さて、人間が地球上に出現した時期はいつ頃まで遡るのでしょうか。仮にそれを、初めて武器や道具が作られたときとしてみましょう。ブーシェ・ド・ペルト(フランスの税関吏)がムーラン・キニョンの採石場で発見した石をめぐって巻き起こった歴史的論争は、わたしたちの記憶に新しいところです。論争の争点となったのは、発見されたのが本物の斧なのか、それとも形がたまたま斧に似ている火打石の破片に過ぎないのか、ということでした。しかし(どちらの説に与するにせよ)、発見されたのが本物の石斧であるならば、それが一つの知性、それも人間の知性の証しであることを疑う人は一人もいませんでした。他方、動物の知性に関する逸話集を繙いてみると、動物の行為の多くは模倣や自動的な連想によって説明がつくものの、そうした行為とは別に、迷わず知的と判断できるような行為も存在していることがわかります。その中で真っ先に目につくのは、製作に連なる思考を示す行為です。これには動物が自ら簡略な道具を製作する場合と、人間が製作した道具を自分のために使う場合があります。実際、知性という観点から人間のすぐ下に分類される動物、すなわちサルやゾウは、状況に応じて人為的な(もしくは自ら製作した)道具を使いこなすことができます。次に、サルやゾウの下位に、と言ってもそれほど離れていないところに位置するのが、製作されたものを識別する動物です。例えばキツネは、罠が罠であることをはっきりと認識しています。恐らく、推論があるところには知性も存在しています。ところで推論とは、過去の経験を現在の経験の方に屈折させることであり、発明の端緒となるものです。発明は製作された道具として具体的な形を取ったときに完成しますが、動物の知性が理想として目指しているのはまさにそうした発明の具体化に他なりません。そして通常の動物の知性は、道具の類いを作り出したり、それを利用する段階には達していないとしても、自然に賦与された本能に変化を加えることでその準備をしている、と言えるでしょう。人間の知性に話を戻すと、機械の発明こそ知性の本質的な歩みであったということ、今日においても、わたしたちの社会生活は(太古と変わらず)人為的な道具の製作とその使用を中心に営まれているということ、進歩の道標である発明は、同時に進歩の方向をも決定したということ、こういった点に十分な注意が払われていないように思われます。これらの点になかなか気付かないのは、たとえ道具が新たに発明されたとしても、ほとんどの場合、それから或る程度時間が経過しないとそれを使用する人間の方は変化しないからです。個人的な習慣は勿論、社会的な習慣さえ、その習慣の土台となった環境が変化した後も長く残存します。そのため或る発明の深い効果は、その発明の新しさが失われた後でなければはっきりとは見えてきません。例えば蒸気機関の発明から一世紀が過ぎた今、ようやくわたしたちはそれがもたらした深い衝撃を感じ始めたところです。この発明が産業界に起こした革命は、しかし(わたしたちがそれに気付くか気付かないかに関係なく)確実に人間関係を一変させました。事実、(遅まきながら)新しい思想が芽生え、新しい感情が開花しつつあります。戦争や革命といった出来事は、数千年後、それらが遠い過去のものとなり、最早その概略しか認められなくなったとき、仮に人々の記憶に残っていたとしても些細な出来事として片付けられる運命を免れないでしょうが、蒸気機関とそれに付随するあらゆる発明は、わたしたちが青銅器や打製石器について語るように人々に語られるでしょう。蒸気機関は、一つの時代を画するものとして歴史に刻まれるに違いありません。わたしたちがあらゆる思い上がりを捨て、また人類を定義するのに、先史時代と有史時代を通して人間と知性の不変の特徴と看做されるもののみに着目するならば、わたしたちは人類をホモ・サピエンスとは呼ばず、ホモ・ファベルと呼ぶでしょう。知性をその本来の歩みと思われる点から考察すると、知性とは取りも直さず、人為的なもの、特に道具を作るための道具を製作し、その製作を無際限に変化させる能力である、と言うことができます。
ところで、(昆虫に代表される)知的ならざる動物もわたしたちと同じように道具や機械を所有しているのでしょうか。確かに、所有しています。ただしそれらの動物においては、道具はそれを用いる身体の一部を形成しています。そしてその道具に対応して、それを使う術を心得ている一つの本能が存在します。もっとも、本能は必ずしもこの持って生まれた機械(器官)を利用する自然的な能力として定義されるわけではありません。そのような定義はロマネスが「二次的」と形容した本能には当て嵌まらないでしょうし、「一次的」本能にしても、すべてがこの定義に当て嵌まるわけではありません。とは言えこの定義は、わたしたちが先ほど知性に暫定的に与えた定義と同様、少なくとも、定義された対象の多数の形式が向かう理念的極限を示してくれます。本能の働きに関しては、その大部分は有機的組織化の働きそのものの延長であり、或いは寧ろその完成である、とこれまでしばしば指摘されてきました。実際、本能の働きがどこから始まり、自然の働きがどこで終わるのか、誰にも明言することはできません。幼虫が蛹に、蛹から成虫に変態する際、幼虫には適切な動作や或る種の自発性が少なからず要求されます。しかし動物の本能と、生命ある物質の有機的組織化の働きとの間に明確な境界が存在するわけではありません。本能が自分の用いる様々な道具を有機的組織化する、という言い方もできるでしょうし、有機的組織化の働きが器官を利用する本能に延長する、という風に言うこともできるでしょう。昆虫の驚くべき本能も、専らその身体の特殊な構造を様々な運動に展開することに没頭しています。そのため社会生活が仕事を分割して個体に振り分け、それぞれ異なる本能を個体に割り当てているような場合には、アリやミツバチ、スズメバチ、擬脈翅類などに見られる多形性という周知の事実が示すように、同一種であっても個体毎にそれぞれの本能に対応する構造上の差異が認められるほどです。このように、知性と本能が完全な勝利を収めていると思われる限界的な例に絞って考察すると、両者の本質的な差異が見えてきます。ここから本能と知性を、次のように定義することができるでしょう。完成された本能は有機的な道具を使用し、しかもそれを形成する能力である。一方、完成された知性は無機的な道具を製作し、使用する能力である。
本能と知性という、この二つの行動様式のそれぞれの長所と短所は一目瞭然です。まず本能は、手近なところに最適な道具を見つけることができます。この道具はひとりでに作られ、ひとりでに修復されます。またそれは自然が造ったすべての作品と同様、細部が無限に複雑であるにもかかわらず、機能は驚くほど単純です。それは要求された仕事を必要なときに、苦もなく、しばしば驚くほど完璧に、しかもたちどころにやってのけます。その代わり、この道具の構造は半永久的に維持され、ほとんど変化しません。何故なら、種が変化しない限り構造が変化することもないからです。本能は特定の対象に特定の道具しか使用しない以上、必然的に専門化されています。一方、知性によって製作された道具は(本能の用いる道具のように)完全なものではありません。それは努力と引き換えにしか手に入れることができず、一般に取り扱いが面倒です。その反面、それは無機物で出来ているので、どんな形にも成型することができ、どんな要求にも応じることができます。またそれは新たに生じるあらゆる困難な状況において動物を助け、無限の力を動物に賦与します。