画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(10)

2012-02-14 | 雑談
これまで植物と動物の進化の傾向をそれぞれ個別に見てきましたが、今度は植物と動物に分岐する前の生命の視点に立ってもう一度見直してみましょう。「物質と記憶」の結論からも推測されるように、生命の根源には物質の必然性にできるだけ多くの「非決定性」を挿入しようとする努力があるように思われます。もとより努力といっても人間的なレベルのものではなく、動物においては行動という形で現れ、植物においては光合成という形で現れることになる力です。この努力は全宇宙の物質の抵抗を受けることになりますから、自力で新たなエネルギーを創造するまでには至りません。よしんばエネルギーを生み出すことができたとしても、少なくともそれが人類の感覚や測定装置で感知できるほどの量に達することはないでしょう。このため必要なエネルギーを得るために生命のとった手段は、もともと存在するエネルギーを可能な限り自分のために利用することでした。すなわち物質から潜在エネルギーを分けてもらい、それを蓄積した上で必要なときに起動装置を作動させて行動のために使用できるようにしたのです。起動装置を作動させる労力は常に一定で、なおかつどんな作業よりも小さくて済みます。しかも蓄積されるエネルギーの量が多ければ多いほど、得られる効果もまた絶大なものになるでしょう。地球における主なエネルギー源は太陽です。そこで地球の環境においては、太陽エネルギーの散逸を地球の各所で部分的、暫定的に遅らせ、その一部を貯蔵庫に蓄えるシステムが確立されることになりました。「動物が摂取する物質は、まさにこの種の貯蔵所である。これらの物質は、潜在的な状態で、かなりの量の化学エネルギーを内に持つきわめて複雑な分子によって形成されており、蓄積された力を解き放つ火花を待つだけになっている、ある種の爆発物を構成する」。植物と動物に分裂する前の生命は、一方で太陽から得たエネルギーを連続的に蓄積し、他方で蓄積したエネルギーを爆発的に消費する活動を、おそらく同一の有機体において同時に営んでいたものと想像されます。ミドリムシのようなクロロフィルの機能を持った繊毛虫類の存在は、その種の活動が営まれていたことの名残りと言えるかも知れません。その後前者の活動はもっぱら植物が受け持ち、後者の活動は動物が受け持つようになります。ここには分業があるというより、エネルギーを蓄積する役割が一方的に植物に押し付けられたと見る方が真相に近いように思えます。

そういうわけで原始的な植物細胞は単独で炭素と窒素を同時に固定しなければなりませんでしたが、植物と動物との間に起こった分裂にも比すべき分裂が植物の間でも起こり、微小植物が窒素の固定に特化するに及んで、植物細胞は窒素固定の機能のほとんどを放棄することができました。微生物(真正細菌・古細菌)の中には大気中の窒素を固定するものもあれば、「アンモニア化合物を亜硝酸化合物に、亜硝酸化合物を硝酸塩に順次変換する」ものもあります。このような機能の細分化・専門化によって植物は複雑な仕事の大半を微生物に肩代わりさせることができ、不動性と無感覚への進化をより強固に推し進めることができるようになったのだと言えます。エネルギーの蓄積を補助するこうした微生物を所属させるべき界として、ベルグソンは植物や動物と並ぶ「第三の」界を想定しています(ただし上で述べたように現在の代表的な分類では第三の界は菌界に与えられ、細菌は界に属していません)。それはエネルギーの蓄積と消費が生命にとって必要不可欠なものであり、したがってまた最も本質的な傾向を表していると考えられるからです。

しかし爆発物の製造の目的は爆発自体にあると考えるなら、その中でもより根本的なのは動物の進化の方だと考えることができます。この観点に立って見るとき、動物の生はどのように成り立っているのでしょうか。

繰り返しになりますが、「動物性を構成するのは、起動装置を使って、できる限り多くの蓄積された潜在エネルギーを「爆発的な」行動に変換する能力」です。アメーバの仮足運動が象徴しているように、最初この爆発は決まった方向もなく、行き当たりばったりに行われます。やがて神経要素が現れ、それが明確な形をなしてくるのに伴い、身体の形態をなぞるように進むエネルギーの進路、エネルギーの発現する方向が徐々に鮮明になってきます。この方向は末端と末端を結ぶ神経繊維の束によってより直接的に示されていると言えるでしょう。未分化な有機組織から神経要素が現れるや否や、エネルギーを解放する能力はこの要素とその付属器官に集中するようになったものと思われます。が、エネルギーを解放する前に、生体はまず自分自身を養わなければなりません。そのため「生命を持つあらゆる細胞は、平衡状態を保つために絶えずエネルギーを消費して」います。恐らく個々の細胞は利用できるエネルギーの大半を自己保存のために費やしているのでしょうが、有機体全体としてみればできるだけ多くのエネルギーを行動への変換点に導きたいところでしょう。したがって自己自身を養うという最初の目的とは相反することになりますが、神経系を除いた身体各部が第一義的に目指しているのは爆発によって解放されるエネルギーを準備し、必要なときにすぐさま供給することにあると推測できます。

