画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(46)

2014-11-09 | 雑談
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しばらくの間、物質に関する理論や精神に関する理論について、あるいは外界の実在性や観念性をめぐる議論について、わたしたちは何も知らないと仮定してみましょう。そのときわたしたちが目にするのは、言葉の最も漠然とした意味におけるイマージュ、感覚器官を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなる様々なイマージュです。これらのイマージュは、そのあらゆる要素が自然法則と呼ばれる一定不変の法則に従い、作用・反作用の法則に従っています。そしてこれらの法則を完全に知ることができれば、それぞれのイマージュに生じることを恐らく計算し予見することができる筈ですから、イマージュの未来はその現在のうちにすでに含まれており、現在に何も新しいものを付け加えることはない、と言うことができます。しかし知覚によって外側から知ることができるばかりでなく、感覚や感情によって内側から知ることができる点で、他のあらゆるイマージュからはっきりと区別されるイマージュがあります。それはわたしの身体です。そこでまず(わたしの身体の内部に)感覚や感情といったものが生じる条件を考えてみると、それらは常に、わたしが外界から受ける刺激と、わたしが行おうとする運動との間に割って入り、あたかもこれから行う行為に対してある種の不確定性を持ち込もうとしているかのように見えることに気付かされます。次にこれら様々な感覚や感情を調べてわかることは、どの感覚や感情もそれぞれ行動を引き出す力を秘めているのと同時に、それらには待機や保留などの判断も含まれているらしいということです。さらに詳しく見ていくと、それらの中には、まだ実行されてはいないものの準備が整いつつある運動を確認することができます。この運動は多かれ少なかれ有用性に基づいた意思決定を示すものですが、その決定は選択を許さない強制を意味するものではありません。それからわたしは、このような感受性が生物界の至るところに見られるようになったのはいつであったか自問し、これまでに学んだあらゆる知識を動員して、それは自然が生物に空間内を移動する能力を与えた後、生物種にその種にとって脅威となる危険を感覚という手段を通じて知らせ、そうした危険を回避するために必要な注意を個体に委ねたまさにその瞬間である、と結論します。最後にわたしは、意識が感覚や感情に与えた役割とは何かを意識自身に尋ねます。するとわたしの意識はこう答えます。見ての通り、わたしが自発的に行っていると思われるすべての行為には、感情または感覚という形で意識が付き従っている。それに対してわたしの行動が自動的になり、意識が最早必要なくなるや否や、意識は煙のごとく消え失せてしまうのだ、と。わたしが今感覚や感情について観察し、自問自答したことがすべて単なる錯覚ではないとすれば、感情的状態から発した行為は、ある運動から別の運動が導き出されるようにそれに先立つ現象から厳密に導き出されるものではなく、宇宙とその歴史に真に新しい何物かを付け加えている、と推測することができます。さしあたりここでは外的観察だけで満足し、自分に感じられ、自分の目に見えることを単刀直入に次のように述べて置きましょう。わたしが宇宙と呼ぶこのイマージュの総体においては、わたしの身体に代表される、ある特殊なイマージュを介してのみ真に新しいものが生み出されているように見える。

次に、わたしの身体と類似した生物体を対象に、身体というこの特殊なイマージュの構造を調べてみます。そこには二つのもの、すなわち刺激を神経中枢に伝える求心性神経と、刺激を中枢から末梢に導き、身体の一部あるいは身体全体の運動を引き起こす遠心性神経が認められます。この二つの神経の役割を生理学者と心理学者に尋ねると、彼らはこう答えます。神経系の遠心的な運動が身体もしくは身体の一部の運動を引き起こすものであるのに対して、求心的な運動、少なくともその中の或るものは外界の表象を生み出す役割を担っている、と。この点についてはどう考えるべきでしょうか。

求心性神経はイマージュであり、脳もイマージュです。そして感覚神経を通して脳に伝わる刺激もイマージュです。わたしが脳の刺激と呼ぶこのイマージュが外界のイマージュを生み出すためには、それは外界のおびただしいイマージュを何らかの形で含んでいなければならず、物質的宇宙全体の表象が脳内の分子運動の表象に含まれていなければなりません。ところで脳は物質的世界の一部であって、物質的世界が脳の一部なのではありません。こう述べれば、今述べた命題の不条理がたちどころに明らかとなるでしょう。物質的世界と呼ばれるイマージュを消滅させれば、それと同時に脳も、脳の一部である脳の刺激も消滅します。逆にこの二つのイマージュ、脳と脳内の刺激という二つのイマージュが消滅したとしましょう。その場合、消滅するのはただその二つのイマージュに限られます。つまりはごく些細なもの、広大無辺な絵画のうちの取るに足らない部分が消滅するに過ぎません。絵画の全体、つまり宇宙は(二つのイマージュが消滅しても)ほぼそっくりそのまま存続します。脳がすべてのイマージュが存在するための必要条件であると考えるのは、自家撞着以外の何物でもありません。何故なら脳は仮定によりイマージュ全体の一部に過ぎないのですから。同様に神経も神経中枢も、宇宙というイマージュが存在するための必要条件となることはできません。

今述べた身体とイマージュ全体との関係について、もう少し考えてみましょう。まずここに外界のイマージュがあります。次にわたしの身体があり、最後にわたしの身体によって周囲のイマージュにもたらされる変化があります。外界のイマージュが、わたしの身体というイマージュにどのような影響を及ぼしているかは明白です。それはわたしの身体に運動を伝えているのです。同様に、わたしの身体が外界のイマージュにどのような影響を及ぼしているかも明白です。わたしの身体はそれらに運動を返しているのです。それゆえわたしの身体は、物質的世界の中で、他の諸々のイマージュと同じように運動を受けたり返したりしているイマージュの一つに過ぎません。ただし他のイマージュと違う点が一つだけあります。それは、わたしの身体はどうやら受け取ったものの返し方をある程度選んでいるらしい、ということです。もっともそれが事実だとしても、わたしの身体、中でも特にわたしの神経組織が、宇宙という表象の全部または一部をどうして生み出すことができるでしょうか。わたしの身体は物質であると言おうと、イマージュであると言おうと、言葉の違いはこの際重要な問題ではありません。わたしの身体が物質だとしてみましょう。その場合、わたしの身体は物質的世界の一部であり、したがって物質的世界はわたしの身体の周囲に、身体の外部に存在しています。わたしの身体がイマージュだとしてみましょう。その場合、身体のイマージュはわたしたちがそこに認めるもの以外のものを生み出すことはできず、仮定により、それは身体のイマージュ以外のものを含んでいないのですから、そこから宇宙全体のイマージュを引き出そうというのは暴論と言う他はないでしょう。したがって対象に働きかけるよう定められた一個の物体、つまりわたしの身体は作用の中心(行動の中心)であって、表象を生み出すことはできません。

