さて、科学が人間社会においてどういう役割を果たし、どういう地位を占めているかというのはこの文章で一番最初に発した問いであり、また何度となく言及してきたところです。もちろん人間は考えた通りに行動するとは限りませんし、話したことや考えたことを必ずしも正確に把握しているとは限りません。しかし個人でどんなに大胆な発想をしたつもりでも人間の考えることにはおのずと一定の共通性があり、共通の陥穽があります。そこで改めて科学と他の学問(主として哲学)との関係はどういうものであるかについて考えてみることにします。
一口に科学といっても古代の科学と近代以降の科学を同列に論じることはできませんが、ここでは当然近代以降の科学に話を限るとして、科学に対する態度として最も一般的なのは現象の考察は科学に一任し、科学の提供する事実や法則をそっくりそのまま受け取るというものでしょう。比喩として適切かどうかはともかく、言ってみれば捜査は警察官に任せ、自らは指揮をとったり最終的な判断を下したりといった立場に徹するというものです。ところが事実問題は科学が取り扱い、原理問題のみを哲学が取り扱うといった役割分担は科学と哲学双方にとって利益にならず、混乱しか生み出さない、とベルグソンはいいます。何故なら原理は事実の記述や分析の内にすでに含まれており、捜査ならぬ学問の分野においては事実問題に関わることなしに原理を取り出すことはできないからです。したがって哲学は自ら原理を案出したつもりでも、実は事実の記述や分析に含まれていた原理を科学から受け取り、それを哲学的言語に翻訳しているに過ぎません。ところで科学は紛れもなく純粋な知性の産物であり、知性とは「物質を物質に作用させる」機能だとすれば、科学は物質に働きかけること、つまり広い意味で行動を目指したものだということができます。科学が純粋に認識を目指しているように見えたとしても、それはそのように見えるだけで、最終的に有用性を目指さない科学はありません。この有用性が確かであればあるほど、科学の提供する知識もまた明晰さを増していくと言えるでしょう。逆に化学・生理学・生物学・心理学と有用性が不確かなものになっていくとき、科学の提供する知識は徐々に明晰さを失い、絶対的な真理であることをやめて象徴的な真理になっていきます。「この(象徴的な)真理は、われわれがその外的側面しか検討しないことにアプリオリに取り決めているある対象へと物理学を拡張したものにすぎないから、物理学的な真理と同じ価値を持ちえない」のです。その結果哲学は科学の提供する知識の見かけだけの統一性を絶対的なものとして受け入れる独断論か、「科学の結果のいくつかが持つ人為的(象徴的)な性格を、科学の結果すべてに普遍化し拡張する」懐疑論の間を往ったり来たりするほかありません。事実問題に介入しようとせず、科学との競合を避けようとしたがために、かえって堂々巡りを余儀なくされる結果になったのです。「この本物の循環は、まずアプリオリにある統一を措定しながらも、その統一を形而上学のうちに苦労して再び見出すことであって、この統一はというと、経験全体を科学に、実在的なもの全体を純粋悟性に委ねたというただそのことによって、盲目的に、無意識的に認められたものなのだ」。このような悪循環に陥らないためには、哲学も最初から事実問題に主体的に介入する(先の比喩で言えば水の中に飛び込む)必要があります。それはむろん科学と覇権を競うためでもなければ、科学とは別の独自な認識を得るためでもありません。科学とともに経験の同じ土俵に降り立つためです。「このようにして、哲学は経験の領域に侵入する。それまでは係りがなかった多くのものに、哲学は介入する。科学、認識論、形而上学は同じ領域に導かれることになる」。同じ土俵に立って事実の分析を進めると、互いに対立する二つの原理におのずと辿り着きます。一方の極では科学は絶対(物質=空間)に触れていますが、他方の極に近づけば近づくほど科学の知識は象徴的なものになっていきます。「それゆえ、この新しい領域で、哲学は科学のあとを辿って、科学的真理に、形而上学的と呼べるような別の種類の知識を重ね合わせねばならないだろう」。この新しい領域において科学のあとを正確に辿れば辿るほど、哲学は科学から実証性という恩恵を受けつつ、もう一方の極に身を移して絶対(持続=時間)に触れることができます。逆に哲学は「その周辺部において(周辺部というのは持続の対極という意味でしょうが)、科学に有益な影響を及ぼす」(「思想と動くもの」緒論)でしょう。科学と哲学は表裏一体のものであり、「科学と哲学が結び付いて漸進的に発達することによって」、経験の全体を科学に委ねることによって措定された「まがい物の統一」の代わりに、「自然の内的で生き生きとした真の統一」、統一というより二つの原理が共存している源泉を見出すことができるでしょう。
(実際「近世の哲学者で、ベルグソンほど、その表現に、科学の成果、その徹底した抽象性を利用」(「感想」)した人はいません。のみならず、これまで何度か取り上げたように彼は相対性理論を論じた一冊の著作を物しています。この著作(持続と同時性)は、「(ベルンハルト)リーマンに密接に依存している相対性理論に対して、ベルクソンが自分の理論を対決させている著作である」、とドゥルーズは述べています。もっとも仕方がないといえば仕方のないことですが、「持続と同時性」を読んだアインシュタインはほとんど興味を示さず(というより完全に黙殺したと言った方がいいかもしれません)、この本をめぐってなされたベルグソンと相対論者との一種の論争も科学の側にとって実りあるものにはならなかったようです。相対性理論そのものが理解できていない僕にはこの問題を語る資格はないのですが、上記のことから推察すると、相対性理論のどの点までが実在的で、どの点が「象徴的」かを検証することにこの著作の目的の一つがあったのではないかと想像します)
以上はいわば予備的な考察で、ここから「創造的進化」の最も核心的な部分に入っていきます。それは次のような呼びかけで始まっています。
「そこで、われわれが有する、最も外部から切り離されると同時に最も知性性が浸透していないものに集中してみよう。われわれ自身の最も深い所で、われわれが最も自分自身の生の内側にいると感じる点を探してみよう。そのとき、われわれは、純粋持続に再び身を浸す。その持続では、常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく。しかし、同時に、われわれの意志のばねが極限まで緊張するのをわれわれは感じる。われわれの人格をそれ自身へと暴力的に収縮することによって、逃げ出る過去をかき集めて、凝縮した不可分な状態のまま、現在に押し込まなければならないのだが、この現在はというと、過去がそこにみずからを差し込むことで創造することになるものなのだ。われわれがここまで自分自身を取り戻す瞬間は非常にまれである。このような瞬間は、真に自由なわれわれの行動と一体化している。しかし、そのときでさえ、決してわれわれは自分自身全体を手にしてはいない。持続についてのわれわれの感情――われわれの自己の自分自身との一致と言いたいところだが――には、様々な度合いがあるのだ」。
先行するベルグソンの著作(「意識に直接与えられているものについての試論」・「物質と記憶」)を読んでいないと、このように言われてもピンと来ないかもしれません。具体的にどんな行為を思い浮かべればいいか見当のつかない人もいるでしょう。そんなことを考えながら寝る前にたまたま開いた本のページにこんな記述がありました。それは小林秀雄が河上徹太郎全集に寄せた短い文章の中で、ヴァレリーの「ドガ・ダンス・デッサン」に触れている箇所です。
「ヴァレリイの考えの中心は、鉛筆を手にしないで或る物を見る人と、それを描こうとして同じ物を見る人とは全く異った物を見ていると断言するところにある。画家がモデルを見る時、彼の眼は完全に描こうとする意志に支えられたものとなっている。日常生活では、誰もそんな風には眼を使っていない。眼は、私と物とを仲介する役割を務めているに過ぎず、私を指導する力は持たぬ。モデルを前にした画家が、我しらずと言っていゝほど自然に、眼の機能の大きな転換を行うのは注目すべき事だ。何故かと言うと、さんざん見慣れてよく知っていると思っていたモデルの形に、デッサンを仕上げてみて、思い掛けぬ新しい形を見附けて、先ず驚くのは当の画家自身だからである」(「白鳥・宣長・言葉」所収「河上君の全集」)。
もちろんこれは一例に過ぎず、別の例を挙げることもできるでしょう。身近なところでは文章を書く、という行為もこれに該当します。
話を元に戻すと、このような意志的行為(自由)の特徴は世界に新しいものを付け加え、質を生み出すことにあります。逆に「知性の本質的な機能は、同じものを同じものに結び付けることであり、反復される事実以外には、知性の枠組みに完全に合わせることができるものは」ありません。したがって知性あるいは物質を与えられたものとして措定することは世界から自由の可能性や質を排除するのと同じことです。知性が自由の問題を扱うと、必然的に決定論に導かれる理由もここにあります。自由が疑いようのない事実であるなら、物質と知性を創造の過程に組み込む、つまり物質と知性の「発生」を説明する必要があります(ベルグソンが様々な表現で繰り返し物質と知性の「発生」に言及しているのはそのためです)。