自己を保存しつつ安定してエネルギーを供給するという難しい要求に応える必要上、高等動物における栄養の働きは実際かなり複雑なものになっています。大雑把に言えば、それはまず組織の修復という役割を担います。次に、外界の気温の変化に対して体内の独立性を保つため熱を発生させることが考えられるでしょう。これにより体内の環境が整えられ、自己自身を養護するという目的の大半は達せられることになります。こうして自己保存と自己保全に莫大なエネルギーが費やされる結果、神経要素や筋肉に回せるエネルギーは全体の消費量から見れば微々たる量に留まらざるを得ません。しかしこの微々たるエネルギーの一滴がそれまでに消費されたエネルギーすべての存在理由なのです。

この点を明確にするために、身体における栄養の分配をもう少し詳細に見てみましょう。栄養物質は身体の重要な構成要素となるもの(タンパク質)と、身体にエネルギーを供給するもの(炭水化物と脂肪)の二つに大別されます。タンパク質は場合によってはエネルギーにもなり得ますが、主な役割は組織の修復です。炭水化物(糖質)と脂肪(脂質)の役割はエネルギーの供給で、「後で運動もしくは熱に直接変換される潜在エネルギーを、化学ポテンシャルの形で細胞にもたら」します。前者と後者には役割の違いとは別に、分配のされ方にも大きな違いがあります。身体のすべての組織、器官は等しく維持される必要があるため、タンパク質の分配はあらゆる部分に対して均等で偏りがありません。ところが炭水化物の分配のされ方には大きな偏りが見られます。――炭水化物は肝臓からグルコース(ブドウ糖)という形で動脈血によって全身に運ばれたのち、グリコーゲンという形で組織を構成する様々な細胞内に蓄えられます。余ったグルコースはグリコーゲンに変えられた上で肝臓細胞に蓄積され、血液のグルコース含有量(血糖値)を調節して一定に保つ役割を果たします。グリコーゲンの貯蔵状況とブドウ糖の循環の様子を見ていくと、次のような点に気づかされます。まずグリコーゲンの貯蔵状況について言えば、肝臓を別にするとそのほとんどが筋肉組織に蓄えられるということです。他の組織、たとえば神経組織にもグリコーゲンは蓄えられますが、その量はごくわずかでしかありません。神経組織が主なエネルギー源としているのはブドウ糖(血糖)で、こちらはもともと貯蔵できない性質のものです。しかし次にブドウ糖の循環を見てみると、神経組織は栄養物質をほとんど貯蔵できない代わりに、エネルギーを消費した瞬間血液からブドウ糖が補給され、瞬時に潜在エネルギーが充填されることがわかります。つまり「筋肉組織は、そこにかなりの量のエネルギーが貯蔵されるという点で、神経組織は、それが必要とする瞬間、必要に正確に応じて、エネルギーが常に与えられるという点で、きわめて特権的な位置を占める」ように見えるのです。

また餓死して間もない動物の身体を調べてみると、ほとんどの臓器の重量が減少し、細胞が深刻なダメージを受けている中で、脳だけが例外的に甚大な損傷を免れているという文献をベルグソンは引用しています(ただしこれが一般に認められている事実かどうかは確認できませんでした)。この事例から、有機体においては神経系がすべての組織、器官の頂点に立っていること、爾余の部分はこぞってこれに奉仕し、生命が危険に見舞われたときは自分を犠牲にしてまでもこれを守り抜こうとする事実がより鮮明に見て取れるでしょう。

今まで述べてきたことを繋ぎ合わせていくと、生命の一つの流れが見えてきます。それはまず植物と動物とに分裂し、エネルギーの確保を目指します。次に蓄積したエネルギーを自由な方向に解放すべく神経要素を生じさせ、その後中枢神経、感覚器官、運動器からなる「感覚―運動神経系」を形作ります。自由の発生装置に他ならないこの感覚―運動神経系こそエラン・ヴィタルの現在の地球における最終的な到達点を表しているように思われます。

