以上の分析を「物質と記憶」で確認しておきましょう。ベルグソンは次のように述べています。「(前略)この仮説(純粋知覚の仮説)は、おのずからいまひとつの仮説(純粋記憶の仮説)を伴う。実際、知覚はどんなに短くとも、つねになんらかの持続を占めるものであり、したがって、多数の瞬間を互いに他へと延長する記憶力の努力を要求する。のみならず、後ほど明らかにしようと思うが、感覚的性質の主観性は、とりわけ、私たちの記憶力の働きによる現実の一種の収縮からなっている。要するに記憶力は、直接的知覚の素地を記憶の布でおおう限りにおいて、同時にまた多数の瞬間を集約する限りにおいて、この二つの形式のもとで、知覚における個別的意識の主な要因、すなわち事物についての私たちの認識の主観的側面を構成するのだ」(「物質と記憶」第一章。ちなみに引用文中にある「この二つの形式」の記憶は、自動的再認と注意的再認というこれもまた二つの形式をとる記憶とは別の原理によって区別されている点にドゥルーズは注意を喚起しています。「(前略)再認には二つのかたちがあり、ひとつは自動的なもの、もうひとつは注意によるものである。これに記憶の二つのかたちが対応している。ひとつは運動的で《ほとんど瞬間的》であり、もうひとつは表象的で持続するものである。記憶内容の現実化という視点からされるこの区別と、記憶そのもの(記憶内容としての記憶、収縮としての記憶)の視点からされる全く別の区別とを混同してはならない」(「ベルクソンの哲学」第三章の注))。上の引用で「後ほど明らかにしようと思うが」とあるのは「物質と記憶」第四章のことで、事実第四章の後半に以下のような文章があります。「このようにして私たちは、長い回り道をへて、本書の第一章でとり出しておいた結論に立ちもどってくる。すでにのべていたように、私たちの知覚は元来精神ではなくむしろ事物の内に、私たちの内ではなくむしろ外にある。さまざまな種類の知覚は、それぞれ実在の真の方向を示している。しかし自己の対象と合致するこの知覚が、事実というよりむしろ権利において存在することを、私たちはつけ加えていた。具体的知覚には記憶力が介入しているのであり、感覚的諸性質の主観性は、まさしく、当初は記憶力にすぎぬ私たちの意識が、多数の瞬間を互いに他へと継続させることによって、唯一の直観の内へ収縮することに由来するのである」。「物質と記憶」第四章の内容には以前にも触れたことがありますが、さしあたりここではその議論の詳細をすべて辿り直す必要はありません。ベルグソンがこの章で立証しようとしたのは何だったのかということだけ簡単に振り返っておきます。
「物質と記憶」第四章で扱われているのは一言でいうと二元論の問題です。精神と身体の関係を考える際に両者の合一の妨げとなっているのが以下の事実です。まず「自分の知覚には不可分の統一を意識するのに、対象はというと、本質上、限りなく分割可能なように思われること」、次に「知覚される宇宙は同質的で計算可能な変化に解消されるべきものと思われるのに、私たちの知覚が異質的諸性質からなっているということ」です。以上の事実から、一方(精神)は非延長的で質を有し、他方(物質)は無限に分割可能な延長物で計算可能な変化(量)に解消される、という想定がなされ、延長と非延長、質と量という対立軸が形成されます。精神と身体という二つの原理の対立を取り除き、両者を調停させようとする試みには、一方の項(非延長と質)を他方の項(延長と量)から導き出そうとする唯物論と、逆に一方の項(非延長と質)から他方の項(延長と量)を構築しようとする観念論がありますが、ベルグソンはそのいずれにも反対します。それどころか彼は純粋知覚と純粋記憶の間に質的な差異があることを示すことにより、精神と身体とを根本的に区別するに至ったのです。しかし実際に彼の分析が引き離したのは二元論に含まれる「相矛盾した要素」であって、精神と身体ではありません。この章の目的は、純粋知覚の仮説によって非延長と延長の対立が、純粋記憶の仮説によって質と量の対立が取り除かれ、精神から身体への、身体から精神への移行が知らず知らずのうちに行われうるものであることを示すことにあります。
