画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(37)

2014-04-15 | 雑談
こうして明らかとなったのは、記号的表象というものさえ存在しなければ、時間がわたしたちの意識にとって、継起する諸事象が相互に外在化される媒質、すなわち等質的媒質という様相を呈することは決してないだろう、ということです。ところが相互に対(つい)になっている項(二つの多様性、二つの区別、二つの異質性など)の系列において、項のそれぞれがわたしたちの意識に対して同時に二つの様相、一方では常に自己同一的な様相、他方では独自な様相を呈しているという一事によって、わたしたちは自ずと記号的表象に行き着かざるを得ません。項のそれぞれが自己同一的であるというのは、外的事物が相互に同一的なものと看做されているという意味であり、項のそれぞれが独自なものであるというのは、それが付加されることによって全体の有機的組織化が進展するという意味ですが、これら二つの意味の照応関係を取り違えることによって、わたしたちが先に質的多様性と呼んだものを数的多数性という形で空間内に展開し、一方を他方と等価なものと看做す道筋ができてしまうのです。ところで、このような二重のプロセスが最も進行しやすいのは、それ自体としては認識できないある外的現象、すなわちわたしたちにとっては運動という形をとる外的現象の知覚においてです。運動がわたしたちに提示するのは、相互に同一的な一連の項です。というのも、運動体は常に同一だからです。しかしその一方で、運動体の現在の位置と、それ以前の位置として記憶されているものとが意識によって統合される結果、これらのイメージは相互に浸透し、補完し合いながら、いわば相互に連続したプロセスを形成します。したがって、持続が等質的媒質という形式を身に纏い、時間が空間に投影されるのは、とりわけ運動を介してのことなのです。もっとも運動に限らず、どんなものであれ明確に規定された外的現象の反復でありさえすれば、同じ種類の表象を意識に示唆することができるでしょう。例えば、規則的に打ち下ろされるハンマーの音を聞くとき、それらの音は純粋な感覚たる限りにおいて不可分な一種の旋律を形成し、わたしたちが動的プロセスと呼んだものを生み出します。しかし(そのプロセスの背後にハンマーの音という)同一の客観的原因の作用が透けて見えることから、わたしたちはこのプロセスをいくつかの局面に分割し、それぞれを同一なものと看做します。同一の項から成るこの多様性は、最早空間内に展開されたものとしてしか考えられないものであり、こうしてわたしたちはここでもまた等質的時間という観念に、すなわち真の持続の記号的イメージに過ぎない観念に抗いようもなく導かれます。つまりわたしたちの自我は、(外的世界から孤立して存在しているのではなく)その表面において外的世界と触れ合って(おり、後述するような外的世界との「交流面」を形成して)いるのです。絶えず変化してやまないわたしたちの感覚は内的に融合しているにしても、相互外在性の幾分かを有しており、この相互外在性が感覚の原因を客観的に規定してもいます。わたしたちの表層的な心理生活が等質的媒質の中で展開され、しかもそうした仕方で表象することにさして困難を覚えないのはまさにこのためです。しかしこうした表象の持つ記号的性格は、わたしたちが意識の深みに入り込むにつれ、次第に意識状態にそぐわないものになります。(逆に)わたしたちの内的自我、様々な感情を抱き目的への情熱を燃やす自我、物事を熟慮し決断する自我は、その状態と変化が内密に浸透し合っている一つの力であって、(記号的表象とは逆に)互いに分離され空間内に展開された途端、決定的な変質を余儀なくされます。とは言えこの(正反対の性格を持った)深層的自我と表層的自我はともに唯一の同じ人格を形成している以上、必然的に、同じリズム、同じテンポで持続しているように見えます。そしてわたしたちの表層的な心理生活は、同一的な外的現象が反復される様を恒常的に表象するがゆえに、その影響を受けて自らも相互に外在的な部分に裁断され、次いでこうして裁断された瞬間の各々が、今度はわたしたちの個性をより強く反映した意識状態の動的で不可分なプロセスをも明確な部分に裁断します。等質的空間の中に並置されているということによって物質的対象に保障されている相互外在性が、このように意識の深層にまで反響し、拡散していく(ことで等質的時間という観念が形成される)のです。わたしたちの感覚はそれを生じさせた外的原因と同じように少しずつ相互に分離し、感覚とともに生起する感情や観念もまた相互に分離していきます。――持続に関して通常わたしたちが抱いている概念が、純粋な意識の領域に空間が徐々に侵入してくることによって形作られる、ということを端的に示しているのが次のような事実、すなわち等質的時間を知覚する自我の能力を無効化するためには、(外的世界との)調整役を果たしている心的事象のこの表層部分(感覚)を、単に自我から遊離させるだけでよいという事実です。夢はまさにそうした状態にわたしたちを置きます。というのも、眠りは身体機能の働きを鈍化させ、とりわけ自我と外的事物との交流面を変容させるからです。睡眠中は、わたしたちは最早持続を計測することはなく、ただひたすら持続を感じるだけです。持続は量から、質的状態に戻ります。過ぎ去った時間が数学の手によって測定されることはなくなり、測定という行為は漠たる一つの本能に、すなわちあらゆる本能と同様、時に見当外れな間違いを犯すことがあるにせよ、多くの場合並外れた確実さをもって事を処することができる本能(よく知られた例では、「体内時計」もこれに当て嵌まるかも知れません)に取って代わられます。覚醒時においても、質としての持続、つまり意識が直かに触れている持続、そして恐らくは動物が知覚しているような持続と、言わば物質化された時間、空間内に展開されることによって量化された時間との違いをわたしたちに教えてくれる日常的経験がないわけではありません。例えば、この文章を書いている部屋の隣室で時計が鳴ったとしましょう。(書き物に夢中になっている)わたしは上の空でその音を聞き流し、何回か鐘が鳴ったあとになってそれに気付いたとします。それゆえこの場合、わたしは鐘の鳴った回数を数えてはいません。しかし注意を少し過去に向けさえすれば、その時までに鐘が例えば四回鳴っていたことを本能的に悟り、音に気付いてから聞いた回数と合わせて、今が何時であるかを言い当てるのは難しいことではありません。自分自身の内に立ち戻り、今しがた起きたことを注意深く自問すれば、聞き流した四回の音が私の耳に届いていたこと、さらにはわたしの意識を揺り動かしてさえいたこと、そしてそれぞれの音が生じさせた感覚は一つ一つが並置されているのではなく、相互に融合して、全体にあたかも音楽の一節のような独特の様相を与えていたことに気付かされます。そこで過去に遡って鐘が何回鳴ったかを知るためには、このフレーズを思考によって再構成すればよい、ということになります。わたしは想像の中で、一つ、二つ、三つと鐘を鳴らしていきます。しかし四つの目の音を鳴らさないうちは、わたしの感性は(わたしが聞き流した音の印象と)全体の質的な印象が一致していない、という風に判断するでしょう。したがって、想像力なり感性なりは自分なりのやり方で、つまり数を数えるというやり方では決してなく、相互に区別される項が並置されるイメージを介在させることなしに、鐘が四回続けて鳴ったことを(暗黙の内に)認知していたのだと言えます。要するにこの場合、鳴った四回の鐘の音は量として知覚されていたのではなく、質として知覚されていたのです。持続はこのように質そのものとして意識の前に現れ、延長から抽出された記号的表象に席を譲らない限りこの形式を保持し続けます。――以上述べてきたことの結論として、多様性には二種類のものがあること、持続に関しては全く異なった二つの見方があること、意識的生活には二つの様相があることをもう一度ここで確認しておきましょう。等質的と看做されている持続は真の持続の外延的記号に過ぎず、わたしたち自身の心理を注意深く観察すれば、その下に異質な瞬間が相互に浸透し合う持続が潜んでいるのを見出すことができます。意識状態の数的多数性の下には質的多様性が潜んでおり、明確な状態として識別できる自我の下には継起する状態が融合し有機的に組織化されている自我が潜んでいるのです。大抵の場合、わたしたちは前者の状態に甘んじています。しかしそれは、等質的空間に投影された自我の影でしかありません。わたしたちの意識は、物事を区別するという飽くなき欲求に駆り立てられ、現実を記号に置き換えるか、あるいは記号を通してしか現実を見ません。このように屈折させられ、その結果細分化された自我は、一般的な社会生活の要請や何よりも言語の要請にぴったり適合するので、わたしたちは自ら進んでそちらを選択し、根底にある自我を徐々に見失っていくのです。

