画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(68)

2016-03-09 | 雑談
さて、人間が地球上に出現した時期はいつ頃まで遡るのでしょうか。仮にそれを、初めて武器や道具が作られたときとしてみましょう。ブーシェ・ド・ペルト(フランスの税関吏)がムーラン・キニョンの採石場で発見した石をめぐって巻き起こった歴史的論争は、わたしたちの記憶に新しいところです。論争の争点となったのは、発見されたのが本物の斧なのか、それとも形がたまたま斧に似ている火打石の破片に過ぎないのか、ということでした。しかし(どちらの説に与するにせよ)、発見されたのが本物の石斧であるならば、それが一つの知性、それも人間の知性の証しであることを疑う人は一人もいませんでした。他方、動物の知性に関する逸話集を繙いてみると、動物の行為の多くは模倣や自動的な連想によって説明がつくものの、そうした行為とは別に、迷わず知的と判断できるような行為も存在していることがわかります。その中で真っ先に目につくのは、製作に連なる思考を示す行為です。これには動物が自ら簡略な道具を製作する場合と、人間が製作した道具を自分のために使う場合があります。実際、知性という観点から人間のすぐ下に分類される動物、すなわちサルやゾウは、状況に応じて人為的な(もしくは自ら製作した)道具を使いこなすことができます。次に、サルやゾウの下位に、と言ってもそれほど離れていないところに位置するのが、製作されたものを識別する動物です。例えばキツネは、罠が罠であることをはっきりと認識しています。恐らく、推論があるところには知性も存在しています。ところで推論とは、過去の経験を現在の経験の方に屈折させることであり、発明の端緒となるものです。発明は製作された道具として具体的な形を取ったときに完成しますが、動物の知性が理想として目指しているのはまさにそうした発明の具体化に他なりません。そして通常の動物の知性は、道具の類いを作り出したり、それを利用する段階には達していないとしても、自然に賦与された本能に変化を加えることでその準備をしている、と言えるでしょう。人間の知性に話を戻すと、機械の発明こそ知性の本質的な歩みであったということ、今日においても、わたしたちの社会生活は(太古と変わらず)人為的な道具の製作とその使用を中心に営まれているということ、進歩の道標である発明は、同時に進歩の方向をも決定したということ、こういった点に十分な注意が払われていないように思われます。これらの点になかなか気付かないのは、たとえ道具が新たに発明されたとしても、ほとんどの場合、それから或る程度時間が経過しないとそれを使用する人間の方は変化しないからです。個人的な習慣は勿論、社会的な習慣さえ、その習慣の土台となった環境が変化した後も長く残存します。そのため或る発明の深い効果は、その発明の新しさが失われた後でなければはっきりとは見えてきません。例えば蒸気機関の発明から一世紀が過ぎた今、ようやくわたしたちはそれがもたらした深い衝撃を感じ始めたところです。この発明が産業界に起こした革命は、しかし(わたしたちがそれに気付くか気付かないかに関係なく)確実に人間関係を一変させました。事実、(遅まきながら)新しい思想が芽生え、新しい感情が開花しつつあります。戦争や革命といった出来事は、数千年後、それらが遠い過去のものとなり、最早その概略しか認められなくなったとき、仮に人々の記憶に残っていたとしても些細な出来事として片付けられる運命を免れないでしょうが、蒸気機関とそれに付随するあらゆる発明は、わたしたちが青銅器や打製石器について語るように人々に語られるでしょう。蒸気機関は、一つの時代を画するものとして歴史に刻まれるに違いありません。わたしたちがあらゆる思い上がりを捨て、また人類を定義するのに、先史時代と有史時代を通して人間と知性の不変の特徴と看做されるもののみに着目するならば、わたしたちは人類をホモ・サピエンスとは呼ばず、ホモ・ファベルと呼ぶでしょう。知性をその本来の歩みと思われる点から考察すると、知性とは取りも直さず、人為的なもの、特に道具を作るための道具を製作し、その製作を無際限に変化させる能力である、と言うことができます。

ところで、(昆虫に代表される)知的ならざる動物もわたしたちと同じように道具や機械を所有しているのでしょうか。確かに、所有しています。ただしそれらの動物においては、道具はそれを用いる身体の一部を形成しています。そしてその道具に対応して、それを使う術を心得ている一つの本能が存在します。もっとも、本能は必ずしもこの持って生まれた機械(器官)を利用する自然的な能力として定義されるわけではありません。そのような定義はロマネスが「二次的」と形容した本能には当て嵌まらないでしょうし、「一次的」本能にしても、すべてがこの定義に当て嵌まるわけではありません。とは言えこの定義は、わたしたちが先ほど知性に暫定的に与えた定義と同様、少なくとも、定義された対象の多数の形式が向かう理念的極限を示してくれます。本能の働きに関しては、その大部分は有機的組織化の働きそのものの延長であり、或いは寧ろその完成である、とこれまでしばしば指摘されてきました。実際、本能の働きがどこから始まり、自然の働きがどこで終わるのか、誰にも明言することはできません。幼虫が蛹に、蛹から成虫に変態する際、幼虫には適切な動作や或る種の自発性が少なからず要求されます。しかし動物の本能と、生命ある物質の有機的組織化の働きとの間に明確な境界が存在するわけではありません。本能が自分の用いる様々な道具を有機的組織化する、という言い方もできるでしょうし、有機的組織化の働きが器官を利用する本能に延長する、という風に言うこともできるでしょう。昆虫の驚くべき本能も、専らその身体の特殊な構造を様々な運動に展開することに没頭しています。そのため社会生活が仕事を分割して個体に振り分け、それぞれ異なる本能を個体に割り当てているような場合には、アリやミツバチ、スズメバチ、擬脈翅類などに見られる多形性という周知の事実が示すように、同一種であっても個体毎にそれぞれの本能に対応する構造上の差異が認められるほどです。このように、知性と本能が完全な勝利を収めていると思われる限界的な例に絞って考察すると、両者の本質的な差異が見えてきます。ここから本能と知性を、次のように定義することができるでしょう。完成された本能は有機的な道具を使用し、しかもそれを形成する能力である。一方、完成された知性は無機的な道具を製作し、使用する能力である。