製作された道具は、切迫した欲求を満足させるという点では自然の道具に劣りますが、欲求が切迫したものではなくなればなくなるほど自然の道具に勝るようになります。特に強調したいのは、この道具はそれを製作した動物の本性に反作用を及ぼすということです。というのも、製作された道具は、自然によって形成された有機体を延長する人為的な器官であり、製作者に新たな機能を果たさせることで、言わばより豊かな有機的組織を提供するからです。この道具は欲求を一つ満足させる毎に、別の新たな欲求を生み出します。そういうわけで、本能が行動範囲を限定し、動物はその閉じた円環の中で機械的に行動させられているのに反して、知性によって製作された道具は製作者の行動に無限の空間を開き、行動を徐々に遠くまで推し進めるとともに、徐々に自由なものたらしめます。もっとも、本能に対する知性のこの優位性は後になってから、すなわち、知性が製作をより高度なものに高め、製作のための機械の製作が可能になった時に初めて現れるに過ぎません。当初は製作された道具と自然の道具との長所と短所は均衡していたので、どちらが自然に対するより広大な支配権を動物に保証してくれるのか、その時点ではまだ決まっていなかったのです。
以上のことから、(本能と知性の発生と発達に関して)次のように推測することができます。知性と本能は当初相互に浸透し合っており、原初状態における心的活動は双方の性質を併せ持っていました。それゆえ十分に遠い過去に遡れば、現在の昆虫の本能よりも知性に近い本能や、現在の脊椎動物の知性よりも本能に類似した知性が見つかるに違いありません。もっともこの原初的な本能と知性は未だ物質の虜になっており、それを支配するまでには至っていなかったと考えられます。もし生命に内在する力が無限のものであるなら、同じ有機体の中で本能と知性を無際限に発達させることもできたかも知れませんが、あらゆる事実が、この力が有限なものであること、外部に発現するとすぐに尽きてしまうことを示しています。そこでこの力は、一つの選択をしなければなりませんでした。というのも、限られた力で同時に複数の方向に進むのは困難だったからです。ところで生まの物質に働きかけるには二つの方法があり、この力はそのうちのいずれか一つを選択することができます。まず、この力は有機的組織化された道具を作り、その道具で仕事をすることによって、物質に直接的に働きかけることができます。次に、この力は必要な道具を有機体に自然に備えさせる代わりに、その有機体が自ら無機的な物質を加工し、道具を製作するよう仕向けることによって、物質に間接的に働きかけることもできます。こうして生まれたのが、知性と本能です。それらは発達するにつれて徐々に分離しなければなりませんでしたが、完全に分離したわけではありません。事実、一方において、昆虫の最も完成された本能さえ、営巣の場所や時期、材料を選択する場合に限られるとは言え、知性の微かな光を伴っていることがあります。ミツバチが何らかの事情で例外的に戸外に巣を作る場合、この新しい条件に適応するために、ミツバチは独創的で真に知的な装置を発明します。また他方において、知性は、本能が知性を必要とする以上に本能を必要とします。何故なら、生まの物質を加工するためには動物の有機的組織が一定以上の段階に達していなければならず、そこまで上昇するためには本能の翼を借りなければならないからです。そのため自然は、節足動物では脇目もふらず本能の方向に進化したのに対して、ほとんどすべての脊椎動物では、知性の開花と言うより寧ろ知性の探求とも言うべき光景が展開されます。脊椎動物の心的活動の基盤を形作っているのは他の動物と同じく本能であり、知性はその傍らで本能に取って代わる手段を模索している、という風に言えるかも知れません。この知性はまだ道具を発明するには至っていないものの、本能を主題とするあらゆる種類の変奏曲を奏でながら、本能なしで済ませるためにどうにかして道具を発明しようと試みます。人間に至って初めて、知性は完全に自己を自家薬籠中のものにします。人間には敵や寒さや飢えから身を守るための自然的手段が不足しているという事実が、逆に知性のこの勝利(自立)を証明しています。この自然的手段の不足は、わたしたちがその意味を明らかにしようとするとき、先史時代の資料としての価値を持ってきます。この事実は、本能が知性から決定的な解雇通告を受け取ったという証しなのです。しかしそういう事情はともかく、自然はこの二つの行動様式のどちらを選ぶか迷ったに違いありません。一方では直接的な成功が保証されている反面、得られる成果には限界があります。もう一方では成功する保証はない代わりに、自立することができれば勢力範囲を無限に拡張することができます。いずれにせよ、ここでもまた、より大きな成功はより大きな危険を冒した者にもたらされました。以上のような(生まの物質にどのように働きかけるかという)観点からすると、本能と知性は方向を異にするとは言え、同じ問題に対する二つの解答であり、どちらも極めて巧みな方法で解かれた申し分のない解答と言えます。
この解法の違いから、知性と本能との間に内的構造上の様々な深い差異が生じてきます。それらの差異のうち、目下の問題と関係のあるものに的を絞って話を進めましょう。そこで、知性と本能には根本的に異なる二種類の知識が含まれている、ということを次に示したいと思います。しかしその前に、まず意識一般について幾つかの点を明らかにして置かなければなりません。
本能がどこまで意識的なものであるかということについては、これまでにも議論の的となってきました。わたしたちとしては、そこには様々な差異と程度があり、本能は様々な程度で意識的であることもあれば、無意識的であることもある、と答えましょう。後述するように、植物には本能がありますが、植物において本能が感情や感覚を伴うとはまず考えられません。動物の複雑な本能でさえ、それが働くすべての過程において全く無意識的とならないような本能はほとんど見当たりません。しかしここで、これまでほとんど注目されたことのない二種類の無意識の違いを認識して置く必要があります。一つはもともと意識がないという意味での無意識であり、もう一つは意識が無効化されたことを意味する無意識です。もともと意識がない場合も、意識が無効になった場合も、意識がゼロであることには変わりがありません。しかし第一のゼロが何も存在していないことを意味しているのに対して、第二のゼロは、逆方向の二つの等しい量が相殺し合い、中和していることを意味しています。落下する石が無意識であるのは、もともと石には意識がないからです。石は自分が落下することに何の感情も持ちません。では本能が無意識的であるような極限的な場合、この無意識に関しても石の場合と事情は同じなのでしょうか。例えばわたしたちが習慣的な行動を機械的に行ったり、夢遊病者が自分の見ている夢を実演するとき、無意識は絶対的なものとなり得ます。しかしこの場合の無意識は、行為の表象が、行為そのものの遂行によって妨げられることに起因しています。行為と表象との類似が完全で、行為が表象にぴったりと(栓をしたように)嵌まり込んでいるために、意識は最早溢れ出ることができないのです。つまりこのとき、表象は行動によって栓をされている、と言えるでしょう。その証拠に、行為の遂行が何らかの障害によって阻害され邪魔されると、先のような場合でも意識が顔を覗かせることがあります。したがって意識は確かにそこに存在しており、行動が表象を満たすことで中和されているに過ぎない、と言えます。障害が行為の遂行を妨げるとき、障害は何か積極的なものを生み出すわけではありません。それは単に一つの空虚を作り出すに過ぎず、(意識の出口を塞いでいる行動という)栓を抜くに過ぎません。行為と表象とのこの不相応こそ、わたしたちが意識と呼んでいるものに他なりません。
