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「ジェノサイド」(81)

2017-09-07 | 雑談
先に述べたことをもう一度繰り返すと、運動のうちには動体に次々に割り当てられる位置以上のものがあり、生成のうちには次々に変遷していく形態以上のものがあり、また形態の進化のうちには次々に実現される形態以上のものがあります。したがって哲学は前者に属する項から後者に属する項を引き出すことはできても、後者に属する項から前者に属する項を引き出すことはできません。思弁が出発しなければならないのは前者の方からです。ところが知性は、これら二つの項の順序を逆にします。この点で、古代哲学が事を運ぶ手順は知性が事を運ぶ手順と同じであると言えます。つまり古代哲学は、不動のうちに腰を落ち着け、諸々のイデアだけを措定するのです。しかし古代哲学がいくら目を逸らそうと、生成は存在します。これは動かせない事実です。古代哲学は、そうして不動性だけを措定した後、そこからどうやって変化を生じさせると言うのでしょうか。不動性に何かを足すことによって変化を生じさせるのは不可能です。というのも、古代哲学の仮説に従えば、諸々のイデア以外に積極的なものは何も存在しないからです。すると、変化を生じさせるためには不動性から何かを減じる他はありません。そういうわけで、古代哲学の根底には、必然的に次のような要請――不動のうちには運動以上のものが存在し、わたしたちは減少もしくは低減によって不動性から生成へと移行する、という要請が横たわっています。

それゆえ変化を手に入れるためには、イデアにマイナスを、さもなければせめてゼロを付け加えなければなりません。プラトンの「非存在」、或いはアリストテレスの「質料(素材)」はまさにそういった要請の上に立つものです。――それらは形而上学的なゼロであり、数字の1に添えられる0のようにイデアに付加され、空間と時間においてイデアを多数化します。不動で単一のイデアはこの0によって屈折し、無際限に伝播する運動となります。権利上は、相互に噛み合ってびくとも動かない不動のイデア以外のものは偶然にしか存在し得ません。しかし事実上は、質料がそこに自らの空虚を押し当て、それと同時に普遍的な変化を生じさせます。質料とは捉えどころのない無であり、それは愛し合う一組の男女の心に忍び込んで二人の仲を引き裂く疑念のようにイデアの隙間に忍び込んで、終わりのない動揺と永遠の不安定性を生み出します。要するに天上界のイデアが堕落したもの、それが無限に続く事物の流れです。古代哲学の観点に立って言えば、諸々のイデア或いは形相は相互に結合して力学系の平衡点のごとき「存在」の平衡点をなしている、という意味で、叡智によってのみ捉えられるあるべき実在の全体、すなわち真理の全体と言えます。感覚的実在はと言えば、それはこのイデアという平衡点の両端を果てしなく揺れ動くだけの存在に過ぎません。

このような見方から、イデアの哲学全体を支配している持続についての或る考え方、また時間と永遠の関係についての或る考え方が生まれてきます。生成のうちに身を置こうとするわたしたちの立場からすると、持続は事物の生命そのものとして、言い換えると根本的な実在として現れます。それに対して、精神によって変化する実在から分離された概念として蓄積される形相は、わたしたちにとってそこから取り出されたイメージ以外のものではありません。形相とは、持続の流れから個別に摘み取られた瞬間です。そして形相は、まさにそれを時間に繋いでいた糸を断ち切って得られたものであるがゆえに持続しません。形相はそれ自身の定義、すなわち人為的な再構成物、形相の知的等価物である象徴的表現に限りなく近付いていきます。何ならそれは限りなく永遠に近付いていく、と言っても差し支えありませんが、ただし永遠に近付くとは、取りも直さずそれだけ非実在的なものになるということに他なりません。――一方、古代哲学のように生成を映画的方法によって扱おうとすると、形相は最早変化を外から捉えた単なるイメージではなく変化の構成要素となり、生成における積極的な部分のすべてを表すものとなります。そして永遠は抽象物として時間の圏外を漂っているのではなく、実在として時間の基盤を支えています。形相の哲学、もしくはイデアの哲学の時間と永遠に関する考え方とはまさにこのようなものです。この哲学は永遠と時間との間に、金貨と小銭との間にある関係と同じ関係を打ち立てます。小銭で少額ずつ借金を返済した場合、完済まで気の遠くなるような時間がかかるのに対して、金貨で返済すれば一回で完済することができます。古代哲学における永遠と時間とのこのような関係を、プラトンは見事な表現で言い表しています。神は世界を永遠なものたらしめることができなかったので、その代わり世界に「永遠に動くイメージ」としての時間を与えたのだ、と。

同様に古代哲学における先のような見方から、ひろがりについての或る考え方が生まれてきます。ひろがりについてのこの考え方は持続についての考え方ほど明確な形で取り出されるわけではないにせよ、イデアの哲学の根底にあることには変わりがありません。生成のうちに身を置き、その運動を身をもって体験しているような精神をもう一度想像してみましょう。そのような精神にとって、継起する状態の一つ一つ、性質の一つ一つ、要するに形相の一つ一つは、思考によって裁断された普遍的な生成の単なる切断面としての意味しか持ちません。この精神は、形相が本質的にひろがりであることに気付きますが、それは、形相が生成の空間へのひろがりとともに物質化したものであり、生成と不可分のものだからです。こうしてあらゆる形相は時間を占めると同時に、空間をも占めることになります。ところがイデアの哲学は、今述べた過程を逆向きに辿ります。イデアの哲学は形相を実在の本質そのものと看做し、形相から出発します。生成から取り出されたイメージによって形相を獲得するのではなく、最初から形相を永遠のうちに据えるのです。そうなると持続や生成は、この不動の永遠が堕落したものでしかなくなります。このように措定された形相、時間の法則を免れている形相は、最早知覚され得るものではありません。それは一つの概念です。概念的な実在は持続を占めることもひろがりを占めることもないので、概念的な実在たる形相は必然的に時間の埒外にあることになり、空間の外に位置することになります。したがって古代哲学においては、空間と時間は必然的に同じ起源を持ち、同じ価値を有します。空間と時間はどちらも存在が堕落したものであり、この堕落が時間においては弛緩という形を取って現れ、空間においてはひろがりという形を取って現れるわけです。

この弛緩やひろがりが表しているのは、存在するものと存在すべきものとの隔たりです。古代哲学の観点からすると、空間と時間は、不完全な実在、と言うより寧ろ自己のうちからさまよい出た実在が自己に与える場、自己を求めて動き回る場に過ぎません。ここで注目すべきは、この実在が動き回るに従って場が生み出されるという点、その運動が言わば自分の足下にこの場を残していくという点です。理想的な環境に置かれた振り子、空気抵抗や摩擦がなく、錘が数学的点であるような振り子の錘をその平衡点からずらしてみましょう。すると終わりのない揺れが生み出され、振り子の軌道に沿って相次いで点が並び、瞬間が継起します。こうして空間と時間が生まれますが、それらは振り子の運動と同じく「積極的」な実在性を持っていません。空間と時間が表しているのは、振り子の錘に人為的に与えられた位置とその正常な位置との隔たり、正常な位置から外れた錘が元の安定した状態に戻るために埋めなければならない隔たりです。錘を正常な位置に戻すと、空間、時間、運動は一つの数学的点に収縮します。同様に、連鎖のように果てしなく続いていく人間の推論は直観によって真理が捉えられるや否やその中に消え失せます。何故なら直観がひろがり弛緩したものに他ならない推論は、言ってみればわたしたちの思考と真理との隔たり以外のものを表していないからです。純粋な形相、すなわちイデアと、ひろがりや持続との関係についても同様のことが言えます。感覚的形相は常にわたしたちの前にあり、いつでも自己の観念性を取り戻す用意は出来ているにもかかわらず、それらが内包する質料によって、言わばそれらの内的空虚によって、それらが今ある姿とそれらのあるべき姿との隔たりによって、常にその実現を妨げられます。それらは絶えず自己を取り戻そうとしては、苦労して取り戻しかけたものをその都度すべて失ってしまうのです。あたかもシーシュポスの岩のように、山の上まで運び上げられた感覚的形相は抗い難い摂理によって、常に山頂の一歩手前で転がり落ちていきます。感覚的形相を繰り返し空間と時間に突き落とすこの摂理が象徴しているのは、感覚的形相に備わる根源的な欠如の恒久性に他なりません。つまり生成と消滅の繰り返し、進化における絶えざる再生、無限に繰り返される天体の円運動、こういった物理現象が表しているのは、物質性そのものを構成している根源的な欠如です。この欠如を埋めてみましょう。すると忽ち、それまで安定した均衡を求めながら決してそこに至ることなく、無限にその均衡点の両端を揺れ動いていた振り子の錘はぴたりと静止し、時間と空間は消え失せます。諸事物は再び噛み合い、その結果空間にひろがっていたものは再び自らを緊張させて純粋な形相となり、それと同時に過去、現在、未来は永遠という唯一つの瞬間に収縮します。