とは言えわたしの身体が周囲の対象に現実的で今までにない新しい作用を及ぼすことができるとすれば、たとえ身体が一個の物体に過ぎないとしても、それは対象に対して何らかの特権的な位置を占めている筈です。一般にあらゆるイマージュは、いわゆる自然法則に従い、ある一定の規則、計算さえできる規則に従って他のイマージュに作用を及ぼしています。それらのイマージュは(身体と違い)他のイマージュに作用するに当たって何も選択する必要はなく、周辺の領域を(生物のごとく獲物を求めたり危険を避けるために)探る必要もなければ、単に可能的な数々の作用をあらかじめ試す必要もありません。時が来れば自ずと必然的な作用が行われます。それに対してわたしの身体というイマージュの役割は、他のイマージュに対して現実的な作用を及ぼすことであり、実質的に可能ないくつかの行為の中から一つの行為を決定することだとわたしは想定しました。そしてこれらの可能な行為は、恐らく身体が周囲のイマージュから引き出し得る利益の大小に応じて示唆されるのでしょうから、逆に周囲のイマージュもそれらがわたしの身体に向けている面の上に、わたしの身体がそれらから引き出し得る利益を何らかの形で描き出していなければならないでしょう。事実わたしが観察するところによれば、外的対象の大きさや形、さらには色彩さえも身体がそれに近づくか遠ざかるかに応じて変化し、香りの強さや音の強さも(身体からそれらの香りや音の発生源までの)距離に応じて増減します。そしてこの距離というもの自体、何よりも周囲の物体がわたしの身体の直接的作用からいわば保護されている度合いを如実に表しています。視野が広ければ広いほど(見通せる距離が長いほど)、わたしを取り巻くイマージュは徐々に均一になっていく背景の中に溶け込み、わたしとは無関係なものになっていきます。逆に視野が狭ければ狭いほど(見通せる距離が短いほど)、その視野に収まる対象は、わたしの身体がそれらにどれだけ触れやすいか、あるいはそれらをどれだけ動かしやすいかに応じて、明確に秩序付けられています。したがってそれらの対象は、わたしの身体のあり得べき影響を鏡のようにわたしの身体に向けて反射しており、わたしの身体の影響力の大小に応じて規則正しく配列されています。わたしの身体を取り囲む対象は、わたしの身体がそれらに対して及ぼし得る作用、言い換えるとわたしの身体の可能的作用(可能的行動)を反射しているのです。

さてここで、わたしの身体以外のイマージュには触れることなく、身体というイマージュにだけほんの少し変更を加えてみましょう。すなわち身体のイマージュのうち、脳・脊髄系の求心性神経をすべて切断したと仮定してみましょう。そのとき何が起こるでしょうか。いくつかの神経束を、メスによって切断したとします。しかし身体を取り巻く宇宙にも、身体のそれ以外の部分にさえ何の変化も生じないでしょう。加えられた変更は、したがって微々たるものに過ぎません。にもかかわらず、現実には「わたしの知覚」全体が完全に消失します。一体そこで何が起こったのか、もう少し詳しく調べてみましょう。まず宇宙全体を構成するイマージュがあり、次いでわたしの身体と接しているイマージュがあり、最後にわたしの身体そのものがあります。最後に挙げたこの身体のイマージュの中で、求心性神経が通常果たしている役割は運動(刺激)を脳や脊髄に伝達することであり、伝達されたこの運動を、遠心性神経が末梢に送り返します。したがって求心性神経の切断は、わたしたちが理解し得る限りでは、ただ一つの結果しかもたらしません。それは末梢から中枢を経由して末梢に戻る(運動の)流れを遮断することです。その遮断の結果、わたしの身体は周囲の諸事物から、それらに働きかけるために必要な運動の質と量に関する情報を汲み取ることができなくなります。この情報は行動に関するものであり、ただ行動にのみ関するものです。にもかかわらず、消失するのはわたしの知覚です。ということは、わたしの知覚はわたしの身体の潜在的あるいは可能的な行動を、イマージュの総体の中にちょうど影か反映のように映し出している、ということではないでしょうか。ところでメスがごくわずかな変化しか引き起こすことのできなかったイマージュの体系(宇宙全体のイマージュ・イマージュの総体)は、一般に物質的世界と呼ばれるものであり、他方、(その変化によって)消失したものは物質に関する「わたしの知覚」です。ここから取り敢えず次の二つの定義を引き出すことができます。わたしは、イマージュの総体を物質と呼ぶ。その同じイマージュがある特定のイマージュ、すなわちわたしの身体の可能的な行動と関係付けられたとき、これを物質の知覚と呼ぶ。

今述べた関係をさらに深く検討してみましょう。求心性神経と遠心性神経、それに神経中枢を備えたわたしの身体について考えてみます。わたしが知っているのは、外界の対象が求心性神経に刺激を伝えると、その刺激は神経中枢に伝播されること、神経中枢は極めて多様な分子運動の舞台であり、これらの分子運動は対象の性質や位置に左右されていることです。対象が変わり、対象とわたしの身体との関係が変われば、わたしの知覚中枢内部に生じる分子運動もがらりと変わります。が、それと同時に「わたしの知覚」の様相も一変します。それゆえわたしの知覚は神経中枢における分子運動の関数であり、それらに依存しています。しかしどのように依存しているのでしょうか。読者は恐らくこう答えるでしょう。知覚はこれらの分子運動を翻訳するものであり、わたしが表象しているのは、結局のところ脳内の分子運動以外の何物でもない、と。しかしこのような見解にどれほどの意味があるというのでしょうか。神経系、そしてその内部運動のイマージュは、仮定により、何らかの物質的対象のイマージュ、つまりイマージュの一部に過ぎないのに、わたしは物質的世界の全体を表象しているからです。無論ここであなた方はどうにかして困難を切り抜けようとするに違いありません。あなた方は、本質的には物質的宇宙と同じ性質のものに過ぎない脳、したがって、宇宙がイマージュであるとすれば、それ自身イマージュ以外の何物でもない脳を持ち出します。次に、この脳の内部運動が、物質的宇宙全体の表象、すなわち脳の振動のイマージュを無限に超えるイマージュを生み出し、あるいは規定していると主張したいがために、最早これらの分子運動の中にも、また運動一般の中にも、他のイマージュと同じ種類のイマージュを認めようとはせず、イマージュ以上かあるいはイマージュ以下かは別にして、イマージュとは性質の異なる何か別のものを見ているかのように装います。そこ(そのように想定された脳の内部運動)から正真正銘の奇蹟のごとく表象が生み出されるというわけです。こうして物質は表象とは根本的に異なるもの、したがってわたしたちがいかなるイマージュも持つことができないものとなり、それに伴って、そうした物質の対極に、イマージュを欠いた意識、わたしたちがいかなる観念も抱けないような意識が措定されます。そして最後に、この(イマージュを欠いた空虚な)意識を満たすために、形式のない物質から内容のない思考に及ぼされる正体不明の作用が案出されます。しかし実際には、物質の運動はイマージュとして見る限り極めて明瞭であって、運動の中にわたしたちが認めているものとは別のものを探す必要はありません。ただ一つ困難に見える点があるとすれば、それは、この脳の内部運動という特殊なイマージュから、どのようにして無限に多様な表象が生み出されるか、という点でしょう。しかし、脳の振動は物質的世界の一部に過ぎず、それらのイマージュは表象の片隅を占めるに過ぎないことは誰しも認めざるを得ない以上、そんなことを考えて何の意味があるのでしょうか。――では結局、(表象の片隅を占めるに過ぎない脳内の)これらの運動とは一体何なのでしょうか。この特殊なイマージュは、全体の表象の中でどんな役割を果たしているのでしょうか。――その答えは明白です。これらの運動はわたしの身体の内部で、外界の対象からの作用に対するわたしの身体の反作用を準備し、発動させるものなのです。これらの運動はそれ自体イマージュであって、イマージュを創り出すことはできません。しかしこれらの運動は、周囲のイマージュに対する或る特殊なイマージュ、すなわちわたしの身体の位置を、あたかも携行している方位磁針のごとく刻々と表示しています。表象の全体から見れば、その情報は取るに足らないものでしょう。しかし表象の一部であるわたしの身体にとっては極めて重要なものです。何故ならそれは、わたしの身体が行い得る潜在的な行動の概略を常に下描きしているからです。以上のことからわかるように、脳のいわゆる知覚機能と脊髄の反射機能との間には程度の違いしかなく、性質の違いはありません。脊髄は、受け取った刺激を即座に現実の身体運動(行動)に変換します。一方脳は、受け取った刺激を予備的な身体の態勢へと継承します。しかしどちらの場合においても、神経物質の役割は運動を伝え、相互に組み合わせること、あるいは抑制することに限られます。では、「宇宙についてのわたしの知覚」が脳内の運動に依存しているように見え、この運動が変われば知覚も変化し、この運動が阻害されれば知覚も消滅するように見えるのは何故でしょうか。