反対に「今度は、みずからを弛緩させ、過去を可能な限り現在に押し込む努力を中断してみよう。もしこの弛緩が完全になったら、記憶も意志ももはや存在しないだろう。つまり、われわれは、決してこの絶対的な受動性に陥ることはないし、自分を絶対的に自由にすることもできないのである。しかし、極限でわれわれは、絶えず新たに始まるような現在から成る存在を垣間見る。そこには、もはや実在的な持続はなく、無際限に死と再生を繰り返す瞬間しか存在しない」。
この文章では「弛緩」と集中の「中断」が便宜上別のものとして表現されていますが、実は「弛緩」と「中断」は同義であり、むしろ集中の中断が弛緩をもたらすと言った方が適切です。たとえばゴム紐を思い浮かべてみればよくわかるように、ゴムを引っ張って伸ばすには労力と時間が必要ですが、弛緩させるには労力も時間も必要ありません。ゴムを掴んでいた手をただ単に離せばいいからです。持続の観点から見ると、このように方向が逆の二つの過程――集中(収縮)と弛緩が存在します。「心的な存在が第一の方向(収縮)へ傾くのと同様に、物理的存在はこの第二の方向(弛緩)へ傾いていると推測することができ」ます。
ところでドゥルーズは「ベルクソンの哲学」第四章(持続は一か多か)で、ベルグソンの方法の一元論的な側面と二元論的な側面がどのように結び付いているかを論じています。対象と主体、知覚と記憶内容、物質と記憶、現在と過去のあいだには質的な差異があります。しかし「記憶内容が現実化されるとき、記憶内容と知覚との質的な差異は消え」、「記憶内容としてのイマージュと、イマージュとしての知覚との段階的な差異しか存在」しなくなります。「この混合物のなかでは、もとの質的な差異は見分けられえない」のです。したがって「われわれはまず《経験の曲がり角》の彼方に、さまざまな線、質的な差異をたどるべきであり(二元論)、それから、それよりももっと先の方に、これらの線が集まる点を見つけ、新しい一元論の権利を回復しなくては」なりません。この「統一の地点は、経験の曲がり角の別の側からこの混合物を説明すべきであり、経験のなかでそれと混同されてはならない。そして実際にベルクソンは、記憶内容としてのイマージュとイマージュとしての知覚のあいだには段階的な差異以上のものがあると言うだけでは満足しない。彼はもっと重要な存在論的命題をも提示する。つまり、もしも過去がそれ固有の現在と共存し、さまざまな収縮のレヴェルにおいてそれ自体と共存するならば、われわれは現在そのものが、単に過去の最も収縮したレヴェルであることを認めなくてはならないという命題である。この場合、もはや弛緩と収縮の差異しか持たず、それによって存在論的統一をふたたび見出しているのは、純粋な現在と純粋な過去、純粋な知覚と純粋な記憶内容そのもの、純粋な物質と記憶である。したがって、記憶内容としての記憶の根底に、もっと深い収縮としての記憶を見出すことにより、われわれは新しい一元論の可能性を基礎づけたのである」。
先ほど引用した収縮と弛緩という二つの過程が、ここでドゥルーズが述べている一元論の契機を形作っているのは明らかです(実際「ベルクソンの哲学」第四章全体が「創造的進化」第三章のこの部分の解釈に充てられていると言っても過言ではないほどです)。この収縮―弛緩という考え方はすでに「物質と記憶」に見られます。例えば意識的に知覚することは、限りなく弛緩した存在の何兆もの振動をいくつかの瞬間に収縮することです。収縮という観念を仲介にすれば質とは収縮した量に他なりませんから、質と量の対立を回避することができ、「連続した運動のなかにその一方から他方へと移行する手段を与え」ることができます。他方、「われわれが物質のなかに入って行くのに用いられるわれわれの現在が、われわれの過去の最も収縮した段階のものであるというのが本当であれば、物質そのものが、無限に膨張し、弛緩した過去のようなものになるだろう」。注意しなければならないのは、ここで用いられている過去とか現在という言葉は、時間の前後関係を表しているのではないということです(この点に関して詳述は控えますが、「ベルクソンの哲学」第三章に次のような記述があります。――「過去と現在は、連続する二つの時間を示すのではなく、共存する二つの要素を示している」「こういう考えに似たものでは、プラトンの想起説以外にこれに匹敵するものはない」)。それゆえドゥルーズは、このあと同じことを次のようにも言い換えています。「現在は、過去の最も収縮した段階のものにほかならず、物質は過去の最も弛緩した段階のもの(瞬間的精神menes momentanea)にほかならない」。これを誤解の余地のないように書き換えれば、「現在は持続の最も収縮した段階のものにほかならず、物質は持続の最も弛緩した段階のものにほかならない」となるでしょう。そのような表現が敢えて避けられている(あるいは敢えて上のような表現がなされている)のは、一つには時間のパラドックス(現在と過去は共存している等々)を強調するという意味もあったと思われますが、もう一つの理由は物質を持続に帰属させられるかどうか、個体の(心理的)持続と持続一般との関わりをどう捉えたらよいかということがまさに問題とされているからです。それはさて措き、今度は弛緩という観念を経由することによって、質と量の対立と並ぶもう一つの対立――非延長と延長の対立を乗り越えることができます。「なぜなら、知覚が収縮するものが、まさに延長したもの、弛緩したものである限りにおいて、知覚そのものが延長しており、感覚は延長的であるからである」。
しかしこの問題が厄介なのは、今見たとおり「宇宙全体の性質と、それとのわれわれのつながりに関してわからないものが残って」おり、そのため「現在そのものが、単に過去の最も収縮したレヴェルである」という命題を立証するのが極めて困難だからです。ドゥルーズは持続に関するベルグソンの考え方の変遷を大まかに以下のようにまとめています。「意識に直接与えられているものについての試論」では持続はまず「直接与えられたもの」としての意味を持ちますが、「心理的経験という視点からは、《外在する物は持続するか》という問題は解決されないままで」した。「物質と記憶」では重要かつ決定的な理論の深化が見られます。「運動は物そのものに帰属させられ、その結果、物質的な物は直接に持続を分有して、持続のひとつの極限のケースを作っている。『意識に直接与えられたもの』は超越されている。運動は、自我の内部にも外側にも同じように存在する。そして今度は、自我そのものも、持続のなかでは、ほかのものと同じひとつのケースにすぎなくなる」。このように「物質と記憶」で示された「持続の徹底的な多元性」という考え方は、「創造的進化」では宇宙全体にまで広げられます。「この考え方は、単に存在と私のつながりだけではなく、存在とあらゆる物とのつながりを示している。すべては、あたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのように進行する」。――しかし実は、「創造的進化」ではこの徹底した多元論に一定の制限が加えられています。「つまり、われわれの外側にある物質的な物は、絶対的に異なった持続によって区別されるのではなく、われわれの持続に参加し、それを明確に区分する相対的な仕方によって区別される」という考え方です(砂糖水の比喩が示唆しているのもこの考え方です)。最後に「持続と同時性」では、以上のような徹底した多元論(一般化された多元論)と制限された多元論とを明確に区分した上で、第三の仮説が提示されます。それは「われわれの意識、生命体、物質的世界の全体を含むすべてが参加する唯一の時間、唯一の持続だけがあるという仮説」(一元論)です。これは「一般化された多元論」と「制限された多元論」と同じ種類の仮説というより、寧ろこの二つの仮説を矛盾なく連結し、包括する仮説というべきでしょう。「ベルクソンのすべてのテーゼは、それらの諸部分(質的に異なる諸要素に分割された持続)は、唯一の時間というパースペクティヴのなかでのみ生きうるものであり、あるいは体験されうるものであることを立証することにある」。そしてドゥルーズによれば、「逆説的ではあるが、ベルクソンの立証を明白で納得できるものにすることを可能にするのは、この相対性理論だけ」だというのです。しかし主題として前面に出ることはなかったにせよ、「物質と記憶」や「創造的進化」でも隠れた主題として一元論への試行錯誤が続けられていたことは間違いのないところです(特に「創造的進化」で多元論に制限が加えられたことの底に、一元論への志向が透けて見えます)。それらの試みと「持続と同時性」の理論との間にはどんな違いがあるのか、相対性理論がベルグソンの説の正当性ををある意味で証明しているとはどういうことなのか、非常に興味深い問題ではありますが、それを論じるだけの準備ができていないのでここでは割愛します。