こうした考え方から推察されるように、古代哲学にとって物理的なものとは、論理的なものが劣化したものに他なりません。物理的なものとは論理的なものが劣化したものである、というこの命題に、イデアの哲学のすべてが集約されています。そこにまた、わたしたちの悟性に内在する哲学の隠れた原理があります。もし不動性が生成以上のものであるならば、形相は変化以上のものであることになり、不動のものが堕落して生成や持続となるように、合理的に秩序立てられ、協調し合っているイデアの論理的体系は堕落して、対象や出来事が脈絡なく連なった一連の偶発的な物理現象となって分散します。詩作になぞらえて言えば、詩を生み出す観念は展開して幾千もの想像力となり、想像力は物質化して詩句となり、それらの詩句が分散して語となります。一つに纏まっている不動の観念から糸玉が解けるように語が繰り出されるに従い、偶然の入り込む隙間や選択の幅が広がっていきます。例えば隠喩によって何かを表現しようとする際、或る語によって表された或る隠喩の代わりに、別の語によって表された別の隠喩を用いることもできなくはない筈です。イメージはイメージによって、語は語によって呼び出され、次々に現れるそれらの語のすべてが一致協力して、無謀にも詩を生み出す詩想そのものを再現しようと努めます。しかしわたしたちの耳には語しか聞こえず、したがってわたしたちの耳は偶然的なものしか知覚しません。それでもわたしたちの精神は跳躍を重ねることによって、語からイメージへ、イメージから起源にある観念へと次々に飛び移り、偶然喚起された偶発的な語の知覚から、自己を措定するイデアの概念形成へと遡ることができます。宇宙を前にした古代の哲学者がやることもこれと同じです。つまりまず経験が古代の哲学者に、諸々の現象が彼の目の前を通り過ぎていく様を示します。それらの現象もまた語と同様、時と場所に応じて変わる偶然的な秩序に従って次々に生じます。論理的秩序の文字通りの堕落であるこの物理的秩序は、論理的なものが空間と時間の中に転がり落ちたものに他なりません。しかし次に、古代の哲学者がそうして知覚したものから概念へと遡るとき、彼の目は物理的なもののうちにある積極的な実在性がすべて論理的なものへと凝縮するのを目撃します。彼の知性は存在を弛緩させている物質性を捨象し、イデアの不動の体系の中で、存在をそれ自体として捉え直します。こうして、叡智(エピステーメー、下記参照)と呼ばれる理性的認識が獲得されます。知性を真理から遠ざけている両者のずれを直し、知性をその本来の場所に戻すならば、その瞬間、叡智がすっかり出来上がった完全な形でわたしたちの前に現れます。したがって古代哲学の観点からすれば、叡智は人間の構成物ではありません。それは人間の知性に先立つもの、人間の知性から独立したものであり、真に事物を生み出すものと言えます。
(これは訳本では「知」、「叡智」、「科学」などと訳されていますが、恐らくギリシア語の「エピステーメー」のことだと思われます)

仮に「形相」を精神が生成の連続性から取り出した単なるイメージと看做すならば、形相はそれを表象する精神に相対的なものであることになり、自立した存在ではない、ということになるでしょう。わたしたちに言えるのは、せいぜい、それらのイデア(形相)の各々は一つの理念である(下記参照1)、ということだけです。ところで、古代哲学はこれと逆の立場に立っています。それゆえイデアは、あらゆるものから独立して存在するのでなければなりません。プラトンはそう明言し、それを否認したアリストテレスも、結局この結論から逃れることはできませんでした。運動が不動なものの堕落から生まれるとすれば、どこかに実在的な不動性が存在しなければ運動も存在しないでしょうし、感覚的な世界も存在しないでしょう(下記参照2)。アリストテレスは当初イデアに独立した実在性を与えることを拒否していたものの、そういうわけでイデアから独立した実在性を剥奪するわけにはいかなくなり、諸々のイデアを圧縮して球状の純粋な「形相」にし、それを物理的世界の上位に据えざるを得なくなったのです。それが「形相の形相」、もしくは「イデアのイデア」であり、アリストテレス自身の言葉を用いて言えば「思惟の思惟」です。この「思惟の思惟」こそアリストテレスの神に他なりません。――この神は必然的に不動で、また世の中の出来事に介入することもありません。というのも、それはすべての概念を総合した一つの概念に過ぎないからです。なるほど多なるもの、すなわち概念(イデア)の一つ一つは、そのままの形では一なるもの、すなわち神の内部で独立して存在することはできません。したがってアリストテレスの神の内部を探しても、プラトンのイデアは見つからないでしょう。しかしアリストテレスの神が自らを屈折させる様を想像すれば、或いはこの神が単に世界に身を乗り出す様を想像するだけでも、神の本質をなす単一性に含まれるプラトン的なイデアが、ちょうど太陽そのものは光を内に含んでいないにもかかわらずその表面から光を発するように、神の外に流出(下記参照3)する可能性が現実的なものとして見えてくるのではないでしょうか。このようにプラトン的なイデアがアリストテレスの神の外に流出する可能性は、アリストテレス自身の哲学では、ヌース・ポイエーティコスという言葉、すなわち能動的な理性(叡智)――人間的知性の中にある本質的でありながら、しかし意識されていない部分――という言葉で表現されています。このヌース・ポイエーティコスは一度に丸ごと与えられる完全無欠の「叡智」(エピステーメー)であって、人間の意識的な知性は、その論証的な性格のゆえに、骨を折りながら少しずつその完全な叡智を再構成する他はありません。したがってわたしたちのうちには、と言うより寧ろわたしたちの背後には、アレクサンドリアの哲学者達(下記参照4)の言うように、神の可能的なヴィジョンがヌース・ポイエーティコスという形で潜在しています。現実には意識的な知性によって実在化されることのない常に潜在的なこの直観、「すべてを作り成す」(下記参照5)この直観は、神がイデアへと開花する様をわたしたちに暗示し、時間の中で刻々と変化する論証的な知性に対して、それ自体は不動の「動者」(下記参照6)が天体の運行や事物の流れに対して果たしている役割と同じ役割を果たしています。
(1 この理念という言葉はイデアの訳語の一つです。したがってこの文章は、或る意味では、イデアはイデアである、と言っているのと変わりません。2 実はこれこそギリシア哲学の最終的な結論である、とベルグソンが考えていることはこの後の文章を読むとわかります。3 一なるもの、つまり一者から万物が出てくること。そのようして世界が出来たと考えるのが「流出説」。4 これは具体的には新プラトン主義者のことを、或いは新プラトン主義を代表する哲学者プロティノスのことを指しているのではないかと思われます。5 アリストテレス「霊魂論」。6 「不動の動者」も同じくアリストテレスの言葉。この後出てくる第一の不動の動者、第一の動者なども同じ意味。根本原因、第一原因。次の段落で古代哲学における因果観念が論じられるのはこの「不動の動者」からの流れ)

ここから、イデアの哲学に内在する因果性についての独特の考え方が見えてきます。事物の根源まで遡るべく知性の自然的な運動を最後まで推し進めていくとき、わたしたちは例外なくこの考え方に辿り着きます。それだけに、この考え方を是非とも明らかにしなければなりません。実を言うと、古代の哲学者達は決してこの考え方を表立って定式化したわけではなく、そこから諸々の帰結を引き出したに過ぎませんでした。換言すると、彼らはこの考え方そのものを提示したのではなく、それに対する視点を示したのだ、という風に言えるでしょう。事実古代哲学では、第一の動者が世界全体に及ぼす力が或るときは引力として、また或るときは推力として語られます。この二つの見方の混在は、アリストテレスにも認められます。彼は宇宙の運動を、神的な完全性を目指す事物の(神への)憧憬として、つまり事物の神への上昇として示したかと思えば、別のところでは、それを神が第一天球(下記参照1)と接触した結果として、つまり神の事物への下降として記述しています。アレクサンドリアの哲学者達が発出と帰還について語ったとき、思うに、彼らはこの二重の示唆に従ったに過ぎません。あらゆるものは第一の原理(一者)から発し、第一の原理へ回帰することを希求する、というのが彼らの思想です。ところで神的な因果性についての上記した二つの見方は、両者を第三の考え方(下記参照2)に帰着させたときにはじめて十全なものになります。わたしたちは、この第三の考え方が根本的なものであると考えます。事物は時間と空間の中で、何故、どういう意味で運動するのか、ということだけでなく、空間と時間が存在し、運動や事物が存在するのは何故か、という点に関するギリシアの哲学者達の考え方を理解させてくれるのはこの第三の考え方だけです。
(1 ここで言う「天球」とは、古代や近代の宇宙論において地球を幾重にも取り巻いているとされる球体のこと。アリストテレスの宇宙論では、それぞれの天球を動かしているのが不動の動者。2 「第三の考え方」とは、プロティノスの「流出説」のことだと思われます)

プラトンからプロティノスへと至るにつれて、ギリシアの哲学者達の推論の底にこの第三の考え方が次第に明瞭に透けて見えてくるようになります。この考え方は、次のように定式化することができるでしょう。或る実在を措定することは、その実在と純粋な無との間にある中間的な実在性をすべて措定することである。例えば10という数を措定すると、まさにそのことによって、9, 8, 7……等々、10と0の間にあるすべての数を必然的に措定することになります。したがって数に関してはこの原理は明白です。ところがわたしたちの精神は、この原理を量の領域だけでなく質の領域にも適用せずにはいられません。一つの完全性が与えられると、一方の極にあるその完全性と他方の極にある筈の無の間に、下位の階層に段階的に下落(流出)していく完全性のすべての序列が同時に与えられるようにわたしたちには思えるのです。そこで実際に、思惟の思惟というアリストテレスの神、すなわち瞬間的な循環過程によって、ギリシア哲学の考え方に即して言えば永遠の循環過程によって主体から客体へ、また客体から主体へと円環をなして転化する思惟を措定してみましょう。それと同時に、わたしたちには無も自らを措定するように思えます。こうして二つの極が与えられるならば、同様に両者の中間の階層も与えられる筈であり、したがって神が措定されるや否や、最上位に位置する神の完全性から最下位に位置する「絶対的な無」に至るまでの存在のすべての序列が言わば自動的に実在化される筈である、というのが第三の考え方です。

この序列の中間を上から下まで辿ってみましょう。第一の原理(一者)が下落の最初の一歩を踏み出すと、存在はまず時間と空間の中に落下します。とは言えこの最初の下落を表す持続とひろがりは、神の非延長と永遠に限りなく近いものと言えるでしょう。したがってわたしたちはこの神的原理の最初の下落を、その場で回転する球体として、円運動の永続性によって神の思惟の円環の永遠を模倣する球体として思い描くことができます。何物にも包まれておらず、場所を変えることもないこの球体は自分自身の場所を創造し、それによって場所一般を創造します。またすべての運動の尺度となるこの球体の運動は自分自身の持続を創造し、それによって持続一般を創造します。さて次に、完全性の下落が一層進むと、徐々にわたしたちの住む月下界(地球)が近付いてきます。天上界から遠く離れたこの月下界では、発生、成長、死という循環が、根源の円環を辛うじて模倣しています。神と世界との因果関係を以上のように解するとき、それは下から見ると一つの引力として現れ、上から見ると一つの推力、或いは接触作用として現れます。それが接触作用であるというのは、円運動を行っている第一天球は神の模倣であり、模倣とは形相を受け入れることだからです。それゆえいずれの視点から見るかにしたがって、一方では神は作用因と看做され、他方では目的因と看做されます。しかし神と世界とのこの二つの関係は、どちらも決定的な因果関係とは言えません。真の因果関係とは、一方には一つの項(一者)しかなく、他方は無限に多くの項(多者)の和からなる等式の両辺の間にあるような関係です。或いは金貨を示すと、それと同額の小銭も同時に与えられるという条件付きで、金貨と小銭との間にあるような関係と言っても差し支えありません。アリストテレスは第一の不動の動者の必然性を証明する際、事物の運動には始まりがなければならない、ということを根拠にするのではなく、逆に運動には始まりも終わりもない、という仮定から出発しました。アリストテレスのこうした態度は、因果関係を上記のように捉えることによってのみ理解されます。因果関係に関するこの第三の考え方に従えば、運動が存在するのは、言い換えると小銭が合計されるのは、どこかに金貨が存在するからです。そして小銭のこの始まりのない合計が際限なく続けられるのは、その合計額に実質的に相当する唯一の項(金貨)が永遠であるからです。また運動が永続し得るのは、それが永遠の不動性に支えられ、始まりも終わりもない連鎖として展開されるからです。

