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「ジェノサイド」(55)

2015-06-08 | 雑談
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見ての通り、「物質と記憶」の最後の部分はあたかも「創造的進化」の予告のような観を呈しています。実際、シュヴァリエとの対話において、ベルグソンは「『物質と記憶』の間中、“進化”という問題が不可避であることが感ぜられた」云々と述べています。そして面白いことに、と言うより驚いたことに、生物進化に関する研究を始める前は、進化そのものに懐疑的であったことを告白しています。

「『物質と記憶』を研究していたとき、自由と必然の問題は物理的なものと精神的なものの問題に結びついていたが、わたしは生命を考え始めていた。それから進化の問題に懐疑的な偏見をもってとりかかったが、事実によって、進化が真実らしいと認めるのを余儀なくされた。しかし、わたしの精神にはある疑惑が残っており、この疑惑は、『創造的進化』のある頁に、すべてはあたかもうんぬんということばとなって残った」(「ベルクソンとの対話」)

「一八九四年頃、記憶の研究がわたしを生命へと導き、これこそ次にとりかかるべき研究題目であると知らされたとき、わたしは、進化という観点に対してきわめて懐疑的な偏見を抱きながらこの問題を考察し始めた。一年後、問題をいちおう見通したときは、進化に反対する結論にさえ達していた。さらに深く検討したときに、はじめて、すこしずつ進化という仮説がもっとも真実に近いと認めた。しかし、それでも、わたしは自分の疑いを『創造的進化』の第二七ページに残して、すべては、実際に進化があるがごとくに進行すると言ったのだ」(同上)

この発言から、「進化」はベルグソンにとって、少なくともその時点では、「意識に直接与えられているものについての試論」や「物質と記憶」における自由や創造といった観念と同列に論じられるものではなかった、ということがわかります。同様に「創造的進化」の中心概念、エラン・ヴィタールという概念も、既成のどんな概念とも関係がありません。以下の文章からも窺えるように、それは「生命」を研究することによってはじめて確立された概念なのです。

「今日では、生物学者で発生学者、しかもすぐれた発生学者であるモンペリエ大学のヴィアルトン教授は、すくなくともわれわれが考えるような進化は否定するに至っている。これはおそらく行きすぎだろうが、ともかく、興味深い。/いずれにもせよ、おそらく進化はある。それでなければ、なにがあるのだろう。しかし、ある目に見えないものへの進化だ。どこへむかっているかは分らない。たしかなことは、存在の自己自身および環境に対する順応を表わしているいくつかの均衡型へむかっての飛躍、変異が存在することだ」(同上)

「(前略)ヴィアルトンもわれわれの話題にのぼる。私(シュヴァリエ)が送った生命についての講義録をめぐってヴィアルトンから手紙を受け取ったが、その一部を読み上げる。その中で、ヴィアルトンは、特に、《さまざまの類型は、過去あるいは未来の形というふうに一列に並んでいるというよりは、むしろ互いに補い合っている》と言っていたが、ベルクソンは、この考えを取り上げて言う。/「このさまざまの類型の相互補足性という観念は、きわめて感銘的だ。このことに思いあたると、それがどこにでも見えてくるほどに、重みを持ってくる。この補足性に気がついて、動物と植物の相互の役割についてこの点を明らかにしようとした」」(同上)

さて、「ベルクソンとの対話」から「創造的進化」に関する発言をいくつか抜き出してみましたが、それはこれから「創造的進化」を読むに当たって、できるだけ先入観を払拭して置きたかったからです。もっとも「創造的進化」で論じられていることの中には、「意識に直接与えられているものについての試論」や「物質と記憶」を理解した上でないと十分に理解できないものが少なくありません。その意味では、この二つの著作の大半を読み終えた今、ようやく「創造的進化」を読む準備が整ったと言えます。しかしその前に、放置したままになっている「ベルクソンにおける差異の概念」の残りの部分に目を通して置きたいと思います。

話が脇道に逸れるきっかけとなったのは、二つのタイプの多様性という問題でした。

「重要なのは、混合されたものの分解が《多様性》の二つのタイプをわれわれに示すということである。そのうちのひとつは空間によって表象される(中略)。もうひとつのタイプは純粋な持続として存在する。それは継起・融合・組織化・異質性・質的区別または質的差異の内的多様性であり、数には還元されない、潜在的で連続的な多様性である」(「ベルクソンの哲学」第一章)。二つに分解された混合物の一方、すなわち持続は潜在的多様性であり、それは最早分割されず、二つの傾向に分化します。「分化こそ、単一のものの本質そのものであり、あるいは差異の運動である。こうして混合物は二つの傾向に分解され、その一つは不可分なものであるが、しかし不可分なものは二つの傾向に分化し、その他の一方が可分のものの原理となる。空間は物質と持続とに分解され、しかし持続は凝縮と弛緩とに分化して、弛緩は物質の原理となる。有機体的形態は物質とエラン・ヴィタールに分解され、しかしそのエラン・ヴィタールは本能と知性に分化し、知性は空間内の物質の転形の原理となる」(「ベルクソンにおける差異の概念」)。

混合物の分解と、単一物の分化は同じものではありません。この点についてはそのときひと通り説明しましたが、以下にその部分を抜き出して置きます。

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ドゥルーズはまず(直観の)方法の三つの契機について語っています。

1(第一の契機) 「ベルクソンは、段階的な差異または強度の差異にもとづく、世界についてのあらゆる見方を批判する」(「ベルクソンの哲学」第五章、以下同じ)。空間と持続、物質と記憶、現在と過去の間には段階的な差異や強度の差異ではなく、性質の差異があります。この質的差異は、「経験の《曲がり角》の向こう側へ行き、経験のなかに与えられた混合物を分解」することによって発見されます。

2(第二の契機) しかし質的差異が二つの傾向の間にあるというだけでは十分ではありません。二つの傾向の内の一つがすべての質的差異を引き受け、もう一つの傾向の中には段階の差異しかないからです。「すべての質的な差異を包含するのは持続であり、その結果、持続はそれ自体に対する疎外として定義されるに至る。段階的な差異を排他的に示しているのは空間であり、その結果、空間は無限定な分割可能性のシェーマとして現れるに至る。(中略)したがって、もはや二つの傾向のあいだに質的な差異はなく、ひとつの傾向に対応する性質のいくつかの差異と、別の傾向に関係する段階のいくつかの差異とのあいだの差異が存在する。それは、中和され、補償された二元論の契機である」。

3(第三の契機) 持続は質的差異を示し、空間は段階の差異を示します。したがって持続と空間の間にはあらゆる差異の段階、と言うよりむしろあらゆる差異の性質があります。持続は物質の最も収縮した段階に他ならず、物質は持続の最も弛緩した段階に他なりません。「段階の差異は、差異のなかでは最低の段階のものである。性質の差異は、差異のなかで最高の性質のものである。性質と段階のあいだには、いかなる二元論もない。ひとつの同じ性質が、一方では性質の差異において、他方では段階の差異において表現されるが、あらゆる段階がこのひとつの同じ性質のなかに共存している」。これは一元論の契機です。

二元性は「経験の最初の曲がり角の向こう側に達している現実的な諸傾向、現実的な諸方向のあいだで価値を持」ちますが、それらが集約され、統一されるのは経験の「第二の曲がり角」です。「それ自身が性質であるところの唯一の時間のなかに共存している」あらゆる段階、あらゆるレヴェルは潜在的であり、「統一化の地点それ自体が潜在的」です。そこで明らかにしなければならないのは、この潜在性という概念です。そのためには「一元論(第三の契機)から出発して二元論を再発見し、新しい面でそれ(一元論)を説明」する必要があります。「したがって、先行する三つの契機に、第四の契機、つまり再発見され、支配され、また何らかの意味で生み出された二元論という契機を結合させなくてはならない」。