以上のようなやや場違いな解説を唐突に挟んだのは、ここから議論がどこへ向かい、ベルグソンが何を立証しようとしているのかがわかりづらいと思ったからです。しかし十分な説明もせず引用を継ぎ接ぎしただけなので、余計わかりにくくなってしまったかもしれません。さしあたり念頭に置いておきたいのは、「自我そのものも、持続のなかでは、ほかのものと同じひとつのケースにすぎな」いということ、「われわれの持続が一層拡散した持続と、一層緊張し、強度の大きい持続とのあいだにはさまれている」ということです。心理的経験に留まっている限り、「一層拡散した持続」も、「一層緊張し、強度の大きい持続」も把握することはできないでしょう。それらを把握するためには、直観によって経験を拡大し、(経験を生み出している)「経験の諸条件」(「ベルクソンの哲学」第一章)へ向かう必要があります。ベルグソンは収縮から弛緩への移行を今度は延長という観点から以下のように描写しています。
「純粋持続におけるわれわれの進展を意識すればするほど、われわれの存在の様々な部分が互いに入り込んでいき、われわれの人格全体が、ある点、むしろある先端に集中するのを、われわれはより強く感じる。この先端は絶えず未来に切り込みながら、みずからを未来に挿入していく。このことに自由な生と自由な行為は存している。逆になすがままに身を任せてみよう。行動する代わりに、夢見てみよう。それと同時に、われわれの自我は散り散りになる。われわれの過去は、それまでわれわれに伝えていた不可分な衝動において自分自身に寄り集まっていたが、今や、互いに外在化し合う幾千もの記憶へとみずからを分解する。記憶は凝固するにつれて、互いに浸透し合うのをやめる。このようにして、われわれの人格性は空間の方へ降りていく。それに感覚においては、われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」。
持続という観点と延長(拡がり)という観点から見た二つの記述を比べてみると、問題は単純そうに見えて実は非常に複雑な構造を持っていることに気付かされます。この問題は「物質と記憶」の記憶理論と密接に関係しているのですが、困ったことに、記憶理論を避けて通ったためそれを説明に活かすことができません。さりとてここで一から記憶理論の詳細を見ていくわけにもいかないので、再びドゥルーズの解説から必要な部分のみ引用することにします。
説明を最大限簡略化するために、まず有名な「記憶の円錐体」の図を示します(下図参照。ただし図は静的なイメージであるため、理解を助ける反面誤解を招きやすい弊害もあります)。「もし円錐形SABによって私の記憶力に蓄積された記憶の全体をあらわすとすれば、底面ABは過去に位して不動のままであるのにたいし、あらゆる瞬間に私の現在をあらわす頂点Sは不断に前進し、宇宙にかんする私の現実的表象である運動面Pに、やはりまた不断に接触する。Sには身体のイマージュが集中する。またこのイマージュはPの一部をなしていて、平面を構成するすべてのイマージュから出てくる作用を、受けたり返したりするにとどまる」(「物質と記憶」第三章)。
またこの円錐体には記憶の収縮の度合いに応じて無数の断面が存在します。「S点であらわされる感覚=運動機構とABに配置される記憶の全体とのあいだには、(中略)私たちの精神生活の無数の反復の余地があり、そのいずれも同じ円錐形A´B´、A´´B´´等々の断面であらわされる、ということになる。私たちは、感覚的、運動的状態から脱して夢想の生活に生きるにつれ、ABへと拡散する傾向をもつし、感覚的刺激に運動的反作用で反応しながら、現在の現実につよく執着すればするほど、Sに集中する傾向をもつ」(同上)。
この円錐体が表しているのは過去と現在の「潜在的共存」であり、「あらゆるレヴェルでの、あらゆる緊張での、収縮と弛緩のあらゆる段階での、自己自身との共存」(「ベルクソンの哲学」第三章)です。「今や、純粋な記憶内容がどのようにして心理的実在となり、この純粋に潜在的なものがどのようにして現実化されるかということがわれわれの問題である」。記憶内容が現実化されるためには、「記憶内容への呼び掛けと、《イマージュの想起》という二つの異なった過程が必要です。「記憶内容への呼び掛けは、収縮の或るレヴェルにおいて、私が潜在的なもの・過去・過去のある領域のなかに身を置くところの飛躍である。われわれはこの呼び掛けが、人間、あるいはむしろ記憶の真に存在論的な次元を表現していると考える」。この段階では「記憶内容はまだ潜在的状態に留まって」おり、「心理的意識はまだ生まれて」いません。「これに対して、われわれが喚起またはイマージュの想起について語るときは、全く別のことが問題とされている。つまりわれわれが、記憶内容の存在しているレヴェルに身を置いた場合だけ、それらの記憶内容は現実化されようとするのである。現在の呼び掛けの下では、それらの記憶内容は、その純粋な記憶内容としての特徴を示す非効果性・非移行性をもはや持っていない。それらの記憶内容は、《想起》されることのできる、記憶内容としてのイマージュになる。それらの記憶内容は、現実化または具体化されるのである」(同上)。
この記憶が現実化される「イマージュの想起」の過程を、ベルグソンは次のように説明しています。「《全体的な記憶は、現在の状態からの呼び掛け(これは「記憶内容への呼び掛け」とは別のものです)に対して、二つの同時的運動で対応する。ひとつは置換(translation)の運動であって、それによって全体的な記憶は、すべて経験の前面に位置し、分割されることなしに、行動のために多かれ少なかれ収縮する。もうひとつは、それ自体に対する回転の運動である。それによって全体的記憶は、その時の状況に向かい、最も有効な面をそこに提示する》(「ベルクソンの哲学」内での「物質と記憶」からの引用)」。「この収縮=置換は、すでに述べた過去の領域とレヴェルの可変的収縮と混同できるかというのがわれわれの問いである」。ドゥルーズによると、「二つの収縮のあいだには確かにつながりがあるが、両者は決して混同され(るべきでは)ないもの」です。何故なら「ベルクソンが過去のさまざまなレヴェルまたは領域について語るとき、それらのレヴェルは過去一般に劣らず潜在的である。さらに、おのおののレヴェルはすべての過去を含むが、しかしそれは可変的ないくつかの支配的な記憶内容のまわりで、多かれ少なかれ収縮した状態においてである。したがって、多かれ少なかれ大きな収縮は、ひとつのレヴェルと別のレヴェルとの差異を表現している。――これに対して、ベルクソンが(収縮=)置換について語るときは、特定のレヴェルで把握されたひとつの記憶内容の現実化のなかでの必要な運動が問題とされている。ここでは、もはや収縮は二つの潜在的レヴェルの存在論的差異を表現せず、ひとつの記憶内容が(心理的に)現実化される運動と、それと同時に、この記憶内容に固有のレヴェルとを表現している」(同上)。
したがって「ひとつの記憶内容が、現実化されるためにしだいに収縮したもろもろのレヴェルを経由して、円錐体の最高の収縮点または頂点としての現在に接近すべきだと考えるのは、実際には誤解であろう」。「なぜなら、それぞれの記憶内容には、それ固有のレヴェルがあるからである。そのレヴェルは、より大きな領域ではあまりにもばらばらで分散しており、もっと狭い領域ではあまりに閉じ込められ混同されている。したがって、ひとつの記憶内容を現実化するために、ひとつのレヴェルから別のレヴェルへと移行すべきであるとするならば、それぞれの記憶内容はその個体性を失うことになろう」。「記憶内容はそれを実在化する《意識の諸面》を経由する。しかしそれは(まさに実在化が妨げられるような)中間的なレヴェルを決して経由しない。そこから、記憶内容が現実化される意識の諸面と、それによってつねに潜在的な記憶内容の状態が変化する、過去のもろもろの領域・断面またはレヴェルとを混同しないことが必要になる。収縮したものにせよ弛緩したものにせよ、すべてのレヴェルが潜在的に共存する存在論的な強度の大きい収縮と、それぞれの記憶内容が(たとえどんなに弛緩しているにせよ)そのレヴェルで、現実化され、イマージュとなるために経由しなくてはならない、心理的・置換的収縮とを区別する必要はここから出てくる」(同上)。
記憶の現実化の過程では置換の運動と同時に、収縮した記憶が現在の状況にとって「おのれの《役に立つ面》を示す」回転(自転)の運動も行われます。「物質と記憶」には回転の運動に関する具体的な説明はないので、ドゥルーズは「知的な努力」(「精神のエネルギー」所収)の分析を元にこの回転の運動を説明しています。「知的な努力」の論旨は、様々な要素(記憶の現実化の場合には「現実化されつつあるすべての記憶内容」)が相互に浸透し合っている抽象的な表象(ベルグソンはこれを「動的図式」と名付けます)が具体的なイメージに展開される場合にのみ努力の感情が生まれる、ということにあります。「そしてわれわれはこの表象を、たがいに外的で、特定の記憶内容に対応する明確なイマージュに発達させる。ここでもまた、ベルクソンは《意識の諸面》の継起について語る。しかし、運動はもはや分割されない収縮の運動ではなく、逆に、分割・発達・膨張の運動である。記憶内容は、イマージュになるとき以外は、現実化されていると言われることはできない。実際、その場合にこの記憶内容は、現在との《融合》に入るのみでなく、現在との一種の回路に入り、記憶内容としてのイマージュが知覚としてのイマージュに、またその逆方向にと戻って行くのである。そこから、この回路の運動を準備する《回転》という、先に述べた隠喩が出てくる」(同上)。