変質することなく、本来の姿をとどめている意識が知覚している筈のこの根底的な自我を再び見出すためには、忍耐強い分析の努力を必要とします。その分析によって、内的で生き生きとした心的諸事象と、(記号によって)屈折させられ、次いで等質的空間内で凝固させられたそのイメージとを区別しなければなりません。つまり、わたしたちの知覚、感覚、情動、観念は同時に二つの様相のもとにわたしたちの前に現れるのです。一方は明瞭かつ明確ではあるものの、非個性的な様相であり、他方は渾然として絶え間なく変化し、言語では表現し難い様相です。表現し難いというのは、言語はそれを捉えるためにその動性を固定することが避けられず、さらに自らの陳腐な(言語という)形式に合わせるためにそれを一般化することが避けられない、という意味です。もしわたしたちが多様性の二つの形式を区別し、持続の二つの形式を区別することができるなら、意識的事象の一つ一つがそれ自体として、つまり離散的(数的)多様性に身を置くか連続的多様性に身を置くかに応じて、あるいはその源である質的時間に身を置くかそれが投影される量的時間に身を置くかに応じて、異なった様相を帯びて見えるに違いありません。

例えば、見知らぬ町に転居し、その町を初めて散歩したとしましょう。そこでわたしが目にする周囲の事物は、それ以後もずっと変わらずに続くように思える印象と、絶えず変化する印象を同時にもたらします。(その日から)わたしは毎日、同じ建物を目にします。そしてそれが同じ建物であることはわかりきったことなので、わたしは常にそれを同じ名前で呼び、それが常に同じ姿をわたしに見せていると思い込んでいます。しかし長くそこに住んだ後に改めて最初の数年間の印象を思い返して(今現在の建物の印象と比較して)みると、そこに特異な、説明し難い変化、何とも言いようのない変化が生じていることにきっと驚かされるに違いありません。これらの事物を(何年にもわたって)毎日繰り返し目にし、繰り返し心の中に思い描いているうちに、それらはわたしと、わたしの意識生活の幾ばくかを共有するようになったのではないか、平たく言えば、それらはわたしとともに生き、わたしとともに老いたのではないか、という印象を受けるのです。これは単なる錯覚ではありません。何故なら、今日の印象が昨日の印象と全く同じであるとすれば、知覚することと再認すること、初めて知ることと思い出すこととの間にどんな差があり得るでしょうか。とは言えこの(今日の印象と昨日の印象の)差が人々の注意を引くことはほとんどありません。他の人から指摘されでもしない限り、その上で自分の心の証言に注意深く耳を傾けない限り、それに気付くことはまずないでしょう。そのわけは、わたしたちにとって外的な、つまり社会的な生活の方が、内的で個人的な生活よりも生きていく上で重要だからです。わたしたちには本能的に自分の印象を固定し、それを言語によって表そうとする傾向があります。その結果、不断に生成されつつある感情そのものを変化しないその外的対象と混同し、そして特にその外的対象を表す言葉と混同するようになります。自我という、変化してやまないわたしたちの持続が等質的空間に投影されることで固定されるように、移ろいやすいわたしたちの印象もその原因である外的対象に絡みつくことによって、確乎とした輪郭と不動性を獲得するのです。

わたしたちの個々の感覚も、自然な状態ではそれ(印象)以上に移ろいやすく安定していない、と言えるでしょう。(例えば)子供の頃好きだった味や香り(のいくつか)を、今のわたしは寧ろ苦手にしています。それでも相変わらずわたしはその感覚を同じ名前で呼び、香りや味自体は以前と同じものであって、わたしの好みだけが変わったかのように語ります。ここでもやはり、わたしはその感覚を固定しているのです。そして感覚の変化が否定しようのないほど顕著になってくると、その変化だけを抽出して別の名前を与え、今度は「好み」という形で固定します。しかし実を言うと、同一の感覚も多様な好みもわたしたちの頭の中に存在するに過ぎません。何故なら感覚や好みはわたしがそれらを切り取り、名前を付けることで事物として認定されているに過ぎず、心の中にはもっぱら(絶えず変化するがゆえに名前の付けようがない)進展があるだけだからです。したがって次のように言うべきでしょう。あらゆる感覚は反復されつつ変化している。それが日々変化するように見えないのは、わたしがその感覚を感覚の原因である外的事物を通して、またそれを翻訳している言葉を通して認知しているからだ、と。言語が感覚に及ぼすこの影響は、一般に考えられているよりも甚大です。言語は単に感覚の不変性をわたしたちに信じ込ませるだけではなく、実際に感取した感覚の性格を歪め、わたしたちの意識を欺くことも珍しくありません。例えば美味いと評判の料理を食べる機会を得た場合、数々の賞賛の言葉で飾られたその料理の名前がわたしの感覚と意識の間に割り込んできます。よく味わえば自分の好みに合わないとわかる味であったとしても、(言葉に騙されて)美味いと感じてしまうかも知れません。このように、明確な形あるものしか指示し得ない人類の言語、森羅万象に対して人類が抱いてきた印象のうち、安定したもの、共通したもの、したがって非個性的なもののみを蓄えてきたこの原始的な機構は、個人の意識が抱く繊細で捉え難い印象を圧し潰し、あるいは少なくとも覆い隠してしまうのです。それに対抗するためには、個々人の印象を適切な言葉によって表現する必要がありますが、しかしたとえ適切な言葉であったとしても、言葉にされた途端、一転してそれは生みの親である感覚に背くものになるでしょう。本来は移ろやすく捉え難い感覚を的確に表現すべく案出されたものであるにもかかわらず、逆に自らの不動性を感覚に押し付けるものと化してしまうでしょう。