4(第四の契機) 混合物の分割は「反省された二元論であって、(中略)この方法の第一の契機を構成」しています。それに対して単一のものの分化は「差異化から生じた発生論的二元論」、「再発見され、支配され、また何らかの意味で生み出された二元論」です。この発生論的二元論は「方法の最後の契機(先ほど述べた方法の第四の契機)を形成し、それはこの新しい面において、ついに出発点を見出す」のです。

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このように混合物の分解と単一物の分化との区別は、「質的な差異という二元論と、(収縮と)弛緩の段階という一元論との調和の問題、方法の二つの契機、あるいは経験の曲がり角の《彼方》にある二つのものの調和の問題」(「ベルクソンの哲学」第五章)、すなわちそれらをどう結合させるかという問題にかかわってきます。ここでドゥルーズが述べている「方法の二つの契機」とは、上記の「第三の契機」と「第四の契機」のことであり、また「経験の曲がり角の《彼方》にある二つのもの」とは、「質的な差異という二元論と、弛緩の段階という一元論」のことです。しかしこの二つの場合、「経験の曲がり角」という言葉はそれぞれ異なる意味を持っています。「(前略)《決定的な曲がり角の上》という表現には二つの意味がある。それはまず第一に、経験において与えられた、混乱した共通の点から出発したいくつかの線が、真の質的差異にしたがって次第に分かれて行く瞬間を示している。二番目に、この表現は、共通な点の潜在的なイマージュまたは明確な理由をわれわれに与えるためにそれらの線が新たに集約されるもうひとつの契機を示している。これは転回と再転回であり、したがって二元論は一元論の再形成に到達するはずのひとつの契機にすぎない。(中略)したがって、反対の方向に向かう、経験の二つの継起的な曲がり角があり、それらがベルクソンが哲学における明確さと呼ぶものを構成している」(「ベルクソンの哲学」第一章)。

ところでドゥルーズは第一章でも、直観には三種類の行動、それを規定する三つの規則があると述べています(「ベルクソンの哲学」第一章)。

「第一の規則 問題そのもののなかで真偽の検証を行ないにせの問題を否定し、問題のレヴェルにおいて真理と創造を調和させる」(同上)。

「第二の規則 幻想とたたかい、真の質的差異または実在の区分を見出す」(同上)。

第二の規則の補足的規則 「現実的なものは自然的な区分または質的な差異によってのみ切断されるのではなく、ひとつの観念的または潜在的な点へと集中するいくつかの道にしたがっても切断される」(同上)。

混合物の分解は、この第二の規則に該当しますが、分化はこの規則には該当しません。何故なら分化は単に「対象物(もの)の生産」(「ベルクソンにおける差異の概念」)に過ぎないからです。補足的規則は分化そのものと言うより、寧ろ分化した線を遡って単一物を再発見することを意味しています。補足的規則にある「ひとつの観念的または潜在的な点」とは、発生論的二元論において見出される「出発点」と同じものです。

具体例を挙げましょう。「たとえば、これもまた『物質と記憶』第一章においてであるが、われわれは記憶の問題を正しい仕方で提起している。そこでは、記憶内容と知覚の混合物から出発して、われわれはこの混合物を分化しまた膨張した二つの方向に分割した。この二つの方向は、魂と身体、精神と物質との真の質的な差異に対応している。しかし問題の解決は縮小によってのみ得られる。つまりそれはわれわれが分化した二つの方向が新たに集まるもとの点、記憶内容が知覚のなかに入り込む明確な点、出発点の反映と理由としての潜在的な点を把握する場合である。このようにして、魂と身体、物質と精神の問題は、極度の収縮によってのみ解決される。そこではベルクソンは、客観性の線と主観性の線、外的な観察の線と内的な体験の線が、どのようにしてそのさまざまなプロセスの出口で、失語症に至るまで集約されるべきであるかを示している」(「ベルクソンの哲学」第一章)。

ここでドゥルーズが「この混合物を分化しまた膨張した二つの方向に分割した」、「問題の解決は縮小によってのみ得られる」と述べているのは、それぞれ「二元論を極限まで推し進めた」こと、その結果、「両者を接近させ、結合させる唯一の手段を提示した」ことを指しています。また「失語症に至るまで集約される」という表現は少々わかりづらいのですが、要するにこれは、「精神をその最も複雑な形式においてではなく、最も単純な形式において考察するために、観念をすべて排除し、イマージュだけに」、「イマージュのうち記憶だけに、記憶一般のうち言語の記憶だけに、そして言語の記憶のうち単語の音声に関する記憶だけに着目した」こと、つまり「心身合一の問題の範囲を可能な限り狭めていった」ことを指しています。

しかしドゥルーズは、分化の重要性を強調する一方で、「分化の重要性がどれほどのものであるとしても、それが最も深いものではない」(「ベルクソンにおける差異の概念」)とも述べています。これはどういう意味でしょうか。また分化の理論より深い理論とはどんな理論でしょうか。

そもそも方法の「第四の契機」が必要なのは、潜在的なものについての概念が「それ自体で最大限に明確にされる必要がある」(「ベルクソンの哲学」第五章)からです。しかし「分化は概念ではなく、概念のなかにその根拠を見出す対象物(もの)の生産」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)です。そして「もしも自己との間に差異を生ずるものがしかじかの概念であるべきであるということが真実であるとすれば」、つまり事物と一致する概念、「差異の概念となった概念」があるとすれば、「潜在的なものには、或る恒常性、客観的安定性があって、それが潜在的なものをして分化することを可能ならしめ、しかじかの対象物を生み出すのに適したものたらしめるのでなければ」なりません。

ドゥルーズはここで、「ラヴェッソンの生涯と業績」の文章の一部を引用しています。それはこの文章が、直観によって得られる「差異の概念となった概念」と一般概念(或いは一般観念)の違いを余すところなく表現しているからです。

「例えば、虹のすべての色合い、すなわち紫や青、緑や黄や赤などの色合いについて考えてみよう。これらの色合いに共通のものを決定する方法、言い換えるとそれらを哲学的に把握する方法には二つのものがある、と言ってもラヴェッソン氏の根本思想に反することはないだろう。第一の方法は、それらの色合いを十把一絡げに色と呼ぶことである。その場合には、色という抽象的、一般的な観念が多様な色合いを一つに纏めることになるだろう。しかし色というこの一般観念を得るためには、赤を赤たらしめているものを赤から消し、青を青たらしめているものを青から消し、緑を緑たらしめているものを緑から消さなければならない。色という観念は、赤も青も緑も表さないものとしてしか定義できないのだ。これは幾つもの否定からなる一つの肯定であり、空虚を限る一つの形式である。こうしたやり方で満足している哲学者は、抽象的なものの中にとどまることを余儀なくされる。彼は一般化を推し進めれば、事物を統一できると思い込んでいる。実際には、彼は単に、色合い相互の差異を生み出している光を一つずつ消していき、最終的にすべての色合いを闇の中に一緒くたに溶かし込んでいるだけなのだ。真の統一を得る方法は、そのような方法とは全く異なる。真の統一を得る方法、それは、青、紫、緑、黄、赤など無数の色合いを、収斂レンズを通過させて一点に集めることである。するとそこに、まばゆいばかりの白光、すなわち地上では様々な色合いに分散して知覚されるが、光源では多彩な光線の限りない多様性を不可分の統一のうちに含んでいる(すべての波長の光が均等に混った太陽光のような)純粋な白光が現れ、それと同時に、分散した光の一つの一つの色合いの中にも、それまで肉眼では捉えることのできなかった白光、各々の色合いが分有している白光を捉えることができるようになるだろう。それらの色合いに固有の色は、白光という共通の輝きから引き出されたものなのだ。ラヴェッソン氏によれば、形而上学に要求される視覚とは恐らくこのようなものである。真の哲学者の眼は、古代の大理石像を黙って眺めるだけで、その大理石像に凝縮されている真理、一冊の書物から得られる寥々たる知識とは比較にならないほど豊富な哲学的真理がそこから湧き出てくるのを見て取るだろう。個別的な存在にそれ固有の色合いを与えるとともに、それを普遍の光(白光)に結び付けている特殊な光線を、個別的な存在そのもののうちに把握し、その光源まで辿ること、これが形而上学の目的である」(「ラヴェッソンの生涯と業績」。「古代の大理石像」とはミロのヴィーナスのことで、ラヴェッソンがミロのヴィーナスに関する論文をいくつも発表していることからこの表現が出てきたのだと思われます)。

