画竜点睛

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「ジェノサイド」(23)

2013-04-08 | 雑談
同一性が幾何学的なものであり、「知覚に由来する概念作用や、物質の特性および作用に対応する一般観念が、事物に内在する数学的なるものによってのみ可能でありまた現に在るがごときものである」ことは、近代物理学が「人間が行なう質的区別の背後に存する数的差異を次々に明らかにしている」ことによって証明されつつあります。ところで一つの類を構成する要素が互いに類似しているのは当然のことで、そこに疑問を差し挟む余地はありません。しかし類を構成する要素が互いに同一であるなどということが本当にあるのでしょうか。あとで見るように、このことが可能なのは幾何学の世界においてだけです。ここでベルグソンが使用している同一性という言葉は「同一的なるものの反復」、具体的には特定の「要素的物理的事象」があらゆる時あらゆる場所で一定数の振動を繰り返すことを指しています。そして再三述べているように、「知覚は諸振動数の広大なる領域から」特定の振動数を収集し、一瞬の感覚に凝縮します。「一定の量的次元の選択」という言葉が表しているのはこの凝縮に他なりません。このように考えると、「質の知覚」と「数学的関係あるいは法則」という言葉の意味するものがよくわかります。つまり前者は収縮(されたもの)であり、後者は(収縮される)弛緩(したもの)なのです。

類似性の最後のグループは「人間の思索と行動」に由来する類似性、すなわち社会に起源を持つ類似性です。「人間は本質的に製作者である。自然は、たとえば昆虫の道具のような既成の道具を人間に与えなかった代わりに、知性を、換言すれば無数の道具を発明し組み立てる能力を与えた。ところで、製作というものは、いかに簡単なものであろうと、知覚されまたは想像されたモデルに基づいて行なわれる。このモデル自体またはその構成の図式が規定する類は現実的である。かくしてわれわれの文明全体は一定数の一般観念を根拠とするが、これらの一般観念はわれわれが作ったものであるがゆえにその内容は十全に認識されており、またこれらの一般観念なくしては生きることができぬゆえにそれらの価値は抜群のものである」。以前引用した際はこれが社会的な一般観念のみを指している文章だと解釈しましたが、今読み返してみるとそれは間違いで、古代から近代に至るまでの一般観念全般を概説した文章だというのが正しいようです。では社会的な一般観念を特徴づけるものは何かというと、一つは言うまでもなくその発生に係わっているのが「個人の利害を伴う社会の利害であり、会話や行動の諸要求」だということです。それに加えてもう一つ忘れてならないのは、最初の二つのグループに属する観念とは全く性質を異にする一般観念が大半を占め、なおかつその数が最初の二つのグループを圧倒していることでしょう。その一般観念とは、ベルグソンが「一般観念の一般観念」と呼んでいるものを手中に収めることによって、知性が作り出した一般観念です。一般観念の一般観念を手にした知性が最初に製作に着手するのは「社会生活に最も便宜を与えうる一般観念、または社会生活に単に関係のある一般観念」です。「次いで純粋な思索の関心を惹く一般観念が来ることになる。そして最後は、むだに、なぐさみに組み立てられる一般観念である」。一例を挙げれば、「快楽」とか「幸福」といった一般観念があります。この二つの観念を使って「快楽によって幸福に至ることはできるか否か」という問題が立てられたとします。しかしこの場合まず問題にすべきは、「これらの観念がたしかに一つの類を構成するのかどうか」ということでしょう。そうすれば、これらの観念は社会が「外側から、たぶん偽りの観察を行なって」形成した観念であることがわかるでしょう。別の言い方をすると、それらは不純物を多く含む鉱石のように異質な要素を無理やりくっつけて合成された観念なのです。そうだとすれば最初に立てた問いは自壊し、問題は全く別様に立て直さなければならないことになります。

ここであらためて類似性について考え直してみましょう。最初の二つのグループと第三のグループの分かれ道はどこにあったのでしょうか。「(前略)もろもろの行為によって自己実現するという個人的意識に付与された能力は、個々の生命体一つ一つが、個別の物質的エリアを形成することを要求している。その意味で、わたし自身の身体は、そしてわたしの身体との類似性によって、わたし以外の数々の生命体も、物質世界の連続性のなかに、わたしがもっとも自信をもって識別できる存在なのである。しかし、わたしの身体が構成され、識別されるや、それが感じるさまざまな欲求は、他の個体を識別し、構成するように、わたしの身体を導いてゆく」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。原生生物は神経系を持たないので、仮に明確な意識を持ち得たとしても身体はほとんど点のようなものとしてしか意識されないかも知れません。原生生物が食物を摂取する場面を想像してみると、運動によってまず周囲の環境の探索が行われ、次いで食物となる微生物等との接触がなされます。これはたとえると点の上に点が重なるようなもので、この欲求とそれを満たすものとが重なった点に最初の独立的対象が形作られるでしょう。「物質の本性がいかにあろうと、生活はそこですでに、欲求とその充足に役立つべきものとの二元性をあらわす最初の非連続をうち立てるだろう、ということができる」(同上・全集)。むろん欲求は食欲だけではありません。個体あるいは種の維持を目的とした様々な欲求が生命体の周囲に組織され、その一つ一つが光の束のように感覚的諸性質の連続の上に注がれて独立的対象を切り取っていくのです。この独立的対象には対象の輪郭と感覚的諸性質という二つの部分、つまり「対象の知覚と、感覚的に連続するものを形づくっている質の知覚」という二つの部分があることになります。最初の二つのグループに属する類似性のうち、二番目のグループに属する類似性(同一性)が質の知覚として抽出されたものだとすれば、三番目のグループに属する類似性は「知的に認知され思考され」、対象の知覚とともに類概念として構築されたものだと言えるのではないでしょうか。
(余談ですがベルグソンはここで欲求を「中心へ集中する一連の努力」として描き出しています。これはシュヴァリエとの対話で、「自我の性向が努力の感情を中心にして回転している」と述べていることと無関係ではないかも知れません。睡眠欲は集中とは正反対のように見えますが、ジャンケレヴィッチの言うように夢への同意が睡眠へのスイッチだと解釈すれば、そこには一つの全き意志が働いていると言えなくもありません。ジャンケレヴィッチは次のようにも述べています。「意志を意志することは呼吸すること、眠りに入ること、生存することよりもっと簡単なはずである」(アンリ・ベルクソン)」