本能と知性という、この二つの行動様式のそれぞれの長所と短所は一目瞭然です。まず本能は、手近なところに最適な道具を見つけることができます。この道具はひとりでに作られ、ひとりでに修復されます。またそれは自然が造ったすべての作品と同様、細部が無限に複雑であるにもかかわらず、機能は驚くほど単純です。それは要求された仕事を必要なときに、苦もなく、しばしば驚くほど完璧に、しかもたちどころにやってのけます。その代わり、この道具の構造は半永久的に維持され、ほとんど変化しません。何故なら、種が変化しない限り構造が変化することもないからです。本能は特定の対象に特定の道具しか使用しない以上、必然的に専門化されています。一方、知性によって製作された道具は(本能の用いる道具のように)完全なものではありません。それは努力と引き換えにしか手に入れることができず、一般に取り扱いが面倒です。その反面、それは無機物で出来ているので、どんな形にも成型することができ、どんな要求にも応じることができます。またそれは新たに生じるあらゆる困難な状況において動物を助け、無限の力を動物に賦与します。製作された道具は、切迫した欲求を満足させるという点では自然の道具に劣りますが、欲求が切迫したものではなくなればなくなるほど自然の道具に勝るようになります。特に強調したいのは、この道具はそれを製作した動物の本性に反作用を及ぼすということです。というのも、製作された道具は、自然によって形成された有機体を延長する人為的な器官であり、製作者に新たな機能を果たさせることで、言わばより豊かな有機的組織を提供するからです。この道具は欲求を一つ満足させる毎に、別の新たな欲求を生み出します。そういうわけで、本能が行動範囲を限定し、動物はその閉じた円環の中で機械的に行動させられているのに反して、知性によって製作された道具は製作者の行動に無限の空間を開き、行動を徐々に遠くまで推し進めるとともに、徐々に自由なものたらしめます。もっとも、本能に対する知性のこの優位性は後になってから、すなわち、知性が製作をより高度なものに高め、製作のための機械の製作が可能になった時に初めて現れるに過ぎません。当初は製作された道具と自然の道具との長所と短所は均衡していたので、どちらが自然に対するより広大な支配権を動物に保証してくれるのか、その時点ではまだ決まっていなかったのです。

以上のことから、(本能と知性の発生と発達に関して)次のように推測することができます。知性と本能は当初相互に浸透し合っており、原初状態における心的活動は双方の性質を併せ持っていました。それゆえ十分に遠い過去に遡れば、現在の昆虫の本能よりも知性に近い本能や、現在の脊椎動物の知性よりも本能に類似した知性が見つかるに違いありません。もっともこの原初的な本能と知性は未だ物質の虜になっており、それを支配するまでには至っていなかったと考えられます。もし生命に内在する力が無限のものであるなら、同じ有機体の中で本能と知性を無際限に発達させることもできたかも知れませんが、あらゆる事実が、この力が有限なものであること、外部に発現するとすぐに尽きてしまうことを示しています。そこでこの力は、一つの選択をしなければなりませんでした。というのも、限られた力で同時に複数の方向に進むのは困難だったからです。ところで生まの物質に働きかけるには二つの方法があり、この力はそのうちのいずれか一つを選択することができます。まず、この力は有機的組織化された道具を作り、その道具で仕事をすることによって、物質に直接的に働きかけることができます。次に、この力は必要な道具を有機体に自然に備えさせる代わりに、その有機体が自ら無機的な物質を加工し、道具を製作するよう仕向けることによって、物質に間接的に働きかけることもできます。こうして生まれたのが、知性と本能です。それらは発達するにつれて徐々に分離しなければなりませんでしたが、完全に分離したわけではありません。事実、一方において、昆虫の最も完成された本能さえ、営巣の場所や時期、材料を選択する場合に限られるとは言え、知性の微かな光を伴っていることがあります。ミツバチが何らかの事情で例外的に戸外に巣を作る場合、この新しい条件に適応するために、ミツバチは独創的で真に知的な装置を発明します。また他方において、知性は、本能が知性を必要とする以上に本能を必要とします。何故なら、生まの物質を加工するためには動物の有機的組織が一定以上の段階に達していなければならず、そこまで上昇するためには本能の翼を借りなければならないからです。そのため自然は、節足動物では脇目もふらず本能の方向に進化したのに対して、ほとんどすべての脊椎動物では、知性の開花と言うより寧ろ知性の探求とも言うべき光景が展開されます。脊椎動物の心的活動の基盤を形作っているのは他の動物と同じく本能であり、知性はその傍らで本能に取って代わる手段を模索している、という風に言えるかも知れません。この知性はまだ道具を発明するには至っていないものの、本能を主題とするあらゆる種類の変奏曲を奏でながら、本能なしで済ませるためにどうにかして道具を発明しようと試みます。人間に至って初めて、知性は完全に自己を自家薬籠中のものにします。人間には敵や寒さや飢えから身を守るための自然的手段が不足しているという事実が、逆に知性のこの勝利(自立)を証明しています。この自然的手段の不足は、わたしたちがその意味を明らかにしようとするとき、先史時代の資料としての価値を持ってきます。この事実は、本能が知性から決定的な解雇通告を受け取ったという証しなのです。しかしそういう事情はともかく、自然はこの二つの行動様式のどちらを選ぶか迷ったに違いありません。一方では直接的な成功が保証されている反面、得られる成果には限界があります。もう一方では成功する保証はない代わりに、自立することができれば勢力範囲を無限に拡張することができます。いずれにせよ、ここでもまた、より大きな成功はより大きな危険を冒した者にもたらされました。以上のような(生まの物質にどのように働きかけるかという)観点からすると、本能と知性は方向を異にするとは言え、同じ問題に対する二つの解答であり、どちらも極めて巧みな方法で解かれた申し分のない解答と言えます。

この解法の違いから、知性と本能との間に内的構造上の様々な深い差異が生じてきます。それらの差異のうち、目下の問題と関係のあるものに的を絞って話を進めましょう。そこで、知性と本能には根本的に異なる二種類の知識が含まれている、ということを次に示したいと思います。しかしその前に、まず意識一般について幾つかの点を明らかにして置かなければなりません。