これがギリシア哲学の最終的な結論です。わたしたちは、ギリシア哲学をア・プリオリに再構成しようとしたわけではありません。ギリシア哲学には様々な起源があります。それは目に見えない糸で、古代人の魂のあらゆる気質と繋がっています。ギリシア哲学を単純な原理から演繹しようというのは、土台無理な話だと言わなければなりません。しかしこの哲学から、詩や宗教や社会生活に由来するもの、そしてまだ生まれたばかりの物理学や生物学に由来するものをすべて取り除いてみましょう。言い換えると、この巨大な建造物を構成している素材のうち、脆弱な素材をすべて取り除いてみましょう。すると、あとには強固な骨組みが残ります。この骨組みが描いているのは、或る一つの形而上学の概略です。思うにそれは、人間知性に備わる自然的な形而上学です。事実、知覚と思考の映画的傾向を最後まで辿るとき、わたしたちは例外なくこの種の哲学に導かれます。わたしたちの知覚と思考は、まず、進化における連続的な変化を一連の安定した形態に置き換えます。それら一連の形態は、喩えて言えば、メリーゴーラウンドの周囲にずらりと吊るしてある輪を、木馬に乗った子供がその輪の前を通り過ぎざま手にした棒を差し込んで一つ残らず取り外していくように、一本の糸に数珠の珠のように次々と通されていきます。では、形態の前を通り過ぎるとはどういうことでしょうか。形態を貫いてそれらを相互に繋ぎ合わせる一本の糸とはどのようなものでしょうか。それらの形態は、変化のうちに認められる明瞭なものを変化そのものからすべて抽出することによって得られたものなので、それらが置かれている不安定性を特徴付けるものとしては、最早否定的な属性しか残っていません。その属性とは、端的に言えば不確定性でしょう。これが、わたしたちの思考の第一歩です。わたしたちの思考はこの最初の一歩によって、個々の変化を二つの要素、一つはそれぞれの場合において定義可能な安定した要素、すなわち形相に、もう一つは定義不可能で常に同一の要素、すなわち変化一般に分解します。この分解という働きは、言語の本質的な機能でもあります。言語が表現できるのは形態だけであり、したがって言語は動性を間接的にしか示し得ません。つまり言語は、動性を単に示唆するにとどまります。言語によって表現し得ない動性は表現されないままでいるという理由によって、常に同一であると看做されます。こうして、思考と言語によって行われる分解を正当なものと看做す哲学が現れます。このような哲学は、形相と変化一般との区別をより強調して客体化し、極端な帰結にまで推し進めて体系に帰着させる以外、他に何かできることがあるでしょうか。したがってこの哲学は、片や定義可能な「形相」、すなわち不動の要素と、片や或る動性の原理を組み合わせることによって実在を構成します。この動性の原理とは形態の否定以外の何物でもないので、どんな定義にも当て嵌まらないもの、純粋な不確定性以外のものではあり得ません。思考によって限定され、言語によって表現されるそれらの形相に哲学者が注意を向ければ向けるほど、形相は感覚的なものを超越した実在に高められ、洗練されて純粋な概念となります。さらにそれらの概念は相互に浸透して、遂にはあらゆる実在の総合である一つの概念、あらゆる完全性の到達点である一つの概念に凝縮されます。他方、この哲学は逆に(表現され得ないがゆえに)決して目にすることのできない普遍的動性の源泉に下降すればするほどその動性が自分の足元から遠ざかっていき、それと同時にますます内容を失って「純粋な無」の中に沈んでいくのを感じます。こうして、この哲学は一方では論理的に整合したイデアの体系、唯一つのイデアに凝縮されている体系を獲得し、他方ではプラトンの「非存在」やアリストテレスの「質料」のような無と同列に扱われるものを獲得します。しかしそうやって実在を二つに裁断したからには、それらを互いに縫い合わせなければなりません。そこで次にわたしたちの思考の課題となるのが、感覚的なものの上位に位置付けられるイデアと、感覚的なものの下位に位置付けられる非存在を用いて両者の中間に位置する感覚的な世界を再構成することです。それが可能になるのは、ちょうど或る不可分な数が、その数とゼロの差として考えられるや否やそれだけの数の単位量の和として現れ、それと同時にそれより小さいすべての数を出現させるように、「全体」(イデア)と「ゼロ」(非存在)を措定することは、それら二つの隔たりを測る尺度となるすべての中間的な実在性を措定することに等しい、という或る種の形而上学的必然性が要請(前提)される場合だけでしょう。これは自然な要請であり、ギリシア哲学の根底にある要請です。そうなると、中間的な実在と完全な実在とを隔てている距離を測ること以外、それら中間的な実在性の個々の特徴を説明する手立ては残されていません。下位の実在性の各々は上位の実在性が減少したものとされ、わたしたちが下位の実在性に知覚する感覚的な新しさは、上位の実在から見れば、上位の実在性に付け加えられる新たな量の否定に過ぎない、ということになります。限りなく少ない量の否定、感覚的実在の最高の形相において既に見て取れ、したがって当然下位の形相においても見て取れる量の否定を表現しているのは、感覚的な実在の最も一般的な属性、すなわちひろがりと持続ですが、下落が進行するにしたがって、徐々にひろがりと持続以外の特殊な属性も与えられるようになります。そしてそうした場面になればなるほど、哲学者の空想の入り込む余地も大きくなります。何故なら感覚的な世界の或る局面がどの程度の存在の下落に相当しているか、というような判断は、恣意的なもの、少なくとも異論を挟む余地のあるものである他はないからです。アリストテレスは、同一の中心を持ち自転する複数の天球で構成される世界を想定しましたが、そういうわけでわたしたちは、必ずしもアリストテレスと同じ宇宙論に到達するわけではないかも知れません。しかし少なくとも、それと似たような宇宙論、部品は全く異なるものの、部品相互の関係は大差のない宇宙論に達するでしょう。常に同じ原理に支配されているこの宇宙論では、物理的なものは論理的なものによって定義され、変化する現象の下に透けて見える概念の閉じた体系が示されます。上下の序列が与えられ、論理的に秩序付けられているこれらの概念を体系化した叡智(エピステーメー)は感覚的実在より実在的なものとされ、人間の知に先立つものとされます。わたしたち人間の知は、この叡智(科学)を一文字ずつたどたどしく読み取っているに過ぎません。また叡智は、諸事物にも先立つものとされます。諸事物は叡智を不器用に模倣しようとしているに過ぎない、と看做されるのです。叡智はほんの少し自分自身から気を逸しさえすれば、自己の永遠性から抜け出し、それによって人間の知や事物すべてと合致することができます。したがって古代哲学においては、叡智の不変性こそ普遍的生成の原因と看做されます。

変化と持続に関する古代哲学の観点とは、以上のようなものです。近代哲学は幾度となくこの観点を脱却しようとしたこと、特にその初期においてそうした傾向が強かったことは疑えないように思えます。しかし抗い難い魅惑(知性の持つ自然的な傾向)が否応なく知性をその自然な運動へと連れ戻し、近代人の形而上学を古代人の形而上学の一般的な諸帰結へと連れ戻しました。わたしたちが次に示したいのは、この最後の点です。それによって、近代の機械論的哲学(例えばライプニッツやスピノザの哲学)がどのような見えない糸によって再び古代のイデアの哲学と結び付くのか、また機械論的哲学がわたしたちの知性の要求に、とりわけ知性の実践的な要求にどのように応えるのか、という点を明らかにすることができるでしょう。

●近代科学

古代の科学(叡智)が映画的方法に従っていることは今示した通りですが、古代の科学と同様、近代科学も映画的方法に従っています。何故ならそれ以外の選択肢がないからです。あらゆる科学は、映画的方法から逃れられない運命にあります。実際、対象そのものを操作するのではなく、対象の代わりとなる記号を操作するのが科学の本質です。科学の扱う記号はその正確さと効果の点で、恐らく言語記号とは一線を画しています。それでもやはり、それらは記号の一般的な条件、実在そのものを示すと言うより、その固定的な様相を静的な形式の下に示す、という条件に縛られていることに変わりはありません。運動を考えるためには精神の努力を絶えず更新することが必要ですが、記号はわたしたちがそうした努力をしなくても済むように作られています。諸事物の動的な連続性の代わりに、実用上それと同等の価値を持ち、実物より扱いやすい記号という人為的な再構成物を操作することで、わたしたちはそうした負担を免れることができるのです。ところで、科学の方法はしばらく措き、その結果だけに着目してみましょう。科学の本質的な目的とは何でしょうか。それは、事物に対するわたしたちの影響力を増大させることです。なるほど科学は、その形式において思弁的なものたり得ますし、その直接的な目的において利害を離れたものたり得ます。しかしわたしたちは、相手の望むだけの期間、無担保で科学に貸し付けを行うにしても、それがどれだけ長期の貸し付けであろうと、最終的には貸し付けたものを科学から返済してもらわなければなりません。そのため科学は、結局のところ、常に実用的な有効性を目指さざるを得ません。科学は理論に専念するときでさえ、自分の方法を日常生活の一般的な形式に適応させなければならず、どんなに高く足場を組み立てようと、行動の領域に再び降りて来て、いつでも自分の足で立てるよう準備をして置かなければならないのです。仮に科学のリズムが行動のリズムと絶対的に異なるものであったならば、科学がそのように振舞うのは不可能でしょう。既に述べたように、わたしたちは行動する際、跳躍を繰り返すことによって物事を進めます。行動とはその都度環境に自己を適応させることであり、したがって何かを知ること、つまり行動するために予見することは、或る状況から別の状況へ、或る事物の配列から別の事物の配列へと移行することです。科学はそれら配列し直されたもの同士の間隔を好きなだけ狭めて考えることができ、その結果、科学が生成から抽出する瞬間の数はどんどん増えていきます。しかし科学が抽出するのは常に瞬間であって、瞬間と瞬間の間に何が起こっているかということについては、通常の知性や感覚や言語が何の興味も示さないように科学は一顧だにしません。科学が相手にするのは中間ではなく、その両端です。古代の科学と同様、近代科学が映画的方法から逃れられないのはそのためです。