第一の方法では、概念と対象との間に内的な関係はありません。わたしたちの前にあるのは、一つの類に他ならない一つの概念と、同一の概念に対応する多くの対象物です。このときわたしたちは、「空間的な弁別、事物について外在的差異の状態」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)にとどまります。

それに対して第二の方法では、様々な色合いは最早一つの概念に対応する多くの対象物ではなく、「概念自体のニュアンスあるいは程度」を表しています。第一の方法では一つの概念が対象物を内包しているのに対して、第二の方法では様々な色合い(特殊)が普遍的なもの(白光)を分有しています。このように事物(様々な色合い)が概念自体(白光)のニュアンス或いは程度になったということは、概念そのものが事物になったということでもあります。したがってこのとき事物は概念自体の程度として描き出される、と言うこともできれば、概念は事物そのものと同一的である、と言うこともできます。また事物は「一個の具体であって、類や一般性ではない」のと同様に、概念が表しているのは「それに関係づけられるいくつかの対象物(もの)相互間の差異であって、それらの類似では」ありません。こうした「差異の概念となった概念」を作り上げるのが形而上学の目的です。そのために必要なのは、「空間内で考えることを断念する」こと、「空間的差異に時間的差異を代置」することです。そしてこの「空間的差異に時間的差異を代置」することこそ、直観を規定する第三の規則に他なりません。

「第三の規則 空間によってではなく、むしろ時間によって問題を提起し、解決する」(「ベルクソンの哲学」第一章)。

しかし何故、「空間的差異に時間的差異を代置」することが必要なのでしょうか。それはまさに、空間的差異は程度を許容しないのに対して、時間的差異は程度(度合い)を許容するからです。――「わたしたちは空間によって両者を区別するのではなく、時間によって区別すべきだと考えました。身体と精神という二つの項は、それによって本当に結合することが可能になったでしょうか。ここで注目していただきたいのは、第一の(空間による)区別はいかなる度合いも許容しない、という点です。第一の区別では物質は空間の中にあり、精神は空間の外にあります。したがって一方から他方へ移行することは不可能です。それに対して精神の最も基本的な働きが、事物の持続の継起する瞬間を結び付けることにあるとすれば、そしてこの働きにおいて精神は物質と接触し、またこの働きによって既に物質から区別されるとすれば、物質と十分に発達した精神との間、すなわち(例えばアメーバ運動のような)単に非決定な行動ではなく、理性的かつ反省的な行動を行う能力を持った精神との間には、無数の段階を想定することができます」(「物質と記憶」第四章)。そしてここでもう一つ重要なのは、時間・持続を媒介にして考えることによって、身体と精神という二つの項の結合が可能になるという点です。つまりこれによって、先ほど述べた方法の第三の契機と第四の契機を結合させることが可能になり、「分化した二つの方向が新たに集まるもとの点、記憶内容が知覚のなかに入り込む明確な点、出発点の反映と理由としての潜在的な点」を発見することが可能になるのです。

この点に関しては、「ベルクソン 一八五九―一九四一」の解説がわかりやすいかも知れません。

「それで、二元論が一元論へとのりこえられるとしても、その一元論はわれわれに、今度は抑制され、支配された新しい二元論を与えることになる。(中略)こうして直観の方法は第四のそして終局の性格をもつ。直観は事物を裁断するために自然の分節をなぞることに甘んじてはいない。それはまた《事象の方向線》、差異化〔分化〕の方向性を遡って、いくつかの蓋然性〔確率〕の収束として単一のものを再発見する。直観は裁断するのみではなく、裁ち直す」(「ベルクソン 一八五九―一九四一」)。――「抑制され、支配された新しい二元論」、つまり発生論的二元論は、この裁ち直しを意味します。裁断が経験の第一の曲がり角で行われるとすれば、裁ち直しが第二の曲がり角で行われるのは言うまでもありません。

このように見てくれば、一見わかりづらい次の文章も難なく理解できるのではないでしょうか。「以上のように解された直観は自らを回帰として示す。実際、われわれを外部に残す代りに事物の中に置く哲学的関係は、創設されるよりもむしろ哲学によって復興されるのであり、創出されるよりもむしろ再発見される」。「われわれは、直接的なものを見出すために後帰りしなければならないのだから、直接的なものを再発見することになる。哲学における最初とは、すなわちすでに二度目であり、基本の観念とはかくのごときものである」(「ベルクソン 一八五九―一九四一」)。

時間的差異に話を戻すと、「時間的差異の特性は概念を一つの具体的な事物たらしめること」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)です。「なぜなら事物たちはそこでは、その概念のうちにあらわれる、それらの事物と同じ数だけのニュアンスなり程度なりに外ならない」からです。そのような概念とはどんなものでしょうか。それは、「程度あるいはニュアンスの可能的共存」、すなわち記憶です。「記憶の意味は持続そのもののもつ潜在性に客観的な恒常性を与えることであり、そのおかげで持続が具体的普遍となり、それが持続の潜在性を現実化するのに適したものたらしめるのである」。「持続とは自己との間の差異であり、記憶とは差異のさまざまな程度の共存であり、エラン・ヴィタールとは差異の分化である。この三つの階層がベルクソン哲学における一種の図式性を規定している」。「ベルクソンは生物学の中に、とりわけ類の進化の中に、生命にとって本質的なある過程、まさしく現実のさまざまな差異の生産としての分化の過程、彼がその概念と哲学的な諸結果を探ろうとする過程、の証拠(しるし)、を見出す」(「ベルクソン 一八五九―一九四一」)。分化は物質の抵抗と同時に、「持続が自己の裡に内蔵している力」(同上)、エラン・ヴィタールの中に含まれる相互補完的な二つの傾向から生じます。しかしこの二つの傾向とは実は差異そのものの程度に他ならず、分化とは「持続のなかに共存していたものの分離」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)に過ぎません。潜在的で不可分のものは、「そのなかに共存している程度をもとにしてだけ分化する」ことができるのです。分化の理論より深い理論、分化の理論に根拠を与えている理論とは、この「ニュアンスや程度の理論」とドゥルーズが呼んでいるものに他なりません。

分化の理論より程度の理論が深いというのは、現実的なものより潜在的なものの方が深いということです。「潜在的なものから現実的なものへという進化がなされる。進化は現実化であり、現実化は創造である。したがって、生物学的進化または生命体の進化について論ずるときは、二つの誤解を避けなくてはならない。それはこの進化を、実在化される《可能的なもの》によって解釈するという誤解と、純粋に現実的なものによって解釈するという誤解である」(「ベルクソンの哲学」第五章)。――ベルグソンが可能的なものを拒否するのは、それが「にせの概念であり、にせの問題の起源」(「ベルクソンの哲学」第五章)だからです。それは差異のメカニズムも創造のメカニズムも理解できないものにしてしまいます。逆にベルグソンが(そしてドゥルーズが)潜在性という概念を重視するのは、差異のメカニズムや創造のメカニズムを説明するものこそ潜在性という概念に他ならないからです。

