせよ、この生命が唯一の全体を形作るものであることには変わりがありません。それゆえわたしたちは、(内的目的性という考え方に逃げ込むのではなく)目的性をきっぱり否定するか、それとも、有機体の諸部分はその有機体と結び付いており、同様に各生物は他の生物全体と結び付いている、と仮定する(外的目的性を仮定する)か、どちらかを選択しなければならないのです。
目的性を細かく砕いたからと言って、それが受け入れやすくなるわけではありません。目的性が生命に内在する、という仮説をそっくりそのまま捨て去るか(目的性そのものを否定するか)、或いはそれを全く別のものに作り変えるか、二つのうちどちらかを選択しなければなりません。わたしたちは後者を選択すべきだと考えます。
●生物学と哲学
極端な目的論の誤りは、極端な機械論の場合と同様、わたしたちの知性が生まれつき持っているいくつかの概念を余りにも広範囲に適用してしまう点にあります。もともとわたしたちが思考するのは、行動するためでしかありません。わたしたちの知性は行動という鋳型の中に流し込まれ、鋳造されたものです。行動が必需品だとすれば、思考は贅沢品です。ところで、わたしたちは行動するに当たってまず目標を立てます。次いで計画を立て、それを実現する具体的なメカニズムの検討に入ります。メカニズムを正しく機能させるためには、何が当てになるかを前もって知っていなければなりません。そこで、未来の予見を可能にする様々な類似を自然から抽出する必要があります。したがって意識的にせよ無意識的にせよ、わたしたちはこのとき既に因果律を適用していることになります。さらに、動力因という観念がわたしたちの精神のうちにはっきりと描き出されるにつれて、それは次第に機械的な因果関係の形を取るようになります。この機械的な因果関係は、それがより厳密な必然性を表現するようになるにつれて、今度は数学的なものになっていきます。そういうわけで、精神の傾向に従ってさえいれば、わたしたちは自ずと数学者になることができます。わたしたちに備わるこの自然的数学は、見方を変えると、同じ原因を同じ結果に結び付けようとするわたしたちの意識的な習慣を無意識のうちに支えているものに過ぎない、と言うこともできます。そしてこの習慣の一般的な目的は、様々な意図(や着想)を実現に導くこと、或いは同じことですが、(様々な製作物や一連の動作などの)モデルを忠実に再現するために必要な運動を組織し方向付けることにあります。つまりわたしたちは生まれながらの幾何学者であるのと同様に、生まれながらの職人でもあるのです。と言うより寧ろ、わたしたちが幾何学者であるのは、わたしたちが生まれながらの職人であるからに他なりません。人間の知性は人間的行動の諸々の要求に合わせて作られたものである以上、何らかの意図と同時に計算によって働くものであり、或る目的のために諸々の手段を調整するものであると同時に、メカニズムをより一層幾何学的な形で表象するものでもあります。自然というものを、数学的法則に支配された巨大な機械と捉えるにせよ、或いは一つの計画の実現と捉えるにせよ、わたしたちは、精神に備わる二つの傾向、互いに補い合い、同じ生命的必要に由来する二つの傾向を最後まで辿っているに過ぎません。
このように、極端な目的論は多くの点で極端な機械論と極めてよく似ています。両者はいずれも、事物の経過に、或いは生命の発展にさえ、予見不可能な形態の創造が潜んでいると考えることを嫌います。機械論について言えば、機械論は実在のうち類似する側面、或いは反復する側面にしか関心を持ちません。機械論を支配しているのは、自然においては同じものは同じものしか生み出さない、という法則です。機械論に内在する幾何学が明確に姿を現してくるにつれて、機械論は何かが創造されること、形態が創造されることすら認められなくなります。つまりわたしたちは、幾何学者である限り予見不可能なものを受け入れることができないのです。芸術家であれば予見不可能なものを抵抗なく受け入れることができるでしょうが、それは、創造なくして芸術は成立しないからであり、芸術家は自然の自発性を暗黙のうちに信じているからです。もっとも利害を離れた行為である芸術は、わたしたちにとって純粋な思弁と同じく、贅沢品でしかありません。芸術家である以前に、わたしたちは職人(工作人・ホモファベル)です。そして職人の行うあらゆる製作は、それがどんなに簡単なものであれ、類似と反復に基づいて行われます。それは製作を陰で支えている幾何学が、類似と反復に基づいているのと同様です。また製作は再現されるべきモデルに基づいて行われ、何かを発明しようとする場合にも、職人は既知の諸要素を新たに並べ替えることによって、或いは少なくとも並べ替えることを意図して事を進めます。「同じものを作るためには、同じものが必要である」というのが製作の原理です。したがって目的論的な原理を厳密に適用しようとすると、機械論的な因果律の場合と同様、「すべては与えられている」という結論に行き着かざるを得ません。この二つの原理は、同じ必要に応えるものであり、同じことを異なる言葉で述べているに過ぎないのです。