では、この二つの科学の違いはどこにあるのでしょうか。わたしたちは両者の違いとして、古代人が物理的な秩序を生命的な秩序に、言い換えると法則を類に還元したのに対して、近代人は類を法則に還元しようとした点を前章で指摘しました。しかし変化に対する二つの科学の態度の違いを検討すれば、両者の違いは一層鮮明になる筈です。もっともそれは、最初に指摘した違いの別の側面に他ならないのですが。さて、変化に対する二つの科学の態度の違いはどこにあるのでしょうか。わたしたちはその違いを、次のように定式化したいと思います。――古代の科学が、対象の或る際立った瞬間を書き留めればその対象を十分認識することができる、と考えたのに対して、近代科学は対象を任意の瞬間において考察する。

プラトンのイデアやアリストテレスの形相は、まさに事物の歴史の特別な、つまり際立った瞬間に対応しています。――そしてそれら特別な瞬間は、一般に言語によって固定されます。例えば生物の幼年期や老年期などのように、形相やイデアは或る期間を特徴付け、その期間の精髄を表現するものと看做されます。その期間の爾余のすべては、或る形相から別の形相への移行によって空白を埋められている、とだけ考えられており、移行そのものには一切注意が払われません。落下する物体を例にとって考えてみましょう。古代人は物体の落下という事実の全体を次のように特徴付けたとき、それを十分に闡明し得たと考えます。すなわち、物体の落下とは低い場所に向かう運動であり、或る中心に向かう傾向である。それは、もともと属していた大地から引き離された物体が、再び自分の場所に戻ろうとする自然な運動である。そのため古代人はテロス(目的・終着点)やアクメ(頂点)といったものに特に注目し、それらを本質的な瞬間と看做しました。言語が事実の全体を表現するために保持してきたそれらの瞬間は、科学にとってもそれだけで事実の全体を特徴付けるのに十分なものとされます。こうして空間に投げ出された物体、或いは自由落下する物体の運動は、アリストテレスの自然学においては、高いと低い、自発的な運動と強制的な運動、本来の場所と借り物の場所といった概念によって定義されます。一方、ガリレイの考えによれば、本質的な瞬間とか特別な瞬間などというものは存在しません。近代科学にとって落下する物体を研究することは、落下の過程の任意の瞬間において物体を考察することです。近代科学の観点からすれば、任意の瞬間における空間内の物体の位置を決定する科学こそ真の重力の科学ということになるでしょう。そのためには、先に示したように、言語記号とは一線を画する正確な記号が必要となります。

それゆえ、近代物理学はとりわけ時間をどこまでも細かく分割する点で古代人の物理学とは異なる、と言うことができます。古代において時間は、わたしたちの自然的な知覚やわたしたちの言語がそこから或る種の個別性を示す継起的な事実を切り取ったのと同じ数だけの不可分な分節を持つものと看做されます。知覚や言語によって切り取られる事実のおのおのはそれ以上の個別性を示すことはなく、総合的にしか定義されることも記述されることもありません。仮に事実を記述するうちにさらに幾つかの様相を区別するに至ったならば、もともとそこには一つの事実ではなく複数の事実が存在したのであり、或いはもともと唯一つの分節ではなく複数の分節が存在したのだ、という風に古代人は考えます。しかしいずれにせよ、古代の物理学では時間は常に限られた数の分節にしか分割されません。精神が時間の分割を迫られるのは、思春期における急激な変化のように実在の変化が顕著であるとき、或いは明らかに新しい形態が発現したときに限られます。逆にケプラーやガリレイのような人にとって、時間はどのようなやり方であれ、或る期間の本質とか精髄と看做されるものに応じて客観的に分割されるような性質のものではありません。時間は古代人が考えるような自然な分節を持つものではない、と彼らは考えます。時間は任意に分割することができ、また任意に分割されなければなりません。あらゆる瞬間はすべて等しい価値を持ち、いかなる瞬間も、他の瞬間を代表したり支配したりするような権利は持っていません。したがって近代物理学にとって、或る変化が任意の瞬間にどのような状態にあるかを余すところなく示し得ない限り、その変化を真に認識したとは言えない、ということになります。

この(分割の多寡という)点で、古代の科学と近代科学には大きな隔たりがあります。或る面から見ると、その差異は根本的なものでさえあります。しかしわたしたちが今検討している観点からすれば、それは飽くまで程度の差異であって、本性の差異とまでは言えません。人間精神は、単により高い正確さを求めて認識の完成度を徐々に高めていった結果、古代における第一の種類の認識から近代における第二の種類の認識へと移行したのです。この二つの科学の関係は、肉眼で捉えられた運動の過程と、スナップ写真でより正確に記録された運動の過程との関係になぞらえることができます。どちらの場合も働いているのは同じ映画的メカニズムですが、第二の場合、第一の場合には達し得ないほどの正確さに達します。例えば全速力で疾走(ギャロップ)する馬を知覚するとき、わたしたちの肉眼が捉えるのは主にその特徴的、本質的、或いは寧ろ図式的な馬のフォーム、ギャロップと呼ばれる過程全体を象徴する際立った馬のフォームであって、そのため疾走している間、馬はずっとそのフォームを維持しているようにわたしたちの目には映ります。パルテノン神殿のフリーズ浮彫に刻まれているのは、まさにそのような馬の姿態に他なりません。それに対して、スナップ写真はあらゆる瞬間を切り離し、それらをすべて同列に置きます。疾走する馬を撮影するとき、撮られた写真はわたしたちが望むだけ多くの継起する馬の姿態に分散され、肉眼で捉えたときのように、特別な瞬間において輝きを放ち、ギャロップの過程全体を照らし出すような唯一の姿態に凝縮されることはありません。

こうした正確さの根本的な違いから、他のあらゆる差異が生じてきます。持続の諸々の不可分な過程を代わる代わる考察する古代の科学は、それらの過程に、状態のあとに続く状態を、形態に取って代わる形態を見て取るに過ぎません。このような科学は対象を有機的存在と同一視し、その質的な側面を記述することで満足します。しかしそうした過程の内部で、或る任意の瞬間に何が起こっているかを探求しようとすれば、質の記述とは全く別のものを目指さなければなりません。瞬間ごとに生起する変化は、質の記述から漏れたものである以上、最早質的な変化ではありません。それは現象そのものの変化であるかその一部の変化であるかにかかわりなく、量的な変化です。近代科学は大きさ(量)を対象とし、何よりもまず大きさを測定することを目指している点で古代の科学と異なる、と或る人が述べたのは、したがって正鵠を得た指摘であったと言うことができます。古代人は既に科学的な実験を行っていましたが、科学的認識の典型そのものとも言える法則を発見したケプラーは、本来の意味での実験を行ったことはありませんでした。近代科学を特徴付けているのは実験を行うことではなく、測定のためにのみ実験を行うこと、実験に限らず、何事も測定のためにのみ行うことです。

わたしたちが前章で、古代の科学が専ら概念を扱うのに対して、近代科学は法則を、すなわち可変的な量同士の恒常的な関係を探求する、と述べたのもまたそういう理由からです。アリストテレスにとって、天体の運行を定義するには円の概念だけで十分でした。それに対してケプラーは、楕円形というより正確な概念をもってしても、惑星の運動を説明するのに十分ではない、と考えていたに違いありません。彼には法則が、言い換えると惑星運動の二つもしくは複数の要素の量的変化の間の恒常的な関係が必要でした。

とは言え、今述べたことは帰結でしかありません。つまり古代の科学と近代科学との違いのうち、根本的な差異から派生した幾つかの相違点の一つに過ぎません。偶然にしろ、古代人が測定のために実験を行うこともあったでしょうし、可変的な量同士の恒常的な関係を示す法則を発見することが全くなかったわけではありません。アルキメデスの原理は、(アルキメデス自身は自覚していなかったにせよ)真に実験的な法則です。三つの可変的な量、すなわち物体の体積、物体が浸っている流体の密度、物体が受ける下から上への圧力(浮力)の関係を表現しているこの原理は、これら三つの項の一つが、他の二つの項の関数であることをはっきりと示しています。

したがって両者の本質的、根源的な差異は、別のところに求められなければなりません。わたしたちが最初に示した変化に対する態度の違いがまさにそれです。飽くまで静的な古代の科学は、研究の対象となる変化を一纏めにして考察し、その変化を幾つかの期間に分けなければならなくなった場合には、今度はそれらの期間のそれぞれを一つに纏めます。このことからわかるのは、古代の科学は時間を考慮に入れていない、ということです。一方、近代科学は、その後あらゆる科学のモデルとなったガリレイやケプラーの発見を中核として発展しました。では、ケプラーの法則が確立したものとは何だったでしょうか。それは、或る惑星の動径ベクトルが太陽を中心として描く面積と、それが描かれる時間との関係(第二法則)、惑星の軌道の長半径と、その軌道を一周するのに要する時間(惑星の公転周期)との関係(第三法則)です。さらに、ガリレイの主な発見とは何だったでしょうか。それは、落下する物体が通過する空間とその落下にかかる時間との関係を表す法則です。自然科学だけでなく、数学にも目を向けてみましょう。近代における幾何学の大きな変革の第一歩は何だったでしょうか。それは、漠然とした形ではあるにせよ、図形の考察に時間と運動が導入されたことです。古代人にとって、幾何学は純粋に静的な科学に過ぎませんでした。彼らにとって幾何学の図形は、プラトンのイデアのように、完全に出来上がった状態で一挙に与えられるものでした。それに対してデカルト幾何学の本質は、あらゆる平面曲線を、横座標軸(デカルト自身には座標という発想はありませんでしたが)に沿って平行移動する直線上の或る点によって描かれる軌跡として考察する点にあります。このとき直線は等速に移動するものとされ、かくしてデカルトの幾何学において横座標は時間を示すものとなります。移動する直線上を通過する点の空間上の位置とそれにかかった時間との関係を示すことができれば、言い換えると、任意の瞬間に動点が移動する直線上のどの位置にあるかを示すことができれば、動点の描く曲線は定義されるでしょう。それは、この曲線を方程式で表すことに他なりません。このように図形を方程式で表現することは、簡単に言えば、唯一の瞬間に凝縮され、完成した状態にある曲線を静的に考察する代わりに、曲線を描く動点が任意の瞬間にどこにあるかを考察することに他ならない、と言うことができます。