とりわけ、感情と呼ばれる現象ほど(言葉によって)直接的意識を損なわれやすいものはありません。激しい愛や深い憂愁は、わたしたちの魂に染み入ります。そこでは無数の様々な輪郭の定かならぬ想念がいささかも外在化されることなく相互に浸透し合っており、まさにそのことによって自らを独自なものたらしめています。わたしたちがこの渾然たる塊の中に数的多数性を見出したと思った瞬間には、それらの要素はすでに歪曲され原形をとどめていません。そうした感情の要素をばらばらに切り離し、等質的媒質に、それを時間と呼ぶか空間と呼ぶかは最早どちらでもよいのですが、その等質的媒質に展開するとき、それらに一体どんな変化が生じるのでしょうか。つい先ほどまで、それらの要素の各々は、それが置かれていた媒質の複雑な色合いを反映していました。ところが今やそれは色褪せ、ただ一つの名称を受け入れる態勢にあります。元来感情そのものは生きているもの、自らを展開していくものであり、それゆえに絶えず変化するものです。そうでなければ、感情がわたしたちを次第に一つの決断へと導いていくことが理解できないものとなるでしょう。決断はどんなプロセスも経ずに、いきなり行われることになるでしょう。しかし感情が自らを展開する持続において、持続の各瞬間は相互に浸透し合っているがゆえに、感情は生きたプロセスそのものを形成しています。これらの瞬間を互いに分離し、時間を空間内に展開すれば、この感情から精彩と微妙なニュアンスを奪うことになります。そのときわたしたちの前にあるのは、最早わたしたち自身の影でしかありません。(時間を空間内に展開することによって)わたしたちは自らの感情を分析したつもりでも、実際には感情の代わりにその生気のない干乾びた状態を、言葉に翻訳できる状態を並置しているに過ぎません。これらの状態は、一つ一つが様々な事象について社会全体が共有する印象の共通的な要素であり、つまりは非個性的な(感情の)残滓でしかありません。だからこそ、わたしたちはこれらの状態について推論し、単純な論理を適用することができるのです。これらの状態を単に切り離すだけでそれはそのまま類概念へと昇格し、いつでも演繹に利用できるようになります。仮に今、革命的な小説家が現れ、慣習化された自我で巧みに織られた布地を引き裂き、表面的な論理の下に根本的な不条理が潜んでいるのを暴き出してくれたならば、そして並置された心的状態の下で、様々な印象が、ただしまだ名前を与えられず、干乾びていない生きた印象が無限に相互浸透している様を見せてくれたならば、その小説家は誰よりも人間心理に通暁した人物として称賛されるでしょう。とは言っても、現実にはそんなにうまく事が運ぶわけではありません。どんな小説家であれわたしたちの感情を等質的時間の内に展開し、感情の諸要素を言葉によって表現しないわけにはいかない以上、彼がわたしたちに提示するのもまた感情の影であることに変わりはないのです。ただ違うのは、その影を(等質的媒質に)投影している元々の感情が言葉では言い表せないのものであること、非論理的なものであることに彼が気付かせてくれる点、すなわち、表現された感情の要素の本質そのものを構成しているこの矛盾、この相互浸透の幾ばくかを具体的な表現の中に忍ばせることによって、わたしたちを自省へと誘う点です。その小説家に励まされ、わたしたちは、わたしたちの意識とわたしたち自身の間に張られたヴェールを束の間取り除きます。彼はわたしたちを改めてわたしたち自身と対面させてくれたのです。

言語という枠組みを取り払い、観念をその本来の状態で、つまり空間に呪縛されていない意識が捉えるような形で把握しようと努めた場合にも、同じような驚きを覚えることでしょう。観念をその構成要素に分解することはわたしたちを抽象へと導きますが、こうした分解はわたしたちにこの上ない利便性をもたらすがゆえに、日常生活のみならず哲学的議論においてさえ当たり前のように行われています。しかし分解されたこれらの要素が具体的な観念の構成要素と同じものであると考えるなら、言い換えると、相互浸透している実在の諸要素を、それらの要素を表している記号が並置されている状態に置き換え、持続を空間で再構成できると考えるなら、わたしたちは不可避的に観念連合説と同じ過ちに陥ることになります。観念連合説については次章で詳しく検討する予定なので、ここでは細かな点にまで立ち入るつもりはありません。ただ次の点を指摘しておけば十分でしょう。それは、ある種の問題においてわたしたちは躊躇することなく衝動的に決断をする場合があるということ、そうした衝動が存在することは、わたしたちの知性にも固有の本能が備わっていることの証しではないか、ということです。