この問題を難しくしている主な原因は、脳の灰白質とその変化が、それ自体で存在する「物」と考えられていること、宇宙のそれ以外の部分から完全に独立した「物」と考えられていることにあります。唯物論者も二元論者も、(意識的にせよ無意識的にせよ)そう考える点では一致しています。彼らはいずれも、脳内の一部の分子運動を他の部分から切り離して考察します。ただ、唯物論者がわたしたちの意識的な知覚を、この分子運動に随伴してその運動の跡を照らし出す燐光のごときものと考えるのに対して、二元論者は意識が大脳皮質の分子運動を絶えず独自に表現していると考え、そのような意識の中に知覚を展開します。もっとも知覚が神経系の諸状態を描き出していると考えるにせよ、あるいは知覚が神経系の諸状態を翻訳していると考えるせによ、知覚は専らわたしたちの神経系の諸状態に依存していると考えられている点ではどちらも同じです。しかし神経組織というものは、それを養う有機体や、有機体が呼吸している大気なしに、あるいは大気に浸されている地球や、地球がその周囲を公転している太陽なしに、果たして生きられるものでしょうか。もっと一般化して言えば、物質的対象が孤立しているという仮定には一種の自己矛盾が含まれているのではないでしょうか。というのも、対象はその物理的な諸々の特性を他のすべての対象との関係に負うており、それを規定しているものの一つ一つ、したがってこの対象の存在そのものもまた、宇宙全体の中でそれが占める位置に依存しているからです。それゆえ、わたしたちの知覚は単に脳内の分子運動にのみ依存していると考えるのは正しくありません。知覚はそれらの分子運動とともに変化するが、その分子運動そのものも、知覚と同じように、物質的世界の他の部分と分かち難く結び付けられていると考えるべきでしょう。そうなると、わたしたちの知覚が大脳の灰白質の変化とどのように関係しているかを知るだけでは最早十分ではありません。問題の範囲をもっとひろげなければならず、同時にそれによって、これまでよりもはるかに明瞭な言葉で問題を提示できるようになります。まず一方に、わたしが宇宙についてのわたしの知覚と呼ぶイマージュの体系があります。この体系においては或る特権的なイマージュ、すなわちわたしの身体がわずかでも変化すると、それに伴って他のあらゆるイマージュが変化します。わたしの身体というこのイマージュは体系の中心に位置し、他のすべてのイマージュはこのイマージュの周囲に規則正しく配置されています。このイマージュが動くにつれ、あたかも万華鏡が回るように全体の様相が刻々とめまぐるしく変化します。また他方には、体系を構成するイマージュそのものは前者と同じでも、イマージュのそれぞれが(身体に関係付けられるのではなく)それ自身に関係付けられている(つまりイマージュが自己に立ち戻ってそのイマージュ本来の状態で存在している)体系があります。これらのイマージュも相互に影響を及ぼし合っていますが、そこでは結果は原因によって決定され、原因と結果の均衡が常に保たれています。わたしたちが宇宙と呼んでいるのはこの体系です。このように(構成要素そのものは同じでも、秩序の全く異なる)二つの体系が共存していること(二つの世界が同時に存在していること)、宇宙においてはイマージュは相対的に不変であるのに、知覚においてはその同じイマージュが千変万化することをどのように説明したらよいのでしょうか。実在論と観念論との間にまたがっているこの問題、恐らくは唯物論と唯心論との間にもまたがっているこの問題は、わたしたちの考えでは以下のように提起することができます。一方の体系においては、それぞれのイマージュがそれ自体において、周囲のイマージュから現実的作用を受けた分だけ一定の規則に従って変化するのに対して、他方の体系においては、ただ一つのイマージュの変化に即して、すべてのイマージュがその特権的なイマージュの可能的作用(行動)を反映する形で万華鏡のごとく変化する。同じイマージュが同時にこれら二つの異なる体系に入り込むのは何故か。

どんなイマージュであれ、或るイマージュから見れば内部にあるとも言えますし、また別のイマージュから見れば外部にあるとも言えます。しかしイマージュの総体に関しては、わたしたちの内部にあるとか外部にあるとか言うことはできません。内とか外とかいうのは、イマージュ相互の関係を表しているに過ぎないからです。したがって宇宙はわたしたちの思考の中にのみ存在するのか、それとも思考の外に存在するのかと問うことは、設問の言葉の意味は理解できても、問題を解決不可能なものにしてしまうことになります。そこでは思考とか存在とか宇宙という言葉が立場によって異なる意味で使われているために、議論は必然的に不毛なものとならざるを得ません。議論に決着をつけるためには、まず議論を戦わせる共通の土俵を見つけ、どちらの立場をとるにしても事物はイマージュとしてしか捉えられないのですから、問題をイマージュとの関係において、しかもイマージュとの関係においてのみ提出する必要があります。ところでどんな哲学的学説も、同じイマージュが同時に二つの異なる体系に入り込むことを否定することはできません。一つは科学に属する体系で、そこでは各々のイマージュがそれ自身にのみ関係付けられている(本来の状態に戻る)がゆえに、絶対的価値とでも言うべきもの(それ固有の質)を保持しています。もう一つは意識の世界で、そこではすべてのイマージュが、中心に位置するイマージュ、身体というイマージュの周囲に規則的に配列され、その変化に随順しています。この二つのイマージュの体系は、お互いにどんな関係にあるのか、という風に問題を設定すれば、実在論と観念論との間に横たわる問題が極めて明瞭になります。そして主観的観念論が第一の体系を第二の体系から導き出そうとするものであること、唯物論的実在論が第二の体系を第一の体系から導き出そうとするものであること、この二つを見て取るのは難しいことではありません。