自然科学と、その有能な道具である数学を一変させた改革の指導的な考え方とは、以上のようなものでした。近代科学は、天文学の娘と言って差し支えありません。それはガリレイの斜面(下記参照)に沿って天から地上に降りてきました。というのも、ニュートンと彼の後継者達はガリレイを介してケプラーに結び付くからです。では、ケプラーにとって天文学の問題はどのように提起されたのでしょうか。彼にとって問題は、所与の瞬間における惑星一つ一つの位置から、別の任意の瞬間におけるそれらの位置を計算によって割り出すことでした。以後、同じ問題があらゆる物質系について提起されます。質点はそれぞれ基本的な惑星となり、所与の瞬間における質点の位置から、任意の瞬間におけるそれらの相対的な位置を知るにはどうすればよいか、と問うことが最善の問い、それに答えることが他のすべての問題を解く鍵となる理想的な問いと看做されました。問題がそのように明確に提起されるのは、恐らく、極く単純な場合、図式化された実在が対象となる場合でしかありません。何故なら実在的な諸要素が実際に存在するにしても、物質の諸要素の一つ一つの真の位置を知ることは決してできないだろうからです。仮に所与の瞬間にそれを知ることができたとしても、他の瞬間におけるそれらの位置を算出するには、ほとんどの場合、人間の能力を凌駕する数学的な努力が要求されるでしょう。しかしわたしたちには、それらの要素を知り、それらの実際の位置を知ることは不可能ではないこと、超人的な知性ならば、それらの所与から、数学的操作によって任意の瞬間における諸要素の位置を算出できるに違いないことが確信できればそれで十分なのです。自然についてわたしたちが提起する問題の根底には、またそれを解くために用いる方法の根底にはこうした確信が潜んでいます。わたしたちから見ると、静的な形式しか持たないあらゆる法則がその場限りの手付金のごときもの、動的な法則についての一つの特殊な観点にしか見えないのはそのためです。近代人にとって、またわたしたち現代人にとって、動的な法則こそ完全で決定的な認識を与えてくれるものに他なりません。
(これはガリレオが斜面で落下運動の実験を行ったことを隠喩しているのだと思われます)

古代の科学と近代科学の違いについて述べたことをここでまとめて置きましょう。近代科学は、単に法則を探求する点で、またそれらの法則が幾つかの量の関係を表している点で古代の科学から区別されるのではありません。それに加えて、次のように付言する必要があります。近代科学が他のすべての量と関連付けようとしているもの、それは時間である。近代科学は、他の何よりも、時間を独立変数として扱おうとする熱望によって定義されなければならない、と。しかしここで問題となっている時間とはどんな種類の時間なのでしょうか。

(つづく)

「ジェノサイド」(80)

2017-09-07 | 雑談
●生成と形式

しかし、そもそもわたしたちは真の持続を考えているのでしょうか。「存在」を考える場合と同様、持続に関してもやはり直接それを把握する必要があります。回り道をしていては、いつまで経っても持続に追いつくことはできません。持続を捉えるためには、一挙に持続のうちに身を置かなければなりません。ところが多くの場合、知性はそうすることを拒否します。何故なら知性は、不動のものを介して運動を考える習慣を身に付けてしまっているからです。

実際、行動を支配し、管理するのが知性の役割です。ところで、行動のうちわたしたちの興味を引くのは、(その過程ではなく)その結果です。目的さえ達成されれば、手段が問題になることはほとんどありません。そのため通常わたしたちは、達成すべき目的が観念上のものから現実のものになることを信じてそれに全神経を集中し、その結果、精神にはわたしたちの活動が休止する終点だけが明瞭に表象されます。行動そのものを構成している運動はわたしたちの意識から逃れるか、もしくは漠然としか意識に上りません。例えば腕を上げる運動のような、極く単純な行為を考えてみましょう。もしわたしたちが、この行為に含まれる筋肉の収縮や緊張の要素をあらかじめすべて想像しなければならないとしたら、さらにその運動の最中、収縮や緊張の過程を一つ残らず知覚しなければならないとしたら、わたしたちの行動は一体どうなってしまうでしょうか。そういった途中の過程は一切無視して、精神は一足飛びに目的に、すなわちその行為が遂行されたものと想定した上で、そのように想定された行為の図式化され単純化されたビジョンに身を移します。一旦行為の終点に身を移してしまえば、最初に思い描かれた表象の効果を無効にするような敵対的表象が現れない限り、あたかもその図式の隙間の空虚に吸い寄せられるかのように、適切な運動が自ずと図式の足りない部分を補いにやって来てくれます。したがって知性は、一つの活動に関してその達成すべき目的しか、言い換えるとその活動が休止する点しか表象しません。かくしてわたしたちの活動は、或る達成すべき目的から別の達成すべき目的へと、或る休止から別の休止へと一連の飛躍によって移っていきます。その間わたしたちの意識は、遂行されつつある運動からは極力目を逸らし、その運動の先回りをしてそれが到達するであろう終点のイメージだけを頭に思い描きます。

ところで、遂行される行為の結果が不動のものとして表象されるためには、その結果が嵌め込まれる環境もやはり不動のものとして知性は認知しているのでなければなりません。わたしたちの活動は、物質的世界に挿入され嵌め込まれています。仮に、物質が間断のない流れとしてわたしたちの前に現れていると想定してみましょう。その場合、わたしたちはどこに行動の終点を設定してよいかわからないでしょうし、行動の一つ一つが遂行されるそばからそれが崩壊していくように感じられるに違いありません。そうなれば、絶えず逃れ去っていく未来を予見しようという気にもならない筈です。わたしたちの活動が或る行為から別の行為へと飛び移っていくためには、物質もそれに応じて或る状態から別の状態へと移っていくのでなければなりません。何故なら行動は物質的世界の或る状態のうちにのみその結果を挿入することができ、したがって状態という舞台においてのみ行動は遂行され得るからです。物質は実際にそのように(状態として)わたしたちの前に現れているでしょうか。

わたしたちの知覚は、まさに今述べたような角度から物質を捉えるようにできている、とア・プリオリに推測することができます。事実、感覚器官と運動器官とは相互に連携しています。運動器官がわたしたちの行動能力を象徴しているとすれば、感覚器官はわたしたちの知覚能力を象徴しています。このように有機体は、目で見、手で触れることのできる形で、知覚と行動との完全な適合を身を以てわたしたちに示しています。したがって、わたしたちの活動が常に結果を目指し、そこに一時的に嵌め込まれるものであるならば、わたしたちの知覚も、あらゆる瞬間、物質的世界のうち自分が一時的に身を置く状態と呼ばれるものさえ保持できればよい、ということになります。これが、精神に示される仮説です。この仮説が経験によって確かめられることを示すのは難しいことではありません。

この世に生を享けた瞬間から、わたしたちは世界に諸々の物体を見分けるより早く、諸々の性質を見分けます。例えば、或る色のあとには別の色が、或る音のあとには別の音が、或る触感のあとには別の触感が続いている、といった風に。それらの性質は、個別に見ればそれぞれが一つの状態であり、その状態は別の状態に取って代わられるまで変化することなく不動のまま存続するように見えるかも知れません。しかし各々の性質を分析すると、それらは膨大な数の振動に分解されることがわかります。わたしたちが性質のうちに振動を見るにせよ、或いは性質を全く別の仕方で表象するにせよ、確実に言えることが一つあります。それは、あらゆる性質は変化である、ということです。もっとも、変化の奥に変化するものを探しても無駄でしょう。わたしたちが運動を運動するものと関連付けるのは、自分自身の想像力を満足させるための暫定的な措置に過ぎません。運動するもの(質)は、常に科学の目から逃れます。科学が運動(量)以外のものを扱うことは決してありません。知覚し得る最も短い時間の間にも、感覚的性質のほとんど瞬間的な知覚のうちにも、無数の振動が生じていることを科学は明らかにします。継起する鼓動によって生物が生存し続けるように、感覚的性質の恒常性は、そうした運動の反復に根差しています。知覚の最も基本的な役割は、まさに、それら一連の周期的変化を、或る種の凝縮作用によって性質として捉えることに、すなわち単一の状態という形で捉えることにあります。或る動物種に割り当てられる行動能力が大きければ大きいほど、その動物種の有する知覚能力が一瞬間に凝縮させ得る周期的変化の数も恐らく多くなります。エーテルの振動にほぼ同調して振動するだけの生物から、それら数え切れないほどの振動を極めて短い単一の知覚のうちに不動化する生物に至るまで、自然界においては、そうした進歩が連綿と続いているに違いありません。前者は運動以外のものをほとんど感じないのに対して、後者は性質を知覚します。また前者は諸事物の歯車に巻き込まれたままほとんどそこから抜け出すことができないのに対して、後者は事物に反応して行動を起こすことができ、その行動能力の緊張度は、恐らくその知覚の凝縮能力に比例しています。このような進歩は、人類に至って完成します。わたしたち人類が一瞬のうちに見て取ることのできる出来事の数が多ければ多いほど、それだけわたしたちは「能動的人間」になります。継起する出来事を一つずつしか知覚できない人はそれに振り回される他はないでしょうし、それらの出来事を纏めて把握できる人は出来事に翻弄されるのではなく、逆にそれを支配することができるでしょう。そういうわけで、物質の性質とは、それがどんな性質であれ、わたしたちが物質の不安定性を不動化して得た安定したイメージ以外のものではない、と結論することができます。

