画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(35)

2014-01-27 | 雑談
また話が脇道に逸れることになりますが、以下、「意識に直接与えられているものについての試論」第二章を読んでいくことにします。

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一般に数体系は単位の集合体と考えられています。より正確に言えば、数体系は一と多の綜合であると考えられています。実際、あらゆる数は精神の単一な直観によって表象され、それに一つの名称が与えられている点で単一な存在と言えます。しかしこの単一性はある一つの総量を表しており、それぞれ別個のものとして考えることのできる多数の部分を内包しています。この単一性と多数性という概念について詳細な検討を加える前に、さしあたり数という観念にはこれらの概念以外に何か別のものが含まれてはいないかどうかを考えてみましょう。

数体系は単位の集合体ですが、それだけでは定義として不十分です。単位と呼ばれるものは相互に同一である、あるいは少なくともそれらの単位を数え始めるや否や相互に同一と看做されるのだ、ということを付け加えなければなりません。確かにわたしたちは群れを成している羊の数を数えて、50頭の羊がいる、という風に言います。しかし羊は一頭一頭異なっており、羊飼いならその違いを苦もなく見分けることができます。にもかかわらず羊が50頭いると数えることができるのは、数を数える場合、個々の羊の違いを無視し、それらに共通の機能だけを考慮するという暗黙の了解があるからに他なりません。それに反して個々の対象や個体の特徴に注意すれば、それらを一つ一つ枚挙することはできても、その総数を得ることは最早できないでしょう。このように全く異なった二つの観点が存在するのですが、その二つの観点に同時に立たなければならない場合もあります。それは(例えば)軍の部隊に所属する兵士の数を数えつつ点呼をとるような場合です。こうしてみると、数という観念には互いに完全に同一と看做される部分や単位から成る多数体についての単一の直観が含まれていることがわかります。

しかしこれらの部分や単位は混ざり合って一つに融合しているわけではない以上、何らかの点で明確に区別されていなければなりません。群れを成しているすべての羊が互いに同一であると仮定してみましょう。その場合でも、羊の一頭一頭は少なくとも空間の中に占める位置によって互いに区別されます。さもなければ羊達は群れを成すことすらできないでしょう。ここで50頭の羊そのものは頭から払拭し、それらの観念だけを保持することにしましょう。その場合考えられるのは、50頭の羊すべてを一つのイメージとして捉えるか、あるいは一頭の羊のイメージのみを思い浮かべ、それを50回繰り返すかのどちらかです。前者の場合、わたしたちはそれらの羊を一つの理念的空間の中に並置するのに対し、後者の場合、50頭の羊は空間ではなく内的持続の内に位置するように見えます。しかし実はそうではありません。何故なら群れを成している羊を一頭ずつ別個に思い浮かべる場合、わたしはその都度ただ一頭の羊を相手にしているに過ぎないからです。イメージを思い浮かべる毎に羊の数が増えていくためには、次々に現れる羊のイメージをすべて記憶にとどめ、その都度更新される単位としての羊のイメージに並置し続けなければなりません。このような並置が行われるのは空間においてであって、純粋持続においてではありません。物質的対象を数えるという心的操作が行われるためにはそれらを同時に表象することが必要不可欠であり、まさにそれゆえに、それらの対象は空間の中に置かれていなければならないという点については誰しも異論はないでしょう。それにしてもこのような空間の直観は、抽象的な数の観念も含めたあらゆる数の観念に付随しているのでしょうか。