「……ある意味で、わたしの知覚は、確かにわたしの内なるものである。なぜなら、その知覚は、それ自体においては数えきれないほど多数の瞬間を、わたしの内的持続の唯一の瞬間のうちに凝縮しているからである。しかしこのわたしの意識というものを、もしあなたが抹消したとしても、物質世界は今まで通りそのままに存続し続けている。ただ一つ違うのは、持続の持つ特別なあのリズムを取り除いたのだから、そしてそのリズムが外界の事物に対するわたしの行動の条件になっていたのだから、それらの事物は今は元のあり様にもどって、科学が区別する瞬間のリズムにあわせて自らを分節することになるということだけだ。そして、感覚的質のあれこれは、消え去るのではなく、以前の状態とは比べ物にならないほど多くの部分に分割された、ある一つの持続のなかに延び広がり、薄まってゆく。物質は、無数の刺激運動に分散し、途切れることのない連続性のなかにそのすべてが連結され、そのすべてが相互に連帯し、同じ数の身震いとなってあらゆる方向に広がってゆくのである」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。――もしあなたが私の意識を末梢しても云々というという件りは、もし知覚が凝縮のために行う一定の量的次元の選択がなされなかったら、と言い換えてもよいかも知れません。「私は今机の上で書きものをしているが、もし私の知覚したがって私の行動が、机の物質性を構成する諸要素というよりはむしろ諸事象が対応する量的次元において行なわれたならば、机はどうなるであろうか。私の行動は解消されることであろう。私の知覚は机が見える場所に、机を見る短い瞬間のうちに、広大なる宇宙とそれに劣らず際限なき歴史とを包摂することであろう。この動的なる無限がいかにして、私のはたらきかける不動で固定した単なる矩形のものと成りうるのか、私には理解できないであろう。事情はいっさいの事物やいっさいの事象に関しても同様であろう。われわれが生きている世界、その諸部分が相互に作用と反作用とを及ぼしあっている世界は、量的段階における一定の選択すなわちそれ自身われわれの行動能力に限定された選択によって、現にあるがごときものとして存在しているのである。別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在してもなんらさしつかえはないのである」(「思想と動くもの」緒論・一部再掲)。「別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在してもなんらさしつかえはない」という控えめな言い方はされているものの、実際のところは「別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在する」ことをベルグソンが確信していることは明らかです。その極限に「量的段階における一定の選択」がなされていない世界、すなわち物質世界があります。この純粋な物質世界がどういうものであるかについて、ベルグソンは次のように述べています。「あなたが日々経験する不連続な物体の数々を、相互に連結してみるがよい。そして、それらの物体が身にまとう質の不動の連続性を、その場の刺激運動に変えてみよ。これらの運動を支えている分割可能な空間から身を引き離し、その運動にわが身をあずけ、もはやそれらの運動の運動性だけに、つまりあなた自身が行なう運動のなかにあなたの意識が捉えているその不可分の行為だけに、注目してみよ。そうすれば、あなたの想像力にとってはやっかいなものかもしれないが、何ものにも汚されぬ純粋な、日常生活の必要性にかられてあなたがあなたの外界の知覚に付け加えなければならなかった一切[の夾雑物]を洗い流した、純粋無垢な物質世界のヴィジョンを手に入れることができるだろう」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。つまり「純粋無垢な物質世界のヴィジョン」と思われているものはすでに余分な情報を付加され、改竄(再構成)された物質世界のヴィジョンだということです。もちろんこの再構成は理由もなく行われるのではなく、そこには次のような事情があります。すなわち「本能の指示に従うためには、対象を知覚する必要はなく、性質を見分ければいい」のに対して、「逆に知性は、もっとも低次の形態においても、すでに物質を物質に作用させようとする。物質が何らかの側面で、作用を及ぼすものと及ぼされるものへと、もっと単純には、相異なるものとして共存する断片へと分割されることに適しているなら、知性はこの側面から物体を眺めるだろう」(「創造的進化」第三章)。物質を物質に作用させるためには、少なくともそれらを考察している間は不変不動のものと看做さなければなりません。「(生の手段として人類に知性を付与した)自然はわれわれを、変化や運動のうちに偶有性を見、不変性や不動性を本質または実体というようなささえに祭り上げる、というふうに予告したが、それは単に、われわれを社会生活に向くようにつくり、社会の組織に関してはわれわれの自由にまかせ、かくして言語を必要ならしめる、という仕方のみによるのではない。われわれの知覚そのものがかかる哲学〔自然のやり方〕に従って事を運ぶ、ということも付け加えねばならない。知覚は延長の連続性の中から諸物体を切り取るが、これらの物体はまさに、考察中は不変として扱われるうるように選ばれているのである。変化がきわめて顕著で無視できない時には、かかわりあっていた状態が他の状態に席を譲ったのであって、後者はこれ以上変わらないであろう、と言明される」(「思想と動くもの」緒論)。――このように「知覚、思考、言語等、いっさいの個人的または社会的活動は協力して、考察中は不変不動と見なしうる諸対象の前にわれわれを置く」(同上)のですが、実際には変化や運動こそ実体であり、不変性や不動性はあとから付け加えられた属性に過ぎません。この本来は変化そのもの、運動そのものである物質世界に「わたしの意識を、それとともに日常生活の必要性」を再度組み込んでみましょう。すると「はるか遠くから少しずつ、そしてそのつど、物質世界の事物群の内的履歴の大きな分節を踏み越えながら、ほぼ瞬間的な眺めが見えてくるはずだ。その眺めは、今は絵のように美しく、その眺めの色彩群は[原子などの]基本要素群の無限の反復と変化を凝縮していっそう際立って見えているはずだ。同じように、一人の走者の継起する幾千の位置が、ただ一つの記号的な姿勢に集約され、それをわれわれの目は知覚し、芸術はそれを再現し、すべての人にとって、それは一人の走る人物のイメージとなる」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。したがって「われわれが、ときどき、周囲の世界に投げかける眼差しは、われわれの内的な反復の、そして内的な進展の効果を[一つの全体像として]捉えているにすぎない。それがゆえに、[われわれが捉える]その[全体的]効果は本来的に離散的であるのだが、われわれが空間内にある「対象物」に付与する相対的運動によって、われわれはそれらに連続性を付与しているのである。変化は至るところにあるが、しかしそれは深層においてのことだ。われわれはその変化をあちらこちらに位置付けるが、それは表層においてだ。こうして、われわれは物体を、質的には安定的な、位置的には可変的なものとして、構成する」(同上)。