次にこの感覚的性質の連続を、わたしたちは諸々の物体に切り分けます。それら切り分けられた物体の一つ一つも、実際にはあらゆる瞬間に変化しています。物体はまず諸々の性質の集まりに分解されますが、あらゆる性質は振動の継起以外の何物でもないのは先ほど述べた通りです。ところで、性質を安定した状態と看做すにしても、物体は絶えずその性質を変える点で、依然不安定な状態にあると言えます。最も典型的な物体、相対的に閉じたシステムを構成している点で、他のどんな物体よりも物質の連続から切り離されて然るべき物体、それは生命体です。ちなみに生命体が全体から自分以外の物体を分離するのは、生命体自身の欲望を満たすためです。さて、生命体というこの最も典型的な物体について考えてみると、生命とは進展もしくは進化に他なりませんが、その進化の或る時期をわたしたちは安定した一つのイメージに凝縮して形態と呼んでいます。そして変化が顕著になり、平穏だった知覚が安定した状態を保てなくなると、わたしたちはその物体(生命体)の形態が変化した、と言います。しかし実を言えば、物体(生命体)の形態はあらゆる瞬間に変化しています。と言うより寧ろ、(例えば現在は存在しない、というのと同じ意味で)形態は存在しない、と言った方が適切かも知れません。何故なら実在は運動そのものですが、形態は不動なものに過ぎないからです。実在とは形態の連続的変化であり、形態は、その連続的変化を外側から撮影した一枚のスナップ写真に過ぎません。したがって性質の知覚においてと同様、物体の形態の知覚においても、わたしたちの知覚は実在の流動的な連続性を非連続的なイメージとして固定するようにできている、と言うことができます。継起するイメージ同士の間に明らかな差がない場合、わたしたちはそれらすべてのイメージを、或る一つの平均的なイメージの増大ないし減少と考えるか、その平均的なイメージが様々な方向に変形したものと考えます。わたしたちが或る事物の本質について語るとき、或いはその事物そのものについて語るとき、わたしたちが考えているのはこの平均的なイメージに他なりません。

そして最後に、こうして事物が一旦構成されると、それらの事物は「全体」の内部で生じる深い変化を、表面における位置変化によって示すようになります。この表面における事物の位置変化を形容して、それらの事物は相互に作用を及ぼし合っている、という風にわたしたちは表現します。それらの作用は、確かに運動という形でわたしたちに与えられます。ところがわたしたちは、運動の動性から極力目を逸らします。わたしたちの興味を引くのは、先に述べたように、運動そのものよりも、寧ろその運動の安定した素描です。一つの単純な運動について考えてみましょう。その運動についてわたしたちが問題にするのは、それがどこへ向かうのか、ということです。どんな瞬間にも、わたしたちはその運動をそれが向かう方向を介してしか、つまり暫定的な目標の位置を介してしか表象しません。では、単一の運動ではなく複合的な運動の場合はどうでしょうか。その場合、わたしたちは何よりもまず、今起きていることやその運動が為しつつあること、言い換えるとその運動によって得られる結果や、その運動を支配している意図を知ろうとします。行動している最中、自分がどんなことを考えているかよく思い出してみましょう。確かに、そこには変化という観念もあるかも知れません。しかしそれは脇に追いやられています。スポットライトを浴びているのは、飽くまで予想されるその行為の安定した素描です。わたしたちはこの素描によって、否、この素描によってのみ複合的な行為を相互に区別し、規定することができます。例えば食べる、飲む+戦うというような異質な行為の組み合わせに含まれる運動を想像しなければならないとしたら、わたしたちは途方に暮れてしまうに違いありません。わたしたちにとっては、単にそれらすべての行為が運動であることが一般的な形で漠然とわかればそれで十分なのです。その点がわかれば、あとはその複合的な運動に含まれるそれぞれの運動の全体図、すなわちそれらの運動を支えている安定した素描を表象しさえすれば自ずと事がうまく運びます。このように空間上の運動に関しても、認識は変化よりも寧ろ状態に関わっている、と言うことができます。したがってこの第三の場合も、先に述べた二つの場合と事情は同じだと考えて差し支えありません。問題になっているのが質における運動であるか、進化における運動であるか、そしてひろがりにおける運動であるかに関係なく、いずれの場合にも精神は不安定なものから安定したイメージを得ようと努めます。こうして精神は、今列挙したような三つの観点に対応した表象に到達します。一つは性質の表象であり、もう一つは形態もしくは本質の表象であり、もう一つは行為の表象です。

この三つの観点には、語の三つのカテゴリー、すなわち形容詞、名詞、動詞がそれぞれ対応しています。この三つの品詞は、言語の原初的な要素と言えます。このうち形容詞と名詞が象徴しているのは状態ですが、動詞そのものも、それが喚起する表象の重要な部分に関する限り、状態以外のものはほとんど表現していません。

ここで、生成に対してわたしたちが自然に取る態度の特徴をもう少し正確に述べて置くことにしましょう。生成とは、無限の変化です。例えば黄色から緑に変わる過程と、緑から青に変わる過程は同じものではありません。質におけるこの二つの運動は別のものです。また例えば、花から果実に変わる過程と、幼虫から蛹に、蛹から成虫に変わる過程は同じものではありません。進化におけるこの二つの運動は別のものです。また例えば、食べたり飲んだりする行為と、戦う行為は同じものではありません。ひろがりにおけるこの二つの運動は別のものです。質における運動、進化における運動、ひろがりにおける運動というこれら三つの運動自体、相互に深く異なっています。わたしたちの知覚作用の特徴は、知性や言語の働きと同様、これら変化に富んだ生成から生成一般という唯一の表象を抽出する点にあります。生成一般というこの無規定な表象はそれ自体としては何の意味もない抽象物に過ぎず、わたしたちがそれについて考えることも滅多にありません。常に自己同一的なこの観念はぼんやりとしか意識されないもの、もしくは全く意識されないものですが、わたしたちはこの観念に、その時々の状況に応じて、状態を表す一つもしくは幾つかのイメージ、あらゆる生成を相互に区別するのに役立つ明晰なイメージを付け加えます。規定された特徴的な一つの状態と、生成一般という一般的で無規定な変化とを組み合わせ、それを変化の特性の代用物にするのです。様々に彩られた無限に多くの生成が、言わばわたしたちの眼下を流れています。わたしたちは、そこに単なる色彩の差異、つまり単なる状態の差異しか認めません。しかしそれらの差異の奥には、いつでも、どこでも変わることのない生成という観念、常に無色透明の生成という観念が底流として流れています。

スクリーンの上に、何か活動的で生き生きとした場面、例えば連隊の行進風景を映し出すものとしましょう。それには、次のようなやり方が考えられます。まず何らかの材料を兵士の形に切り抜き、関節部分が動くように細工します。次にそれぞれの人形に歩行しているポーズを取らせます。歩行は人類に共通のものですが、個々人によって異なるので、人形のポーズには或る程度の変化をつけるようにします。そしてその全体をスクリーンに投影します。このちょっとした遊びには恐ろしく手間がかかるでしょうが、その割にはひどく安っぽい仕上がりにしかならないでしょう。このようなやり方で、生命の柔軟性と多様性をどうして再現することができるでしょうか。とは言えこのやり方だけが唯一のものではありません。もう一つ別のやり方があります。そしてそのやり方の方がずっと簡単で、ずっと効果的です。そのやり方とは次のようなものです。まず実際に行進している連隊を連続撮影します。次に撮影したその連続写真がスクリーンの上で次々に素早く入れ替わるようにそれらを投影します。これはまさに、映画のやり方です。映画は、歩行する兵士達の様々な外見を映した静止画の一枚一枚によって、行進する連隊の動きを再構成します。なるほど、わたしたちが写真だけを見ている限り、それをいくら眺めたところで写真が動き出すことはありません。不動なものをどれだけ数多く並べても、それが運動になることはないでしょう。映像に命が吹き込まれるためには、どこかに運動が存在していなければなりません。そして事実、映画においては或る場所に運動が存在しています。それは映写機の中です。まさにフィルムが回り、或るシーンの様々な写真が次々に現れることで、そのシーンにおける役者の一人ひとりが動きを取り戻します。フィルムの目に見えない運動によって、役者は自分の継起する固定した一つ一つの姿態をすべて繋ぎ合わせていくわけです。つまり映画は、まずそのシーンに登場するそれぞれの人物に固有の運動の総体から、非人称的、抽象的な単一の運動、言わば運動一般を抽出し、それを映写機の中に配置します。次にこの名前のない運動を個々人の瞬間瞬間の外見と組み合わせることによって、それぞれの特殊な運動の個別性を再構成します。これが映画の手法ですが、それは同時にわたしたちの認識方法でもあります。わたしたちは諸事物の内的な生成に身を置く代わりに、諸事物の外に身を置いてそれらの生成を人為的に再構成します。わたしたちはまず、過ぎゆく実在のほとんど瞬間的なイメージを幾つか手に入れます。それらのイメージはその実在の特徴を表しているので、次に手に入れたイメージを、わたしたちの認識装置の底を流れる抽象的で均一な目に見えない生成に沿って繋ぎ合わせることで、この生成そのものの特徴的な点を或る程度再現することができます。知覚や知解、言語は一般にこのような仕方で働きます。生成を考えるにせよ表現するにせよ、或いは生成を知覚するにせよ、わたしたちはいずれの場合においても、或る種の内的な映画装置を働かせているに過ぎません。以上のことから、こう結論してもよいでしょう。わたしたちが通常働かせる認識のメカニズムは、映画的な性質のものである、と。