わたしたちの抱く観念は(観念連合論者の考えるような心理的アトムではなく)共同で一つの躍動(エラン)を有していると考えない限り、すなわち観念は相互浸透していると考えない限り、知性の持つこの本能的衝動を理解することができるでしょうか。わたしたちが最も強く持ち続けている考えとは(わたしたち自身)最も説明するのが難しい考えであり、今現在わたしたちがその考えを正当化するための根拠としているものは、ほとんどの場合、その考えを持つに至った理由とは何の関係もないものです。つまりある意味で、わたしたちはその考えを理由なく選んだのです。というのは、わたしたちにとってある考えが価値あるもの、好ましいものと思われるのは、その考えの持つニュアンスに、わたしたち自身の持つ他のすべての観念が共通して帯びている色合いと相通ずるものがあるからであり、つまりは最初からその考えの中に、わたしたちは自分自身の一部を見て取っていた(それゆえそれは選ぶべくして選ばれた)、という意味です。したがって、ある考えが精神の外に置かれ、言葉で表現されるや否やありきたりで凡庸なものと化してしまったとしても、精神の内にあるそれは凡庸なものでは全くありません。さらにより厳密に言えば、別の人がわたしと同じ考えを同じ言葉で表明したとしても、その人の考えとわたしの考えは全く別のものです。実を言えば、わたしたちの考えはその一つ一つが有機体における細胞のように生きています。自我の全般的状態にわずかでも変化が生じれば、それに応じて考えもまた変わるのです。しかも細胞は有機体の一部を占めるに過ぎないのに対して、わたしたちの観念がわたしたち自身と一体化したとき、それは自我全体をも満たします。もっともわたしたちのすべての観念が、このように意識状態の全体を占め得るわけではありません。寧ろ大半は池の水面(みなも)に浮かぶ枯葉のように、意識の表層を漂っているに過ぎません。つまりわたしたちの精神は、それらの観念を思考するとき、それらがあたかも自分の外にあるかのように、また常に一種の不動状態において見ている、ということです。例えば、既成の観念として鵜呑みにされ、わたしたちの内部にありながら実質として消化されていない観念や、あるいはまた、わたしたちが手入れを怠ったために、放置され干乾びてしまった観念などがそれに該当するでしょう。わたしたちが自我の深層から遠ざかるにつれ、意識状態が数的多数性の様相を次第に色濃く呈するようになり、等質的空間の中に展開される傾向を強めていくのは、まさにそのとき、それらの意識状態が徐々に惰性的な性質を帯び、非個性的な形式を取るようになるからです。したがってわたしたちの観念のうち、わたしたちへの帰属度が低い観念ほど言葉によって表現しやすいとしても、少しも驚くには当たりません。後で述べるように、観念連合説が適用できるのはそうした観念に限られています。相互に外在的なこれらの観念は、その内的本性の如何にかかわりなく常に分類可能な関係を保っています。それらが近接によって、あるいは何らかの論理的理由によって連合しているように見えるのはそのためです。しかしその一方で、自我と外的事物との接触(交流)面の下に潜り、有機的に組織化されている生きた知性の深みにまで降りて行くならば、多くの観念が重なり合い、あるいは寧ろ内的に融合している様を目撃することができるでしょう。これらの観念は一旦(外界に触れて)互いに分離されると、(表層的観念とは違って)論理的に対立する項として相互に排斥し合います。二つのイメージが重なり合っている夢、一人の人物が同時に二人の異なった人物として二重化されている夢、そんな奇妙な夢を見たことのある人は、覚醒状態における観念の相互浸透がどんなものであるかを辛うじて思い描くことができるかも知れません。夢を見る人の想像力は、外界から隔絶されることで、知的生活の深層で観念に対して絶えず加えられている操作を単一のイメージの中に再現し、あるいは自分流にデフォルメして表現するのです。
(デジャ・ヴュの特徴そのものとも言えるこの最後の夢は、実際にベルグソンが見たことのある夢、しかも一度ならず見たことのある夢だからこそこうして例に出されているのでしょうが、僕自身はこれに類した夢を見た記憶がないので、これを実感として理解することができません。実感として理解できない点では、「物質と記憶」第四章で例に出されていた夢、夢の中で一人の人物が数分間眠っている間に、もう一人の人物の見ている夢が数日、数週間に及ぶという夢についても同様です)