本能がどこまで意識的なものであるかということについては、これまでにも議論の的となってきました。わたしたちとしては、そこには様々な差異と程度があり、本能は様々な程度で意識的であることもあれば、無意識的であることもある、と答えましょう。後述するように、植物には本能がありますが、植物において本能が感情や感覚を伴うとはまず考えられません。動物の複雑な本能でさえ、それが働くすべての過程において全く無意識的とならないような本能はほとんど見当たりません。しかしここで、これまでほとんど注目されたことのない二種類の無意識の違いを認識して置く必要があります。一つはもともと意識がないという意味での無意識であり、もう一つは意識が無効化されたことを意味する無意識です。もともと意識がない場合も、意識が無効になった場合も、意識がゼロであることには変わりがありません。しかし第一のゼロが何も存在していないことを意味しているのに対して、第二のゼロは、逆方向の二つの等しい量が相殺し合い、中和していることを意味しています。落下する石が無意識であるのは、もともと石には意識がないからです。石は自分が落下することに何の感情も持ちません。では本能が無意識的であるような極限的な場合、この無意識に関しても石の場合と事情は同じなのでしょうか。例えばわたしたちが習慣的な行動を機械的に行ったり、夢遊病者が自分の見ている夢を実演するとき、無意識は絶対的なものとなり得ます。しかしこの場合の無意識は、行為の表象が、行為そのものの遂行によって妨げられることに起因しています。行為と表象との類似が完全で、行為が表象にぴったりと(栓をしたように)嵌まり込んでいるために、意識は最早溢れ出ることができないのです。つまりこのとき、表象は行動によって栓をされている、と言えるでしょう。その証拠に、行為の遂行が何らかの障害によって阻害され邪魔されると、先のような場合でも意識が顔を覗かせることがあります。したがって意識は確かにそこに存在しており、行動が表象を満たすことで中和されているに過ぎない、と言えます。障害が行為の遂行を妨げるとき、障害は何か積極的なものを生み出すわけではありません。それは単に一つの空虚を作り出すに過ぎず、(意識の出口を塞いでいる行動という)栓を抜くに過ぎません。行為と表象とのこの不相応こそ、わたしたちが意識と呼んでいるものに他なりません。

この点を突き詰めて考えると、意識とは、生物によって実際に行われる行動の周囲を取り囲んでいる可能的行動の地帯、もしくは潜在的行動の地帯に内在する光のごときものである、ということがわかるでしょう。意識とは、躊躇或いは選択です。多くの行動が等しく可能なものとして素描されながら、実際の運動に至らない場合(例えばあれこれ思い悩んで決心がつかないような場合)、意識は強くなります。実際に行われた行動が唯一可能な行動である場合(例えば夢遊病者の行動や、もっと一般的な言い方をすれば自動的行動の場合)、意識はゼロになります。とは言え意識がゼロになる後者の場合でも、組織化された運動の全体がそこには存在し、最初の運動のうちに既に最後の運動が素描されていること、さらに何らかの障害にぶつかった場合、そこから意識が湧出し得ることが確かである以上、表象や認識は厳として存在します。こうした観点からすると、生物の意識は、潜在的行動と実際の行動との算術的な差として定義することができます。意識とは表象と行動との隔たりを測る尺度と言えるでしょう。

上記のことから、知性はどちらかと言えば意識の方に向かう傾きがあり、本能は無意識の方に向かう傾きがある、と推測することができます。本能が無意識に陥りがちなのは、本能の用いる道具は自然によって有機的に組織され、道具の適用対象が自然によって提供され、獲得すべき結果も自然によって定められているために、選択の余地がほとんど残されていないからです。それゆえ本能において表象に内在する意識は、現れようとする度に、表象と同一でそれと釣り合いの取れた行為が遂行されることで相殺されてしまいます。仮に意識が現れることがあるとしても、それが照らし出すのは本能そのものではなく、本能の受ける種々の抵抗です。言い換えると、意識となるのは本能におけるマイナス部分(空虚・穴・欠落)であり、行為と観念とを隔てている距離なのです。したがって本能においては、意識は一つの偶発事でしかありません。意識が本質的に強調するのは、本能の最初の一歩、すなわち一連の自動的運動全体を始動させる最初のプロセスでしかありません。一方、知性にとってこの欠損は常態です。抵抗を受けるのは、知性の本質そのものでさえあります。無機的な道具を製作することを原初的機能とする知性は、製作する場所と時期、道具の形式と素材を、幾多の困難の中で選択しなければなりません。そしてどんな選択をしようと、知性が完全に満足することはありません。何故なら新たに得られた満足は、常に新しい欲求を生み出すからです。そういうわけで、本能も知性もどちらも認識を含んでいるのは間違いないとしても、本能においては認識は演じられるものであり、無意識的であるのに対して、知性においては認識は思考されるものであり、意識的であると言うことができるでしょう。もっともこの違いは本性の差異と言うよりも、寧ろ程度の差異に過ぎません。意識にばかり気を取られていると、心理学的に見て知性と本能との主要な差異は何か、ということを見落とす恐れがあります。

両者の本質的な差異を見つけるためには、様々な明度の光によって照らし出されている本能と知性というこの二形式の内的活動に余り拘泥せず、それらの適用対象である二つの対象、根本的に異なる二つの対象に真っ直ぐ向かっていかなければなりません。

ウマバエが馬の脚や肩に卵を産み付けるとき、このハエは脚や肩で孵化した幼虫が、馬が体を舐める際に消化管に運ばれること、そして馬の胃の中で成長することを知っているかのように見えます。また神経中枢の位置する箇所を刺して獲物を麻痺させる膜翅類の昆虫は、腕利きの外科医のようでもあり、(獲物の体の構造を熟知した)博識な昆虫学者のようでもあります。ところで、(その博識さが)しばしば話題となったシタリスという小さな甲虫ほど何でも知っている昆虫が他にいるでしょうか。この鞘翅類の昆虫は、ミツバチの一種アントフォラが地下に作った巣穴の入口に卵を産み付けます。孵化したシタリスの幼虫は巣穴の入口でアントフォラを辛抱強く待ち伏せし、出てきた雄のアントフォラの体にしがみつきます。そのまま雄の体で過ごした後、「ハネムーン飛行」(繁殖期に巣から飛び立つこと)でアントフォラが交尾している隙に雄の体から雌の体に移動します。そこで産卵の時期をじっと待ち、産卵が始まると今度は(蜂蜜に浸っている)卵に飛び移ります。(浮き輪のように)自分の体を支えてくれる卵を数日で食べ尽くした幼虫は、食べ終えた卵の殻の上に身を落ち着けて最初の変態を迎えます。そうして蜂蜜の表面に浮かぶことができるまでに成長すると、この備蓄された養分(蜂蜜)を消費しながら蛹となり、成虫となります。あたかもシタリスの幼虫は、アントフォラの雄が巣穴から出てくること、ハネムーン飛行が雌に移る機会を与えてくれること、雌は蜂蜜の貯蔵庫に連れて行ってくれること、かくして変態してからの食料には不自由しないこと、変態するまでの間は、卵を少しずつ食べれば栄養を摂りつつ蜂蜜の表面で浮かんでいることができ、同時に卵から生まれる筈だったライバルを抹殺できること、これらのことを孵化したときからすべて知っているかのようであり、またシタリス自身、幼虫がそれを知っていることを知っているかのようです。仮にそこに認識があるとしても、それは暗黙の認識でしかないかも知れません。この認識は内面化して意識となる代わりに、外面化して正確な行動となります。しかしたとえ暗黙のものであるにせよ、昆虫の行動は、特定の瞬間、特定の場所において、特定の事象が存在し、或いは生じることを表象として素描しています。昆虫は学んだことがなくとも、それらのことを知っているのです。
(この段落に出てくるシタリスとアントフォラについては、竹内訳「創造的進化」の訳注が参考になるのでそのまま引用します。
「シタリス」(Sitaris)は、〈マルハナバチヤドリゲンセイ〉のことで、ツチバンミョウの仲間(本項、奥本大三郎氏の教示による)。
「アントフォラ」(Anthophora)は〈シジハナバチ〉のことで、ハナバミの一種。ベルクソンが書いているように「〈ミツバチ〉の一種」ではない(『昆虫記』第2巻に出ている)(本項、奥本大三郎氏の教示による)。)