そういうわけで、この二つの原理は、時間に一切の価値を認めない点でも一致しています。具体的な持続とは、事物に食い入り、そこに歯型を残すような持続です。時間のうちにあるものは、すべて内的に変化し、同一の具体的実在が反復することは決してありません。それゆえ反復は、抽象の中にしか存在しません。反復するのは、わたしたちの感覚が、とりわけわたしたちの知性が実在から切り取ったあれこれの側面だけです。知性のあらゆる努力は行動を目当てになされますが、知性が実在からそうした側面を抽出するのは、まさに行動が反復するものの中でしか行われ得ないからです。知性は反復するものに気を取られ、同じものを同じものに接合することに専念する余り、時間を見逃してしまいます。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく凝固させます。一方、実在的な時間は単なる思考の一対象ではありません。知性はそれを浸している生命の流れの一部でしかない以上、わたしたちは実在的な時間を思考すると言うより寧ろそれを生きるのです。わたしたち自身は勿論、あらゆる事物は純粋持続の中で進化している、ということをわたしたちは感じ取っており、この感情(直観)が、(月のように輝く)知的表象の周囲を、夜闇の中に溶け込むおぼろな暈のごとく縁取っています。機械論と目的論は、これらのうち、中心で輝く核(知的表象)しか考慮しない、という点で共通しています。両者は、この核が生命の流れが凝固して出来たものであること、生命の内的運動を捉え直すには、それらすべて、すなわち、凝固したものと同じく、否、それ以上に流動的なものをも考慮に入れなければならない、ということを見落としているのです。
事実、そういう暈が存在するのであれば、たとえそれが不明瞭でぼんやりしたものであっても、哲学者にとってその暈はそれに縁取られている輝く核よりも遥かに重要です。何故ならその暈があればこそ核が核である所以を理解することができ、知性そのものが知性以上に広大な力が凝固した結果出来たものであることを理解することができるからです。この直観という漠たる暈は、事物に対するわたしたちの行動、すなわち実在の表面で展開される行動を導くという点に関しては、確かに何の役にも立ちません。しかしまさにそうであるからこそ、直観は知性のように実在の表面で働くのではなく、実在の深い層で働いているのではないか、と推測することができます。
極端な機械論と目的論とがわたしたちの思考を閉じ込めている枠から一歩外に出ると、実在は新しいものの絶えざる湧出としてわたしたちの前に現れます。この新しいものは次々に現れては現在となり、すぐにまた過去へと没し去ります。知性が新しいものを視界に捉えるのは、まさにこの瞬間です。というのも、知性の目は常に後ろを向いているからです。わたしたちの内的生活においてもそれは例外ではありません。人々はわたしたちの行為の一つ一つのうちに先行因子を苦もなく見つけ出し、当該行為を言わばそれらの力学的合成と考えるでしょう。同様に、それらの行為のうちに何らかの意図の実現を見て取るのは容易いことです。この意味で、わたしたちの行動が展開される局面の至るところに機械性があり、目的性がある、と言うことができます。しかし行動が曲がりなりにもわたしたちの人格全体にかかわるものであり、真にわたしたちのものであるならば、一旦行動がなされてしまえば先行因子によってそれを説明できるからと言って、前もってその行動が予見できるわけではありません。またその行動は一つの意図の実現だとしても、行動は飽くまで現在の新しい実在であり、意図は過去のやり直し、或いは過去の要素を並べ替えた一つの企てでしかない以上、為された行為は意図されたものとは異なる何物かです。したがってこの場合、機械論と目的論はわたしたちの行動を外から眺めたものでしかありません。両者はわたしたちの行動から知的なものを抽出しますが、わたしたちの行動はそれら知的なものの間からすり抜け、遥か遠くまで広がっています。