「意識の諸面」を経由する収縮と膨張(弛緩と同義と考えてよいでしょう)というこれら二つの運動は、記憶の円錐体における収縮―弛緩と同じものではありません。が、「円錐体のさまざまのレヴェルと、それぞれのレヴェルにとっての現実化の局面との間には、密接なアナロジーがある」。その結果、ある円錐体のレヴェルはそのレヴェルの現実化の局面によっていわば掩われ、両者は混同されてしまいがちです。「しかしわれわれは両者を混同してはならない。なぜなら、第一のテーマは、即自的な記憶内容の潜在的変化にかかわるものであり、第二のテーマは、われわれにとっての記憶内容、つまり記憶内容が記憶内容としてのイマージュに現実化されることにかかわるからである」(同上)。
以上の点を踏まえて、もう一度収縮と弛緩に関する記述を見直してみましょう。心的な存在は収縮の方向に、物理的存在は弛緩の方向に傾いており、「一方で「精神性」の底に、他方で理知性を伴った「物質性」の底に、反対の方向を持つ二つの過程が存在する」とベルグソンは述べています。ところが円錐体の図をイメージするとき、ややもすると収縮と弛緩がそれぞれ一方通行的な流れであると思い込んでしまいがちです。言い換えると収縮の際には弛緩は存在せず、弛緩の際には収縮は存在しないと錯覚してしまうのです。ベルグソンがわざわざ「反対の方向を持つ二つの過程が存在する」と書いているのは、そういう錯覚を防ぐ意味があったのではないかと思われます。「結局、重要なことは、弛緩と収縮がいかに相対的であり、またいかにたがいに相対的かを知ることである。(中略)われわれがこのようにして収縮させるもの、《緊張》させるものは、物質であり、延長である。(中略)延長されたものは、そのなかで弛緩している収縮と不可分であるため、まだ質化されている。そして物質は十分に弛緩することがないので、純粋な空間とはならず、この最小限の収縮を捨てることがない。この最小限の収縮によって物質は持続に参加し、持続なのである」(「ベルクソンの哲学」第四章)。収縮されるのは弛緩したものであり、弛緩するのは収縮されたものです。記憶の円錐体が表現しているのはあらゆる収縮と弛緩のこの完璧な均衡です。そこではどのレヴェルにおいても他のより収縮したレヴェルが欠けることはなく、より弛緩したレヴェルが欠けることもありません。すべてが潜在的に共存しており、したがってまた持続において連続しています。社会生活における様々な状況を的確に判断し適切な対応をとるためには、つまり健康な精神生活を営むためには、「意識の諸面」を含むピラミッド(存在論的次元を表す円錐体と区別する意味でこの「ピラミッド」という言葉は使われています)の頂点に近い「行動の平面」と、底面に近い「夢想の平面」という二つの極限の間を絶えず往来する必要があります。そしてその際、もっと深い「存在論的次元」では円錐体が最大限収縮した状態にあるという事実を見過ごしてはならないでしょう。これと対照的に「行動の平面」か「夢想の平面」かどちらか一方のみに固執するとき、存在論的次元ではそれぞれに対応した円錐体のレヴェル(頂点に近いかまたは底面に近いレヴェル)しか存在しないかのように、収縮か弛緩かいずれか一方しか存在しないかのようにすべてが進行します。たとえば頂点に近い「行動の平面」に身を置くとき、あたかも弛緩が不可能になったかのように、過去の最も収縮したレヴェル「だけ」しか存在しなくなったかのように事態は進行します。そこでは最早記憶の助けを借りることはできず、まるで自動人形のように刺激が自動的な反応を惹き起こすのみです。反対に底面に近い「夢想の平面」に身を置くとき、「すべてはあたかも収縮が存在しないかのように、現在との記憶内容の極度に弛緩した関係が、過去そのものの最も弛緩したレヴェルを再生するかのように進行」(「ベルクソンの哲学」第三章)します。そこでは頂点と分断され感覚=運動機能に接続することができないため行動の足場が失われ、夢を見ているかのように記憶が気まぐれに再生されるだけでしょう。このように精神生活を極端に単純化したケースを例にとって考えると、逆に通常の精神生活においてはいかに収縮と弛緩の複雑な処理が無意識のうちになされているかを推し量ることができます。そして無意識そのものも、「純粋な、潜在的な、無感覚の、活動をしない、即自的な、純粋な記憶内容」を表す「存在論的無意識」と、「現実化されつつある記憶内容の運動」を表す「心理的無意識」とに分けて考えなければならないことも理解することができます。「区別された二つの無意識についての二つの記述のあいだには、いかなる矛盾もない。さらに、『物質と記憶』全体が、この二つの記述のあいだで動いているのであって、その結果の分析がわれわれに残された仕事である」(「ベルクソンの哲学」第三章)。
そこで次に、持続の観点から見た収縮―弛緩と延長の観点から見た収縮―弛緩とを再度比較してみましょう。まずは持続の観点から見た収縮と弛緩について。
「われわれが有する、最も外部から切り離されると同時に最も知性性が浸透していないものに集中してみよう。われわれ自身の最も深い所で、われわれが最も自分自身の生の内側にいると感じる点を探してみよう。そのとき、われわれは、純粋持続に再び身を浸す。その持続では、常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく。しかし、同時に、われわれの意志のばねが極限まで緊張するのをわれわれは感じる。われわれの人格をそれ自身へと暴力的に収縮することによって、逃げ出る過去をかき集めて、凝縮した不可分な状態のまま、現在に押し込まなければならないのだが、この現在はというと、過去がそこにみずからを差し込むことで創造することになるものなのだ。(中略)今度は、みずからを弛緩させ、過去を可能な限り現在に押し込む努力を中断してみよう。もしこの弛緩が完全になったら、記憶も意志ももはや存在しないだろう。つまり、われわれは、決してこの絶対的な受動性に陥ることはないし、自分を絶対的に自由にすることもできないのである。しかし、極限でわれわれは、絶えず新たに始まるような現在から成る存在を垣間見る。そこには、もはや実在的な持続はなく、無際限に死と再生を繰り返す瞬間しか存在しない」。
次に延長の観点から見た収縮と弛緩について。
「純粋持続におけるわれわれの進展を意識すればするほど、われわれの存在の様々な部分が互いに入り込んでいき、われわれの人格全体が、ある点、むしろある先端に集中するのを、われわれはより強く感じる。この先端は絶えず未来に切り込みながら、みずからを未来に挿入していく。このことに自由な生と自由な行為は存している。逆になすがままに身を任せてみよう。行動する代わりに、夢見てみよう。それと同時に、われわれの自我は散り散りになる。われわれの過去は、それまでわれわれに伝えていた不可分な衝動において自分自身に寄り集まっていたが、今や、互いに外在化し合う幾千もの記憶へとみずからを分解する。記憶は凝固するにつれて、互いに浸透し合うのをやめる。このようにして、われわれの人格性は空間の方へ降りていく。それに感覚においては、われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」。
上の二つの記述を重ね合わせるとどうなるでしょうか。「常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく」ということは、延長という観点からすると、最初イマージュの総体の中にあり、自己を限定することによって身体を人格の中心として選び取った知覚に記憶が混入し、現在の経験が過去の経験によって豊富化されるということです。また知覚は生まれかけの行動であり、記憶の先端(現在)を表す身体は「みずからを未来に挿入」することによってイマージュの総体の中における「行動の道具」としての役割を担います。一方継起する知覚はまた「どんなに速やかであるとしても、持続の一定の厚みを占め」(「物質と記憶」第一章)ています。それらの知覚がおのおの非連続的なもの、互いに異質なものとして現れるのは、「記憶力がそこに莫大な数の震動(「意識と生命」ではわかりやすく「ものの持続」とも表現されています)を圧縮していて、これらは継起的であるにもかかわらず全部いっしょに私たちにあらわれる」(同上)からです。この「莫大な数の震動を圧縮してい」る記憶力が弛緩した場合、過去が現在に引き継がれることはなくなり、互いに連関を失った瞬間が無際限に現れては消えていきます。それはすなわち「過去そのものの最も弛緩したレヴェル」の再生、外在化し凝固した記憶のランダムな再生に他なりません。同時に非連続的で互いに異質なものとして現れていた知覚(延長的感覚)は圧縮から解放されることによって多数の瞬間にほどけ(「われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」と表現されているのは恐らくこの局面だと思われます)、物質は元の状態――無数の同質的な震動の体系に戻ろうとするでしょう。――持続の観点と延長の観点を重ね合わせたときに見えてくる光景はおおよそ以上のようなものです。
