この二方向への分岐は、まず栄養の摂取の仕方において顕著に現れます。周知のように、植物は生命の維持に必要な諸要素、中でも炭素と窒素を、空気や水や土から無機化合物の形で直接取り入れます。一方、動物がそれと同じ要素を体内に取り入れるためには、あらかじめそれらの要素が動物の摂取できる形に、すなわち有機化合物に固定されていなければなりません。この有機化合物への固定は、植物によって行われる場合と、動物が植物を直接的に摂取することによって、或いは動物が植物を摂取した動物を捕食し、植物を間接的に摂取することによって行われる場合があります。それゆえ結局のところ、動物の栄養源は植物に帰着します。なるほど植物には、この法則から外れる例も少なくありません。例えばモウセンゴケやハエトリグサ、ムシトリスミレといった食虫植物は(虫を捕食するにもかかわらず)、明確に植物に分類されています。また植物界でかなりの割合を占める菌類(下記参照)は、栄養摂取の仕方が動物と同じであり、酵母にしろ腐生植物にしろ寄生植物にしろ、既に形成された有機化合物から栄養を摂取します。したがって、目の前にあるのが植物なのか動物なのか、という問題をどんな場合にも自動的に解決してくれるような静的な定義を栄養摂取の仕方の違いから導き出すことはできません。とは言えこの違いは、二つに分化した動物と植物がそれぞれ発達してきた方向を示しており、その意味で二つの界を動的に定義する手掛かりとなります。(植物の二つの例外のうち、まず)菌類について言えば、それは自然界の極めて広い範囲に分布しているにもかかわらず、(目につくほどの)進化を成し遂げることができませんでした。これは(植物の傾向を判断する上で)注目すべき事実です。高等植物においては、新しい個体の胚が成長する前に、胚珠内にある胚嚢の中で或る組織が形成されますが、菌類は有機体としては、この組織以上のものではない、と言います。それは言うなれば植物界における未熟児なのです。様々な種類の菌類が迷い込んだ道は、いずれも行き止まりになっています。菌類は植物の通常の栄養摂取の仕方を放棄し、植物の進化の大通りの途中で完全に立ち止まってしまった、と言えるでしょう。次に、モウセンゴケやハエトリグサをはじめとする食虫植物一般について言えば、それらは他の植物と同様、根から養分を吸収し、葉の緑色部分で、大気中に含まれる二酸化炭素から炭素を固定します。昆虫を捕獲して消化・吸収する能力は後天的に、例えば土壌が余りにも痩せているために、十分に栄養を摂取できないような極く例外的な場合に獲得されたものに違いありません。したがって現に見られる性質と言うよりも、強まりつつある性質に注目するならば、そして限りなく進化し得た傾向を本質的な傾向と看做してよいならば、一般に植物を動物から区別するのは、空気や水や土から直接摂取した無機化合物を用いて有機化合物を作り出す能力である、と結論することができます。しかしこの区別は、もう一つの、より一層深い区別へとわたしたちを導きます。
(以前にも書きましたが、菌類は現在は植物界ではなく、菌界に分類されています)
炭素と窒素はどこにでもあるありふれたものですが、動物はそれらを直接固定することができないので、炭素と窒素を取り入れるために、二つの元素を既に固定している植物か、或いはそれらを植物界から取り入れた動物を探さなければなりません。そこで必然的に、動物は移動する能力を身に付けることになります。アメーバのように、水滴中に生息する微生物を捕捉するために行き当たりばったりに仮足を伸ばす動物から、獲物を認知するための感覚器官や、それを捕獲するための運動器官、運動を感覚に連携させるための神経系を備えている高等動物に至るまで、動物的生命が向かう一般的な方向は、空間における可動性によって特徴付けられます。動物はその最も原始的な形態では、原形質の小さな塊りとして現れますが、この小塊はせいぜいタンパク質の薄い膜に覆われているに過ぎないので、動物は或る程度自由に身体を変形させ移動することができます。これに対して、細胞がセルロースの膜に覆われている植物は不動状態を余儀なくされます。植物界では、下等植物から高等植物に至るまであらゆる植物がその場に固着する習慣を身に付けており、高等な植物になればなるほどこの習慣が強固なものになっていきます。植物はその場から動く必要がなく、自分の周囲に、つまり大気や水や自分が根を下ろしている土の中から無機元素を見つけ、直接取り込むことができるからです。植物のうちにも、確かに運動が観察されないわけではありません。ツル植物の運動に関する素晴らしい著書を著したダーウィンは、モウセンゴケやハエトリグサなどの食虫植物の獲物の捉え方に関する研究も行っています。またアカシアやオジギソウなどの葉の運動については、誰でも一度は耳にしたことがあるでしょう。植物の原形質はその膜内で流動していますが、これも動物の原形質との近縁性を示しています。逆に多くの動物種(一般に寄生虫)においても、植物の固着性に似た固着現象が認められます。そういうわけで、固着性と運動性というものを、一見しただけで目の前にあるのが動物なのか植物なのか区別できる二つの特徴として捉えると、ここでも先ほど注意を促したのと同じ誤りに陥ってしまいます。実際には、動物において固着性は、ほとんどの場合、その種が陥ってしまう恐れのある麻痺状態として、つまり或る方向にそれ以上進化することへの拒否として(例外的に)現れるに過ぎません。それは寄生に極めて近いものであり、植物的生命の諸々の特徴を思わせる特徴を伴います。他方、植物の運動に関しても、それは動物の運動ほど頻繁に生じるわけでもなく、多様性に満ちているわけでもありません。植物の運動は有機体の一部にかかわるものに過ぎず、有機体全体に及ぶことはほとんどありません。植物にも例外的に漠然たる自発性が発現することはあるにせよ、そういう場合、通常眠っている行動性が偶然目覚めたに過ぎない、という印象を受けます。要するに、運動性と固着性は確かに植物界においても動物界においても共存してはいるものの、その均衡は明らかに崩れており、植物界においては均衡が固着性の方に、動物界においては運動性の方に傾いている、ということです。この二つの相反する傾向が二つの進化を主導していることは明白であり、したがってこの傾向だけで二つの界を定義しても必ずしも間違いとは言えないでしょう。しかし固着性にしろ運動性にしろ、(二つの栄養摂取の仕方と同様)、もっと深い傾向の表面的な現れでしかありません。
運動性と意識との間には、明白な関係があります。高等な有機体の意識は、確かに(運動性というよりも寧ろ)脳という装置と結び付いているように見えます。神経系が発達するにつれ、それが選択し得る運動は正確さを増し、数が増えるのと同時に、運動に伴う意識も明瞭さを増していきます。しかし神経系の存在は、そうした運動性や選択の、さらには意識の必要条件ではありません。神経系は、有機的組織化された物質の塊り(有機体)に散在する未成熟の漠然とした活動性を、一定の方向に運河のように導き、強化する役割を果たしているに過ぎません。動物の系統を遡るにつれ、神経中枢は単純なものになり、離れ離れになっていきます。そして最終的に、神経要素は分化の進んでいない有機体全体のうちに埋没して消失します。とは言え今述べたことは、他のすべての器官、他のすべての解剖学的要素にも当て嵌まります。或る動物に胃がないからと言って、その動物が栄養を摂取する能力を持たないと結論するのは馬鹿げているように、或る動物に脳がないからと言って、その動物が意識を持たないと結論するのは不条理以外の何物でないでしょう。実際には、神経系は他の系と同様、分業の結果生じたものであり、機能を生み出すものではありません。機能に反射的活動と随意的活動という二つの形式を与え、機能の強度と正確さを高めるのが神経系の役割です。反射運動が完璧に成し遂げられるには、脊髄や延髄に構築されたメカニズム全体が必要であり、幾つかの決まった動作の中から特定の動作を随意に選択するには大脳が必要です。大脳からは十字路のように幾つかの道が伸びており、形は違えどどれも同じ正確さを持つ運動メカニズムに接続されています。しかし神経要素の方向付けがまだ行われておらず、それどころか神経要素が集まって一つの系を形成するに至っていないときでさえ、そこには分化によって反射的なものと随意的なものとを同時に生み出すような(両者の中間的な)何物かが存在しています。この何物かは、反射運動のような機械的な正確さも、随意運動のような知的躊躇も持ち合わせていません。が、それはわずかながらも両者の性質を併せ持っており、明瞭さを欠き漠然としているとは言え、既に意識的な反応と呼び得るものです。したがって最も原始的な有機体といえども、それが自由に運動する限り意識的です。では意識は、運動の結果なのでしょうか。それとも原因なのでしょうか。或る意味において、意識は運動の原因です。というのも、意識の役割は運動を導くことだからです。しかし別の意味においては、意識は運動の結果です。何故なら意識は運動の働きに支えられており、この働きがなくなった途端意識は弱まるか、或いは寧ろ眠り込んでしまうからです。フクロムシのような甲殻類の構造は、かつてはもっと分化していたと考えられるにもかかわらず、この甲殻類が固着化し他の甲殻類に寄生するようになったのに伴い、神経系が退化し、ほとんど消滅するに至りました。このような例においては、有機的組織化の進展によって、意識的な活動全体が一旦神経中枢に限局された(後に固着化した)分だけ、フクロムシより遥かに未分化で、神経中枢も備えていないような有機体、ただし可動性をずっと維持してきた有機体の意識に比べてさえ、この甲殻類の意識の方がより衰退していると推測されます。
そうだとすれば、同じ場所に固着し、その場で栄養を確保することのできる植物が、どうして意識的な活動性の方向に発達することがあり得るでしょうか。原形質を包んでいるセルロースの膜は、最も単純な植物体にさえ不動を強い、その代わりに、植物体を外的刺激から、すなわち動物の感覚を刺激し、動物が眠り込むのを防いでいる外的刺激のほとんどから保護してくれます。このことからしても、植物は一般に無意識的であると判断することができます。とは言えここでも、過度に厳密な区別は慎まなければなりません。無意識と意識という二つの特性は、一方をすべての植物細胞に、他方をすべての動物に機械的に貼り付けて済ますことのできるようなレッテルではありません。退化して不動の寄生生物と化した動物では意識は眠り込んでしまいますが、逆に運動の自由を取り戻した植物では意識は目を覚まします。植物が運動の自由を取り戻す程度に正確に比例して、意識は目を覚ますのです。そうは言っても、意識と無意識が、二つの界が発達してきた方向を示しているという事実に変わりはありません。それはどういう意味かと言うと、動物の意識の最良の見本を見つけるためには、動物の系統の頂点に立つ者(人類)にまで上っていかなければならないのに対して、植物の意識が存在しそうな事例を見つけるためには、植物の段階をできるだけ低いところまで、例えば藻類の遊走子にまで、より一般的に言えば、植物の形態と動物性という二つの選択肢を前にして逡巡しているような単細胞の有機体にまで下りていかなければならない、ということです。こうした観点に立つとき、またこうした観点から逸脱しない限り、感覚性と目覚めた意識とによって動物を定義し、眠り込んでいる意識と無感覚とによって植物を定義しても差し支えないでしょう。