この点を突き詰めて考えると、意識とは、生物によって実際に行われる行動の周囲を取り囲んでいる可能的行動の地帯、もしくは潜在的行動の地帯に内在する光のごときものである、ということがわかるでしょう。意識とは、躊躇或いは選択です。多くの行動が等しく可能なものとして素描されながら、実際の運動に至らない場合(例えばあれこれ思い悩んで決心がつかないような場合)、意識は強くなります。実際に行われた行動が唯一可能な行動である場合(例えば夢遊病者の行動や、もっと一般的な言い方をすれば自動的行動の場合)、意識はゼロになります。とは言え意識がゼロになる後者の場合でも、組織化された運動の全体がそこには存在し、最初の運動のうちに既に最後の運動が素描されていること、さらに何らかの障害にぶつかった場合、そこから意識が湧出し得ることが確かである以上、表象や認識は厳として存在します。こうした観点からすると、生物の意識は、潜在的行動と実際の行動との算術的な差として定義することができます。意識とは表象と行動との隔たりを測る尺度と言えるでしょう。
上記のことから、知性はどちらかと言えば意識の方に向かう傾きがあり、本能は無意識の方に向かう傾きがある、と推測することができます。本能が無意識に陥りがちなのは、本能の用いる道具は自然によって有機的に組織され、道具の適用対象が自然によって提供され、獲得すべき結果も自然によって定められているために、選択の余地がほとんど残されていないからです。それゆえ本能において表象に内在する意識は、現れようとする度に、表象と同一でそれと釣り合いの取れた行為が遂行されることで相殺されてしまいます。仮に意識が現れることがあるとしても、それが照らし出すのは本能そのものではなく、本能の受ける種々の抵抗です。言い換えると、意識となるのは本能におけるマイナス部分(空虚・穴・欠落)であり、行為と観念とを隔てている距離なのです。したがって本能においては、意識は一つの偶発事でしかありません。意識が本質的に強調するのは、本能の最初の一歩、すなわち一連の自動的運動全体を始動させる最初のプロセスでしかありません。一方、知性にとってこの欠損は常態です。抵抗を受けるのは、知性の本質そのものでさえあります。無機的な道具を製作することを原初的機能とする知性は、製作する場所と時期、道具の形式と素材を、幾多の困難の中で選択しなければなりません。そしてどんな選択をしようと、知性が完全に満足することはありません。何故なら新たに得られた満足は、常に新しい欲求を生み出すからです。そういうわけで、本能も知性もどちらも認識を含んでいるのは間違いないとしても、本能においては認識は演じられるものであり、無意識的であるのに対して、知性においては認識は思考されるものであり、意識的であると言うことができるでしょう。もっともこの違いは本性の差異と言うよりも、寧ろ程度の差異に過ぎません。意識にばかり気を取られていると、心理学的に見て知性と本能との主要な差異は何か、ということを見落とす恐れがあります。
両者の本質的な差異を見つけるためには、様々な明度の光によって照らし出されている本能と知性というこの二形式の内的活動に余り拘泥せず、それらの適用対象である二つの対象、根本的に異なる二つの対象に真っ直ぐ向かっていかなければなりません。
ウマバエが馬の脚や肩に卵を産み付けるとき、このハエは脚や肩で孵化した幼虫が、馬が体を舐める際に消化管に運ばれること、そして馬の胃の中で成長することを知っているかのように見えます。また神経中枢の位置する箇所を刺して獲物を麻痺させる膜翅類の昆虫は、腕利きの外科医のようでもあり、(獲物の体の構造を熟知した)博識な昆虫学者のようでもあります。ところで、(その博識さが)しばしば話題となったシタリスという小さな甲虫ほど何でも知っている昆虫が他にいるでしょうか。この鞘翅類の昆虫は、ミツバチの一種アントフォラが地下に作った巣穴の入口に卵を産み付けます。孵化したシタリスの幼虫は巣穴の入口でアントフォラを辛抱強く待ち伏せし、出てきた雄のアントフォラの体にしがみつきます。そのまま雄の体で過ごした後、「ハネムーン飛行」(繁殖期に巣から飛び立つこと)でアントフォラが交尾している隙に雄の体から雌の体に移動します。そこで産卵の時期をじっと待ち、産卵が始まると今度は(蜂蜜に浸っている)卵に飛び移ります。(浮き輪のように)自分の体を支えてくれる卵を数日で食べ尽くした幼虫は、食べ終えた卵の殻の上に身を落ち着けて最初の変態を迎えます。そうして蜂蜜の表面に浮かぶことができるまでに成長すると、この備蓄された養分(蜂蜜)を消費しながら蛹となり、成虫となります。あたかもシタリスの幼虫は、アントフォラの雄が巣穴から出てくること、ハネムーン飛行が雌に移る機会を与えてくれること、雌は蜂蜜の貯蔵庫に連れて行ってくれること、かくして変態してからの食料には不自由しないこと、変態するまでの間は、卵を少しずつ食べれば栄養を摂りつつ蜂蜜の表面で浮かんでいることができ、同時に卵から生まれる筈だったライバルを抹殺できること、これらのことを孵化したときからすべて知っているかのようであり、またシタリス自身、幼虫がそれを知っていることを知っているかのようです。仮にそこに認識があるとしても、それは暗黙の認識でしかないかも知れません。この認識は内面化して意識となる代わりに、外面化して正確な行動となります。しかしたとえ暗黙のものであるにせよ、昆虫の行動は、特定の瞬間、特定の場所において、特定の事象が存在し、或いは生じることを表象として素描しています。昆虫は学んだことがなくとも、それらのことを知っているのです。
(この段落に出てくるシタリスとアントフォラについては、竹内訳「創造的進化」の訳注が参考になるのでそのまま引用します。
「シタリス」(Sitaris)は、〈マルハナバチヤドリゲンセイ〉のことで、ツチバンミョウの仲間(本項、奥本大三郎氏の教示による)。
「アントフォラ」(Anthophora)は〈シジハナバチ〉のことで、ハナバミの一種。ベルクソンが書いているように「〈ミツバチ〉の一種」ではない(『昆虫記』第2巻に出ている)(本項、奥本大三郎氏の教示による)。)
一方、同じ観点から知性を検討すると、知性もまた、かつて学んだことがないのに或るものを知っていることに気付かされます。ただしそれは、本能の認識とは全く種類の異なる認識です。わたしたちはここで、生得性をめぐって哲学者の間で繰り広げられた古い論争を蒸し返すつもりはありません。ここではただ、誰もが認めざるを得ない次のこと、すなわち、幼児は動物が決して理解することのない或るものを直ちに理解する、ということを指摘するにとどめましょう。この意味で、知性は本能と同じく遺伝する機能であり、したがって生得的な機能と言えます。もっともこの生得的知性は、一つの認識能力には違いないにせよ、個々の対象については何も知りません。初めて授乳される生まれたばかりの乳児が乳房を求めるとき、この乳児はまだ見たことのないものを(恐らく無意識的に)認識している、ということを身をもって証明しています。しかし乳児に見られるこの生得的な認識は或る決まった対象(乳房)の認識であるがゆえに、それは知性に属する認識ではなく、本能に属する認識と考えるのが妥当です。それゆえ(もう一度繰り返すと)、知性はいかなる対象についても生得的な認識をもたらしません。