この問いに答えるには、数の観念が子供の頃どのように芽生え、どのように形を変えてきたかを各自で振り返ってみれば十分でしょう。最初の数の観念とは、例えば一列に並んだボールを思い描くといったことではなかったでしょうか。次いでボールが点に替わり、最後はそういったイメージすら消えて、その後に言わば抽象的な数の観念だけが残る、という経過を辿ったことに思い当たる筈です。しかしまさにその瞬間、数は想像されるイメージでも思考される観念でもなくなります。わたしたちは数(に含まれるもの)から、計算に必要で、数を表現するのに適した記号のみを保持するのです。というのも(例えば)12が24の半分であることを知るには、12という数も24という数も考える必要はないからです。それどころか計算を素早く行うには、それらの数を考えない方が断然有利なのです。とはいえ単に数字や記号ではなく数そのものを表象しようとすれば、どうしても外延的なイメージに戻らないわけにはいきません。この点に関して思い違いが生まれるのは、(長ずるにつれて)空間の中ではなく時間の中で数を数える習慣が身に付くことにその原因があるように思われます。例えば50という数をイメージするのに、(単位数である)1から始めて50まですべて数えていくとしましょう。50番目の数まで来たとき、わたしたちはその数を持続において、ただ持続の中でのみ構築したのだと思い込みます。確かに数え上げられたのは持続の各瞬間であって、空間上の諸点ではありません。しかし問題はまさに、持続のそれぞれの瞬間を数えるのに空間上の諸点を以ってしたのではないか、という点にあります。時間の中で、時間の中だけで可能なのは飽くまで純粋な時間的継起の知覚であって、加算すること、つまりある総和に達するような継続的操作を(時間の中で)行うことはできません。何故なら総和を得るためには異なる項に継続して注意を払い続けることが必要であり、それらの諸項は次の項にわたしたちの関心が移るときにも残存して、関心が移った次の項に加えられるのを言わば待っていなければならないからです。もし各項が持続の一瞬間に過ぎないとすれば、その項はどうやって待つことができるでしょうか。また各項(持続の一瞬間)を空間内に位置付けるのでないとすれば、その項はどこで待つことができるでしょうか。自ら意図するわけではないにせよ、わたしたちは自分が数える各瞬間を空間上のある一点に固定します。そのようにして初めて複数の抽象的な単位が一つの総和を形成することができるのです。後で示すように、時間の継起する諸瞬間を空間とは無関係に考えることも恐らくは可能でしょう。しかし数単位を加算する場合のように、現在の瞬間にそれ以前の諸瞬間を付け加える場合には、実際に操作が行われるのは先立つ瞬間に対してではありません。というのも先立つ瞬間は(それを操作しようにも)すでに跡形もなく消滅してしまっているのですから。そうではなく、操作が行われるのはそれらの瞬間が空間をよぎる際に残したかのように見える存続可能な痕跡に対してなのです。このイメージは必ずしも毎回持ち出される必要はなく、最初の二つか三つの数を表象するのに利用したあとは、必要とあらばそれ以外の数の表象にも利用可能であることを承知していれば十分です。しかし実を言うと、数の明晰な観念には例外なくこの空間に残された痕跡というヴィジョンが含まれています。この点に関しては、個別的な要素から成る多数体を構成するのに用いられる単位というものを直接的に考察する場合にも、数そのものを考察した場合と同様の結論に導かれるでしょう。

すでに述べたように、あらゆる数は単位の集合体ですが、それを構成する単位を総合したものであるという意味で、数はそれ自体一つの単位(単一性。どちらもunite)です。しかし単位という言葉は、この二つの場合同じ意味で用いられているのでしょうか。数は単一であると言われるとき、わたしたちが暗黙の内に了解しているのは、精神の不可分な直観によってその数を一つの総体として表象しているということです。したがってこの場合、単位は一つの多数性を内包しています。何故ならそれは一つの全体を表しているからです。それに対して数を構成する単位として語られるときには、それは最早(多数の部分の)総和を意味しているのではなく、それ以外の何物にも還元不可能で純然たる構成要素としての単位、無限の組み合わせによって数の系列を形作る単位と考えられています。このように考えると、単位には二種類のものがあるように思えます。一つは決定的な単位で、自分に自分自身を加えていくことによって一つの数を構成する単位であり、もう一つはその場限りの仮設的(暫定的)な単位で、それ自体は多数の部分を内包するものでありながら、知性がそれを知覚するときの単一の行為からその単一性を借りている単位です。数を構成する単位と言うとき、わたしたちは疑いもなく不可分の単位のことを考えている、と信じています。