と言っても以前発表した著作で指摘したように、自由な行動とは気紛れで不合理な行動のことではありません。気紛れに行動するということは、二つもしくはそれ以上の既成の選択肢の間を機械的に行きつ戻りつした挙句、最終的にいずれか一つに落ち着くことです。それは内的状況が成熟したということでもなければ、進展したということでもありません。逆説的に聞こえるかも知れませんが、気紛れに行動するとは、意志に知性のメカニズムを無理やり模倣させることに過ぎない、と言うことができます。これに対して、真にわたしたちのものであるような行動とは、知性を模倣しようとしない意志的行動です。意志は自己自身を発展させながら、徐々に成熟して行為に達します。知性は事後、この行為を際限なく知的な要素に分解しようとするでしょうが、それを完全に分解し尽くすことは決してできないでしょう。自由な行為は観念とは通約不可能であって、自由な行為の「合理性」はこの観念との通約不可能性そのものによって定義されなければなりません。自由な行為はまさに観念と通約不可能なものであるからこそ、わたしたちはそこに好きなだけ知的なものを見出すことができます。今述べた自由な行為の性格はわたしたちの内的進展の特徴であると同時に、疑いもなく生命進化の特徴でもあります。
わたしたちの理性は救い難いほど自惚れが強く、生まれながらの権利によって、或いは獲得した権利によって、先天的もしくは後天的に、真理の認識の本質的な要素をすべて手にしている、と思い込んでいます。理性は目の前に差し出されたものを知らないと認めるときでさえ、それを知らないということは、この新しい対象が既成のカテゴリーのどれに当て嵌まるのかわからないということに過ぎない、と考えます。すなわち、抽斗はいつでも引き出せる状態にある。問題はどの抽斗にその対象を入れるのか、ということだ。或いは、様々な規格の服は既に用意されている。問題はどの服をその対象に着せるのか、ということだ。これか? あれか? それとも別の服か? この「これ」も「あれ」も「別の服」も、わたしたちにとっては常に、既に考えられたものであり、既知のものに過ぎません。新しい対象のために新しい概念を、恐らくは新しい思考法をさえ一から創り出さなければならない、と考えるのはわたしたちにとって心底疎ましいことなのです。しかし哲学の歴史は、諸体系間で果てしない闘争が繰り広げられていること、したがって実在を既製服に、すなわち既成概念にぴったり嵌め込むのは不可能であり、実在毎に新しい服を誂えなければならない、ということをわたしたちに教えてくれます。一方わたしたちの理性は、そこまで徹底してやるよりも、寧ろ、認識し得るのは相対的なものだけで、絶対的なものは理性の領分に属していない、と一見謙虚に、その実尊大に宣告することを好みます。こう宣告して置けば、理性は自分の習慣的な思考法をどこでも遠慮なく適用することができ、絶対的なものには触れることができないということを大義名分として、すべての事象について絶対的な判断を下すことができます。実在を認識するとは、その実在に、その実在のイデアを見つけてやることである、言い換えると、わたしたちの掌中にある永遠の枠に実在を嵌め込むことである――あたかもわたしたちは知らぬ間に普遍的知識を掌中に収めているかのように――という考えを初めて理論化したのはプラトンです。とは言えこの信念は、人間的知性にとって自然なものです。人間的知性はどんな新しい対象についても、それを既知のどの項目に分類すべきかということに常に留意しています。したがって或る意味では、わたしたちは皆生まれながらのプラトニストである、と言うことができるでしょう。
この方法の無力さがはっきりと露呈するのは、生命に関する理論を構築するときです。生命は、総じて脊椎動物の方向に、とりわけ人間と知性の方向に進化する際、この特定の有機的組織化の様態と相容れない多くの要素を途中で放棄し、後述するように、それらを他の幾つかの発達の系統に委ねなければなりませんでした。したがって生命活動の真の本性を捉え直すためには、これらの要素全体を探求し、それを純然たる知性と融合させる必要があります。このとき、明晰な表象、すなわち知的な表象を縁取っている例の漠たる表象の暈が、わたしたちの助けとなることは言うまでもありません。事実、この無用と見える暈は、進化しつつある根本的要素のうち、知性という特定の形式に凝縮されることなく、その周囲に密かに紛れ込んだ部分でなくて何でしょうか。わたしたちはそこにこそ、わたしたちの思考の知的形式を拡張するための手掛かりを探しに行くべきでしょう。