しかし知性が生まれつき何も認識しないのであれば、知性には生得的なものは何もない、ということになってしまいます。ではこのようにあらゆる事物について無知である知性は、一体何を認識すると言うのでしょうか。――事物以外に、関係があります。生まれたばかりの乳児は、なるほど、特定の対象について、また或る対象の特定の性質について何も知りません。ところが乳児の前で、或る対象に或る性質を、或る名詞に或る形容詞を対応させて(関連付けて)みせると、乳児はすぐさまその意味を理解します。してみると知性は、主語と属詞との関係を生まれつき把握している、ということになるでしょう。動詞が表現する一般的な関係についても同じことが言えます。精神はこの関係を直接的に理解するので、動詞を持たない原始的な言語においてしばしば見られるように、言語はこの関係をわざわざ口にしなくとも暗示することができる(言わずに済ますこともできる)ほどです。したがって知性は、或るものと或るものとの等価関係、含まれるものと含むものとの関係、原因と結果との関係など、それが明示されているかそれとも単に暗示されているかにかかわりなく、主語、属詞、動詞で構成されるあらゆる文章に含まれる関係を自然に把握し、使いこなすことができます。知性はそれらの関係の各々について、個別的に生得的な認識を持っている、と言えるでしょうか。さらに、それらの関係は、還元不可能な関係なのでしょうか、それとももっと一般的な関係に還元することができるのでしょうか、そういった問題を考えるのは論理学者の仕事です。しかしどんな方法で思考を分析するにしろ、わたしたちは常に一つもしくは幾つかの一般的な枠に辿り着きます。精神はその枠を自然に用いることができる以上、それについて生得的な認識を持っています。そこで、次のように言うことができるでしょう。本能と知性が内に含む生得的な認識を検討すると、生得的な認識は、本能では事物にかかわり、知性では関係にかかわる、と結論することができる。
哲学者は、認識の素材(質料)と形式とを区別します。素材とは、生まの知覚能力によって与えられるものです。形式とは、体系的な認識を構成するために、それらの素材の間に打ち立てられる関係の総体です。素材を伴わない形式は、果たしてそれ単独で認識の対象となり得るでしょうか。勿論、なり得ます。ただしこの認識は、わたしたちの所有物と言うよりわたしたちの身に付いた習慣のようなものであり、状態と言うより傾向と言うべきものです。何なら、この認識はわたしたちの注意に備わった癖のようなものだと言っても構いません。例えば小学生は分数の書き取りをさせられることがわかると、分子、分母の値を知る前から横線を引いて待ち構えます。したがってその生徒は、それら二つの項のいずれも知らないのに、両者の一般的な関係を思い浮かべていることになります。生徒は素材のない形式を認識しているのです。同様に知性は、あらゆる経験に先立つ枠(下記参照)、そこにわたしたちの経験が嵌め込まれる枠を認識します。そういうわけで、素材と形式という、慣用され定着しているこの二つの用語を取り入れ、知性と本能との区別を次のようなより正確な定式で表すことにしましょう。知性は、その生得的な部分では形式に関する認識であり、本能は素材の認識を含んでいる。
(この種の枠の具体例として、「物質と記憶」の運動図式、「知的な努力」の動的図式が挙げられます。また、「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」に出てくる「経験以前に、経験を可能にする諸条件が存在する。現象の多様性の上に、精神の綜合的努力が存在する」という言葉の意味も、この「あらゆる経験に先立つ枠」という表現から読み取ることができます)
この第二の観点、すなわち行動の観点ではなく認識の観点からしても、生命一般に内在する力はやはり一つの限定された原理であるように思われます。この原理のうちでは、二つの異なる認識方法、(同一の根から)分岐した二つの認識方法が当初共存し、相互に浸透し合っています。第一の認識は、特定の対象の素材そのものを直接捉えます。それは「ここにこれがある」と断言します。第二の認識は、どんな特定の対象をも捉えることができません。それは或る対象を別の対象に、或る部分を別の部分に、或る観点を別の観点に関連付ける自然的な能力、つまり手にした前提から結論を引き出し、既知のものから未知のものへと移行する自然的な能力に他なりません。この認識は、最早「これがある」とは断言しません。それが口にするのは、単に、もし条件がこれこれであるならば、条件付けられたものはこれこれになるだろう、ということです。つまり本能的な性質を持つ第一の認識は、哲学者が定言的命題と呼んでいるものによって定式化されるのに対して、知性的な性質を持つ第二の認識は、常に仮言的に表現されます。この二つの能力のうち、初めは第一の能力の方が第二の能力よりずっと好ましいように思えます。もし第一の能力がその対象を無際限に拡張できるのであれば、確かにその通りだったかも知れません。しかし実際には、第一の能力は或る特殊な対象、それもその対象の限られた部分以外に適用されることは決してありません。この能力は、少なくともそうした対象に関する限り、内的で完璧な認識を有します。それは表面に現れる認識ではなく、遂行される行為のうちに含まれる認識です。これに対して、第二の能力に備わっているのは、外的で空虚な認識でしかありません。しかしまさにそのために、第二の能力は、無限の対象が代わる代わる挿入される枠を提供できる利点を持ちます。諸々の生命の形態を貫いて進化する力は一つの限られた力であるがゆえに、自然的、すなわち生得的な認識の領域においては、二種類の制限、一方は外延の制限、他方は内包の制限のいずれかを甘受しなければならなかったかのように見えます。前者の場合、認識は充実した完璧なものとなり得る代わりに、特定の対象に限定されます。後者の場合、認識は最早特定の対象に限定されませんが、それはこの認識が内容のない形式の認識に過ぎず、何も含んでいないからです。当初相互に浸透し合っていたこの二つの傾向は、成長するために分離しなければなりませんでした。それらはめいめい成功を夢見て世界に飛び立ち、最終的に本能と知性に辿り着いたのです。
行動の観点ではなく認識の観点から見た場合、知性と本能は、以上のような分岐した二つの認識様式によって定義されます。とは言え認識と行動は、同一の能力の二つの側面に過ぎません。実際、第二の定義が、第一の定義を別の形に書き換えたものに過ぎないことを見て取るのは難しいことではありません。