そしてこの信念は、数というものを空間とは無関係にイメージできるという思い込みの大きな根拠ともなっています。しかしよく考えてみましょう。実際にはすべての単一性は精神の単一な行為に由来するものであって、その行為とは統一することに他ならない以上、何らかの多数性がその素材となっていなければならない、ということに気付く筈です。確かに単位を一つ一つ切り離して別個に考えるとき、わたしはそれを不可分のものと看做しています。何故ならその際、わたしの念頭にはその単位以外のものはないからです。しかしその単位を脇に置いて次の単位に移っていくとき、わたしはそれを対象(客体)化し、まさにそのことによってそれを一個の事物に、つまり一つの多数体に変えます。算術(竹内訳では「数論」と訳されています)において数を作るために用いられる単位は無際限に細分化し得る暫定的なものであること、またそれらの各々は好きなだけ小さくできる無数の分数(同じく竹内訳では「分割された数量」と訳されています)の総和を構成していることに注目すればこのことは容易く理解できるでしょう。もし単位が精神の単一の行為を特徴付けている決定的な単一性に由来するというのが本当だとすれば、どうすればその単位を分割することができるのでしょうか。それを暗黙のうちに延長を持った事物と看做し、直観においては単一で、空間においては多数であるものと看做していないとすれば、単一のものであると主張しながら、どうやってそれを分割することができるでしょうか。あなたが構成した観念からは、あなたがあらかじめ入れて置いたもの以外のものを引き出すことは決してできません。したがってある数を構成するときに用いた単位が行為の単一性に由来するものであって、対象としての単一性を表しているのではないとすれば、どんなに分析しても純粋な単一性以外のものをそこから取り出すことはできないでしょう。なるほど3という数は1と1と1の和に等しいと考えるとき、3を構成している(1という)単位数を不可分のものと考えることを妨げるものは何もありません。しかしそれは、単位数1に含まれている多数性が(さしあたり)無用であるという(消極的)理由に基づくものでしかありません。3という数がまずこのように(1+1+1という)単純な形で思い描かれるのは、恐らく3という数をどのように使用するかを考えるよりも、それがどのように作られたかを真っ先に思い浮かべるからでしょう。しかしわたしたちはいずれ気付く筈です。すなわち、仮にあらゆる掛け算には、自分に自分自身を加算する暫定的な単位として任意の数を扱い得る可能性が含まれているとすれば、逆に単位の方もいくら大きくとも紛れもない数であって、ただしそれらをお互いに合成するために暫定的に分割不可能なものと看做されているのだ、ということに。ところで、単位にはいくらでも多くの部分に分割し得る可能性が認められているがゆえに、それは(必然的に)延長を持ったものと看做されているのです。

実際、数の離散性について誤解しないように注意しなければなりません。ある数を形成または構成しようとするとき、その構成要素が離散的なものであることには疑問の余地がありません。言い換えると、すでに述べたように、3という数を形成するのに用いられる単位数1の一つ一つは、わたしがそれを操作している間は不可分のもののように見え、わたしは先行する単位数1から後続する単位数1へと一挙に移行します。しかし仮に今、同じ(3という)数を1/2とか1/4、その他任意の単位によって構成したとしても、3という数を構成するのに役立つ限りにおいてそれらの単位も暫定的には不可分の構成要素であることには変わりがなく、一つの単位から別の単位へと唐突に、言わば突然の飛躍によって移行するのは先ほどの場合と何ら変わりません。それは何故かと言えば、ある数を獲得するためには、構成要素である単位に一つ一つ順番に注意を固定するしかないからです。それらの単位のどれか一つを概念化する行為の不可分性を一個の数学的な点によって表すとすれば、その点は空間上の間隙によって次の点(単位)から隔てられている、と言えます。しかし空虚な空間上に配置された数学的な点の列が数観念の形成されるプロセスをある程度正確に表現しているのは事実だとしても、それらの数学的な点の列はわたしたちの注意がそこから離れるにつれて、あたかも点同士が互いに結合したがっているかのように一本の線になろうとする傾向を持ちます。