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自由の問題をめぐって、相反する二つの自然観、すなわち機械論と力動論とが何故対立するに至るのかを理解することは難しいことではありません。力動論は、意識によって与えられる意志的活動の観念から出発し、徐々にこの観念の内容を貧しくして、惰性の表象を手に入れます。したがって力動論は自然の成り行きとして、一方には自由な力を、他方には法則に支配された物質というものをイメージします。機械論の思考の歩みはその逆です。機械論は自らの綜合の材料となる物質を必然的法則に支配されたものと看做し、それらの結び付きがどれだけ複雑なものとなり、予測し難いものとなり、外見上偶然的なものになったとしても、最初に自ら閉じ籠もった必然性の狭い円環から一歩も外に出ることはありません。――自然に関するこの二つの考え方を深く掘り下げてみると、法則とそれが支配する事実との関係について、両者が極めて異なった二つの見地に立脚していることがわかるでしょう。力動論者の目には、世界に注ぐ視線を高くしていくにつれて、法則に従わない事実を目にする頻度が次第に増していくように映ります。そこで彼らは事実を絶対的現実と看做し、法則はその現実の多かれ少なかれ記号的な表現に過ぎないと考えます。反対に機械論者は個々の事実の中に一定数の法則を見出し、言ってみればそれらの法則の交錯点が事実であると考えます。この(機械論的)仮説においては、法則の方こそ根本的現実ということになるでしょう。――では何故ある人々は事実の方に、別の人々は法則の方により高い現実性を付与するのかを考えてみると、機械論と力動論とでは、単純性という言葉が全く別の意味に解されているらしい、ということに気付かされます。機械論にとっては、結果が予測でき、さらに計算によって結果を導き出すことのできるようなあらゆる原理は単純です。それゆえ定義からして、惰性という概念は自由という概念より単純であり、等質的なものは異質的なものより単純であり、抽象的なものは具体的なものより単純である、ということになります。それに対して力動論は諸概念の間に最適な秩序を打ち立てることよりも、それらの概念同士の現実的な系統を見出すことに努力を傾注します。実際、単純と目されている概念――機械論者が原初的と看做している概念――は、そこから派生したと考えられているより一層内容豊かな複数の概念が融合することによって、言い換えると二つの光が干渉し合って闇が生まれるように、それらの概念同士が中和することによって生まれることがしばしばです。この新しい観点から見れば、自発性の観念の方が惰性の観念よりも明らかに単純です。何故なら、後者(惰性の観念)は前者(自発性の観念)を前提としない限り理解することも定義することもできないのに対して、前者はそれ自体で観念を形成しているからです。事実、わたしたちは自分自身の自由な自発性について、それが現実のものであれ錯覚であれ、めいめいが直接的な感情を有していますが、その(自発性の)表象の中に惰性の観念はいかなる形でも含まれていません。曲がりなりにも物質の惰性を定義しようとすれば、物質は自ら運動を開始することも停止することもできないとか、外から力を加えられない限りすべての物体は静止し続けるか運動し続ける他はない、などと表現するしかないでしょう。つまりどういう風に表現するにせよ、(惰性を定義するためには)活動性という観念(なり自発性の観念)に立脚しないわけにはいかないのです。以上の種々の考察から、具体的なものと抽象的なもの、単純なものと複雑なもの、事実と法則の関係をどう捉えるかに応じて、人間の活動に関する相反する二つの考え方にア・プリオリに導かれるのは何故か、ということを理解することができます。
しかしア・ポステリオリには、一方は物理的な、他方は心理的な事実を引き合いに出して自由を否定する点で両者は一致しています。ある場合には(力動論)、わたしたちの行動は感情や観念、あるいはその行動に先立つ意識状態の全系列によって必然的に規定されている、と主張されます。また別の場合には(機械論)、自由は物質の根本的特性、とりわけ力の保存則と相容れないものという烙印を押されます。ここから二種類の決定論、外見上は異なる普遍的必然性についての二つのア・ポステリオリな証明が生まれます。わたしがこれから証明したいと思っているのは、これら二つの(決定論の)形式のうち、後者(物理的決定論)は前者(心理的決定論)に帰着すること、あらゆる決定論は、たとえそれが物理的なものであれ一つの心理的仮説を含んでいるということです。次に、心理的決定論そのものが、それに対する反対論も含め、意識状態の多様性についての不正確な考え方に基づいていること、とりわけ持続についての不正確な考え方に基づいていることを証明するつもりです。それによって自我の活動は前章で詳述した諸々の原理の光に照らされ、他のどんな力の作用とも異なるものであることが明らかとなるでしょう。
物理的決定論は、最近の形式においては、物質に関する力学的、というより動力学的理論と密接に結び付いています。宇宙は物質の集合体として表象され、想像力によってその集合体は分子や原子に分解されます。分子や原子は振動や並進など、あらゆる種類の運動を絶え間なく行っています。物理現象、化学反応、あるいはわたしたちの感覚が知覚する物質の諸性質、すなわち熱や音、電気、それに恐らくは重力さえ客観的にはそれらの基本的運動に還元されます。有機体の構成にかかわっている物質も同じ法則に支配されている以上、例えば神経組織においても、引き合ったり反発し合ったり相互に作用し合う分子や原子以外のものをそこに見出すことはできません。ところで、有機物であるか無機物であるかにかかわりなく、あらゆる物体はその基礎的要素において相互に作用し反作用し合っているとすれば、ある瞬間における脳の分子状態が、脳を取り巻く物質から神経組織が受ける衝撃によって変化するのは明らかです。したがってわたしたちの内部で継起している感覚や感情や観念は、外部から受ける衝撃と、それに先立って神経細胞を構成する原子を賦活していた運動とを合成して得られる力学的な合力として定義することができるでしょう。勿論、これと逆の現象が起こる場合もあります。神経組織を舞台とする分子運動が、相互に合成され、あるいは他の分子運動と合成されて、外界に対するわたしたちの身体組織の反応をその合力として生み出す場合がそれです。そこから反射運動はもとより、自由で意志的な行為も生まれます。他方、エネルギー保存則は絶対的な原理と看做されており、神経組織においても広大な宇宙空間においても、あらゆる原子は他のすべての原子がそれに及ぼす力学的作用の総和によってその位置を決定することができる、と考えられています。したがって、ある瞬間における人体の分子あるいは原子の位置と、それに影響を与え得る宇宙のすべての原子の位置と運動とを知ることができる数学者がいたとすれば、その数学者はその身体の持ち主である人物の過去、現在、未来にわたる行為を、ちょうど天文現象を予測するように過つことなく正確に導き出すことができる、ということになるでしょう。
一般に生理学的現象を、その中でも特に神経学的現象を以上のように捉えようとする考え方が、力の保存則から半ば自然に生まれてくることは容易に理解できます。なるほど物質に関する原子論的な理論は仮説の域にとどまっており、物理現象の純粋に動力学的説明は、原子論的な理論と結び付くことによって得るものよりも失うものの方が多い、と言えるかも知れません。例えば気体の流れに関するイルン氏の最近の実験は、熱現象の中に分子運動とは別のものが存在することを示唆しています。波動理論とエーテル仮説についてはすでにオーギュスト・コントがかなり侮蔑的な口調で否定的に論じていますが、よく知られた惑星運動の規則性や、特に光の分光現象とほとんど相容れない仮説であることは間違いないように思えます。原子の弾性に関する問題は、ウィリアム・トムソンの見事な仮説が提示された後もなお、乗り越え難いいくつかの難点を惹起しています。そして最後に、原子の存在自体がそもそも何よりも不確かなものなのです。原子と呼ばれるものに次から次へと新しい特性が付与され、それが次第に肥大化していったことから判断すると、わたしたちとしては、原子とは実在するものというより、力学的説明の物質化された残滓ではないかと考えたくなります。しかし今述べたことをすべて認めるとしても、生理学的現象がそれに先立つ現象によって必然的に決定される、という考えが正当なものと看做されるには、物質の究極的要素の性質に関する仮説の如何にかかわりなく、ただ単にエネルギー保存則の適用範囲をあらゆる生命体に拡張するだけでよい、という点に着目しなければなりません。というのも、この法則の普遍性を認めることは結局のところ、宇宙を構成する物質点は、それらの点から発し、それらの点相互の距離に応じて正確に強さが決まる引力と斥力に完全に支配されていると考えることであり、そこから自ずと、ある所与の瞬間におけるこれらの物質点相互の位置関係は、その点の性質がどんなものであれ、それに先行する瞬間における位置によって厳密に決定することができる、という結論に導かれることになるだろうからです。そこでしばらくの間、この最後の仮説に身を置いてみましょう。この仮説からは、意識の諸状態は相互に、そして絶対的に決定可能であるという結論は出てこないこと、またエネルギー保存則の普遍性を認めるためには、何らかの心理的仮説の助けを借りなければならない、ということを以下に示したいと思います。