「たしかに潜在的なものはそれ自体としては作用しないものの様態である。なぜならそれはみずから分化することによって、自己の本源の姿を幾分かはとどめながらも自己そのものであることを止めることによってだけ、作用することになるだろうからである」(「ベルクソンにおける差異の概念」)。しかし潜在的なものは作用しないからと言って、決して「存在」しないわけではありません。それは「ことばの完全な意味において存在して」(「ベルクソンの哲学」第三章)います。そして潜在的なもの、すなわち持続や純粋記憶が決して存在することをやめないとすれば、知覚と記憶、現在と過去は「お互いに同時的であり、同一世界を形成するものとして」(「ベルクソン 一八五九―一九四一」)共存していることになります。

「ここに想起があります。それは紛れもなく想起です。何故なら普通わたしたちが想起と呼ぶ状態の特徴をすべて備えているからです。この状態は、(通常は)対象が一度消えない限り意識に描かれることはありません。ところが今問題となっている想起は、かつてあった何物かを表しているのではなく、単に今あるものを表しています。この想起は自分が再現する知覚と足並みを揃えて歩んでいます。それは現在の瞬間における、まさにこの瞬間の想起なのです。形式においては過去で、素材においては現在です。これは「現在の想起」なのです」(「現在の回想と誤った再認」)。

現在と過去の共存は、「誤った再認」だけに見られる特殊な現象ではありません。「過去時と過去時がかつてそうであった現在時との共存はベルクソン哲学の本質的テーマの一つである」(「ベルクソンにおける差異の概念」)。この現在と過去の共存、現在と過去の同時性には二つのものが考えられます。第一の場合、すなわち単に「過去時と過去時がかつてそうであった現在時」が共存している場合、このとき純粋記憶は既に差異であると言うことができます。何故ならどんな記憶もそれ以外の記憶と異なっており、それぞれが唯一無二のものだからです。類似が知覚の対象であるように、差異は記憶の対象なのです。しかし過去時は、過去時がかつてそうであった現在時と共存するだけではありません。「過去はそれ自体を保存するので(現在は過ぎて行くが)――それぞれの現在と共存するのは、全体としての、統合的な過去であり、われわれのすべての過去である」(「ベルクソンの哲学」第三章)。この第二の場合にも記憶が差異であることには変わりありませんが、その意味合いが違います。つまりこの記憶は、「つづいて来る各瞬間をあたらしい何ものかとして構成するという意味において、現在時のなかに差異を導き入れる」(「ベルクソンにおける差異の概念」)のです。第一の場合、差異は「現にある固有なもの」を表しているのに対して、第二の場合、差異は「つくり出されてゆく新しいもの」(同上)を表していると言えるでしょう。このように記憶は、「それと同時的である知覚との関係において、またそれがその中へと延長される後続の瞬間(つまり未来)との関係において、同時に規定され」(同上)ます。「したがって、分解できないように結合された記憶の二面がある。つまり、記憶内容としての記憶と集約としての記憶である。(結局、持続のなかにこのような二重性がある理由が問われるならば、おそらくその理由はわれわれがあとで検討する次のような運動のなかに見出されるだろう。それは、持続する《現在》が、それぞれの《瞬間》に二つの方向に分かれる運動である。そのひとつは過去へと向かい、過去へと膨張し、もうひとつは未来に向かって集約され、おのれを集約する運動である。)」(「ベルクソンの哲学」第三章)。「過去へと向かい、過去へと膨張」する運動とは言うまでもなく記憶のことであり、「未来に向かって集約され、おのれを集約する運動」とはエラン・ヴィタールのことです。

ところで、「つくり出されていく新しいもの」、この「新しさについての観念」が自由の理論において重要な意味を持つことは既に見た通りですが、「意識に直接与えられているものについての試論」においてこの観念が具体的な形となって現れたのはどこでしょうか。それは、例えば以下の箇所だとドゥルーズは言います。

「規則的な振り子の揺れがわたしたちを眠りに引き込むような場合、この催眠効果を生むのは最後に耳にした秒針の音、あるいは最後に目にした振り子の揺れでしょうか。恐らくそうではありません。もしそうであれば、最初の音や揺れが何故同じように眠りを誘わなかったのか、その理由がわからなくなるからです。では、最後の音、あるいは最後の揺れに並置されたそれ以前の音なり揺れの記憶がわたしたちを眠りに誘ったのでしょうか。しかしそれ自体としては一つの刺激に過ぎない音や揺れに同じ記憶を後からいくら並置したところで、何の効果も生まれない筈です。したがって結局のところ、それらの音(や揺れ)が相互に結合し、単なる量としてではなく、その量が質化されることによって、つまり全体が一定のリズムで有機化されていくことによって作用したのだ、という結論に行き着かざるを得ません。こう解釈する以外に、微弱で連続的な刺激がもたらす(ときに絶大とも言える)効果をどうやって理解することができるでしょうか。感覚がそれ自身と同一のものにとどまる限り、それは何度繰り返されようと(最初と同じように)微弱で、取るに足りないものにとどまるでしょう。しかし実際には、刺激が加わる毎にそれ以前のすべての刺激に有機的に統合され、常に終止を孕みながらも新しい音が付加されることによって全体が絶えず変化していく一つのフレーズ(楽節)を聞くのと同じ効果がもたらされるのです」(「意識に直接与えられているものについての試論」第二章)。

時計の振り子の揺れが何度繰り返されようが、外界には何も新しいものは生まれません。しかし「ヒュームは、たんなる繰り返し、対象において何ら新しいものを生み出さない同じケースの繰り返しが、それでもやはりそれをながめる精神のなかに何か新しいものを生み出すことができるのはどうしてなのかを問うことによって、因果性の問題を提出した。(中略)この問題への答は、繰り返しがそれを見る精神のなかに差異を生み出すのは、人間の本性の原理、そして特に習慣の原理の力による、ということであった。ベルクソンが柱時計や槌の音の例を分析するとき、彼は問題の同じ立て方をし、類似の仕方でそれに解答を出している」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)。――新しいものを生み出すのは、振り子の揺れを眺める精神の内部の相互浸透であり、過去の全体と現在との有機的な統合であり、「要するに精神の内部につくられる収縮」です。収縮は何か新しいもの、すなわち差異を生み出します。何故なら収縮は繰り返しを不可能なものにし、「すべての可能的な繰り返しの条件そのものを壊」すからです。逆に繰り返しは、「別のものが消え失せたときはじめてあらわれる現在時の様態であり、瞬間そのものあるいは外面性、震動、弛緩」です。したがって収縮(持続)と繰り返し(物質)は、「本性において差異を生ずるものと程度しかものぬものとして対立し合って」(「「ベルクソン 一八五九―一九四一」」)いる、と言えるでしょう。