純粋知覚の仮説とは何だったでしょうか。それは「われわれは物をそれがある場において知覚し、知覚はわれわれを一気に物質のなかに置き、知覚は非人格的なもので、知覚される対象と一致するというテーゼ」です。したがって知覚は知覚される事物の中にあり、知覚が事物の一部を形成すると同時に、事物のほうも知覚の性質を共有することになります。「物質的延長は、もはや幾何学者の語るあの多様な延長ではないし、またありえない。それはむしろ、私たちの表象の不可分的ひろがりによく似ている」(「物質と記憶」第四章)。こうして意識と物質、精神と身体は知覚において接触するわけですが、「私たちが二元論的仮説において、知覚される対象と知覚する主体との部分的合致」を認めたがらないのは一体何故でしょうか。それは先ほど述べたように、「自分の知覚には不可分の統一を意識するのに、対象はというと、本質上、限りなく分割可能なように思われる」からです。しかし物質のこの分割可能性は「まったく物質への私たちの働きかけ、すなわち物質の局面を変化させる私たちの能力(行動)にかかわるものであり、物質そのものではなく、この物質をうまくとらえるためその下に張りわたす空間に属する」ものであって、「具体的な不可分の延長」(物質)そのものに属するものではありません。つまり物質が無限に分割可能なものと看做されるとき、空間と延長が混同され、対象は絶対的に独立したものと想定されているのです。悟性は一方また延長を細分化し、「交互に感情的感覚に分解したり、純粋観念に似せて蒸発させたりすることによって」非延長的感覚を獲得します。こうして「両極端の一方に、無限に分割可能な延長を立て、他方には絶対にひろがりのない諸感覚を」立てることによって悟性が人為的に作り出したのが延長と非延長の対立です。ところで物質が無限に分割可能なものではないとすると、それは必然的に持続を持つものだということにならないでしょうか。まさにその通りだというのがベルグソンの考えです。「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなものであって、(ただし)そこではすべてが平衡を保ち、補い合い、中和しているのである。それはまぎれもなく私たちの知覚の分割不可能性を呈示するのだ」。再度ドゥルーズの言葉を借りると、「物質的な物は直接に持続を分有して、持続のひとつの極限のケースを作っている」(「ベルクソンの哲学」第四章・再掲)のです。このように考えれば、「自分の知覚には不可分の統一を意識するのに、対象はというと、本質上、限りなく分割可能なように思われる」という矛盾、延長と空間を混同することによって生じた対立も氷解します。「知覚および物質というこの二つの言葉は、私たちが行動の先入観ともいうべきものから免れるにつれて、このように互いに歩み」寄り(「物質と記憶」第四章・再掲)、「感覚はひろがり(文庫では「伸張性」、竹内訳では「外延性」)を回復し、具体的延長物はその連続と自然的不可分性をとりもどす」(同上)のです。
他方純粋記憶の仮説は「純粋知覚にかんする私たちの説の理論的帰結」(「物質と記憶」概要と結論)であり、同時にそれを実証するものでもあるのですが、これを手短に要約するのは困難です。ひとまず次の点を確認しておきましょう。「もし脳の状態がけっして現存する対象についての私たちの知覚を生み出すものではなく、ただそれを継続するのみであるとすれば、それはまた、私たちがその知覚について喚起する記憶をも、やはり継続発展させ、結末まで到らせることはできようが、これを生まれさせることはできないであろう。また他面、現存する対象についての私たちの知覚は、この対象そのものの何ものかであったわけだから、不在の対象についての私たちの表象は、現存と不在の間にいかなる段階も媒質もない以上、知覚とはまったく秩序を異にする現象であろう」。したがって「記憶力は脳の機能とは別ものであり、知覚と記憶との間には、程度の差ではなく本性の差がある」(同上)。
純粋記憶の仮説が純粋知覚の仮説を実証するものであるということはしばらく措き、純粋知覚の仮説から導かれるのは、「知覚における私たちの意識の役割は、記憶力の連続的な糸によって、私たちよりはむしろ事物の一部をなすであろうような瞬間的観照の切れ目のない系列をつなぎ合わせること」だということです。何故なら「身体の目的は、刺激をうけとってこれを予見不可能な反作用に仕上げることであるにしても、反作用の選択は偶然的に働くべきものではないからである。この選択は、疑いもなく、過去の経験から活を得るのであり、類似した状況が残すことのできた記憶に訴えることなしには反作用は起こらない。だから、果たすべき行為の不確定は、たんなる気まぐれと混同されないためには、知覚されるイマージュの保存を必要とする」(「物質と記憶」第一章)。「もろもろの瞬間をたがいに結び付け」ることはドゥルーズのいう「記憶の第二の側面」(集約としての主観性)であり、精神の最初の、そして最低限の働きでもあります(もっともこの働きは後述するように記憶機能の高まりに比例して高度化します)。さて、精神から身体への、身体から精神への移行が知らず知らずのうちに行われるように、延長と非延長の対立、質と量の対立、そして自由と必然の対立はそれぞればらばらに存在しているのではありません。質と量の対立は一部延長と非延長の対立にまたがっており、一部自由と必然の対立にまたがっています。それらを一つずつ見ていくことにしましょう。