(ちなみに最後の局面、物質が「私たちの延長的感覚が多数の瞬間に配分されればされるほど同質的になり、実在論の語るあの同質的な震動の体系に、けっして完全に一致しないことは確かだが、限りなく近づいていく」局面は、量子力学のパラドックスと似ている面があります。というのも一見主観が客観的状態に影響を与えている、もしくは客観的状態が主観に依存しているように見えるからです。しかし延長的感覚は純粋な主観の線の上に属するものではなく、客観性と主観性という「二つの線の交叉に依存して」(「ベルクソンの哲学」第三章)います)
(つづく)
一口に科学といっても古代の科学と近代以降の科学を同列に論じることはできませんが、ここでは当然近代以降の科学に話を限るとして、科学に対する態度として最も一般的なのは現象の考察は科学に一任し、科学の提供する事実や法則をそっくりそのまま受け取るというものでしょう。比喩として適切かどうかはともかく、言ってみれば捜査は警察官に任せ、自らは指揮をとったり最終的な判断を下したりといった立場に徹するというものです。ところが事実問題は科学が取り扱い、原理問題のみを哲学が取り扱うといった役割分担は科学と哲学双方にとって利益にならず、混乱しか生み出さない、とベルグソンはいいます。何故なら原理は事実の記述や分析の内にすでに含まれており、捜査ならぬ学問の分野においては事実問題に関わることなしに原理を取り出すことはできないからです。したがって哲学は自ら原理を案出したつもりでも、実は事実の記述や分析に含まれていた原理を科学から受け取り、それを哲学的言語に翻訳しているに過ぎません。ところで科学は紛れもなく純粋な知性の産物であり、知性とは「物質を物質に作用させる」機能だとすれば、科学は物質に働きかけること、つまり広い意味で行動を目指したものだということができます。科学が純粋に認識を目指しているように見えたとしても、それはそのように見えるだけで、最終的に有用性を目指さない科学はありません。この有用性が確かであればあるほど、科学の提供する知識もまた明晰さを増していくと言えるでしょう。逆に化学・生理学・生物学・心理学と有用性が不確かなものになっていくとき、科学の提供する知識は徐々に明晰さを失い、絶対的な真理であることをやめて象徴的な真理になっていきます。「この(象徴的な)真理は、われわれがその外的側面しか検討しないことにアプリオリに取り決めているある対象へと物理学を拡張したものにすぎないから、物理学的な真理と同じ価値を持ちえない」のです。その結果哲学は科学の提供する知識の見かけだけの統一性を絶対的なものとして受け入れる独断論か、「科学の結果のいくつかが持つ人為的(象徴的)な性格を、科学の結果すべてに普遍化し拡張する」懐疑論の間を往ったり来たりするほかありません。事実問題に介入しようとせず、科学との競合を避けようとしたがために、かえって堂々巡りを余儀なくされる結果になったのです。「この本物の循環は、まずアプリオリにある統一を措定しながらも、その統一を形而上学のうちに苦労して再び見出すことであって、この統一はというと、経験全体を科学に、実在的なもの全体を純粋悟性に委ねたというただそのことによって、盲目的に、無意識的に認められたものなのだ」。このような悪循環に陥らないためには、哲学も最初から事実問題に主体的に介入する(先の比喩で言えば水の中に飛び込む)必要があります。それはむろん科学と覇権を競うためでもなければ、科学とは別の独自な認識を得るためでもありません。科学とともに経験の同じ土俵に降り立つためです。「このようにして、哲学は経験の領域に侵入する。それまでは係りがなかった多くのものに、哲学は介入する。科学、認識論、形而上学は同じ領域に導かれることになる」。同じ土俵に立って事実の分析を進めると、互いに対立する二つの原理におのずと辿り着きます。一方の極では科学は絶対(物質=空間)に触れていますが、他方の極に近づけば近づくほど科学の知識は象徴的なものになっていきます。「それゆえ、この新しい領域で、哲学は科学のあとを辿って、科学的真理に、形而上学的と呼べるような別の種類の知識を重ね合わせねばならないだろう」。この新しい領域において科学のあとを正確に辿れば辿るほど、哲学は科学から実証性という恩恵を受けつつ、もう一方の極に身を移して絶対(持続=時間)に触れることができます。逆に哲学は「その周辺部において(周辺部というのは持続の対極という意味でしょうが)、科学に有益な影響を及ぼす」(「思想と動くもの」緒論)でしょう。科学と哲学は表裏一体のものであり、「科学と哲学が結び付いて漸進的に発達することによって」、経験の全体を科学に委ねることによって措定された「まがい物の統一」の代わりに、「自然の内的で生き生きとした真の統一」、統一というより二つの原理が共存している源泉を見出すことができるでしょう。
(実際「近世の哲学者で、ベルグソンほど、その表現に、科学の成果、その徹底した抽象性を利用」(「感想」)した人はいません。のみならず、これまで何度か取り上げたように彼は相対性理論を論じた一冊の著作を物しています。この著作(持続と同時性)は、「(ベルンハルト)リーマンに密接に依存している相対性理論に対して、ベルクソンが自分の理論を対決させている著作である」、とドゥルーズは述べています。もっとも仕方がないといえば仕方のないことですが、「持続と同時性」を読んだアインシュタインはほとんど興味を示さず(というより完全に黙殺したと言った方がいいかもしれません)、この本をめぐってなされたベルグソンと相対論者との一種の論争も科学の側にとって実りあるものにはならなかったようです。相対性理論そのものが理解できていない僕にはこの問題を語る資格はないのですが、上記のことから推察すると、相対性理論のどの点までが実在的で、どの点が「象徴的」かを検証することにこの著作の目的の一つがあったのではないかと想像します)
以上はいわば予備的な考察で、ここから「創造的進化」の最も核心的な部分に入っていきます。それは次のような呼びかけで始まっています。
「そこで、われわれが有する、最も外部から切り離されると同時に最も知性性が浸透していないものに集中してみよう。われわれ自身の最も深い所で、われわれが最も自分自身の生の内側にいると感じる点を探してみよう。そのとき、われわれは、純粋持続に再び身を浸す。その持続では、常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく。しかし、同時に、われわれの意志のばねが極限まで緊張するのをわれわれは感じる。われわれの人格をそれ自身へと暴力的に収縮することによって、逃げ出る過去をかき集めて、凝縮した不可分な状態のまま、現在に押し込まなければならないのだが、この現在はというと、過去がそこにみずからを差し込むことで創造することになるものなのだ。われわれがここまで自分自身を取り戻す瞬間は非常にまれである。このような瞬間は、真に自由なわれわれの行動と一体化している。しかし、そのときでさえ、決してわれわれは自分自身全体を手にしてはいない。持続についてのわれわれの感情――われわれの自己の自分自身との一致と言いたいところだが――には、様々な度合いがあるのだ」。
先行するベルグソンの著作(「意識に直接与えられているものについての試論」・「物質と記憶」)を読んでいないと、このように言われてもピンと来ないかもしれません。具体的にどんな行為を思い浮かべればいいか見当のつかない人もいるでしょう。そんなことを考えながら寝る前にたまたま開いた本のページにこんな記述がありました。それは小林秀雄が河上徹太郎全集に寄せた短い文章の中で、ヴァレリーの「ドガ・ダンス・デッサン」に触れている箇所です。
「ヴァレリイの考えの中心は、鉛筆を手にしないで或る物を見る人と、それを描こうとして同じ物を見る人とは全く異った物を見ていると断言するところにある。画家がモデルを見る時、彼の眼は完全に描こうとする意志に支えられたものとなっている。日常生活では、誰もそんな風には眼を使っていない。眼は、私と物とを仲介する役割を務めているに過ぎず、私を指導する力は持たぬ。モデルを前にした画家が、我しらずと言っていゝほど自然に、眼の機能の大きな転換を行うのは注目すべき事だ。何故かと言うと、さんざん見慣れてよく知っていると思っていたモデルの形に、デッサンを仕上げてみて、思い掛けぬ新しい形を見附けて、先ず驚くのは当の画家自身だからである」(「白鳥・宣長・言葉」所収「河上君の全集」)。
もちろんこれは一例に過ぎず、別の例を挙げることもできるでしょう。身近なところでは文章を書く、という行為もこれに該当します。
話を元に戻すと、このような意志的行為(自由)の特徴は世界に新しいものを付け加え、質を生み出すことにあります。逆に「知性の本質的な機能は、同じものを同じものに結び付けることであり、反復される事実以外には、知性の枠組みに完全に合わせることができるものは」ありません。したがって知性あるいは物質を与えられたものとして措定することは世界から自由の可能性や質を排除するのと同じことです。知性が自由の問題を扱うと、必然的に決定論に導かれる理由もここにあります。自由が疑いようのない事実であるなら、物質と知性を創造の過程に組み込む、つまり物質と知性の「発生」を説明する必要があります(ベルグソンが様々な表現で繰り返し物質と知性の「発生」に言及しているのはそのためです)。