事実、脳を構成する各原子の位置、運動方向、速度が持続のあらゆる瞬間において決定付けられていると仮定したところで、そこからはどのようにしても、わたしたちの心理生活がそれと同じ宿命にあるという結論を引き出すことはできません。何故なら、そのためにはまず脳のある状態がある特定の心的状態に厳密に対応しているということが証明されなければならないにもかかわらず、未だかつてそのような証明がなされた試しはないからです。ほとんどの場合、そうした証明が必要であるということさえ見過ごされてしまうのは、(例えば)鼓膜の一定の振動、聴覚神経への一定の刺激によって一定の高さの音が知覚されることからもわかるように、一方は物理的で他方は心理的な二つの系列が並行関係にあることは多くの事例によってすでに実証されているからです。逆に、与えられた特定の条件下で、自分の思うがままに、思うがままの音を聞いたり色を見たりすることができるという主張がなされた事例は一つもありません。この種の感覚は、他の多くの心的状態と同じように、明らかにいくつかの特定の条件に結び付けられており、まさにそれゆえに、それらの感覚の背後には、わたしたちの築き上げた抽象的な力学によって支配されている運動システムを想定することができ、あるいは実際にそれを発見することができます。つまり力学的説明が成功を収める場合には例外なく、生理的な系列と心理的な系列という二つの系列の間にほぼ厳密な並行関係が見出されるのです。このことは驚くには当たりません。何故なら、この種の説明が持ち出されるのは、(原則的に)二つの系列が並行する要素を呈示している場合に限られるからです。しかしこの(限定的な)並行論を二つの系列全体に拡大して適用することは、自由の問題にア・プリオリにけりをつけることに等しい、と言わなければなりません。確かにそうすることが許されないわけではなく、過去の偉大な思想家達も躊躇うことなくそうした並行関係を認めています。しかしまた、(この段落の)冒頭で注意を喚起したように、彼らが意識状態と延長の様態との間に厳密な対応関係を認めているのは、物理学的な理由によるものではありません。ライプニッツはそれ(意識状態と延長の様態との間の対応関係)を予定調和に帰しましたが、原因が結果を生み出すように運動が知覚を生み出す、とはどんな場合にも主張していません。またスピノザは、思考の様態と延長の様態は対応しているとしても、両者は決して影響し合うことはない、と述べています。別の言い方をすると、両者は同じ一つの永遠の真理を、二つの異なる言語に展開したものだというのです。一方、現代において誕生した物理的決定論は、先人達の理論が備えていたのと同じ水準の明晰さ、同じ水準の幾何学的厳密さを備えているとは到底言えません。現代の物理的決定論では、まず脳内で行われている分子運動が表象され、その分子運動からどういう仕組みかもわからないまま気紛れに意識が生まれ、あたかも燐光のようにその分子運動の軌跡を照らし出す、という風な説明がなされています。あるいは、舞台の背後に身を隠した演奏家が、舞台の上で音の出ない鍵盤を叩いている俳優の指の動きに合わせて演奏している、といった比喩が持ち出される場合もあります。ちょうど俳優のリズミカルな指の動きにメロディーが重なるように、何処(いずこ)からともなくやって来た意識が分子の振動に重なり合うというわけです。しかしどんなイメージに頼るにせよ、心的事象が分子運動によって必然的に決定されるということが証明されたことはありませんし、今後証明されることも決してないでしょう。運動の中に見出されるのは別の運動の原因であって、意識状態の原因ではないからです。意識状態と運動との対応はただ経験においてのみ確認することが可能ですが、両者の間に恒常的な対応関係があると経験的に確認できるのはごく限られた場合でしかありません。それは、経験の対象が自由意志の入り込む余地がほとんどないと万人が認める事象の場合です。では何故物理的決定論がその対応関係をあらゆる場合に拡大して適用しようとするのか、その理由は容易に推察することができます。
まず、わたしたちの行動の大半は動機によって説明できることを意識が教えてくれています。ただしこの場合決定という言葉を使うにしても、それは恐らく必然性を意味するものでありません。というのも、常識は自由意志の存在を信じているからです。しかし決定論者は、持続と因果性についてのある考え方、それについてはもう少し先で詳しく検討しますが、その考え方に欺かれて、意識的事象の相互規定性を絶対的なものと看做してしまいます。こうして生まれたのが、観念連合説と結び付いた決定論です。これは意識の証言に訴えてそれに支えられてはいるものの、いまだ科学的厳密性を主張できるような仮説ではありません。この言わば近似法的な決定論、質的決定論が、自然現象を支えているのと同じメカニズムによって自らを支えようと望むのは当然です。そのメカニズムが質的決定論に幾何学的性格を貸し与えることになれば、それによってより厳密な心理的決定論として生まれ変わる質的決定論と、それと引き換えに普遍性を獲得する物理的決定論のどちらにとっても有益な結果が得られることになるでしょう。(決定論にとって)あるお誂え向きの事情が、両者の接近を後押しします。実際、ごく単純な心的事象は明確に規定された物理現象に自然に重ね合わせることができ、大部分の感覚は一定の分子運動に結び付いているように見えます。心理的次元に属する理由によって、意識状態がそれの生起する状況によって決定されているとすでに思い込んでいる人にとっては、そうした経験的証明の最初の部分だけで(両者を接近させる理由として)十分なのです。こうなるとその人物は最早迷うことなく、意識の舞台で演じられている芝居を、身体を構成する分子や原子が演じる様々な場面の逐語的、かつ忠実な翻訳と信じて疑いません。そのようにして彼が到達した物理的決定論とは、自然科学の威光を借りて自らの正当性を主張し、自らの外観を確たるものにしようとしている心理的決定論に他なりません。
しかしもし本当に力の保存則を厳密に適用した場合、わたしたちに残される自由の取り分はごく僅かなものとなってしまう点をよく考慮する必要があります。そのとき力の保存則がわたしたちの思考の流れには必ずしも全面的に影響することはないとしても、少なくともわたしたちの運動はこれによって支配されることになるだろうからです。わたしたちの内的生活は、確かにある程度までは依然としてわたしたち自身に依存するでしょうが、わたしたちの外部に位置する観察者から見れば、わたしたちの活動を絶対的な自動運動と区別するものは何もないということになるでしょう。それゆえ、力の保存則を自然界のすべての物体に拡大して適用する場合、そこには何らかの心理的な理論が潜んでいるのではないか、また、人間の自由に対してア・プリオリに何の先入観も抱いていない人であれば、この原理を普遍的法則に仕立て上げようなどと企図するかどうか、これらの点をよく見極めることが重要です。
自然科学の歴史において、エネルギー保存則が果たしてきた役割を過大に評価してはならないでしょう。エネルギー保存則は、それが現在とっている(熱力学という)形式においては、ある種の科学分野の進展の一局面を示しています。しかしその進展を主導したわけではなく、それ(エネルギー保存則)をあらゆる科学的探求に不可欠の原理と考えるのは間違いでしょう。確かに、ある与えられた量に対して行われる数学的演算はすべて、その量をどのように分解しようとも、演算が行われている間その量が不変であることを前提としています。言い換えると、与えられているものは与えられており、与えられていないものは与えられていない、ということであり、同じ多項式の項をどんな順序で加算してもその総和は同じです。科学が永遠に従い続けるこの法則こそ、まさに矛盾律(「与えられているものは与えられており、与えられていないものは与えられていない」という一文は矛盾律を表しています)と呼ばれるものに他なりません。もっともこの法則は、与えられるべきもの、あるいは不変であるものの本性に関しては特別な仮説を何ら含んでいません。ある意味では、それはわたしたちに、無からは何も生じないということを教えていると言っていいのかも知れません。が、科学にとって実在のどの側面や機能が重要なのか、また、実証科学にとってどの側面や機能は無視しても構わないのか、といったことを教えてくれるのはわたしたちの経験だけです。今述べたことは次のように言い換えることもできるでしょう。すなわち、ある一定の瞬間におけるある一定のシステムの状態を予見するためには、必要不可欠な条件として、システム内に一連の組み合わせの変化が生じている間、あるものが不変量として保持されていなければならない。しかし、そのあるものの性質について証言し得るのは経験だけであり、とりわけ、そのあるものがあらゆるシステムにおいて見出されるものかどうか、つまりあらゆるシステムは計算によってその状態を知り得るものかどうか、それをわたしたちに教えてくれるのは経験だけなのだ、と。ライプニッツ以前のすべての自然学者が、デカルトのように、宇宙における運動の総量は一定に保たれている、と考えていたかどうかは証明されていません。だからといって、彼らの発見の価値が下がるとか、彼らの研究の成果を割り引かなければならないということになるでしょうか。またライプニッツが(デカルトの)その原理を活力の保存則に置き換えたときにも、そうして定式化された法則が完全に一般的な法則と看做されていたわけではありません。というのも、この法則(活力の保存則)は二つの非弾性体が衝突する事例において、明らかな例外を認めていたからです。したがって極めて長い間、わたしたちは普遍的な保存則なしで済ましてきたことになります。エネルギー保存則は、それが現在とっている形においては、つまり熱力学理論が確立された後は、確かにすべての物理・化学現象に普遍的に適用できるように見えます。