そして完成された状態で数を考察するとき、この結合は最早既成事実となっています。点は線となり、点と点を分かつ空隙は消え、その全体はどこからどう見ても連続的なものに特有の様相を呈しています。ある一定の規則に従って構成された数が、別の任意の規則によっても分解できるのはこのためです。以上のことから言えるのは、思考されているときの単位とその後に客体化された単位は区別して考えなければならず、同様に形成途上にある数と形成された後の数は区別して考えなければならない、ということです。思考されているときの単位は他の何物にも還元不可能であり、構成されつつある数は離散的です。しかし数は完成されるや否や対象化され、まさにそのことによって、その数は無限に分割可能なものとしてわたしたちの前に現れます。実際、注意を促して置きたいのは、わたしたちが主体的と呼んでいるものは全面的かつ十全に認識されるもののことであり、わたしたちが客体的と呼んでいるものは、あるものについて現に抱いている観念が絶えず増え続ける多くの新しい印象によって置き換えられていくような形で認識されるもののことだ、ということです。例えば、ある一つの複合的な感情(主体的なもの)には極めて多くのより単純な(下位的)要素が含まれています。しかしそれらの要素が明瞭に姿を現さない限り、それらは完全に現実的なものとして認識されているとは言えません。そして意識がそれらをはっきりと区別して知覚した瞬間、それら(下位的要素)の統合によって生み出されていた心的状態もまさにそのこと(弁別的知覚)によって別のものに変貌します。それに対して思考が物体(客体的なもの)をどのような仕方で分解しようとも、その物体の全体的様相には何ら変化が生じません。何故なら実際に行われる様々な分解は仮に行われなかったとしても、他の無数の分解と同様、その物体のイメージの中に可能性としてすでに存在していたからです。このように、分割されていないもの(統合されているもの)を分割することによりその下位的要素を、単に潜在的にではなく現実的に知覚することこそ客観性と呼ばれるものに他なりません。以上のように考えれば、数の観念に含まれる主体的なものと客体的なものを正確に区別することもさほど難しくはないでしょう。本来的に精神に属しているのは、与えられた空間の様々な部分に順次注意を払うその不可分の過程です。しかしそうして全体から切り離された各部分は保存されつつ他の部分に付加されるのであって、それらはひとたび相互に結合されると、任意に分解可能なものとなります。したがって数の観念に含まれる客体的なものとは疑いもなく空間の部分であり、空間こそ精神が数を構成するための素材であると同時に、精神が数を配置する媒質なのです。
(この中の一文にドゥルーズが潜在性という概念の最初の芽生えを見たことは既述の通りですが、それ以外にも主客の区別は時間に関わるものであるという「物質と記憶」第一章で示された考え方や、物質と知性の同時生成(相互適合)という「創造的進化」で示された考え方の萌芽を見て取ることができます)

数を構成している単位が無限に細分化できるものであることをわたしたちが学ぶのは、算術を通してです。常識は数が不可分の単位で構成されると考える根強い傾向を持っています。常識がそのように考えるのも無理はありません。というのも、数の構成要素である単位の暫定的な単一性は紛れもなく精神に由来するものであり、精神はそれが働きかける素材よりも、むしろ自らの行為の方により多くの注意を払うものだからです。科学はただ、わたしたちの視線を素材の方に向き直させるに過ぎません。もしわたしたちがあらかじめ数を空間の中に置いていなかったならば、科学がわたしたちに対して、空間の中に改めて数を配置するよう仕向けることもできなかったでしょう。したがってそもそもの初めから、わたしたちは数を空間の中に並置して表象していたに違いありません。これが、わたしたちの得た最初の結論、あらゆる加算という操作には、同時に知覚される多くの部分から成る多数性が前提とされているということに基づいて達した結論です。