実際、質と量の対立、すなわち意識と運動の対立は、延長と非延長の対立において意識の側に属すると想定されていた知覚を知覚された事物の内に戻した時点ですでにかなり緩和されています。が、それでもなお問題は残るでしょう。まず科学が計量する変化は、原子等の個体性を持った基体(物質の構成要素)の多様性・多元性に由来し、変化そのものはそれらの基体の「偶有的属性」(「物質と記憶」概要と結論・竹内訳)でしかないように思えます。平たく言うと、変移するのは完全に独立した何らかの基体であって、変化とはそれら多元的な基体同士の関係を表すものでしかなく、基体そのものは変化しないように思えます。かくして知覚における質的変化と対象における量的変化を結び付けるものは何もないように見えます。しかし先に述べたとおり、物質の分割可能性が「まったく物質への私たちの働きかけ、すなわち物質の局面を変化させる私たちの能力(行動)にかかわるもの」だとすれば、完全に独立した基体という観念は象徴的な意味しか持ちません。科学自体(これは「物質と記憶」第四章で言及されているファラデーとトムソンの理論を指しています)がそのような観念を退けるべきことを暗に認めています。そうだとすれば、科学の計量する変化は必ずしも純粋に等質的・量的なものだとは最早言えなくなるのではないでしょうか。次に問題となるのは質(感覚)と運動(外的な量的変化)の対立、「諸性質の異質性と、延長中での運動の見かけの等質性」との間にある障壁ですが、これは運動の基盤としての独立した基体という観念を否定した時点であらかた崩れ去っています。運動の基盤としての独立した基体という観念には象徴的な意味しかない以上、その基体(運動体)の偶有性としての運動、「原点をかえれば不動になるこの抽象的運動が、現実の、すなわち感ぜられる変化」を基礎づけているとは到底考えられません。逆に次のように考えれば、質と運動を容易に結び付けることができます。「すなわち具体的な運動は、意識と同じように、その過去を現在へと継承発展させることができ、反復を通じて、感覚的諸性質を生み出すことができるものであって、すでに意識の何ものかであり、すでに感覚の何ものかである」(「物質と記憶」概要と結論)。ただ自然界に存在するこの質は無数の瞬間に配分され、薄められているために等質的と見えるのです。この薄まった質、「異質性の劣る諸変化」を人間に感じられるような「異質性のまさる諸変化」にまで収縮することこそ記憶の第二の役割(収縮としての記憶)です。具体的・現実的知覚は「どんなに短い場合を仮定しても、すでに、相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による綜合」(「物質と記憶」第四章)であり、「かならずその見かけの単純さの中に、莫大な数の瞬間を縮約して」(「物質と記憶」概要と結論)います。とすれば、「感覚的諸性質の異質性は、私たちの記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものであり、客観的諸変化の相対的等質性は、それらの自然な弛緩から由来すると考えるべき」(「物質と記憶」第四章)ではないでしょうか(この「自然な弛緩」という表現も、訳本によって三者三様です。文庫本では「それら本来の弛緩」となっており、竹内訳では「自然界においてそれらが弛緩していること」となっていますが、納得度だけから判断するとここでも竹内訳が適切であるように思えます)。そのように考えれば質と量という互いに還元不可能なものの対立は自然消滅し、「私たちの表象の内で直視される感覚的諸性質と、計算可能な変化として扱われる同じその諸性質(これが一般的には量と看做されているわけですが)との間には、持続のリズムの相違、内部的緊張の相違」、つまりは収縮と弛緩の度合いの相違しか存在しないことになります。ひろがりや緊張という観念が等質的空間や純粋な量と決定的に異なるのは、それらがいずれも明確に規定された度合いを許容すること、二つの異なった傾向を調停可能だということです。等質的空間や純粋な量は、行動の要求するところに従いひろがりと緊張というこの二つの類概念から分離された抽象的概念でしかありません。