しかし一般的には生理現象の研究によって、殊に神経現象の研究によって、ライプニッツが語っていたような活力、すなわち(現在では)運動エネルギー(と呼ばれているもの)や、またその後に追加された位置エネルギーとは別に、計量することができない点でこれら二つのエネルギーとは異なる新しい種類のエネルギーが今後発見されないと断定できる証拠はどこにもありません。無論、仮にそういう発見がなされたとしても、最近話題に上り始めたように、自然科学がその精確さや幾何学的厳密さを失うというわけでは決してありません。ただ確かなのは、保存則に従うシステムが可能な唯一のシステムではないこと、さらにそうした(保存則に従う)システムは恐らく、具体的な現実の総体においては、化学者の言う原子が、単一の元素から成る物質やその化合物において果たしているのと同じ役割を担うものでしかないこと、この二点を承認せざるを得なくなるということです。ここで、最も過激な機械論、すなわち意識を、ある与えられた状況において、ある種の分子運動に付加される現象と看做す仮説、つまり意識を(分子運動の)随伴現象と看做す仮説に注意を向けてみましょう。しかし、(その仮説の言うように)もし本当に分子運動が意識の関与なしに感覚を創り出すことができるのであれば、逆に意識の方も、運動エネルギーや位置エネルギーなしに、あるいはそれらのエネルギーを自分流に活用して分子運動を創り出すことができる、と言えるのではないでしょうか。――もう一つ指摘して置きたいことがあります。エネルギー保存則は、構成要素が移動可能で、なおかつそれらがすべて元の位置に戻ることが可能であるようなシステムに適用される場合にのみ妥当性を有するということです。そうした初期状態への復帰は少なくとも実現可能な筈であり、その条件が実現された場合には、そのシステムにおいてはシステム全体もその部分的要素も初期状態から少しも変化していないと判断することができます。つまり一言で言えば、そのような(エネルギー保存則が妥当性を持つ)システムとは時間が何の役割も演じていないシステムだということになります。そして物質の一定量、力の一定量が保存されるという人類の漠然とした本能的信仰は、まさに惰性的物質が持続しないように見えることに、あるいは少なくとも、それが流れた時間のいかなる痕跡もとどめていないことに起因します。しかし生命の領域においては、事情は同じではありません。そこでは確かに持続が原因のごとく作用しているように見えるとしても、一定の時間が経過した後に事物を元の状態に戻すと考えることは一種の不条理を含んでいます。何故なら生命体においては、そういう逆戻りが起きたことはかつて一度もないからです。しかし一歩譲って、この不条理はただ現実の上ではそのように見えているだけで、生命体において生起している物理・化学現象が限りなく複雑であるために、それらがすべて同時に再現される蓋然性は万に一つもないという事情がそう思い込ませているに過ぎない、と考えてみましょう。その場合でも、この初期状態への回帰という仮説が、意識的事象の領域においては道理に合わないものである点に関しては少なくとも同意が得られるでしょう。一つの感覚は、それが長く続くというただそれだけの理由によって、しばしば耐え難いものとなります。意識的事象の領域においては、同じものが同じ状態のままとどまっていることはなく、過去のすべてを孕んで強さを増し、大きさを増していきます。要するに、力学において質点と呼ばれているものが永遠の現在にとどまり続けるとすれば、生命体にとっては恐らく、そして意識的存在にとっては間違いなく、過去は一つの実在なのです。保存則の適用されるシステムにとって、過ぎていく時間は利得でも損失でもないのに対して、生命体にとっては恐らく、そして意識的存在にとっては間違いなく、それは利得なのです。もしそうであれば、時間の支配下にあって持続を蓄積し、まさにそのことによってエネルギー保存則を免れるような意識の力、あるいは自由意志の存在を肯定する仮説の方が、それを否定する仮説よりも確からしいと言えるのではないでしょうか。
実を言えば、力学のこの抽象的原理(エネルギー保存則)を普遍的法則にまで仕立て上げたのは、科学を基礎付けるための必要ではなく、むしろ心理的次元に属する一つの錯誤なのです。わたしたちは自分自身を直接観察する習慣を全く持っておらず、外界から借りて来た諸形式を通して自分自身を認知するのが常なので、現実の持続、意識によって生きられている持続を、先ほど述べた、惰性的原子の上面(うわつら)を滑っていくだけで何の変化ももたらさない持続と同一視してしまいます。その結果、一旦時間が過ぎ去った後でも、事物を元の状態に戻すことができると考えたり、同じ動機が同じ人物に同じように作用すると考えたり、同じ原因が同じ結果を生むと結論することに何の矛盾も感じなくなってしまいます。このような仮説が容認し難いものであることは、もう少し先で示すつもりです。一旦この道に入り込むと、エネルギー保存則は必然的に普遍的な法則に仕立て上げられてしまう、ということだけをさしあたり確認して置きましょう。何故そうなるのかと言えば、その理由はまさに、注意深く検討すれば気付く筈の差異、外界と内界との根本的な差異を見落としたことにあります。つまり、真の持続と見せ掛けの持続を同一視したことにあります。もしそれ(真の持続と見せ掛けの持続が同じものであるということ)が正しいなら、時間を、たとえそれがわたしたち自身の時間であれ、利得や損失の原因と考えたり、具体的実在と看做したり、それ自体一つの力であると考えることは不条理だということになるでしょう。またその一方で、自由に関するあらゆる仮説を排除した(先入観なく考えた)場合、心的事象において(保存則が適用されると)確認されない限り、エネルギー保存則はせいぜい物理的現象を支配していると言い得るに過ぎないのに、ある形而上学的先入観に影響され、エネルギー保存則は心的事象(意識)がそれを誤りと認めない限りあらゆる現象に適用できる、という今述べた命題(エネルギー保存則は物理的現象を支配している)の範囲を際限なく超えた主張がなされることになります。したがってこの主張は本来の意味での科学とは何の関係もなく、わたしたちの前には、私見によれば根本的に異なっている二つの概念、持続に関する二つの概念の恣意的な同一視があるに過ぎません。つまり物理的決定論と呼ばれているものは、本(もと)を正せば心理的決定論に帰着する、ということであり、先に述べたように、この心理的決定論こそ検討されなければならないものなのです。
心理的決定論は、理論的に最も纏まった最新の形においては、精神に関する観念連合論的な考え方を内に含んでいます。(この仮説においては)現在の意識状態はそれに先立つ意識状態の必然の帰結と考えられている一方で、その必然性は、例えばある複数の運動から一つの合力が合成される場合のような幾何学的必然性と同じものではないことも十分認識されています。何故なら、継起する意識状態相互の間には質的な差異があり、そのため、現在の意識状態をそれに先立つ意識状態からア・プリオリに導き出そうとしても、その試みは悉く失敗に終わる他はなかったからです。そこで心理的決定論者は経験に自問し、ある一つの意識状態からそれに続く意識状態への移行は常に何らかの単純な理由によって説明されること、後続する意識状態はそれに先行する意識状態の呼びかけに従っているだけだということを確かめようとします。経験は事実それを確認します。わたしとしても、現在の意識状態と、刻々と推移していくそのすべての新しい意識状態との間に何らかの相関関係があることを認めるのに吝かではありません。しかしこの相関関係、ある意識状態から別の意識状態への移行を説明すると考えられているこの相関関係は、果たしてその移行の原因と言えるのでしょうか。
ここでわたしの個人的体験について話すことを許していただきたい。しばし途絶えていた会話を再開したとき、わたしとわたしの話し相手が、二人揃って全く同じある新しい話題について考えていた、という経験をしたことがあります。――これについては次のように説明されるかも知れません。それは二人がそれぞれ、会話が中断されたとき話題になっていたことから自然に考えを展開させていった結果である。双方において、同じ連想の系列がそれぞれ別個に形成された(結果、同じ話題に行き着いた)のだ、と。――ほとんどの場合、わたしも躊躇なくこのように解釈するでしょう。しかしそのときのことをよくよく考えた結果、思いがけない結論に導かれたのです。なるほどわたしもわたしの話し相手も、その同じ新しい話題を、会話が中断したときの話題に関連付けていたのは間違いありません。それだけでなくわたしたち二人は、それら二つの話題を媒介した様々な観念を列挙することさえできたのです。しかし(決定論の立場からすれば)奇妙なことに、二人が新しい共通の話題を関連付けたのは、必ずしも中断前の会話の同じ箇所ではありません。また新旧二つの話題を媒介したわたしたち二人の連想の系列にしても、(形成されたのは同じ連想の系列ではなく)全く異なるものだったと考えることを妨げるものは何もありません。このこと(異なる出発点から異なる道を通って同じ話題に行き着いたらしいこと)から結論できるのは、新しい共通の観念(話題)はある未知の原因――恐らくは何らかの外的影響――から派生したものであり、それに先行する一連の観念(連想の系列)は、新しい観念が自らの出現を正当化するために、自分自身を説明する観念として(事後的に)喚起したものであって、新しい観念の原因のように見えるそれらの観念は実はその結果である、ということでなくて何でしょうか。
(最後の文章で「外的影響」としたところは、全集と文庫では「物理的影響」、竹内訳では「身体的影響」と訳されています。どちらにしてもこれが具体的に何を意味しているのかはっきりとはわかりません。何か些細で偶発的な出来事が暗示として働くようなケースが想定されているのかも知れません)
