画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

フォントを一般に公開

2010-12-23 | フォント
今日からDL-MARKETというサイトで「かちどき」を一般に公開することにしました。
DL-MARKETは有料商品の販売が主体ですが、「かちどき」は無料でダウンロードできます(ただし会員登録が必要)。

これに伴い、今までアップしていたデータは削除しました。またフォントにも若干の修正を加えましたので、万一「かちどき」を利用しているという方がいらっしゃいましたら上記のサイトからダウンロードし直して下さい。




さて、現在記事を一本書いているところですが、着地点が見つからずなかなか書き上がりません。果たして年内にもう1回更新できるかどうか微妙なところです。

フォントの一部修正とダウンロード先変更

2010-12-11 | フォントダウンロード
公開後まだいくらも経っていませんが、「かちどき」W1とW2の一部を修正しました。修正ファイルは下記URLからダウンロードできます。

修正ファイルのみ(W1, W2)
https://sv1.drivee.jp/mailbin/?username=cah50630&unique_key=kNsQYzWmHODpqESdOdJEt4376ucnyo
修正ファイルを含むすべて(W1, W2, DB, B, H, U)
https://sv1.drivee.jp/mailbin/?username=cah50630&unique_key=EsUXvkCOESTNNUBJivYqoVs4n7V6MQ
これに伴い最初のアップロード先のデータは削除しました。

修正したのはW1の「へ・べ・ぺ」とW2の「へ・べ・ぺ」の計6文字です。



フォントを入れ直しても古いフォントの字形のまま表示されることがあるかもしれません。その場合は「武蔵システム」OTEditのQ&Aなどを参照してください。

悪運

2010-12-08 | 雑談
フォントを公開してはみたものの、我ながら使いどころがない書体だなと思います。暑中見舞いや年賀状に使えるような書体でもありませんし、ビジネス文書向きでもありませんし、僕のようなオペレーターは使いたくても自由にフォントを使える立場にはありません。まあそのへんのところは心配しても仕方がないので、あとは成り行きにまかせるだけです。

フォント作りが遅々として進まなかったので、その間面白くもない文章をひねり出して何とか間を繋いできたわけですが、わずか数年の間に火事に遭ったりトイレに閉じ込められたりと悲惨な人生だなぁと呆れた方もいらっしゃるでしょう。自分でも疫病神に祟られているんじゃないかとときどき思うことがある反面、ふだんは全く波風の立たない生活を送っているのも事実です。実際あとは二度空き巣に入られたことがあるくらいで、それ以外はいたって平穏な人生を送ってきました。いや、二回も空き巣に入られるというのはやはり尋常ならざる運の悪さというべきかもしれません。

空き巣に入られたといっても警察の人が数人来て部屋の中を調べたり指紋を採取したり交番に行って調書を取られたりしただけの話ですから、取り立てて書くようなことはありません。その後犯人が捕まったという後日談もなく、ただただ嫌な思い出として残っているだけです。

最初の被害にあったのは、大学在学中でした。その頃僕は大学近くの二階家に下宿していました。一階が大家さんの住まい、二階の三部屋が貸室という構成で、僕の部屋が四畳半、隣りは三畳しかないという劣悪な環境でした。今からするとひどく貧乏くさく見えるかもしれませんが、当時は(あるいは今も?)そのような下宿は珍しくなく、僕自身も特にひどい環境だとは思っていなかったのです。むしろ親元を離れ、自由を満喫できる場所を得たことに満足至極でした。

二階へは外階段を上って中に入るのですが、ある日大学から帰宅しその外階段の下まで来て上を見上げると、どういうわけか階段の途中に野良猫がいてこちらを見返り、僕の存在に気づくと隣の家との境にあるブロック塀を伝って逃げていきました。そんなことは今までなかったことなので、何となく胸騒ぎを覚えながら階段を上って二階の入り口に立ち、すぐ目と鼻の先にある僕の部屋を見ると、かすかにドアが開いているではありませんか。真っ青になって部屋の中に入った僕の目に飛び込んできたのは、明らかに物色されたあとのある勉強机の引出しでした。もう間違いありません。何者かが僕の部屋に侵入したのです。

空き巣に入られても、盗られたものがなければさほどショックを受けることもなかったでしょう。ところが運の悪いことに、そのときちょうどサークルの活動費数十万円が机の引出しにしまってありました。そんな大金を下宿の机の中に保管しておくなんて無用心にも程があるといわれそうですが、まさかこんなお金のなさそうなところに空き巣が入ろうなどとは夢にも思わなかったのです。サークルの活動費数十万円は当然机の中から消えており、それを確認したときには目の前が真っ暗になる思いでした。

真っ先に考えたのは、何とかこの事実をなかったものにできないかということでした。事実を隠蔽しようというのではなく、出来事そのものを歴史から抹消することができないかと考えたのです。悲しいかな一度起こってしまったことはコンピュータの操作のように取り消すことはできず、消しゴムで消すこともできません。理性なら即座にそう反論したでしょうが、このときの僕を支配していたのは理性ではありませんでした。理性以外の何物かが咄嗟にそのような馬鹿げた思考を僕に強いたのです。