もっとも一口に収縮と言っても、精神が自らを収縮させる(内的差異)ことと、繰り返されるものを収縮させることは区別しなければなりません。「収縮はまず、いわば精神の内部に自らをつくり出し、収縮はいわば精神の源のようなものであり、それが差異を生じさせ」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)ます。「ついで、しかもその後においてだけ、精神は収縮をじぶんの責任で引受け、自由についてのベルクソンの理論にみられるように、精神は収縮させたり自ら収縮したりする」のです。ここで「われわれは以前の難点をふたたび見出す。それは、本性の差異とは二つの傾向の間にあると同時に、もっと深い意味では、二つの傾向のうちの一つである、ということであった。そして差異についての二つの状態しかないのではなくて、さらに二つの状態があった。特権的な傾向、右翼の傾向は二つに分化し、それは、もっと深い意味では、差異のなかにも程度があればこそ、分化できるのであった。いまやまとめ直す必要があるのは次の四つの状態、つまり、本性の差異、内的差異、分化〔差異化〕、および差異の程度、である」。――先ほど述べたように、内的差異は繰り返しと本性において異なります。しかし差異が内的なものであるならば、この差異は繰り返しとの差異をも自らのうちに含まなければならず、繰り返しそのもの、或いはその可能性をも自らのうちに含まなければならないのではないでしょうか。もしそうであれば、逆に繰り返しもまた差異に属する、ということになるのではないでしょうか(下記参照)。事実、「繰り返し、物質は、まぎれもなく一つの差異」なのです。例えば振り子の揺れは、「次のものがあらわれるときには前のものは消えてしまって」いる点で、その一つ一つが区別されます。またわたしたちが夢見るとき、現在の状況に無関心になるとき、或る意味で純粋の差異、すなわち個別的なもの、特殊的なものが姿を現します。したがって繰り返しは、いわゆる一般性と同じものではありません。何故なら一般性は精神の収縮を前提としているのに対して、繰り返しは対象を「そのままの姿でとどめ、それをその特殊性のなかにとどめておこうとさえする」からです。なるほど繰り返しは、対象の様々な種類を形成します。しかし「これらの種類はそれ自体が一般観念であるわけでは」ありません。というのもこれらの種類は相互に類似している対象によって形作られているというより、自己同一的に繰り返す対象によって形作られており、その対象の特殊性を表しているからです。このように対象の特殊性(例えば物質の諸性質、様々な元素、そして重力や熱や電気といった物理的な力など、物質的要素や物理的現象がこれに該当します)を示すという意味で、繰り返しは紛れもない差異には違いありませんが、「ただそれはつねに自己に対して外在する差異であり、自己に対して無関心な差異」なのです。
(この表現は「ベルクソン 一八五九―一九四一」の次の文章から借りたものです。「もしも差異のすべてが一方の側にあれば、この側は別の側との差異を含まねばならず、またある意味では別の側そのものあるいはその側の可能性をも含まねばならない。持続は物質とは異なるが、それはまず自らにおいて自らに対して差異を生ずるものであり、このことはまことにはっきりとそうなので、持続がそれから差異を生ずる物質もまた持続に属することになる」。またその後に続く次の文章も参考になります。「持続は、それ自らとしての程度をもたず、反対の運動としての、ある障害物、持続を狂わせその飛躍(エラン)を妨げ、ここではそれにしかじかの、彼所ではまた別の、程度を賦与するある不純性、としての物質に出遇うことになる。しかしもっと深くは、持続が程度を受入れることができるのは自らの内においてであって、持続とは自らに対して差異を生ずるものであるからであり、それはまことにはっきりしていて個々の物は全面的に持続の中で規定され、物質そのものもそこに含まれてしまう」。)

以上のように考えれば、逆に差異も一種の繰り返しである、ということも容易に理解できるでしょう。精神は自らを収縮させる一方で、繰り返されるものを収縮させ、共存させます。「収縮することによって、繰り返しの要素は自己と共存し、こう言った方がよければ、多様化し、自己を保つ。かくて収縮の程度は定義され、そのそれぞれの程度が要素自体の自己との共存をそれぞれの水準においてわれわれに示す。この共存がすなわち全体である」。現在と過去の全体が共存するということは、「物質的繰り返しの同一的諸要素が互いに溶融して収縮となる」ことです。「この収縮はわれわれに、何か新しいもの、差異を示すと同時に、差異自体の程度に外ならない程度をも示す」。程度とは「われわれの過去の生活全体の」繰り返しであり、「差異もまた一種の繰り返しであるのはこの意味において」です。こうした過去の生活全体の繰り返し、すなわち心的繰り返しと物質的繰り返しとの違いは、物質的繰り返しが「唯一の同じ面での諸要素の」(「ベルクソンの哲学」第三章)現実的反復であるのに対して、心的繰り返しは「《さまざまな面》の」(同上)潜在的反復である、という点にあります。ここから次のように結論することができます。「(前略)持続は潜在的共存である。また空間はまったく別のジャンルの共存であり、現実的共存であり、同時性である。これこそ持続を規定する潜在的共存が同時に現実的継起であり、一方、物質は結局われわれに、継起よりも、同時性と、現実的共存と、並置との、単なる物質を与えることの理由である」(「ベルクソンにおける差異の概念」。以下同じ)。持続が共存であること、それも潜在的共存であることをドゥルーズが強調するのは何故でしょうか。それは、記憶には「追憶的記憶(記憶内容としての記憶)と収縮的記憶(集約としての記憶)とがあって、この第二のもの(収縮的記憶)の方がより深いもの」だからです。そして可能的なものが差異のメカニズムや創造のメカニズムを理解できないものにしてしまうように、現在や現実的なものをもとにして考えると、時間の本質を見誤ってしまうからです(下記参照)。「直観に身を委ねるがままの持続は、無数の可能的な緊張、無限に多様な弛緩と収縮が可能なものとしてあらわれる。ベルクソンは対立する概念の結合に対して、それが事象を、一丸として、程度もニュアンスも無視してしか示し得ないことを非難した。これに反して直観はわれわれに「可能的な無数の持続の間で選ぶこと」をゆるし、「あるいは下方へ、あるいは上方へとわれわれが跡づけようと試みるべきさまざまな持続の連続」を委ねるものである」。
(「過去時は現在時であった後に構成されるのではなくて、それは現在時として自己と共存している。その点をよく考えると、過去時の観念そのものの哲学的難しさは、それがいわば二つの現在時、すなわちそれがかつてそうであった現在時とそれとの関係で今それが過去となった現動的現在との間に挟まれているという事情から由来している。問題の措定の仕方が悪い心理学の誤りとは、上述の第二の現在時を保持したことであり、そこからただちに過去時を現動的な何ものかをもとにして探究したことであり、結局それを程度の差こそあれ大脳の中に置いたことである。しかしじつは「記憶は現在から過去への退行の中にはまったく存しない」。ベルクソンがわれわれに証明することは、もしも過去時が現在時であるとの同時に過去時であるのでなければ、単にそれは自らを構成できないだけではなく、それ以上に、後にくる現在時をもとにして再構成されることもあり得ないだろう、ということである。それで過去時が現在として自己と共存するとは、このような意味でのことだ。持続とはこうした共存そのもの、自己の自己との共存以外のことではない。そこで過去時と現在時とは、持続の中に共存する両極の程度、一方はその弛緩の状態によって、他方はその収縮の状態によって、区別される二つの程度、として考えられるべきなのだ。周知の一つの比喩が告げている。円錐のそれぞれの各層に、われわれの全過去時は存在しているが、しかしその程度は異なっている、現在時とはただ過去時の最も収縮した程度なのだと。「それで同じ心的生命が、記憶の継起する諸階層において、無限回繰り返されるだろうし、また精神の同じ行動が、おびただしい異なる高さにおいて行われることができるだろう」。「すべてのことが、あたかもわれわれの追憶が、こうしたわれわれの過去の生活の何千回となく可能な縮約(レデュクション)の中で、繰り返されるのであるかのように、過ぎゆくのである」(「ベルクソン 一八五九―一九四一」)。――「問題の措定の仕方が悪い心理学の誤り」とは、具体的には以下のように考えることです。「われわれは現在によって過去を構成できる」、「われわれは徐々に過去から現在へと移行する」、「過去と現在は前後関係によって区別される」、「精神の作業は要素の添加によってなされる」(以上「ベルクソンの哲学」第三章))

(つづく)

「ジェノサイド」(54)