本能が何よりもまず有機的に組織された自然の道具を用いる能力であるならば、当然それは、その道具についても、それが適用される対象についても、生得的な認識(潜在的、もしくは無意識的なものではあるにせよ)を含んでいなければなりません。それゆえ認識の観点から言えば、本能とは事物についての生得的な認識であることになります。一方、知性は無機的な、すなわち人為的な道具を製作する能力です。もし自然が、或る生物が知性を有するがゆえにその生物に有用な道具を賦与しなかったとすれば、それはひとえにその生物が環境に応じて製作を変化させることができるよう仕向けるためでしかありません。したがって、どんな環境においても困難を切り抜ける手段を見極めるのが知性本来の機能であると言うことができます。そこで知性は、最も役に立つものを、つまり提示された枠に最もうまく嵌まるものを探求することになるでしょう。知性の機能は、本質的に、所与の環境とそれを利用する手段との関係に向かうことになるでしょう。知性の機能に生得的に備わっているのは、まさにそういった諸々の関係を打ち立てようとする傾向に他なりません。この傾向のうちには、極めて一般的な諸関係についての自然的な認識が含まれており、一般的な諸関係という文字通りのこの生地(素材)を、個々の知性に特有の活動がより個別的な関係に裁断します。それゆえこの活動が製作に向かうとき、認識は必然的に関係に向かいます。ところで、知性のこの全く形式的な認識は、本能の素材的な認識に比べ計り知れない利点を持っています。形式はまさに空虚なものであるがゆえに、仮にそれが何の役にも立たない事物であっても、数限りない事物で、代わる代わる、好きなようにその形式を満たすことができます。そのため、形式的な認識は実用を目的として生み出されたものだとしても、実用的なものに対象が限定されているわけではありません。知的存在は、自己自身を超越するための手段を自分のうちに蔵しているのです。
もっとも、この知的存在は自分が望むほど、或いは自分が考えているほど自己を乗り越えることはできないでしょう。知性の性格は純粋に形式的であるために、思弁にとって最も探求し甲斐のある対象のうちに身を置くのに必要な底荷が欠けているのです。逆に本能は、望み通りの素材を手にすることができますが、対象を遠くまで探しにいく能力を欠いています。本能は思索しません。わたしたちはここで、この研究にとって最も興味深い点に触れることになります。以下に示す本能と知性との差異こそ、これまでわたしたちが(本能と知性についての)分析によって抽出しようとしていたものだと言っても過言ではありません。わたしたちはそれを次のように定式化することにしましょう。――知性だけが探求し得る事物が存在するが、知性は独力でそれを見つけることは決してできないだろう。それを見つけることができるのは本能だけである。しかし、本能はそれを探求することは決してないだろう。
(つづく)
ところで、(昆虫に代表される)知的ならざる動物もわたしたちと同じように道具や機械を所有しているのでしょうか。確かに、所有しています。ただしそれらの動物においては、道具はそれを用いる身体の一部を形成しています。そしてその道具に対応して、それを使う術を心得ている一つの本能が存在します。もっとも、本能は必ずしもこの持って生まれた機械(器官)を利用する自然的な能力として定義されるわけではありません。そのような定義はロマネスが「二次的」と形容した本能には当て嵌まらないでしょうし、「一次的」本能にしても、すべてがこの定義に当て嵌まるわけではありません。とは言えこの定義は、わたしたちが先ほど知性に暫定的に与えた定義と同様、少なくとも、定義された対象の多数の形式が向かう理念的極限を示してくれます。本能の働きに関しては、その大部分は有機的組織化の働きそのものの延長であり、或いは寧ろその完成である、とこれまでしばしば指摘されてきました。実際、本能の働きがどこから始まり、自然の働きがどこで終わるのか、誰にも明言することはできません。幼虫が蛹に、蛹から成虫に変態する際、幼虫には適切な動作や或る種の自発性が少なからず要求されます。しかし動物の本能と、生命ある物質の有機的組織化の働きとの間に明確な境界が存在するわけではありません。本能が自分の用いる様々な道具を有機的組織化する、という言い方もできるでしょうし、有機的組織化の働きが器官を利用する本能に延長する、という風に言うこともできるでしょう。昆虫の驚くべき本能も、専らその身体の特殊な構造を様々な運動に展開することに没頭しています。そのため社会生活が仕事を分割して個体に振り分け、それぞれ異なる本能を個体に割り当てているような場合には、アリやミツバチ、スズメバチ、擬脈翅類などに見られる多形性という周知の事実が示すように、同一種であっても個体毎にそれぞれの本能に対応する構造上の差異が認められるほどです。このように、知性と本能が完全な勝利を収めていると思われる限界的な例に絞って考察すると、両者の本質的な差異が見えてきます。ここから本能と知性を、次のように定義することができるでしょう。完成された本能は有機的な道具を使用し、しかもそれを形成する能力である。一方、完成された知性は無機的な道具を製作し、使用する能力である。
本能と知性という、この二つの行動様式のそれぞれの長所と短所は一目瞭然です。まず本能は、手近なところに最適な道具を見つけることができます。この道具はひとりでに作られ、ひとりでに修復されます。またそれは自然が造ったすべての作品と同様、細部が無限に複雑であるにもかかわらず、機能は驚くほど単純です。それは要求された仕事を必要なときに、苦もなく、しばしば驚くほど完璧に、しかもたちどころにやってのけます。その代わり、この道具の構造は半永久的に維持され、ほとんど変化しません。何故なら、種が変化しない限り構造が変化することもないからです。本能は特定の対象に特定の道具しか使用しない以上、必然的に専門化されています。一方、知性によって製作された道具は(本能の用いる道具のように)完全なものではありません。それは努力と引き換えにしか手に入れることができず、一般に取り扱いが面倒です。その反面、それは無機物で出来ているので、どんな形にも成型することができ、どんな要求にも応じることができます。またそれは新たに生じるあらゆる困難な状況において動物を助け、無限の力を動物に賦与します。製作された道具は、切迫した欲求を満足させるという点では自然の道具に劣りますが、欲求が切迫したものではなくなればなくなるほど自然の道具に勝るようになります。特に強調したいのは、この道具はそれを製作した動物の本性に反作用を及ぼすということです。というのも、製作された道具は、自然によって形成された有機体を延長する人為的な器官であり、製作者に新たな機能を果たさせることで、言わばより豊かな有機的組織を提供するからです。この道具は欲求を一つ満足させる毎に、別の新たな欲求を生み出します。そういうわけで、本能が行動範囲を限定し、動物はその閉じた円環の中で機械的に行動させられているのに反して、知性によって製作された道具は製作者の行動に無限の空間を開き、行動を徐々に遠くまで推し進めるとともに、徐々に自由なものたらしめます。もっとも、本能に対する知性のこの優位性は後になってから、すなわち、知性が製作をより高度なものに高め、製作のための機械の製作が可能になった時に初めて現れるに過ぎません。当初は製作された道具と自然の道具との長所と短所は均衡していたので、どちらが自然に対するより広大な支配権を動物に保証してくれるのか、その時点ではまだ決まっていなかったのです。