催眠状態にある被験者が、催眠中に受けた暗示を指定された時刻に実行するとき、その被験者は、自分の行動は実行に至るまでの一連の意識状態に導かれたものだと証言します。しかしその一連の意識状態は実際には結果であって、原因ではありません。被験者は暗示されたことを行動に移さなければならない一方で、(実際に行動し終えたあとは)自らにその行動の説明をしなければなりませんでした。そこで被験者は、ある種の(未来の)牽引力によって一連の心的状態を決定したのは(暗示された)未来の行動であるにもかかわらず、それら一連の心的状態から未来の行動が自然と出てきたのだという風に事後的に解釈したのです。決定論者達は、この実験を自説の根拠の一つにしようとするに違いありません。実際それは、わたしたちが自分以外の意志に抗い難く影響を受けることがある、ということを証明しているからです。しかしこの実験はそれに負けず劣らず、わたしたち自身の意志はただ意志するために意志することができることを、そして為された行為が、その行為が原因で惹き起こされたものでありながら、それに先立つ行為によって説明できるように見えるのは何故かということをわたしたちに理解させてくれるのではないでしょうか。
(この段落中「実験」とした箇所はどの訳本でも「議論」と訳されています。しかし「議論」では意味が通らないので、暫定的に「実験」として置きます)
注意深く自分自身を観察すると、決心はすでについているのに、動機についてあれこれ思いを巡らしたり、考えあぐねたりしていることがあることに気付くでしょう。聞き取れるか聞き取れないくらいの内なる声がこう囁きます。「何をそんなに思い悩んでいるのか。結論はとっくに出ているし、何をすべきかお前はよくわかっている筈ではないか」と。しかし馬耳東風とばかりに、わたしたちはその声を聞き流してしまいます。わたしたちはあたかも、自ら進んで機械論の原理を守り、観念連合の法則に従いたがっているように見えます。(わたしたちの生活における)意志の突然の介入(これは「躍動(エラン)」と言い換えることもできるでしょう)はクーデタのごときものですが、ただしこの(エランという)クーデタはわたしたちの知性によって予感されていたかのように、正規の話し合い(これはクーデタという比喩に呼応した比喩で、強いて言えば知性による後付けの説明というほどの意味でしょうか)を経てあらかじめ合法化されてしまうのです。確かに、わたしたちの意志は意志するために意志するときでさえ、ある決定的な理由に従っているだけではないのか、意志するために意志することは果たして本当に自由に意志することなのか、と問うこともできるでしょう。しかし今は、この点を深く掘り下げることは差し控えます。仮に観念連合説の見地に立ったとしても、行動はその動機によって絶対的に決定されるとか、意識状態は相互に、絶対的に導出し合うと主張するのは困難である、ということを示しただけで十分です。こうした人目を欺く見せかけの下に、より注意深い心理学は、原因に先立つ結果を、観念連合説の既知の法則には当て嵌まらない心的牽引力が惹き起こす現象を時としてわたしたちに見せてくれるに違いありません。――しかし今や次のように問いを立てるべき時が来たのです。観念連合説の立脚する観点そのものの中に、自我や意識状態の多様性についての誤った考え方が含まれているのではないか、と。
観念連合説という名の決定論は、自我を心的状態の集合体として表象し、そのうち最も強い状態が支配的な影響力を発揮して、それ以外の状態を統率しているのだと考えます。したがってこの学説は、共存している心的諸状態を相互に明確に区別します。(例えば)スチュアート・ミルの著作の中に、「もし犯罪に対する嫌悪やその結果に対する恐れが、わたしを犯罪に駆り立てる誘惑より弱かったとしても、わたしは殺人を思いとどまることができただろうか」(原注:「ハミルトンの哲学」)という記述があります。また(同書の)もう少し先には、「彼の善を為そうとする願望と悪に対する嫌悪は……それに反する他のすべての願望や他のすべての嫌悪を沈黙させるほど強い」という記述があります。このように、願望とか、嫌悪とか、恐れとか、誘惑とかが、ここでは個々別々の事柄として提示され、引用した例を見れば明らかなように、それらに別々の名前を付与することへの抵抗は微塵も窺えません。これらの状態が自我と分かち難く結び付き、自我がその影響をまともに受ける場合にも、このイギリスの哲学者はそれらを截然と区別することに依然として固執し続けます。曰く、「快楽を欲する自我と後悔を恐れる自我との間に……葛藤が生じる」と。アレクサンダー・ベイン氏もその著作において、「諸々の動機の葛藤」に一章を割いています。氏はそこで、(様々な)快楽や苦痛を秤の上に載せ、少なくとも抽象化すれば独自の存在と看做すことのできる項としてそれぞれを比較対照(計量)しています。注目すべきは、決定論に反対する人達ですらこの点については氏の説に進んで追従し、観念の連合や動機の葛藤について語っていることです。その(決定論に反対する人達の)中で最も深い思想の持ち主の一人であるフイエ氏でさえ、自由の観念そのものを、他の諸々の動機と一緒に秤にかける(計量する)ことのできる動機の一つとして扱うことに一片の疑問も抱いていません。――しかしここにおいてわたしたちは、一つの重大な混乱に直面しています。その混乱は、言語というものが内的状態のニュアンスを余すところなく表現するようにはできていない、ということに起因しています。
例えば、窓を開けようと立ち上がったものの、その瞬間自分が何をするつもりだったか忘れてしまい、その場に立ち尽くしたとします。――次のように言う人もいるかも知れません。(観念連合説に立てば)その状況を説明するのはいとも簡単なことだ。あなたは達成すべき目的の観念と、為すべき行動の観念とを結び付けて(連合させて)いた。そのうち一方の(目的の)観念が消えて、運動の表象だけが残ったのだ、と。――しかし(何をすべきか忘れたからと言って)、わたしはすぐに座り直したりはしません。漠然とではあるにせよ、何かしなければならないことが残っている、と感じています。つまりわたしが動かないでいるのは、ただ理由もなく動かないでいるわけではないのです。立ったままのその姿勢には、為すべき行為が言わば前駆的に形象化されています。そのためわたしは同じ姿勢のままその前駆的な形象を把握しようと努め、あるいはむしろ内側からその姿勢を感じ取ることによって、一瞬見失われた(目的の)観念をその中に再発見しようとしているのです。したがって素描された運動(立ち上がった運動)と私の取っている(不動の)姿勢との内的なイメージは、その(目的の)観念によってある独自の色に染められている筈であり、達成すべき目的が異なれば、その色合いも恐らく異なったものになるに違いありません。しかし言語はその場合にも、相変わらずその運動とその姿勢を同じ言葉で表現するでしょう。そして観念連合論者は、運動の観念はどちらの場合も同じだが、今度はそれに新しい目的の観念が連合したのだ、と述べて二つの場合を区別しようとするでしょう。まるで、達成すべき目的が別の新しい目的に変わっても、空間において為される運動が同じであれば、為すべき運動の表象のニュアンスに全く何の変化も生じないとでも言うかのように。それゆえある一つの姿勢の表象が、意識の中で、達成すべき別の目的のイメージに結び付く、という風に考えるべきではなく、寧ろ、空間においては寸分違わぬ姿勢であったとしても、その姿勢は当人の意識においては目的の観念に応じて様々な形となって現れる、と考えるべきなのです。観念連合説の誤りは、為すべき行為の質的要素をまず排除した上で、幾何学的で没個性的な要素のみを保持しようとする点にあります。そうして独自の色合いを奪われ、色褪せた行動の観念を他の多くの観念から区別するために、何らかの特徴的な差異をその観念に連合させざるを得なくなったというわけです。しかしこの連合はわたしの精神が自ら生み出したものではなく、精神を考察している観念連合論者達が(机上で)作り出したものなのです。
薔薇の香りを嗅ぐと、たちどころに幼い頃の茫漠とした思い出がわたしの記憶に蘇ってきます。しかし実を言えば、薔薇の香りによってこれらの思い出が呼び覚まされたわけではありません。わたしはその香りそのものの中に、それらの思い出を嗅ぎ取ったのです。わたしにとっては、それらの思い出すべてが薔薇の香りなのです。他の人はわたしとはまた違った風にその香りを感じることでしょう。――香りそのものは常に同じであって、それに様々な異なる観念が連合されるのだ、と読者は言われるかも知れません。――そう判断されるのは読者の自由です。ただ(そのように表現することによって)、薔薇の香りがわたしたち一人ひとりに与える様々な印象から、その個人的な要素をあらかじめ取り除いてしまったのだということを忘れないでいただきたい。あなたは薔薇の香りから、その客観的側面だけを、すなわち、共通の領域に属する側面を、要するに空間に属する側面だけを保持したのです。もっともこういう条件においてのみ、薔薇とその香りに名前を与えることができるのも事実です。そうなると、わたしたちの個人的印象を相互に区別するためには、薔薇の香りという一般観念に、固有の性格を付け加える必要が出てきます。そこでやむなく、次のように結論するに至ります。すなわち、わたしたちの様々な印象、わたしたちの個人的な印象は、わたしたちが薔薇の香りに個々人の思い出を連合させた結果生まれたものだ、と。しかしあなたの語る連合は、あなたにとってしか存在しないものであり、単なる説明のための手段でしかありません。複数の言語で共通に用いられているアルファベットの文字をいくつか並べることで、ある言語に固有の特徴的な音声を曲がりなりにも表現することはできるでしょう。しかしそれらの文字のどれ一つとして、その音声そのものの構成要素ではないのとそれは同じことです。