事実、実在論者は宇宙から、すなわちイマージュ相互の関係が不変の法則によって支配されているイマージュの総体から出発します。ここでは結果は常に原因によって決定され、原因と結果が常に釣り合っています。この体系の特徴は中心を持たないことであって、すべてのイマージュが無限にひろがる同一平面上に展開されています。しかし実在論者も、この体系とは別に知覚が存在すること、つまり第一の体系において同一平面上に展開されているその同じイマージュが、唯一のイマージュに関係付けられてその周囲の様々に異なった平面に配置され、その中心的イマージュがわずかに変化しただけで全体の様相が変わるような体系が存在することを認めないわけにはいきません。逆に観念論者はこの知覚から出発します。観念論者が想定する体系には身体という特権的なイマージュが置かれ、他のすべてのイマージュはこれを中心に整然と配置されています。しかし観念論者も、現在を過去に結び付け、未来を予見しようとするや否や、この中心的な位置を放棄してすべてのイマージュを同一平面上に配置し直し、それらのイマージュが、最早彼(観念論者)に対してではなく、それ自身において変化していると看做さざるを得ず、またすべてのイマージュを、イマージュのそれぞれの変化が原因と正確に釣り合っているような体系(科学の体系)に属するものとして扱わざるを得ません。こういう条件においてのみ、宇宙に関する科学は可能になるのです。そして実際に科学というものが存在し、未来を予見することに成功している以上、科学を基礎付けているこの条件は恣意的なものではありません。わたしたちの現在の経験に与えられているのは、知覚の体系だけです。しかしわたしたちが過去、現在、未来の連続性を信じる限り、暗黙のうちに科学の体系も認めていることになります。そういうわけで、観念論も実在論も、二つの体系のうちのどちらを措定するにせよ、最終的には措定した一方から他方を演繹しないわけにはいかなくなるのです。

しかし観念論も実在論も、そのような演繹を実際に行うことはできません。何故なら二つのイマージュの体系はどちらも他方には含まれておらず、それぞれ自足しているからです。仮にあなたが、中心がなく、各々のイマージュがそれ固有の大きさと質を有している体系を措定したとしましょう。この体系にどういうわけで第二(知覚)の体系が結び付くのか、そしてその第二の体系においては、何故各々のイマージュは固有の質を持たず、一つの中心的イマージュの変化に伴って一斉に変化するのか、わたしには理解することができません。したがって知覚を生じさせるためには、例えば唯物論者の主張する意識・随伴現象説のように、何らかのデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神・難局を打開する救いの神)の力を借りる他はないでしょう。そこで、最初に措定された、それぞれが独立に変化する(中心的イマージュに対して相対的に変化するのではなくそれ自体において絶対的に変化する)イマージュ全体の中から、脳と呼ばれるイマージュが選び出され、この脳のイマージュの内部状態に、それ以外のあらゆるイマージュの複製、絶対的に変化するイマージュの複製ではなく、身体に応じて変化するイマージュの複製が随伴して自らを二重化できるという摩訶不思議な特性が何の根拠もないまま与えられます。確かに一旦表象となった後は、その表象(知覚)には他のイマージュと異なる特別な性質が与えられるわけではなく、実在論者は、そこにただ脳内の振動が引き起こす燐光の軌跡を見ているかのように振る舞います。脳組織と脳内の振動はこの表象(知覚)を構成するイマージュの一部に過ぎないにもかかわらず、あたかもそれだけが知覚とは性質の異なる(特別な)ものであるかのように。それゆえ実在論的なあらゆる仮説においては、知覚は偶然的なもの、したがってまた神秘的なものとならざるを得ません。しかし今度は逆に、特権的な中心の周囲に配置され、その中心の極くわずかな変化で全体がすっかり変わってしまうような、常にめまぐるしく変化するイマージュの体系(知覚)を措定したとしましょう。その場合、あなたは自然の秩序(自然法則)、すなわち観測者の位置や観測時刻にかかわりなく常に変わることのない秩序を最初から除外することになります。この秩序を取り戻すためには、またしてもデウス・エクス・マキナを呼び出し、恣意的な仮説を適当に作り上げて、事物と精神との間に、あるいは少なくともカントの言う感性と悟性との間に、わたしたちの理解を超えた予定調和を想定する他はないでしょう。そうなると今度は科学が偶然的なものとなり、科学の成功は奇跡以外の何物でもないということになります。――このように、あなたは第一の体系を第二の体系から演繹することも、第二の体系を第一の体系から演繹することもできません。実在論と観念論という対立する二つの学説は、同じ土俵の上に置かれると、逆方向から同じ障害にぶつかってしまいます。

この二つの学説の拠って立つところを掘り下げてみると、そこには或る共通の前提(公準・要請)が見出されます。それは、知覚は純粋に思弁的な関心を持っている、知覚は純粋認識である(別の言い方をすれば、無から創造されたものである、あるいはネガティブなものではなくポジティブなものである)、という前提です。あらゆる議論は、科学的認識に対して、この純粋認識とされている認識にどのような地位を与えるかという点にかかっています。実在論者は科学が前提する秩序を措定し、知覚は曖昧なその場しのぎの科学に過ぎないと考えます。観念論者はまず知覚を措定してこれを絶対的なものと看做し、科学は実在の記号的表現に過ぎないと考えます。しかしどちらにとっても、知覚することは何よりもまず認識することを意味します。

この前提こそ、わたしたちが反証したいと考えているものに他なりません。深く考えるまでもなく、動物の進化系統における神経組織の構造を概観しただけでこの前提が疑わしいものであることがわかります。ひとたびこの前提を受け入れてしまうと、物質、意識、そして両者の関係という三重の問題は永遠に解決できないものになってしまうでしょう。