とはいえ単純な神経要素と進化し複雑化した神経系との間には大きな隔たりがあり、それらを一まとめに扱っていいものか疑問も残ります。神経系の進化は自動的・反射的な行動性と同時に随意的・意志的な行動性の発達によって測られるでしょう。一方が他方の代わりをすることはできず、どちらが欠けても十全とは言えません。自動的な行動性は単独でも生物の活動のかなりの部分に対応できるのはもちろん、「意志的な行動性に適切な道具を与え」ます。脊髄や延髄にはあらかじめ相当数の運動機構が備わっており、それらは待機状態で起動の合図を待つばかりになっています。新たな運動機構を構築するためには意志の力が必要ですが、一旦運動機構が出来上がってしまえばどの運動機構を起動させるべきか、どの運動機構とどの運動機構を組み合わせるべきか、いつ起動させるべきかを選択するだけで十分です。選択肢が増えれば増えるほど、「すべての運動経路の交差点が複雑になればなるほど、別の言い方をすれば、この動物の脳が発達すればするほど、(中略)それによって行為に保証される正確さ、多様性、効果そして独立性は増大」し、「有機体は、新しい行動のたびに全体が組み立て直されるような行動機械のごとく徐々に振舞うようにな」ります。しかし高等な動物の行動に見られるこの自動性と随意性は、程度は違えどアメーバのような未分化な生物の仮足運動にも認められるものです。そこにはどんなに縮小されていようと、あらゆる生物に共通する生命の働きが透けて見えます。その働きとはすなわち、「一、エネルギーを徐々に蓄積すること。二、可変的で決定しえない方向へエネルギーを放つ柔軟な水路を開くこと」です。

神経系の発達に象徴される動物性の進化の過程で、実は植物と動物という二つの世界への分裂に匹敵するもう一つの分裂――本能と知性への分裂が生じます。人類の進化にとっても重要な意味を持つこの分裂について考察する前に、今述べた生命の基本的な二つの条件から類推されることをいくつか挙げてみます。

エネルギーの蓄積についてはすでに述べた通りですが、エネルギーの消費の仕方は種により、種の中の個体により実に千差万別です。それによって得られる成果、すなわち自由をエラン・ヴィタルは本来ならいちどきに獲得したいところでしょう。しかし宇宙の特定の世界にエラン・ヴィタルが与えられるのは一回きりで、しかもそのエネルギーは無尽蔵というわけではありません。進化の途上いたるところで滞留が生じ、逸脱や後退が生じるのもこのためです。二分化そのものがすでに物質との妥協の産物であり、妥協の産物たる限りにおいて必然性のいく分かを失っています。「それゆえ、進化において偶然の占める部分は大きい。採用される、いやむしろ発明される形態は、たいてい偶然的である。原初にある傾向は、これこれの互いに補い合う傾向に分離し、それらは進化の分岐する線を創造する。この分離は、ある場所、ある瞬間に出会った障害に相対的で、偶然的である。停止や後退は偶然的で、適応も、大部分が偶然的である」。必然的なのは、エネルギーの蓄積と爆発的な解放という二つのことだけです。