上記の引用でもう一つ見逃せないのは、「一人の走者の継起する幾千の位置が、ただ一つの記号的な姿勢に集約され、それをわれわれの目は知覚し、芸術はそれを再現し、すべての人にとって、それは一人の走る人物のイメージとなる」という部分です。同じことをベルグソンは次のようにも表現しています。「ターナーやコローの絵を前にしてわれわれが体験することを深く掘り下げてみましょう。そうすればわかりますが、われわれが彼らの絵を受け入れ感嘆するのは、これらの絵の示すものをいくらかでもわれわれがすでに知覚したことがあるからです。しかしわれわれは看取することなしに知覚していたのであります。それはわれわれにとっては、われわれの日常経験で「溶暗」として重なり合っている無数の光景のうちに、そして相互干渉により、われわれが普通事物について持つ青ざめ色あせた光景を構成する無数の等しく輝かしいそして消え失せる光景のうちに、紛れ込んでいる一つの輝かしいそして消え失せる光景だったのです。(中略)彼はこの光景をカンバスの上にしっかりと固定させたので、以後われわれは彼自身が見たものを実在の中から看取しないではいられなくなったのであります」(「変化の知覚」・一部再掲)。ここで改めて考え直してみたいのは、知覚と芸術、芸術と直観の関係です。ベルグソン自身の説明に耳を傾けてみましょう。「とにかくわれわれの日常的知覚は時間から離れることができず、変化以外のものを捕えることはできないわけです。しかしわれわれが自然にそこに置かれている時間や、われわれが通常ながめている変化は、事物に対するわれわれの行動を容易にするために、われわれの感覚と意識が粉砕してしまった時間であり変化であります。感覚と意識が(ばらばらに粉砕したあとでつなぎ合わせて)こしらえたものを壊して、われわれの知覚をその根元まで連れ戻すなら、われわれは新しい能力に頼る必要なしに、新しい種類の認識を手に入れるでありましょう。(中略)われわれの感覚と意識が習慣的にわれわれを導き込んでいる世界は、もはやこの世界自体の影にすぎないのです。(中略)そこではすべてがわれわれの最大の便宜のために配置されていますが、そこではすべてが絶えず繰り返されるように見える現在の中にあります。そしてわれわれは人為的に、これまた劣らず人為的な宇宙の像に合わせて自分自身をかたどるので、われわれは瞬間写真のようにして自分を知覚したり、過去を廃棄されたものとして語ったり、記憶を奇妙な、どう見ても奇妙な事実、物質が精神に借し与えた(原文ママ)援助として見たりするのであります。反対に、厚みをもつ現在の中で、さらに、われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させることによって、限りなく後方へ広げることができる弾力的な現在の中で、あるがままの自分を把握することにしましょう。単に表面的に、今の瞬間の中にあるだけではなく、深さにおいて、今の瞬間を推進してこれにはずみを伝える直接の過去をもつものとして、あるがままの外界を把握することにしましょう。一言でいえば、すべての事物を持続の相の下に sub specie durationis 見る習慣をつけましょう。そうすればただちに電流を通されたわれわれの知覚の中で、硬直していたものは弛緩し、眠っていたものは目を覚まし、死んでいたものは蘇るのであります」(「哲学的直観」)。――要するに知覚の拡大とは「感覚と意識がこしらえたものを壊して、われわれの知覚をその根元(原文ママ。根源)まで連れ戻す」こと、日常生活の便宜のために設けられた制限を解除して、物質世界の総体に淵源する「われわれの知覚の分割不可能な一体性」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)、すなわち質の知覚に復帰することなのです。問題は先に見たように、ベルグソンがどういう点で芸術と哲学とを区別しているのか、というより両者を区別することによって何を強調し明確にしようとしているのかを知ることにあります。「感想」の中で小林秀雄は次のように述べています。「ベルグソンは知覚を説く事によって、つまりは直観を説いている。言う迄もない事だろう。知覚の拡大を、直観の拡大と言ってもいいわけだが、重点は、寧ろ拡大という言葉にある。と言うのは、繰返す様になるが、ベルグソンには、私達が日常行使しているのは、感覚や意識の習慣的な機能に過ぎず、その本来の働きは、それが為に覆われている、という考えが、根本にあるからだ」。芸術と哲学の違いは確かに知覚や直観の拡大に比べれば重要な問題ではないかもしれませんが、ベルグソン自身が芸術と哲学を対比させているのもまた事実なのです。以前引用した、芸術が知覚を拡大させるのは「深さの点ではなくむしろ表面的にそうする」のだというのもその一つで、これ以外にもベルグソンは両者の違いを以下のように表現しています。「芸術はわわわれの現在を豊富にします。が決して現在を超えさせてはくれないのです。ところが哲学によって、現在が引き連れている過去から現在を決して孤立させない習慣を、われわれは身につけることができるのです」(「変化の知覚」)。また一方、小林秀雄は「感想」の前半でベルグソンの次のような言葉も紹介しています。「芸術と哲学とは、その根柢にある共通の直観で、手を結んでいる。敢えて言えば、様々な芸術は、哲学という属(ジャンル)の種(エスペース)である」(「エクリ・エ・パロール」所収の「スピノザについての講義開始にあたってのG・エメルのベルグソン=インタビュー」)。そして最後の著作「道徳と宗教の二源泉」でも、芸術に関するベルグソンの規定の仕方には微妙な変化が見られます。ドゥルーズは「ベルクソンの哲学」第五章の注の中で芸術に対するベルグソンの考え方を次のようにまとめています。「ベルクソンによれば、芸術にもまた二つの源泉があることが注意されよう。一方では集団的または個人的な虚構の芸術がある。また他方には、情動的または創造的な芸術がある。おそらくすべての芸術は、異なった割合においてではあるが、この二つの面を両方とも示しているのであろう。ベルクソンは、彼にとって、虚構作用の側面が芸術においては劣って見えることを隠してはいない。小説はとくに虚構作用であり、これに対して音楽は情動であり創造である」。このように見てくると芸術に関してのベルグソンの見解にはまとまりがないようにも見えますが、一貫している点がないわけでもありません。それは観想や瞑想よりも行動や創造的活動を上位に置く彼の思想です。「創造的感情は、知性のなかでの直観の発生である。したがって、もしも人間が開かれた創造的全体性に到達するとすれば、それは瞑想することによってであるよりも、むしろ行動し、創造することによってである」(「ベルクソンの哲学」第五章)。ベルグソンが芸術は現在を豊かにはしても現在を超えさせてはくれないというとき、おそらく彼の念頭にあるのは芸術の中の観想的な側面でしょう。しかし実を言うと、哲学の中にも観想的な側面がないわけではありません。その意味で、というのは哲学がにせの瞑想に耽っている限り、「哲学者たちよりもはるか遠いところにある偉大な精神の持主は、芸術家と神秘主義者(少なくとも、ベルクソンがすべてがありあまる活動性であり、作用であり、創造であるとして記述するキリスト教神秘主義者たち)である」(同上)というのもまた真実なのです。「結局、あらゆる創造を行ない、力動的であるとともに適切でもある表現を作り出すのは神秘主義者である。開かれていて有限である神(それがエラン=ヴィタルの特徴である)のしもべとしての神秘的な魂は、能動的に全宇宙を動かし、見るべきものも観想すべきものも何ひとつない、全体の開始を再生する」(同上)。知覚の拡大を制限の解除という意味に解釈すると、この「拡大」は開かれた社会、開かれた道徳、開かれた宗教という際の「開く」という言葉とほぼ同じ意味を持つと考えてよいのではないでしょうか(この「拡大」はまた、静的なものから動的なものへの転換をも表現しているように思われます。「知的な努力」の中でベルグソンは図式とイメージの違いを次のように表しています。「イメージが閉じた状態にあるとすれば、この図式は、開いた状態におけるその同じものである。イメージがすっかり出来あがったものとして、静的な状態でわたしたちにあたえるものを、図式は生成において、動的に示す」)。