では最後の対立、自由と必然の対立をどのように理解したらよいのでしょうか。「受けた作用にたいして反応するのに、その作用と寸分たがわないリズムで同じ持続の中に続いていく反作用をもってすること、現在、それも絶えず再開する現在の中にあること、これが物質の基本法則だ。ここにこそ必然性が成り立つのである」(「物質と記憶」第四章・再掲)。生命あるいは意識は物質のこの必然性を完全に打ち破ることはできません。何故なら必然性から完全に解放された自由が存在すると考えることは、もし世界に物質が存在しなかったら、と考えるのと等しく無意味なことだからです。生命にできるのは、せいぜいその必然性を曲げることだけです。そのために生命は「二つの相補う方法によってはたら」(「意識と生命」)きます。一つはすでに見たように、「物質が長い間に集積したエネルギーを、自分の選んだ方向に、一瞬間に解放する爆発的な行動」です。もう一つが今述べた物質の収縮です。「何ゆえ知覚は諸振動数の広大なる領域から、さまざまな色となる特定の振動数を収集するのか――まず何ゆえ知覚は振動数を収集するのか、次いで何ゆえ他の振動数ではなくてこの振動数を収集するのか」(「思想と動くもの」緒論)という問題に関しては以前にも簡単に触れたことがありますが、ここでその根拠を問うことは止め、事実だけを記すにとどめます。しかしその前に、別の「事実の系列」も見ておいた方がいいかも知れません。まず根本的な問題として、意識とは何でしょうか。「わたしたちが実際に知覚するのは」、現在という数学的な瞬間ではなく、「二つの部分からなるある持続の厚み」、「過ぎたばかりの過去とすぐに来る未来」です。したがって「意識はあったこととあるだろうこととの間の連結線、過去と未来の間にかかった橋である」と言えます。ところで人間や高等な動物において意識が働くのは「脳の仲介を通じて」であることは明らかです。だからと言って意識が脳の機能であるということにはなりません。「脳は、いわば身体組織の一点からうけた電流を、思いどおりの運動の機関の方へ向けることのできるスイッチ」であり、最高度に発達した「選択の器官」なのです。この選択は、動物の最も低い段階の生物の運動にも観察することができます。ただそれは自動性と一つに溶け合っているために明確な形をなしていないというに過ぎません。このようにすべての動物において大なり小なり選択の機能が働いている一方で、意識には忘れてはならない特徴があります。それは「わたしたちが決意したり選択したりする必要がなくなるにつれて、それらに関する意識は減少し」、逆に選択を迫られれば迫られるほど意識がはっきりするということです。「だからわたしたちの意識のさまざまな密度は、けっきょくのところ、わたしたちが自分の行為においてどれだけの選択をしているかという大きさに応ずる」ということになるのではないでしょうか。「意識が記憶と予想を意味するというのは、意識が選択と同義語だということなのです」。さて、物質世界は「それ自身にまかされれば、決定的な法則に従い」、「物質は一定の条件では一定の動き方を」するのに対して、「生物は選択し、あるいは選択しようとします」。すべてが必然性に支配された世界で、生物のまわりにだけ不確定な地帯が形成されるのです。生命と物質、意識と物質性というこの二つの存在形式は根本的に異なっており、それぞれ別の生き方をしているので、どちらかが決定的な勝利を収めるということはありません。好むと好まざるとにかかわらず両者は折り合いをつけるしかなく、ただうまく折り合うかまずく折り合うかという折り合い方の違いがあるだけです。たとえそうであるにせよ必然である物質と自由である意識の間に一見妥協の余地は全くないように見えます。もし「物質の決定的な動きがその厳密さをゆるめられないとすれば」、確かにその通りでしょう。「しかしあるとき、ある点で、物質がある弾力性を示すものとしてみましょう。そこには意識が座を占めるでしょう。意識はそこに、ごく小さくなって坐るでしょう。つぎに、一度席を占めると、意識はふくらみ、自分の分けまえをふやし、しまいにはすべてを手にいれるでしょう。