(つづく)
自由の問題をめぐって、相反する二つの自然観、すなわち機械論と力動論とが何故対立するに至るのかを理解することは難しいことではありません。力動論は、意識によって与えられる意志的活動の観念から出発し、徐々にこの観念の内容を貧しくして、惰性の表象を手に入れます。したがって力動論は自然の成り行きとして、一方には自由な力を、他方には法則に支配された物質というものをイメージします。機械論の思考の歩みはその逆です。機械論は自らの綜合の材料となる物質を必然的法則に支配されたものと看做し、それらの結び付きがどれだけ複雑なものとなり、予測し難いものとなり、外見上偶然的なものになったとしても、最初に自ら閉じ籠もった必然性の狭い円環から一歩も外に出ることはありません。――自然に関するこの二つの考え方を深く掘り下げてみると、法則とそれが支配する事実との関係について、両者が極めて異なった二つの見地に立脚していることがわかるでしょう。力動論者の目には、世界に注ぐ視線を高くしていくにつれて、法則に従わない事実を目にする頻度が次第に増していくように映ります。そこで彼らは事実を絶対的現実と看做し、法則はその現実の多かれ少なかれ記号的な表現に過ぎないと考えます。反対に機械論者は個々の事実の中に一定数の法則を見出し、言ってみればそれらの法則の交錯点が事実であると考えます。この(機械論的)仮説においては、法則の方こそ根本的現実ということになるでしょう。――では何故ある人々は事実の方に、別の人々は法則の方により高い現実性を付与するのかを考えてみると、機械論と力動論とでは、単純性という言葉が全く別の意味に解されているらしい、ということに気付かされます。機械論にとっては、結果が予測でき、さらに計算によって結果を導き出すことのできるようなあらゆる原理は単純です。それゆえ定義からして、惰性という概念は自由という概念より単純であり、等質的なものは異質的なものより単純であり、抽象的なものは具体的なものより単純である、ということになります。それに対して力動論は諸概念の間に最適な秩序を打ち立てることよりも、それらの概念同士の現実的な系統を見出すことに努力を傾注します。実際、単純と目されている概念――機械論者が原初的と看做している概念――は、そこから派生したと考えられているより一層内容豊かな複数の概念が融合することによって、言い換えると二つの光が干渉し合って闇が生まれるように、それらの概念同士が中和することによって生まれることがしばしばです。この新しい観点から見れば、自発性の観念の方が惰性の観念よりも明らかに単純です。何故なら、後者(惰性の観念)は前者(自発性の観念)を前提としない限り理解することも定義することもできないのに対して、前者はそれ自体で観念を形成しているからです。事実、わたしたちは自分自身の自由な自発性について、それが現実のものであれ錯覚であれ、めいめいが直接的な感情を有していますが、その(自発性の)表象の中に惰性の観念はいかなる形でも含まれていません。曲がりなりにも物質の惰性を定義しようとすれば、物質は自ら運動を開始することも停止することもできないとか、外から力を加えられない限りすべての物体は静止し続けるか運動し続ける他はない、などと表現するしかないでしょう。つまりどういう風に表現するにせよ、(惰性を定義するためには)活動性という観念(なり自発性の観念)に立脚しないわけにはいかないのです。以上の種々の考察から、具体的なものと抽象的なもの、単純なものと複雑なもの、事実と法則の関係をどう捉えるかに応じて、人間の活動に関する相反する二つの考え方にア・プリオリに導かれるのは何故か、ということを理解することができます。
しかしア・ポステリオリには、一方は物理的な、他方は心理的な事実を引き合いに出して自由を否定する点で両者は一致しています。ある場合には(力動論)、わたしたちの行動は感情や観念、あるいはその行動に先立つ意識状態の全系列によって必然的に規定されている、と主張されます。また別の場合には(機械論)、自由は物質の根本的特性、とりわけ力の保存則と相容れないものという烙印を押されます。ここから二種類の決定論、外見上は異なる普遍的必然性についての二つのア・ポステリオリな証明が生まれます。わたしがこれから証明したいと思っているのは、これら二つの(決定論の)形式のうち、後者(物理的決定論)は前者(心理的決定論)に帰着すること、あらゆる決定論は、たとえそれが物理的なものであれ一つの心理的仮説を含んでいるということです。次に、心理的決定論そのものが、それに対する反対論も含め、意識状態の多様性についての不正確な考え方に基づいていること、とりわけ持続についての不正確な考え方に基づいていることを証明するつもりです。それによって自我の活動は前章で詳述した諸々の原理の光に照らされ、他のどんな力の作用とも異なるものであることが明らかとなるでしょう。
物理的決定論は、最近の形式においては、物質に関する力学的、というより動力学的理論と密接に結び付いています。宇宙は物質の集合体として表象され、想像力によってその集合体は分子や原子に分解されます。分子や原子は振動や並進など、あらゆる種類の運動を絶え間なく行っています。物理現象、化学反応、あるいはわたしたちの感覚が知覚する物質の諸性質、すなわち熱や音、電気、それに恐らくは重力さえ客観的にはそれらの基本的運動に還元されます。有機体の構成にかかわっている物質も同じ法則に支配されている以上、例えば神経組織においても、引き合ったり反発し合ったり相互に作用し合う分子や原子以外のものをそこに見出すことはできません。ところで、有機物であるか無機物であるかにかかわりなく、あらゆる物体はその基礎的要素において相互に作用し反作用し合っているとすれば、ある瞬間における脳の分子状態が、脳を取り巻く物質から神経組織が受ける衝撃によって変化するのは明らかです。したがってわたしたちの内部で継起している感覚や感情や観念は、外部から受ける衝撃と、それに先立って神経細胞を構成する原子を賦活していた運動とを合成して得られる力学的な合力として定義することができるでしょう。勿論、これと逆の現象が起こる場合もあります。神経組織を舞台とする分子運動が、相互に合成され、あるいは他の分子運動と合成されて、外界に対するわたしたちの身体組織の反応をその合力として生み出す場合がそれです。そこから反射運動はもとより、自由で意志的な行為も生まれます。他方、エネルギー保存則は絶対的な原理と看做されており、神経組織においても広大な宇宙空間においても、あらゆる原子は他のすべての原子がそれに及ぼす力学的作用の総和によってその位置を決定することができる、と考えられています。したがって、ある瞬間における人体の分子あるいは原子の位置と、それに影響を与え得る宇宙のすべての原子の位置と運動とを知ることができる数学者がいたとすれば、その数学者はその身体の持ち主である人物の過去、現在、未来にわたる行為を、ちょうど天文現象を予測するように過つことなく正確に導き出すことができる、ということになるでしょう。
一般に生理学的現象を、その中でも特に神経学的現象を以上のように捉えようとする考え方が、力の保存則から半ば自然に生まれてくることは容易に理解できます。なるほど物質に関する原子論的な理論は仮説の域にとどまっており、物理現象の純粋に動力学的説明は、原子論的な理論と結び付くことによって得るものよりも失うものの方が多い、と言えるかも知れません。例えば気体の流れに関するイルン氏の最近の実験は、熱現象の中に分子運動とは別のものが存在することを示唆しています。波動理論とエーテル仮説についてはすでにオーギュスト・コントがかなり侮蔑的な口調で否定的に論じていますが、よく知られた惑星運動の規則性や、特に光の分光現象とほとんど相容れない仮説であることは間違いないように思えます。原子の弾性に関する問題は、ウィリアム・トムソンの見事な仮説が提示された後もなお、乗り越え難いいくつかの難点を惹起しています。そして最後に、原子の存在自体がそもそも何よりも不確かなものなのです。原子と呼ばれるものに次から次へと新しい特性が付与され、それが次第に肥大化していったことから判断すると、わたしたちとしては、原子とは実在するものというより、力学的説明の物質化された残滓ではないかと考えたくなります。しかし今述べたことをすべて認めるとしても、生理学的現象がそれに先立つ現象によって必然的に決定される、という考えが正当なものと看做されるには、物質の究極的要素の性質に関する仮説の如何にかかわりなく、ただ単にエネルギー保存則の適用範囲をあらゆる生命体に拡張するだけでよい、という点に着目しなければなりません。というのも、この法則の普遍性を認めることは結局のところ、宇宙を構成する物質点は、それらの点から発し、それらの点相互の距離に応じて正確に強さが決まる引力と斥力に完全に支配されていると考えることであり、そこから自ずと、ある所与の瞬間におけるこれらの物質点相互の位置関係は、その点の性質がどんなものであれ、それに先行する瞬間における位置によって厳密に決定することができる、という結論に導かれることになるだろうからです。そこでしばらくの間、この最後の仮説に身を置いてみましょう。この仮説からは、意識の諸状態は相互に、そして絶対的に決定可能であるという結論は出てこないこと、またエネルギー保存則の普遍性を認めるためには、何らかの心理的仮説の助けを借りなければならない、ということを以下に示したいと思います。