少々飛躍しすぎたので話を直観に戻します。「厚みをもつ現在の中で、さらに、われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させることによって、限りなく後方へ広げることができる弾力的な現在の中で、あるがままの自分を把握する」ことは知覚の拡大であるとも直観の拡大であるとも言えますが、この言葉から思い出されるのは「いっそう広大な平面にくりひろがりつつ、その豊かな内容をより詳細に展開」(「物質と記憶」第三章)していく「意識全体の膨張」(同上)、動的図式のイメージへの展開です。「小説を書く作家、人物や状況をつくり出す劇作家、交響曲を作曲する音楽家、詩をつくる詩人は、みな、まず精神の中に何か単純で抽象的なもの、つまり物体的でないものを持っている。それは音楽家や詩人にとっては、音やイメージに繰りひろげるべき新しい印象である。小説家や劇作家にとってはさまざまなできごとに展開すべき提説であり、また生きた人物に実質化すべき個人的社会的な感情である。仕事は全体の図式にもとづき、さまざまな要素のはっきりしたイメージに達したときに、結果がえられる」(「知的な努力」)。同様に「われわれの日常経験で「溶暗」として重なり合っている無数の光景」から一つの輝かしい光景を抜き出しカンバスの上に定着することも図式のイメージへの展開と言えないでしょうか。しかしここで考慮して置かなければならないのは、先ほど「夢」を紹介した際見たように、現実の認識には感覚と記憶の同時的な緊張が必要だということです。以前引用した「物質と記憶」の文章でもう少し具体的に説明しましょう。「習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力は、ほとんど瞬間的な記憶力なのだけれども、過去の本当の記憶力がその基盤をつとめている。両者はばらばらな二つのものではなく、第一のものは、すでにのべたように、第二のものによって経験の動く平面にさしこまれる動的先端にほかならないから、この二つの機能が互いに支持を与え合うことは当然である。じっさい一方では、過去の記憶力は感覚=運動的諸機構にたいし、それらを導いて任務につかせ運動的反応を経験の教示する方向におもむかせうるすべての記憶を呈示する。(中略)しかし他方では、感覚=運動機構は無力な、すなわち無意識な記憶にたいし、身体を獲得して物質化する手段、つまりは現在となる手段を提供する。じっさい、ある記憶が意識に再現するためには、それは純粋記憶の高みから、行動の遂行を見るまさにその地点にまで、下りてくることを必要とする。換言すれば現在こそ、記憶の応答する呼びかけの出発点であり、現在の行動の感覚=運動的諸要素こそ、記憶が熱気を借りて活力を与えられる場所なのである」。感覚と記憶の同時的な緊張とは、わかりやすく言うと二つの記憶力が「互いに支持を与え合う」ことに他なりません。感覚が緩んでも、記憶が緩んでも、ネジが大きすぎたり小さすぎたりする場合のようにお互いがうまく噛み合わず、現実をしっかり固定することができないのです。大人より子供の方が往々にして記憶力が優れているように見えるのも、幼年期にはこの噛み合わせがまだ十分に調整されていないからです。「彼ら(子供)はその場その場の印象を追うのが常であって、彼らにあっては行動は記憶の指示に従わないから、逆に彼らの記憶は行動の必要に制約され」ず、自由に記憶の翼を広げることができるのです。「変化の知覚」でベルグソンが芸術家の意識や感覚が「なんらかの側面で、生まれながらにして「遊離」して」いると述べているのは、おそらく子供の記憶の例に見られるようなこの「緩み」を指しているのでしょう。とはいえ感覚や記憶が緩みっぱなしでは芸術はおろか何も生まれません。子供の記憶がイメージからイメージへ進むものだとすれば、芸術家は抽象的なものの中へ飛躍し、しかるのちにそれをイメージへと展開させなければならないのです。「われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させる」という表現はまた、「物質が仕上げる無数の小さなできごとをこの唯一の瞬間に集め、巨大な歴史を一語につづめる収縮の仕事」(「意識と生命」)、すなわち収縮としての記憶にも対応しています。たとえば専門的な職業における経験のありなしは、覿面に仕事の質の差、行動の質の差として現れます。経験を積んだ人やある事に習熟した人はそうでない人に比べ何が違うのでしょうか。それは「ある時間をかけて継起するできごとを、その人が瞬間的な視覚に包んでいるということではないでしょうか。その人の現在の中に含まれる過去の役割が大きければ大きいほど、起こって来る偶然性を抑圧するためにその人が押し進めるかたまりは重いものになります。ちょうど矢を射るときのように、その人の表象が前もってうしろに引張られるほど、その人の行動は強い力ではなたれるのです」(同上)。「われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させる」とは、まさに弓を引き絞ること、「当初は記憶力にすぎぬ私たちの意識が、多数の瞬間を互いに他へと継続させることによって、唯一の直観の内へ収縮すること」(「物質と記憶」第四章・再掲)ではないでしょうか。しかし矢は放たれてこそ意味があるように、「物質が仕上げる無数の小さなできごとをこの唯一の瞬間に集め、巨大な歴史を一語につづめる収縮の仕事」と「爆発的な行動」は切り離して考えることはできません。「集約としての主観性」は、この二つが揃ってはじめて成立するのです。

(つづく)

「ジェノサイド」(22)

2013-04-08 | 雑談
何度か述べたとおり、知覚は具体的延長物の連続を「それらにたいする私たちの可能的行動の行き止まる地点、したがって、それらが私たちの欲求にかかわることをやめる地点」で区切ります。「それはただ欲求の示唆と実生活の必要だけにしたがって、延長物の連続の中に区画を引く」のです。この延長物の連続は当然時間の経過に伴って刻々と様相が変化します。このとき「私たちは恒常と変化というこの二つの項を分離し、恒常性を(知覚によって分割された)物体によって、変化を空間における等質的運動によってあらわそうと」します。この等質的運動の環境として「私たちは感覚的諸性質の連続すなわち具体的延長物の下に、限りなく変形可能で縮小可能な目をもった網を張りわた」します。「たんに考えられるだけのこの基体、任意で無限な分割可能性のこのまったく観念的な図式が、等質的空間」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)です。物質を物体に分割すること、「非連続的な物質的宇宙を、位置すなわち相互関係をかえる外郭の截然とした諸物体によって構成しようとする」ことは、したがって実生活の必要や行動する必要に相関的だということになります。だとすればこの分割をいくら推し進めたところで、物自体の認識に到達しないのは当然です。