反対に「今度は、みずからを弛緩させ、過去を可能な限り現在に押し込む努力を中断してみよう。もしこの弛緩が完全になったら、記憶も意志ももはや存在しないだろう。つまり、われわれは、決してこの絶対的な受動性に陥ることはないし、自分を絶対的に自由にすることもできないのである。しかし、極限でわれわれは、絶えず新たに始まるような現在から成る存在を垣間見る。そこには、もはや実在的な持続はなく、無際限に死と再生を繰り返す瞬間しか存在しない」。
この文章では「弛緩」と集中の「中断」が便宜上別のものとして表現されていますが、実は「弛緩」と「中断」は同義であり、むしろ集中の中断が弛緩をもたらすと言った方が適切です。たとえばゴム紐を思い浮かべてみればよくわかるように、ゴムを引っ張って伸ばすには労力と時間が必要ですが、弛緩させるには労力も時間も必要ありません。ゴムを掴んでいた手をただ単に離せばいいからです。持続の観点から見ると、このように方向が逆の二つの過程――集中(収縮)と弛緩が存在します。「心的な存在が第一の方向(収縮)へ傾くのと同様に、物理的存在はこの第二の方向(弛緩)へ傾いていると推測することができ」ます。
ところでドゥルーズは「ベルクソンの哲学」第四章(持続は一か多か)で、ベルグソンの方法の一元論的な側面と二元論的な側面がどのように結び付いているかを論じています。対象と主体、知覚と記憶内容、物質と記憶、現在と過去のあいだには質的な差異があります。しかし「記憶内容が現実化されるとき、記憶内容と知覚との質的な差異は消え」、「記憶内容としてのイマージュと、イマージュとしての知覚との段階的な差異しか存在」しなくなります。「この混合物のなかでは、もとの質的な差異は見分けられえない」のです。したがって「われわれはまず《経験の曲がり角》の彼方に、さまざまな線、質的な差異をたどるべきであり(二元論)、それから、それよりももっと先の方に、これらの線が集まる点を見つけ、新しい一元論の権利を回復しなくては」なりません。この「統一の地点は、経験の曲がり角の別の側からこの混合物を説明すべきであり、経験のなかでそれと混同されてはならない。そして実際にベルクソンは、記憶内容としてのイマージュとイマージュとしての知覚のあいだには段階的な差異以上のものがあると言うだけでは満足しない。彼はもっと重要な存在論的命題をも提示する。つまり、もしも過去がそれ固有の現在と共存し、さまざまな収縮のレヴェルにおいてそれ自体と共存するならば、われわれは現在そのものが、単に過去の最も収縮したレヴェルであることを認めなくてはならないという命題である。この場合、もはや弛緩と収縮の差異しか持たず、それによって存在論的統一をふたたび見出しているのは、純粋な現在と純粋な過去、純粋な知覚と純粋な記憶内容そのもの、純粋な物質と記憶である。したがって、記憶内容としての記憶の根底に、もっと深い収縮としての記憶を見出すことにより、われわれは新しい一元論の可能性を基礎づけたのである」。
先ほど引用した収縮と弛緩という二つの過程が、ここでドゥルーズが述べている一元論の契機を形作っているのは明らかです(実際「ベルクソンの哲学」第四章全体が「創造的進化」第三章のこの部分の解釈に充てられていると言っても過言ではないほどです)。この収縮―弛緩という考え方はすでに「物質と記憶」に見られます。例えば意識的に知覚することは、限りなく弛緩した存在の何兆もの振動をいくつかの瞬間に収縮することです。収縮という観念を仲介にすれば質とは収縮した量に他なりませんから、質と量の対立を回避することができ、「連続した運動のなかにその一方から他方へと移行する手段を与え」ることができます。他方、「われわれが物質のなかに入って行くのに用いられるわれわれの現在が、われわれの過去の最も収縮した段階のものであるというのが本当であれば、物質そのものが、無限に膨張し、弛緩した過去のようなものになるだろう」。注意しなければならないのは、ここで用いられている過去とか現在という言葉は、時間の前後関係を表しているのではないということです(この点に関して詳述は控えますが、「ベルクソンの哲学」第三章に次のような記述があります。――「過去と現在は、連続する二つの時間を示すのではなく、共存する二つの要素を示している」「こういう考えに似たものでは、プラトンの想起説以外にこれに匹敵するものはない」)。それゆえドゥルーズは、このあと同じことを次のようにも言い換えています。「現在は、過去の最も収縮した段階のものにほかならず、物質は過去の最も弛緩した段階のもの(瞬間的精神menes momentanea)にほかならない」。これを誤解の余地のないように書き換えれば、「現在は持続の最も収縮した段階のものにほかならず、物質は持続の最も弛緩した段階のものにほかならない」となるでしょう。そのような表現が敢えて避けられている(あるいは敢えて上のような表現がなされている)のは、一つには時間のパラドックス(現在と過去は共存している等々)を強調するという意味もあったと思われますが、もう一つの理由は物質を持続に帰属させられるかどうか、個体の(心理的)持続と持続一般との関わりをどう捉えたらよいかということがまさに問題とされているからです。それはさて措き、今度は弛緩という観念を経由することによって、質と量の対立と並ぶもう一つの対立――非延長と延長の対立を乗り越えることができます。「なぜなら、知覚が収縮するものが、まさに延長したもの、弛緩したものである限りにおいて、知覚そのものが延長しており、感覚は延長的であるからである」。
しかしこの問題が厄介なのは、今見たとおり「宇宙全体の性質と、それとのわれわれのつながりに関してわからないものが残って」おり、そのため「現在そのものが、単に過去の最も収縮したレヴェルである」という命題を立証するのが極めて困難だからです。ドゥルーズは持続に関するベルグソンの考え方の変遷を大まかに以下のようにまとめています。「意識に直接与えられているものについての試論」では持続はまず「直接与えられたもの」としての意味を持ちますが、「心理的経験という視点からは、《外在する物は持続するか》という問題は解決されないままで」した。「物質と記憶」では重要かつ決定的な理論の深化が見られます。「運動は物そのものに帰属させられ、その結果、物質的な物は直接に持続を分有して、持続のひとつの極限のケースを作っている。『意識に直接与えられたもの』は超越されている。運動は、自我の内部にも外側にも同じように存在する。そして今度は、自我そのものも、持続のなかでは、ほかのものと同じひとつのケースにすぎなくなる」。このように「物質と記憶」で示された「持続の徹底的な多元性」という考え方は、「創造的進化」では宇宙全体にまで広げられます。「この考え方は、単に存在と私のつながりだけではなく、存在とあらゆる物とのつながりを示している。すべては、あたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのように進行する」。――しかし実は、「創造的進化」ではこの徹底した多元論に一定の制限が加えられています。「つまり、われわれの外側にある物質的な物は、絶対的に異なった持続によって区別されるのではなく、われわれの持続に参加し、それを明確に区分する相対的な仕方によって区別される」という考え方です(砂糖水の比喩が示唆しているのもこの考え方です)。最後に「持続と同時性」では、以上のような徹底した多元論(一般化された多元論)と制限された多元論とを明確に区分した上で、第三の仮説が提示されます。それは「われわれの意識、生命体、物質的世界の全体を含むすべてが参加する唯一の時間、唯一の持続だけがあるという仮説」(一元論)です。これは「一般化された多元論」と「制限された多元論」と同じ種類の仮説というより、寧ろこの二つの仮説を矛盾なく連結し、包括する仮説というべきでしょう。「ベルクソンのすべてのテーゼは、それらの諸部分(質的に異なる諸要素に分割された持続)は、唯一の時間というパースペクティヴのなかでのみ生きうるものであり、あるいは体験されうるものであることを立証することにある」。そしてドゥルーズによれば、「逆説的ではあるが、ベルクソンの立証を明白で納得できるものにすることを可能にするのは、この相対性理論だけ」だというのです。しかし主題として前面に出ることはなかったにせよ、「物質と記憶」や「創造的進化」でも隠れた主題として一元論への試行錯誤が続けられていたことは間違いのないところです(特に「創造的進化」で多元論に制限が加えられたことの底に、一元論への志向が透けて見えます)。それらの試みと「持続と同時性」の理論との間にはどんな違いがあるのか、相対性理論がベルグソンの説の正当性ををある意味で証明しているとはどういうことなのか、非常に興味深い問題ではありますが、それを論じるだけの準備ができていないのでここでは割愛します。
以上のようなやや場違いな解説を唐突に挟んだのは、ここから議論がどこへ向かい、ベルグソンが何を立証しようとしているのかがわかりづらいと思ったからです。しかし十分な説明もせず引用を継ぎ接ぎしただけなので、余計わかりにくくなってしまったかもしれません。さしあたり念頭に置いておきたいのは、「自我そのものも、持続のなかでは、ほかのものと同じひとつのケースにすぎな」いということ、「われわれの持続が一層拡散した持続と、一層緊張し、強度の大きい持続とのあいだにはさまれている」ということです。心理的経験に留まっている限り、「一層拡散した持続」も、「一層緊張し、強度の大きい持続」も把握することはできないでしょう。それらを把握するためには、直観によって経験を拡大し、(経験を生み出している)「経験の諸条件」(「ベルクソンの哲学」第一章)へ向かう必要があります。ベルグソンは収縮から弛緩への移行を今度は延長という観点から以下のように描写しています。