事実、脳を構成する各原子の位置、運動方向、速度が持続のあらゆる瞬間において決定付けられていると仮定したところで、そこからはどのようにしても、わたしたちの心理生活がそれと同じ宿命にあるという結論を引き出すことはできません。何故なら、そのためにはまず脳のある状態がある特定の心的状態に厳密に対応しているということが証明されなければならないにもかかわらず、未だかつてそのような証明がなされた試しはないからです。ほとんどの場合、そうした証明が必要であるということさえ見過ごされてしまうのは、(例えば)鼓膜の一定の振動、聴覚神経への一定の刺激によって一定の高さの音が知覚されることからもわかるように、一方は物理的で他方は心理的な二つの系列が並行関係にあることは多くの事例によってすでに実証されているからです。逆に、与えられた特定の条件下で、自分の思うがままに、思うがままの音を聞いたり色を見たりすることができるという主張がなされた事例は一つもありません。この種の感覚は、他の多くの心的状態と同じように、明らかにいくつかの特定の条件に結び付けられており、まさにそれゆえに、それらの感覚の背後には、わたしたちの築き上げた抽象的な力学によって支配されている運動システムを想定することができ、あるいは実際にそれを発見することができます。つまり力学的説明が成功を収める場合には例外なく、生理的な系列と心理的な系列という二つの系列の間にほぼ厳密な並行関係が見出されるのです。このことは驚くには当たりません。何故なら、この種の説明が持ち出されるのは、(原則的に)二つの系列が並行する要素を呈示している場合に限られるからです。しかしこの(限定的な)並行論を二つの系列全体に拡大して適用することは、自由の問題にア・プリオリにけりをつけることに等しい、と言わなければなりません。確かにそうすることが許されないわけではなく、過去の偉大な思想家達も躊躇うことなくそうした並行関係を認めています。しかしまた、(この段落の)冒頭で注意を喚起したように、彼らが意識状態と延長の様態との間に厳密な対応関係を認めているのは、物理学的な理由によるものではありません。ライプニッツはそれ(意識状態と延長の様態との間の対応関係)を予定調和に帰しましたが、原因が結果を生み出すように運動が知覚を生み出す、とはどんな場合にも主張していません。またスピノザは、思考の様態と延長の様態は対応しているとしても、両者は決して影響し合うことはない、と述べています。別の言い方をすると、両者は同じ一つの永遠の真理を、二つの異なる言語に展開したものだというのです。一方、現代において誕生した物理的決定論は、先人達の理論が備えていたのと同じ水準の明晰さ、同じ水準の幾何学的厳密さを備えているとは到底言えません。現代の物理的決定論では、まず脳内で行われている分子運動が表象され、その分子運動からどういう仕組みかもわからないまま気紛れに意識が生まれ、あたかも燐光のようにその分子運動の軌跡を照らし出す、という風な説明がなされています。あるいは、舞台の背後に身を隠した演奏家が、舞台の上で音の出ない鍵盤を叩いている俳優の指の動きに合わせて演奏している、といった比喩が持ち出される場合もあります。ちょうど俳優のリズミカルな指の動きにメロディーが重なるように、何処(いずこ)からともなくやって来た意識が分子の振動に重なり合うというわけです。しかしどんなイメージに頼るにせよ、心的事象が分子運動によって必然的に決定されるということが証明されたことはありませんし、今後証明されることも決してないでしょう。運動の中に見出されるのは別の運動の原因であって、意識状態の原因ではないからです。意識状態と運動との対応はただ経験においてのみ確認することが可能ですが、両者の間に恒常的な対応関係があると経験的に確認できるのはごく限られた場合でしかありません。それは、経験の対象が自由意志の入り込む余地がほとんどないと万人が認める事象の場合です。では何故物理的決定論がその対応関係をあらゆる場合に拡大して適用しようとするのか、その理由は容易に推察することができます。
まず、わたしたちの行動の大半は動機によって説明できることを意識が教えてくれています。ただしこの場合決定という言葉を使うにしても、それは恐らく必然性を意味するものでありません。というのも、常識は自由意志の存在を信じているからです。しかし決定論者は、持続と因果性についてのある考え方、それについてはもう少し先で詳しく検討しますが、その考え方に欺かれて、意識的事象の相互規定性を絶対的なものと看做してしまいます。こうして生まれたのが、観念連合説と結び付いた決定論です。これは意識の証言に訴えてそれに支えられてはいるものの、いまだ科学的厳密性を主張できるような仮説ではありません。この言わば近似法的な決定論、質的決定論が、自然現象を支えているのと同じメカニズムによって自らを支えようと望むのは当然です。そのメカニズムが質的決定論に幾何学的性格を貸し与えることになれば、それによってより厳密な心理的決定論として生まれ変わる質的決定論と、それと引き換えに普遍性を獲得する物理的決定論のどちらにとっても有益な結果が得られることになるでしょう。(決定論にとって)あるお誂え向きの事情が、両者の接近を後押しします。実際、ごく単純な心的事象は明確に規定された物理現象に自然に重ね合わせることができ、大部分の感覚は一定の分子運動に結び付いているように見えます。心理的次元に属する理由によって、意識状態がそれの生起する状況によって決定されているとすでに思い込んでいる人にとっては、そうした経験的証明の最初の部分だけで(両者を接近させる理由として)十分なのです。こうなるとその人物は最早迷うことなく、意識の舞台で演じられている芝居を、身体を構成する分子や原子が演じる様々な場面の逐語的、かつ忠実な翻訳と信じて疑いません。そのようにして彼が到達した物理的決定論とは、自然科学の威光を借りて自らの正当性を主張し、自らの外観を確たるものにしようとしている心理的決定論に他なりません。
しかしもし本当に力の保存則を厳密に適用した場合、わたしたちに残される自由の取り分はごく僅かなものとなってしまう点をよく考慮する必要があります。そのとき力の保存則がわたしたちの思考の流れには必ずしも全面的に影響することはないとしても、少なくともわたしたちの運動はこれによって支配されることになるだろうからです。わたしたちの内的生活は、確かにある程度までは依然としてわたしたち自身に依存するでしょうが、わたしたちの外部に位置する観察者から見れば、わたしたちの活動を絶対的な自動運動と区別するものは何もないということになるでしょう。それゆえ、力の保存則を自然界のすべての物体に拡大して適用する場合、そこには何らかの心理的な理論が潜んでいるのではないか、また、人間の自由に対してア・プリオリに何の先入観も抱いていない人であれば、この原理を普遍的法則に仕立て上げようなどと企図するかどうか、これらの点をよく見極めることが重要です。
自然科学の歴史において、エネルギー保存則が果たしてきた役割を過大に評価してはならないでしょう。エネルギー保存則は、それが現在とっている(熱力学という)形式においては、ある種の科学分野の進展の一局面を示しています。しかしその進展を主導したわけではなく、それ(エネルギー保存則)をあらゆる科学的探求に不可欠の原理と考えるのは間違いでしょう。確かに、ある与えられた量に対して行われる数学的演算はすべて、その量をどのように分解しようとも、演算が行われている間その量が不変であることを前提としています。言い換えると、与えられているものは与えられており、与えられていないものは与えられていない、ということであり、同じ多項式の項をどんな順序で加算してもその総和は同じです。科学が永遠に従い続けるこの法則こそ、まさに矛盾律(「与えられているものは与えられており、与えられていないものは与えられていない」という一文は矛盾律を表しています)と呼ばれるものに他なりません。もっともこの法則は、与えられるべきもの、あるいは不変であるものの本性に関しては特別な仮説を何ら含んでいません。ある意味では、それはわたしたちに、無からは何も生じないということを教えていると言っていいのかも知れません。が、科学にとって実在のどの側面や機能が重要なのか、また、実証科学にとってどの側面や機能は無視しても構わないのか、といったことを教えてくれるのはわたしたちの経験だけです。今述べたことは次のように言い換えることもできるでしょう。すなわち、ある一定の瞬間におけるある一定のシステムの状態を予見するためには、必要不可欠な条件として、システム内に一連の組み合わせの変化が生じている間、あるものが不変量として保持されていなければならない。しかし、そのあるものの性質について証言し得るのは経験だけであり、とりわけ、そのあるものがあらゆるシステムにおいて見出されるものかどうか、つまりあらゆるシステムは計算によってその状態を知り得るものかどうか、それをわたしたちに教えてくれるのは経験だけなのだ、と。ライプニッツ以前のすべての自然学者が、デカルトのように、宇宙における運動の総量は一定に保たれている、と考えていたかどうかは証明されていません。だからといって、彼らの発見の価値が下がるとか、彼らの研究の成果を割り引かなければならないということになるでしょうか。またライプニッツが(デカルトの)その原理を活力の保存則に置き換えたときにも、そうして定式化された法則が完全に一般的な法則と看做されていたわけではありません。というのも、この法則(活力の保存則)は二つの非弾性体が衝突する事例において、明らかな例外を認めていたからです。したがって極めて長い間、わたしたちは普遍的な保存則なしで済ましてきたことになります。エネルギー保存則は、それが現在とっている形においては、つまり熱力学理論が確立された後は、確かにすべての物理・化学現象に普遍的に適用できるように見えます。しかし一般的には生理現象の研究によって、殊に神経現象の研究によって、ライプニッツが語っていたような活力、すなわち(現在では)運動エネルギー(と呼ばれているもの)や、またその後に追加された位置エネルギーとは別に、計量することができない点でこれら二つのエネルギーとは異なる新しい種類のエネルギーが今後発見されないと断定できる証拠はどこにもありません。