なぜなら意識は時間を利用するからです。そしてどんなにわずかな分量の不決定性でも、限りなく追加されれば、望まれるだけの自由がそこからえられるでしょう」。――このように考えると、「何ゆえ知覚は諸振動数の広大なる領域から、さまざまな色となる特定の振動数を収集するのか」という疑問の理由もおぼろげに見えてきます。「意識はまさにただ一瞬間にも、何億という振動を包んでいます。それは生気のない物質にとってはつぎつぎに継起するもので、もし物質に記憶があるとしたら、最初の振動は無限に遠い過去として最後の振動にあらわれるでしょう。わたしが目を開いてすぐにとじると、わたしが感じる光の感覚はわたしの一瞬間に含まれますが、それは外の世界にくりひろげられている異常に長い歴史を凝縮しています」。「そこで、わたしたちの知覚がこのように物質のたくさんの出来ごと(ものの持続)をちぢめるのは、わたしたちの行動がそれらの出来ごとを支配するためであると、考えるべきではないでしょうか」。「このような(物質と生命における意識の)緊張の相違がありますと、(生命の)意識がある一瞬間に意欲しなしとげた行動は、物質の無数の瞬間に分割することができますし、したがってまた、その行動のなかに、物質の各瞬間に含まれるほとんど無限小の不決定の和を求めることもできる」(以上「意識と生命」)のです。――自由と必然の対立をこのように意識と物質にまで遡って考えると、延長と非延長の対立、質と量の対立は結局その(自由と必然の対立の)内部に形作られたバリエーションに過ぎないことが理解されます。意識は物質に自分の自由を証明してもらうことはできず、自分自身で(自らの行動で)自分の自由を証明するほかはないのです。このことをベルグソンは様々な表現で繰り返し述べています。たとえば、「(前略)精神は純粋知覚の働きにおいて物質と重なり、その結果物質と合一するけれども、それにもかかわらず根本的に物質から区別されることがわかる。精神はこの場合すら記憶力、すなわち未来をめざしての過去と現在の総合であり、この物質の諸瞬間を集約して利用し、その身体との統一の存在理由である行動を通じてあらわれようとする点で、物質から区別されるのである」(「物質と記憶」第四章)。「――物質は、分析をどこまでも続けていくにつれて、ますます無限に速い諸瞬間の継起にすぎなくなる傾向があり、これらの瞬間は相互に導出し合うので、まさにそのため等価となるし、精神は知覚においてすでに記憶力であるから、現在への過去の継承発展、進行、まぎれもない進化であることがますます肯定されるのである」(同上)。「精神の最低の役割すらも事物の持続の継起的諸瞬間を結びつけることであって、精神が物質と接触をもつのはこの操作においてであり、また物質から区別されるのもこの操作によってであるとすれば、完全に発展した物質と精神との間には無数の段階があり、精神にはたんに不確定なばかりでなく理性的で反省的な行動の能力があると考えられる」(同上)等々。これらすべてに共通して言えるのが、精神と身体、精神と物質は空間的に区別されるのではなく、時間的に、というのは持続の緊張の差によって区別されるということです。しかしこうして意識は「みずからの形式を精神に負うことをたしかに証示するとしても、素材は自然に負うている」(「物質と記憶」概要と結論・再掲)以上、言い換えれば収縮されるのは弛緩したものである以上、自らの持続を物質に、ひろがりに関連付けずにはいられません。「私たちが自分の行動を注視するときの持続、自分を注視することが有益であるときの持続」とはそのようなものです。それは「私たちの諸状態が互いに溶け合う」代わりに、「諸要素が互いに分解し並列する持続」です。そこからあらゆる矛盾や対立が生じてきます。具体的に言えば、「現在のいわば瞬間的な私たちの知覚」が物質を諸対象へと分割すると同時に、「私たちの記憶力は事物の連続的な流れを感覚的諸性質へと固定させ」ます。この分割と固定という物質に対する自分の操作を外から眺め、抽象化したのが等質的空間と等質的時間です。それはむろん事物そのものの性質でもなければ、「私たちが事物を認識する能力の本質的な条件でも」なく、自らの持続と事物の持続に共通の物差し、どんな持続にも属さない「無差別の媒体」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)でしかありません。