ここで植物と動物について述べたことを簡単にまとめて置きましょう。植物は、無機化合物から直接有機化合物を作り出します。この能力のお蔭で、一般に植物は運動する必要がなく、したがってまた刺激を感じる必要もありません。一方、動物は自分を養う栄養を探しにいかなければならないので、移動の必要から行動性の方向へと進化し、その結果、徐々に豊かになり明瞭になっていく意識の方向へと進化した、というわけです。
さて、以上のことから、動物細胞と植物細胞とは同一の根から派生したこと、原初の有機体は動物の形態と植物の形態との間を揺れ動き、どちらの性質も併せ持っていたことは疑えないように思えます。事実、先ほど見たように、二つの界の進化に特徴的な諸傾向は分化する一方で、植物においても動物においても今なお共存しています。ただ、共存する諸傾向の割合が両者では異なっているに過ぎません。通常、(相反する)二つの傾向のうちの一方が他方を覆い隠すか、或いは圧倒していますが、例外的な環境では押さえつけられていた傾向が解放され、勢力を挽回します。植物細胞における運動性と意識は、目覚めることを許された環境、或いは目覚めなければならない環境においても覚醒しないほど深く眠り込んでいるわけではありません。他方、動物界の進化は、万一植物的生活に陥ったときのために取って置かれた傾向によって絶えず遅延させられ、停止させられ、後退させられます。実際、或る動物種の活動性がいくら充溢しているように見えたとしても、麻痺状態と無意識とがそれに取って代わろうと絶えず隙を窺っています。動物の活動性は、疲労を厭わず努力することによってしかその役割を果たすことができません。このため動物の進化の道すがら数え切れないほどの挫折が生じましたが、そのような退化のほとんどは寄生的な習慣に結び付いています。それが意味しているのは、他でもない、植物的生活への方向転換です。このようにあらゆることが、植物と動物とを遡っていくと共通の祖先に辿り着くこと、この祖先は両者の傾向を萌芽状態で併せ持っていたことを挙って示唆しています。
しかし原基的な形態では相互に浸透し合っていたこの二つの傾向は、成長するにつれ分離しなければなりませんでした。その結果、固着性と無感覚を特徴とする植物界と、運動性と意識を特徴とする動物界という二つの世界が現れます。この二分化を説明するために、何らかの神秘的な力を持ち出す必要はありません。生物は自分に最も適した方向に自ずと傾くということ、植物と動物は各々自分の必要とする炭素と窒素を手に入れるために、二つの異なる方法のうち、自分にとって都合のよいものを選んだに過ぎない、ということを指摘すれば十分です。植物は、炭素と窒素を常時供給してくれる環境から、それらの要素を連続的、機械的に引き出します。それに対して動物は、既に固定されている炭素と窒素を摂取するために、不連続的で、限られた瞬間に集中して行われる意識的な行動によってそれらの要素が固定されている有機体を探しにいきます。この植物と動物との行動様式の違いは、両者の労働の捉え方の違いを表しています。或いは労働ではなく、怠惰の捉え方の違いと言っても構いません。もし以上のようなわたしたちの仮説が正しいとすれば、どんなに未分化な神経要素を想定するにせよ、植物のうちに神経要素が発見されることは未来永劫あり得ない、と推測することができます。植物は、太陽の放射エネルギーを利用して二酸化炭素に含まれる炭素と酸素との結合を断ち切る際、エネルギーの流れの向きを力づくで変更します。わたしたちの考えでは、植物において動物の主導的な意志に相当するのは、まさにこのエネルギーの流れの向きの変更であり、動物の感覚能力に相当するのは、他に比較するもののないクロロフィルの特殊な感光性です。そして動物の神経系とは何よりもまず感覚と意志との仲介役を務めるメカニズムであるとすれば、植物において「神経系」に相当するのは、クロロフィルの感光性とデンプンを合成する働き(光合成)を仲介する独自のメカニズム、と言うより独自の化学反応ということになるでしょう。ここから、次の二つのことを導き出すことができます。一つは、植物が神経要素を持つことはあり得ない、ということであり、もう一つは、動物のうちに神経と神経中枢とを生み出したエランと同じエランが、植物ではクロロフィルの機能に辿り着いたに違いない、ということです。
わたしたちは有機的世界を一通り見てきましたが、二つの界を結び付けているものは何か、また両者を分かつものは何か、ということを今や先ほどよりもっと正確に規定することができるでしょう。
生命の根底には、前章の最後で指摘したように、物理的な力の必然性にできる限り多くの非決定性を挿入しようとする努力が存在している、という風に考えてみましょう。この努力は、エネルギーを創造するまでには至りません。万一創造し得たとしても、その量はわたしたちの感覚やわたしたちの測定装置、換言するとわたしたちの経験やわたしたちの科学で計測し得るものではありません。自分でエネルギーを作り出すことができない以上、この努力は専ら、自由に使うことのできる既存のエネルギーをできるだけうまく利用することを目指したのではないか、と推測されます。これに成功する手段は唯一つしかありません。それは、物質からそのうちに蓄積されたエネルギーをあらかじめ手に入れて置き、必要なときに行動の起爆装置を作動させ、行動に必要な力が得られるようにすることです。生命の努力そのものは、せいぜい起爆装置を作動させることしかできません。しかし常に一定のその力の仕事量はどんな仕事量よりも少ないにもかかわらず、より重いものをより高いところから落下させることができるようになるに従い、つまり、自由に使用できる潜在エネルギーがより多く蓄積されるに従い、それだけ大きな効果を生むことができるようになります。地球という惑星で、実質上利用できるエネルギーの主な源は太陽です。そこでこの地球では、生命に対して次のような問題、すなわち、絶えず消費されている利用可能な太陽のエネルギーを、地球表面のそこここに部分的、一時的に留めて置くにはどうすればよいか、そうして消費の中断されたエネルギーの幾分かを未利用のエネルギーの形で然るべき貯蔵庫に蓄え、好きなとき、好きな場所で、好きな方向にそれを放出するにはどうすればよいか、という問題が提起されることになりました。動物が摂取する物質(有機化合物)は、まさにこの種のエネルギー貯蔵庫に他なりません。それらの物質は、かなりの量の化学エネルギーを潜在的な状態で含む極めて複雑な分子で構成された一種の爆発物であり、火花が散っただけで蓄積された力が解き放たれる仕組みになっています。ところで、生命はまず、こうした爆発物の製造と、その爆発物を利用すること、すなわちそれを爆発させる(行動する)ことを同時に行おうとしたのではないか、具体的に言えば、太陽の放射エネルギーを蓄積した有機体が、同時に、そのエネルギーを空間における自由な運動のために消費したのではないか、と考えられます。そういうわけで、最初に現れた生物は、一方で太陽から受け取ったエネルギーを間断なく蓄え、他方で蓄えたエネルギーを、移動運動によって不連続的、かつ爆発的に消費しようとしたに違いありません。ミドリムシのようなクロロフィルを持つ鞭毛虫類は、生命のこの原初的な傾向を、未成熟で最早進化し得ない形ではあるにせよ、今日においても具体的に示している、と言うことができます。植物界と動物界という二つの界が、発展するにつれ異なる方向に分岐しなければならなかったのは、比喩的に言えば、両者がそれぞれ計画の半分を忘却してしまったことによるものでしょうか。それとも、わたしたちとしてはこちらの説の方がより真実に近いと思えるのですが、生命が地球という惑星で遭遇した物質の本性が、同一の有機体の中でこれら二つの傾向が共存共栄することを許さなかった、ということなのでしょうか。いずれにせよ確かなことは、植物は専ら第一の方向(爆発物の製造)に向かい、動物は第二の方向(爆発物の爆発)に向かったということです。そしてもともと爆発物が製造されたのは、それを爆発させるという目的のためであったと考えれば、生命の根本的な方向を指し示しているのは、植物の進化ではなく動物の進化の方だと言えます。
したがって植物界と動物界という二つの界の「調和」、両者の特徴の間に見られる相互補完性は、出発点では一つに融け合っていた二つの傾向を、両者がそれぞれ別々に発展させてきたことに由来するものだと考えて差し支えありません。根源的な唯一つの傾向が発展するにつれ、原基的な状態では相互に浸透し合っていた二つの要素は、同じ生物の中で結び付いていることが次第に困難になってきます。そこから分裂が生じ、進化の分岐が生じます。またそこから、二つの系列の特徴が生じてきます。この二系列の特徴は或る点では対立し合い、別の点では補い合っています。しかし対立し合うにせよ補い合うにせよ、それらは常に相互に類縁性を保っています。片や動物は、途中様々な予期せぬ出来事に出会いながらも、エネルギーを不連続的に、より自由に消費する方向へと進化したのに対して、片や植物は、同じ場所に固着してエネルギーを蓄積するシステムを構築する方向へと進化しました。この二つの進化のうち、植物の進化についてわたしたちは多くを語るつもりはありません。ただ植物の進化に関して一つだけ指摘して置きたいのは、植物と動物との間で生じた分裂に比し得る分裂が植物界に起こり、(植物が動物の負担を軽減したように)、今度は植物自身の負担が大いに軽減されることになった、ということです。炭素の固定と窒素の固定という二つの作業を独力で行わなければならなかった原始的な植物細胞は、微生物が専ら窒素の固定を受け持つようになって以来、この機能をほとんど手放すことができるようになりました。もっとも窒素の固定と一口に言っても単純なものではなく、すべての作業を一種類の微生物が担っているわけではありません。大気中の窒素を固定する微生物もあれば、アンモニア化合物を亜硝酸化合物に、亜硝酸化合物を硝酸塩に次々に変換していく微生物もあります。これらの微生物は、もともと一体のものであった傾向が分裂した結果、植物一般が動物に対して果たした役割と同じ種類の役割を植物界全体に対して果たすことになったのです。もしこれらの微生物のために特別な界を新たに設けてよいとすれば、この地中の微生物が属する界、そして植物界、動物界という三つの界は、生命が当初相互に浸透し合った状態で内包していたものが、地球という惑星で生命が自由に利用することのできた物質の作用によって分解され、明瞭化されたものだと言えるでしょう。このように同一の傾向が三つの要素に分かれ、三者三様の特徴を持つに至ったことを、分業という言葉の本来の意味で「分業」と表現してよいものでしょうか。わたしたちが思い描いているような進化の観念は、恐らく分業という言葉では正確に表すことはできません。分業が行われるところには協同があり、同時に努力の収斂があります。それに対してわたしたちの考える進化は、決して協同に向かうものではなく、分離へと向かうものであり、努力の収斂に向かうものではなく、分岐へと向かうものです。幾つかの点で補い合っている三者の調和は、わたしたちの考えでは、進化の途上で、三者相互の適応によって生じたものではありません。寧ろ逆に、完全な調和は進化の途上ではなく、進化の出発点にのみ存在します。三者の調和は、それらが同じ起源を持つことに由来しているのです。束状に展開される進化の過程は、当初補完し合い、一つに融け合っていた諸々の傾向を、それらがともに成長していくに従って相互に引き離します。このような過程のうちにこそ、生命の調和は存在しています。