それにしても空き巣に入られるというのは、何という不快な経験でしょう。それは部屋の中に土足で上がられたように、自分の心を土足で踏みにじられるような感覚です。空き巣という比較的軽度な犯罪ですらこのような感情を巻き起こすのですから、もっと重度の犯罪については推して知るべしです。

その後どうやって警察に連絡したのか、現場検証の様子はどうだったか、ほとんど覚えていません。ともかくしばらくの間は寄りかかるべき支えを失ったような頼りない感覚がつづき、普通に道を歩いているだけでも、そこらじゅうが悪意に満ち満ちているように感じられました。それは深く立ち込めた霧のように、追い払っても追い払ってもしつこくまとわりついてきました。

部屋に帰ったら帰ったで、見えない犯人が部屋の中を物色している様が頭に浮かび、幽霊と同居しているかのような居心地の悪さを感じました。部屋をいくら綺麗に片付けても、犯人の想念がゴミのようにそこここに落ちているように思われたのです。

悪徳や病気といったものは、実は人間にとって馴染み深いものです。人間から社会性を取り去ってみれば、あとにはほとんど悪徳しか残らないでしょう。このあまりにも明白な事実は、しかし社会という巨大なスクリーンに映し出された幻影によってかき消されてしまいます。人間は生まれながらにしてこの社会というバーチャルな世界の住人であり、目に見えている現実を本物と信じて疑わないのです。

僕が垣間見たのは、そのバーチャルな世界の綻びから覗いたどす黒くうごめく悪意の塊りでした。そのあまりにも強烈な毒気に当てられて中毒症状に陥り、本来見えてはいけないはずのものまで見えてしまうようになったのです。

ちなみに盗られたサークルのお金の何割かを弁償するため、その後何ヶ月かアルバイトをすることになりました。さすがに全額を返すのは負担が大きすぎるということで、残りの何割かは主だった先輩の人たちに肩代わりしてもらいました。

しかしよりにもよってサークルのお金を預かっているときに空き巣に入られるなどという偶然があるものでしょうか。あまりのタイミングの悪さに、ひょっとしてサークルの誰かが盗んだんじゃ……と一時は根拠のない疑心にとらわれたものです。冷静に考えればそんなはずはないと頭では納得できても、もやもやした思いはあとあとまで残りました。

もう一つ気になるのが、変事を予告するかのように階段の途中にいた野良猫の存在です。実は猫がいたという鮮明な記憶が残っているわけではなく、当時のことを思い出そうとするとそのようなシーンが浮かんでくるというだけの話なのです。したがって猫がいたというのは僕の無意識が捏造した隠蔽記憶かも知れず、実際には猫などいなかったのかもしれません。しかし僕の実感からすると、部屋のドアを開けたときに異変に気づいたというよりも、その時点より前にすでに不吉な胸騒ぎを覚えていたという気がしてならないのです。もしそれが正しいとするなら、野良猫を見たという記憶もあながちニセの記憶だとはいえなくなります。

仮に猫がいたのが事実だったとすると、それは単なる偶然だったのでしょうか。それとも凶兆を知らせる何かのお告げだったのでしょうか。

運や偶然という言葉は人間にとって親しいものでありながら、その言葉が何を表しているかについて深く考えることはほとんどありません。はっきりした意味はわからなくても何となく使いこなせてしまうほど、これらは人間の自然な発想から生まれたものだともいえます。

たとえば、ある出来事に関して「それは運がよかった」とか「運が悪かった」とか、ある出来事が起きたことは「単なる偶然だよ」というような言い方をします。これらの言葉の使い方を見ていると、運と偶然には互いに何の関係もないか、相反する意味を表しているようにも見えます。果たして本当にそうなんでしょうか。

     *

「道徳と宗教の二源泉」という著書の中で、ベルグソンは運や偶然といった観念についてきわめて明快な分析を加えています。ここであまり話を広げても仕方がないので、必要な点だけをかいつまんで紹介してみることにします。

生物が生きるために必要な手段(能力)には、本能と知性という二つのものがあります。どちらも有効な手段であり、両者の間に優劣はありません。しかしその能力が最大限に発揮されるためには、いずれか一つを犠牲にしなければなりません。知性が最大限に進化した先には人間の社会があり、本能は昆虫の社会において花開きます。両者は一方の能力を捨て去ることによって進化の両極に位置することができるようになったのです。

人間は知性という武器を手に入れたものの、そのためには本能を捨て去らなければなりませんでした。しかし自然は知性だけの力で太刀打ちできるほど甘い相手ではありません。ときには本能の助けを借りることが必要になってきます。そこで知性はどうするかというと、本能によって直接人間に働きかけることができない代わりに、実際の経験と見紛う知的表象を発生させ、これによって間接的に人間を操ろうとするのです。それはちょうど、ミステリにおける黒幕が傀儡を操り、犯罪を指嗾するようなものといえるかもしれません。傀儡となっている人物から事件の真相は見えてこないように、知性が自分の内部に生み落とした表象から生命の真の働きは見えてきません。全体の構図を浮かび上がらせるためには黒幕の存在にまで遡らなければならないのです。