こうして(印象、感覚、感情、観念などすべての面にわたって)、わたしが先に述べた原理、すなわち意識状態は、それを直接知覚するか、それとも空間によって屈折させられた状態で知覚するかに従って、二つの異なった様相のもとに現れるという原理が証明されたことになります。内的事象の研究をより一層深めることで、それはさらに強固なものとなるでしょう。――それ自体において考察すれば、深層にある意識状態は量(数)とは何らかかわりを持ちません。それは純粋に質的なものです。それらの意識状態は、一とも多とも言えないような形で融合しており、一か多かといった視点から分析しようとするや否や忽ち変質してしまいます。意識状態がこうして創り出す持続は、その各瞬間が数的多数性を形成することのないような持続です。その特徴を表現するために、これらの瞬間は相互に重なり合っている、という言い方をしたところで、それらを区別していることには変わりはありません。仮にわたしたち一人一人が純粋に個人的な生を生き、社会も言語も存在しなかったならば、わたしたちの意識は内的状態の系列をそのように渾然たるものとして捉えることができるのでしょうか。恐らく、そういうわけにはいかないでしょう。何故なら、その場合にもわたしたちは事物が相互にはっきりと区別されているような等質的空間の観念を保持していることには変わりがないでしょうし、当初意識に対していわば星雲のごとき(未分化な)ものとして現れてくる状態の数々も、その等質的媒質に配列されるや否や有無を言わさず単純な要素に分解されてしまうだろうからです。それと同時に指摘して置きたいのが、等質的空間の直観はすでに社会生活への第一歩だということです。動物は恐らく、わたしたちのように、感覚とは別に、自らとはっきり区別される外的世界、すべての意識的存在が共有しているような外的世界を表象してはいません。事物の外在性とその媒質の等質性を明確に表象しようとする(動物にはない)この性向は、わたしたち人間を共同生活と言語の使用に導くものでもあります。社会生活の諸条件が徐々に実現され完全なものに近づいていくにつれて、わたしたちの意識状態を内から外へと押し流す流れも一層激しくなります。それとともにそれらの状態は徐々に対象化され、事物へと変容していきます。それらは相互に離散していくばかりではなく、わたしたち自身からも離れていくのです。そうなると最早それらの状態は、わたしたちがそれらのイメージを凝固させた等質的媒質においてしか、またそれらをありふれた色合いに染めてしまう言葉を通してしか認知することができなくなります。こうして第一の自我の周りに第二の自我、すなわち明確に区別された瞬間を生き、相互に分離された状態から成る自我、容易く言葉で言い表すことのできる自我が形成され、第一の自我を覆い尽くしてしまいます。このように述べたからと言って、わたしが人格を二重化し、最初に排除した筈の数的多数性を別の形で持ち込んでいるのではないか、などと言わないでいただきたい。明確に区別された状態を認知する自我も、注意をより集中して、あたかも手で触れた数片の雪の結晶がしばらくすると融けて一つになってしまうように、これらの状態が相互に融け合っていく様を見届ける自我も同じ一つの自我なのです。実のところ、言語による意思疎通のためには、秩序が保たれているところに混乱を持ち込んだり、非個性的とも言うべき意識状態が巧みに配されたその絶妙な配置をかき乱したりしない方が賢明です。その配置によって、自我は「国家の中の国家」(ちくま学芸文庫「意識に直接与えられたものについての試論」の訳注によれば、スピノザ「エチカ」の中で使われている表現。「……自然のなかの人間を国家のなかの国家のごとく考えているように思われる」)を作ることを免れたのですから。明確に区別された瞬間を持ち、明確に特徴付けられた状態から成る(表層の)内的生活の方が、社会生活の要求によりよく応えることができます。そして通俗的心理学も、そうした内的生活の考察に終始している間は過ちを犯さずに済むに違いありません。もっともそのためには、考察の対象をすでに起きた事象に限定し、様々な事象がどのように生じるかを問題にすることは断念しなければならないのですが。――それでも敢えてこの心理学が静的なものから動的なものへと移行し、新たに生じつつある事象をすでに起きた事象と同じように扱うならば、また具体的な自我、生きて活動している自我を、互いに区別され等質的媒質に並置された要素が連合したものに過ぎないと考えるならば、解決し難い数々の難題がこの心理学の前に立ちはだかることになるでしょう。しかもその難題は、それを解決しようと努力すればするほど(却って)増えていくでしょう。というのも、その努力はことごとく、時間を空間の中に展開し、継起を同時性の中に置くという、そもそもの出発点にある仮説の不条理さを(図らずも)次々と浮き彫りにすることになるだろうからです。――因果性や自由の問題、一言で言えば人格にかかわる問題に内在する数々の矛盾もすべてその不条理に起因していること、その矛盾を取り除くためには、自我の記号的表象に代えて、現実の自我、具体的自我を置くだけで十分であることを(次章で)見ていくことにしましょう。