ところがベルグソンは次のようにも述べています。「恒常と変化というこの二つの項を分離し、恒常性を物体によって、変化を空間における等質的運動によってあらわそうとする」ことは「直接的直観の所与ではないが、しかしまた科学の要求することでもない。科学は反対に私たちが作為的に切り取った宇宙の自然的な連節を再び見いだそうともくろむからである。そればかりか、科学はあらゆる物質点の間の相互作用をますます完全に証明することにより、外見に反して、やがて見るように宇宙の連続という思想に帰ってくる。科学と意識は、意識のもっとも直接的な所与と科学のもっとも遠い理想を考えさえすれば、窮極において一致している」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)。もし科学が「生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める」(この引用は「エクリ・エ・パロール」所収の「「ジェームズとベルグソン」と題されたW・B・ピトキンの論文について」からのものですが、以下単に「エクリ・エ・パロール」とだけ表記します)ものだとすると、この二つの記述は矛盾しているのではないでしょうか。矛盾していないとすれば知覚の行う分割と科学の推し進める分割はどこが違っているのでしょうか。

これについてはベルグソン自身が「エクリ・エ・パロール」の文章の中で説明しています。「(前略)わたくしはもろもろの物への分割はわれわれの比較能力に相対的なものであると考えている。物質的世界に向けられたわれわれの感覚は、われわれの未来の行動につけられた道であるところの分割線をそこに引くのである。それは、われわれの潜在的行動であって、われわれの目がはっきりとした輪郭をもった対象をみとめてそれらを他のものから区別するときに、ちょうど鏡からのように物質からわれわれに差し向けられるのである。科学は、われわれの想像力に支点を与えるために、生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める。それは感覚の仕事を同じ方向にのばすのである。科学は、われわれの感覚がすでに物質を解体して個別的な対象にしたその対象を分子や原子へと、あるいはその他のやり方で、解体するであろう。ところで原子、分子、力の中心等々は、「個別的な対象」自身と同じように絶対的実在性を持つものではないようにわたくしには思われるのである」(「エクリ・エ・パロール」)。――ここで語られている「科学」は、厳密には化学を指していることが「物質と記憶」を読むとわかります。化学が「科学」と違う点は、それが「物質よりはむしろ物体を研究する」こと、物質の分割をいくら進めても物体が様々な微粒子へと名前を変えるだけで、物体の持つ固体性という観念は温存されることです。反対に「科学」においては、微粒子の物質性は徐々に解消される方向に向かっていく、とベルグソンは考えます。「たとえば原子を液体またはガス体とせずに、固体として表象することも、また原子の相互作用を衝撃で現わして(原文ママ)、全然ちがった現わし方はしないということも」、学問的に何ら理由や根拠があるわけではありません。それは単に身体と外界との関係で固体が最も影響力を持ち、外界に働きかける上で固体に接触することが有効であるという「実生活の習慣と必要」に基づいているのです。「しかし衝突する二物体の間に現実の接触が決して存在しないことは、きわめて簡単な実験で示される(原注:マクスウェル「遠隔作用」)。また他方、固体性は物質の絶対に明らかな性質だとはとうていいえない(原注:マクスウェル「物体の分子構造」)」(以上「物質と記憶」第四章)。したがって固体や衝突といったイメージは、物質の認識に何ら寄与しません。

実は「感覚に与えられているものの中には」区別すべき二つのものがあり、科学の中にも区別すべき二つのものがあるのです。それは前者においては「空間においてはっきりと切り取られた、対象の知覚と、感覚的に連続するものを形づくっている質の知覚」です。後者においては「一つは概念であり、もう一つは数学的関係あるいは法則」(以上「エクリ・エ・パロール」)です。対象の知覚または概念の形成に向かうとき、「それは生活の運動の延長であって、真の認識には背を向けている」(「物質と記憶」第四章)のに対して、質の知覚または法則に向かうとき、知覚と科学とは実在的なものの中で動いていると言えるでしょう。

「まず感覚に与えられているものに関して、わたくしは次のことを明らかにしようと試みた。すなわち、もろもろの物や対象への物質の分割がわれわれの必要に全く相対的であるのに対して、感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立しており、したがってより高い客観的実在性を表わしているということである。おそらく、それらの感覚的質の知覚はすべての意識的存在において同じものではなく、それは感覚器官の複雑さと完全さの度合に依存しているはずである」(「エクリ・エ・パロール」)。「感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立して」いるという意味は、それが物質の分割のように個体の努力に依存することはほとんどないということです。先に引用したシュヴァリエとの対話における発言を思い出しましょう。ベルグソンは次のように述べています。「わたしは、自我の性向が努力の感情を中心にして回転している、と見る」。この「努力」は個体の努力を意味しているのではなく、いわば生物学的努力、一つの種が到達しその成員全体によって維持されている努力を表しています。それは種の成員全体によって維持されあらゆる慣習や制度の土壌となっているからこそ、恣意的に変更することはできないのです。到達した点が高ければ高いほど知覚される質も濃縮されたものとなり、低ければ低いほど稀薄なものとなるでしょう。そしてその「最低の極限」には「物質性そのものであるような極度の稀薄さ」があるのです。たとえば自分の見ている世界が他人の見ている世界と全く違っていると考える人はいません。しかしまた自分の見ている世界と昆虫の見ている世界が同じものだと考える人もいません。生活のリズムが物質の持続のリズムとほとんど変わらないような生物の知覚する世界を想像してみましょう。そこでは「知覚された質は自ずから分解され、低音部の音階を聴くときに経験するような、反復され、継起されながら、わずかに(その生物の意識の)内的連続性によってのみ結び付けられているような外的刺激の連続体」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)として感じられているのではないでしょうか。「質というよりは量であるこの物質性にわたくしはある「絶対的」実在性を帰するが、ただしその場合の意味は、ひとが肉眼に見えるある組織があらわす単純化された姿に対して顕微鏡でみとめられるその組織の何千もの細胞の方が、ある絶対的実在性をもつと言うことがある、その場合と同じ意味である」(「エクリ・エ・パロール」)。「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成(凝縮)する感覚的質のなかに保っている」(同上)のです。

一方科学の最終目的は「数学的関係を見いだすことであり、さらにこの種の関係に物質を解消することでさえ」(「エクリ・エ・パロール」)あります。「概念は科学を助けるが、それらは科学にとって暫定的な図式」(同上)にすぎません。その意味は、概念は物質の諸性質を規定するものではなく、「創造的進化」の表現を使って言えば「知性がそれによって諸事物に注意を固定するところの行為の表象」(象徴)でしかないということです。「ところでわたくしは、このような幾何学(数学的関係)が物質の根底そのものであり、物質についてわれわれのもつ知覚に内在すると考える」(「エクリ・エ・パロール」)。この文章は先に引用した「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成する感覚的質のなかに保っている」という文章を反転したものとは言えないでしょうか。