外的知覚の発達の過程を、原核生物から高等脊椎動物に至るまで実際に一歩ずつ辿ってみましょう。周知のように、原形質の塊りに過ぎない状態においても生物はすでに被刺激性と収縮性を持ち、外界からの刺激を受けて、機械的、物理的、化学的に反応しています。生物の進化系列を上昇するにつれ、生理学的機能の分化が見られます。すなわち神経細胞が現れ、多様化し、組織が形成されます。それに伴い、動物は外界からの刺激に対して、より多様な運動によって反応するようになります。仮に受け取られた刺激が即座に運動を引き起こさない場合でも、刺激はただその機会が来るのを待っている、という風に考えられます。つまり、周囲の変化を生物に伝える刺激が、その変化に適応した行動をその生物に取らせる場合もあれば、その準備をするよう促す場合もある、ということです。高等脊椎動物に至ると両者の区別は決定的となり、純粋な自動運動は主に脊髄に委ねられる一方で、意志的行動は脳によって司られます。ここで、受け取られた印象はそのまま運動として展開されるのではなく、(脳において)認識として精神化されるのだ、という風に考える人もいるかも知れません。しかし脳の構造と脊髄の構造を比較してみると、脳の機能と脊髄の反射運動との間には単に複雑さの違いがあるだけで、性質の違いはないことがわかります。この点を実際に確かめてみましょう。まず反射運動においては何が起こっているのでしょうか。反射運動においては、刺激として伝わる求心性の運動は、脊髄の神経細胞に達するとそこですぐさま反射されて遠心運動となり、筋肉の収縮を引き起こします。次に、脳組織の機能は何でしょうか。意志的行動においては、末梢からの刺激は、脊髄の運動細胞に直接伝えられて必要な筋肉の収縮を引き起こすのではなく、一旦脳にまで上昇し、その後反射運動を媒介した脊髄の運動細胞に降りてきます。この遠回りによって、刺激は一体何を得たのでしょうか。大脳皮質のいわゆる感覚細胞の中に刺激は何を探しに行ったのでしょうか。刺激がそこで事物の表象(知覚)に変貌する奇跡的な能力を獲得したなどということをわたしは信じることができませんし、どう考えてもそういう結論には辿り着けそうにありません。すぐ後で述べるように、(知覚の発生を説明するのに)そもそもこの種の仮説を立てる必要は全くないとわたしは考えています。わたしに疑いようのない事実と思われるのは、受容された刺激は、大脳皮質の感覚野と呼ばれる様々な領域に見られる細胞、すなわち求心性神経末端の分枝と、ローランド溝の運動細胞との間にある細胞を介して脊髄の運動機構に随意に接続することができ、それにより刺激は結果(これから為すべき運動)を選択することができる、ということです。介在するこの細胞の数が多ければ多いほど、またそれらが様々な接続を可能にするアメーバ状突起を数多く出せば出すほど、末梢から来る一つの刺激に対して開放される経路の数も種類も増え、その結果仮に同じ刺激であっても、細胞の数が少ない場合に比べて選択し得る運動機構が増えることになります。したがってわたしたちの考えでは、脳とは一種の電話交換局のようなものに他なりません。その役割は「電話を取り次ぐ」こと、あるいはそれを待機させることにあります。脳は受け取ったものに何一つ付け加えることはありません。しかしすべての知覚器官の終端がそこに繋がっており、脊髄と延髄のすべての運動機構がそこに専属の代理を置いている点で、脳は紛れもなく中枢であり、末梢から来た刺激はそこで運動機構と最早強制的に関係を結ぶのではなく、自ら選択して関係を結ぶことができます。他方、大脳皮質の中では、末梢から来た同一の刺激に対して、膨大な数の運動性の経路がすべて同時に開放され得るので、この刺激を無限に分割し、無数の予備的な運動反応の内に消散させることもできます。このように、脳の役割とは、或るときは受け取った刺激を実際に選択された一つの運動器官に導くことであり、或るときはこの刺激に対して運動性の経路をすべて開放して、その刺激に含まれているすべての可能的作用を下描きし、刺激そのものは分解し消散させてしまうことです。換言すると、脳は受け取った刺激に対しては分解の道具であり、行われる運動に対しては選択の道具であるようにわたしたちには思われます。しかしどんな場合においても、脳の役割は刺激を伝えることと、刺激を分割し分散させることの二つに限られます。それゆえ脊髄において神経組織は認識を目的として働いているのではないのと同様に、大脳皮質の上位中枢においても、神経組織は認識を目的として働いているのではありません。神経組織は、多数の可能的作用をすべて同時に下描きするか、そのうちの一つを組織するに過ぎません。

以上のことからもわかる通り、神経系は表象を作り出す器官でもなければ、その準備に役立つ器官ですらありません。神経系の役割は刺激を受け取る一方で、運動機構を構築し、与えられた刺激に対して、できるだけ多くの運動器官に接続できる機会を提供することにあります。神経系が発達すればするほどより複雑な運動機構を構築することが可能になり、それとともに空間内のより多くの、より遠方の点までこの運動機構に関係付けることができるようになります。わたしたちの行動の領域は、こうして神経系の発達とともに拡大していきます。そして行動の領域がこのように拡大していくことにこそ、神経系が発達することの意義があります。ところで神経系が、動物の系統の下から上へ上るにつれ、次第に必然性から自由になっていく行動を目指して構築されているのだとすれば、神経系の発達に比例して発達する知覚もまた、全面的に行動を目的としたものであって、純粋認識を目的としたものではないと考えるべきではないでしょうか。そして知覚の発達そのものも、生物が選択し得る事物に対する可能的行動、すなわち非決定の領域が、徐々にひろがっていくことを象徴しているに過ぎないのではないでしょうか。そこで、この非決定性を真の原理として、そこから出発することにしてみましょう。こうした非決定性を措定すれば、そこから自ずと意識的知覚の可能性や、その必然性さえも演繹できないかどうか確かめてみましょう。具体的に言えば、物質的世界と呼ばれる相互に緊密な関係を持つイマージュの体系を措定し、この体系のそこかしこに、生物体に代表される現実的行動の中心を配してみましょう。そうすれば、これらの中心の周囲には、中心の位置に応じ、中心の変化とともに変化するイマージュが配列されなければならず、その必然的結果として意識的知覚が生じる筈であること、同時にそれらがどのようにして生じるのかということも理解できるに違いない、とわたしは考えます。

まず指摘して置きたいのは、意識的知覚の及ぶ範囲と、生物が自由に行動できる能力には密接な関係がある、ということです。わたしたちの仮説が間違っていないとすれば、意識的知覚は、物質から受けた刺激によって必然的に生じるべき反作用が生じないときに現れます。例えば原生動物においては、刺激が生じるためには恐らく利害関係のある対象との直接的な接触が必要であり、その場合、反作用を一瞬でも遅らせることは不可能です。つまり機能の分化が進んでいない動物においては、触覚は受動的であると同時に能動的であって、それは餌を認知して捕える役目を果たすのと同時に、危険を感知する役目も果たします。原生動物が突き出す様々な突起や棘皮動物の管足は運動器官であると同時に知覚器官でもあり、腔腸動物の刺胞(毒針)は知覚器官であると同時に防御手段でもあります。要するに、その動物の反応が遅疑のない直接的なものであればあるほど知覚は単なる触覚に近いものになり、知覚と反応の全プロセスは、機械的な衝突によって引き起こされる必然的運動と区別のつかないものになります。逆に、反応がより不確定になり、そこに逡巡の余地が生まれると、作用を感受し得る対象までの最大距離、利害関係を持ち得る対象までの最大距離もそれだけ伸びていきます。さらに視覚や聴覚によって、動物はますます多くの事物と関係を持つことができるようになり、ますます遠くの事物からの作用を受けるようになります。その結果、それらの対象が動物に利益をもたらすものであるにせよ、動物を脅かすものであるにせよ、期待や脅威が現実のものとなるまでの時間的猶予が与えられます。したがって、生物の持つ自主的な部分、すなわち生物の活動性を取り巻く非決定の領域の大きさによって、この生物が関係し得る事物の数とそこまでの最大距離をア・プリオリに見積もることができます。あるいは生物が事物との間に結ぶ関係がどんなものであれ、つまり知覚の本性がどんなものであれ、知覚の射程は、知覚に続く行動の非決定性を測る正確な尺度だと言うこともできるでしょう。ここから、次の法則を導き出すことができます。知覚が支配できる空間と、行動が支配できる時間とは正確に比例している。