以上のことから、(本能と知性の発生と発達に関して)次のように推測することができます。知性と本能は当初相互に浸透し合っており、原初状態における心的活動は双方の性質を併せ持っていました。それゆえ十分に遠い過去に遡れば、現在の昆虫の本能よりも知性に近い本能や、現在の脊椎動物の知性よりも本能に類似した知性が見つかるに違いありません。もっともこの原初的な本能と知性は未だ物質の虜になっており、それを支配するまでには至っていなかったと考えられます。もし生命に内在する力が無限のものであるなら、同じ有機体の中で本能と知性を無際限に発達させることもできたかも知れませんが、あらゆる事実が、この力が有限なものであること、外部に発現するとすぐに尽きてしまうことを示しています。そこでこの力は、一つの選択をしなければなりませんでした。というのも、限られた力で同時に複数の方向に進むのは困難だったからです。ところで生まの物質に働きかけるには二つの方法があり、この力はそのうちのいずれか一つを選択することができます。まず、この力は有機的組織化された道具を作り、その道具で仕事をすることによって、物質に直接的に働きかけることができます。次に、この力は必要な道具を有機体に自然に備えさせる代わりに、その有機体が自ら無機的な物質を加工し、道具を製作するよう仕向けることによって、物質に間接的に働きかけることもできます。こうして生まれたのが、知性と本能です。それらは発達するにつれて徐々に分離しなければなりませんでしたが、完全に分離したわけではありません。事実、一方において、昆虫の最も完成された本能さえ、営巣の場所や時期、材料を選択する場合に限られるとは言え、知性の微かな光を伴っていることがあります。ミツバチが何らかの事情で例外的に戸外に巣を作る場合、この新しい条件に適応するために、ミツバチは独創的で真に知的な装置を発明します。また他方において、知性は、本能が知性を必要とする以上に本能を必要とします。何故なら、生まの物質を加工するためには動物の有機的組織が一定以上の段階に達していなければならず、そこまで上昇するためには本能の翼を借りなければならないからです。そのため自然は、節足動物では脇目もふらず本能の方向に進化したのに対して、ほとんどすべての脊椎動物では、知性の開花と言うより寧ろ知性の探求とも言うべき光景が展開されます。脊椎動物の心的活動の基盤を形作っているのは他の動物と同じく本能であり、知性はその傍らで本能に取って代わる手段を模索している、という風に言えるかも知れません。この知性はまだ道具を発明するには至っていないものの、本能を主題とするあらゆる種類の変奏曲を奏でながら、本能なしで済ませるためにどうにかして道具を発明しようと試みます。人間に至って初めて、知性は完全に自己を自家薬籠中のものにします。人間には敵や寒さや飢えから身を守るための自然的手段が不足しているという事実が、逆に知性のこの勝利(自立)を証明しています。この自然的手段の不足は、わたしたちがその意味を明らかにしようとするとき、先史時代の資料としての価値を持ってきます。この事実は、本能が知性から決定的な解雇通告を受け取ったという証しなのです。しかしそういう事情はともかく、自然はこの二つの行動様式のどちらを選ぶか迷ったに違いありません。一方では直接的な成功が保証されている反面、得られる成果には限界があります。もう一方では成功する保証はない代わりに、自立することができれば勢力範囲を無限に拡張することができます。いずれにせよ、ここでもまた、より大きな成功はより大きな危険を冒した者にもたらされました。以上のような(生まの物質にどのように働きかけるかという)観点からすると、本能と知性は方向を異にするとは言え、同じ問題に対する二つの解答であり、どちらも極めて巧みな方法で解かれた申し分のない解答と言えます。
この解法の違いから、知性と本能との間に内的構造上の様々な深い差異が生じてきます。それらの差異のうち、目下の問題と関係のあるものに的を絞って話を進めましょう。そこで、知性と本能には根本的に異なる二種類の知識が含まれている、ということを次に示したいと思います。しかしその前に、まず意識一般について幾つかの点を明らかにして置かなければなりません。
本能がどこまで意識的なものであるかということについては、これまでにも議論の的となってきました。わたしたちとしては、そこには様々な差異と程度があり、本能は様々な程度で意識的であることもあれば、無意識的であることもある、と答えましょう。後述するように、植物には本能がありますが、植物において本能が感情や感覚を伴うとはまず考えられません。動物の複雑な本能でさえ、それが働くすべての過程において全く無意識的とならないような本能はほとんど見当たりません。しかしここで、これまでほとんど注目されたことのない二種類の無意識の違いを認識して置く必要があります。一つはもともと意識がないという意味での無意識であり、もう一つは意識が無効化されたことを意味する無意識です。もともと意識がない場合も、意識が無効になった場合も、意識がゼロであることには変わりがありません。しかし第一のゼロが何も存在していないことを意味しているのに対して、第二のゼロは、逆方向の二つの等しい量が相殺し合い、中和していることを意味しています。落下する石が無意識であるのは、もともと石には意識がないからです。石は自分が落下することに何の感情も持ちません。では本能が無意識的であるような極限的な場合、この無意識に関しても石の場合と事情は同じなのでしょうか。例えばわたしたちが習慣的な行動を機械的に行ったり、夢遊病者が自分の見ている夢を実演するとき、無意識は絶対的なものとなり得ます。しかしこの場合の無意識は、行為の表象が、行為そのものの遂行によって妨げられることに起因しています。行為と表象との類似が完全で、行為が表象にぴったりと(栓をしたように)嵌まり込んでいるために、意識は最早溢れ出ることができないのです。つまりこのとき、表象は行動によって栓をされている、と言えるでしょう。その証拠に、行為の遂行が何らかの障害によって阻害され邪魔されると、先のような場合でも意識が顔を覗かせることがあります。したがって意識は確かにそこに存在しており、行動が表象を満たすことで中和されているに過ぎない、と言えます。障害が行為の遂行を妨げるとき、障害は何か積極的なものを生み出すわけではありません。それは単に一つの空虚を作り出すに過ぎず、(意識の出口を塞いでいる行動という)栓を抜くに過ぎません。行為と表象とのこの不相応こそ、わたしたちが意識と呼んでいるものに他なりません。
この点を突き詰めて考えると、意識とは、生物によって実際に行われる行動の周囲を取り囲んでいる可能的行動の地帯、もしくは潜在的行動の地帯に内在する光のごときものである、ということがわかるでしょう。意識とは、躊躇或いは選択です。多くの行動が等しく可能なものとして素描されながら、実際の運動に至らない場合(例えばあれこれ思い悩んで決心がつかないような場合)、意識は強くなります。実際に行われた行動が唯一可能な行動である場合(例えば夢遊病者の行動や、もっと一般的な言い方をすれば自動的行動の場合)、意識はゼロになります。とは言え意識がゼロになる後者の場合でも、組織化された運動の全体がそこには存在し、最初の運動のうちに既に最後の運動が素描されていること、さらに何らかの障害にぶつかった場合、そこから意識が湧出し得ることが確かである以上、表象や認識は厳として存在します。こうした観点からすると、生物の意識は、潜在的行動と実際の行動との算術的な差として定義することができます。意識とは表象と行動との隔たりを測る尺度と言えるでしょう。