ところで以上のような数についての考え方を認めるにしても、すべてのものが同じように数えられるとは限りませんし、多数性にも全く性格を異にする二種類のものがあります。物質的対象について語るとき、わたしたちは暗黙の内にそれらは目で見ることができ、手で触れることができると考えています。言い換えると、それらが空間の中にあると考えています。そうである以上、それらのものを数えるに当たって、記号を発明する努力も、記号によって表象する努力も必要ではありません。対象があるがままに見えている空間という媒質そのものにおいて、まずそれらを個々別々に、次いで一括して同時に思考するだけで十分です。しかし心の中にある純粋に感情的な状態とか、視覚や触覚によって表象することのできない対象を相手にするときには事情は最早同じではありません。その場合には、対象となるものは最早空間内には存在しない以上、ア・プリオリに考えても、何らかの記号による形象化のプロセスを経ない限りそれらを数えることはほぼ不可能でしょう。このような(記号による)表象の仕方は、原因が明確に空間内に位置付けられるような様々な感覚の考察(第一章)においてすでにはっきりと暗示されていたように思われます。例えば街路から聞こえてくる足音に耳を傾けるとき、わたしは(足音に耳を傾けるだけでなく)漠然と街路を歩く人の姿を思い浮かべています。わたしは規則正しく聞こえてくる足音に耳を傾けながら、その足音の一つ一つを歩いている人の足が踏んだであろう路面の一点一点に位置付けていきます。足音(音感覚)を数えようとするとき、数えるという操作が行われるのは、こうして足音の触知可能な原因(足裏と路面の接触)が配置されたまさにその(路面という)空間そのものにおいてのことなのです。仮にこれが、遠くの方で鳴っている鐘の音を聞く場合であっても事情は同じでしょう。鐘の音を聞く人は、それと同時に振り子のように搖動する鐘の姿を想像しています。鳴らされた音の回数の単位を得るためには、最初の二つの音について空間的に表象すれば(搖動する鐘を思い浮かべれば)十分であって、後の単位はごく自然にその後に続きます。しかし大部分の人はそのようには考えません。彼らは継起する音を観念上の空間の中に配置する一方、純粋持続の中でそれらの音を数えていると思い込んでいます。この二つの行為は同じ種類のものなのかどうか慎重に見極めなければなりません。鐘の音が、継起的にわたしの耳に届くのは確かです。そしてその場合、考えられるのは次の二つのうちのいずれかです。第一に、わたしは継起する音(感覚)を一つ一つ記憶し、それを他の音(感覚)と一緒に組織化して、自分に馴染みのあるメロディーやリズムに似たある種の音のイメージを作り上げます。このときわたしは鐘の音を数えているのではなく、鐘の音の反復が全体としてわたしにもたらした言わば質的な印象を捉えているのです。第二に、わたしは意識して鐘の音を数えようと考える場合もあります。その場合、わたしは何を措いてもそれらの音を相互に分離しなければなりません。この分離が行われるのはある等質的な媒質においてであり、そこにおいて鐘の音はそれぞれの質を奪われ、言わば実体を失い、それが辿った経過の均一な痕跡だけが残されることになります。残された問題は、このような媒質が時間に属するのか、それとも空間に属するのかということです。しかしもう一度繰り返すと、時間の一瞬が保存され、次の瞬間に付加されることはありません。鐘の音が相互に分離されて聞こえるとすれば、それは音と音の間に空隙が存在するからです。そして鐘の音を数えることができるのは、ある音と次の音の間の空隙が保持されるからです。この空隙が純粋持続であって空間ではないとすれば、それはどのようにして保持されることができるでしょうか。それゆえ、数えるという操作が行われるのは間違いなく空間内においてなのです。数えるという操作は、わたしたちが意識の深みに入り込めば入り込むほど困難なものとなります。意識の深みにおいてわたしたちが出会うのは感覚や感情の渾然たる多様体であり、それらの感覚や感情は分析によらない限り区別することができません。感覚や感情の数は、それを数えようとするときにそれらが満たしている瞬間そのものの数と見分けがつかなくなります。しかしそうして相互に付加され得る形象を得たこれらの瞬間は、空間内の点以外の何物でもありません。したがって結局、多数性には二種類のものがあることになります。一つは物質的対象の多数性であり、もう一つは意識的事象の多数性です。前者が直接的に数を形成するのに対して、後者は記号的表象の介在なしに数的様相を呈することはありません。そして記号が介在する以上そこには必然的に空間が介在しているのです。