とは言え一つの傾向から分離した諸々の要素はすべてが同じ重要性を持つわけではなく、特に、それらはすべて同じ程度に進化する能力を秘めているわけではない、という点に注意しなければなりません。わたしたちは先ほど、有機的世界の中に言うなれば三つの異なる界を区別しましたが、第一の界には原始的な状態にとどまっている微生物しか属していないのとは対照的に、(第二、第三の界に属する)動物と植物はより大きな成功を収めるべくさらなる高みを目指しました。こうした要素間の不均衡は、或る一つの傾向が幾つかの要素に分離する際に必ずと言っていいほど生じるものです。一つの傾向から分岐した幾つかの傾向には、無際限に発達し続けるものもあれば、早晩限界に達するものもあります。後者は原初の傾向から直接生じたものではなく、主要な傾向の一つから生じた二次的なものに過ぎません。それは、(原初の傾向を継承し)進化の主要な流れを形成する傾向が発達の途中で派生させたものの、そのまま放置してしまった進化の形骸です。わたしたちの見るところ、主要な傾向にはそれとわかる一つの特徴があります。
その特徴は、原初の傾向が含んでいた諸要素の痕跡(記憶)のごときもの、分岐した幾つかの主要な傾向の一つ一つのうちに今なお見て取れるものであり、原初の傾向の基本的な方向を示しているものです。事実、或る傾向に含まれる諸要素は、空間に併置され相互に排除し合うような諸事物に比較されるものではなく、寧ろ心理的状態に比較されるべきものです。心理的状態の一つ一つは当初それ以外の何物ではないとしても、別の傾向の性質も併せ持っており、したがってそれが属している人格の全体をも潜在的に含んでいています。既に述べたように、どんな生命現象であれそれが本質的なものである限り、それ以外の生命現象の特徴を、原初的な、或いは潜在的な状態で含んでいないような現象は存在しません。逆に言えば、或る進化系統において別の系統に沿って発達した要素の記憶とも言うべきものに出会った場合、それは同じ原初の傾向から分離したものと看做すことができます。この意味で、植物と動物は生命の発達の主要な二つの方向を表している、と判断することができます。植物は確かに固着性と無感覚によって動物から区別される一方で、植物のうちには、覚醒し得る記憶として運動と意識も微睡んでいます。他方、そうした普段微睡んでいる記憶とは別に、覚醒し活動している記憶もあります。それは、原初の傾向から分離した個別的傾向そのものの発達を妨げないような記憶です。以上のことから、次のような法則、或る一つの傾向が発達しながら幾つかの要素に分離するとき、それらの個別的な傾向の各々は、自分が専門とする仕事と両立不可能ではないすべてのものを原初の傾向から受け継ぎ、発展させようとする性質がある、という法則を引き出すことができるでしょう。わたしたちが前章で詳述した事実、互いに独立した進化系統の上で同じ複雑なメカニズムが形成される事実は、まさにこの法則によって説明することができます。植物と動物との間に見られる幾つかの深い類似についても、思うにそれ以外の原因があるわけではありません。例えば植物にとって、有性生殖は恐らく一つの贅沢でしかないのに対して、動物にとって、有性生殖はどうしてもそこに到達しなければならない必要不可欠なものでした。しかし植物は、動物を有性生殖へと駆り立てたエラン、二つの界に分裂する以前の原初的、根源的エランによって、(植物的傾向を妨げない記憶としての)有性生殖へと導かれることになったのです。植物が徐々に複雑さを増していく傾向についても、同様のことが言えます。この傾向は、動物界にとって本質的なものです。何故なら動物界では、より広範囲にわたって、より効果的に行動する(ために、どうしても神経系を複雑化させる)必要があるからです。それに対して、無感覚と不動性を強いられている植物がこの点で動物と同じ傾向を示すのは、植物が最初に動物と同じ衝動を受け取ったからでしかありません。また例えば、(第一章でも紹介した)最近行われた実験によって、植物は「変異」の時期が来ると、どんな(突飛な)方向にも変化し得ることが明らかになっています。一方、(本来そのような多様性は動物にとって本質的なものではなく)、動物はもっと一定した方向に進化することもできた筈です。しかし生命の根源的な分裂の検討はこれくらいにして、次に、わたしたちにとってより関心のある動物の進化を見ていくことにしましょう。
●動物的生命の図式
先ほど述べたように、動物を植物から分かつのは、起爆装置を作動させ、可能な限り多く蓄積された潜在エネルギーを「爆発的」な行動に変換する能力です。この爆発は当初、方向を選ぶことができず、行き当たりばったりにしか引き起こすことができません。アメーバがあらゆる方向に一斉に仮足を突き出すのは、そうした爆発の一例です。しかし動物の系統を上っていくにつれ、身体の形態そのものが、エネルギーが伝わっていく幾つかのはっきりと決まった方向、一方の端と他方の端が(シナプスを介して)結ばれた神経要素(神経細胞・ニューロン)の連鎖によって示される方向を素描するのが見て取れるようになります。ところで、神経要素はほとんど分化していない有機的組織の塊りから少しずつ独立したものです。したがって神経要素が現れるが早いか、蓄積されたエネルギーを爆発的に解放するこの能力は、神経要素とその付属器官に集中することになった、と推測することができます。もっともその一方で、生きているあらゆる細胞は、平衡状態を保つために絶えずエネルギーを消費しています。この観点からすると、はじめから眠り込んでエネルギーを蓄積する働きに没頭している植物細胞では、当初手段でしかなかった筈のものが目的と化してしまっている、という風に見えなくもありません。一方、動物においては、すべてが行動に、すなわちエネルギーを移動運動のために利用することに収斂します。なるほど動物の細胞の一つ一つは、利用できるエネルギーの大半を、否、往々にしてそのすべてを自分自身の生存のために費やしています。とは言え有機体全体としては、できるだけ多くのエネルギーを、移動運動が行われる点に引き寄せたいに違いありません。したがって、神経系が、その付属器官として働いている感覚器官と運動器官とともに備わっている有機体では、身体の爾余の部分は、最終的に一種の爆発によって解放される力を神経系のために準備し、必要なときにその力を神経系に供給することを本質的機能としているかのように事態は進行する筈です。
事実、高等動物における栄養の役割は極めて複雑です。第一に、栄養は組織を修復するのに役立ちます。第二に、栄養は動物が外界の気温の変化に極力左右されず体温を一定に保つための熱を提供します。栄養はこのように、神経系が組み込まれ、神経要素の活動の土台となっている有機体を保持し、扶養し、支えます。しかし有機体が、神経要素と、特に神経要素が稼働させる筋肉とに消費可能な幾分かのエネルギーを送らなかったならば、神経要素にはいかなる存在理由も存在しないことになるでしょう。栄養の本質的、究極的な使命は、まさに神経要素にエネルギーを送ることにある、と言っても過言ではありません。もっとも、神経要素にエネルギーを送ることが栄養の究極の使命だからと言って、栄養の大部分がその仕事のために費やされている、というわけではありません。例えば国家は、税収入を確保するために莫大な出費を強いられます。徴税の経費を差し引くと、恐らく国家が自由に使える金額は微々たるものでしかないでしょう。にもかかわらず、この微々たる金額(神経要素に送られるエネルギー)こそ、税金と、税収入を得るために費やされたすべての経費の存在理由なのです。動物が栄養物質(炭水化物・脂肪・タンパク質)に要求するエネルギーに関しても事情は同じです。
神経要素と筋肉要素が、有機体の他の部分に対して今述べたような(特別な)地位を占めていることは、多くの事実からも窺い知ることができます。手始めに、栄養物質が身体の様々な要素に対してどのような比率で配分されているかを見てみましょう。栄養物質は、二つのカテゴリーに分けられます。一つは主に四元素(酸素、炭素、水素、窒素)からなるタンパク質であり、もう一つは三元素(酸素、炭素、水素)からなる炭水化物と脂肪です。タンパク質はもともと可塑性に富み、そのため組織の修復に適しています。タンパク質も炭素を含んでいるので、場合によってはエネルギー源にならないわけではありませんが、エネルギー源としての機能を専ら受け持っているのは後者の方です。後者、すなわち炭水化物と脂肪は細胞物質に同化されることなく細胞内に貯蔵され、後で運動や熱に直接変換される潜在エネルギーを、化学ポテンシャルの形で細胞にもたらします。要するに、前者は器官を修復することを、後者は器官にエネルギーを提供することを主な役割としている、と言うことができます。器官はすべての部分が平等に維持される必要があるので、当然のことながら、タンパク質が特定の部分に優先的に使用されるようなことはありません。ところが後者に関しては事情が異なり、炭水化物の分配には極めて大きな偏りが見られます。この事実は、わたしたちに重要な手掛かりを与えてくれます。
炭水化物はグルコース(ブドウ糖)の形で動脈血によって運ばれ、組織を形成する様々な細胞の中にグリコーゲンの形で貯蔵されます。周知のように、肝臓の主な機能の一つは、肝臓細胞で合成され貯蔵されたグリコーゲンの量を調整することで、血糖値を一定に保つことです。このようなグルコースの循環とグリコーゲンの貯蔵の流れから容易に見て取れるように、有機体のすべての努力は、筋肉組織と神経組織の諸要素に潜在エネルギーを供給することに費やされているように見えます。この努力の働き方は、筋肉組織の場合と神経組織の場合では異なるものの、どちらの場合にも同じ結果に達します。筋肉組織の場合には、細胞にあらかじめかなりの量のグリコーゲンが貯蔵されるよう取り計らわれています。事実、筋肉には他の組織に比べ、莫大と言える量のグリコーゲンが蓄えられています。反対に、神経組織におけるグリコーゲンの貯蔵量は極く限られたものでしかありません(もっとも、神経組織の役割は筋肉に貯蔵された潜在エネルギーを解放することであって、一度に多くの仕事をこなす必要もありません)。しかしここで注目すべきは、神経組織に貯蔵されたグリコーゲンが消費されるや否や血液によって瞬時に補給が行われ、その結果、潜在エネルギーが速やかに充填される、ということです。したがって、片や筋肉組織はそこにかなりの量のエネルギーが貯蔵されているという点で、片や神経組織は必要な瞬間、必要な量に正確に応じてそこにエネルギーが常に供給される点で特権的な地位にある、と結論することができます。