2015-06-08 | 雑談
Ⅶ.――まず指摘したいのは、この第二の問題は単に心理学的な意味を持つだけでなく、形而上学的な意味も持っているということです。記憶は知覚の弱まったものに過ぎない、という風に命題を立てれば、それは確かに純粋に心理学的な命題です。しかし外見に惑わされてはなりません。記憶が知覚の弱まったものに過ぎないとすれば、逆に知覚は、記憶の強まったものだということになる筈です。ここにイギリス観念論の出発点があります。イギリス観念論の本質は、知覚される対象の実在性と思考される対象の観念性に本性の違いではなく、程度の違いしか認めないところにあります。物質はわたしたちの内的状態で構成されるという考え、知覚は真実の幻覚(第一章参照)に過ぎないという考えも、同様にここから来ています。わたしたちが物質について論じたとき、絶えず論駁したのがこの考えです。したがって物質に関するわたしたちの考え方がそもそも間違っていたか(問題の形而上学的な側面)、或いは記憶は知覚から根本的に区別されるという命題は真であるか(問題の心理学的な側面)のどちらかだということになります(つまり後者が証明されれば、前者、すなわち純粋知覚理論も正しいということになります)。

こうしてわたしたちは、形而上学的問題を、心理学的問題と重なり合う地点、心理学的問題であるがゆえに、そこでは単純な観察によって問題の解決が可能な地点まで移動させました。ではどんな風に問題は解決されるのでしょうか。或る知覚の記憶がこの知覚の弱まったものに過ぎないとすれば、例えば弱い音の知覚を、強い音の記憶と取り違えることがあってもよさそうなものです。しかしそのような取り違えが起きることは決してありません。さらに、わたしたちが或る思い出を意識するとき、現在の弱い状態が最初にあるわけではないということ、つまりその弱さを意識してからこれを過去に投げ返すのでは決してないことを観察によって確かめることができます。その心理的状態を経験し、その過去の表象を既に持っているのでなければ、単に微弱であるという理由だけで、どうしてその心理的状態を過去に追いやることができるでしょうか。それが微弱なものであるというだけのことであれば、微弱な状態とそれより強い状態は(過去と現在の関係にあると言うより)、現在の不明瞭な経験と現在の明瞭な経験のように、単に並列の関係にあるに過ぎないと考える方が自然ではないでしょうか。実際には、記憶機能の本質は(通常考えられているように)現在から過去に遡ることにあるのではありません。寧ろ反対に、過去から現在へ進展することにあるのです。わたしたちはまず、一挙に過去に身を置きます。わたしたちは「潜在的状態」から出発し、一連の異なった意識の平面を通って、この潜在的状態を現在の知覚の中にそれが具体化される終端まで、すなわちそれが現在において活動している状態となる点まで、要するにわたしたちの身体が見出される意識の最後の平面まで徐々に導いていくのです。この「潜在的状態」にあるものこそ純粋記憶に他なりません。

こうした意識の証言を、何故人々は見誤ってしまうのでしょうか。記憶を知覚の弱まったものと考えると、わたしたちはどうしてそれを過去へと投げ返す(記憶にはどういう目的がある)のか、どんな手段によってその日付を特定するのか、そしてどんな理由でそれが或る特定の瞬間に再び現れるのか、何もかもわからなくなってしまいます。それなのに人々は何故、記憶は知覚の弱まったものに過ぎない、と信じて疑わないのでしょうか。それは、わたしたちの現在の心理状態が行動に向けられていることに彼らが気付いていないからです。彼らは知覚を、利害を離れた精神の働き、認識のためだけの働きと捉えています。そして純粋記憶は、それこそ明らかにこの種の精神の働き以外のものではあり得ない(というのも純粋記憶は、咄嗟の判断を要する状況では役に立たないからです)ことから、記憶と知覚を同じ性質のものと看做し、両者の間に強度の違いしか見出せなくなってしまうのです。しかしわたしたちの現在は、より強いものとして定義されるようなものではありません。わたしたちの現在はわたしたちに働きかけ、わたしたちを行動へと向かわせるもの、すなわち感覚的かつ運動的なものです。――要するにわたしたちの現在は、何よりもまずわたしたちの身体の状態なのです。これに対してわたしたちの過去は、今現在は働いていないが、働くことが可能であるもの、現在の感覚の中に挿入され、そこから活力を得て働くことができるようになるものです。もっともそうして記憶が現実化され、現に働くものとなった瞬間、それは記憶たることをやめ、再び知覚となります。

以上のことから、何故記憶が脳の状態からは生まれて来得ないのかを理解することができます。脳の状態は、飽くまで記憶を引き継ぐものに過ぎません。それは記憶に物質性を与え、現在に働きかける手段を提供します。一方、純粋記憶には精神の刻印が打たれています。記憶の領域に入ることで、わたしたちは紛うことなく精神の領域に足を踏み入れます。

Ⅷ.――とは言え本書の目的は、精神の領域を探究することではありません。本書の第一の目的は、精神と物質の合流点に身を置き、両者がどのような関係にあるかを見極めることです。このためわたしたちは、知性本来の働きのうち、それが身体のメカニズムと接触している点に観察の範囲を限定しました。こうしてわたしたちは、観念連合の現象や、最も基礎的な一般観念が誕生する瞬間に立ち会うことができたのです。

観念連合説が犯している最大の過ちは何でしょうか。それは、あらゆる記憶を同じ平面上に置いてしまうこと、記憶には、現在の身体の状態、すなわち行動に近いものから、行動とかけ離れたものまで様々な段階があるにもかかわらず、そうした違いをすべて見落としてしまうことです。このため観念連合説は、記憶が、それを喚起する知覚とどのように結び付くのか、何故観念連合が類似と近接によって行われ、それ以外の仕方では行われないのか、そして最後に、一口に類似と近接と言っても、無数の記憶が類似と近接によって現在の知覚と結び付き得るにもかかわらず、どういうわけで特定の記憶だけが選ばれるのか、といった疑問に答えることができません。観念連合説は、異なる意識の平面を一つに混ぜ合わせてそれらの区別をなくしてしまった結果、様々な記憶の違いを単純か複雑かという尺度でしか測ることができなくなってしまうのです。しかし実を言うと、単純な記憶とは、夢想から遠い記憶、すなわち行動に近く、それゆえに平凡で、現在の新しい状況に――あたかも既製服のごとく――適合しやすい記憶に他なりません。観念連合説に反対している人々も、この点に関しては観念連合説と同じ過ちを犯しています。彼らは、観念連合説が精神の高度な働きを連想によって説明している点を非難しますが、連想そのものの本質を見損なっている点を非難することはありません。しかし観念連合説の最大の間違いは、まさにこの点にあるのです。