それにしても、生物と対象との関係、近いか遠いかは別にして、離れた場所に存在する(つまり直接接触していない)対象との以上のような関係が、何故意識的知覚という特殊な形をとるのでしょうか。わたしたちはまず身体のうちに生じることを観察し、刺激が伝達されたり抑制されたりすること、その結果刺激は実際の行動となったり、予備的な行動へと分散されるのを確認しました。そしてこれらの運動(刺激の伝達)は行動にかかわるもの、ただ行動だけにかかわるものだと思われました。それは、表象が生まれるプロセスとは何の関係もないものです。そこで次にわたしたちは行動そのものとそれを取り巻く非決定性を考察し、神経系の構造を規定しているのはこの非決定性であり、神経系は表象を生み出すためではなく、寧ろこの非決定性のためにあるのだと考えました。この非決定性を事実として受け入れれば、知覚の必然性もそこから演繹される筈であること、つまり生物と、その生物と利害関係を持つ対象が遠近様々な距離から及ぼす作用との間に、生物の状態(身体)に応じて変化する関係が結ばれる筈であることを結論するに至ったのです。この知覚が意識であるのは、どういう理由によるものなのでしょうか。そしてこの意識は、何故あたかも大脳皮質の内的運動から生まれてくるように見えるのでしょうか。

この問いに答えるために、わたしたちはまず、意識的知覚が成立する諸条件を可能な限り単純化したいと思います。現実には、記憶が浸透していない知覚は存在しません。今現在わたしたちの感覚に直接的に与えられているものには、過去の経験から非常に多くの記憶の要素が混入しています。多くの場合、この記憶は現実の知覚に取って代わり、知覚そのものからは、せいぜい過去のイマージュを呼び出すためのいくつかの暗示、単なる「記号」をわたしたちは読み取っているに過ぎません。その反面、記憶に置き換えられることで現実の知覚は簡便性と利便性を手に入れます。しかしこの置き換えの結果、あらゆる種類の錯誤も生まれてきます。わたしたちの過去にすっかり浸されたこの知覚の代わりに、完成された意識的知覚ではあるものの、現在においてしか働かない知覚、外界の対象に適合することを事としているような知覚を仮定しても差し支えない筈です。そのような仮定は恣意的なものであって、個人的な要素や偶然に入り込んでくる要素をすべて排除して得られたこの理論上の知覚は、最早現実には全くそぐわないものである、と読者は言われるでしょうか。しかしわたしたちが示そうとしているのは、まさに、個人的な要素や偶然に入り込んでくる要素はこの非人格的知覚に接ぎ木されるものであるということ、言い換えると、この非人格的知覚こそ事物に関するわたしたちの認識の基盤そのものであるということ、そしてわたしたちは、その点を見過ごし、記憶機能がそこに付け加えたりそこから差し引いたりするものからこの非人格的知覚を区別しようとしなかったために、知覚全体を、内的で主観的な視覚的イメージのようなものと勘違いしてしまい、より強いという点で記憶と異なっているに過ぎないと思い込んでしまった、ということなのです。これがわたしたちの第一の仮説です。しかしこの仮説からは、自ずともう一つの仮説が引き出されます。知覚はどんなに短いものであっても、常に或る一定の持続を占めています。ということは、知覚には記憶機能が関与しており、それが多数の瞬間を相互に接合し継続させているということです。また後述するように、感覚的性質の「主観性」は、主に、記憶機能による実在の一種の凝縮によって成立しています。つまり記憶機能は二つの形式において、すなわち基盤となる直接的(非人格的)知覚を記憶の布で覆うことによって、また多数の瞬間を凝縮することによって、一方で知覚のうちに個人的意識の主要な部分を持ち込み、他方で事物に関するわたしたちの認識の主観的側面を形成します。(これがわたしたちの第二の仮説です。)しかし、この記憶機能が知覚のうちに持ち込むものについてはひとまず置き、わたしたちの考えをより一層明確なものにするために、今入り込んだ道を真っ直ぐ進んでみましょう。それによって行き過ぎた結論に至るかも知れませんが、後で元きた道を引き返し、主に記憶機能を元通り組み入れることによって軌道修正すれば済むことです。そういうわけで、今から述べることは、図式的な説明の域を出るものではありません。これからしばらくの間、わたしたちは知覚という言葉を、具体的で複合的な個人の知覚ではなく、換言すると個人の記憶で満たされ、常に一定の持続の厚みを持つ知覚ではなく、純粋知覚、現実に存在する知覚と言うより、理論上存在する知覚という意味で用います。それは、わたしたちと同じ場所で、わたしたちと同じように生きている存在ではあるが、現在の瞬間にのみ生き、記憶機能を一切持たないことで、物質の直接的かつ瞬間的なヴィジョンを得られるような存在が持つであろう知覚です。このような見地に立つとき、意識的知覚がどのように説明されるかを考えてみましょう。

(つづく)
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「ジェノサイド」(45)

2014-11-09 | 雑談
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本書は精神の実在と物質の実在を肯定し、両者の関係を一つの明確な事例、すなわち記憶の事例において規定することを目指しています。それゆえ本書ははっきりと二元論の立場を採っています。しかしその一方、本書は二元論がこれまで常に引き起こしてきた理論的困難を取り除きはしないまでも、大いに軽減できる見込みのある方法によって身体と精神を考察します。二元論は直接的意識によって暗示され、常識に受け入れられているにもかかわらず、これらの理論的困難のせいで哲学者の間ではほとんど評価されていません。

これらの困難の大部分は、物質に関する実在論的な考え方、もしくは観念論的な考え方に起因しています。本書第一章の目的は、観念論も実在論もどちらも行き過ぎた主張であること、つまり物質を、わたしたちがそれについて持つ表象(観念)に還元するのも間違いであり、あるいはわたしたちの内に表象を生み出しはするものの、表象とは本性の異なるもの(物)と看做すのも同様に間違いである、ということを示すことにあります。わたしたちの立場からすると、物質とは「イマージュ」の総体なのです。「イマージュ」という言葉によってわたしたちが示そうとしているのは、観念論者が表象と呼んでいるものよりは上であるが、実在論者が物(事物)と呼んでいるものよりは下の或る実在――「事物」と「表象」の中間に位置付けられるような実在です。このような物質に関する考え方は、常識の物質に関する考え方そのものだと言って差し支えありません。哲学的議論に縁のない人に向かって、あなたの目の前にある対象、あなたが見たり触れたりしている対象は、あなたの精神の中に、しかもあなたの精神にとってしか存在しないとか、あるいはさらに一般化して、バークリーが言ったように、ある一つの精神にとってしか存在しない、などと言えばその人物はひどく驚くでしょう。その人物は、対象はそれを知覚する意識から独立して存在している、と頑として抗弁するに違いありません。しかし他方、対象はわたしたちがその場所に知覚しているものとは全くの別物で、目に見える色も、手に感じられる抵抗も幻覚に過ぎない、と言えばやはり相手は驚くでしょう。その色や抵抗は対象の内にある、それらはわたしたちの精神の状態ではなく、わたしたちから独立した存在の構成要素である、と彼は考えているからです。それゆえ常識にとって、対象はそれ自体で存在すると同時に、わたしたちがはっきりと認める通りの生き生きとした形姿を備えています。つまり対象とは一個のイマージュであると同時に、それ自体で存在するイマージュなのです。