さらに詳しく見ていくと、ここでグリコーゲンを、つまり潜在エネルギーを要求しているのは感覚・運動系である、ということがわかります。有機体の爾余の部分は、あたかも神経系と神経が稼働させる筋肉系に力を提供するために存在している、という印象を受けます。確かに、有機体の活動の調整者としての神経系(感覚・運動系)の役割や、神経系と爾余の部分との間に築かれている良好な協力関係を思い見るとき、神経系は身体の仕える主人である、と言い切ってよいものか疑問に思う人がいても不思議ではありません。しかし、潜在エネルギーの組織への配分を言わば静的に考察しただけでも、わたしたちは既にこの仮説に傾きます。さらにエネルギーが消費される条件や補給される条件を詳しく調べれば、きっとこの仮説に完全に同意する気になるに違いありません。仮に、感覚・運動系が他の系と同じような一つの系である、言い換えると、他の系と同列に扱われるような一つの系である、と想定してみましょう。その場合、感覚・運動系は有機体全体に支えられる立場になるので、感覚・運動系が仕事をするためには、飽くまで化学ポテンシャルの余剰が供給されるまで待たなければならない、ということになるでしょう。つまり神経と筋肉のグリコーゲンの消費は、専らその生産に依存している、ということになります。反対に、感覚・運動系が身体の真の支配者である、と想定してみましょう。その場合、感覚・運動系の働きが継続する時間とそれが及ぶ範囲は、そこに含まれるグリコーゲンの貯蔵量から、さらに有機体全体に含まれるグリコーゲンの貯蔵量からさえ、少なくとも或る程度は独立している、ということになるでしょう。つまりその場合、感覚・運動系が仕事を始めると、他の組織は(否でも応でも)そこに潜在エネルギーを供給できるよう準備を整えなければならない、ということになります。ところで、この点に関する実験、その中でも特にモラとデュフールの実験が示す通り、事態はまさに後者のように進行します。肝臓のグリコーゲン合成機能は、それを司っている自律神経の働きに依存していますが、自律神経の働きそのものは随意筋を稼働させる神経の働きに依存しています。順を追って見ていくと、まずこの随意筋を稼働させる神経が好きなだけエネルギーを消費し、グリコーゲンを惜しげもなく消費することで血液中のグルコースが減少します。そこで肝臓は、(消費された分を補給するため)自分が貯蔵しているグリコーゲンの一部をグルコースが減少した血液中に放出し、その結果、肝臓はもう一度グリコーゲンを新たに作り出さなければならなくなる、というわけです。このように、すべては感覚・運動系から発し、すべては感覚・運動系に帰着します。有機体の爾余の部分は感覚・運動系に仕えている、というのは、決して比喩ではありません。
また長期間絶食した際に身体に生じる変化も、この仮説を裏付けています。或る人が餓死した動物を調べたところ、脳にはほとんど変化が見られなかったのに対し、他の器官は程度の差こそあれいずれも重量がかなり減少し、細胞が著しく変質していた、という興味深い例が報告されています。この例を見ても、神経系以外の身体の部分は、絶命の瞬間に至るまで神経系を支え続け、自分自身は神経系という目的のための単なる手段という立場を貫き通した、という風に見えます。
ここで要点を簡単にまとめてみましょう。脳と脊髄からなる(中枢)神経系と、その延長である感覚器官、それが司る随意筋、これらをひと纏めにして「感覚・運動系」という一語で呼ぶことにするならば、高等な有機体の本質的な部分を構成しているのは感覚・運動系である、と言うことができます。消化器官、呼吸器官、循環器官、分泌器官などは感覚・運動系の支配下にあり、その役割は、第一に感覚・運動系を修復し、清掃し、保護すること、第二に感覚・運動系に変動の少ない安定した内部環境を提供すること、そして最後に、何よりも移動運動に変換されるべき潜在エネルギーを供給することにあります。なるほど神経機能が完成されていくにつれて、それを支える諸機能も同時に発達しなければならず、したがってそれらの機能そのものへの要求の水準も高くなっていきます。もともと原形質の塊りの中に埋没していた神経の働きは、そこから浮かび上がってくるに従い、自らを支えるためにあらゆる種類の働きを自分の周囲に呼び寄せなければなりませんでした。新たに呼び寄せられた働きもまた別の働きを土台にしなければ発達することができず、土台となった活動もまた別の活動を必要とします。こうして要求が要求を呼び、それとともに高等な有機体の機能は全体として複雑化していったのです。このため高等な有機体を調べてみると、どの有機体においても例外なくすべての機能が他のすべての機能のための手段であるかのような様相を呈し、わたしたちはこの循環の(どこにも中心を見出せないまま際限なくその)中を堂々巡りさせられる仕儀に陥ります。とは言えこの循環には、やはり一つの中心(入口であり出口であるもの)があります。感覚器官と運動器官との間に張り巡らされた神経要素の系、すなわち感覚・運動系こそ、まさにその中心に他なりません。
わたしたちは神経系について前著で詳述したこと(「物質と記憶」第一章、下記参照)を、改めて繰り返すつもりはありません。ここではただ、神経系は、運動を環境の変化により正確に適応させ、生物が選択し得る運動の幅を広げるという二つの方向に同時に発達した、という点を思い起こすにとどめましょう。一見相反するように見えるこの二つの傾向は、実際、互いに相容れないものです。にもかかわらず神経要素(ニューロン)の連鎖は、最も未分化な形態においてさえ、この二つの傾向の調停を見事にやってのけます。まず神経要素の連鎖は一方で、末梢の或る点と別の点との間、つまり感覚に属する点と運動に属する点との間に、明確に規定された一つの線を描きます。これによって、当初原形質の塊りのあちこちに散らばっていた働きは一つの通路へと導かれます。他方、この神経要素の連鎖は、(刺激を順次伝えていくだけのものではなく)恐らく不連続的なものです。仮にそれらが相互に隙間なく結合されていると想定した場合でも、少なくとも機能的には不連続性を示しています。というのも、それら各要素の末端は一種の十字路になっており、神経インパルスはそこで疑いもなく進路を選択することができるからです。動物の中で最も下等な原核生物(モネラ)から、最も幸運に恵まれた昆虫、そして最も知的な脊椎動物に至るまで、動物界においては、神経系を発達させることに最大の努力が払われました。この神経系の発達の程度に応じてそれが要求するすべての諸部分が創造され、創造される諸部分の複雑さも増していったのです。(ところで)第一章において示唆したように、生命の役割は物質に非決定性を挿入することにあります。生命が進化するに従って創造していく形態は、あらかじめ決定されているわけではありません。あらかじめ決定されていない、ということは、それが予見不可能なものだということです。この形態に跨っている行動性もまた、形態が創造される度に次第に未決定なものに、より正確に言えば次第に自由なものになっていきます。末端と末端が相互に結合されているニューロンは、それぞれの末端で多くの道が開かれているために、道の数だけ問題が立てられるような構造になっています。このような構造を持つニューロンが無数に張り巡らされている神経系は、まさに非決定性の貯蔵庫と言えるでしょう。有機的世界全体を見渡すと、生命の推進力の本質的な部分が個々の系統に伝えられ、この種の器官(脳や脊髄すなわち神経系)を創造するに至った過程がはっきりと見えてくる筈です。ただしこの生命の推進力そのものについては、説明すべき点が幾つか残されています。
(ベルグソンが述べているのは、恐らく以下の箇所だと思われます。
「外的知覚の発達の過程を、原核生物から高等脊椎動物に至るまで実際に一歩ずつ辿ってみましょう。周知のように、原形質の塊りに過ぎない状態においても生物はすでに被刺激性と収縮性を持ち、外界からの刺激を受けて、機械的、物理的、化学的に反応しています。生物の進化系列を上昇するにつれ、生理学的機能の分化が見られます。すなわち神経細胞が現れ、多様化し、組織が形成されます。それに伴い、動物は外界からの刺激に対して、より多様な運動によって反応するようになります。仮に受け取られた刺激が即座に運動を引き起こさない場合でも、刺激はただその機会が来るのを待っている、という風に考えられます。つまり、周囲の変化を生物に伝える刺激が、その変化に適応した行動をその生物に取らせる場合もあれば、その準備をするよう促す場合もある、ということです。高等脊椎動物に至ると両者の区別は決定的となり、純粋な自動運動は主に脊髄に委ねられる一方で、意志的行動は脳によって司られます。ここで、受け取られた印象はそのまま運動として展開されるのではなく、(脳において)認識として精神化されるのだ、という風に考える人もいるかも知れません。しかし脳の構造と脊髄の構造を比較してみると、脳の機能と脊髄の反射運動との間には単に複雑さの違いがあるだけで、性質の違いはないことがわかります。この点を実際に確かめてみましょう。まず反射運動においては何が起こっているのでしょうか。反射運動においては、刺激として伝わる求心性の運動は、脊髄の神経細胞に達するとそこですぐさま反射されて遠心運動となり、筋肉の収縮を引き起こします。次に、脳組織の機能は何でしょうか。意志的行動においては、末梢からの刺激は、脊髄の運動細胞に直接伝えられて必要な筋肉の収縮を引き起こすのではなく、一旦脳にまで上昇し、その後反射運動を媒介した脊髄の運動細胞に降りてきます。この遠回りによって、刺激は一体何を得たのでしょうか。大脳皮質のいわゆる感覚細胞の中に刺激は何を探しに行ったのでしょうか。刺激がそこで事物の表象(知覚)に変貌する奇跡的な能力を獲得したなどということをわたしは信じることができませんし、どう考えてもそういう結論には辿り着けそうにありません。すぐ後で述べるように、(知覚の発生を説明するのに)そもそもこの種の仮説を立てる必要は全くないとわたしは考えています。わたしに疑いようのない事実と思われるのは、受容された刺激は、大脳皮質の感覚野と呼ばれる様々な領域に見られる細胞、すなわち求心性神経末端の分枝と、ローランド溝の運動細胞との間にある細胞を介して脊髄の運動機構に随意に接続することができ、それにより刺激は結果(これから為すべき運動)を選択することができる、ということです。介在するこの細胞の数が多ければ多いほど、またそれらが様々な接続を可能にするアメーバ状突起を数多く出せば出すほど、末梢から来る一つの刺激に対して開放される経路の数も種類も増え、その結果仮に同じ刺激であっても、細胞の数が少ない場合に比べて選択し得る運動機構が増えることになります。したがってわたしたちの考えでは、脳とは一種の電話交換局のようなものに他なりません。その役割は「電話を取り次ぐ」こと、あるいはそれを待機させることにあります。脳は受け取ったものに何一つ付け加えることはありません。しかしすべての知覚器官の終端がそこに繋がっており、脊髄と延髄のすべての運動機構がそこに専属の代理を置いている点で、脳は紛れもなく中枢であり、末梢から来た刺激はそこで運動機構と最早強制的に関係を結ぶのではなく、自ら選択して関係を結ぶことができます。他方、大脳皮質の中では、末梢から来た同一の刺激に対して、膨大な数の運動性の経路がすべて同時に開放され得るので、この刺激を無限に分割し、無数の予備的な運動反応の内に消散させることもできます。このように、脳の役割とは、或るときは受け取った刺激を実際に選択された一つの運動器官に導くことであり、或るときはこの刺激に対して運動性の経路をすべて開放して、その刺激に含まれているすべての可能的作用を下描きし、刺激そのものは分解し消散させてしまうことです。換言すると、脳は受け取った刺激に対しては分解の道具であり、行われる運動に対しては選択の道具であるようにわたしたちには思われます。しかしどんな場合においても、脳の役割は刺激を伝えることと、刺激を分割し分散させることの二つに限られます。それゆえ脊髄において神経組織は認識を目的として働いているのではないのと同様に、大脳皮質の上位中枢においても、神経組織は認識を目的として働いているのではありません。神経組織は、多数の可能的作用をすべて同時に下描きするか、そのうちの一つを組織するに過ぎません」)