無論、仮にそういう発見がなされたとしても、最近話題に上り始めたように、自然科学がその精確さや幾何学的厳密さを失うというわけでは決してありません。ただ確かなのは、保存則に従うシステムが可能な唯一のシステムではないこと、さらにそうした(保存則に従う)システムは恐らく、具体的な現実の総体においては、化学者の言う原子が、単一の元素から成る物質やその化合物において果たしているのと同じ役割を担うものでしかないこと、この二点を承認せざるを得なくなるということです。ここで、最も過激な機械論、すなわち意識を、ある与えられた状況において、ある種の分子運動に付加される現象と看做す仮説、つまり意識を(分子運動の)随伴現象と看做す仮説に注意を向けてみましょう。しかし、(その仮説の言うように)もし本当に分子運動が意識の関与なしに感覚を創り出すことができるのであれば、逆に意識の方も、運動エネルギーや位置エネルギーなしに、あるいはそれらのエネルギーを自分流に活用して分子運動を創り出すことができる、と言えるのではないでしょうか。――もう一つ指摘して置きたいことがあります。エネルギー保存則は、構成要素が移動可能で、なおかつそれらがすべて元の位置に戻ることが可能であるようなシステムに適用される場合にのみ妥当性を有するということです。そうした初期状態への復帰は少なくとも実現可能な筈であり、その条件が実現された場合には、そのシステムにおいてはシステム全体もその部分的要素も初期状態から少しも変化していないと判断することができます。つまり一言で言えば、そのような(エネルギー保存則が妥当性を持つ)システムとは時間が何の役割も演じていないシステムだということになります。そして物質の一定量、力の一定量が保存されるという人類の漠然とした本能的信仰は、まさに惰性的物質が持続しないように見えることに、あるいは少なくとも、それが流れた時間のいかなる痕跡もとどめていないことに起因します。しかし生命の領域においては、事情は同じではありません。そこでは確かに持続が原因のごとく作用しているように見えるとしても、一定の時間が経過した後に事物を元の状態に戻すと考えることは一種の不条理を含んでいます。何故なら生命体においては、そういう逆戻りが起きたことはかつて一度もないからです。しかし一歩譲って、この不条理はただ現実の上ではそのように見えているだけで、生命体において生起している物理・化学現象が限りなく複雑であるために、それらがすべて同時に再現される蓋然性は万に一つもないという事情がそう思い込ませているに過ぎない、と考えてみましょう。その場合でも、この初期状態への回帰という仮説が、意識的事象の領域においては道理に合わないものである点に関しては少なくとも同意が得られるでしょう。一つの感覚は、それが長く続くというただそれだけの理由によって、しばしば耐え難いものとなります。意識的事象の領域においては、同じものが同じ状態のままとどまっていることはなく、過去のすべてを孕んで強さを増し、大きさを増していきます。要するに、力学において質点と呼ばれているものが永遠の現在にとどまり続けるとすれば、生命体にとっては恐らく、そして意識的存在にとっては間違いなく、過去は一つの実在なのです。保存則の適用されるシステムにとって、過ぎていく時間は利得でも損失でもないのに対して、生命体にとっては恐らく、そして意識的存在にとっては間違いなく、それは利得なのです。もしそうであれば、時間の支配下にあって持続を蓄積し、まさにそのことによってエネルギー保存則を免れるような意識の力、あるいは自由意志の存在を肯定する仮説の方が、それを否定する仮説よりも確からしいと言えるのではないでしょうか。
実を言えば、力学のこの抽象的原理(エネルギー保存則)を普遍的法則にまで仕立て上げたのは、科学を基礎付けるための必要ではなく、むしろ心理的次元に属する一つの錯誤なのです。わたしたちは自分自身を直接観察する習慣を全く持っておらず、外界から借りて来た諸形式を通して自分自身を認知するのが常なので、現実の持続、意識によって生きられている持続を、先ほど述べた、惰性的原子の上面(うわつら)を滑っていくだけで何の変化ももたらさない持続と同一視してしまいます。その結果、一旦時間が過ぎ去った後でも、事物を元の状態に戻すことができると考えたり、同じ動機が同じ人物に同じように作用すると考えたり、同じ原因が同じ結果を生むと結論することに何の矛盾も感じなくなってしまいます。このような仮説が容認し難いものであることは、もう少し先で示すつもりです。一旦この道に入り込むと、エネルギー保存則は必然的に普遍的な法則に仕立て上げられてしまう、ということだけをさしあたり確認して置きましょう。何故そうなるのかと言えば、その理由はまさに、注意深く検討すれば気付く筈の差異、外界と内界との根本的な差異を見落としたことにあります。つまり、真の持続と見せ掛けの持続を同一視したことにあります。もしそれ(真の持続と見せ掛けの持続が同じものであるということ)が正しいなら、時間を、たとえそれがわたしたち自身の時間であれ、利得や損失の原因と考えたり、具体的実在と看做したり、それ自体一つの力であると考えることは不条理だということになるでしょう。またその一方で、自由に関するあらゆる仮説を排除した(先入観なく考えた)場合、心的事象において(保存則が適用されると)確認されない限り、エネルギー保存則はせいぜい物理的現象を支配していると言い得るに過ぎないのに、ある形而上学的先入観に影響され、エネルギー保存則は心的事象(意識)がそれを誤りと認めない限りあらゆる現象に適用できる、という今述べた命題(エネルギー保存則は物理的現象を支配している)の範囲を際限なく超えた主張がなされることになります。したがってこの主張は本来の意味での科学とは何の関係もなく、わたしたちの前には、私見によれば根本的に異なっている二つの概念、持続に関する二つの概念の恣意的な同一視があるに過ぎません。つまり物理的決定論と呼ばれているものは、本(もと)を正せば心理的決定論に帰着する、ということであり、先に述べたように、この心理的決定論こそ検討されなければならないものなのです。
心理的決定論は、理論的に最も纏まった最新の形においては、精神に関する観念連合論的な考え方を内に含んでいます。(この仮説においては)現在の意識状態はそれに先立つ意識状態の必然の帰結と考えられている一方で、その必然性は、例えばある複数の運動から一つの合力が合成される場合のような幾何学的必然性と同じものではないことも十分認識されています。何故なら、継起する意識状態相互の間には質的な差異があり、そのため、現在の意識状態をそれに先立つ意識状態からア・プリオリに導き出そうとしても、その試みは悉く失敗に終わる他はなかったからです。そこで心理的決定論者は経験に自問し、ある一つの意識状態からそれに続く意識状態への移行は常に何らかの単純な理由によって説明されること、後続する意識状態はそれに先行する意識状態の呼びかけに従っているだけだということを確かめようとします。経験は事実それを確認します。わたしとしても、現在の意識状態と、刻々と推移していくそのすべての新しい意識状態との間に何らかの相関関係があることを認めるのに吝かではありません。しかしこの相関関係、ある意識状態から別の意識状態への移行を説明すると考えられているこの相関関係は、果たしてその移行の原因と言えるのでしょうか。
ここでわたしの個人的体験について話すことを許していただきたい。しばし途絶えていた会話を再開したとき、わたしとわたしの話し相手が、二人揃って全く同じある新しい話題について考えていた、という経験をしたことがあります。――これについては次のように説明されるかも知れません。それは二人がそれぞれ、会話が中断されたとき話題になっていたことから自然に考えを展開させていった結果である。双方において、同じ連想の系列がそれぞれ別個に形成された(結果、同じ話題に行き着いた)のだ、と。――ほとんどの場合、わたしも躊躇なくこのように解釈するでしょう。しかしそのときのことをよくよく考えた結果、思いがけない結論に導かれたのです。なるほどわたしもわたしの話し相手も、その同じ新しい話題を、会話が中断したときの話題に関連付けていたのは間違いありません。それだけでなくわたしたち二人は、それら二つの話題を媒介した様々な観念を列挙することさえできたのです。しかし(決定論の立場からすれば)奇妙なことに、二人が新しい共通の話題を関連付けたのは、必ずしも中断前の会話の同じ箇所ではありません。また新旧二つの話題を媒介したわたしたち二人の連想の系列にしても、(形成されたのは同じ連想の系列ではなく)全く異なるものだったと考えることを妨げるものは何もありません。このこと(異なる出発点から異なる道を通って同じ話題に行き着いたらしいこと)から結論できるのは、新しい共通の観念(話題)はある未知の原因――恐らくは何らかの外的影響――から派生したものであり、それに先行する一連の観念(連想の系列)は、新しい観念が自らの出現を正当化するために、自分自身を説明する観念として(事後的に)喚起したものであって、新しい観念の原因のように見えるそれらの観念は実はその結果である、ということでなくて何でしょうか。
(最後の文章で「外的影響」としたところは、全集と文庫では「物理的影響」、竹内訳では「身体的影響」と訳されています。どちらにしてもこれが具体的に何を意味しているのかはっきりとはわかりません。何か些細で偶発的な出来事が暗示として働くようなケースが想定されているのかも知れません)
