画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(26)

2013-07-01 | 雑談
これから述べることとも関連するのですが、運動図式という仮説がどういう意味を持つのかということについて補足しておくと、運動図式が心理的事実の要約とか下絵でしかないということは、「心理的事実とその基体である脳との間にはある関係が存在するが(中略)、それはこれらの状態の一方の他方による絶対的規定でも、一方の他方に対しての完全な無規定でも、厳密な平行関係でも(中略)、抽象的な概念をいじくりまわすことによってあるいはそれらどうしを組み合わせることによって、アプリオリに得ることができるいかなる関係でもない」(エクリ・エ・パロール所収の「心身平行論と実証的形而上学」。以下同じ)ということです。たとえば絵を見たり音楽を聞いたあとに頭の中に感想が思い浮かんだとしましょう。それを言葉にするには、まず「それより低い所にわれわれが置くある具象化された表象を必ずそれに結びつけます」。次にそのイメージを表象するためにそれを要約しているデッサンで支え、最後にそのデッサンを想像するためにそれを再現する運動を想像します。つまりそれをスケッチします。「脳に表示されるのはこのスケッチであり、このスケッチだけ」なのです。スケッチにはイメージに対して余白が存在し、イメージには思考に対してより大きな余白が存在します。したがって思考は完全に自由ではないにしても相対的に自由であり、それを条件付ける脳の活動に完全には規定されていません。脳の活動は「観念の運動の分節しか表わしておらず」、分節は全く別の観念に対しても同じものであり得るのです。しかしまた、思考は完全に自由なものでも絶対的に無規定なものでもありません。というのも分節に合致しない観念は最初から除外されるからです。もし脳のメカニズムが完全に解明された暁には、「わたしたちは一定の精神状態に対応するものとして、脳の中に生ずることを」(「心と体」)正確に予測することができるようになるでしょう。しかしどんなに科学が発達してもその逆は不可能なのです。

前にも書いたように、ベルグソンは心理的状態と脳の関係をシンフォニーと指揮者の指揮棒の関係になぞらえたり、脳はパントマイムの器官であるとも述べています。この点をもう少し詳細に見て行きましょう。――何かを考えるということは、ほとんどの場合自問自答すること、すなわち自分に向かって語りかけることを意味しています。つまり実際に口に出して言わないまでも、意識の中では発声の運動がいわば下書きされおり、そのうちの何ものか――ベルグソンが運動図式と名付けたもの――が脳の中に描き出されているのです。この運動図式、身体の運動傾向の中にすでに再認の感情が芽生えていることは上述した通りですが、思考における脳のメカニズムはそれがすべてではありません。発声の内的運動の背後に、もっと精妙なもの、もっと本質的なものが潜んでいます。それは精神の志向を刻々と標示する運動です。思考は本質的に内部へと向かう一方で、外部へと向かう変化によって自己を表現しなければなりません。思考を話や文章で再現するためには観念や言葉をつなぎ合わせるだけでは不十分で、話や文章のリズムや区切り方、つまり言葉の身振り・手振りともいうべきものによってそれを補助する必要があります。聞き手や読み手(それは自分自身の場合もあるのですが)はそういう一連の運動に導かれてはじめて思考の流れに乗り、思考や感情の曲線を描くことができるのです。こうした身振り・手振り、あるいは言葉のリズムの目的は思考そのもののリズムを喚起・再生することにあります。そして思考のリズムとは、思考に伴ってほとんど無意識のうちに生まれる運動でなくて何でしょうか。身振り・手振りの助けを借りて思考は行動として自己を顕現するのだとすると、それらの運動は前もって脳の中で準備され、形作られているのでなければなりません。脳の中に見ることができるのは「思考にともなうこの発動機能であって、思考そのものではありません」(「心と体」)。