(つづく)
(以前にも書きましたが、菌類は現在は植物界ではなく、菌界に分類されています)
炭素と窒素はどこにでもあるありふれたものですが、動物はそれらを直接固定することができないので、炭素と窒素を取り入れるために、二つの元素を既に固定している植物か、或いはそれらを植物界から取り入れた動物を探さなければなりません。そこで必然的に、動物は移動する能力を身に付けることになります。アメーバのように、水滴中に生息する微生物を捕捉するために行き当たりばったりに仮足を伸ばす動物から、獲物を認知するための感覚器官や、それを捕獲するための運動器官、運動を感覚に連携させるための神経系を備えている高等動物に至るまで、動物的生命が向かう一般的な方向は、空間における可動性によって特徴付けられます。動物はその最も原始的な形態では、原形質の小さな塊りとして現れますが、この小塊はせいぜいタンパク質の薄い膜に覆われているに過ぎないので、動物は或る程度自由に身体を変形させ移動することができます。これに対して、細胞がセルロースの膜に覆われている植物は不動状態を余儀なくされます。植物界では、下等植物から高等植物に至るまであらゆる植物がその場に固着する習慣を身に付けており、高等な植物になればなるほどこの習慣が強固なものになっていきます。植物はその場から動く必要がなく、自分の周囲に、つまり大気や水や自分が根を下ろしている土の中から無機元素を見つけ、直接取り込むことができるからです。植物のうちにも、確かに運動が観察されないわけではありません。ツル植物の運動に関する素晴らしい著書を著したダーウィンは、モウセンゴケやハエトリグサなどの食虫植物の獲物の捉え方に関する研究も行っています。またアカシアやオジギソウなどの葉の運動については、誰でも一度は耳にしたことがあるでしょう。植物の原形質はその膜内で流動していますが、これも動物の原形質との近縁性を示しています。逆に多くの動物種(一般に寄生虫)においても、植物の固着性に似た固着現象が認められます。そういうわけで、固着性と運動性というものを、一見しただけで目の前にあるのが動物なのか植物なのか区別できる二つの特徴として捉えると、ここでも先ほど注意を促したのと同じ誤りに陥ってしまいます。実際には、動物において固着性は、ほとんどの場合、その種が陥ってしまう恐れのある麻痺状態として、つまり或る方向にそれ以上進化することへの拒否として(例外的に)現れるに過ぎません。それは寄生に極めて近いものであり、植物的生命の諸々の特徴を思わせる特徴を伴います。他方、植物の運動に関しても、それは動物の運動ほど頻繁に生じるわけでもなく、多様性に満ちているわけでもありません。植物の運動は有機体の一部にかかわるものに過ぎず、有機体全体に及ぶことはほとんどありません。植物にも例外的に漠然たる自発性が発現することはあるにせよ、そういう場合、通常眠っている行動性が偶然目覚めたに過ぎない、という印象を受けます。要するに、運動性と固着性は確かに植物界においても動物界においても共存してはいるものの、その均衡は明らかに崩れており、植物界においては均衡が固着性の方に、動物界においては運動性の方に傾いている、ということです。この二つの相反する傾向が二つの進化を主導していることは明白であり、したがってこの傾向だけで二つの界を定義しても必ずしも間違いとは言えないでしょう。しかし固着性にしろ運動性にしろ、(二つの栄養摂取の仕方と同様)、もっと深い傾向の表面的な現れでしかありません。
運動性と意識との間には、明白な関係があります。高等な有機体の意識は、確かに(運動性というよりも寧ろ)脳という装置と結び付いているように見えます。神経系が発達するにつれ、それが選択し得る運動は正確さを増し、数が増えるのと同時に、運動に伴う意識も明瞭さを増していきます。しかし神経系の存在は、そうした運動性や選択の、さらには意識の必要条件ではありません。神経系は、有機的組織化された物質の塊り(有機体)に散在する未成熟の漠然とした活動性を、一定の方向に運河のように導き、強化する役割を果たしているに過ぎません。動物の系統を遡るにつれ、神経中枢は単純なものになり、離れ離れになっていきます。そして最終的に、神経要素は分化の進んでいない有機体全体のうちに埋没して消失します。とは言え今述べたことは、他のすべての器官、他のすべての解剖学的要素にも当て嵌まります。或る動物に胃がないからと言って、その動物が栄養を摂取する能力を持たないと結論するのは馬鹿げているように、或る動物に脳がないからと言って、その動物が意識を持たないと結論するのは不条理以外の何物でないでしょう。実際には、神経系は他の系と同様、分業の結果生じたものであり、機能を生み出すものではありません。機能に反射的活動と随意的活動という二つの形式を与え、機能の強度と正確さを高めるのが神経系の役割です。反射運動が完璧に成し遂げられるには、脊髄や延髄に構築されたメカニズム全体が必要であり、幾つかの決まった動作の中から特定の動作を随意に選択するには大脳が必要です。大脳からは十字路のように幾つかの道が伸びており、形は違えどどれも同じ正確さを持つ運動メカニズムに接続されています。しかし神経要素の方向付けがまだ行われておらず、それどころか神経要素が集まって一つの系を形成するに至っていないときでさえ、そこには分化によって反射的なものと随意的なものとを同時に生み出すような(両者の中間的な)何物かが存在しています。この何物かは、反射運動のような機械的な正確さも、随意運動のような知的躊躇も持ち合わせていません。が、それはわずかながらも両者の性質を併せ持っており、明瞭さを欠き漠然としているとは言え、既に意識的な反応と呼び得るものです。したがって最も原始的な有機体といえども、それが自由に運動する限り意識的です。では意識は、運動の結果なのでしょうか。それとも原因なのでしょうか。或る意味において、意識は運動の原因です。というのも、意識の役割は運動を導くことだからです。しかし別の意味においては、意識は運動の結果です。何故なら意識は運動の働きに支えられており、この働きがなくなった途端意識は弱まるか、或いは寧ろ眠り込んでしまうからです。フクロムシのような甲殻類の構造は、かつてはもっと分化していたと考えられるにもかかわらず、この甲殻類が固着化し他の甲殻類に寄生するようになったのに伴い、神経系が退化し、ほとんど消滅するに至りました。このような例においては、有機的組織化の進展によって、意識的な活動全体が一旦神経中枢に限局された(後に固着化した)分だけ、フクロムシより遥かに未分化で、神経中枢も備えていないような有機体、ただし可動性をずっと維持してきた有機体の意識に比べてさえ、この甲殻類の意識の方がより衰退していると推測されます。
そうだとすれば、同じ場所に固着し、その場で栄養を確保することのできる植物が、どうして意識的な活動性の方向に発達することがあり得るでしょうか。原形質を包んでいるセルロースの膜は、最も単純な植物体にさえ不動を強い、その代わりに、植物体を外的刺激から、すなわち動物の感覚を刺激し、動物が眠り込むのを防いでいる外的刺激のほとんどから保護してくれます。このことからしても、植物は一般に無意識的であると判断することができます。とは言えここでも、過度に厳密な区別は慎まなければなりません。無意識と意識という二つの特性は、一方をすべての植物細胞に、他方をすべての動物に機械的に貼り付けて済ますことのできるようなレッテルではありません。退化して不動の寄生生物と化した動物では意識は眠り込んでしまいますが、逆に運動の自由を取り戻した植物では意識は目を覚まします。植物が運動の自由を取り戻す程度に正確に比例して、意識は目を覚ますのです。そうは言っても、意識と無意識が、二つの界が発達してきた方向を示しているという事実に変わりはありません。それはどういう意味かと言うと、動物の意識の最良の見本を見つけるためには、動物の系統の頂点に立つ者(人類)にまで上っていかなければならないのに対して、植物の意識が存在しそうな事例を見つけるためには、植物の段階をできるだけ低いところまで、例えば藻類の遊走子にまで、より一般的に言えば、植物の形態と動物性という二つの選択肢を前にして逡巡しているような単細胞の有機体にまで下りていかなければならない、ということです。こうした観点に立つとき、またこうした観点から逸脱しない限り、感覚性と目覚めた意識とによって動物を定義し、眠り込んでいる意識と無感覚とによって植物を定義しても差し支えないでしょう。
ここで植物と動物について述べたことを簡単にまとめて置きましょう。植物は、無機化合物から直接有機化合物を作り出します。この能力のお蔭で、一般に植物は運動する必要がなく、したがってまた刺激を感じる必要もありません。一方、動物は自分を養う栄養を探しにいかなければならないので、移動の必要から行動性の方向へと進化し、その結果、徐々に豊かになり明瞭になっていく意識の方向へと進化した、というわけです。