要するに知覚が「欲求の示唆と実生活の必要」にしたがって物質を物体に分割するとき、化学が「抽象と一般化と推論の機能」(「変化の知覚」)、すなわち「概念的思考」(同上)によって知覚を補うとき、化学は確かに知覚の延長線上にあります。しかし質の知覚と科学が発見する法則の関係は、働く方向が逆であると言わなければなりません。この点について質の知覚という視点から少々説明を加えておきます。

「もし知覚の能力が物質と精神の両方向に無際限に広がっているなら、概念によって思考する必要はなく、まして推論する必要もないでしょう」。現実的な知覚能力が限られているからこそ、概念的思考によって知覚の隙間を埋めたりその範囲を拡張したりする必要が出てくるのです。この知覚が見落とした隙間や推論によって拡張された範囲のうち、計量可能な部分は実証科学によって次々と開拓されていきます。残った領域では必然的に「すべてがすべてにとって異質的」なので、それらを統一しようにも何一つ共通なものを見出すことはできません。「こうして、異なった概念で武装した多くの異なった哲学が出現」し、「たがいに果てしなく争うこと」になってしまうのです。しかしそもそも知覚の能力に本当に限界があるのかどうか、知覚を膨張させ拡大することはできないのかどうかを問うてみる必要があります。もし「知覚の中にわれわれの意志を挿入し、そしてこの意志が自己を広げながら事物に関するわれわれの洞察を広げて行く」ことができるなら、「今度こそわれわれは、感覚と意識によって与えられたものを何一つ犠牲にすることがないような哲学を獲得する」(以上「変化の知覚」)ことができるでしょう。

もっともそのような知覚の拡大はどう考えても不可能であるように思えます。というのも注意力によって感覚を研ぎ澄ませることはできても、「最初からそこになかったものを、浮き上がらせることはできない」筈だからです。しかし「何世紀この方、われわれが自然的には知覚しないものを見、そしてわれわれにそれを見せることを、まさに職分とする人々」がいる事実を忘れてはなりません。芸術家と呼ばれる人達がそれです。たとえばターナーやコローの絵画を前にして「われわれが彼らの絵を受け入れ感嘆するのは、これらの絵の示すものをいくらかでもわれわれがすでに知覚したことがあるからです」。ただこの場合の知覚は「まだ現像液に浸けられていない写真の像」のようなもので、それが芸術家という現像液に浸かることによって顕在化した、という風に言えるかも知れません。通常の知覚のメカニズムを考えれば、これが単なる比喩ではないことに納得がいきます。もし仮に「判明な知覚は、実際生活の要求によって、広大な全体から切り抜かれたもの」でないならば、つまり知覚が全体を構成する実在的な部分であるならば、なるほど知覚を拡大することは不可能でしょう。そのとき知覚は「量的にも限定された一定の素材の集合から成り、われわれは、最初からそこに寄託されていたものしか、そこに見いだすことができないでしょう」。しかし一見当たり前で反駁のしようがないように見えるこの仮説は現実を正確に反映したものだとは言えません。何故なら通常の心理生活においては、精神は対象を直接的に把握するというより、むしろ自分の視野を制限するために、「つまり物質的利益の点では見ない方がよいものに背を向けるために」絶えず努力を払っているというのが真相だからです。したがって「われわれの認識が、単純要素の漸進的連合によって構成されるというのは見当違いで、それは急激な分解」、言い換えると運動の停止の結果を表しています。「われわれは、潜在的認識の果てしなく広い領域の中から、事物に対するわれわれの行動に関係するものだけを刈り取って、これを現実的認識とし、その他は無視して来た」のです。この取捨選択を一手に引き受けているのが大脳です。「大脳は役に立つ想起を実現し、なんの役にも立たないような想起は意識の地下室に押し込めておくのです」。同様に「知覚は行動の補佐として、実在の全体から、われわれの利害に関するものを孤立させます」。知覚は事物そのものを示しているというよりも、実在の全体から利害に関わる側面だけを浮き上がらせているに過ぎません。知覚は事物そのものを見ようと努めるのではなく、「あらかじめ事物を分類し、あらかじめそれらにレッテルを貼り付け」ることで満足するのです。「しかし時たま、幸運にも、感覚もしくは意識がそれほど生活に密着していない人々」、自然が知覚能力を行動能力に結び付けるのを忘れた特権的な人々、つまり芸術家と呼ばれる人々が出現します。「彼らは物を自分のためにではなく物のために見る」のであって、「単に行動のために知覚するのではありません」。この物を「物のために見る」ことこそ知覚の拡大という言葉に込められた意味と言えるでしょう。芸術はこのように知覚を膨張させ、実在をより直接的に把握するわけですが、ただしそれは「深さの点ではなくむしろ表面的にそうする」のだともベルグソンは付け加えています。何故かというと、実在を深みにおいて捉えるには知覚の拡大だけでは十分ではないからです。実在を深みにおいて捉えるには「形而上学的実在に関する知覚」の拡大、すなわち直観の拡大が必要です。「(前略)これによって先行した知覚が現在の知覚と結びつき、直接の未来自身が現在のなかに部分的に現れることができる」(以上「変化の知覚」)のです。

ここで次のような疑問が生じます。それは知覚の拡大とは結局夢を見ることと同じではないのか、という疑問です。事実、ベルグソンも「変化の知覚」の中で芸術家を「その意識の点であれ五感の一つの点であれ、なんらかの側面で、生まれながらにして「遊離」し」た人と定義しています。知覚と夢の違いについては「精神のエネルギー」所収の「夢」という講演の中で基本的な考えが述べられていますが、細かい論証は抜きにして結論だけを簡単に記しておくことにします。

知覚と夢の違いは何かと問われて誰でも思いつきそうなことは、眠っている間は感覚が外界から遮断され知覚機能が停止していること、思い出したり推論したりといった思考の働きが停止していることです。ベルグソンはこれらを次々に否定していきます。眠っている間、夢を見ている間も「わたしたちはやはり知覚し、やはり思い出し、やはり推理」していることは経験的にも実験によってもたやすく確かめられる事実です。それどころか知覚や回想や推理は眠っている時のほうが過剰に働くことも珍しいことではありません。しかし精神の領域においては、過剰さは必ずしも美徳ではありません。精神の領域において真に価値があるのは(調整の)正確さです。実を言うと、知覚も夢もメカニズムそのものにはほとんど有意な差はありません。では両者の本質的な違いはどこにあるのでしょうか。「わたしたちは要約して、こう言いましょう。目ざめていても、夢を見ていても、同じ機能がはたらくけれども、それらの機能は一方では緊張し、他方では弛緩している、と」(以上「夢」)。