一方、同じ観点から知性を検討すると、知性もまた、かつて学んだことがないのに或るものを知っていることに気付かされます。ただしそれは、本能の認識とは全く種類の異なる認識です。わたしたちはここで、生得性をめぐって哲学者の間で繰り広げられた古い論争を蒸し返すつもりはありません。ここではただ、誰もが認めざるを得ない次のこと、すなわち、幼児は動物が決して理解することのない或るものを直ちに理解する、ということを指摘するにとどめましょう。この意味で、知性は本能と同じく遺伝する機能であり、したがって生得的な機能と言えます。もっともこの生得的知性は、一つの認識能力には違いないにせよ、個々の対象については何も知りません。初めて授乳される生まれたばかりの乳児が乳房を求めるとき、この乳児はまだ見たことのないものを(恐らく無意識的に)認識している、ということを身をもって証明しています。しかし乳児に見られるこの生得的な認識は或る決まった対象(乳房)の認識であるがゆえに、それは知性に属する認識ではなく、本能に属する認識と考えるのが妥当です。それゆえ(もう一度繰り返すと)、知性はいかなる対象についても生得的な認識をもたらしません。しかし知性が生まれつき何も認識しないのであれば、知性には生得的なものは何もない、ということになってしまいます。ではこのようにあらゆる事物について無知である知性は、一体何を認識すると言うのでしょうか。――事物以外に、関係があります。生まれたばかりの乳児は、なるほど、特定の対象について、また或る対象の特定の性質について何も知りません。ところが乳児の前で、或る対象に或る性質を、或る名詞に或る形容詞を対応させて(関連付けて)みせると、乳児はすぐさまその意味を理解します。してみると知性は、主語と属詞との関係を生まれつき把握している、ということになるでしょう。動詞が表現する一般的な関係についても同じことが言えます。精神はこの関係を直接的に理解するので、動詞を持たない原始的な言語においてしばしば見られるように、言語はこの関係をわざわざ口にしなくとも暗示することができる(言わずに済ますこともできる)ほどです。したがって知性は、或るものと或るものとの等価関係、含まれるものと含むものとの関係、原因と結果との関係など、それが明示されているかそれとも単に暗示されているかにかかわりなく、主語、属詞、動詞で構成されるあらゆる文章に含まれる関係を自然に把握し、使いこなすことができます。知性はそれらの関係の各々について、個別的に生得的な認識を持っている、と言えるでしょうか。さらに、それらの関係は、還元不可能な関係なのでしょうか、それとももっと一般的な関係に還元することができるのでしょうか、そういった問題を考えるのは論理学者の仕事です。しかしどんな方法で思考を分析するにしろ、わたしたちは常に一つもしくは幾つかの一般的な枠に辿り着きます。精神はその枠を自然に用いることができる以上、それについて生得的な認識を持っています。そこで、次のように言うことができるでしょう。本能と知性が内に含む生得的な認識を検討すると、生得的な認識は、本能では事物にかかわり、知性では関係にかかわる、と結論することができる。

哲学者は、認識の素材(質料)と形式とを区別します。素材とは、生まの知覚能力によって与えられるものです。形式とは、体系的な認識を構成するために、それらの素材の間に打ち立てられる関係の総体です。素材を伴わない形式は、果たしてそれ単独で認識の対象となり得るでしょうか。勿論、なり得ます。ただしこの認識は、わたしたちの所有物と言うよりわたしたちの身に付いた習慣のようなものであり、状態と言うより傾向と言うべきものです。何なら、この認識はわたしたちの注意に備わった癖のようなものだと言っても構いません。例えば小学生は分数の書き取りをさせられることがわかると、分子、分母の値を知る前から横線を引いて待ち構えます。したがってその生徒は、それら二つの項のいずれも知らないのに、両者の一般的な関係を思い浮かべていることになります。生徒は素材のない形式を認識しているのです。同様に知性は、あらゆる経験に先立つ枠(下記参照)、そこにわたしたちの経験が嵌め込まれる枠を認識します。そういうわけで、素材と形式という、慣用され定着しているこの二つの用語を取り入れ、知性と本能との区別を次のようなより正確な定式で表すことにしましょう。知性は、その生得的な部分では形式に関する認識であり、本能は素材の認識を含んでいる。
(この種の枠の具体例として、「物質と記憶」の運動図式、「知的な努力」の動的図式が挙げられます。また、「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」に出てくる「経験以前に、経験を可能にする諸条件が存在する。現象の多様性の上に、精神の綜合的努力が存在する」という言葉の意味も、この「あらゆる経験に先立つ枠」という表現から読み取ることができます)