地球では主にクロロフィルの機能によってエネルギーを蓄積するシステムが確立されました。そのシステムとはすなわち、光合成によって空気中の二酸化炭素(と土壌から吸収した水)から炭素を固定すること、言い換えれば炭水化物を作り出すことです。この過程で酸素も同時に作られますが、それは副次的なことでしかありません。エネルギーの蓄積という目的からすると、数ある元素の中から炭素が選ばれたことに絶対的な必然性などはなかったでしょう。実現可能かどうかはともかくとして、少なくとも理論的には「太陽に、たとえば、酸素原子と炭素原子を切り離すように頼む代わりに、別の化学的な諸要素を提案することもできた」筈です。その場合、クロロフィルの機能とは全く異なった手段によってそれらの諸要素を分離または結合しなければならなかったでしょう。それとともに、有機体を形成する物質の構成元素も一変し、生体の形態やそれに関連する化学、生理学、解剖学など、すべてが現在あるものとは違った体系になっていたに違いありません。唯一感覚―運動神経系だけが、そのメカニズムはともかく、少なくともその機能は温存されたのではないかと想像されます。このように考えると、生命が別の惑星や別の太陽系の地球とは似ても似つかぬ環境下に生まれたとしても少しも不思議ではありません。というのも当たり前すぎて忘れてしまいがちですが、生命は化学反応などの物理的原因によって生じるわけではなく、化学的基盤や物理的条件によって存在を制限されることはないからです。「生命はおそらく、それぞれの太陽系で、それぞれの惑星で、地球で行っているように、与えられた条件のもとでこの結果を得るのに最も適切な手段を選ぶ」でしょう。ただしここでベルグソンが使っている(生命の)「手段」という言葉は、人間の有する手段とはその意味合いが全く異なる点に注意する必要があります。それは人間が道具や機械や薬品を製作するように生命は有機体を作り出したのではない、という点を考えてみれば明らかでしょう。地球以外の環境で生命は生存し得ないという思い込みは、知らず知らずのうちに生命現象と物理現象を同一視し、生命があたかも実験室での実験のごとく特殊な化学反応によって有機体を生み出したかのように、あるいは機械を組み立てるがごとく生物を作り出したかのように錯覚することから来ています。そして生まれついての工作人(ホモ・ファベル)である人間にとって、これほど自然な思い込みもありません。「しかし実際には、生命とはある運動で、物質性とはそれとは逆の運動なのである。そしてこれら二つの運動はそれぞれ単純なものなのだ。ある世界を形成する物質は不可分な流れであり、物質を横切りながら物質のうちで数々の生命を切り抜く生命もまた不可分である。これら二つの流れのうち、物質の流れは生命の流れに逆らっているが、そうだとしても生命の流れは物質の流れから何かを得る。このことによって二つの流れの間に折り合い(modus vivendi)がつく。この折り合いこそがまさに有機的組織化である」。それゆえ「エネルギーが、カルノーの法則(注=熱力学第二法則)によって示された坂を下る所なら、逆方向に進むある原因がその下降を遅らせる所ならどこでも、つまり、おそらくすべての星にぶら下がっている世界のすべてで、生命は可能であるというのが真実である」。極言すると、生命は有機体を形成する必要すらない、とベルグソンは述べています。エネルギーが蓄積され、それが逆の運動(物質)を貫いて可変的な方向に消費されさえすれば、生命の運動がそこにあると言えるからです。むろん物質といっても、ここでベルグソンが想定しているのは粒子として表象されている物質ではありません。恐らくベルグソンが思い描いているのは、「原子の固体性と惰性」が「あるいは運動に、あるいは力線に解消されて、その相互の密接な結びつきが宇宙の連続を回復するであろう」(「物質と記憶」)ような物質像、運動体を含まない「運動性」(モビリテ)のイメージです。「生命が飛び立つのは、逆の運動の結果、星雲上の物質が出現するまさにその瞬間であるというのが真実だとすると、これまで述べてきたこと(註=有機体を形成しない生命)こそ、物質の凝縮が完了する前のわれわれの星雲における生命の条件であった、ということはありうる」。
(ただし知性を持った有機体が誕生し進化するためには、少なくとも植物のようにエネルギーの蓄積に特化した種が同時に進化し、なおかつ知性の進化を促す道具の製作が可能な環境、つまりは地球に似た環境が必要なのではないかと夢想します。また生命の起源については諸説あるようですが、そのうちのいくつかは言ってみれば物質から生命を導出しようとしている点で共通しています。「創造的進化」が示そうとしているのは、それとは逆にまず生命の原理を立てるべきであること、物質からは物質しか導出されないこと、生命の原理を立てればおのずと物質性は導出され、その発生を跡づける必要はないことです)

(つづく)

舌に傷

2012-02-11 | 雑談
去年の終わりから歯医者に通っているのですが、昨日その治療中に舌(の裏)が傷ついてしまったらしく、口を動かしただけでひどく痛みます。唾を飲み込むにも一大決心が必要で、食事のときは顔をしかめながらでないと咀嚼もできません。連続して物を噛んでいると新手の拷問を受けているかのような気分にすらなってきます。と同時に苦痛と快楽が逆転した妙な感覚に何となくくすぐったい気分になり、食べ物を咀嚼するたびに発作的な笑いがこみ上げくるという訳のわからない状態に陥ってしまいました。一日のうち最も楽しかるべき食事の時間が最も苦痛な時間になってしまうというのは何と皮肉なことでしょうか。

今日になっても痛みが引かず、まともに食事ができない状態が続いています。口内炎用の塗り薬があるということで近くの薬局に行って探してみたのですが、生憎見つかりませんでした。仕方なくうがい薬を買って何度かうがいをしてみたものの一向に良くなる気配はありません。昼食、夕食と四苦八苦しながら何とか乗り切り、ようやく一息ついたところです。

しかしこんな状態では集中して物を考えることもできず、他に何をする気も起きません。明日こそは痛みが引いてくれることを信じつつ早めに寝ることにします。