実を言えば、物質の不可入性について語るとき、わたしたちはこの二つの多数性を(無意識のうちに)区別しています。不可入性は、例えば重さや抵抗と同じように認識できるもの、それらと同じ種類の物体の基本的属性だと一般に信じられています。しかしこのような純粋に否定的な属性がわたしたちの五感を通じて示されることはありません。それどころか、物質の混合や化合に関する実験の結果を知れば、よほど頑固に不可入性を信じている人でもない限り、不可入性に懐疑的にならざるを得ないのではないでしょうか。ある物体が別の物体に貫入する場面を想像してみましょう。そのとき真っ先に目に浮かぶのは、貫入される側の物体に(何らかの)隙間があり、貫入する側の物体が粒子となってそこにすっぽりと収まる場面でしょう。さらにそれらの粒子自体が相互に貫入し合うためには、一方の粒子がもう一方の粒子の隙間に収まるべくより一層微小な粒子に分割されなければなりません。わたしたちの思考は同じ場所に存在する二つの物体を表象するよりも、むしろこのような(分割の)操作を無際限に続けることを選択します。ところで不可入性が実際に物質固有の属性であり、わたしたちの感覚によって認識できるものであれば、抵抗のない面や重量のない液体を想像するよりも、二つの物体が合体して一つになる様を思い描く方がより困難であることの理由が説明できません。実を言うと、二つの物体は同時に同じ場所を占めることはできない、という命題が表しているのは(物質の不可入性などという)物理的必然性ではなく、論理的必然性なのです。その反対の(二つの物体は同時に同じ場所を占めることができるという)命題は非論理的と判断され、その判断はいかなる実験によっても覆されることはありません。つまりその反対命題は矛盾していると(無条件に)判断されているのです。そうだとすれば、最初の(二つの物体は同時に同じ場所を占めることはできないという)命題を肯定することは結局、2という数の観念そのもの、あるいはもっと一般的に、任意の数の観念そのものが、空間における並置という観念を含んでいると認めることに帰着するのではないでしょうか。不可入性が物質固有の属性だと一般に信じられているのは、数の観念が空間の観念から独立した(別の)ものだと考えられているからです。そこで二つまたはそれ以上の複数の物体は同じ場所を占めることはできない、と述べることによって、それらの物体の表象に何か新しいもの(属性)を付与したと人々は思い込みます。先に示したように、2という数の表象は、たとえそれが抽象的なものであったとしても、空間内の二つの異なった位置の表象以外のものではないにもかかわらず、あたかも両者が別のものであるとでも言わんとするかのように。物質の不可入性を措定することは、単に数の概念と空間の概念が表裏一体の関係にあることを認めることであり、それ以上の意味はありません。それは物質の属性というよりむしろ数の属性を言い表しているのです。――それにしても、感情や感覚や観念など、相互に浸透し合い、それぞれが精神の全体を占めているようなものまで人々が数えているのは否定できない事実ではないでしょうか。――確かにその通りです。しかし相互に浸透し合っているものであるからこそ、それらを数えるためには、空間の中で異なった場所を占める等質的な単位、異なった場所を占めるがゆえに相互に不可入的な単位によってそれらを表象しなければならないのです。不可入性という観念の誕生は、したがって数の観念の誕生と時を同じくしています。そして不可入性という属性を物質に付与し、それによって物質を物質でないすべてのものから区別するとき、その区別は先ほど述べた二つのものの区別、つまり直ちに数に翻訳可能な延長を持った事物と、記号の介在なしには空間的に表象されることのない意識的事象との区別を別の形で言い表しているに過ぎません。

意識的事象について述べた最後の点について、もう少し詳しく説明しておく必要があるでしょう。意識的事象を数えるためには、それを記号によって空間の中で表象しなければならない、と述べました。そうだとすれば、この記号による表象は内的知覚の通常の条件、つまり内的知覚本来のあり方まで変えてしまうことにはならないでしょうか。ある種の心的状態の強さについてわたしが先に(第一章で)述べたことを思い出しましょう。表象的感覚は、それ自体においては純粋な質です。しかし延長を介して見ると、その質はある意味で量化されます。この量化された質こそ(心的状態の)強さと呼ばれるものです。