この第二の観点、すなわち行動の観点ではなく認識の観点からしても、生命一般に内在する力はやはり一つの限定された原理であるように思われます。この原理のうちでは、二つの異なる認識方法、(同一の根から)分岐した二つの認識方法が当初共存し、相互に浸透し合っています。第一の認識は、特定の対象の素材そのものを直接捉えます。それは「ここにこれがある」と断言します。第二の認識は、どんな特定の対象をも捉えることができません。それは或る対象を別の対象に、或る部分を別の部分に、或る観点を別の観点に関連付ける自然的な能力、つまり手にした前提から結論を引き出し、既知のものから未知のものへと移行する自然的な能力に他なりません。この認識は、最早「これがある」とは断言しません。それが口にするのは、単に、もし条件がこれこれであるならば、条件付けられたものはこれこれになるだろう、ということです。つまり本能的な性質を持つ第一の認識は、哲学者が定言的命題と呼んでいるものによって定式化されるのに対して、知性的な性質を持つ第二の認識は、常に仮言的に表現されます。この二つの能力のうち、初めは第一の能力の方が第二の能力よりずっと好ましいように思えます。もし第一の能力がその対象を無際限に拡張できるのであれば、確かにその通りだったかも知れません。しかし実際には、第一の能力は或る特殊な対象、それもその対象の限られた部分以外に適用されることは決してありません。この能力は、少なくともそうした対象に関する限り、内的で完璧な認識を有します。それは表面に現れる認識ではなく、遂行される行為のうちに含まれる認識です。これに対して、第二の能力に備わっているのは、外的で空虚な認識でしかありません。しかしまさにそのために、第二の能力は、無限の対象が代わる代わる挿入される枠を提供できる利点を持ちます。諸々の生命の形態を貫いて進化する力は一つの限られた力であるがゆえに、自然的、すなわち生得的な認識の領域においては、二種類の制限、一方は外延の制限、他方は内包の制限のいずれかを甘受しなければならなかったかのように見えます。前者の場合、認識は充実した完璧なものとなり得る代わりに、特定の対象に限定されます。後者の場合、認識は最早特定の対象に限定されませんが、それはこの認識が内容のない形式の認識に過ぎず、何も含んでいないからです。当初相互に浸透し合っていたこの二つの傾向は、成長するために分離しなければなりませんでした。それらはめいめい成功を夢見て世界に飛び立ち、最終的に本能と知性に辿り着いたのです。

行動の観点ではなく認識の観点から見た場合、知性と本能は、以上のような分岐した二つの認識様式によって定義されます。とは言え認識と行動は、同一の能力の二つの側面に過ぎません。実際、第二の定義が、第一の定義を別の形に書き換えたものに過ぎないことを見て取るのは難しいことではありません。

本能が何よりもまず有機的に組織された自然の道具を用いる能力であるならば、当然それは、その道具についても、それが適用される対象についても、生得的な認識(潜在的、もしくは無意識的なものではあるにせよ)を含んでいなければなりません。それゆえ認識の観点から言えば、本能とは事物についての生得的な認識であることになります。一方、知性は無機的な、すなわち人為的な道具を製作する能力です。もし自然が、或る生物が知性を有するがゆえにその生物に有用な道具を賦与しなかったとすれば、それはひとえにその生物が環境に応じて製作を変化させることができるよう仕向けるためでしかありません。したがって、どんな環境においても困難を切り抜ける手段を見極めるのが知性本来の機能であると言うことができます。そこで知性は、最も役に立つものを、つまり提示された枠に最もうまく嵌まるものを探求することになるでしょう。知性の機能は、本質的に、所与の環境とそれを利用する手段との関係に向かうことになるでしょう。知性の機能に生得的に備わっているのは、まさにそういった諸々の関係を打ち立てようとする傾向に他なりません。この傾向のうちには、極めて一般的な諸関係についての自然的な認識が含まれており、一般的な諸関係という文字通りのこの生地(素材)を、個々の知性に特有の活動がより個別的な関係に裁断します。それゆえこの活動が製作に向かうとき、認識は必然的に関係に向かいます。ところで、知性のこの全く形式的な認識は、本能の素材的な認識に比べ計り知れない利点を持っています。形式はまさに空虚なものであるがゆえに、仮にそれが何の役にも立たない事物であっても、数限りない事物で、代わる代わる、好きなようにその形式を満たすことができます。そのため、形式的な認識は実用を目的として生み出されたものだとしても、実用的なものに対象が限定されているわけではありません。知的存在は、自己自身を超越するための手段を自分のうちに蔵しているのです。

もっとも、この知的存在は自分が望むほど、或いは自分が考えているほど自己を乗り越えることはできないでしょう。知性の性格は純粋に形式的であるために、思弁にとって最も探求し甲斐のある対象のうちに身を置くのに必要な底荷が欠けているのです。逆に本能は、望み通りの素材を手にすることができますが、対象を遠くまで探しにいく能力を欠いています。本能は思索しません。わたしたちはここで、この研究にとって最も興味深い点に触れることになります。以下に示す本能と知性との差異こそ、これまでわたしたちが(本能と知性についての)分析によって抽出しようとしていたものだと言っても過言ではありません。わたしたちはそれを次のように定式化することにしましょう。――知性だけが探求し得る事物が存在するが、知性は独力でそれを見つけることは決してできないだろう。それを見つけることができるのは本能だけである。しかし、本能はそれを探求することは決してないだろう。

(つづく)

「ジェノサイド」(67)

2016-03-09 | 雑談
●動物性の発達

まず銘記して置かなければならないのは、有機的世界を貫いて進化する力は一つの限られた力である、ということです。この力は常に自己自身を乗り越えようとしますが、生み出そうとする成果には常にあと一歩のところで手が届きません。極端な目的論者の誤りと浅慮は、この点に関する誤解に起因しています。彼らは生物界全体を、一つの構築物、わたしたちが構築するものと類似した一つの構築物として表象し、機械のすべての部品は、機械ができるだけうまく機能するように配置されている、と考えます。彼らの考えによれば、一つ一つの種は各々その存在理由や機能、使命を持ち、それらが一体となって壮大な交響曲を奏でています。仮に耳障りに聞こえる音があったとしても、それは根本にあるハーモニーを際立たせるものでしかありません。要するに、自然界の過程も一人の天才の創作の過程と同じであり、得られる成果は確かに限られているかも知れないが、少なくとも制作されたものと制作する働きとの間には完全な対応関係がある、と彼らは考えます。

しかし実際には、生命の進化には目的論者の思い描いているようなものは何もありません。そこではなされた仕事と、その成果とが驚くほど釣り合っていません。有機的世界には、低いところから高いところに至るまで常に一つの大きな努力が存在していますが、この努力は多くの場合、途中で行き詰まってしまいます。それは或るときは反対の力に麻痺させられ、或るときは目先のことに気を取られているうちに、本来なすべきことを見失ってしまいます。言い換えると、一つの形態を取ることに専念する余り、あたかも鏡に映った自分の姿に見惚れるかのように、その形態そのものに心を奪われるのです。この努力が非の打ち所のない作品を作り上げ、外界の抵抗や自分自身の抵抗に打ち勝ったように見えるときでさえ、それは自分が作り上げざるを得なかった物質性に支配されてしまいます。今述べたことは、誰でも自分自身で体験できることです。例えばわたしたちの自由は、それが運動そのものとして現れるそばから習慣を作り出します。もし不断の努力によって自己を新たにしなかったならば、自由は自分が作り出した習慣に(覆い尽くされ)窒息させられてしまうでしょう。機械的な自動性が、自由に取って代わろうとその隙を窺っています。どんなに生き生きとした思想であっても、言葉として表現されてもなお凍り付かないでいられるような思想は存在しません。言葉は観念を裏切り、文字は精神を殺します。どんなに熱い情熱も行動となって外在化すると、半ば当然のごとく利害関係や虚栄心に基づく冷たい打算と化してしまいます。情熱は余りにも容易く打算と化し、打算は余りにも易々と情熱という形式を取るので、もし死者(打算)が暫くの間は生者(情熱)の面影をとどめているものだということを知らなかったならば、わたしたちは情熱と打算とを混同し、自分自身の誠実さを疑い、善意や愛を否定することになったかも知れません。