知性によって傀儡として利用される表象の例は、枚挙に暇がありません。神話や呪術といった複雑な体系を備えているものから、善霊や悪霊といったものにいたるまで、実に様々な段階のものがあります。忘れてはならないのは、これらはすべて目的を離れた余分な装飾を身にまとっており、当初の原型を保ってはいないということです。そこでこの善霊や悪霊といった観念から余分なものを取り去り、生まれたての状態に戻してみましょう。現代人の考える「運」とまったく同じとはいわないまでも、それと極めて近いものが得られるでしょう。つまり「運」とは人間の原始的な思考、といって悪ければ自然な思考方法の名残りなのです。

「運」は適用される範囲を間違わなければある程度有用なものですが、その射程はきわめて狭小といわざるを得ません。射程の届かない範囲にまで闇雲に押し広げられた結果、それは何か得体の知れないものに変質してしまいます。今日世界のいたるところに残っている不合理な信仰や迷信がそれであり、これは知性を武器とする人間が不可避的に辿らなければならなかった道の一つといえます。なぜなら、知性は一種の病気のようにどこまでも果てしなく伝播していくものであり、途中で情報が間違って伝えられたとしても、伝染するのをやめないからです。伝言ゲームでしばしば起こるように、もともとあった情報は少しずつ歪曲され、そのひずみが雪ダルマ式に膨れ上がっていって、最後は原型をまったくとどめない奇妙奇天烈なものになってしまうのです。

人間はこの一方の袋小路に入り込んだまま、その場にとどまり続けるという選択肢もあったでしょう。しかしこの袋小路は打ち破られ、再び前進が始められることになります。それが物質を支配することによる科学への道であり、これによって漸次領土が広げられていくと同時に、はびこっていた不合理な信念は徐々に駆逐されていきます。こうして善霊や悪霊で満たされていた空間は、物理的法則に取って代わられます。

科学は順調に版図を広げ、その射程は今や宇宙にまで及んでいますが、科学の権勢の及ばない領域がなくなってしまったわけではありません。そういった領域では私たちの祖先の思考法が今なお有効で、運・不運やそれに類した観念が古参の現役選手として幅を利かせることになります。しかし科学の洗礼を受けた私たちは、祖先が見たのと同じ目でそれらの観念を見ることはできません。自然界は物理的な法則に従っているのを私たちは知っており、何事もその法則の網の目を通して物事を見る習慣が身についているからです。「運」という観念をそうしたメカニズムを通して見るとき、それはもはや「運」とは呼ばれず、「偶然」と呼ばれます。何のことはない、「偶然」とは「運」を別の視点から見たものに過ぎないのです。
(もっともこれらの観念は常に揺れ動いており、固定した意味を荷っているわけではありません。それらをどういう状態でとらえるかによって、微妙な意味のニュアンスを帯びることになります。「偶然」という観念が「運」から内容(意図)を抜き取る過程において生じるという意味で、それが「運」の否定的な意味を持つというのは間違いではありません)

     *

「運」という観念にはわずかに人格性の欠片が含まれており、古代においてそうした観念を生み出す原動力となったものにはすでに宗教の萌芽がある、とベルグソンは述べています。宗教が社会の安寧を保証するのと同じように、この種の観念は個々の人間に緊急避難的な安心をもたらすのです。そうした役割にとどまっている限り、この種の観念を目くじら立てて否定する必要もないといえるでしょう。それがまがい物の経験であれ、経験された事実には違いありませんし、曲がりなりにも人間や社会の役に立っているのですから。

僕が見た野良猫は何かのお告げなどでなく、猫を見て不吉な予感に襲われたのは、不幸な出来事に対する僕自身の怯えを表わしているに過ぎません。しかしそれはある意味自然な反応であり、必要な反応でさえあります。なぜならいつもと違う状況に接して何も察知できないようでは、危険を回避することは困難だからです。あのときは「たまたま」本当に空き巣という不幸な出来事につづけて出くわしたため、事前に感じた不吉な予感が当たったように思われたというのが真相でしょう。

ここまで書いてきて突然思い出したのですが、そういえば小学校低学年の頃にも、実家に泥棒に入られたことがありました。そのとき僕は姉と一緒に寝ており、深夜忍び込んできた賊が僕たちの部屋にまで入り込んで、寝ている二人のすぐそばで室内を物色していたらしいのです。ぐっすりと眠りこけていた僕はそれにまったく気づかず、明け方起こされて眠い目をこすりながら事の顛末を知らされたのでした。とはいっても何か大変な事が起こったんだというくらいにしか理解できず、今の今までそんなことがあったのも忘れていました。そんな古い記憶が蘇ってきたのも、空き巣に入られたときのことを思い出そうとして頭が活性化されたせいかもしれません。

これを含めれば、僕は人生で都合三回泥棒に入られたことになります。その他もろもろと合わせて考えると、やっぱり僕って運がないよな、という嗟嘆を禁じえません。