現実に行動に到達するにせよそうでないにせよ、思考はこのように常に行動を目指しています。そして思考が行動まで至らない場合には、思考は起こり得べき一つないしいくつかの潜在的な行動を描きます。「これらの現実的、あるいは潜在的な行動は、思考が縮小され単純化されて空間のうちに投射されたものであり、そこに運動の分節が示されています。これが脳実質の中に描かれているものです」(「心と体」。世界の名著シリーズから引用。以下同じ)。脳と思考の関係は一言では言い表せないものですが、強いて言えば脳はパントマイムの器官ということになるでしょう。何故なら脳の役割は精神の働きを身振り・手振りで表すことであり、「精神が適応しなければならない外界の状態」をこれまた身振り・手振りで表すことだからです。「脳のはたらきと心のはたらきとの関係は、ちょうどオーケストラの指揮者の棒の動きとシンフォニーの関係と同じです」。シンフォニーが指揮棒の動きをあらゆる点で超越しているのと同様、精神の働きも脳の働きを無限に超えています。しかし脳は精神の働きから運動として演じうる部分を抜き出し、精神が物質の中に入り込む場と化すことによって、精神の外界への接触と適応を保証します。したがって脳は思考の器官でも感情や意識の器官でもありません。それは「意識や感情や思考を現実の生に向かって緊張させているもの」、行動を有効ならしめるものです。脳は生への注意の器官なのです。

このように考えれば、精神の変調が脳の物質的変化によって引き起こされるように見える理由がよく理解できます。が、だからといって精神の異常の「原因」が脳の損傷であるということにはなりません。脳の損傷が精神の異常の原因だということになれば、脳がすべての原因であって、脳が精神を生み出しているかのように錯覚されかねないからです。そうなると最早脳と精神そのものの区別ができなくなります。厳密に言えば、変調を来しているのは精神が物質の中に入り込むためのメカニズムであって、精神そのものではありません。患者は推論することもできれば、論理的に考えることもできます。「彼は間違った議論をしているのでなく、ちょうど夢見る人のように現実とは別に、現実の外で議論しているという過ちを犯しているのです」。仮に何らかの故障が脳に生じた場合、「冒されるのはおそらく脳の全体でしょう」。それはピンと張った紐が緩むとき、緩むのはその全体であって、部分ではないのと同様です。その結果として精神は普段寄りかかっていた物質全体との確実な接触を失い、ぬかるんだ地面を歩くようによろめき、めまいを起こします。錨が外れて漂流する船のように患者は方向を見失ってしまうのです。脳とは「精神が事物からのはたらきかけに対して運動反応によって答える仕掛けの総体であり、これらの運動反応は、実際にはたらくか、あるいは、ただの生まれかけのものか、そのいずれにしても、その反応が正確であれば、精神が実在に完全にはまりこむことを保証します」。脳の障害が直接的に引き起こすのは、精神全体のうち物質に固着している部分の弛緩、つまりは注意の弛緩です。しかしその弛緩は全体へと波及し、精神全体の方向感覚を狂わせてしまうのです。
(本題とは直接関係がないので詳しくは述べませんが、「創造的進化」第一章で原因という言葉には全く異なる三つの意味があることをベルグソンは指摘しています。すなわち「衝撃」、「発動」、「展開」です。「原因がその結果を説明できるのは、第一の衝撃の場合だけ」です。脳の損傷は「発動」の意味と「展開」の意味を両方含んでいると言えるでしょうか)