この操作が全く実践的な性格のものであることは誰が見ても明らかです。わたしたちの行為はいずれも、わたしたちの意志を何らかの方法で実在に嵌め込むことを目指しています。わたしたちの身体とそれ以外の物体とは万華鏡のビーズのように配列され、千変万化する模様を(刻々と)描き出しています。行動する際、わたしたちは万華鏡の筒を振って或るビーズの配列から別のビーズの配列へと移っていきますが、筒を振るという操作そのものはわたしたちの関心の対象ではなく、その結果出来る新しい模様にしかわたしたちは関心を持ちません。そういうわけで、行動するわたしたちが自然の働きについて持つ認識は、わたしたちが自分自身の操作に向ける関心と正確に対称的なものになる筈です。比喩に比喩を重ねた表現になりますが、この意味で、事物に関するわたしたちの認識の映画的性格は、事物に対するわたしたちの適応の万華鏡的性格に由来している、と言うことができるでしょう。

したがって実践的な認識方法たり得るのは、映画的な認識方法しかない、ということになります。何故なら映画的な認識方法の特徴は、まさに、一般的な認識の足取りを行動の足取りに合わせた上で、一つ一つの行為の細部が認識の細部に適合するのを期待する点にあるからです。行動が常に明瞭に照らし出されているためには、行動が行われている間、知性が常に現前していなければなりません。ところで今述べたように知性が行動の歩みに付き従い、行動の方向を誤らせないようにするためには、知性はまず行動のリズムを採り入れる必要があります。行動はあらゆる生命の鼓動と同じように、非連続(離散)的なものです。したがって、認識もまた非連続的なものでなければなりません。わたしたちの認識能力のメカニズムは、以上のような構想のもとに形成されたのです。本質的に実践的な性格を持つこのメカニズムは、そのままの形で果たして思弁の役に立つことができるのでしょうか。実在の曲折を辿る際にもこのメカニズムを働かせ続けると、一体どういうことが起きるのかを見てみることにしましょう。

わたしは、わたしたちが或る生成の連続から一連のイメージを抽出し、それらを「生成一般」によって連結する、ということを明らかにしました。しかし、無論わたしたちはそこで立ち止まっているわけにはいきません。規定し得ないもの(生成一般)は表象し得ないからです。「生成一般」を、わたしたちは単なる言葉の上の存在としてしか認識していません。数学においてxという文字が未知数を表しているように、常に同一の「生成一般」は確かに或る推移を、わたしたちがスナップ写真に撮る或る推移を象徴しています。が、その推移そのものについて「生成一般」は何も教えてくれません。そこでわたしたちは、その推移に意識を傾け、二つのスナップ写真の間で何が起こっているかを知ろうとします。しかし同じ方法しか適用しない以上、第一のスナップ写真と第二のスナップ写真の間にもう一枚別の第三のスナップ写真が入ってくるだけで、得られる結果は同じです。何度やり直そうが、どれだけスナップ写真を並べようが、わたしたちはスナップ写真以外のものを得ることはできません。そのため映画的方法の適用は、際限のないやり直しをわたしたちに強いることになります。そしていくらやり直しても満足することができず、身を置く場所も見つけることのできない精神は、やがて探求を諦め、自分自身の不安定性によって実在の運動そのものを模倣しているのだ、とでも考えて自分を納得させる他はなくなるでしょう。しかしそうやって精神が自ら進んで眩暈のうちに飛び込み、遂には運動を捉えたと錯覚するに至ったとしても、精神は一歩も前進したことにはなりません。そうした操作は精神を元の場所に置き去りにし、目標に近づけることはないからです。動く実在とともに進むためには、実在のうちに身を置き直さなければなりません。変化のうちに身を置いてみましょう。変化は、どんな瞬間にも停止して一つの状態となり得ます。変化のうちに身を置けば、変化そのものに加えて、それら継起する状態をも把握することができる筈です。逆にそれらの継起的な状態を外から捉え、状態の不動性を潜在的なものではなく実在的なものと看做すならば、わたしたちは未来永劫運動を再構成することはできません。なるほどわたしたちは、状況に応じて性質、形態、位置もしくは意図と呼ばれるそれらの状態の数を好きなだけ増やして、連続する二つの状態を限りなく近づけることはできます。しかしどれだけ状態の数を増やしても、わたしたちは運動を掴まえたと思った瞬間にそれが手の間からすり抜けていくのを目の当たりにして、広げた両手を合わせて煙を押し潰そうとする子供のように落胆するのが落ちでしょう。何故なら諸々の状態によって変化を再構成しようとするあらゆる試みのうちには、運動が不動で出来ているという不条理な命題が含まれているからです。

哲学は誕生した瞬間から、早くもこのパラドックスに気付いていました。エレアのゼノンの論証はわたしたちの意図とは異なる意図からなされたものではあるものの、今述べたこと(運動は不動で出来ている)と別のことを表現しているのではありません。

試しに「飛ぶ矢」のパラドックスを取り上げてみましょう。ゼノンは言います。飛んでいる矢は、あらゆる瞬間止まっている。何故なら少なくとも二つの瞬間が(同時に)矢に与えられない限り、矢は動くこと、すなわち少なくとも二つの継起する位置を占めることができないからである。(同時に)二つの瞬間が与えられることはない以上、或る所与の瞬間、矢は或る所与の点で静止している。その軌道の各点において矢は不動なのであるから、矢は飛んでいる間ずっと不動である、と。

仮に矢が軌道の或る点にいつか存在し得るならば、そして矢という動くものが、位置という不動のものといつか一致し得るならば、なるほどゼノンの言う通りかも知れません。しかし矢の軌道のどの点にも、矢が存在することは決してありません。せいぜいわたしたちに言えるのは、矢はその点を通過するという意味で、また矢はそこで停止することがあり得るという意味で、矢はその点にとどまることも可能だろう、ということだけです。矢がその点で停止すれば確かに矢はそこにとどまるでしょうが、そのときわたしたちの前にあるのは最早運動ではありません。矢が点Aから射られ点Bに落下するとき、その運動ABを純然たる運動として見た場合、それは引き絞った弓の緊張と同じく単一で分解不可能なものである、と言うべきです。AからBに飛翔する矢は、榴散弾が地面に落下する前に破裂して爆発範囲を不可分の危険で覆うように、その不可分の運動性を、或る一定の時間はかかるにせよ一挙に展開します。ゴム紐をAからBまで伸ばしたとしましょう。そのゴムの伸びを果たして分割することができるでしょうか。矢の飛翔はそうしたゴムの伸びと同じ種類のものであり、ゴムの伸びと同じく単一で分割不可能なものです。それは分離することのできない唯一つのものです。わたしたちは、矢が通過した区間の任意の箇所に点Cを想定し、或る瞬間、矢は点Cに存在した、という風に考えます。もし矢が実際に点Cに存在したのであれば、矢はそこで一旦停止したということであり、従ってその場合、わたしたちの前には最早点Aから点Bへの矢の飛翔があるのではなく、AからCへの、CからBへの二つの飛翔と、その間の静止がある、と言うべきでしょう。単一の運動とは、わたしたちの仮定に従えば二つの停止に挟まれた運動を意味します(下記参照)。二つの停止の間に別の停止があるなら、それは最早単一の運動とは言えません。なるほど運動が一旦行われれば、その行程に沿って不動の軌跡が残され、その軌跡の上にわたしたちはあとから好きなだけ不動の点を数えることができます。この事実から、運動はそれが遂行されるに従って一瞬毎に自分と一致する点をあとに残していく、という風にわたしたちは誤って結論します。そう結論するとき、軌道の創造には確かに一定の時間を要するにせよ、それは中断されることなく一気に創造されること、ひとたび軌道が創造されればそれは好きなように分割することができるとしても、創造は分割することができないこと、この二つの事実をわたしたちは見落としています。創造は進行しつつある行為であって、事物ではありません。動体が行程の或る点に存在すると想定することは、その点に鋏を入れて行程を二つに分け、当初考えられていた単一の軌道を二つの軌道に置き換えることです。それは、一つの行為しか存在しないところに二つの継起する行為を見て取ることを意味します。要するにそれは、矢の通過した区間にしか当て嵌まらないことを、そっくりそのまま矢の飛翔そのものに当て嵌めることであり、運動が不動に一致するという不条理な命題をア・プリオリに認めることです。
(「Ⅰ.――運動は静止から静止への移行である限り、絶対に分割することはできない」(「物質と記憶」第四章))

ゼノンの他の三つの論証について、わたしたちはここで詳しく論じるつもりはありません。それらの論証については、既に前著で検討しました。ここでは、それら三つの論証も「飛ぶ矢」の論証と同様、動体が通過した線の上に運動を貼り付け、その線に当て嵌まることが運動にも当て嵌まるという想定の上に成り立っている点を思い起こすにとどめましょう。例えば線は任意の長さで、好きなだけ多くの部分に分割することができます。しかもどれだけ多くの部分に分割しようが、どんな長さに分割しようが、線が線でなくなることはありません。ここから人々は、線と同じように運動を思い通りに区分することができる、と想定する権利をわたしたちは持っており、運動をどんな風に区分してもそれは常に元の運動と同じ運動である、と結論します。その結果一連の不条理が生じますが、それらは結局のところすべて同じ根本的な不条理を表しています。ところで、動体が通過した線の上に運動そのものを貼り付けることができる、という考え方は、運動の外に位置する傍観者、あらゆる瞬間に運動が停止する可能性を想定し、それら可能的な不動によって実在的運動を再構成しようとする傍観者にとってしか存在しません。そのような観点は、手を上げたり足を一歩前に踏み出すといった単純な動作を行うときに誰もが意識する実在的運動の連続性に注意を向けるや否や雲散霧消します。そのときわたしたちは、動体が通過した二つの停止の間の線が途切れることなく一筆で描かれていること、そしてその一筆で描かれた線、すなわち運動に、一度描かれた線から恣意的に選ばれた区分にそれぞれ対応しているような区分を設けようとしても設けられるものではない、ということにはっきりと気付きます。動体が通過しただけの線は内的な組織を持たないので、どんなやり方でも分割しても支障はありませんが、あらゆる運動は、単なる線とは異なり内的に区分されています。それは一つの不可分な跳躍(一つの跳躍と言ってもそれは極めて長い持続を占めることもあり得ます)であるか、もしくは一連の不可分な跳躍であるかのいずれかです。運動について考える際には、そうした内的区分を考慮に入れなければ運動の本性を捉えることはできません。