このような不調和の深い原因は、(次のような)如何ともし難いリズムの相違にあります。生命一般は、運動そのものです。ところが生命の個々の現れは不承不承にしかこの運動を受け入れることができず、常にこの運動に遅れを取っています。生命一般は絶えず前進してやまないのに対して、生命の個々の現れはややもすると足踏みしがちです。進化一般はできるだけ直線的に進もうとするのに反し、個別的な進化の過程は円を描きます。生物は、つむじ風に巻き上げられ渦を巻いて舞う塵埃のように、生命の大いなる息吹に煽られその場でくるくると回転しているのです。このため生物はその場からほとんど動くことがなく、極めて巧みに不動性を装いさえするので、わたしたちは生物の形態の恒常性そのものが一つの運動の素描に他ならないことを忘れてしまい、生物を進展として取り扱うのではなく、事物として取り扱います。もっとも、生物を運んでいる目に見えない息吹が時として物質化し、束の間のこととは言えわたしたちの前に姿を見せることもないわけではありません。例えば生物が見せる或る種の母性愛に接したとき、わたしたちは卒然とその息吹を感じ取ります。ほとんどの動物に見られるこの母性愛、極めて印象的で、わたしたちの心を動かすこの母性愛は、種子に対する植物の配慮のうちにも認めることができます。何人かの思想家がそこに生命の深い神秘を見て取ったこの愛は、恐らく生命の秘密を明かしてくれる一つの啓示となるに違いありません。この愛がわたしたちに明かしてくれるのは、どの世代も次の世代のことを思い遣っている、ということです。生物とは何よりもまず一つの(生命の)通路であり、生命の本質は自らを伝える運動にある、ということをこの愛は暗黙のうちにわたしたちに教えてくれます。

(母性愛は別として)、生命一般とその諸形態としての現れとの間に見られる以上のような対照は、至る所で観察することができます。生命が可能な限り行動しよう(物質に働きかけよう)とするのに対し、個々の種は極力努力せずに済ませようとします。生命をその本質そのものにおいて、つまり種から種への移行として捉えるなら、生命とは絶えず増大していく一つの行動ですが、生命の通路としての個々の種は、自分に都合のよいもののみを目指し、最も苦労せずに済む方向に向かいます。それら個々の種は自分がこれから取ろうとする形態に心を奪われて半睡状態に陥り、自分以外の生命についてはほとんど何も知らずに過ごします。またそれらは、身近にあるものをできるだけ容易に利用できるように自己を形成します。このように、生命が新しい形態を創造しようとする行為と、その形態が姿を現す行為とは全く別の運動であり、しばしば対立する運動でさえあります。後者は前者が延長したものですが、延長されるに際して元の方向から注意を逸らさずにはいられません。ちょうど障害物を飛び越えようとする人が跳躍した瞬間、障害物から視線を逸らし、自分自身に意識を向けざるを得ないように。

生命を有する形態は、定義そのものから言って、生存することのできる形態です。有機体が生存条件に適応していることをどんな風に説明するにせよ、種が存続している以上、その有機体は例外なく完璧に生存条件に適応している、と言うことができます。古生物学者や動物学者によって記述された種の各々、次々に生まれた種の各々は、この意味で、生命が勝ち取った一つの成功に他なりません。しかしそれぞれの種を、それが嵌め込まれた諸条件と突き合わせるのではなく、それを道の途中で置き去りにしていった運動と突き合わせると、事態は全く別の様相を呈してきます。この運動はたびたび元の道から逸脱し、突然立ち止まることも珍しくはありませんでした。一つの通路でしかなかったものが、一つの終着点となったのです。この新しい観点からすると、失敗が普通で、成功は例外的で常に不完全な形でしかもたらされないように思えます。この後述べるように、動物的生命が向かった四つの主な方向のうち、二つ(棘皮動物・軟体動物)は行き止まりで、残る二つ(節足動物・脊椎動物)の方向においても、努力は概してその成果に釣り合っていませんでした。

この(動物的生命の進展の)歴史を詳細にわたって再構成するには資料が不足しています。とは言えその主な系統を見分けるのは難しいことではありません。既に述べたように、動物と植物は両者に共通の根から早期の段階で分離しなければなりませんでした。その結果、植物は不動性のうちに眠り込んだのに対して、動物は徐々に目を覚まし、神経系を獲得すべく前進を始めます。動物界の努力が当初作り出した有機体は、恐らくまだ単純なものでしかなかったでしょうが、或る種の動性を備えていたと考えられます。そして何よりも特筆すべき点は、それらの形態は未来のいかなる限定にも対応できるほど可塑性に富んでいた、ということでしょう。それらの動物は、外見上は、現在わたしたちが目にしている或る種の蠕虫(ミミズなど)に似ていたかも知れません。もっとも棘皮動物、軟体動物、節足動物、脊椎動物の共通の祖先であったそれらの形態が無限に可塑的で、無限の未来を孕んでいたのに引き換え、現在生き残っている蠕虫はそうした形態の空疎で凝固した標本に過ぎない、という点で両者は似て非なるものです。