知覚にしろ夢にしろ、回想と感覚が結び付くことによって生まれることに変わりありません。知覚と夢を一幅の絵にたとえるとすれば、感覚が下書きを準備し、回想がその下書きに沿って色付けしていくのです。ベルグソンはプロチノスの「エンネアデス」の文章を援用しながらこのことを次のように説明しています。「夜の(眠っているときの)感覚には熱も、色も、振動もあって、ほとんど(身体のように)生きていますが、(描きかけであるためまだはっきりとした輪郭が)定まらないものです。回想は(形が)はっきり定まっていますが、(魂のように)中身がなく、生命がありません。感覚は定まらない輪郭を固定する形態を見つけたいでしょう。回想はみたされ、中身をつめて、現実化するために、素材がほしいでしょう。両者はたがいに引きあい、影のような回想は血肉をもたらす感覚において物質化して、一つの固有の生を営む存在になります。夢になるのです」(「夢」)。これは夢について述べたものですが、全く同じことが知覚についても言えます。もし知覚のメカニズムと夢のメカニズムに違いがあるように見えるとすれば、それは一方で記憶の働きが過小に見積もられ、他方で感覚と意識が過大に見積もられているからです。目覚めている間も眠っている間も、感覚は実はさほど当てになりません。感覚を補い、感覚に認証を与えているのは記憶なのです。

しかしこうしたことは意識して観察に努めない限り、自覚する機会はまずありません。ベルグソンは夢から覚めた瞬間、夢の余韻が消えないうちに眠っている魂の状態を捉えようと辛抱強く自己観察に努めた経験を綴っています。その内容は次のようなものです。

ベルグソンは演壇に立って集まった聴衆に演説している夢を見ています。「すると聴衆の中からがやがやしたつぶやきが聞こえて来ます。それが強くなって、うなり声、ほえる声、恐ろしい騒ぎになります。しまいには「追い出せ、追い出せ」という叫び声が規則的なリズムで、四方からひびいてきます」(「夢」)。その瞬間ベルグソンは目を覚まし、隣の庭でけたたましく鳴いている犬の鳴き声を耳にします。夢の中の「追い出せ、追い出せ」という叫び声の正体は隣家の犬の鳴き声だったわけです。夢から覚めたベルグソンは夢を見ていた自分に向かってこう言い放ちます。「ようやく君を現行犯で捕まえることができた。君は叫んでいる聴衆の姿を見ているつもりだったのに、実際は犬が吠えていただけだ」。しかしこれだけのことならば、特に目新しい観察とも言えないでしょう。ベルグソンの観察が示唆に富んでいるのはこのあとの部分、夢の中の自分が目覚めた自分に向かって語りかけている部分です。「そうだ。私は犬が吠える声を聞いて、聴衆が叫んでいると思い込んでしまった。しかし犬が吠えるのを聞いてそれが犬の鳴き声だと判断するのに、君が何の努力も払っていないと思っているとしたらそれは大変な間違いだ。犬の鳴き声を犬の鳴き声と認識するだけのことにも、実はかなりの努力が払われている。君はおびただしい経験を一点に凝縮して、その聞こえた音の感覚の上にぴったり重ね合わせなければならないからだ。この二つの間にちょっとでも隙間があると、それは犬の鳴き声とは認識されないとしたら、私が犬の鳴き声を犬の鳴き声以外の何物かと思い込んだとしても無理からぬことではないだろうか。この調整作業は自動的に行われることはあり得ない以上、その都度細心の注意を払ってやり直すほかはない。これには感覚と記憶の同時的な緊張を要する。君は自分でも気づかないうちに何千という感覚を斥けつつその都度一つの感覚を選択し、同様に何千という記憶を斥けつつその都度一つの記憶を選び出しているのだ。こうして君が絶えず行っている選択と絶えず更新している現実への適応は、良識と呼ばれるものの本質的な条件を構成している。それは絶えずのしかかっている重力のように君を緊張状態に置き、知らぬ間に君を疲れさせる。良識を持つことは大変疲れることなのだ」。

「君が絶え間なく努力しているのに引き換え、私は一切努力をしない。何かに関心を寄せることもない。これが君と私との一番大きな違いだ。人は無関心になる程度に応じて眠るのだ。子供に添い寝している母親は物音には全く反応しないのに、子供のむずかる気配だけで目を覚ますことがある。これこそ関心を引くものに対して人は決して眠っていないという何よりの証拠だ」。

「目覚めている間、君が何をしているか教えてあげよう。君は夢を見ている私、過去の全体である私を縮小させ、現在の行動を中心とした極々小さな円の中に私を閉じ込めようと奮闘しているのだ。それが生きること、戦うこと、意欲することだ。人は夢から覚めることはできても、夢から脱け出すことはできない。夢とは「心的生活の全体から集中の努力を引き去ったもの」でしかないのだから」。

上に述べてきたことは、ベルグソンが「思想と動くもの」緒論で一般観念について述べていることと完全に対応しています。

一般化という言葉を様々な事物からそれらに共通の性質を抽出するという意味に解するなら、あらゆる生物のみならず生物の器官や組織さえ一般化を行っていると言うことができます。何故なら生物は周囲の環境から自分に利害関係のある部分のみ抽出し、その他の部分は無視するからです。この「量的次元の選択」が行われなければ、生物の行動は「無数の事物の中に散乱してしまう」ことになるでしょう。もちろん人間以外の生物においては抽象作用と一般化作用は身体によって体験されるものであって、思惟されるものではありません。とはいえ動物の表象も「そこに反省とある程度の無関心とが加わりさえすれば」、十分に一般観念となる資格を有していると言えます。人間も基本的な部分では一般性を思惟するというよりむしろ知覚している点では他の動物と同じです。知覚によって「反省の介入なしに、また意識の介入さえなしに」、極めて多様な対象からおのずと類似性が抽出され得るのです。「類似性はこれらの対象を一つの類の中に入れ、思惟されるというよりはむしろ演じられる一般観念を創り出す」でしょう。努力によって新たな習慣を獲得することのできる人間はもともとこの種の一般性を動物に比べはるかに多く所有している上に、思惟によって意識的に一般観念を創り出すこともできます。しかしそれも「今述べた類似性の自動的抽出すなわち一般化作用」の土台の上に成り立っていることを忘れてはなりません。