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「意識に直接与えられているものについての試論」(第二章)をこうして読み直してみると、「「意識の直接与件論」という芽生えから、彼の全著作は成長している」(「感想」)ということが実感としてよく理解できます。

ところで、「意識に直接与えられているものについての試論」は三つの章と結論で構成されており、第一章では心的状態の強度の問題が、第三章では自由の問題が論じられています。この二つは「にせの問題」の一つの典型でもあります。――「にせの問題には二種類ある。ひとつは《存在しない問題》であって、それは関係項自体が《多》と《少》の混乱を含んでいることによって規定されている。もうひとつは、《提起の仕方のよくない問題》であり、これはその関係項がよくない分析をされている混合物を表象しているということによって規定される。/ベルクソンが第一のタイプのにせの問題の例として挙げるのは、非存在の問題、無秩序の問題、可能的なものの問題(認識と存在の問題)であり、第二のタイプの例として挙げるのは、自由の問題または強度の問題である」(「ベルクソンの哲学」第一章)。

にせの問題(擬似問題)に関してはベルグソン自身様々なところで言及していますが、これを単独で論じているのは「可能と現実」(「思想と動くもの」所収)だけです。上に引用したドゥルーズの文章も、「可能と現実」に準拠しています。《提起の仕方のよくない問題》の起源には「根本的な新しさの無視」(「可能と現実」原章二訳)があり、《存在しない問題》の起源には「空虚から充実へすすむ習慣」(同上)があります。しかし実を言えば、第二の誤謬(存在しない問題)は第一の誤謬(提起の仕方のよくない問題)にすでに含まれています。第一の誤謬と第二の誤謬をひっくるめて、次のように言うことができるでしょう。「……すべてを多いか少ないかを媒介として考え、もっと深いところでは質的な差異があるところに段階の差異、強度の差異しか見ないのが、思考の一般的な誤りであり、科学と形而上学に共通の誤りである」(「ベルクソンの哲学」第一章)。

問題は、それを単なる誤謬と言って済ませることができない点です。「理性がその最も深いところで、誤謬ではなく不可避の幻想を生んでいることを示したのはカントである。この不可避の幻想について、われわれは単にその結果を予測することしかできないというのである。ベルクソンはにせの問題の性質を全く別の仕方で規定し、カントの批判そのものがベルクソンにとっては提起の仕方のよくない問題の集合体と見えるのであるが、ベルクソンはこの幻想をカントと似たやり方で扱っている」(「ベルクソンの哲学」第一章)。この幻想は理性自身、あるいは知性自身に由来する以上、それを根絶する術はありません。ただ抑圧(相殺)することができるだけです。相殺とは、知性自身の内部で、直観によってそれとは別の批判的傾向を惹起するという意味です。そうすることによって幻想の発生は阻止されるか、仮に発生したとしても「分析され消散」(「思想と動くもの」緒論・注)します。この場合の分析とは混合物の分割、現実の分節化(反省された二元論)ではなく、単一のものを二つの方向に分割すること(発生論的二元論)です。