上記のことから、知性はどちらかと言えば意識の方に向かう傾きがあり、本能は無意識の方に向かう傾きがある、と推測することができます。本能が無意識に陥りがちなのは、本能の用いる道具は自然によって有機的に組織され、道具の適用対象が自然によって提供され、獲得すべき結果も自然によって定められているために、選択の余地がほとんど残されていないからです。それゆえ本能において表象に内在する意識は、現れようとする度に、表象と同一でそれと釣り合いの取れた行為が遂行されることで相殺されてしまいます。仮に意識が現れることがあるとしても、それが照らし出すのは本能そのものではなく、本能の受ける種々の抵抗です。言い換えると、意識となるのは本能におけるマイナス部分(空虚・穴・欠落)であり、行為と観念とを隔てている距離なのです。したがって本能においては、意識は一つの偶発事でしかありません。意識が本質的に強調するのは、本能の最初の一歩、すなわち一連の自動的運動全体を始動させる最初のプロセスでしかありません。一方、知性にとってこの欠損は常態です。抵抗を受けるのは、知性の本質そのものでさえあります。無機的な道具を製作することを原初的機能とする知性は、製作する場所と時期、道具の形式と素材を、幾多の困難の中で選択しなければなりません。そしてどんな選択をしようと、知性が完全に満足することはありません。何故なら新たに得られた満足は、常に新しい欲求を生み出すからです。そういうわけで、本能も知性もどちらも認識を含んでいるのは間違いないとしても、本能においては認識は演じられるものであり、無意識的であるのに対して、知性においては認識は思考されるものであり、意識的であると言うことができるでしょう。もっともこの違いは本性の差異と言うよりも、寧ろ程度の差異に過ぎません。意識にばかり気を取られていると、心理学的に見て知性と本能との主要な差異は何か、ということを見落とす恐れがあります。
両者の本質的な差異を見つけるためには、様々な明度の光によって照らし出されている本能と知性というこの二形式の内的活動に余り拘泥せず、それらの適用対象である二つの対象、根本的に異なる二つの対象に真っ直ぐ向かっていかなければなりません。
ウマバエが馬の脚や肩に卵を産み付けるとき、このハエは脚や肩で孵化した幼虫が、馬が体を舐める際に消化管に運ばれること、そして馬の胃の中で成長することを知っているかのように見えます。また神経中枢の位置する箇所を刺して獲物を麻痺させる膜翅類の昆虫は、腕利きの外科医のようでもあり、(獲物の体の構造を熟知した)博識な昆虫学者のようでもあります。ところで、(その博識さが)しばしば話題となったシタリスという小さな甲虫ほど何でも知っている昆虫が他にいるでしょうか。この鞘翅類の昆虫は、ミツバチの一種アントフォラが地下に作った巣穴の入口に卵を産み付けます。孵化したシタリスの幼虫は巣穴の入口でアントフォラを辛抱強く待ち伏せし、出てきた雄のアントフォラの体にしがみつきます。そのまま雄の体で過ごした後、「ハネムーン飛行」(繁殖期に巣から飛び立つこと)でアントフォラが交尾している隙に雄の体から雌の体に移動します。そこで産卵の時期をじっと待ち、産卵が始まると今度は(蜂蜜に浸っている)卵に飛び移ります。(浮き輪のように)自分の体を支えてくれる卵を数日で食べ尽くした幼虫は、食べ終えた卵の殻の上に身を落ち着けて最初の変態を迎えます。そうして蜂蜜の表面に浮かぶことができるまでに成長すると、この備蓄された養分(蜂蜜)を消費しながら蛹となり、成虫となります。あたかもシタリスの幼虫は、アントフォラの雄が巣穴から出てくること、ハネムーン飛行が雌に移る機会を与えてくれること、雌は蜂蜜の貯蔵庫に連れて行ってくれること、かくして変態してからの食料には不自由しないこと、変態するまでの間は、卵を少しずつ食べれば栄養を摂りつつ蜂蜜の表面で浮かんでいることができ、同時に卵から生まれる筈だったライバルを抹殺できること、これらのことを孵化したときからすべて知っているかのようであり、またシタリス自身、幼虫がそれを知っていることを知っているかのようです。仮にそこに認識があるとしても、それは暗黙の認識でしかないかも知れません。この認識は内面化して意識となる代わりに、外面化して正確な行動となります。しかしたとえ暗黙のものであるにせよ、昆虫の行動は、特定の瞬間、特定の場所において、特定の事象が存在し、或いは生じることを表象として素描しています。昆虫は学んだことがなくとも、それらのことを知っているのです。
(この段落に出てくるシタリスとアントフォラについては、竹内訳「創造的進化」の訳注が参考になるのでそのまま引用します。
「シタリス」(Sitaris)は、〈マルハナバチヤドリゲンセイ〉のことで、ツチバンミョウの仲間(本項、奥本大三郎氏の教示による)。
「アントフォラ」(Anthophora)は〈シジハナバチ〉のことで、ハナバミの一種。ベルクソンが書いているように「〈ミツバチ〉の一種」ではない(『昆虫記』第2巻に出ている)(本項、奥本大三郎氏の教示による)。)
一方、同じ観点から知性を検討すると、知性もまた、かつて学んだことがないのに或るものを知っていることに気付かされます。ただしそれは、本能の認識とは全く種類の異なる認識です。わたしたちはここで、生得性をめぐって哲学者の間で繰り広げられた古い論争を蒸し返すつもりはありません。ここではただ、誰もが認めざるを得ない次のこと、すなわち、幼児は動物が決して理解することのない或るものを直ちに理解する、ということを指摘するにとどめましょう。この意味で、知性は本能と同じく遺伝する機能であり、したがって生得的な機能と言えます。もっともこの生得的知性は、一つの認識能力には違いないにせよ、個々の対象については何も知りません。初めて授乳される生まれたばかりの乳児が乳房を求めるとき、この乳児はまだ見たことのないものを(恐らく無意識的に)認識している、ということを身をもって証明しています。しかし乳児に見られるこの生得的な認識は或る決まった対象(乳房)の認識であるがゆえに、それは知性に属する認識ではなく、本能に属する認識と考えるのが妥当です。それゆえ(もう一度繰り返すと)、知性はいかなる対象についても生得的な認識をもたらしません。しかし知性が生まれつき何も認識しないのであれば、知性には生得的なものは何もない、ということになってしまいます。ではこのようにあらゆる事物について無知である知性は、一体何を認識すると言うのでしょうか。――事物以外に、関係があります。生まれたばかりの乳児は、なるほど、特定の対象について、また或る対象の特定の性質について何も知りません。ところが乳児の前で、或る対象に或る性質を、或る名詞に或る形容詞を対応させて(関連付けて)みせると、乳児はすぐさまその意味を理解します。してみると知性は、主語と属詞との関係を生まれつき把握している、ということになるでしょう。動詞が表現する一般的な関係についても同じことが言えます。精神はこの関係を直接的に理解するので、動詞を持たない原始的な言語においてしばしば見られるように、言語はこの関係をわざわざ口にしなくとも暗示することができる(言わずに済ますこともできる)ほどです。したがって知性は、或るものと或るものとの等価関係、含まれるものと含むものとの関係、原因と結果との関係など、それが明示されているかそれとも単に暗示されているかにかかわりなく、主語、属詞、動詞で構成されるあらゆる文章に含まれる関係を自然に把握し、使いこなすことができます。知性はそれらの関係の各々について、個別的に生得的な認識を持っている、と言えるでしょうか。さらに、それらの関係は、還元不可能な関係なのでしょうか、それとももっと一般的な関係に還元することができるのでしょうか、そういった問題を考えるのは論理学者の仕事です。しかしどんな方法で思考を分析するにしろ、わたしたちは常に一つもしくは幾つかの一般的な枠に辿り着きます。精神はその枠を自然に用いることができる以上、それについて生得的な認識を持っています。そこで、次のように言うことができるでしょう。本能と知性が内に含む生得的な認識を検討すると、生得的な認識は、本能では事物にかかわり、知性では関係にかかわる、と結論することができる。