この点をもう少し掘り下げてみましょう。自然界には二つとして同じものは存在しない以上、何物も他のものには類似していません。しかし何らかの点で類似していない二つのものはないという意味で、あらゆるものがあらゆるものに類似している、とも言えます。この両極の間に、レヴェルを異にする無数の一般化作用が存在しているのです。しかし「さまざまな事物またはさまざまな状態の間にわれわれが知覚すると称している類似性とは、何よりもまず、それら事物や状態に共通な特性であって、身体に同じ反応を起こさせ、同じ態度をとらせ、また同じ運動を始めさせるもの」です。この場合、類似性という言葉をどう解したらよいでしょうか。たとえば塩酸は炭酸カルシウムに対して常に同じように作用しますし、植物は異なった土壌から同じ元素を抽出します。また恐らくアメーバのような原生動物は様々な有機物質相互の類似性を感取することはあっても、それらの差異を感取することはないに違いありません。これらの例が示すように、類似性はその起源においては「客観的に力として働くのであり、深い同一の原因には同一の全体的結果が伴うというまったく物理的な法則によって、同一の反作用を引き起こ」(「物質と記憶」第三章)しているのです。差異を感取するためには対象相互の比較、つまりある程度発達した記憶機能が必要で、これは後天的に獲得されたものと考えるのが妥当でしょう。仮に動物が差異を見分けているように見えたとしても、それは知的に見分けているというより、本能がいくつかのバリエーションを持つことに由来する場合が多いのではないでしょうか。こうした客観的に働く類似性に倣って人間によって意図的に一般観念が作られるようになったのは、物質的・身体的枠組みに意識が挿入されることによって形作られた諸表象、すなわち態度や習慣が内省によって思惟の状態にまで高められたときです。類概念という一般観念を手にした人間は以後言語と呼ばれる人工的な一大運動機構を作り上げ、言語はもはや単に身体的ではない精神的な枠組みを表象に提供することによって、ありとあらゆる対象に観念を拡張することができるようになります。一般化作用とは習慣が行動の領域から思惟の領域へと上昇することであり、一般観念の問題を理解するためには行動と思惟の相互作用を参照しなければならないのです。

しかし問題はこれで終わりではありません。あらゆる観念の原型となる一般観念はどのようにして生まれたのか、無数にある類似性のうち、ほとんど手を加えるまでもなく一般観念として流通し得る本質的な類似性とはどのようなものか、という問題が残されています。一口に類似性といっても客観的一般性から遠くかけ離れたものもあれば、数が限られているとはいえ「事物の根底に由来するもの」も存在します。後者に由来する一般観念も個人的あるいは社会的有用性から完全に独立したものではなく、ある程度それらに相対的であるのは事実でしょう。しかしこの種の一般観念は不純物が少なく、そこから「実在のある側面の多少とも近似的なヴィジオンを獲得しうる」のもまた事実なのです。「会話や行動を目的とする言語のために」社会が粗製濫造した大多数の一般観念も、これら少数の観念に倣って作られたものです。「実在そのものに内属的で客観的一般性とでも称しうるもの」、欲求や生活の必要にほとんど依存していない一般性とは一体どんなものでしょうか。

ベルグソンはこの客観的一般性を産出する本質的な類似性が二つのグループに分かれ、それ以外のいわば二次的なグループと合わせて類似性には三つのグループがあると述べています。最初の二つのグループのうちの一つは生命に起源を持つものです。人間の目には、「生命自身が類や種という一般観念を有しているかのように、生命が一定数の構造計画に沿って進んでいるかのように、生命の一般的諸特性を生命が創立したかのように、最後に、またとりわけ、生命が(生得的なものに関しては)遺伝と多少とも緩慢なる変形との二重の効果によって生物を階層的系列に配置し、その段階に沿って上昇するにつれて個体間の類似性がますます増加することを欲したかのように」映ります。進化がどういう原理に基づいていると考えるにせよ、あるいは種や類をどう分類するにせよ、「私が一般観念として表す種や類などの諸一般性への細別の基礎は(事実上私の分類が不正確でも)原理的には実在そのもののうちに存するであろう。また、生物の器官、組織、細胞、さらに「行動」、等に対応する諸一般性も権利上は全く同様に基礎づけられるであろう」。このあたりの文章に関してはベルグソンの言わんとしていることがよくわからないのですが、わからないなりに推測すると、あとで述べるように類化・一般化はもともと生命の働きに由来するものであることを示したかったのではないかと考えます(「創造的進化」に次のような記述があります。「類の観念は、とりわけ生命の領域における客観的な実在に対応しており、この領域で、類の観念は一つの反論の余地がない事実、遺伝を翻訳している」)。さらにここで注目すべき点は、客観的一般性の例の一つに「行動」が挙げられていることでしょう。確かに「もしわれわれの知性がその諸概念を物質化し、その夢想を演じることが不可避なことであるとするならば、このように行動のなかに凝縮されている習慣は、[形而上学的]思弁にまで高められるとき、われわれの精神、われわれの身体、そしてこの両者の相互関係に関してわれわれが有している直接的認識を、まさにその根源において混濁させて」(「物質と記憶」初版の序言)しまうものかも知れませんが、行動という「概念自体は自然な区分に対応するもの」です。問題は「現実を人間活動固有の諸傾向にしたがって」分節すること自体にあるのではなく、精神をも同じ傾向に従って分節しようとする際に不都合が生じてくるに過ぎません。――他方これら生命に起源を持つ類似性のグループと並んで、もう一つのグループが存在します。それが物質に起源を持つ類似性のグループです。「たとえば、色、味、匂い、のごとき諸性質。酸素、水素、水のごとき諸元素または化合物。さらに、重力、熱、電気のごとき物理的諸力」――これらの観念は物質世界から直かに切り出されたもので、ほとんど人間の手が加わっていません。しかし生命に起源を持つ第一のグループと物質に起源を持つ第二のグループは価値や重要さの点では同じでも、一つの類を構成するもの同士を相互に結び付けている原理は違っています。「細部に立ち入ることはさておき、またさまざまなニュアンスを考慮することにより叙述を複雑にすることは避け、また私の区別が過度にわたるならばあらかじめその点はやわらげ、さらにここでは「類似性」という言葉に最も正確だが最も狭い意味を賦与することにして、私はこう言おう。第一の場合には接近原理は固有の意味の類似性であり、第二の場合には同一性である、と」。つまり上述したように、類似性という言葉が厳密に当て嵌まるのは生命に対してだけであって、物的対象にこの言葉を使うのは適当ではないということです。たとえば「一定の色合いの赤は、それが現れているいっさいの対象物において、それ自身に同一でありうる。同一の高さ、同一の強さ、同一の音色、の二つの音調についても同様なことが言えるであろう」。この同一性は、化学の扱う対象から物理学の扱う対象へ、物理学の扱う対象から数学の扱う対象へと進むにつれて、より明確になります。したがって同一性とは幾何学的なものであり、類似性とは生命的なものであると言うことができるでしょう。前者が量に係わるものだとすれば、後者は「むしろ芸術の領分に入る」ものだとベルグソンは言います。「進化論的生物学者をしてさまざまな形態の血縁関係を想定せしめ、それらの間に類似性を認知する最初の者たらしめるのは、しばしば、全く美的な感情である。それらについて彼が行なうデッサンそのものが、時として、芸術家的な腕を、また特に芸術家的な眼を、あらわしているのである」。

(つづく)