第一章において、わたしたちは「イマージュ」という言葉をまさにこのような意味で用いています。わたしたちが身を置くのは、哲学者同士の議論を一度も聞いたことがないような人の観点です。そういう人は当然、物質は彼が知覚する通りに実在していると信じているでしょう。そして彼は物質をイマージュとして知覚しているのですから、物質はそれ自体イマージュだと(素直に)考えるでしょう。要するにわたしたちは、観念論と実在論が、実在と現象に分離する以前の物質を考察しようとしているのです。一旦哲学者が物質を二つのものに分離してしまった以上、それを白紙に戻すのは確かに難しいかも知れません。しかし読者にはそうした既成事実を頭から消し去ってもらいたい、というのがわたしからの要望です。もし第一章を読んでわたしたちの主張のあれこれに異論が生じるようであれば、その異論は、二つの観点のいずれかに立ち戻ったことによって生まれたのではないか自問し、その二つの観点を脱却していただきたい。

バークリーが「機械論的哲学者達」に異を唱え、物質の第二性質(色や香りなど)は第一性質(延長や形、運動)と少なくとも同程度の実在性を持つことを明らかにしたとき、哲学は一つの大きな進歩を成し遂げました。彼の誤りは、そのため(物質の第一性質と第二性質とが同等の実在性を持つため)には物質を(すべて)精神の世界に移し、それを純粋な観念にしてしまわなければならない、と思い込んだ点にあります。なるほどデカルトが物質を幾何学的延長と同一視したとき、彼が物質をわたしたちからあまりにも遠ざけてしまったことは否めません。しかし物質をもう一度わたしたちの手に奪回するには、何も物質を精神そのものと一致させる必要はなかったのです。バークリーはそこまで極論してしまったために、物理学が何故成功を収めることができるのかを説明することができず、デカルトが諸現象間の数学的諸関係を現象の本質そのものとすることができたのに対して、宇宙の数学的秩序を単なる偶然の産物と看做さざるを得なくなります。そこでこの数学的秩序を(合理的に)説明し、(バークリーの主張によって揺らいだ)わたしたちの物理学の基礎を固め直すためにカントの批判(哲学)が必要になりました。――もっともカントの批判はその成功と引き換えに、わたしたちの感覚と悟性の有効範囲を限定することを余儀なくされます。もしわたしたちが物質をデカルトが押しやった地点とバークリーが引き寄せた地点との中間に、つまり常識が捉えている場所にそのまま置くことにしていれば、少なくともこの点に関してはカントの批判は必要なかったでしょうし、少なくともカントが限定したようには人間の精神がその有効範囲を限定されることも、形而上学が物理学の犠牲になる(形而上学は不可能であるとカントが宣言する)こともなかったでしょう。わたしたち自身が目指しているのは、まさにそうした地点において物質を捉えることです。本書第一章においてわたしたちは以上のような物質の見方を確立し、第四章においてそこから様々な結論を導き出します。

とは言え最初に述べたように、わたしたちが物質の問題を扱うのは、飽くまでそれが本書第二章、第三章で扱う問題、まさに本書の中心となる問題、すなわち精神と身体との関係という問題にかかわる範囲に限られます。

この(精神と身体との)関係は哲学の歴史において常に問題にされてきたものの、実際に考察が加えられたことはほとんどありません。「心身の合一」を何物にも還元できない説明不可能な事実として受け容れる説や、身体を漠然と精神の道具と看做す説(など理論の体をなしていない説)を除くと、心身関係に関する考え方には「随伴現象説」と「並行論」という二つの仮説くらいしかありませんが、この二つはどちらも事実上――つまり個々の事実の解釈においては――同じ結論に達します。実際、思考を脳の単なる一機能と考え、意識状態を脳の状態の随伴現象と看做す(随伴現象説)にせよ、あるいは思考の諸状態と脳の諸状態を、同じ原文の二つの異なる言語への翻訳と看做す(並行論)にせよ、どちらの場合も原理的には、現に活動している脳の中に入り込んで大脳皮質を構成する原子の変転に立ち会うことができれば、そして(心身の間で交わされるやりとりを解読する)精神生理学の鍵を手に入れることができれば、その原子の変転に呼応して意識内に生じるすべてのことを細大漏らさず知ることができる、という前提に立っているのです。

実を言うと、哲学者、科学者を問わず最も広く信じられているのはこの仮説です。しかし事実を先入観なく分析した場合、本当にこの種の仮説が示唆されるかどうかは、慎重に見極める必要があるように思われます。意識状態と脳との間に、密接な関係があることに疑問の余地はありません。しかし例えば、上衣とそれが掛けられている釘との間にもやはり密接な関係はあります。というのも釘を抜けば上衣は下に落ちるからです。だからと言って、釘の形は上衣の形を表しているとか、釘の形から何らかの方法で上衣の形を予想することができる、などと言う人がいるでしょうか。同様に、ある心理状態(上衣)が脳のある状態(釘)に掛けられているからと言って、片や心理的な、片や生理的な二つの系列の「並行関係」をその事実から導き出すことはできません。並行説は科学的データに基づいている、と哲学が考えるなら、紛れもない循環論に陥ることになります。何故なら意識と脳との間に密接な関係があるという単なる一事実を、並行説という一仮説(それもわたしに言わせれば矛盾だらけの仮説)に沿って科学が解釈するのは、意識的にせよ無意識的にせよ、(ひとえに)哲学的な理由に基づいているからです。換言すると、科学はある種の哲学によって、並行説以上に確からしく、並行説以上に実証科学にとって有益な仮説はない、と事ある毎に吹き込まれてきたからです。

ところで、この問題を解決するための確かな道標を事実から得ようとすれば、わたしたちは自ずと習慣を含めた記憶機能の領域に連れて行かれます。これは誰にでも容易に予想し得ることです。何故なら記憶は――わたしたちが本書で明らかにしようとしているように――まさに精神と物質が交叉する点を表しているからです。もっとも理由についてあれこれ考えるまでもなく、心身の関係に何らかの光を投げかけることのできるようなすべての事実の中で、記憶機能に関する事実が、正常な状態のものであれ異常な状態のものであれ特に重要な位置を占めていることは誰の目にも明らかでしょう。単にそれに関する記録が豊富であるばかりでなく(蓄積された失語症に関する症例記録だけでもどれだけ膨大な量に上るか想像してみていただきたい)、解剖学、生理学、心理学が一致協力してこれほど成果を上げている領域は他にありません。心身の関係という伝統的な問題を先入観なく事実に立脚して検討すれば、この問題が記憶機能の問題、とりわけ言葉の記憶機能の問題に収斂していくことが容易に見て取れる筈です。その一点からきっと、この(心身の関係という)問題の極めて不明瞭な側面を照らす光が差し込んでくるに違いありません。