脳が「精神が事物からのはたらきかけに対して運動反応によって答える仕掛けの総体」であるということは、別の言い方をすると脳は「感覚と運動とのあいだの仲介者」(「物質と記憶」第三章・竹内訳)だということです。ところで以前、「わたしたちが実際に知覚するのは(中略)過ぎたばかりの過去とすぐに来る未来」(「意識と生命」)であると述べましたが、過ぎたばかりの過去、直近の過去とは感覚のことであり(何故なら感覚とは「基本的振動の非常に長い一つの継起」を一瞬に凝縮したものだからです)、直近の未来とは行動(運動)のことです。直近の過去と直近の未来にまたがる「現在」はしたがって「感覚であると同時に運動」であり、本質的に感覚=運動的なものであると言えます。「空間内に延長をもって広がっているわたしの身体は、さまざまな感覚を感受し、それと同時にさまざまな運動を行なって」(「物質と記憶」第三章・竹内訳)います。これらの感覚と運動は「空間内に延長をもって広がっているわたしの身体」のどこかに位置を占める他ない以上、特定の瞬間には感覚=運動的システムは一つしか存在し得ません。現在が絶対的に決定されたものとして現れ、過去と際立った対照を見せているのはこのためです。「身体とは、身体に作用する外的事物群と身体が影響を及ぼす外的事物群との中間に配置されている、一つの導管にすぎず、その役割は外界の運動を取り集め、身体みずからがその流れを遮断しないかぎり、その運動を、反射運動の場合には所定の、自由な随意運動の場合には選択された、一定の運動機構に伝達すること」(「物質と記憶」第二章・竹内訳)にあります。したがって事態はあたかも「ある一つの独立した記憶機能が」(同上)時々刻々と生起するイメージ(イマージュ)を取り込んでいくかのように、またそれらのイメージの一つである身体とそれを取り巻く環境は時々刻々と生成する宇宙全体が知覚によって切り取られるごとに更新される最新のイメージであるかのように進行します。この知覚によって切り取られた宇宙全体の瞬間的な切断面こそ物質世界と呼ばれるものであり、その中心に位置しているのが身体です。あるいはむしろ、「この物質世界のうち、われわれが直接にその展開を感じ取っているもの、それがわれわれの身体」(「物質と記憶」第三章・竹内訳)です。身体の外的事物に対する反作用は、「経験が身体の基質内部に組み立てるさまざまな身体器官の数や性格に応じて」(「物質と記憶」第二章・竹内訳。以下同じ)変化します。いずれにせよここには瞬間的な切断という意味の運動しかなく、すべてが客観性の線の上にあります。それゆえもし「身体が過去の行動を蓄積しているのだとすれば」、それは「身体の運動装置という形」で蓄積される他はありません。本来の意味での過去のイメージは、それとは別の形で保存されている、と推測できます。以上のことから次のような仮説を立てることができるでしょう。
(知覚によって切り取られた宇宙全体の瞬間的な切断面とは、簡単に言うと「変移するものを一瞬のうちに捉えた一枚のスナップショット」(「創造的進化」第四章)と言えるのではないでしょうか。映画において実際に目にしているのはスクリーン上に次々と現れては消えていく静止画でしかないように、知性は現れては消えていく宇宙の生成の切断面だけを見ているのです)

「Ⅰ.過去は二つの異なった形式のもとに存続される。一方では、運動メカニズム群として、他方では、[運動メカニズムとは]独立した想起群として、である」(「物質と記憶」第二章・竹内訳。以下同じ)。
(「想起」という言葉が出てきたので、竹内訳「物質と記憶」の訳注から「記憶」と「想起」の違いを解説している部分を引用しておきます。「本章(第二章)の重要な概念は「記憶」(la memoire)と「想起」(le souvenir)である。(中略)まず、「記憶」は、身体がもつ「記憶機能」そのものを指している。それに対して「想起」(le souvenir)は、「記憶機能」によって保持されている過去の個別イメージまたはイメージ群を、現在時点に現実化(realisation)あるいは現働化(actualisation)する働きを言う。(中略)「想起」は記憶機能の、重要ではあるが、その部分である」。――関連する箇所をすべて引用すると相当な長さになるので、そのごく一部を抜粋しました)

この仮説が正しいなら、通常の記憶機能、「つまり過去の経験を現在の行動に利用するという働き、さらに言い換えれば過去の経験を現在において再認するという働きも、また、二通りの仕方で行なわれていると考えなければ」なりません。一つは、行動そのものの中で、現在の状況に適した身体メカニズムが自動的に発動することによって行われる再認、もう一つは、現在の状況に適合する過去の表象を探し出すと同時に、それを現在へと導く精神の二重の働きによる再認です。ここから第二のテーゼを導き出すことができます。