これに対してわたしたちは、行動の平面――身体が過去を運動習慣として蓄積している平面――と、精神が過去の人生の一齣一齣を余さず保持している純粋記憶の平面との間で、一つ一つ異なる無数の意識の平面、それぞれが過去の経験全体を含み、しかもそれぞれ様相の異なる無数の平面が反復していると考えました。或る記憶をより個人的な記憶の細部で補い、蘇らせるとは、他の幾つもの記憶をこの記憶に機械的に追加していくことではなく、より広大な意識の平面に身を移すことであり、行動から離れて夢想に向かうことです。また或る記憶を特定するとは、それを他の記憶の適切な場所に(書棚に本を戻すように)戻すことではなく、記憶機能が及ぶ範囲を全体的に拡張して大きな円を描き、そこに過去の細部が現れるようにすることです。もっともこれらの平面は、既成の事物として積み重なっているのではありません。それらは潜在的に、すなわち精神に固有のあり方で存在しています。知性は平面同士を隔てている隙間に沿って絶えず移動し、これらの平面を発見します。と言うより寧ろ、絶えずそれを新たに創造します。こうした運動こそ、知性の活動そのものだと言っても過言ではありません。そして以上のことから、観念連合が何故類似と近接によって行われ、それ以外の仕方では行われないのか、また記憶機能によって、無数の類似した記憶、或いは近接した記憶の中から、どうして特定のイマージュだけが選び出されるのか、最後に、基礎的な一般観念が、身体と精神の共同作業によってどのように形作られるのかを理解することができます。生物にとって最大の関心事は、現在の状況のうちに過去の状況との類似点を見出すことであり、次いでこの類似点を、その前に生じたことや、特にそのあとに生じたことに結び付け(た上で運動習慣の形で保存し)て、経験したことを(未来の)現在に活かすことです。そういうわけで、考え得るすべての連想の中で生物が生存するために不可欠な有用性を持っていると言えるのが、他ならぬ類似と近接による連想なのです。さらにこの(類似と近接という)二つの連想のメカニズムや、特に、この二つの連想作用によってなされる様々な記憶の中からの一見気紛れな選択を理解するためには、わたしたちがそれぞれ行動の平面、夢想の平面と呼んでいる二つの極限の平面に代わる代わる身を置かなければなりません。第一の平面、すなわち行動の平面を占めているのは運動習慣であって、これが作動させるのは表象される連想というより、演じられ、体験される連想です。ここでは、類似と近接が一つに溶け合っています。何故ならここでは、類似した外的状況が反復されることでわたしたちの身体の幾つかの運動が相互に連結され(運動習慣として保存され)る結果、これらの近接した運動を展開させたものに他ならない自動的反応が、その運動(自動的反応)を引き起こした状況から、それに先立つ状況との類似を抽出するからです。しかしこの運動の領域からイマージュの領域に移るにつれ、さらに貧しいイマージュの領域からより豊かなイマージュの領域に移るにつれて、類似と近接は次第に分離していきます。そしてもう一方の極限の平面、すなわち夢想の平面では両者は遂に対立するに至り、最早いかなる行動もイマージュと結び付かなくなります。このことからもわかるように、(観念連合において)多くの類似したものや、多くの近接したものの中から特定のものが選び出される場合、その選択は出鱈目に行われるのではありません。この選択は、記憶機能の絶えず変化する緊張度に依存しています。つまり現在の行動に神経を集中している(緊張している)か、或いは行動から心が離れているか(弛緩しているか)に応じて、記憶機能は或る調子(平面)から別の調子(平面)に全面的に移っていくのです。そして第三章で述べたように、二つの極限を往復する記憶機能のこの二重の運動こそ、基礎的な一般観念を生じさせるものに他なりません。片や運動習慣は類似した諸々のイマージュに遡ることによってそこから類似点を抽出し、片や類似した諸々のイマージュは運動習慣に降りて行き、例えばそれらを結合する言葉の自動的発音において融合します。観念の一般性は、精神の或る種の活動、この行動と表象との間の運動によって徐々に形作られていくものであるにもかかわらず、これも第三章で指摘したように、或る種の哲学(こうした二重の運動について無知な哲学)が例外なく一般観念をどちらか一方の極限に固定して、それを言葉に結晶させ、或いは記憶として蒸発させてしまうのはまさに今述べたような事情によります。しかし実際には、一般観念は(どちらか一方の極限に固定されるものではなく)、精神が一方の極限から他方の極限へ移行する過程で形成されるものなのです。

Ⅸ.――わたしたちは精神の基本的活動をこのように捉え、最後に(第三章までの)結論として、身体、そして身体を直接取り巻くものを記憶機能の最後の平面、極限のイマージュ、絶えず未来に挿入されるわたしたちの過去の動的尖端として位置付けることによって、身体の役割についてそれまで述べたことを確認し、明確にするとともに、身体と精神を接近させる道を準備したのです。

実際、純粋知覚、純粋記憶と順に検討してきたので、論述の完璧を期すためには、両者を接近させる道を示さなければなりませんでした。純粋記憶が既に精神であり、純粋知覚が物質の一部を成しているとすれば、純粋記憶と純粋知覚との合流点に身を置くことによって、精神と物質の相互作用に多少なりとも光を投じることができる筈です。事実、「純粋」な知覚、すなわち瞬間的な知覚は、一つの理想であり、極限に過ぎません。知覚はすべて或る程度持続を占め、過去を現在に引き継いでいるがゆえに、記憶が介入していない知覚はありません。この具体的な形における知覚を純粋記憶と純粋知覚の総合、すなわち精神と物質の総合として捉えることで、わたしたちは心身合一の問題の範囲を可能な限り狭めていったのです。これが本書の特に最後の部分(第四章)でわたしたちが試みたことです。

一般的な二元論に見られる二つの原理の対立は、非延長と延長、質と量、そして自由と必然という三つの対立に分けることができます。身体の役割に関するわたしたちの考え方、そして純粋知覚と純粋記憶に関するわたしたちの分析がもし本当に精神と身体の相関関係の何らかの側面を照らし出しているとすれば、当然、この三つの対立を解消するか、或いは緩和することができる筈です。そこでこの三つの対立を一つずつ順に検討し、第四章では専ら心理学から引き出そうとした結論を、ここではより形而上学的な形で提示してみたいと思います。

(1)例えば、一方にそれぞれ独立した粒子に分割された延長を置き、他方にそれ自体としては非延長的であるものの、空間に投影されて延長を獲得する、と考えられている感覚を持つ意識を置いた場合、このような物質と意識、身体と精神との間に共通のものを見出すことができないのは当然です。しかし知覚と物質とのこうした対立は、分割し、再構成することを習慣、或いは目標にしている悟性の人為的産物であって、直観に直接与えられているものではありません。直観に直接与えられているのは、非延長的な感覚ではありません。非延長的なものとされている感覚が、一体どんな風に空間と再び結び付いて特定の場所を選び取り、そこでそれらの感覚がどんな風に配列されれば(人類共通の)普遍的な経験が構築されると言うのでしょうか。またわたしたちが現実に知覚しているのは、それぞれ独立した部分に分割された延長でもありません。そのような延長はわたしたちの意識といかなる共通点も持ち得ない筈なのに、この延長において展開される一連の変化の順序や関係が、一体どうしてわたしたちの表象の順序や関係と厳密に対応すると言うのでしょうか。直観に与えられ、現実に知覚されているのは、純粋に非延長的なものでも分割された延長でもなく、両者の中間にある何物かです。この中間的な何物かを、わたしたちは「ひろがりを持つもの」と表現しました。ひろがりは、知覚の最も顕著な性質です。そしてわたしたちは一方で、行動の必要からひろがりの下に張り巡らせた抽象的空間によってこのひろがりを凝固させ、細分して、多様な延長、無限に分割可能な延長を構築します。また他方で、このひろがりを純化して、言い換えると感情的感覚に溶解したり、にせ(贋)の純粋観念として蒸発させたりして非延長的な感覚を手に入れます。そうして手に入れた非延長的な感覚によってイマージュを再構成しようと無駄な努力を重ねるのです。もっともわたしたちの悟性が二重の作業を行うべく入り込んでいくこの相反する二つの道は、わたしたち自身が選んだものであると同時に、もともとわたしたちの前に極く自然に開かれているものでもあります。というのも行動の必要そのものによって、延長はそれぞれ完全に独立した対象に自ずと分割され(ここから延長を際限なく細分する傾向が生まれます)、またこれも行動の必要そのものによって、わたしたちは感情的感覚から知らず知らずのうちに知覚に移行していくからです(ここから知覚を徐々に非延長的なものと考える傾向が生まれます)。ところでわたしたちの悟性は論理的に区別し、したがって判然たる対立を打ち立てる役割を担っているので、この二つの道を交互に、それぞれ極限まで突き進んでしまいます。悟性はこうして両極の一方に無限に分割可能な延長を置き、他方に全くひろがりを持たない感覚を置きます。何のことはない、悟性は自分自身で対立を作り上げ、それによって自縄自縛に陥っているに過ぎないのです。