催眠状態にある被験者が、催眠中に受けた暗示を指定された時刻に実行するとき、その被験者は、自分の行動は実行に至るまでの一連の意識状態に導かれたものだと証言します。しかしその一連の意識状態は実際には結果であって、原因ではありません。被験者は暗示されたことを行動に移さなければならない一方で、(実際に行動し終えたあとは)自らにその行動の説明をしなければなりませんでした。そこで被験者は、ある種の(未来の)牽引力によって一連の心的状態を決定したのは(暗示された)未来の行動であるにもかかわらず、それら一連の心的状態から未来の行動が自然と出てきたのだという風に事後的に解釈したのです。決定論者達は、この実験を自説の根拠の一つにしようとするに違いありません。実際それは、わたしたちが自分以外の意志に抗い難く影響を受けることがある、ということを証明しているからです。しかしこの実験はそれに負けず劣らず、わたしたち自身の意志はただ意志するために意志することができることを、そして為された行為が、その行為が原因で惹き起こされたものでありながら、それに先立つ行為によって説明できるように見えるのは何故かということをわたしたちに理解させてくれるのではないでしょうか。
(この段落中「実験」とした箇所はどの訳本でも「議論」と訳されています。しかし「議論」では意味が通らないので、暫定的に「実験」として置きます)
注意深く自分自身を観察すると、決心はすでについているのに、動機についてあれこれ思いを巡らしたり、考えあぐねたりしていることがあることに気付くでしょう。聞き取れるか聞き取れないくらいの内なる声がこう囁きます。「何をそんなに思い悩んでいるのか。結論はとっくに出ているし、何をすべきかお前はよくわかっている筈ではないか」と。しかし馬耳東風とばかりに、わたしたちはその声を聞き流してしまいます。わたしたちはあたかも、自ら進んで機械論の原理を守り、観念連合の法則に従いたがっているように見えます。(わたしたちの生活における)意志の突然の介入(これは「躍動(エラン)」と言い換えることもできるでしょう)はクーデタのごときものですが、ただしこの(エランという)クーデタはわたしたちの知性によって予感されていたかのように、正規の話し合い(これはクーデタという比喩に呼応した比喩で、強いて言えば知性による後付けの説明というほどの意味でしょうか)を経てあらかじめ合法化されてしまうのです。確かに、わたしたちの意志は意志するために意志するときでさえ、ある決定的な理由に従っているだけではないのか、意志するために意志することは果たして本当に自由に意志することなのか、と問うこともできるでしょう。しかし今は、この点を深く掘り下げることは差し控えます。仮に観念連合説の見地に立ったとしても、行動はその動機によって絶対的に決定されるとか、意識状態は相互に、絶対的に導出し合うと主張するのは困難である、ということを示しただけで十分です。こうした人目を欺く見せかけの下に、より注意深い心理学は、原因に先立つ結果を、観念連合説の既知の法則には当て嵌まらない心的牽引力が惹き起こす現象を時としてわたしたちに見せてくれるに違いありません。――しかし今や次のように問いを立てるべき時が来たのです。観念連合説の立脚する観点そのものの中に、自我や意識状態の多様性についての誤った考え方が含まれているのではないか、と。
観念連合説という名の決定論は、自我を心的状態の集合体として表象し、そのうち最も強い状態が支配的な影響力を発揮して、それ以外の状態を統率しているのだと考えます。したがってこの学説は、共存している心的諸状態を相互に明確に区別します。(例えば)スチュアート・ミルの著作の中に、「もし犯罪に対する嫌悪やその結果に対する恐れが、わたしを犯罪に駆り立てる誘惑より弱かったとしても、わたしは殺人を思いとどまることができただろうか」(原注:「ハミルトンの哲学」)という記述があります。また(同書の)もう少し先には、「彼の善を為そうとする願望と悪に対する嫌悪は……それに反する他のすべての願望や他のすべての嫌悪を沈黙させるほど強い」という記述があります。このように、願望とか、嫌悪とか、恐れとか、誘惑とかが、ここでは個々別々の事柄として提示され、引用した例を見れば明らかなように、それらに別々の名前を付与することへの抵抗は微塵も窺えません。これらの状態が自我と分かち難く結び付き、自我がその影響をまともに受ける場合にも、このイギリスの哲学者はそれらを截然と区別することに依然として固執し続けます。曰く、「快楽を欲する自我と後悔を恐れる自我との間に……葛藤が生じる」と。アレクサンダー・ベイン氏もその著作において、「諸々の動機の葛藤」に一章を割いています。氏はそこで、(様々な)快楽や苦痛を秤の上に載せ、少なくとも抽象化すれば独自の存在と看做すことのできる項としてそれぞれを比較対照(計量)しています。注目すべきは、決定論に反対する人達ですらこの点については氏の説に進んで追従し、観念の連合や動機の葛藤について語っていることです。その(決定論に反対する人達の)中で最も深い思想の持ち主の一人であるフイエ氏でさえ、自由の観念そのものを、他の諸々の動機と一緒に秤にかける(計量する)ことのできる動機の一つとして扱うことに一片の疑問も抱いていません。――しかしここにおいてわたしたちは、一つの重大な混乱に直面しています。その混乱は、言語というものが内的状態のニュアンスを余すところなく表現するようにはできていない、ということに起因しています。
例えば、窓を開けようと立ち上がったものの、その瞬間自分が何をするつもりだったか忘れてしまい、その場に立ち尽くしたとします。――次のように言う人もいるかも知れません。(観念連合説に立てば)その状況を説明するのはいとも簡単なことだ。あなたは達成すべき目的の観念と、為すべき行動の観念とを結び付けて(連合させて)いた。そのうち一方の(目的の)観念が消えて、運動の表象だけが残ったのだ、と。――しかし(何をすべきか忘れたからと言って)、わたしはすぐに座り直したりはしません。漠然とではあるにせよ、何かしなければならないことが残っている、と感じています。つまりわたしが動かないでいるのは、ただ理由もなく動かないでいるわけではないのです。立ったままのその姿勢には、為すべき行為が言わば前駆的に形象化されています。そのためわたしは同じ姿勢のままその前駆的な形象を把握しようと努め、あるいはむしろ内側からその姿勢を感じ取ることによって、一瞬見失われた(目的の)観念をその中に再発見しようとしているのです。したがって素描された運動(立ち上がった運動)と私の取っている(不動の)姿勢との内的なイメージは、その(目的の)観念によってある独自の色に染められている筈であり、達成すべき目的が異なれば、その色合いも恐らく異なったものになるに違いありません。しかし言語はその場合にも、相変わらずその運動とその姿勢を同じ言葉で表現するでしょう。そして観念連合論者は、運動の観念はどちらの場合も同じだが、今度はそれに新しい目的の観念が連合したのだ、と述べて二つの場合を区別しようとするでしょう。まるで、達成すべき目的が別の新しい目的に変わっても、空間において為される運動が同じであれば、為すべき運動の表象のニュアンスに全く何の変化も生じないとでも言うかのように。それゆえある一つの姿勢の表象が、意識の中で、達成すべき別の目的のイメージに結び付く、という風に考えるべきではなく、寧ろ、空間においては寸分違わぬ姿勢であったとしても、その姿勢は当人の意識においては目的の観念に応じて様々な形となって現れる、と考えるべきなのです。観念連合説の誤りは、為すべき行為の質的要素をまず排除した上で、幾何学的で没個性的な要素のみを保持しようとする点にあります。そうして独自の色合いを奪われ、色褪せた行動の観念を他の多くの観念から区別するために、何らかの特徴的な差異をその観念に連合させざるを得なくなったというわけです。しかしこの連合はわたしの精神が自ら生み出したものではなく、精神を考察している観念連合論者達が(机上で)作り出したものなのです。
薔薇の香りを嗅ぐと、たちどころに幼い頃の茫漠とした思い出がわたしの記憶に蘇ってきます。しかし実を言えば、薔薇の香りによってこれらの思い出が呼び覚まされたわけではありません。わたしはその香りそのものの中に、それらの思い出を嗅ぎ取ったのです。わたしにとっては、それらの思い出すべてが薔薇の香りなのです。他の人はわたしとはまた違った風にその香りを感じることでしょう。――香りそのものは常に同じであって、それに様々な異なる観念が連合されるのだ、と読者は言われるかも知れません。――そう判断されるのは読者の自由です。ただ(そのように表現することによって)、薔薇の香りがわたしたち一人ひとりに与える様々な印象から、その個人的な要素をあらかじめ取り除いてしまったのだということを忘れないでいただきたい。あなたは薔薇の香りから、その客観的側面だけを、すなわち、共通の領域に属する側面を、要するに空間に属する側面だけを保持したのです。もっともこういう条件においてのみ、薔薇とその香りに名前を与えることができるのも事実です。そうなると、わたしたちの個人的印象を相互に区別するためには、薔薇の香りという一般観念に、固有の性格を付け加える必要が出てきます。そこでやむなく、次のように結論するに至ります。すなわち、わたしたちの様々な印象、わたしたちの個人的な印象は、わたしたちが薔薇の香りに個々人の思い出を連合させた結果生まれたものだ、と。しかしあなたの語る連合は、あなたにとってしか存在しないものであり、単なる説明のための手段でしかありません。複数の言語で共通に用いられているアルファベットの文字をいくつか並べることで、ある言語に固有の特徴的な音声を曲がりなりにも表現することはできるでしょう。しかしそれらの文字のどれ一つとして、その音声そのものの構成要素ではないのとそれは同じことです。
(つづく)