「Ⅱ.眼前の事物の再認は、それが事物そのものに起因するときは外部の運動刺激によって、それが認識主体に由来するときには[記憶されたものの]内的表象によって、行なわれる」。

前者が客観性の線の上にあり、後者が主観性の線の上にあるのは明らかです。前者と後者はどのような関係を持ち、どのように交わるのか、内的表象は身体の運動メカニズムとどのような関係を持ち、そこにどのように合流するのか、といった疑問に一言で答えるわけにはいきませんが、ひとまず概略を示しておきましょう。客観性の線と主観性の線が交わるためには、身体を流れる時間の中に配置し直さなければなりません。そのとき身体とは「未来と過去とのあいだにあって絶えず前進する境界線」であって、「われわれの過去が未来のなかに絶えず進入してゆくその運動の可動的最先端部にほかならない」ことがわかるでしょう。つまり「わたしの身体とは、ある特定の一瞬において見れば、わたしの身体に働きかける外界の事物群と、わたしの身体が働きかける事物群とのあいだに置かれた単なる導管というものにすぎないのだが、流れゆく時間のなかに置き直してみれば、わたしの過去がある一つの行動となって消尽してゆく、まさにその地点に絶えず位置し続けている」のです。他方過去の表象からすると、大脳と呼ばれる特殊なイメージはその終着点、言い換えると「わたしの過去の表象群が現在に送りこむ最先端部分であり、それらがある現実存在と繋がる、つまり行動と繋がる連結点になって」います。この連結点を切断しても過去のイメージは破壊されないでしょうが、それは最早現実の行動に働きかけることはできず、現実化されることもなくなるでしょう。大脳の損傷によって記憶機能が破壊されるというのはこの意味においてであり、ただこの意味においてだけです。以上のことから第三の、そして最後のテーゼが導き出されます。

「Ⅲ.微細な変化を通じて、時間軸に沿って配置された個々の想起群から、それらを使って空間内において生まれつつある、あるいは可能となる行動の輪郭を描き出す運動群へと、われわれは移行する。大脳の損傷によって損なわれるのは、その運動群であって、個々の想起群ではない」。

これは結局、感覚=運動的システムからなる身体の記憶機能と本来の意味での記憶機能は別々に働くものではなく、「前者は[身体記憶]は、後者[本来の記憶]が経験という動き続ける[意識]平面に差しこんだ可動点」(「物質と記憶」第三章・竹内訳。以下同じ)であり、「相互に助け合う関係にある」ということです。「一方では過去の記憶が、身体の感覚=運動メカニズムに対して、その身体メカニズムが為すべき務めを導き、経験の教訓が暗示する方向へ[身体の]反応運動を方向付けることができるようなあらゆる想起群を提示」し、他方で「無力な[過去の]想起群、つまりは無意識の想起群が、一個の身体を持ち、自らを物質化するための、要するに自らを現在化するための手段を、感覚=運動器官は提供する」のです。

上に述べたことを踏まえて注意的再認における「微細な変化」の過程を辿っていくことにしましょう。それは文字通り微細な変化であって、そのすべてを明らかにするのは容易でないことは改めて言うまでもありません。

具体的な検討に入る前に、注意的再認とはどういうものかもう一度簡単に示しておきます。自動的再認と同様、注意的再認も運動から始まることに変わりはありませんが、自動的再認では、「運動は知覚の延長線上にあって、知覚から有用な効果を引き出し、その結果として認知された対象物からわれわれを遠ざけるのに対して」(「物質と記憶」第二章・竹内訳。以下同じ)、注意的再認では「運動は知覚の対象物にわれわれを連れ戻し、その対象物の輪郭を際立たせる」という違いがあります。別の言い方をすると、「運動はその実践的目的を放棄し、有用な反応を知覚に接続するのではなくて、むしろそこから反転して、知覚されたものの主要な特徴を描き出す方向に向かう」のです。ちなみに再認という行為に自動的再認と注意的再認という二つのものがあることは、感覚に与えられているものの中に対象の知覚と質の知覚という二つの部分があることと無関係ではないでしょう。