にせの問題という幻想を生んでいるのが知性自身であり、まさにそのためにその幻想が不可避のものであるのは事実です。知性の系列に加えて、「必要・行動・社会の系列」(「ベルクソンの哲学」第一章。以下同じ)や、「一般観念の系列」をその原因として挙げることもできるでしょう。これらの原因はわたしたち自身の本性にかかわるもの、言い換えると心理的なものですが、別の要因も考慮する必要があります。「なぜならば、たとえ同質の空間という観念に、われわれを実在から分離させる一種の信号(記号)または象徴が含まれているとしても、物質と延長が、空間の秩序を前もって示す実在であることに変りはないからである」。空間という幻想の源はわたしたち自身の本性の中だけではなく、物質の本性の中にも基礎を置いています。つまり「真なるものの後退運動は、単に真なるものについての幻想ではなく、真なるもの自体に帰属して」います(「真なるものの後退運動」とは、「思想と動くもの」緒論第一部に出てくる「一度定立された真理が時間のなかで自動的におこなう遡行的運動」のこと。もう少しわかりやすく言えば、実現された現実が無際限に遠い過去にまで自分の影を投影すること。ここから可能性は現実に先立って存在しているという錯覚が生まれます)。したがって空間は単に「心理的実在(持続)からわれわれをへだてるフィクション」ではなく、「外在性のひとつの形態ではなく、持続を変質させる一種の幕ではなく、純粋なものを撹乱させる不純なものではなく、絶対に対立する相対的なもの」(「ベルクソンの哲学」第二章)ではありません。「空間そのものが物のなかに基礎づけられ、物と持続との関係のなかに基礎づけられ、空間もまた絶対に帰属し、その《純粋性》を持たなくては」なりません(同上)。しかしそのためには、「《外在する物は持続するか》」(同上)否か、という問題を解決する必要があります。「知性はその力が及ぶ対象に関連して物質の側に属することは真実であるにしても、自らの対象を支配する知性がいかなる仕方で持続するかを示すことによってしか、それ自体として規定することはできないという事情には変りがない。そして結局物質そのものを定義することが問題なら、それを障害としてまた不純性として示すことではもはや十分ではなく、その震動がなおもいくつかの瞬間を占める物質、そのような物質がいかに持続するかをつねに示す必要があろう」(「ベルクソン 1859-1941」・再掲)。

「意識に直接与えられているものについての試論」では、この問題は未解決のままです。「ベルクソンは、方法としての直観を意識する以前に、混合されたものの分割の仕事に直面する。この混合されたものを、二つの純粋な方向にしたがって分割することがすでに問われているのであろうか。ベルクソンが空間の存在論的起源の問題をはっきりと提起しない限り、むしろこの混合されたものを二つの方向に分割することが問われるのである。この二つの方向のうちのひとつだけが純粋であり(持続)、もうひとつ(空間)は持続の質を変える不純粋さを表象している」(「ベルクソンの哲学」第二章)。空間を「持続の質を変える不純粋さ」と捉える限り、持続は単に意識に直接に与えられているもの、つまり心理的なものに留まるでしょう。実際「意識に直接与えられているものについての試論」では、ベルグソンは「空間の概念の成立の問題を、延長の知覚を基にして示している」(「ベルクソンの哲学」第二章・注)、とドゥルーズは指摘しています。また運動という概念の分析においては、運動という混合物が運動体の通過した空間と運動そのものとに分割されますが、そこでも空間は「向きを変えた障害」(「ベルクソンの哲学」第二章。以下同じ。ドゥルーズのこの言葉は恐らくベルグソンが不動性と呼んでいるものを指しているのではないかと推察されます)と捉えられています。そして運動そのものは「意識的で持続する主体を含み、心理的経験としての持続と混同される《意識の事実》(意識的事象)」と捉えられています。「しかし、持続という心理的経験に、運動という身体的経験を重ね合わせるとき」、一つの問題が不可避的に生じてきます。それが「《外在する物は持続するか》」否か、という問題です。

心理的経験という視点からは、この問題を解決することはできません。したがって「意識に直接与えられているものについての試論」では、この問題については暫定的な見解が示されるのみです。ドゥルーズが引用している以下の二つの文章がそれです。

「この内的持続に関与するもので、われわれの外に、何が実在するであろうか? それはたった一つ、現在という時間だけである。あるいはこう言ってよければ、同時性だけである。外界にある事物も、確かに、時間とともに変化してゆくだろうが、しかし、それらの事物の各瞬間[の有り様]は、それを記憶する[わたしという]一つの意識にとってだけ、継起するのである。ある瞬間において、われわれがわれわれの外部に見ているのは、その瞬間に同時に位置しているものの集合体である。それより前に存在した同時集合体の何ものも、そこには残っていない。内的持続を外的空間のなかに置くということは、まったき矛盾を冒して、同時性のまっただなかに継起を置くことである。外的事物が持続する、と言うことはできない。むしろ、外的事物にはなんらかの曰く言いがたい理由があって、そのために、われわれの内的持続の継起する各瞬間においてそれらの事物を見たとき、それらが変化したのだ、とわれわれが思わざるをえないような仕組みになっている、と言うべきなのである」(「意識に直接与えられているものについての試論」結論・竹内訳)。