さて、以上のことから、動物細胞と植物細胞とは同一の根から派生したこと、原初の有機体は動物の形態と植物の形態との間を揺れ動き、どちらの性質も併せ持っていたことは疑えないように思えます。事実、先ほど見たように、二つの界の進化に特徴的な諸傾向は分化する一方で、植物においても動物においても今なお共存しています。ただ、共存する諸傾向の割合が両者では異なっているに過ぎません。通常、(相反する)二つの傾向のうちの一方が他方を覆い隠すか、或いは圧倒していますが、例外的な環境では押さえつけられていた傾向が解放され、勢力を挽回します。植物細胞における運動性と意識は、目覚めることを許された環境、或いは目覚めなければならない環境においても覚醒しないほど深く眠り込んでいるわけではありません。他方、動物界の進化は、万一植物的生活に陥ったときのために取って置かれた傾向によって絶えず遅延させられ、停止させられ、後退させられます。実際、或る動物種の活動性がいくら充溢しているように見えたとしても、麻痺状態と無意識とがそれに取って代わろうと絶えず隙を窺っています。動物の活動性は、疲労を厭わず努力することによってしかその役割を果たすことができません。このため動物の進化の道すがら数え切れないほどの挫折が生じましたが、そのような退化のほとんどは寄生的な習慣に結び付いています。それが意味しているのは、他でもない、植物的生活への方向転換です。このようにあらゆることが、植物と動物とを遡っていくと共通の祖先に辿り着くこと、この祖先は両者の傾向を萌芽状態で併せ持っていたことを挙って示唆しています。
しかし原基的な形態では相互に浸透し合っていたこの二つの傾向は、成長するにつれ分離しなければなりませんでした。その結果、固着性と無感覚を特徴とする植物界と、運動性と意識を特徴とする動物界という二つの世界が現れます。この二分化を説明するために、何らかの神秘的な力を持ち出す必要はありません。生物は自分に最も適した方向に自ずと傾くということ、植物と動物は各々自分の必要とする炭素と窒素を手に入れるために、二つの異なる方法のうち、自分にとって都合のよいものを選んだに過ぎない、ということを指摘すれば十分です。植物は、炭素と窒素を常時供給してくれる環境から、それらの要素を連続的、機械的に引き出します。それに対して動物は、既に固定されている炭素と窒素を摂取するために、不連続的で、限られた瞬間に集中して行われる意識的な行動によってそれらの要素が固定されている有機体を探しにいきます。この植物と動物との行動様式の違いは、両者の労働の捉え方の違いを表しています。或いは労働ではなく、怠惰の捉え方の違いと言っても構いません。もし以上のようなわたしたちの仮説が正しいとすれば、どんなに未分化な神経要素を想定するにせよ、植物のうちに神経要素が発見されることは未来永劫あり得ない、と推測することができます。植物は、太陽の放射エネルギーを利用して二酸化炭素に含まれる炭素と酸素との結合を断ち切る際、エネルギーの流れの向きを力づくで変更します。わたしたちの考えでは、植物において動物の主導的な意志に相当するのは、まさにこのエネルギーの流れの向きの変更であり、動物の感覚能力に相当するのは、他に比較するもののないクロロフィルの特殊な感光性です。そして動物の神経系とは何よりもまず感覚と意志との仲介役を務めるメカニズムであるとすれば、植物において「神経系」に相当するのは、クロロフィルの感光性とデンプンを合成する働き(光合成)を仲介する独自のメカニズム、と言うより独自の化学反応ということになるでしょう。ここから、次の二つのことを導き出すことができます。一つは、植物が神経要素を持つことはあり得ない、ということであり、もう一つは、動物のうちに神経と神経中枢とを生み出したエランと同じエランが、植物ではクロロフィルの機能に辿り着いたに違いない、ということです。
わたしたちは有機的世界を一通り見てきましたが、二つの界を結び付けているものは何か、また両者を分かつものは何か、ということを今や先ほどよりもっと正確に規定することができるでしょう。
生命の根底には、前章の最後で指摘したように、物理的な力の必然性にできる限り多くの非決定性を挿入しようとする努力が存在している、という風に考えてみましょう。この努力は、エネルギーを創造するまでには至りません。万一創造し得たとしても、その量はわたしたちの感覚やわたしたちの測定装置、換言するとわたしたちの経験やわたしたちの科学で計測し得るものではありません。自分でエネルギーを作り出すことができない以上、この努力は専ら、自由に使うことのできる既存のエネルギーをできるだけうまく利用することを目指したのではないか、と推測されます。これに成功する手段は唯一つしかありません。それは、物質からそのうちに蓄積されたエネルギーをあらかじめ手に入れて置き、必要なときに行動の起爆装置を作動させ、行動に必要な力が得られるようにすることです。生命の努力そのものは、せいぜい起爆装置を作動させることしかできません。しかし常に一定のその力の仕事量はどんな仕事量よりも少ないにもかかわらず、より重いものをより高いところから落下させることができるようになるに従い、つまり、自由に使用できる潜在エネルギーがより多く蓄積されるに従い、それだけ大きな効果を生むことができるようになります。地球という惑星で、実質上利用できるエネルギーの主な源は太陽です。そこでこの地球では、生命に対して次のような問題、すなわち、絶えず消費されている利用可能な太陽のエネルギーを、地球表面のそこここに部分的、一時的に留めて置くにはどうすればよいか、そうして消費の中断されたエネルギーの幾分かを未利用のエネルギーの形で然るべき貯蔵庫に蓄え、好きなとき、好きな場所で、好きな方向にそれを放出するにはどうすればよいか、という問題が提起されることになりました。動物が摂取する物質(有機化合物)は、まさにこの種のエネルギー貯蔵庫に他なりません。それらの物質は、かなりの量の化学エネルギーを潜在的な状態で含む極めて複雑な分子で構成された一種の爆発物であり、火花が散っただけで蓄積された力が解き放たれる仕組みになっています。ところで、生命はまず、こうした爆発物の製造と、その爆発物を利用すること、すなわちそれを爆発させる(行動する)ことを同時に行おうとしたのではないか、具体的に言えば、太陽の放射エネルギーを蓄積した有機体が、同時に、そのエネルギーを空間における自由な運動のために消費したのではないか、と考えられます。そういうわけで、最初に現れた生物は、一方で太陽から受け取ったエネルギーを間断なく蓄え、他方で蓄えたエネルギーを、移動運動によって不連続的、かつ爆発的に消費しようとしたに違いありません。ミドリムシのようなクロロフィルを持つ鞭毛虫類は、生命のこの原初的な傾向を、未成熟で最早進化し得ない形ではあるにせよ、今日においても具体的に示している、と言うことができます。植物界と動物界という二つの界が、発展するにつれ異なる方向に分岐しなければならなかったのは、比喩的に言えば、両者がそれぞれ計画の半分を忘却してしまったことによるものでしょうか。それとも、わたしたちとしてはこちらの説の方がより真実に近いと思えるのですが、生命が地球という惑星で遭遇した物質の本性が、同一の有機体の中でこれら二つの傾向が共存共栄することを許さなかった、ということなのでしょうか。いずれにせよ確かなことは、植物は専ら第一の方向(爆発物の製造)に向かい、動物は第二の方向(爆発物の爆発)に向かったということです。そしてもともと爆発物が製造されたのは、それを爆発させるという目的のためであったと考えれば、生命の根本的な方向を指し示しているのは、植物の進化ではなく動物の進化の方だと言えます。
したがって植物界と動物界という二つの界の「調和」、両者の特徴の間に見られる相互補完性は、出発点では一つに融け合っていた二つの傾向を、両者がそれぞれ別々に発展させてきたことに由来するものだと考えて差し支えありません。根源的な唯一つの傾向が発展するにつれ、原基的な状態では相互に浸透し合っていた二つの要素は、同じ生物の中で結び付いていることが次第に困難になってきます。そこから分裂が生じ、進化の分岐が生じます。またそこから、二つの系列の特徴が生じてきます。この二系列の特徴は或る点では対立し合い、別の点では補い合っています。しかし対立し合うにせよ補い合うにせよ、それらは常に相互に類縁性を保っています。片や動物は、途中様々な予期せぬ出来事に出会いながらも、エネルギーを不連続的に、より自由に消費する方向へと進化したのに対して、片や植物は、同じ場所に固着してエネルギーを蓄積するシステムを構築する方向へと進化しました。この二つの進化のうち、植物の進化についてわたしたちは多くを語るつもりはありません。ただ植物の進化に関して一つだけ指摘して置きたいのは、植物と動物との間で生じた分裂に比し得る分裂が植物界に起こり、(植物が動物の負担を軽減したように)、今度は植物自身の負担が大いに軽減されることになった、ということです。炭素の固定と窒素の固定という二つの作業を独力で行わなければならなかった原始的な植物細胞は、微生物が専ら窒素の固定を受け持つようになって以来、この機能をほとんど手放すことができるようになりました。もっとも窒素の固定と一口に言っても単純なものではなく、すべての作業を一種類の微生物が担っているわけではありません。大気中の窒素を固定する微生物もあれば、アンモニア化合物を亜硝酸化合物に、亜硝酸化合物を硝酸塩に次々に変換していく微生物もあります。これらの微生物は、もともと一体のものであった傾向が分裂した結果、植物一般が動物に対して果たした役割と同じ種類の役割を植物界全体に対して果たすことになったのです。もしこれらの微生物のために特別な界を新たに設けてよいとすれば、この地中の微生物が属する界、そして植物界、動物界という三つの界は、生命が当初相互に浸透し合った状態で内包していたものが、地球という惑星で生命が自由に利用することのできた物質の作用によって分解され、明瞭化されたものだと言えるでしょう。このように同一の傾向が三つの要素に分かれ、三者三様の特徴を持つに至ったことを、分業という言葉の本来の意味で「分業」と表現してよいものでしょうか。わたしたちが思い描いているような進化の観念は、恐らく分業という言葉では正確に表すことはできません。分業が行われるところには協同があり、同時に努力の収斂があります。それに対してわたしたちの考える進化は、決して協同に向かうものではなく、分離へと向かうものであり、努力の収斂に向かうものではなく、分岐へと向かうものです。幾つかの点で補い合っている三者の調和は、わたしたちの考えでは、進化の途上で、三者相互の適応によって生じたものではありません。寧ろ逆に、完全な調和は進化の途上ではなく、進化の出発点にのみ存在します。三者の調和は、それらが同じ起源を持つことに由来しているのです。束状に展開される進化の過程は、当初補完し合い、一つに融け合っていた諸々の傾向を、それらがともに成長していくに従って相互に引き離します。このような過程のうちにこそ、生命の調和は存在しています。
とは言え一つの傾向から分離した諸々の要素はすべてが同じ重要性を持つわけではなく、特に、それらはすべて同じ程度に進化する能力を秘めているわけではない、という点に注意しなければなりません。わたしたちは先ほど、有機的世界の中に言うなれば三つの異なる界を区別しましたが、第一の界には原始的な状態にとどまっている微生物しか属していないのとは対照的に、(第二、第三の界に属する)動物と植物はより大きな成功を収めるべくさらなる高みを目指しました。こうした要素間の不均衡は、或る一つの傾向が幾つかの要素に分離する際に必ずと言っていいほど生じるものです。一つの傾向から分岐した幾つかの傾向には、無際限に発達し続けるものもあれば、早晩限界に達するものもあります。後者は原初の傾向から直接生じたものではなく、主要な傾向の一つから生じた二次的なものに過ぎません。それは、(原初の傾向を継承し)進化の主要な流れを形成する傾向が発達の途中で派生させたものの、そのまま放置してしまった進化の形骸です。わたしたちの見るところ、主要な傾向にはそれとわかる一つの特徴があります。