そしてそこでこそ、わたしたちはわたしたち自身を超えるための原動力を汲み取ることができるでしょう。生命の全体を表象するとは、生命が進化の過程でわたしたちのうちに沈殿させた様々な単純な観念を組み合わせることでは決してありません。部分が全体に、含まれるものが含むものに、生命活動の残滓が生命活動そのものに匹敵する、などということがどうしてあり得るでしょうか。とは言え生命の進化を(スペンサーのように)「同質のものから異質のものへの移行」として定義するとき、或いは知性の断片を組み合わせて作った別の概念によって生命の進化を定義するとき、わたしたちが陥っているのはそういう錯覚です。わたしたちは、進化の到達点の一つに身を置いています。そしてこの到達点は確かに主要なものには違いないとしても、唯一のものではありません。しかもこの一つの到達点においてさえ、わたしたちはそこに見出されるすべてのものを取り上げているわけではありません。何故ならわたしたちは知性のうち、知性の表れである概念の幾つかを取り上げるに過ぎないからです。にもかかわらず、この部分の部分が全体を代表している、とわたしたちは宣言します。のみならずこの部分の部分が、凝固した全体(知性)から溢れている何物か、つまり、この凝固した「全体」を現在の一局面として包摂するような進化運動を代表している、とさえ言い張るのです。実際には、ここでは知性全体を取り上げても十分過ぎるということはなく、寧ろそれだけでは不十分です。知性全体を取り上げるだけでなく、他の進化系統の終点に見出される要素もそれに付け加える必要があります。そして最古の祖先が様々な方向に枝分かれした結果分散したそれらの要素を、相互に補足し合う全体の抽出物として、或いは少なくとも、最も原始的な形態では相互に補足し合っていたであろう抽出物として位置付ける必要があるでしょう。そうすることによって初めて、進化運動の真の本性を感じ取ることができます。――もっともその場合でも、わたしたちはせいぜいそれを感じ取ることしかできません。何故ならわたしたちが実際に手に取って確かめることができるのは、常に進化を遂げたもの、すなわち一つの結果であって、進化そのもの、すなわち結果をもたらす作用ではないからです。
以上が、これからわたしたちが検証しようとしている生命の哲学です。この哲学が目指しているのは、機械論と目的論を同時に乗り越えることです。しかしあらかじめ注意を促して置いたように、それは機械論よりも、どちらかと言えば目的論に近い立場を取ります。この点を強調し、それがどの点で目的論に似ており、どの点で目的論と異なるかをより正確に示して置くのは無駄ではないと考えます。
この哲学は極端な目的論と同じく、ただし極端な目的論より漠然とした形で、有機的世界を調和的な全体として思い描きます。しかしこの調和は、従来考えられていたような完全なものではありません。それは多くの不協和を許容します。というのも、各々の種や、各々の個体は、生命の全体的推進力のうち特定のエラン(弾み)しか保持しておらず、そのエネルギーを自分自身の利益のためにしか利用しようとしないからです。適応と呼ばれるものは、まさにこの点に存します。種や個体はこのように、自分の利益しか追求しません。――そしてそこから、他の生命形態とのあらゆる闘争が起こります。したがって調和は、事実として存在するのではなく、権利として存在します。つまり、原初のエランこそ種や個体に共通のものであって、原初の状態に遡れば遡るほど、(相反する)諸々の傾向が相互補完的なものとして現れる、ということです。ちょうど四つ角で様々な方向に流れる風が、もともとはそこに吹き込んだ一陣の風でしかないように。調和、或いは寧ろ「相互補完性」は、大まかにしか現れません。それは状態として現れるというより、傾向として現れます。とりわけ肝心な点は(そしてこの点で目的論は最大の過ちを犯しているのですが)、調和は前方にあるのではなく、後方にある、ということです。調和は同一の推進力に由来するのであって、共通の牽引力に由来するのではありません。生命に、人間的な意味での目的を賦与するのは意味のないことです。或る目的について語るとき、わたしたちの念頭にあるのは、既に存在し、後はただ実現されるのを待つだけのモデルのことです。したがってわたしたちは、結局のところ、すべては与えられており、未来は現在の中に読み取ることができる、と考えています。そのように考えることは、生命の運動、生命全体がわたしたちの知性と同じように働く、と信じることです。わたしたちの知性は生命についての不動で断片的な眺めに過ぎず、本性上、常に時間の外に身を置いています。