誰かの話を聞いて理解するとき、上記の対象物に相当するのは話し手の声であるように思えます。つまり話を理解する際、聞き手は知覚から出発して記憶へと進むように思えます。しかしこれからおいおい述べるように、注意的再認において聞き手はまず観念の中に飛躍し、観念から出発するのであって、「それらの諸観念を聴覚表象として展開し、その聴覚表象が、自らを運動スキーム(図式)に嵌めこんでゆきながら、知覚された生の音声を全体としてカバーしてゆく[つまり了解してゆく]」というのが真のプロセスなのです。計算を理解することはそれを自分自身でやり直すことであり、話を理解することは「耳が知覚した音声の連続体を、知的に、ということはつまり諸観念から出発して、再構成すること」です。より一般化して言えば、「何かに注意を払うこと、知的に再認すること、[再認したものを]解釈すること」は切り離すことのできない一連の精神の働きであり、精神は生まの知覚に対して、それに多少とも類似している原因と対称な点を自己のうちに選んだのち、生まの知覚に向かって「それらと重なり合うような想起[=イメージ]群を流出させる」のです。

このあたりはわかりづらいところなので、関連する箇所をもう一度読み直してみましょう。――外的知覚は、その知覚の輪郭を素描する運動を喚起します。しかし注意を伴う再認においては、それと同時に記憶機能が知覚に向かってそれと類似した、そして運動が素描していたイメージを投影します。つまり知覚そのもののイメージなりそれに類似した「想起=イメージ」を知覚に送り返すことによって、それを二重化するのです。こうして呼び出されたイメージが知覚されたイメージと合致しない場合には、記憶機能のより深い部分に呼びかけがなされ、イメージ同士がぴったりと重ね合わされるまで同じ作業が繰り返されます。これによって記憶機能が知覚を完全なものに仕上げていくと同時に、徐々に複雑さを増していく知覚もまたより多くの補助的な想起=イメージを自らの元に引き寄せるのです。しかし知覚にイメージを重ね合わせるためには、重ね合わせる毎にそのイメージは一から創り直され、再構成できるのでなければなりません。注意が一つの分析能力と言えるのは、反復が身体に運動の構造を発見させていくように、イメージが再構成される毎に知覚のディテールが一つ一つ発見されていくからです。したがってこのような分析は一連の再構成、仮説に基づく再構成を通じてなされるのだと言えるでしょう(唐突に出てくるこの仮説という言葉が何を意味しているのかはっきりとはわからないのですが、おそらく先に述べた知覚に類似している「原因と対称な点」、身を置くべきレヴェルを表しているのではないかと思われます)。注意を伴う再認において、「われわれの記憶機能は類似するさまざまなイメージをあれこれと選び出しては、それを新しい[現在の]知覚に向かって投げ出して」います。このイメージの選択は無作為に行われるのではありません。様々な仮説を暗示し、イメージの選択を間接的に制御しているのは、「知覚の後に続く、そしてその知覚と想起されたイメージ群の共通の枠組みとなっている模倣運動」です。

イメージがその都度創り直されている、あるいはむしろ再構成されていることは、文字の解読メカニズムに関する実験結果からも読み取れます。通常、文字は一文字ずつ読み取られていると考えられているのに対して、文章を読むことは予見(予見には当然仮説が必要です)による作業であること、最初に特徴的な部分だけ拾い集め、あとで空白を記憶で埋めていく作業であること、すなわち生まの知覚は方向を定めるための標識に過ぎないこと、そして「空白を埋めるイメージ=想起は[実際の文字が書かれている]紙の上に投影されて、そこに印刷されている実際の文字と入れ替わり、その幻影をわれわれ[の精神]に提供する」ことが実験によって示されたのです。