哲学者は、認識の素材(質料)と形式とを区別します。素材とは、生まの知覚能力によって与えられるものです。形式とは、体系的な認識を構成するために、それらの素材の間に打ち立てられる関係の総体です。素材を伴わない形式は、果たしてそれ単独で認識の対象となり得るでしょうか。勿論、なり得ます。ただしこの認識は、わたしたちの所有物と言うよりわたしたちの身に付いた習慣のようなものであり、状態と言うより傾向と言うべきものです。何なら、この認識はわたしたちの注意に備わった癖のようなものだと言っても構いません。例えば小学生は分数の書き取りをさせられることがわかると、分子、分母の値を知る前から横線を引いて待ち構えます。したがってその生徒は、それら二つの項のいずれも知らないのに、両者の一般的な関係を思い浮かべていることになります。生徒は素材のない形式を認識しているのです。同様に知性は、あらゆる経験に先立つ枠(下記参照)、そこにわたしたちの経験が嵌め込まれる枠を認識します。そういうわけで、素材と形式という、慣用され定着しているこの二つの用語を取り入れ、知性と本能との区別を次のようなより正確な定式で表すことにしましょう。知性は、その生得的な部分では形式に関する認識であり、本能は素材の認識を含んでいる。
(この種の枠の具体例として、「物質と記憶」の運動図式、「知的な努力」の動的図式が挙げられます。また、「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」に出てくる「経験以前に、経験を可能にする諸条件が存在する。現象の多様性の上に、精神の綜合的努力が存在する」という言葉の意味も、この「あらゆる経験に先立つ枠」という表現から読み取ることができます)
この第二の観点、すなわち行動の観点ではなく認識の観点からしても、生命一般に内在する力はやはり一つの限定された原理であるように思われます。この原理のうちでは、二つの異なる認識方法、(同一の根から)分岐した二つの認識方法が当初共存し、相互に浸透し合っています。第一の認識は、特定の対象の素材そのものを直接捉えます。それは「ここにこれがある」と断言します。第二の認識は、どんな特定の対象をも捉えることができません。それは或る対象を別の対象に、或る部分を別の部分に、或る観点を別の観点に関連付ける自然的な能力、つまり手にした前提から結論を引き出し、既知のものから未知のものへと移行する自然的な能力に他なりません。この認識は、最早「これがある」とは断言しません。それが口にするのは、単に、もし条件がこれこれであるならば、条件付けられたものはこれこれになるだろう、ということです。つまり本能的な性質を持つ第一の認識は、哲学者が定言的命題と呼んでいるものによって定式化されるのに対して、知性的な性質を持つ第二の認識は、常に仮言的に表現されます。この二つの能力のうち、初めは第一の能力の方が第二の能力よりずっと好ましいように思えます。もし第一の能力がその対象を無際限に拡張できるのであれば、確かにその通りだったかも知れません。しかし実際には、第一の能力は或る特殊な対象、それもその対象の限られた部分以外に適用されることは決してありません。この能力は、少なくともそうした対象に関する限り、内的で完璧な認識を有します。それは表面に現れる認識ではなく、遂行される行為のうちに含まれる認識です。これに対して、第二の能力に備わっているのは、外的で空虚な認識でしかありません。しかしまさにそのために、第二の能力は、無限の対象が代わる代わる挿入される枠を提供できる利点を持ちます。諸々の生命の形態を貫いて進化する力は一つの限られた力であるがゆえに、自然的、すなわち生得的な認識の領域においては、二種類の制限、一方は外延の制限、他方は内包の制限のいずれかを甘受しなければならなかったかのように見えます。前者の場合、認識は充実した完璧なものとなり得る代わりに、特定の対象に限定されます。後者の場合、認識は最早特定の対象に限定されませんが、それはこの認識が内容のない形式の認識に過ぎず、何も含んでいないからです。当初相互に浸透し合っていたこの二つの傾向は、成長するために分離しなければなりませんでした。それらはめいめい成功を夢見て世界に飛び立ち、最終的に本能と知性に辿り着いたのです。
行動の観点ではなく認識の観点から見た場合、知性と本能は、以上のような分岐した二つの認識様式によって定義されます。とは言え認識と行動は、同一の能力の二つの側面に過ぎません。実際、第二の定義が、第一の定義を別の形に書き換えたものに過ぎないことを見て取るのは難しいことではありません。
本能が何よりもまず有機的に組織された自然の道具を用いる能力であるならば、当然それは、その道具についても、それが適用される対象についても、生得的な認識(潜在的、もしくは無意識的なものではあるにせよ)を含んでいなければなりません。それゆえ認識の観点から言えば、本能とは事物についての生得的な認識であることになります。一方、知性は無機的な、すなわち人為的な道具を製作する能力です。もし自然が、或る生物が知性を有するがゆえにその生物に有用な道具を賦与しなかったとすれば、それはひとえにその生物が環境に応じて製作を変化させることができるよう仕向けるためでしかありません。したがって、どんな環境においても困難を切り抜ける手段を見極めるのが知性本来の機能であると言うことができます。そこで知性は、最も役に立つものを、つまり提示された枠に最もうまく嵌まるものを探求することになるでしょう。知性の機能は、本質的に、所与の環境とそれを利用する手段との関係に向かうことになるでしょう。知性の機能に生得的に備わっているのは、まさにそういった諸々の関係を打ち立てようとする傾向に他なりません。この傾向のうちには、極めて一般的な諸関係についての自然的な認識が含まれており、一般的な諸関係という文字通りのこの生地(素材)を、個々の知性に特有の活動がより個別的な関係に裁断します。それゆえこの活動が製作に向かうとき、認識は必然的に関係に向かいます。ところで、知性のこの全く形式的な認識は、本能の素材的な認識に比べ計り知れない利点を持っています。形式はまさに空虚なものであるがゆえに、仮にそれが何の役にも立たない事物であっても、数限りない事物で、代わる代わる、好きなようにその形式を満たすことができます。そのため、形式的な認識は実用を目的として生み出されたものだとしても、実用的なものに対象が限定されているわけではありません。知的存在は、自己自身を超越するための手段を自分のうちに蔵しているのです。
もっとも、この知的存在は自分が望むほど、或いは自分が考えているほど自己を乗り越えることはできないでしょう。知性の性格は純粋に形式的であるために、思弁にとって最も探求し甲斐のある対象のうちに身を置くのに必要な底荷が欠けているのです。逆に本能は、望み通りの素材を手にすることができますが、対象を遠くまで探しにいく能力を欠いています。本能は思索しません。わたしたちはここで、この研究にとって最も興味深い点に触れることになります。以下に示す本能と知性との差異こそ、これまでわたしたちが(本能と知性についての)分析によって抽出しようとしていたものだと言っても過言ではありません。わたしたちはそれを次のように定式化することにしましょう。――知性だけが探求し得る事物が存在するが、知性は独力でそれを見つけることは決してできないだろう。それを見つけることができるのは本能だけである。しかし、本能はそれを探求することは決してないだろう。
(つづく)