それらの(無限の可能性を秘めた)動物を、一つの危険、動物的生命の飛躍を危うく阻止しかねない一つの障害が待ち受けていました。古生代の動物相を見渡すと、驚かずにはいられない一つの特異な点があることに気付かされます。それは、動物が多かれ少なかれ硬い外皮に閉じ込められていた、ということです。そうした外皮は動物の運動を妨げ、しばしば動物を麻痺させたに違いありません。まず軟体動物に目をやると、現在の軟体動物に比べ殻を持つものが多い点が目につきます。節足動物は一般に甲殻に覆われており、(昆虫類はまだ生まれておらず)甲殻類が大半を占めていました。また最古の魚類は、極めて硬い骨質の外皮を身に纏っていました。(古生代に)広く一般に見られるこの現象は、身体の軟らかい有機体が、できるだけ自分を捕食されづらいものにすることで他の動物から身を守ろうとする傾向を持っていた、ということによって説明することができます。各々の種は自己を形成するに際し、自分に最も都合のよい方向に向かうものです。原始的な有機体の中には、無機物から有機物を作り出すことを断念して動物的生命の方向に進路を取り、既に植物的生命への方向転換を果たしていた有機体から既成の有機物を摂取するものがありました。同様に、動物種の多くは他の動物を獲物にして生きる準備に取り掛かります。動物という有機体、すなわち動的な有機体は、実際、自分の持つ可動性を利用して無防備な動物を探しに行き、植物を餌にするのと同じようにそれらの動物を餌にすることができます。こうして動物種はますます動的に、それとともにますます貪婪になり、お互いにとって危険な存在となったに違いありません。そして動物種がお互いから身を守ろうとした結果、動物界全体は自らをより高い可動性へと導いた進化の途上で、突如その歩みを止めざるを得なくなった、と考えられます。何故なら、棘皮動物の硬い石灰質の皮膚、軟体動物の殻、甲殻動物の甲殻、古代の魚類の硬鱗など、動物が身を隠した鎧、敵となる種から身を守る動物種の努力を共通の起源に持つこれらの鎧は、動物の運動の足枷となり、ときには動物を身動きできない状態に陥らせることになったからです。植物がセルロースの膜で自らを覆うことによって意識を放棄したように、それらの要塞や甲冑に閉じ籠もった動物もまた半睡状態に陥らざるを得ませんでした。棘皮動物や軟体動物は、今日においても依然そうした麻痺状態の中で生きています。節足動物と脊椎動物も、それと同じ危険に晒されていたことは疑いありません。しかし両者は、その危機を脱することに成功します。生命の最高の諸形態が現在のように花開いたのは、この幸運な出来事のお蔭と言って差し支えありません。

事実、種を運動性へと押しやる生命の推進力が、二つの方向において再び高まるのが見られます。例えば魚類(脊椎動物)は、その硬鱗の鎧を鱗に取り替えます。それより遥か以前、祖先を守ってきた鎧を脱ぎ捨てた一部の節足動物は昆虫として姿を現していました。両者はいずれも、身を守る外皮の不十分さを敏捷性によって補い、それによって敵を避けるだけでなく、攻撃し、戦闘の場所と時期を選ぶことができるようになります。人間の武装の発達にも、これと同じ種類の進歩を見て取ることができます。進歩の第一段階は、身を隠す場所(防御装備)の工夫です。進歩の第二段階は、逃げるために、そして何よりも攻撃するために――攻撃こそ最も効果的な防御手段であることは昔も今も変わりません――できるだけ柔軟に動けるようにすることです。そういうわけで、古代ギリシアの重装歩兵は古代ローマの軍団兵に取って代わられ、甲冑を身に纏った騎士は自由に身動きできる歩兵に席を譲らなければなりませんでした。人間社会の進化においても、或いは個人の生涯における運命の変遷においても、通常、最大の成功は最大の危険を冒した者に与えられますが、それは生命全体の進化においても例外ではありません。

したがって(鎧を脱いで)身軽になることは、動物にとって紛れもなく利益となります。そして適応一般について述べたように、種の変化を、それぞれの種の個別的な利益によって説明することは確かに可能でしょう。それによって、変異の直接的な原因を特定することができます。しかしそのようにして得られるのは、多くの場合、変異の最も皮相な原因でしかありません。変異の真の原因は、生命をこの世界に放った推進力です。この推進力は、生命を植物と動物とに分裂させ、動物性を柔軟な形態へと至らせます。そして今また、あわや微睡みに落ちようする動物界を、或る時期に、少なくとも幾つかの点で目覚めさせ、前進させたのもこの推進力に他なりません。

脊椎動物と節足動物がそれぞれ独自の進化を遂げた二つの道では、(寄生や、寄生以外の多種多様な原因による退化を除くと)、発達とは何よりもまず感覚・運動神経系の進歩を意味します。そこで求められるのは運動性や柔軟性であり、運動の多様性です(ただし当初は運動の量と単純な強さが無闇に追求されがちで、運動の多様性の獲得には様々な試行錯誤が必要でした)。さらにその探究自体、(一方向だけではなく)様々な方向で行われた、ということを付け加えて置かなければなりません。節足動物の神経系と脊椎動物の神経系とを見比べると、同じ神経系でも違いがあることに気付かされます。節足動物では、一連の環(体節)が連なって様々な長さの体を形作っており、運動機能はそれぞれの体節に付属している付属肢に分散しています。付属肢の数はまちまちで、中にはかなり多くの付属肢を有するものもありますが、どの付属肢もその役割は決まっています。他方、脊椎動物では行動性は専ら四肢に集中しています。またそれらの器官(四肢)の機能は節足動物の場合とは違い、形態に余り依存していません。人間の手に至ると機能は形態から完全に独立し、どんな作業でもこなすことができるようになります。

以上が、少なくとも目に見えるものから読み取れることです。しかし目に見えるものの背後に、透けて見えるものがあります。それは生命に内在する二つの力、当初融合していたものの、成長するとともに(本能と知性とに)分離しなければならなかった二つの力です。

この二つの力を定義するためには、節足動物と脊椎動物において、それぞれの進化の頂点に位置する種を検討しなければなりません。その頂点を、どうやって見極めたらよいのでしょうか。ここでも、幾何学的な正確さに拘ると道を誤ることになります。同じ進化系統の上で、或る種が別の種より進化していることをひと目見ただけで識別できるような単純な目印は存在しません。わたしたちが参照できるのは様々な特徴だけであり、それらの特徴がどこまで本質的なものか、逆にどこまで偶然的なものか、どの程度までそれを考慮に入れればよいか、ということを知るためには、それらの特徴を相互に比較し、個々の例について検討する必要があります。

例えば、動物種の勝ち取った成功が、その種の優秀さを示す一般的な基準となることは誰しも異存のないところでしょう。成功と優秀さという二つの言葉は、或る程度まで同じ意味に解することができます。生物にとって成功とは、ありとあらゆる環境において、ありとあらゆる障害を乗り越えて発達し、できるだけ広大な領域を支配する権限を持つことです。地上全体を勢力下に収めているような種は疑いもなく支配的な種であり、したがって優れた種である、と判断することができます。人間は、まさにそのような種であり、脊椎動物の進化の頂点に君臨している、と言えるでしょう。ところで体節動物(節足動物など)の系列でこの条件に当て嵌まるのは、昆虫、その中でも特に或る種の膜翅類です。或る人はいみじくもこう述べています。人間が地上の主人であるとすれば、アリは地下の王者である、と。