(2)質と量、すなわち意識と運動との対立は、延長と非延長との対立ほど人為的なものではありません。この第二(質と量)の対立は、第一(延長と非延長)の対立を受け入れた場合にのみ深刻なものとなります。実際、事物の性質が、意識を触発する非延長的な感覚に還元されるものであり、これらの性質は単に空間内における等質的で計算可能な諸々の変化をそれぞれ象徴しているに過ぎない、と仮定すると、感覚と変化(運動)との間に理解不可能な対応関係を想定しなければならなくなります。そういった先入観を捨て、わたしたちがア・プリオリに思い描いている感覚と運動との人為的対立を頭から追い払ってみましょう。すると両者を隔てていると思われたすべての障壁が、一つずつ崩れ落ちていくのが見られるでしょう。まず、意識は自分自身の内部で、非延長的な知覚が展開される様に立ち会っている、という風に一般に考えられていますが、それは事実に反します。それゆえ純粋知覚を、(わたしたちのうちに置くのではなく、本来あるべき場所、すなわち)知覚される事物そのもののうちに戻さなければなりません。こうして第一の障害が取り除かれます。次に、科学が扱う等質的で計算可能な変化は、例えば原子のような多様で独立した要素に属し、変化はこの要素に偶然付加されるものに過ぎないように思えます。知覚と知覚される対象との間に、こうして多様な要素が割り込んできます。これがわたしたちを待ち受けている第二の障害です。しかし延長の分割が、延長に対するわたしたちの可能的行動に完全に相関的なものであるとすれば、個々に独立した粒子という考えも、延長の分割と同じように、否、それ以上に図式的かつ仮設的な意味しか持ち得ないのは明らかでしょう。科学自体、そのような考えは退けられるべきものであることを認めています。こうして第二の障害も崩れ落ちます。越えなければならない最後の障害は、性質の異質性と、延長における一見等質的な運動との隔たりです。しかしわたしたちはたった今、運動の土台としての原子やその他の要素を取り除いたのですから、動体に偶然付け加わる運動、力学が対象としている運動、つまり具体的運動の共通の尺度でしかない抽象的運動は最早問題とはなり得ません。原点を変えれば不動となるような抽象的運動が、現実の、すなわち内的に感じられる変化の根拠にどうしてなり得るでしょうか。また一連の瞬間的な位置から構成される抽象的運動が、各部分が切れ目なく相互に引き継がれていく持続をどうして満たすことができるでしょうか。したがって、考えられる仮説は一つしかありません。それは、具体的運動は意識のように過去を現在に引き継ぐことができ、反復(振動)することによって感覚的性質を生み出すことができる以上、既に意識に属する何物かであり、感覚に属する何物かである、という仮説です。つまり具体的運動とは、無限に多くの瞬間に分配され、希釈された感覚に他ならず、既に使った比喩を用いて言えば、繭の内部で振動している感覚に他ならないということです。ところで今述べた三つの障害以外に、明らかにしなければならない問題がもう一つ残されています。それは、等質的運動(量)が、それと対立しているように見える性質(質)に一体どのように凝縮されるのか、という問題です。或いは今や、こう言い換えた方がいいかも知れません。異質性の稀薄な変化(量)は、異質性の濃密な変化(質)にどのように凝縮されるのか、と。この問題に関しては、具体的知覚に関するわたしたちの分析が既に答えを出しています。すなわち、知覚は外見上は不動(質)に見えますが、知覚は純粋知覚と純粋記憶との生きた総合であるがゆえに、そこには必然的に無数の瞬間(量)が凝縮されています。したがってわたしたちの表象のうちに見られる感覚的性質(質)と、計算可能な変化として扱われるその性質(希釈された質すなわち量)との間には、持続のリズムの違い、内的緊張度の違いがあるに過ぎません。このように、わたしたちはちょうどひろがりという概念によって非延長と延長との対立を克服しようとしたように、緊張という概念によって質と量との対立を克服しようとしたのです。ひろがりにしろ緊張にしろ、無限の、とは言え常に明瞭に規定された(量的次元において生物によって選び取られた)度合いを許容します。悟性は、ひろがりと緊張というこの二つの概念から、それらの空虚な図式、すなわち等質的空間と純粋な量を抽出し、様々な度合いを持つしなやかで弾力のある実在を、行動の欲求から生まれる抽象的観念、取るか捨てるか二つに一つしかない干乾びた抽象的観念に置き換えます。そうして(あたり籤のない籤引きのように)どちらを選んでも最早事象には当て嵌まらなくなったジレンマ(受け入れることのできない二者択一)を反省的思考に強いるのです。

(3)ところで、延長と非延長との関係、質と量との関係を以上のように捉えるなら、最後の、第三の対立、すなわち自由と必然との対立を理解するのはさほど難しくないでしょう。絶対的な必然性は、継起する持続の瞬間が相互に完全に等価であるところに成立します。物質的世界の持続は、この条件に当て嵌まるのでしょうか。物質的世界の持続の各々の瞬間は、本当に直前の瞬間から数学的に導き出せるものなのでしょうか。わたしたちは研究の便宜上、本書全体を通じてまさにその通りだと仮定しました。そして実際、わたしたちの持続のリズムと事物の持続のリズムとの隔たりは極めて大きいので、最近或る哲学者が明らかにした自然の流れの偶然性(エミール・ブートルー「自然法則の偶然性」)も、わたしたちにとっては事実上必然に等しいに違いありません。それゆえ本書では、あくまでこの前提で通すことにしましょう。ただし将来、(新たな発見によって)それを緩和しなければならなくなる時が来るかも知れません。いずれにせよ、自由は自然の中に、あたかも国家の中の国家のように孤立して存在するのではありません。既に述べたように、自然は、中和され、したがって潜在している一種の意識、互いに相殺し、現れようとするちょうどその瞬間に打ち消されてしまう一種の意識と看做すことができます。したがって、最初に芽生えた個別的意識が投げかける微光によって照らし出された自然は、意識にとって全く馴染みのないものではありません。この意識は、障害を取り除き、実在全体から可能的行動を抽出し、関心のあるものを選択して際立たせているに過ぎません。この知的な分離・選択において、意識はその形式を精神から得ているのは事実だとしても、その素材は自然から得ているのです。他方、(地球上における)この個別的意識の出現は、自発的で、予見不可能な運動を行う能力を持った最初の生命体、最も単純な形態を備えた生命体の出現をも意味します。生物の進化とともに諸機能が分化し、その結果まず刺激を伝達して行動を組織できる神経系が形成され、次いで神経系が徐々に複雑になっていきます。上位中枢が発達すればするほど運動経路も数を増し、同一の刺激に対して複数の行為の中から選択することができるようになります。事実、生物の進化とともに空間において自由に行動できる範囲が拡大してきたことは、誰もが確認できる事実です。忘れてはならないのは、空間において自由に行動できる範囲が拡大するのに伴い、時間における意識の緊張度も同時に増大してきた、という目に見えない事実です。この緊張度を増した意識は、第一に、過去の経験を記憶することによって、より効果的に過去を保持し、現在とともに組織化して的確かつ大胆な決断ができるようになります。第二に、この意識はより緊張した生を生き、直接的経験を記憶することによって、外界の多くの瞬間を現在の持続のうちに凝縮し、より創造的な行動ができるようになります。というのも物質の瞬間が数多く凝縮されればされるほど、その瞬間に含まれる無限小の非決定性も数多く収集されることになり、収集された非決定性は(蓄積されたエネルギーが一気に消費されるように)一瞬のうちに遂行される行為において無数の物質の瞬間に分散していくので、その行為はそれだけ容易に必然の網の目をくぐり抜けることができるからです(下記参照)。このように自由は、時間において考えるにせよ、空間において考えるにせよ、常に必然のうちに深く根を下ろし、必然と緊密に絡み合って組織されます。精神は物質から知覚を借り、そこから養分を吸収して、これに自由を刻印し、行動という形で物質に返すのです。
(この一文は「意識と生命」をもとに補足しました。岡部訳では次のように訳されています。「なぜなら、このような行為の含む、非決定は、われわれが欲するだけ、多くの物質の瞬間に、分散されるはずだから、それだけ容易に、必然の網を、通過できるからである」)

(つづく)