その特徴は、原初の傾向が含んでいた諸要素の痕跡(記憶)のごときもの、分岐した幾つかの主要な傾向の一つ一つのうちに今なお見て取れるものであり、原初の傾向の基本的な方向を示しているものです。事実、或る傾向に含まれる諸要素は、空間に併置され相互に排除し合うような諸事物に比較されるものではなく、寧ろ心理的状態に比較されるべきものです。心理的状態の一つ一つは当初それ以外の何物ではないとしても、別の傾向の性質も併せ持っており、したがってそれが属している人格の全体をも潜在的に含んでいています。既に述べたように、どんな生命現象であれそれが本質的なものである限り、それ以外の生命現象の特徴を、原初的な、或いは潜在的な状態で含んでいないような現象は存在しません。逆に言えば、或る進化系統において別の系統に沿って発達した要素の記憶とも言うべきものに出会った場合、それは同じ原初の傾向から分離したものと看做すことができます。この意味で、植物と動物は生命の発達の主要な二つの方向を表している、と判断することができます。植物は確かに固着性と無感覚によって動物から区別される一方で、植物のうちには、覚醒し得る記憶として運動と意識も微睡んでいます。他方、そうした普段微睡んでいる記憶とは別に、覚醒し活動している記憶もあります。それは、原初の傾向から分離した個別的傾向そのものの発達を妨げないような記憶です。以上のことから、次のような法則、或る一つの傾向が発達しながら幾つかの要素に分離するとき、それらの個別的な傾向の各々は、自分が専門とする仕事と両立不可能ではないすべてのものを原初の傾向から受け継ぎ、発展させようとする性質がある、という法則を引き出すことができるでしょう。わたしたちが前章で詳述した事実、互いに独立した進化系統の上で同じ複雑なメカニズムが形成される事実は、まさにこの法則によって説明することができます。植物と動物との間に見られる幾つかの深い類似についても、思うにそれ以外の原因があるわけではありません。例えば植物にとって、有性生殖は恐らく一つの贅沢でしかないのに対して、動物にとって、有性生殖はどうしてもそこに到達しなければならない必要不可欠なものでした。しかし植物は、動物を有性生殖へと駆り立てたエラン、二つの界に分裂する以前の原初的、根源的エランによって、(植物的傾向を妨げない記憶としての)有性生殖へと導かれることになったのです。植物が徐々に複雑さを増していく傾向についても、同様のことが言えます。この傾向は、動物界にとって本質的なものです。何故なら動物界では、より広範囲にわたって、より効果的に行動する(ために、どうしても神経系を複雑化させる)必要があるからです。それに対して、無感覚と不動性を強いられている植物がこの点で動物と同じ傾向を示すのは、植物が最初に動物と同じ衝動を受け取ったからでしかありません。また例えば、(第一章でも紹介した)最近行われた実験によって、植物は「変異」の時期が来ると、どんな(突飛な)方向にも変化し得ることが明らかになっています。一方、(本来そのような多様性は動物にとって本質的なものではなく)、動物はもっと一定した方向に進化することもできた筈です。しかし生命の根源的な分裂の検討はこれくらいにして、次に、わたしたちにとってより関心のある動物の進化を見ていくことにしましょう。
●動物的生命の図式
先ほど述べたように、動物を植物から分かつのは、起爆装置を作動させ、可能な限り多く蓄積された潜在エネルギーを「爆発的」な行動に変換する能力です。この爆発は当初、方向を選ぶことができず、行き当たりばったりにしか引き起こすことができません。アメーバがあらゆる方向に一斉に仮足を突き出すのは、そうした爆発の一例です。しかし動物の系統を上っていくにつれ、身体の形態そのものが、エネルギーが伝わっていく幾つかのはっきりと決まった方向、一方の端と他方の端が(シナプスを介して)結ばれた神経要素(神経細胞・ニューロン)の連鎖によって示される方向を素描するのが見て取れるようになります。ところで、神経要素はほとんど分化していない有機的組織の塊りから少しずつ独立したものです。したがって神経要素が現れるが早いか、蓄積されたエネルギーを爆発的に解放するこの能力は、神経要素とその付属器官に集中することになった、と推測することができます。もっともその一方で、生きているあらゆる細胞は、平衡状態を保つために絶えずエネルギーを消費しています。この観点からすると、はじめから眠り込んでエネルギーを蓄積する働きに没頭している植物細胞では、当初手段でしかなかった筈のものが目的と化してしまっている、という風に見えなくもありません。一方、動物においては、すべてが行動に、すなわちエネルギーを移動運動のために利用することに収斂します。なるほど動物の細胞の一つ一つは、利用できるエネルギーの大半を、否、往々にしてそのすべてを自分自身の生存のために費やしています。とは言え有機体全体としては、できるだけ多くのエネルギーを、移動運動が行われる点に引き寄せたいに違いありません。したがって、神経系が、その付属器官として働いている感覚器官と運動器官とともに備わっている有機体では、身体の爾余の部分は、最終的に一種の爆発によって解放される力を神経系のために準備し、必要なときにその力を神経系に供給することを本質的機能としているかのように事態は進行する筈です。
事実、高等動物における栄養の役割は極めて複雑です。第一に、栄養は組織を修復するのに役立ちます。第二に、栄養は動物が外界の気温の変化に極力左右されず体温を一定に保つための熱を提供します。栄養はこのように、神経系が組み込まれ、神経要素の活動の土台となっている有機体を保持し、扶養し、支えます。しかし有機体が、神経要素と、特に神経要素が稼働させる筋肉とに消費可能な幾分かのエネルギーを送らなかったならば、神経要素にはいかなる存在理由も存在しないことになるでしょう。栄養の本質的、究極的な使命は、まさに神経要素にエネルギーを送ることにある、と言っても過言ではありません。もっとも、神経要素にエネルギーを送ることが栄養の究極の使命だからと言って、栄養の大部分がその仕事のために費やされている、というわけではありません。例えば国家は、税収入を確保するために莫大な出費を強いられます。徴税の経費を差し引くと、恐らく国家が自由に使える金額は微々たるものでしかないでしょう。にもかかわらず、この微々たる金額(神経要素に送られるエネルギー)こそ、税金と、税収入を得るために費やされたすべての経費の存在理由なのです。動物が栄養物質(炭水化物・脂肪・タンパク質)に要求するエネルギーに関しても事情は同じです。
神経要素と筋肉要素が、有機体の他の部分に対して今述べたような(特別な)地位を占めていることは、多くの事実からも窺い知ることができます。手始めに、栄養物質が身体の様々な要素に対してどのような比率で配分されているかを見てみましょう。栄養物質は、二つのカテゴリーに分けられます。一つは主に四元素(酸素、炭素、水素、窒素)からなるタンパク質であり、もう一つは三元素(酸素、炭素、水素)からなる炭水化物と脂肪です。タンパク質はもともと可塑性に富み、そのため組織の修復に適しています。タンパク質も炭素を含んでいるので、場合によってはエネルギー源にならないわけではありませんが、エネルギー源としての機能を専ら受け持っているのは後者の方です。後者、すなわち炭水化物と脂肪は細胞物質に同化されることなく細胞内に貯蔵され、後で運動や熱に直接変換される潜在エネルギーを、化学ポテンシャルの形で細胞にもたらします。要するに、前者は器官を修復することを、後者は器官にエネルギーを提供することを主な役割としている、と言うことができます。器官はすべての部分が平等に維持される必要があるので、当然のことながら、タンパク質が特定の部分に優先的に使用されるようなことはありません。ところが後者に関しては事情が異なり、炭水化物の分配には極めて大きな偏りが見られます。この事実は、わたしたちに重要な手掛かりを与えてくれます。
炭水化物はグルコース(ブドウ糖)の形で動脈血によって運ばれ、組織を形成する様々な細胞の中にグリコーゲンの形で貯蔵されます。周知のように、肝臓の主な機能の一つは、肝臓細胞で合成され貯蔵されたグリコーゲンの量を調整することで、血糖値を一定に保つことです。このようなグルコースの循環とグリコーゲンの貯蔵の流れから容易に見て取れるように、有機体のすべての努力は、筋肉組織と神経組織の諸要素に潜在エネルギーを供給することに費やされているように見えます。この努力の働き方は、筋肉組織の場合と神経組織の場合では異なるものの、どちらの場合にも同じ結果に達します。筋肉組織の場合には、細胞にあらかじめかなりの量のグリコーゲンが貯蔵されるよう取り計らわれています。事実、筋肉には他の組織に比べ、莫大と言える量のグリコーゲンが蓄えられています。反対に、神経組織におけるグリコーゲンの貯蔵量は極く限られたものでしかありません(もっとも、神経組織の役割は筋肉に貯蔵された潜在エネルギーを解放することであって、一度に多くの仕事をこなす必要もありません)。しかしここで注目すべきは、神経組織に貯蔵されたグリコーゲンが消費されるや否や血液によって瞬時に補給が行われ、その結果、潜在エネルギーが速やかに充填される、ということです。したがって、片や筋肉組織はそこにかなりの量のエネルギーが貯蔵されているという点で、片や神経組織は必要な瞬間、必要な量に正確に応じてそこにエネルギーが常に供給される点で特権的な地位にある、と結論することができます。