また例えば、(種の発生した年代に着目すると)、或る集団から派生し、その集団の後に出現した集団は、より進んだ進化の段階に対応している筈なので、理論上、元の集団より優れている、と考えてよいように思えます。後から現れた一群の種が退化した種である場合もないわけではありませんが、それは退化の特別な原因が介入してくる場合に限られます。ところで人間は、最後に現れた脊椎動物で(あり、したがってこの点からも脊椎動物の進化の頂点に位置していると判断することができま)す。昆虫の系列では、膜翅類の後に唯一鱗翅類が現れたことが知られていますが、鱗翅類は顕花植物に寄生している正真正銘の寄生種で、疑いもなく退化した種に過ぎません。

このように、(節足動物と脊椎動物の進化の頂点に位置する種は何かという問題に関して)、わたしたちは異なる二つの道を通って同じ結論に導かれました。節足動物の進化は、昆虫、なかんずく膜翅類においてその頂点に達し、脊椎動物の進化は、人間においてその頂点に達します。そして昆虫の世界ほど本能が花開いたところはどこにもなく、また昆虫の集団の中でも、膜翅類ほど優れた本能を持つものはない、という点に注目すれば、動物界の進化は、植物的生命に後退したものを除くと、分岐した二つの道において行われ、そのうちの一方は本能へと向かい、他方は知性へと向かった、ということがわかるでしょう。

したがって、植物的な麻痺状態、本能、知性というこの三つの要素こそ、植物と動物に共通の生命の推進力の中で共存していたものに他ならない、と結論することができます。発達しつつ予見不可能な形態として出現するこの三つの要素は、その発達の途上、各々が成長することで互いに分離することを余儀なくされます。この点に関し、アリストテレス以来、自然哲学がほぼ例外なく毒されてきた先入観があります。それは、植物的生命、本能的生命、理性的生命が、同一の傾向の連続的な三つの発達段階を表している、という先入観です。実際には、それらは不可分の行動性が成長するに従って分裂し、三つの方向に分岐した(それぞれ性格を異にする)要素を表しています。三者の差異は強度の差異ではなく、より一般的な言い方をすれば、程度の差異でもありません。それらの間にあるのは本性の差異です。

●知性と本能

この(三者が性質を異にするものであるという)点を深く掘り下げる必要があります。わたしたちは先に、植物的生命と動物的生命がどのように補い合い、対立し合うのかを見てきました。そこで今度は、それと同じように知性と本能が補い合い、対立し合っていることを示さなければなりません。しかしその前に、知性と本能は同じ秩序に属するものではなく、一方が他方に続いて生じたわけでもなく、さらには優劣をつけられるようなものでもないにもかかわらず、どういうわけで人々が知性を本能より優れた行動性と看做し、本能の上位に位置するものと考えたがるのか、という点に触れて置きましょう。

人々がそのように考えるのは、知性と本能が当初相互に浸透し合っていたために、両者がそれらに共通の起源の幾分かを保持しているからです。知性にしろ本能にしろ、わたしたちがそれらに純粋な状態で出会うことは決してありません。既述のように、植物においても眠っていた動物的意識と運動性が目覚めることがあり、動物も植物的生命に後退する危険に常に晒されながら生きています。植物と動物というこの二つの傾向は、当初極めて親密に浸透し合っていたので、双方の間に完全な断絶が生じたことは一度もありませんでした。二つの傾向の一方は他方にずっと付いて回り、どこを見渡しても一方と他方が混じり合った状態でしかこの二つの傾向を見出すことはできません。それらを相互に分かつのは(強さや程度の違いではなく)、一方と他方の割合(傾向)です。知性と本能に関しても、植物と動物の場合と事情は同じです。本能の痕跡をとどめていない知性は存在しませんし、知性の暈がかかっていない本能は存在しません。特に多くの誤解の原因となったのが、本能の周囲を取り巻いている知性の暈の存在です。本能が常に多かれ少なかれ知的能力を持つように見えるところから、人々は知性と本能が同じ秩序に属し、両者の間には複雑さや完成度の違いしかない、と結論しました。そして何よりも、一方は他方によって説明できる筈だ、と思い込んだのです。本当は、一方が他方を伴っているのはそれらが互いに補い合っているからに他ならず、一方と他方が互いに補い合っているのはそれらが異なっているからに他なりません。本能のうちの本能的なものと、知性のうちの知的なものとは向きが逆なのです。

唐突な印象を受ける人もいるかも知れませんが、本能と知性が逆向きであるということこそ(本能と知性の相互補完性と差異を理解する上で)最も重要な点だとわたしたちは考えます。

本能における本能的なものと、知性における知的なものを定義するに際し、あらかじめ断って置かなければならないことがあります。それは、わたしたちが両者の間に引く境界線は実際の境界を忠実になぞったものではなく、幾分それを誇張したものにならざるを得ないだろう、ということです。境界を忠実に辿ることができないのは、先ほど述べた通り、具体的な本能には例外なく知性が混じっており、現実の知性には例外なく本能が浸透しているからです。また本能にしろ知性にしろ、それらは傾向であって、出来上がった事物ではない以上、厳密な定義には適していない、というのもその理由の一つです。そして本章の目的は、生命がその道すがら沈殿させた本能と知性を、飽くまで生命から生まれたばかりの状態において考察することにある、ということも忘れてはなりません。先ほどから繰り返し指摘しているように、有機体を通して現れる生命は、無機的物質から何かを獲得しようとする一つの努力であるように思えます。そこで、わたしたちが本能と知性におけるこの努力の多様性に注目し、またこの心的活動の二つの形式のうちに、何よりもまず無機的物質に対する行動の二つの様式を見て取ったとしても最早驚く人はいないでしょう。このような見方はやや一面的すぎるかも知れませんが、本能と知性を区別する客観的な手段を提供してくれる利点があります。その反面、こうした見方では知性一般についても本能一般についても、両者の中間的な表象しか捉えることができないのもまた事実です。両者は実際には、その中間を中心にして絶えず上下に揺れ動いています。したがってこれからわたしたちが述べることは、図式的な素描以外のものではありません。そこでは知性と本能のそれぞれの輪郭が必要以上に強調され、両者の不分明さと相互浸透に起因する輪郭の曖昧な部分が切り捨てられることになるでしょう。このように極めて微妙な問題においては、対象をどんなに明確に描写しようと努力してもし過ぎることはありません。一旦それを素描して置けば、わたしたちは必要なときいつでも簡単にその形をぼかして幾何学的過ぎる点を修正し、図式の持つ堅苦しさを生命のしなやかで置き換えることができます。

(つづく)