「純粋持続におけるわれわれの進展を意識すればするほど、われわれの存在の様々な部分が互いに入り込んでいき、われわれの人格全体が、ある点、むしろある先端に集中するのを、われわれはより強く感じる。この先端は絶えず未来に切り込みながら、みずからを未来に挿入していく。このことに自由な生と自由な行為は存している。逆になすがままに身を任せてみよう。行動する代わりに、夢見てみよう。それと同時に、われわれの自我は散り散りになる。われわれの過去は、それまでわれわれに伝えていた不可分な衝動において自分自身に寄り集まっていたが、今や、互いに外在化し合う幾千もの記憶へとみずからを分解する。記憶は凝固するにつれて、互いに浸透し合うのをやめる。このようにして、われわれの人格性は空間の方へ降りていく。それに感覚においては、われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」。
持続という観点と延長(拡がり)という観点から見た二つの記述を比べてみると、問題は単純そうに見えて実は非常に複雑な構造を持っていることに気付かされます。この問題は「物質と記憶」の記憶理論と密接に関係しているのですが、困ったことに、記憶理論を避けて通ったためそれを説明に活かすことができません。さりとてここで一から記憶理論の詳細を見ていくわけにもいかないので、再びドゥルーズの解説から必要な部分のみ引用することにします。
説明を最大限簡略化するために、まず有名な「記憶の円錐体」の図を示します(下図参照。ただし図は静的なイメージであるため、理解を助ける反面誤解を招きやすい弊害もあります)。「もし円錐形SABによって私の記憶力に蓄積された記憶の全体をあらわすとすれば、底面ABは過去に位して不動のままであるのにたいし、あらゆる瞬間に私の現在をあらわす頂点Sは不断に前進し、宇宙にかんする私の現実的表象である運動面Pに、やはりまた不断に接触する。Sには身体のイマージュが集中する。またこのイマージュはPの一部をなしていて、平面を構成するすべてのイマージュから出てくる作用を、受けたり返したりするにとどまる」(「物質と記憶」第三章)。
またこの円錐体には記憶の収縮の度合いに応じて無数の断面が存在します。「S点であらわされる感覚=運動機構とABに配置される記憶の全体とのあいだには、(中略)私たちの精神生活の無数の反復の余地があり、そのいずれも同じ円錐形A´B´、A´´B´´等々の断面であらわされる、ということになる。私たちは、感覚的、運動的状態から脱して夢想の生活に生きるにつれ、ABへと拡散する傾向をもつし、感覚的刺激に運動的反作用で反応しながら、現在の現実につよく執着すればするほど、Sに集中する傾向をもつ」(同上)。
この円錐体が表しているのは過去と現在の「潜在的共存」であり、「あらゆるレヴェルでの、あらゆる緊張での、収縮と弛緩のあらゆる段階での、自己自身との共存」(「ベルクソンの哲学」第三章)です。「今や、純粋な記憶内容がどのようにして心理的実在となり、この純粋に潜在的なものがどのようにして現実化されるかということがわれわれの問題である」。記憶内容が現実化されるためには、「記憶内容への呼び掛けと、《イマージュの想起》という二つの異なった過程が必要です。「記憶内容への呼び掛けは、収縮の或るレヴェルにおいて、私が潜在的なもの・過去・過去のある領域のなかに身を置くところの飛躍である。われわれはこの呼び掛けが、人間、あるいはむしろ記憶の真に存在論的な次元を表現していると考える」。この段階では「記憶内容はまだ潜在的状態に留まって」おり、「心理的意識はまだ生まれて」いません。「これに対して、われわれが喚起またはイマージュの想起について語るときは、全く別のことが問題とされている。つまりわれわれが、記憶内容の存在しているレヴェルに身を置いた場合だけ、それらの記憶内容は現実化されようとするのである。現在の呼び掛けの下では、それらの記憶内容は、その純粋な記憶内容としての特徴を示す非効果性・非移行性をもはや持っていない。それらの記憶内容は、《想起》されることのできる、記憶内容としてのイマージュになる。それらの記憶内容は、現実化または具体化されるのである」(同上)。
この記憶が現実化される「イマージュの想起」の過程を、ベルグソンは次のように説明しています。「《全体的な記憶は、現在の状態からの呼び掛け(これは「記憶内容への呼び掛け」とは別のものです)に対して、二つの同時的運動で対応する。ひとつは置換(translation)の運動であって、それによって全体的な記憶は、すべて経験の前面に位置し、分割されることなしに、行動のために多かれ少なかれ収縮する。もうひとつは、それ自体に対する回転の運動である。それによって全体的記憶は、その時の状況に向かい、最も有効な面をそこに提示する》(「ベルクソンの哲学」内での「物質と記憶」からの引用)」。「この収縮=置換は、すでに述べた過去の領域とレヴェルの可変的収縮と混同できるかというのがわれわれの問いである」。ドゥルーズによると、「二つの収縮のあいだには確かにつながりがあるが、両者は決して混同され(るべきでは)ないもの」です。何故なら「ベルクソンが過去のさまざまなレヴェルまたは領域について語るとき、それらのレヴェルは過去一般に劣らず潜在的である。さらに、おのおののレヴェルはすべての過去を含むが、しかしそれは可変的ないくつかの支配的な記憶内容のまわりで、多かれ少なかれ収縮した状態においてである。したがって、多かれ少なかれ大きな収縮は、ひとつのレヴェルと別のレヴェルとの差異を表現している。――これに対して、ベルクソンが(収縮=)置換について語るときは、特定のレヴェルで把握されたひとつの記憶内容の現実化のなかでの必要な運動が問題とされている。ここでは、もはや収縮は二つの潜在的レヴェルの存在論的差異を表現せず、ひとつの記憶内容が(心理的に)現実化される運動と、それと同時に、この記憶内容に固有のレヴェルとを表現している」(同上)。
したがって「ひとつの記憶内容が、現実化されるためにしだいに収縮したもろもろのレヴェルを経由して、円錐体の最高の収縮点または頂点としての現在に接近すべきだと考えるのは、実際には誤解であろう」。「なぜなら、それぞれの記憶内容には、それ固有のレヴェルがあるからである。そのレヴェルは、より大きな領域ではあまりにもばらばらで分散しており、もっと狭い領域ではあまりに閉じ込められ混同されている。したがって、ひとつの記憶内容を現実化するために、ひとつのレヴェルから別のレヴェルへと移行すべきであるとするならば、それぞれの記憶内容はその個体性を失うことになろう」。「記憶内容はそれを実在化する《意識の諸面》を経由する。しかしそれは(まさに実在化が妨げられるような)中間的なレヴェルを決して経由しない。そこから、記憶内容が現実化される意識の諸面と、それによってつねに潜在的な記憶内容の状態が変化する、過去のもろもろの領域・断面またはレヴェルとを混同しないことが必要になる。収縮したものにせよ弛緩したものにせよ、すべてのレヴェルが潜在的に共存する存在論的な強度の大きい収縮と、それぞれの記憶内容が(たとえどんなに弛緩しているにせよ)そのレヴェルで、現実化され、イマージュとなるために経由しなくてはならない、心理的・置換的収縮とを区別する必要はここから出てくる」(同上)。
記憶の現実化の過程では置換の運動と同時に、収縮した記憶が現在の状況にとって「おのれの《役に立つ面》を示す」回転(自転)の運動も行われます。「物質と記憶」には回転の運動に関する具体的な説明はないので、ドゥルーズは「知的な努力」(「精神のエネルギー」所収)の分析を元にこの回転の運動を説明しています。「知的な努力」の論旨は、様々な要素(記憶の現実化の場合には「現実化されつつあるすべての記憶内容」)が相互に浸透し合っている抽象的な表象(ベルグソンはこれを「動的図式」と名付けます)が具体的なイメージに展開される場合にのみ努力の感情が生まれる、ということにあります。「そしてわれわれはこの表象を、たがいに外的で、特定の記憶内容に対応する明確なイマージュに発達させる。ここでもまた、ベルクソンは《意識の諸面》の継起について語る。しかし、運動はもはや分割されない収縮の運動ではなく、逆に、分割・発達・膨張の運動である。記憶内容は、イマージュになるとき以外は、現実化されていると言われることはできない。実際、その場合にこの記憶内容は、現在との《融合》に入るのみでなく、現在との一種の回路に入り、記憶内容としてのイマージュが知覚としてのイマージュに、またその逆方向にと戻って行くのである。そこから、この回路の運動を準備する《回転》という、先に述べた隠喩が出てくる」(同上)。