さらに詳しく見ていくと、ここでグリコーゲンを、つまり潜在エネルギーを要求しているのは感覚・運動系である、ということがわかります。有機体の爾余の部分は、あたかも神経系と神経が稼働させる筋肉系に力を提供するために存在している、という印象を受けます。確かに、有機体の活動の調整者としての神経系(感覚・運動系)の役割や、神経系と爾余の部分との間に築かれている良好な協力関係を思い見るとき、神経系は身体の仕える主人である、と言い切ってよいものか疑問に思う人がいても不思議ではありません。しかし、潜在エネルギーの組織への配分を言わば静的に考察しただけでも、わたしたちは既にこの仮説に傾きます。さらにエネルギーが消費される条件や補給される条件を詳しく調べれば、きっとこの仮説に完全に同意する気になるに違いありません。仮に、感覚・運動系が他の系と同じような一つの系である、言い換えると、他の系と同列に扱われるような一つの系である、と想定してみましょう。その場合、感覚・運動系は有機体全体に支えられる立場になるので、感覚・運動系が仕事をするためには、飽くまで化学ポテンシャルの余剰が供給されるまで待たなければならない、ということになるでしょう。つまり神経と筋肉のグリコーゲンの消費は、専らその生産に依存している、ということになります。反対に、感覚・運動系が身体の真の支配者である、と想定してみましょう。その場合、感覚・運動系の働きが継続する時間とそれが及ぶ範囲は、そこに含まれるグリコーゲンの貯蔵量から、さらに有機体全体に含まれるグリコーゲンの貯蔵量からさえ、少なくとも或る程度は独立している、ということになるでしょう。つまりその場合、感覚・運動系が仕事を始めると、他の組織は(否でも応でも)そこに潜在エネルギーを供給できるよう準備を整えなければならない、ということになります。ところで、この点に関する実験、その中でも特にモラとデュフールの実験が示す通り、事態はまさに後者のように進行します。肝臓のグリコーゲン合成機能は、それを司っている自律神経の働きに依存していますが、自律神経の働きそのものは随意筋を稼働させる神経の働きに依存しています。順を追って見ていくと、まずこの随意筋を稼働させる神経が好きなだけエネルギーを消費し、グリコーゲンを惜しげもなく消費することで血液中のグルコースが減少します。そこで肝臓は、(消費された分を補給するため)自分が貯蔵しているグリコーゲンの一部をグルコースが減少した血液中に放出し、その結果、肝臓はもう一度グリコーゲンを新たに作り出さなければならなくなる、というわけです。このように、すべては感覚・運動系から発し、すべては感覚・運動系に帰着します。有機体の爾余の部分は感覚・運動系に仕えている、というのは、決して比喩ではありません。
また長期間絶食した際に身体に生じる変化も、この仮説を裏付けています。或る人が餓死した動物を調べたところ、脳にはほとんど変化が見られなかったのに対し、他の器官は程度の差こそあれいずれも重量がかなり減少し、細胞が著しく変質していた、という興味深い例が報告されています。この例を見ても、神経系以外の身体の部分は、絶命の瞬間に至るまで神経系を支え続け、自分自身は神経系という目的のための単なる手段という立場を貫き通した、という風に見えます。
ここで要点を簡単にまとめてみましょう。脳と脊髄からなる(中枢)神経系と、その延長である感覚器官、それが司る随意筋、これらをひと纏めにして「感覚・運動系」という一語で呼ぶことにするならば、高等な有機体の本質的な部分を構成しているのは感覚・運動系である、と言うことができます。消化器官、呼吸器官、循環器官、分泌器官などは感覚・運動系の支配下にあり、その役割は、第一に感覚・運動系を修復し、清掃し、保護すること、第二に感覚・運動系に変動の少ない安定した内部環境を提供すること、そして最後に、何よりも移動運動に変換されるべき潜在エネルギーを供給することにあります。なるほど神経機能が完成されていくにつれて、それを支える諸機能も同時に発達しなければならず、したがってそれらの機能そのものへの要求の水準も高くなっていきます。もともと原形質の塊りの中に埋没していた神経の働きは、そこから浮かび上がってくるに従い、自らを支えるためにあらゆる種類の働きを自分の周囲に呼び寄せなければなりませんでした。新たに呼び寄せられた働きもまた別の働きを土台にしなければ発達することができず、土台となった活動もまた別の活動を必要とします。こうして要求が要求を呼び、それとともに高等な有機体の機能は全体として複雑化していったのです。このため高等な有機体を調べてみると、どの有機体においても例外なくすべての機能が他のすべての機能のための手段であるかのような様相を呈し、わたしたちはこの循環の(どこにも中心を見出せないまま際限なくその)中を堂々巡りさせられる仕儀に陥ります。とは言えこの循環には、やはり一つの中心(入口であり出口であるもの)があります。感覚器官と運動器官との間に張り巡らされた神経要素の系、すなわち感覚・運動系こそ、まさにその中心に他なりません。
わたしたちは神経系について前著で詳述したこと(「物質と記憶」第一章、下記参照)を、改めて繰り返すつもりはありません。ここではただ、神経系は、運動を環境の変化により正確に適応させ、生物が選択し得る運動の幅を広げるという二つの方向に同時に発達した、という点を思い起こすにとどめましょう。一見相反するように見えるこの二つの傾向は、実際、互いに相容れないものです。にもかかわらず神経要素(ニューロン)の連鎖は、最も未分化な形態においてさえ、この二つの傾向の調停を見事にやってのけます。まず神経要素の連鎖は一方で、末梢の或る点と別の点との間、つまり感覚に属する点と運動に属する点との間に、明確に規定された一つの線を描きます。これによって、当初原形質の塊りのあちこちに散らばっていた働きは一つの通路へと導かれます。他方、この神経要素の連鎖は、(刺激を順次伝えていくだけのものではなく)恐らく不連続的なものです。仮にそれらが相互に隙間なく結合されていると想定した場合でも、少なくとも機能的には不連続性を示しています。というのも、それら各要素の末端は一種の十字路になっており、神経インパルスはそこで疑いもなく進路を選択することができるからです。動物の中で最も下等な原核生物(モネラ)から、最も幸運に恵まれた昆虫、そして最も知的な脊椎動物に至るまで、動物界においては、神経系を発達させることに最大の努力が払われました。この神経系の発達の程度に応じてそれが要求するすべての諸部分が創造され、創造される諸部分の複雑さも増していったのです。(ところで)第一章において示唆したように、生命の役割は物質に非決定性を挿入することにあります。生命が進化するに従って創造していく形態は、あらかじめ決定されているわけではありません。あらかじめ決定されていない、ということは、それが予見不可能なものだということです。この形態に跨っている行動性もまた、形態が創造される度に次第に未決定なものに、より正確に言えば次第に自由なものになっていきます。末端と末端が相互に結合されているニューロンは、それぞれの末端で多くの道が開かれているために、道の数だけ問題が立てられるような構造になっています。このような構造を持つニューロンが無数に張り巡らされている神経系は、まさに非決定性の貯蔵庫と言えるでしょう。有機的世界全体を見渡すと、生命の推進力の本質的な部分が個々の系統に伝えられ、この種の器官(脳や脊髄すなわち神経系)を創造するに至った過程がはっきりと見えてくる筈です。ただしこの生命の推進力そのものについては、説明すべき点が幾つか残されています。
(ベルグソンが述べているのは、恐らく以下の箇所だと思われます。
「外的知覚の発達の過程を、原核生物から高等脊椎動物に至るまで実際に一歩ずつ辿ってみましょう。周知のように、原形質の塊りに過ぎない状態においても生物はすでに被刺激性と収縮性を持ち、外界からの刺激を受けて、機械的、物理的、化学的に反応しています。生物の進化系列を上昇するにつれ、生理学的機能の分化が見られます。すなわち神経細胞が現れ、多様化し、組織が形成されます。それに伴い、動物は外界からの刺激に対して、より多様な運動によって反応するようになります。仮に受け取られた刺激が即座に運動を引き起こさない場合でも、刺激はただその機会が来るのを待っている、という風に考えられます。つまり、周囲の変化を生物に伝える刺激が、その変化に適応した行動をその生物に取らせる場合もあれば、その準備をするよう促す場合もある、ということです。高等脊椎動物に至ると両者の区別は決定的となり、純粋な自動運動は主に脊髄に委ねられる一方で、意志的行動は脳によって司られます。ここで、受け取られた印象はそのまま運動として展開されるのではなく、(脳において)認識として精神化されるのだ、という風に考える人もいるかも知れません。しかし脳の構造と脊髄の構造を比較してみると、脳の機能と脊髄の反射運動との間には単に複雑さの違いがあるだけで、性質の違いはないことがわかります。この点を実際に確かめてみましょう。まず反射運動においては何が起こっているのでしょうか。反射運動においては、刺激として伝わる求心性の運動は、脊髄の神経細胞に達するとそこですぐさま反射されて遠心運動となり、筋肉の収縮を引き起こします。次に、脳組織の機能は何でしょうか。意志的行動においては、末梢からの刺激は、脊髄の運動細胞に直接伝えられて必要な筋肉の収縮を引き起こすのではなく、一旦脳にまで上昇し、その後反射運動を媒介した脊髄の運動細胞に降りてきます。この遠回りによって、刺激は一体何を得たのでしょうか。大脳皮質のいわゆる感覚細胞の中に刺激は何を探しに行ったのでしょうか。刺激がそこで事物の表象(知覚)に変貌する奇跡的な能力を獲得したなどということをわたしは信じることができませんし、どう考えてもそういう結論には辿り着けそうにありません。すぐ後で述べるように、(知覚の発生を説明するのに)そもそもこの種の仮説を立てる必要は全くないとわたしは考えています。わたしに疑いようのない事実と思われるのは、受容された刺激は、大脳皮質の感覚野と呼ばれる様々な領域に見られる細胞、すなわち求心性神経末端の分枝と、ローランド溝の運動細胞との間にある細胞を介して脊髄の運動機構に随意に接続することができ、それにより刺激は結果(これから為すべき運動)を選択することができる、ということです。介在するこの細胞の数が多ければ多いほど、またそれらが様々な接続を可能にするアメーバ状突起を数多く出せば出すほど、末梢から来る一つの刺激に対して開放される経路の数も種類も増え、その結果仮に同じ刺激であっても、細胞の数が少ない場合に比べて選択し得る運動機構が増えることになります。したがってわたしたちの考えでは、脳とは一種の電話交換局のようなものに他なりません。その役割は「電話を取り次ぐ」こと、あるいはそれを待機させることにあります。脳は受け取ったものに何一つ付け加えることはありません。しかしすべての知覚器官の終端がそこに繋がっており、脊髄と延髄のすべての運動機構がそこに専属の代理を置いている点で、脳は紛れもなく中枢であり、末梢から来た刺激はそこで運動機構と最早強制的に関係を結ぶのではなく、自ら選択して関係を結ぶことができます。他方、大脳皮質の中では、末梢から来た同一の刺激に対して、膨大な数の運動性の経路がすべて同時に開放され得るので、この刺激を無限に分割し、無数の予備的な運動反応の内に消散させることもできます。このように、脳の役割とは、或るときは受け取った刺激を実際に選択された一つの運動器官に導くことであり、或るときはこの刺激に対して運動性の経路をすべて開放して、その刺激に含まれているすべての可能的作用を下描きし、刺激そのものは分解し消散させてしまうことです。換言すると、脳は受け取った刺激に対しては分解の道具であり、行われる運動に対しては選択の道具であるようにわたしたちには思われます。しかしどんな場合においても、脳の役割は刺激を伝えることと、刺激を分割し分散させることの二つに限られます。それゆえ脊髄において神経組織は認識を目的として働いているのではないのと同様に、大脳皮質の上位中枢においても、神経組織は認識を目的として働いているのではありません。神経組織は、多数の可能的作用をすべて同時に下描きするか、そのうちの一つを組織するに過ぎません」)
(つづく)