例えばわたしたちが自分の心的状態を空間に投影し、そこに一つの多数体を対象として見るとき、それによって心的状態そのものも影響を受けざるを得ず、影響を受けた心的状態は反省された意識の中で、直接的知覚によって捉えられていた形とは別の新たな形を取ることになるのではないか、と考えられます。ここで改めて注目したいのは、わたしたちが時間について語るとき、ほとんどの場合ある等質的な媒質が思い浮かべられていること、そしてそこで意識的事象があたかも空間の中に並べられるように並置され、一つの独立した多数体を形作っているということです。このように理解された時間とは、強さと呼ばれるものがいくつかの心的状態を量化したものでしかないように、心的状態の多様性を量化したもの、真の持続からは完全に切り離された記号とか象徴に過ぎないのではないでしょうか。そこでわたしたちとしては、意識に対して、外的世界ときっぱり縁を切り、抽象化能力を最大限に発揮して本来の姿に戻るよう要求したくなります。その上で(意識に)こう問いかけてみたい。わたしたちの意識状態の多様性は、ある数を構成する単位の多数性と少しでも似たところはあるのだろうか、真の持続は空間とほんの少しでも関わりを持つのだろうか、と。少なくとも今まで数の観念について行ってきた分析は、両者の類似性を疑わしめるに十分なものであることは確かでしょう。何故なら、もし時間が反省された意識によって表象されている通り、わたしたちの意識状態が一つ一つ数えられるような形で継起する媒質だとすれば、数の概念が直接数えられるものを例外なく空間内に置くことに帰着する以上、事物が区別され、その一つ一つが数えられる媒質と看做された時間とは空間以外の何物でもない、ということになるだろうからです。このような見方を裏付けるのが、反省された意識の中で時間や継起を具体的に感取し、それを表現しようとすれば、そのためのイメージを空間から借りて来る他はないという事実です。したがって純粋持続は、今挙げたすべてのものと別のものでなければなりません。とはいえ、個別的なものから成る多数性という概念を分析する過程で浮かび上がってきた以上のような問題に明確な答えを出すためには、空間の観念そのもの、時間の観念そのものを、それらの相互関係において直接考察しなければならないでしょう。

空間は絶対的に実在するか否か、という問題に過大な重要性を付与するのは間違いでしょう。それは恐らく、空間が空間の中にあるのかどうかを問うこととさして変わりはないからです。いずれにしろ、わたしたちの感覚は物体の諸々の性質を知覚し、それとともに空間を知覚します。そこで(質と空間の関係を理解する上で)大きな問題として浮かび上がってきたのが、延長は物理的性質の一つの様相なのか――つまり質の質なのか――、それとも物理的性質は本質的に非延長的なものであって、空間は物体の物理的性質とは無関係にそれ自体で存在し、後からそこ(性質)に付加されるものなのか、この二つのうちどちらを採るべきかということだったのではないかと思わます。第一の仮説では、空間は一つの抽象物、より正確に言えば一つの抽出物ということになるでしょう。空間とは表象的と呼ばれる感覚に共通するものを表現したものだということになります。第二の仮説では、空間は表象的感覚とは秩序を異にするものの、それと同等の一つの確乎たる実在性を有することになるでしょう。この後者の空間概念を精確に定式化したのはカントです。「超越論的感性論」において彼が展開した理論は、空間にその(空間の)内容物から独立した実在性を与え、わたしたちの誰もが事実上分離しているものを権利上も分離し得るものと宣言し、延長は他の抽象物と同じような抽象物ではない(竹内訳では「延長は他の物と同様に一個の抽象概念にすぎない」と解釈されています)、と結論しています。この意味で、カントの空間概念は人々が考えるほど常識と異なっているわけではありません。空間の実在性に対するわたしたちの信仰を揺るがすどころか、カントはその信仰の持つ意味を正確に規定し、それを正当化する論拠さえ示したのです。