しかし一般には、事態の進展は決してこのように考えられてはいません。知覚が記憶を触発することによって観念を喚起する、すなわち知覚がまず視覚なり聴覚想起を喚起し、次にその想起が知覚に対応した観念を呼び起こす、というのが一般的な考え方です。このような考え方の根底にあるのは、思考と脳の間には厳密な平行関係があるという信念、信念というより思考は脳の機能であるという思い込みでしょう。「ブロカがことばの発声運動の忘却は左側第三前回転の傷害から結果しうることを示して以来」(「心と体」)、言葉の記憶の障害は「多かれ少なかれはっきりと位置を指示できる脳の傷害によって起こる」(同上)ことが明らかとなりました。そこで記憶はレコードに音声が録音されるように脳の中に記録されており、外から刺激が加えられるとレコードから音声が再生されるように記憶が再生され、脳の何らかの働きによって観念が引き起こされるのだ、と説明されるのです。同様に言葉の記憶の障害は単に脳の損傷によって聴覚的想起が失われたことに起因する、とされます。

この説明には一見何の問題もないように見えます。というのも心理学的な観察の結果と臨床的事実とを同時に説明できているように見えるからです。しかしもっと踏み込んで考えてみましょう。ある一つの単語の聴覚イメージは、明確な輪郭を持った対象ではありません。何故なら同じ単語でもそれを口にする人によって声質は異なり、また同じ人であってもその時々によって声は同じではないからです。したがって厳密に考えれば、その単語を耳にした数だけの聴覚想起が存在することになります。これらすべての聴覚イメージが脳の中に蓄積されるのだとしたら、その単語を再認するに際して、脳はどうやってただ一つのイメージを選び出すのでしょうか。それが可能なのは、単語の聴覚イメージを類概念として扱える場合だけです。そのような類概念は、ベルグソンが想定するような能動的・自発的記憶機能にとっては確かに存在しています。しかし知覚された音声の物質的属性しか記録できない脳にとっては、同じ単語の聴覚想起と言っても、事実上は互いに異なった無数の聴覚イメージがばらばらに散在しているに過ぎません。その単語を聞くたびごとに新たなイメージが聴覚イメージの総体に追加されるだけのことであり、類が形成されることは決してないのです。

そもそも日常耳に入ってくるのはほとんどが一連の話し言葉であって、簡単な挨拶などを除き、単語だけで会話が成り立つことは滅多にありません。単語はあくまで全体を構成する部分に過ぎず、他の部分と切っても切れない関係にあります。したがって全体の表情の変化に応じて、部分もまたその都度異なったニュアンスを帯びると考えるのが自然でしょう。それはちょうど、旋律の主題を構成する音が主題全体をそこはかとなく反映しているようなものです。機械的に記録された(と想定されている)だけの聴覚想起とその時々によって異なったニュアンスを帯びるこれらの聴覚印象との間に、一体どのような類似性を見出すことができると言うのでしょうか。すでに述べたように、切れ目のない音声から単語を識別する作業は、身体の運動傾向がその音声の連続を分節することによってなされます。知覚が記憶を喚起するという単純なメカニズムでは、単語を識別することすら覚束ないと言わざるを得ません。