事物を正しく認識するには等質的空間や等質的時間から出発するのではなく、ひろがりや緊張といった中間的な観念(混合物)から出発し、それを質的に異なる二つの方向に分割したのち、再度収縮しなければならないのです。ドゥルーズは次のように述べています。「ベルクソンの方法には、一元論的な側面と二元論的な側面という二つの主な側面がある。われわれはまず《経験の曲がり角》の彼方に、さまざまな線、質的な差異をたどるべきであり、それから、それよりももっと先の方に、これらの線が集まる点を見つけ、新しい一元論の権利回復しなくてはならない。このプログラムは、実際に『物質と記憶』のなかで実現されているのである」(「ベルクソンの哲学」第四章)。「たとえば、これもまた『物質と記憶』第一章においてであるが、われわれは記憶の問題を正しい仕方で提起している。そこでは、記憶内容と知覚の混合物から出発して、われわれはこの混合物を分化しまた膨張した二つの方向に分割した。この二つの方向は、魂と身体、精神と物質との真の質的な差異に対応している。しかし問題の解決は縮小によってのみ得られる。つまりそれはわれわれが分化した二つの方向が新たに集まるもとの点、記憶内容が知覚のなかに入り込む明確な点、出発点の反映と理由としての潜在的な点を把握する場合である。このようにして、魂と身体、物質と精神の問題は、極度の収縮によってのみ解決される。そこではベルクソンは、客観性の線と主観性の線、外的な観察の線と内的な体験の線が、どのようにしてそのさまざまなプロセスの出口で、失語症に至るまで集約さるべきであるかを示している」(「ベルクソンの哲学」第一章)。ちなみにドゥルーズが解説しているこの(直観という)方法のプロセスは、回転と並進という記憶の現実化のプロセスを髣髴させないでしょうか。記憶の現実化においても動的図式が「この図式に同化されうるすべての回想とすべてのイメージを吸収することによって」(「知的な努力」)膨張し明確なイマージュに展開される一方で、この図式そのものは一つの統一を目指して徐々に自分自身を縮小しながら「ついにそれが物質化して現在の知覚となる終端、すなわちそれが現在の働く状態になる点、つまるところ、私たちの意識の極限の、私たちの身体のあらわれるこの平面」(「物質と記憶」概要と結論)にまで導かれなければならないのです。
(物質の収縮に関してはまだはっきりとイメージできない部分もあるのですが、シュヴァリエとの最晩年の対話の中でもこの問題に言及されています。ちょっと長くなりますが参考までに以下に引用しておきます(対話という形式を取っているため表現が少々ぶっきらぼうでわかりづらい部分もあるかもしれません)。――「この問題(いかにして精神と事物が一致するか)を、わたしは『物質と記憶』の第一章で扱った。いきなり答えを出すことは不可能だ。ルイ・ド・ブロイの物理学は、この説明を構成している。わたしとしては、自我を、意識が自我の中に措定するすべての属性をもったものとして措定する。わたしは、自我の性向が努力の感情を中心にして回転している、と見る。それでも、なお、この努力は一つの現実に対して働かねばなるまい。どうして、これが成功するのだろう。これは、ただ単に、われわれがいくつかの性向、たとえば、本能、気質、性癖といったものと、他方、われわれに与えられる現実からなにものかを獲得しようという要求とをもって生まれてくるからだと思う。あるXという(何らかの)過程によって、実際に役立たないすべてのものを斥け、外的現実から、われわれが働きかけ、われわれに有益なように変えることのできるものだけを保存するということがおこるに違いない。この操作が純粋に思弁的なものだとすると、なぜあるものは選出され、あるものは斥けられたかが分るまい。ここにカントの欠陥がある。カントは、知的認識を、なにか純粋に観想的なものとした。もしわれわれが、知覚はなにかに役立つべきものであり、知覚において、われわれを取りまいている現実の大部分は除去され、ただ、努力によって働きかけることのできるものしか保存されていないという考えから出発すれば、われわれが保存するものが、いかにして、われわれの形式の適用に応ずるか、たいへんよく理解できる。/『物質と記憶』の第一章では、知覚において現実の大部分が除去されていることが示されている。ルイ・ド・ブロイは、大きさにさまざまの秩序のあることを示した。人間は、ある一つの秩序の大きさに相応する。対象は、この秩序に限定される。そのほかのところでおこることは知覚されない。しかも、これは幸いなことだ。そうでなければ、われわれは無数の事物の中に散乱してしまうことになろう。