それに対して、生命は発展し、持続します。確かに一旦事を為し終えた後であれば、自分が通った跡から方向を読み取ってそれを心理学的な用語で記述し、あたかも何らかの目的が追求されたかのように語ることは可能でしょう。事実、わたしたちは自分自身の行為をそのように解釈します。しかしこれから進もうとする道については、人間精神は何も語ることができません。何故ならその道は進行と同時に創造されるものであり、行為そのものの方向を表しているからです。それゆえ進化は、あらゆる瞬間に心理学的な解釈を許すにしても、そしてその解釈は、わたしたちの観点からすると進化に関する最良の説明には違いないとしても、その価値や或いは意味すらも回顧的なものでしかありません。わたしたちがこれから提示する目的論的な解釈も、未来の予想という意味に解釈してはなりません。それは現在の光で照らした過去の一つの見方に過ぎない、と解釈すべきです。目的性に関する古典的な理論は、以上のことから、一面では前提が多すぎ、他面では少なすぎる、と言うことができるでしょう。それは一面では広すぎ、他面では狭すぎます。まず、古典的な理論が生命を知性によって説明するとき、それは生命の意義を不当に狭めてしまいます。知性は、或いは少なくともわたしたちのうちに見られるような知性は、進化がその道すがら形成したものです。知性はより広大な何物かから切り取られたもの、或いは寧ろ、起伏や奥行きのある実在を無理やり平面上に投影したものに過ぎません。真の目的論なら、そうしたより広大な実在をこそ再構成すべきでしょうし、或いは寧ろ、可能ならばそれを単一の視野に収めるよう努めるべきでしょう。他面、この実在は知性の枠に収まり切らず、同じものを同じものに結び付け、反復を見出すと同時に反復を生じさせる知性という能力を超えるものであるがゆえに、疑いもなく創造的なものです。言い換えると、この実在は様々な結果を生み出し、それらの結果の中で自己を拡大し、自己自身を超越します。したがってそれらの結果は、前もってこの実在に与えられていたのではありません。別言すると、それらの結果は一旦生み出されてしまえば一つのモデルを実現した製作物のように合理的な説明を許すにせよ、この実在は前もってその結果を目的として表象していたわけではない、ということです。要するに目的因を立てる理論は、自然の中に知性を置くだけで満足しているとき、不十分であり、未来が観念という形で現在の中に前もって存在すると想定するとき、行き過ぎである、と言うことができます。もっとも行き過ぎという点で間違っている第二のテーゼは、不十分である点で欠陥のある第一のテーゼの当然の帰結です。わたしたちは、純粋な知性を措定する前に、まず知性以上に広大な実在を措定しなければなりません。何故なら知性は、この実在が収縮したものに過ぎないからです。そうすると未来は、現在の拡張として現れてきます。つまり未来は、表象された目的という形で現在の中に含まれているのではない、ということです。しかしひとたび未来が現実のものとなった暁には、現在が未来を説明するのと同じくらい、否それ以上にそれは現在を説明するでしょう。未来は結果として考えられなければならないのと同じくらい、否それ以上に目的(外的目的性)として考えられなければならないでしょう。もともとわたしたちの知性そのものが、未来を生み出す原因から抽出されたものなのですから、知性が自分の習慣的な観点から未来を抽象的に考えるのは仕方のないことなのです。
この未来を生み出す原因を捉えることは、一見不可能であるように思えるかも知れません。生命に関する目的論的な理論を明確に実証すること自体、不可能です。さらに、目的論が辿った道の一つを、目的論以上に進むことに一体どんな意味があるのか、という疑問を呈する人もいるでしょう。ここでわたしたちは、回り道をして予備的な考察を行った末に、わたしたちが本質的と考える問題、すなわち、機械論の不十分さを、事実によって証明することができるか、という問題に自ずと立ち戻ることになります。既に述べたように、機械論の不十分さを証明するためには、進化論の立場に先入観なく身を置かなければなりません。機械論が進化を十分に説明し得ないのが事実だとしても、それを証明するために必要なのは目的性に関する古典的な考え方にとどまることではなく、ましてやそれを縮小することでも緩和することでもありません。必要なのは寧ろそれを越えていくことです。そのことを明らかにするときがいよいよ来ました。
(つづく)
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