それでもなお、大脳皮質の神経細胞に音声の記憶が保存されていると仮定してみましょう。その場合、単純な外傷と同じように、たとえば感覚性失語症では単語の想起全体のうち破壊されて永遠に失われてしまう部分と、無傷のまま維持されている部分にはっきりと分かれる筈でしょう。しかし現実には、症状はそのような形では現れません。心的聴覚機能が完全に失われ、その結果すべての想起が抜け落ちてしまったかのように見えるか、あるいはその機能が全般的に低下したかのように見えるかのいずれかです。前者のようなケースは稀れであって、一般的なのは後者です。後者のケースを一渡り観察すると、患者は聴覚的想起を把捉する力を失い、言語的イメージに近づいてその周りをぐるぐる回ることはできても、それを直かに掴むことができないかのような印象を受けます。しかしそのような場合でも、単語の最初の音節を声を出して教えることによって発声を促したり、単に励ますだけで患者は単語を思い出すことがあります。これは再認の働きに関して非常に示唆的な事実であると同時に、上記の仮定を否定するのに十分な材料と言えるのではないでしょうか。――もっとも見かけの上では、ほとんどの感覚性失語症において記憶機能から特定の表象だけ失われてしまったように見えるのは間違いありません。ベルグソンはそれらを二つのカテゴリーに分類します。第一のカテゴリーでは、一般に想起の消失が突発的に起こります。失われる想起にはこれといった特徴や規則性はなく、いくつかの単語の場合もあれば、数詞の場合もあります。習得した言語のすべての単語が再認できなくなるケースもないではありません。それに対して第二のカテゴリーでは、想起の消失が漸進的で規則的です。すなわちまず固有名詞が姿を消し、次いで普通名詞、形容詞、動詞という順に消失していきます。これはリボー(フランスの心理学者・精神物理学者)の法則と呼ばれます。こうした表面的な違いの他に、内面的な違いもあります。第一のカテゴリーでは想起の喪失が突発的に起こると述べましたが、それは例外なく何らかの激しいショックの結果生じるものであり、そのショックによって記憶が喪失したかのような観を呈しているだけではないか、と疑われるのです。たとえば習い覚えた言語とともに自作の詩を認知できなくなったある患者に詩を書かせたところ、かつて書いたのとほとんど同じ詩を書き上げたという事例が報告されています。似たような例として、ある単語を忘れたために別の言い回しで表現した結果、その言い回しの中に忘れた筈の単語が含まれていた、といったものもあります(「心と体」)。この二つはいずれも、先に述べた励ましによって言葉を思い出す事例とほとんど変わりません。励ましてくれるのが他人か、自分か、何か別の要因か、つまりは切っかけの違いがあるだけです。これらのケースにおいてダメージを受けているのは、脳によって保証されている外界への適応能力です。たとえばある言葉を思い出すとき、誰しも経験したことがあるように頭の中で最初に来ると思われる音の発動態勢に次々と我が身を置いてみます。適切な発動態勢、適切な身構えが見つかると、探していた言葉が準備された枠の中にひとりでに吸い込まれるようにその発動態勢に滑り込んできます。脳のメカニズムが確保しなければならないのはこの身構えであって、今述べた二つの事例においてはこの身構えの動的均衡が害されているのです。また第一のカテゴリーにおける別の事例として、Fという文字だけが認知できないという奇妙なものがあります。しかしあらゆる会話や文章からFという文字だけを見落とすためには、少なくともそこからFという文字を分離できていなければなりません。そう考えると、Fという文字は実は暗黙のうちに認知されているのではないか、認知された上で何らかの事情によって意識から除かれているのではないか、とも推測されます。これによく似た現象として、ベルグソンは催眠術師の行う「負の幻覚」(「負の幻覚」(hallucination negative)は、「ベルンハイム」(Hyppolite Bernheim(1840-1919)の発案した催眠術法で、一定の物があなたには見えない、という暗示をかけると、そのものが催眠状態に入った人の認識から実際にも消えるというもの。――竹内訳「物質と記憶」の訳注より引用)を挙げています(ベルグソンはまた催眠術で指を鳴らしたり手を打ったりする「指標暗示」に似た症例があるとも述べていますが、具体的な例を出していないのでそれがどんなものかわかりません)。