/“行動の要求”とわたしが呼んだものは、大きさの諸秩序という観念を導入すると、もっとずっと明確になる。しかし、――この点でルイ・ド・ブロイの物理学は終るが、――そこには、ある合目的性が現われる。このテーブルが、わたしがもたれかかって字を書けるテーブルであるということは、ほとんど奇蹟的だ。というのは、想像力を絶する、無限にちいさな二つの原子の間にへだたりがあって、これらの原子にとってこのへだたりは、これら原子の直径に対する地球の直径よりずっと大きなものなのだから。しかも、これらすべてのものは、わたしがその上に物を置くことができる一つの対象に総合されている。これは、すべて、神秘だ。これらの聞いたこともないちいささ、これらの聞いたこともないへだたり、そして、それからある一定の形を引き出すことは不可能であるべきなのに、可能であるという事実。物質的連続性の総体は、わたしが働きかけることのできる事物に裁断されている。しかも、これらの事物は人為的なものではない。この同じ法則は、構成部分が無限にちいさいにもかかわらず個体を構成している、生長の可能な植物にも適用される。したがって、個体性を許す総合が、どこかでおこなわれるのだ。(この点、『思想と動くもの』の中で、一般観念について書いたことのあとで、わたしが言っていることを参照されたい)、このことは、わたしのそれ以前の著作では考慮にいれることができなかった。あたらしい物理学が、まだ存在していなかったからだ。しかし、わたしはこの点を、最近の著述の中で徐々に明確にし、最後の著作(おそらく『思想と動くもの』を指していると思われます)では、ルイ・ド・ブロイの理論の直接の結論を示した。」)
以上のように考えれば、ドゥルーズの次のような記述も容易に理解することができます。「実際に、ひとつの感覚とは何であろうか。それは受容する表面に何兆もの振動を収縮する作用である。そこから質は離脱する。なぜなら、質は収縮した量にほかならないからである。ここで、収縮(または緊張)の概念によって、われわれは同質の量と異質の質という二元性を超越し、連続した運動のなかにその一方から他方へと移行する手段を与えられる。しかし逆に、われわれが物質のなかに入って行くのに用いられるわれわれの現在が、われわれの過去の最も収縮した段階のものであるというのが本当であれば、物質そのものが、無限に膨張し、弛緩した過去のようなものになるだろう(それは非常に弛緩しているために、先行する瞬間は、あとにくる瞬間が現れるときには消えてしまっている。)今や、弛緩――または延長――の観念が、非延長と延長の二元性を克服し、一方から他方へ移行する手段をわれわれに与えようとしているのである。なぜなら、知覚が収縮するものが、まさに延長したもの、弛緩したものである限りにおいて、知覚そのものが延長しており、感覚は延長的であるからである(知覚は、われわれが時間を処理するのと《全く同じ割合で》われわれに空間を処理させる)(「ベルクソンの哲学」第四章・一部再掲)。――ここで「知性が物質のなかで収縮するのと同時に物質は持続のなかで弛緩する」という言葉をもう一度考えてみましょう。「知性が物質のなかで収縮する」とは何を意味しているのでしょうか。それは「知性が物質を支配できる緊張の点において、物質のなかに入りこむ」(「ベルクソンの哲学」第四章・再掲)ことです。そして先ほども述べたように、その場合意識は相補う二つの方法によって働きます。一つはものの持続の無数の瞬間を意識の持続の一瞬間に凝縮することです。このような凝縮が行われる目的、知覚において物理的事象の諸振動数の「一定の量的次元の選択」(「思想と動くもの」緒論)が行われる理由は、「延長の連続性の中から諸物体を切り取」(同上)り、不動化することによってそれに働きかけるためです。以前引用したベルグソンの言葉をもう一度繰り返すと、「われわれの知覚が要素的諸事象の特定度の凝縮にとどまるのは、まさに、物質をこの決定論の型にはめ、周囲の諸現象にはたらきかける手がかりとなる継起的規則性を諸現象から得んがため」です。これにより「生物の活動は事物の支柱となる必然性によりかかることになり、また必然性と釣り合うことにな」ります(以上「思想と動くもの」緒論・注)。別の観点から見ると、このことは次のことを意味しています。「物質界を構成するものは、あらゆる部分が互いに運動を通じて作用と反作用を交わす諸対象であり、あるいは、こう言った方がよければ、イマージュなのである。