「確かに、外界の事物がわれわれと同じように持続するものではないと感じられているとしても、それらの事物には何かわれわれの知らない理由があって、そのために、すべてが同時に展開されているのではなく、[時間的前後関係のなかで]継起しながら現象しているに違いないと思われている」(「意識に直接与えられているものについての試論」第三章・竹内訳)。

見ての通り、「意識に直接与えられているものについての試論」では暫定的に、「外的事物が持続する、と言うことはできない」、あるいは「それらの事物には何かわれわれの知らない理由があって、そのために、すべてが同時に展開されているのではなく、継起しながら現象しているに違いないと思われている」と結論されています(暫定的、というのはドゥルーズが「ベルクソンの哲学」第四章で使っている表現でもあります。「『意識に直接与えられたもの』における暫定的な理論(物がわれわれの持続に神秘的に参加すること、《表現できない理由》があるという理論)……」)。この問題に関しては次の著作「物質と記憶」で決定的な仮説が提示され、「創造的進化」ではその仮説に一定の制限が設けられます。以前引用した文章をもう一度引用します。――「ここから『物質と記憶』の重要性が生ずる。運動は物そのものに帰属させられ、その結果、物質的な物は直接に持続を分有して、持続のひとつの極限のケースを作っている。『意識に直接与えられたもの』は超越されている。運動は、自我の内部にも外側にも同じように存在する。そして今度は、自我そのものも、持続のなかでは、ほかのものと同じひとつのケースにすぎなくなる」。「『物質と記憶』は、持続の徹底的な多元性をはっきりと肯定している。宇宙は、緊張とエネルギーの修正・混乱・変化から成るものであって、それ以外のものから成るのではない」。「しかし、『創造的進化』では、重要な制限がはっきりと示されている。つまり、もしも物が持続すると言われるとすれば、それは物そのものにおいて、または絶対的に持続するのではなく、その区分が人工的なものである限りにおいてそれらの物が参加しているところの宇宙全体とのつながりにおいて持続するのである」(「ベルクソンの哲学」第四章)。

「創造的進化」には上記以外にも、極めて重要な記述があります。それが無秩序の観念、あるいは無の観念の分析です。というのもそこでベルグソンは次のように述べているからです。「以上の長い(無の観念の)分析は、自らに自足している現実存在があるとしても、それは必ずしも持続に無縁の現実存在であると言うわけではない、ということを論証するために不可欠であった」(「創造的進化」第四章)。「思想と動くもの」緒論では、この分析の意味が次のように説明されています。「……われわれが直観的に真を認知するや否や、われわれの知性は考えを正し、誤りを訂正し、その誤りを知的に言い表わす。示唆を受け取ったので、知性は検閲を行なうのである。あたかも、潜水夫が水底にもぐって、空中から飛行士が指示した難破船に直接触れに行くように、知性は概念的環境の中に飛び込んで、綜合的で超-知性的なヴィジオンの対象であったものを、逐一、接触によって、分析的に検証するであろう。もし外からの警告(直観)がなかったならば、錯覚を犯しているかも知れないとの考えが知性の念頭をかすめることさえなかったであろう。なぜならば、錯覚は知性の本性の一部をなしていたのだからである。眠りから揺り起こされて、知性は、無秩序や無やまたこれらと同類の諸観念を分析するであろう」(「思想と動くもの」緒論)。――この文章は、「創造的進化」第三章の文章を思い起こさせます。「わたしが表象している人間知性のすがたは、プラトンが洞窟の比喩で示したそれとはまったく違っている。人間知性の為すべき務めとは、もはや、虚妄の影像が目の前を通りすぎるのを見つめることでも、その背後に振り返って輝かしい太陽を観照することでもない。知性はそれとは別の務めを持っている。耕作牛のように重い犂(すき)に繋がれて、われわれは自分の筋肉や関節が動くのを感じ、犂の重量や土の抵抗を感じている。行動し、自らの行動を認識すること、現実世界と触れあい、さらにはその現実世界を生きること、しかし[観念的にではなく]今現に行なわれている仕事と掘り起こされる畝に関与している限りでその現実世界に触れ、そして生きること、それが[わたしの考えている]人間知性の働きなのである。それでも、恵みの水がわれわれの上に降り注ぎ、われわれはそこに労働と生活の力そのものを汲みとる。生命活動という広大な海がわれわれを浸し、そこからわれわれは絶えることなく何かを求め、われわれの存在が、あるいは少なくともわれわれの存在を導くわれわれの知性が、いわば局在的な固体化とでも言うべきものによってそこに形成されるのを感じる。哲学とは新たにその全体世界に融け込むことを目指す努力にほかならない。知性は、再びその哲学的原理に自らを融合し、逆向きにそれ自体の創生物語を生き直さなければならない」(「創造的進化」第三章)。これはドゥルーズが「発生論的二元論」と呼んでいるもののスケッチと言ってもいいのではないでしょうか。

さて、少々性急に話を進めすぎたので、今述べたことを検証すべくここから「意識に直接与えられているものについての試論」第三章と結論、それから「物質と記憶」第一章と第四章をじっくり読み直したいと思います。

(つづく)