これらのことから判断すると、第一のカテゴリーに属するものは純粋な失語症と言うより、むしろ人格分裂症に近い事象ではないかとベルグソンは推測しています。「これらの人格障害においては、どうやら、いくつかの想起群が中核的記憶機能から引き離され、その他の想起群との一体性を保持できなく」(「物質と記憶」第三章・竹内訳)なるようなのですが、それと同時にほとんどの場合感覚と運動の分裂も観察されます。つまり第一のカテゴリーに属するものは感覚=運動機能の動的障害に由来する点では第二のカテゴリーに属する失語症と同じであるものの、その直接的結果ではなくいわばその余波を受けた事象と考えられるのです。意識から消える語に全く規則性がないのもそう考えれば納得がいきます。――これに対して第二のカテゴリーに属するものは明らかに単語の想起を現実化する機能の低下に由来しています。これこそ本来の意味での失語症であり、解明しなければならないのもこの第二のカテゴリーに属する失語症です。最初に仮定した通り、もし本当に言語イメージが脳の神経細胞に保存されているならば、想起が固有名詞に始まって普通名詞・形容詞・動詞という順に消えていく理由を解明する手がかりはほとんどないと言っていいいでしょう。何故なら病の原因は千差万別であり、進行方向や進行速度も様々であって然るべきなのに、常に同じ順序で神経細胞が侵されていくというのはどう考えても不自然だからです。しかし先ほど簡単に触れたように、想起が現実化されるためには運動の補助が必要であること、言葉を思い出すことは想起を精神的な身振りによって表し、それを運動図式に嵌め込む作業であることを認めるならば、この事実は難なく説明することができます。もっぱら模倣可能な行動を表している動詞は、言語能力が衰えても、精神的な身振りを経由せず身体的な努力によって捉え直すことのできる品詞です。それに対して形容詞は形容詞につながっている動詞を介さなければ身振りで表せませんし、名詞はその属性の一つを表現している形容詞と、その形容詞につながっている動詞を介さなければ身振りで表せません。最後に固有名詞は普通名詞と形容詞と動詞という三重の仲介を必要とします。つまり固有名詞は観念を運動として表象するのが最も難しい言葉であり、そのため言語機能が衰えたとき真っ先に影響を受ける言葉なのです。ある実体詞(名詞)を思い出せなくなった患者が別の言い回しで表現した言葉の中に思い出せなくなった当の実体詞が紛れ込んでいた、という先に述べた事例も、このように考えればより理解しやすくなるでしょう。患者はその実体詞の代わりにそれに対応する行動や動作を考えたのであり、それが運動の全体的方向を決定し、そこから当の実体詞が他の言葉と一緒に出てきたのです。人の名前を度忘れしたとき、頭文字なり名前の一部を思い出すとそれにつられて名前全体を思い出すことがあるのも同様の理由によります。

したがって第一のカテゴリーにおいても第二のカテゴリーにおいても、想起が大脳皮質の神経細胞に蓄積されており、脳の損傷によってそれが廃棄されるなどという事実は認められません。実際、人の話を聞いているときどういう態度を取っているかを思い出してみましょう。受身の態勢で、耳に入ってくる聴覚印象がそれらのイメージを勝手に探し出してくれるのをただ茫然と待っているだけでしょうか。むしろ自ら進んで知的作業の準備をするかのように、話しかけてくる相手や話している言語、その人が表現しようとしている観念の種類、特に話の全般的運動によって変化するある一つの態勢に身を置こうと努めているのではないでしょうか。むろん話を聞いている間別のことに気を取られ、話を右から左へ聞き流していることもあります。そういう時は当然、相手の話す声は耳に入ってきたとしても、話の内容は頭の中に全く入ってきません。話を理解するのに必要な身構え、運動図式が脳の中に準備されていないからです。この運動図式は、話の抑揚を際立たせ、話し手の思考の曲線が描く軌跡の節目節目を辿ることによって、聞き手の思考が進むべき道筋を示します。それは中身の満たされていない空虚な器のようなものですが、自らの形によってそこに流れ込む液体(思考)が取ろうとする形を規定するのです。

(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