そして私たちの純粋知覚を構成するものは、これらのイマージュのただ中で、輪郭をあらわしはじめる生まれかけの私たちの行動である」。「それは意識的である限りにおいて、この物質の中で私たちのさまざまな欲求にかかわりのあるものを、「分割」あるいは「弁別」することにほかならない」。したがって「純粋知覚と物質との関係は、部分と全体の関係」であり、「物質の中には、現にあたえられているものより以上ものがあるけれども、異なったものがあるのではない」。しかし通常、知覚と物質の関係はこのように考えられてはいません。物質は「空間内の同質的変化として」表象され、知覚は「意識の内のひろがりのない諸感覚」として表象されるのです。それというのも「知覚の各々が、それ自身持続のある厚みを占めてひろがっていること、記憶力がそこに莫大な数の震動を圧縮していて、これらは継起的であるにもかかわらず全部いっしょに私たちにあらわれること」が見落とされているからです。「じっさい私たちの純粋な知覚は、どんなに速やかであるとしても、持続の一定の厚みを占めるものであるから、私たちの継起する知覚は、これまで仮定してきたように、けっして事物の現実的諸瞬間ではなくて、私たちの意識の諸瞬間」です。したがって「物質の感覚的諸性質そのものは、もし、私たちの意識を特徴づける持続の特殊なリズムからそれらをとり出すことができるならば、それ自体において、内から認識される」ことになるでしょう。そのためには「時間のこの不可分の厚みを観念的に分割して、好きなだけ多くの瞬間をそこに区別し、一言でいえば記憶力を全く取り除けばよい。そうすれば物質は、私たちの延長的感覚が多数の瞬間に配分されればされるほど同質的になり」、「空間内の同質的変化」(以上「物質と記憶」第一章)に限りなく近づいていきます。つまり直観に「あたえられているもの、現実的なものは、分かたれる延長と純粋な非延長物の中間にある何ものか」(「物質と記憶」概要と結論)であり、この「ひろがっているもの」の中で最初から知覚と物質は結び付いているのです。「両者(知性と物質)とも延長のなかに両者に共通のかたち、つまり均衡を見出す」とドゥルーズが述べているのは、そういう意味です。「この場合、知覚の主観的側面(知性の意味)は、記憶力の働きによる収縮からなるものであり、物質の客観的実在性(知性のかたち)は、この知覚が内部的に分解して生ずる多数の継起的震動」(「物質と記憶」第一章)に由来することになります。「知性が物質のなかで収縮するのと同時に物質は持続のなかで弛緩する」とは、結局のところ、「純粋知覚における、[両者(精神と物質)の]部分的な一致[同時的生起]」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)、自然界(物質世界)における「意識の孵化」(「物質と記憶」概要と結論・竹内訳)の瞬間を表現しているのではないでしょうか。「(前略)純粋知覚は、精神の働きのもっとも低いレベルであり、記憶機能を持たない精神活動であるかもしれないが、ほんとうはわたしが理解する意味での物質の一部であると言うべきであろう」。この最低限のレベルの精神、生命を持った物質は発達するにつれて「生命体が外的事物の展開されるリズムから身を引き離すことを可能にする内的な力」、「過去をますます効果的に捉え、それをもってますます深く未来への影響力を強める内的な力」、「つまり要するに、わたしが[本書で]特殊な意味合いをこめて用いている[生命に固有の]記憶機能という力」を強めていきます。「こうして、物質そのものと最高度の反省能力を獲得した人間精神とのあいだには、さまざまに異なる内的緊張度を以て記憶機能が介在している」(以上「物質と記憶」第四章・竹内訳)のです。
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さて、ドゥルーズの言葉を正しく解釈できたかどうかはともかくとして、この辺でそろそろ話を元に戻します。予定では、このあと「物質と記憶」第二章で詳述されている失語症の分析を取り上げるつもりでした。というのもそこで語られている運動図式がこれから述べること(知性の二大機能)の理解の助けになるのではないかと漠然と考えていたからです。しかしどうやらそれは見込み違いだったようで、殊更ここで取り上げる必要はないと考え直しました。代わりに空間という観念についてすでに述べたことを振り返りつつ予備的な考察をしておきたいと思います。
(つづく)