「意識の諸面」を経由する収縮と膨張(弛緩と同義と考えてよいでしょう)というこれら二つの運動は、記憶の円錐体における収縮―弛緩と同じものではありません。が、「円錐体のさまざまのレヴェルと、それぞれのレヴェルにとっての現実化の局面との間には、密接なアナロジーがある」。その結果、ある円錐体のレヴェルはそのレヴェルの現実化の局面によっていわば掩われ、両者は混同されてしまいがちです。「しかしわれわれは両者を混同してはならない。なぜなら、第一のテーマは、即自的な記憶内容の潜在的変化にかかわるものであり、第二のテーマは、われわれにとっての記憶内容、つまり記憶内容が記憶内容としてのイマージュに現実化されることにかかわるからである」(同上)。
以上の点を踏まえて、もう一度収縮と弛緩に関する記述を見直してみましょう。心的な存在は収縮の方向に、物理的存在は弛緩の方向に傾いており、「一方で「精神性」の底に、他方で理知性を伴った「物質性」の底に、反対の方向を持つ二つの過程が存在する」とベルグソンは述べています。ところが円錐体の図をイメージするとき、ややもすると収縮と弛緩がそれぞれ一方通行的な流れであると思い込んでしまいがちです。言い換えると収縮の際には弛緩は存在せず、弛緩の際には収縮は存在しないと錯覚してしまうのです。ベルグソンがわざわざ「反対の方向を持つ二つの過程が存在する」と書いているのは、そういう錯覚を防ぐ意味があったのではないかと思われます。「結局、重要なことは、弛緩と収縮がいかに相対的であり、またいかにたがいに相対的かを知ることである。(中略)われわれがこのようにして収縮させるもの、《緊張》させるものは、物質であり、延長である。(中略)延長されたものは、そのなかで弛緩している収縮と不可分であるため、まだ質化されている。そして物質は十分に弛緩することがないので、純粋な空間とはならず、この最小限の収縮を捨てることがない。この最小限の収縮によって物質は持続に参加し、持続なのである」(「ベルクソンの哲学」第四章)。収縮されるのは弛緩したものであり、弛緩するのは収縮されたものです。記憶の円錐体が表現しているのはあらゆる収縮と弛緩のこの完璧な均衡です。そこではどのレヴェルにおいても他のより収縮したレヴェルが欠けることはなく、より弛緩したレヴェルが欠けることもありません。すべてが潜在的に共存しており、したがってまた持続において連続しています。社会生活における様々な状況を的確に判断し適切な対応をとるためには、つまり健康な精神生活を営むためには、「意識の諸面」を含むピラミッド(存在論的次元を表す円錐体と区別する意味でこの「ピラミッド」という言葉は使われています)の頂点に近い「行動の平面」と、底面に近い「夢想の平面」という二つの極限の間を絶えず往来する必要があります。そしてその際、もっと深い「存在論的次元」では円錐体が最大限収縮した状態にあるという事実を見過ごしてはならないでしょう。これと対照的に「行動の平面」か「夢想の平面」かどちらか一方のみに固執するとき、存在論的次元ではそれぞれに対応した円錐体のレヴェル(頂点に近いかまたは底面に近いレヴェル)しか存在しないかのように、収縮か弛緩かいずれか一方しか存在しないかのようにすべてが進行します。たとえば頂点に近い「行動の平面」に身を置くとき、あたかも弛緩が不可能になったかのように、過去の最も収縮したレヴェル「だけ」しか存在しなくなったかのように事態は進行します。そこでは最早記憶の助けを借りることはできず、まるで自動人形のように刺激が自動的な反応を惹き起こすのみです。反対に底面に近い「夢想の平面」に身を置くとき、「すべてはあたかも収縮が存在しないかのように、現在との記憶内容の極度に弛緩した関係が、過去そのものの最も弛緩したレヴェルを再生するかのように進行」(「ベルクソンの哲学」第三章)します。そこでは頂点と分断され感覚=運動機能に接続することができないため行動の足場が失われ、夢を見ているかのように記憶が気まぐれに再生されるだけでしょう。このように精神生活を極端に単純化したケースを例にとって考えると、逆に通常の精神生活においてはいかに収縮と弛緩の複雑な処理が無意識のうちになされているかを推し量ることができます。そして無意識そのものも、「純粋な、潜在的な、無感覚の、活動をしない、即自的な、純粋な記憶内容」を表す「存在論的無意識」と、「現実化されつつある記憶内容の運動」を表す「心理的無意識」とに分けて考えなければならないことも理解することができます。「区別された二つの無意識についての二つの記述のあいだには、いかなる矛盾もない。さらに、『物質と記憶』全体が、この二つの記述のあいだで動いているのであって、その結果の分析がわれわれに残された仕事である」(「ベルクソンの哲学」第三章)。
そこで次に、持続の観点から見た収縮―弛緩と延長の観点から見た収縮―弛緩とを再度比較してみましょう。まずは持続の観点から見た収縮と弛緩について。
「われわれが有する、最も外部から切り離されると同時に最も知性性が浸透していないものに集中してみよう。われわれ自身の最も深い所で、われわれが最も自分自身の生の内側にいると感じる点を探してみよう。そのとき、われわれは、純粋持続に再び身を浸す。その持続では、常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく。しかし、同時に、われわれの意志のばねが極限まで緊張するのをわれわれは感じる。われわれの人格をそれ自身へと暴力的に収縮することによって、逃げ出る過去をかき集めて、凝縮した不可分な状態のまま、現在に押し込まなければならないのだが、この現在はというと、過去がそこにみずからを差し込むことで創造することになるものなのだ。(中略)今度は、みずからを弛緩させ、過去を可能な限り現在に押し込む努力を中断してみよう。もしこの弛緩が完全になったら、記憶も意志ももはや存在しないだろう。つまり、われわれは、決してこの絶対的な受動性に陥ることはないし、自分を絶対的に自由にすることもできないのである。しかし、極限でわれわれは、絶えず新たに始まるような現在から成る存在を垣間見る。そこには、もはや実在的な持続はなく、無際限に死と再生を繰り返す瞬間しか存在しない」。
次に延長の観点から見た収縮と弛緩について。
「純粋持続におけるわれわれの進展を意識すればするほど、われわれの存在の様々な部分が互いに入り込んでいき、われわれの人格全体が、ある点、むしろある先端に集中するのを、われわれはより強く感じる。この先端は絶えず未来に切り込みながら、みずからを未来に挿入していく。このことに自由な生と自由な行為は存している。逆になすがままに身を任せてみよう。行動する代わりに、夢見てみよう。それと同時に、われわれの自我は散り散りになる。われわれの過去は、それまでわれわれに伝えていた不可分な衝動において自分自身に寄り集まっていたが、今や、互いに外在化し合う幾千もの記憶へとみずからを分解する。記憶は凝固するにつれて、互いに浸透し合うのをやめる。このようにして、われわれの人格性は空間の方へ降りていく。それに感覚においては、われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」。
上の二つの記述を重ね合わせるとどうなるでしょうか。「常に前進する過去が、絶対的に新しい現在によって絶えず増大していく」ということは、延長という観点からすると、最初イマージュの総体の中にあり、自己を限定することによって身体を人格の中心として選び取った知覚に記憶が混入し、現在の経験が過去の経験によって豊富化されるということです。また知覚は生まれかけの行動であり、記憶の先端(現在)を表す身体は「みずからを未来に挿入」することによってイマージュの総体の中における「行動の道具」としての役割を担います。一方継起する知覚はまた「どんなに速やかであるとしても、持続の一定の厚みを占め」(「物質と記憶」第一章)ています。それらの知覚がおのおの非連続的なもの、互いに異質なものとして現れるのは、「記憶力がそこに莫大な数の震動(「意識と生命」ではわかりやすく「ものの持続」とも表現されています)を圧縮していて、これらは継起的であるにもかかわらず全部いっしょに私たちにあらわれる」(同上)からです。この「莫大な数の震動を圧縮してい」る記憶力が弛緩した場合、過去が現在に引き継がれることはなくなり、互いに連関を失った瞬間が無際限に現れては消えていきます。それはすなわち「過去そのものの最も弛緩したレヴェル」の再生、外在化し凝固した記憶のランダムな再生に他なりません。同時に非連続的で互いに異質なものとして現れていた知覚(延長的感覚)は圧縮から解放されることによって多数の瞬間にほどけ(「われわれの人格性は絶えず空間に沿って進む」と表現されているのは恐らくこの局面だと思われます)、物質は元の状態――無数の同質的な震動の体系に戻ろうとするでしょう。――持続の観点と延長の観点を重ね合わせたときに見えてくる光景はおおよそ以上のようなものです。
(ちなみに最後の局面、物質が「私たちの延長的感覚が多数の瞬間に配分されればされるほど同質的になり、実在論の語るあの同質的な震動の体系に、けっして完全に一致しないことは確かだが、限りなく近づいていく」局面は、量子力学のパラドックスと似ている面があります。というのも一見主観が客観的状態に影響を与えている、もしくは客観的状態が主観に依存しているように見えるからです。しかし延長的感覚は純粋な主観の線の上に属するものではなく、客観性と主観性という「二つの線の交叉に依存して」(「ベルクソンの哲学」第三章)います)
(つづく)