わたしたちがこの問題をどのように解決しようとしたか、それはこのあと(本文中に)見られる通りです。一般に心理状態は、ほとんどの場合脳の状態から大きくはみ出しています。つまり脳の状態は心理状態のごく一部、空間における身体の運動に翻訳し得る部分を表示しているに過ぎません。複雑な思考が一連の抽象的推論として展開される場合を考えてみましょう。この思考とともに数々のイマージュ、少なくとも形をなしつつあるイマージュが意識に表象されます。これらのイマージュそのものが、今述べたようにそれぞれイマージュの表象として意識に現れる(イマージュとして意識に表象される)のと同時に、それらのイマージュが空間の中で自らを演じるための(準備的)運動――言い換えると、身体に(その運動に移行するのに必要な、状況に応じた)あれこれの態勢を刻印し(態勢を取らせ)、それらのイマージュが潜在的に含んでいるすべての空間的運動を準備する(橋渡し的な)運動が、下描きとか傾向という形で例外なく描かれます。展開される複雑な思考のうち、脳の状態が刻々と示しているのはまさにこの運動(の図式)なのです。脳の内部に潜入し、そこで生起していることを逐一観察できる人がいるとすれば、その人は恐らく、下描きされ、準備されたこれらの運動について十分な知識を得ることができるでしょう。しかし彼がそれ以上のことを知ることができる、と判断できる根拠は何もありません。仮にその人が超人的な知性を持ち、精神生理学の鍵を持っていたとしても、脳の状態に呼応して意識の内に生起することに関しては、例えば舞台で劇を演じている役者の所作だけを見て戯曲の内容を推し量るのと同じように、ごく限られたことしかわからないでしょう。

要するに精神と脳との関係は一定不変というわけではなく、また単純なものでもないということです。演じられる戯曲の性格によって、役者の所作が(その戯曲の内容を)雄弁に語る場合もあれば、ほとんど何も語らない場合もあります。パントマイムの場合、(パントマイミストの所作は彼が伝えようとすることの)ほとんどすべてを語っているのに対して、複雑な内容を持つ喜劇の場合、(役者の所作はその喜劇の込み入った内容について)ほとんど何事も語りません。同様に脳の状態も、わたしたちの精神活動を行動として外在化させるか、それとも純粋な認識として内在化させるかに応じて、精神状態を含む度合いが異なります。

したがって精神活動には高低様々な音調のごときものがあり、生活への注意力の程度に応じて、行動に近づいたりそこから遠く離れたりしながら、わたしたちの精神活動は様々な調子で演じられている、と言うことができます。これが本書を導く考え方の一つであり、わたしたちの仕事の出発点となった考え方でもあります。一般に心理状態の複雑化と看做されているものは、わたしたちの観点からすると、わたしたちの人格全体の膨張に他なりません。普段わたしたちの人格全体は行動に集中する力によって圧縮されていますが、人格全体を万力のように締め付けているこの力が緩むとそれだけ膨張し、不可分のままより一層広い平面上にひろがっていきます。そしてまた、心理活動そのものの混乱、精神的秩序の喪失、人格の病などと一般に呼ばれているものは、わたしたちの観点からすると、心理活動とそれに伴う運動との連帯の弛緩あるいは悪化、外的生活に対するわたしたちの注意力の変質あるいは減退に他なりません。このような主張は、本書を初めて刊行したとき(1896年)、言葉の記憶の局在論を否定し、局在論とは全く別の視点から失語症を解明しようとした試みと同じく逆説的なものと判断されました。今日では様相が一変し、逆説的という評価はすっかり影を潜める一方で、当時すでに確立されたものとして誰からも認められ、絶対的なものと目されていた失語症に関する定説は、ここ数年、厳しい批判にさらされています。それらの批判は主に解剖学の観点に基づくものですが、中にはわたしたちがそのときすでに打ち出していた観点と同じ心理学的観点に基づく批判も見られます。またピエール・ジャネ氏は、近年、神経症に関する深い独創的な研究において、わたしたちとは全く異なる道を通って、すなわち様々な「神経衰弱的」病態を検討することによって、当初形而上学的仮説に過ぎないと看做されていた心理的「緊張」や「現実に対する注意力」に関するわたしたちの考察を取り入れるに至っています。

実を言えば、(「緊張」や「現実に対する注意力」という)それらの仮説を形而上学的と評することは必ずしも間違っていたわけではありません。心理学も形而上学も、ともに独立した学問であることは当然だとしても、この二つの学問は相互に問題を提出し合うべきであり、ある程度まではその解決に協力し合うことができるとわたしは考えています。心理学が人間精神のうち、人間の活動に役立つように働く側面を研究対象とする一方で、形而上学が有用性という行動の制約から自らを解放し、純粋な創造的エネルギーとして自己を取り戻そうとする同じ人間精神の努力に他ならないとすれば、どうして両者が協力し合わない筈があるでしょうか。二つの学問が問題を提起する言葉の字面にこだわっている限り互いに無関係としか見えない多くの問題も、この(「緊張」や「現実に対する注意力」という言葉の)ようにその言葉の内的な意味を探っていくと、相互に極めて密接な関係にあり、解決し合えるものであることに気付く筈です。わたしたちもこの研究を始めたときには、記憶の分析が、物質の存在や本質をめぐって実在論と観念論との間で、あるいは機械論と力動説との間で論争になっている問題と何か関係があるとは予想だにしていませんでした。しかし現実にそれらの間には関係が、しかも密接な関係が存在します。この点を考慮すれば、(心身の関係という)形而上学上の難問の一つは観察の領域に移され、弁証の世界に閉じ籠もった学派間の際限のない論争の種となる代わりに、漸進的な解決が期待できるものとなるに違いありません。本書のいくつかの箇所が複雑なのは、こうした角度から(つまり観察可能な領域において)哲学を捉えるとき、問題が錯綜するのを避けることができないからです。しかしこの混乱は現実の複雑さそのものに由来するものであって、以下に述べる二つの原則、わたしたち自身にとっても研究の導きの糸となった二つの原則を手放さない限り、難なくそれを乗り切ることができるでしょう。その原則とは、第一に、心理学的分析は、本質的に行動へと向かうわたしたちの精神機能の功利的性格を絶えず念頭に置いて進められなければならない、ということです。第二に、行動の領域で身に付いた習慣は純粋な思惟の領域に上っていき、そこで様々なにせの問題を生み出しているがゆえに、形而上学はまずこの種の人為的な不明瞭さを一掃しなければならない、ということです。
(本質的に行動へと向かう精神機能とは、別の言葉で言えば空間の直観でしょう)

(つづく)
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