そういうわけで、アキレスが亀を追いかけるとき、アキレスの一歩一歩はいずれも分割できないものとして扱われなければなりません。それは亀の一歩一歩についても同様です。アキレスが自分の歩き方で歩いていけば、何百歩目かに彼は亀をまたいで追い越すでしょう。これほど単純明快な話はありません。もしどうしても二つの運動を分割したいのであれば、アキレスの行程と亀の行程の双方を、両者の歩幅の共約量で区分するというやり方も考えられます。しかしいずれにせよ、それら二つの行程の自然な区分を尊重しなければなりません。それらの区分を尊重する限り、どんな問題も起こりようがありません。何故ならそのとき、わたしたちは経験の指示に従うことになるからです。ゼノンの詭弁の核心は、彼が恣意的に選んだ法則、まずアキレスは一歩目で亀がいた地点に到達し、次に二歩目で、最初にアキレスが一歩進む間に亀が進んだ地点に到達する(以下同様)、といった法則に従ってアキレスの運動を再構成する点にあります。事実その場合、アキレスは永遠に新たな一歩を踏み出さなければなりません。しかし言うまでもなく、アキレスは亀に追いつくのに、そうした(不自然な)歩き方とは全く別の歩き方をします。ゼノンの考えるような運動がアキレスの運動と等価となるのは、動体が通過した間隔を扱うのと同じように、任意に分解、再構成することのできるものとして運動を扱う場合だけです。この第一の不条理を受け入れるや否や、自ずと他のすべての不条理が生じます。

ゼノンの論証は運動のみならず、質における生成や進化における生成にも容易に適用することができます。そしてその場合にも、運動の場合と同じ矛盾に直面するに違いありません。子供が青年になり、青年が成人に、成人が老人になるということは、生命の進化が実在そのものであると看做されてはじめて理解されます。幼年期、青年期、壮年期、老年期といったものは精神に与えられた単なるイメージに過ぎず、一つの進展の連続性を顧みてわたしたちが頭に思い描いた可能的な停止に過ぎません。反対に、幼年期、青年期、壮年期、老年期が進化の構成部分であると考えてみましょう。するとそれらは実在的な停止ということになり、わたしたちは最早いかにして進化が可能なのかわからなくなってしまいます。何故なら停止をいくら並べたところで、それが運動と等価になることは決してないからです。既に出来上がったもので、どうして出来上がりつつあるものを再構成することができるでしょうか。例えば幼年期を事物として措定した場合、幼年期しか与えられていないのに、どうしてそこから青年期に移行することができるでしょうか。この点についてよく考えてみると、わたしたちの習慣的な話し方は、わたしたちの習慣的な考え方を手本にしており、わたしたちを紛れもない論理的な袋小路に導く、ということがわかります。もっとも袋小路に迷い込んだとしても、わたしたちは少しも不安を感じません。漠然とながら、いつでもそこから抜け出せると考えているからです。事実、知性の映画的習慣を捨てさえすればいつでもそこから抜け出すことができます。例えばわたしたちが「子供が大人になる」という命題を述べるとき、この命題の文字通りの意味に余り囚われないように努めてみましょう。すると、わたしたちが「子供」という主語を口にするとき、「大人」という補語はまだこの主語に当て嵌まっておらず、またわたしたちが「大人」という補語を口にするとき、それは最早「子供」という主語には当て嵌まらない、ということに気付かされる筈です。幼年期から壮年期への移行という実在はこのようにわたしたちの指の間から零れ落ち、わたしたちの手には「子供」と「大人」という想像上の停止しか残りません。ゼノンによれば、飛ぶ矢はその軌道のすべての点に存在しますが、わたしたちもゼノンに倣って、「子供が大人になる」という言い方どころか、「子供」と「大人」という停止の一方は他方である(子供は大人であり、大人は子供である)、という言い方さえ危うくしかねないところです。もし言語が実在的なものを象っているならば、わたしたちは「子供が大人になる」とは言わず、「子供から大人への生成がある」という風に表現するでしょう。「子供が大人になる」という第一の命題における「なる」という動詞は特定の意味を持っておらず、「大人」という状態を「子供」という主語の属性にする際に陥る不条理を覆い隠す役割を果たしているに過ぎません。「なる」というこの動詞は、映画フィルムの常に同一の運動、映写機の中に隠されている運動とほぼ同じ働き、すなわち継起するイメージを次々に積み重ね、実在的な対象の運動を模倣する、という働きをしています。一方、「子供から大人への生成がある」という第二の命題では、「なる」という動詞は「生成」という主語に変わり、最前面に出てきます。それは実在そのものを表しています。この場合、幼年期と壮年期は最早潜在的な停止、精神に与えられた単なるイメージとしての意味しか持ちません。この第二の命題において主役を務めているのは客観的な運動そのものであって、運動の映画的な模倣物ではありません。とは言え、わたしたちの言語の習慣に合致しているのは第一の命題の方です。第二の命題のような表現が人間精神に採用されるためには、思考の映画的メカニズムから抜け出さなければならないでしょう。

運動の問題が引き起こす理論上の不条理を一挙に解決するためには、映画的メカニズムを完全に取り除かなければなりません。映画的メカニズムによって諸々の状態から移行を作り出そうとすると、あらゆるものが曖昧になり、あらゆるものに矛盾が生じます。逆に移行のうちに身を置き、思考によって移行の横断面を作りつつその連続性から諸々の状態を区別するならば、曖昧さはたちどころに消え、矛盾も解消します。というのも、移行のうちには一連の状態以上のもの、つまり一連の可能的な生成の切断面以上のものがあり、運動のうちには一連の位置以上のもの、つまり一連の可能的な停止以上のものがあるからです。ただし状態から出発する第一の観点は人間精神の方法に合致しているのに対して、移行から出発する第二の観点は精神が下った知的習慣の坂を一から登ることを要求します。生まれたばかりの哲学が、そのような努力を厭い、無意識に回避したとしても驚く必要があるでしょうか。古代ギリシア人は自然を信頼し、自然の傾向に従う精神を、そしてとりわけ、思考を自然に外在化してくれる言語を信頼していました。彼らは、事物の流れに対して思考と言語が取った態度に間違いがあると考えるよりも、寧ろ事物の流れの方が間違っていると考えることを好んだのです。

●プラトンとアリストテレス

エレア派の哲学者達の思想とは、まさにそのような(事物の流れが間違っているという)ものです。彼らは、生成が思考の習慣に逆らい、言語の枠にうまく収まらないことから、大胆にもそれを非実在的なものと宣言し、空間的な運動も変化一般も全くの錯覚に過ぎない、と断じて憚りませんでした。彼らのうちの或る人は、前提は変えずに結論の過激さだけを緩和して、こう主張しました。確かに実在は変化する。が、本来それは変化すべきではないのだ、と。また別の人は次のように主張しました。経験はわれわれを生成に直面させるが、生成は感覚的な実在に過ぎない。それに対して叡智によってのみ捉えられる実在、すなわちあるべき実在は、生成という実在より実在的で、そのような実在的な実在は変化しない、と。いずれにしても、彼らの主張に従えば、質における生成、進化における生成、ひろがりにおける生成の奥に、精神は、変化に抗うもの、すなわち定義可能な質を、形相もしくは本質を、或いは目的を探さなければなりません。古代ギリシア時代を通じて発展した哲学、すなわち「形相」の哲学の根本原理、ギリシア語により近い言葉を用いて言えばイデアの哲学の根本原理とはこのようなものでした。

プラトンはイデアという言葉の代わりにエイドス(アリストテレスの哲学では形相という意味)という言葉を用いることもありましたが、エイドスという語には、実際三つの意味があります。一つは性質という意味であり、もう一つは形式もしくは本質という意味であり、もう一つは遂行されつつある行為の目的もしくは意図、具体的には前もって頭の中で思い描かれた当該行為の素描という意味です。この三つの観点はそれぞれ形容詞、名詞、動詞の観点を表しており、語の本質的な三つのカテゴリーに対応しています。先に述べたことに当て嵌めて考えると、わたしたちはこのエイドスという語を「外観」、或いは寧ろ「瞬間」と訳すことができるでしょうし、また実際にそう訳すべきでしょう。というのも、エイドスは事物の不安定性を瞬間的に捉えた安定的外観だからです。性質は生成の一瞬間であり、形態は進化の一瞬間です。また本質は平均的形態であって、この平均的形態の上方或いは下方に、平均的形態のバリエーションとして他の諸形態が段階的に並んでいます。そして最後に、意図は遂行されつつある行為に着想を与え、それを鼓舞します。先ほど述べたように、それは行為を遂行する前にその先回りをして得た当該行為の素描に他なりません。したがって事物をイデアに還元することは、生成をその主要な瞬間に分解することを意味します。もっとも古代ギリシアの哲学ではそれらの各瞬間は時間の法則を免れており、言わば永遠のうちに取り込まれるのですが。以上のことからもわかるように、実在の分析に知性の映画的メカニズムを適用するとき、わたしたちは自ずとイデアの哲学に辿り着きます。

ところで、流動する実在の根底に不動のイデアが据えられるや否や、そこから必然的に、自然学や宇宙論の全体のみならず神学の全体までもが生まれてきます。この点に注目してみましょう。わたしたちは古代ギリシア人の哲学のように複雑で広汎にわたる哲学を、わずか数ページのうちに要約できるとは思いません。一方で、折角知性の映画的メカニズムを明らかにしたのですから、このメカニズムの働きがどのような実在の表象に辿り着くのかを示すのは重要なことだと考えます。そして思うに、古代ギリシア哲学において見出される表象こそまさに映画的メカニズムの働きが辿り着く表象なのです。プラトンからアリストテレスを経て(また幾分かはストア派の哲学者達を経て)プロティノスに至るまで発展していった学説には、大局的に見て偶然的なものや偶発的なもの、哲学者の空想と看做さなければならないものは何もありません。普遍的な生成の流れから切れ切れに取り出されたイメージを通して生成を見るとき、体系を築くことに血道を上げている知性は生成について一つのヴィジョンを獲得しますが、古代ギリシアの学説が大雑把に描いているのはそうした種類のヴィジョンです。その意味で、わたしたちは今日なおギリシア人のようなやり方で哲学している、と言ってもあながち間違いではありません。思考の映画的本能をどれだけ信頼するかに正確に応じて、わたしたちはギリシア人が達した一般的な結論のあれこれを学ぶまでもなく再発見することになるでしょう。

(つづく)