カントの示したこの結論は、この哲学者以降、真剣に議論し直されることはなかったようです。それどころかこの結論は、生得論者であれ経験論者であれ、この問題(空間の概念)を新たに取り上げた大部分の人々に無条件に――ときには自覚されることもなく――受け入れられてきました。ヨハネス・ミュラーの生得論の起源がカントにある、というのは心理学者の一致した見解です。もっとも、ロッツェの局所標徴の仮説やベインの理論、ヴントによって提唱されたより包括的な理論は、一見するとカントの「超越論的感性論」とは全く関係がないように見えるかも知れません。実際、これらの論者達は空間の本性の問題は度外視して、専らわたしたちの感覚がどのようにして空間内に場所を占めるのか、具体的に言えばそれらがどのようにして相互に並置されるのか、という点だけを問題にしているように見えます。しかし彼らはまさにそのことによって、(暗黙のうちに)感覚を非延長的なものと看做し、カントに倣って表象の素材(質料)と形式とを根本的に区別しているのです。ロッツェやベインの仮説、そして両者の折衷を試みたヴントの理論から読み取れるのは、わたしたちが空間概念を形成する際、その仲介となる感覚はそれ自体では非延長的なもので、単に質的なものだということです。そして延長は、ちょうど二つの元素の化合によって水が生成されるように、諸感覚の総合によって生み出される、とされます。こうしてみると、経験論的あるいは生成論的説明は、空間の問題をカントが手放したまさにその地点において再び取り上げ、カントの説を補完しようとしたものだと言えます。カントは、空間と空間に含まれるもの(内容物)を切り離しました。経験論者はそれを受けて、空間に含まれるものがわたしたちの思考によって空間から切り離された後、どのようにして再び空間内に場所を占めることができるかを探求します。もっともこのとき知性の働きといった要因は等閑に付され、(専ら)感覚相互のある種の結合によってわたしたちの表象の外延的形式を説明しようとする明らかな傾向が見られます。空間は感覚から抽出されるのではなく、それらの共存から生まれる、とされるのです。しかし精神の能動的な介入を認めることなしに、一体どうやって空間の発生を説明できるというのでしょうか。外延的なものは、仮定により非外延的なものと何ら接点を持ちません。仮に外的延長(外延的なもの)を非外延的な項の間の関係と捉えるにしても、その関係自体、複数の項を関連付けることのできる精神の働きによって確立されたものです。化学的合成の例を持ち出して自らの説を正当化しようとしても無駄でしょう。確かに、化合によって生じたものは全体がそれ独自の形式と、互いに合成される原子のいずれにも属さない固有の性質を身に纏いますが、この形式と性質は、様々な原子から成る多数体を単一な知覚によって捉えるところから生まれてくるものだからです。この統合を行う精神を世界から消し去れば、それと同時にその化合物に固有の質、つまり統合された諸要素がわたしたちの意識に呈していた様相も消え失せるでしょう。非外延的な諸感覚は何も付け加えられない限り、そのあるがままの状態で、つまりは非外延的な感覚のままそこにとどまるでしょう。空間が諸感覚の共存から生じるためには、それらの感覚のすべてが精神の働きによって包括され、並置される必要があります。精神のこの独自の働きはカントが感性のア・プリオリな形式(純粋直観)と呼んだものとほぼ同じものだと言って差し支えありません。

今改めてこの精神の働きを一言で表すとすれば、それは本質的に空虚で等質的な媒質の直観、というよりそのような媒質の概念化、と言えるでしょうか。というのも、これ以外に適当な空間の定義は見当たらないからです。複数の同一的かつ同時的な感覚の区別を可能ならしめるもの、それが空間です。空間は質的差異化とは別の差異化の原理であり、したがってまた質を持たない実在性とでも言うべきものです。局所標徴理論を支持する人達によれば、同時に感じる感覚は決して同一のものではなく、それらの感覚の影響を受ける身体的要素の多様性ゆえに、等質な面上にある二つの点が、視覚あるいは触覚に対して同じ印象を生じさせることはないと言います。なるほどそれはその通りでしょう。何故なら二つの点がわたしたちに与える刺激が同じだとすれば、そのうちの一方が他方の例えば左ではなく右に位置すると判断するいかなる根拠もなくなってしまうからです。しかしわたしたちはまさにこの質的差異を直ちに位置の違いとして解釈できるがゆえに、等質的な媒質についての明瞭な観念、つまり質的に同一でありながら相互に区別できる複数の項の同時性についての明瞭な観念を有している、と考えないわけにはいきません。等質な面上にある二つの点がわたしたちの網膜上にもたらす印象の異質性を強調すればするほど、質的異質性として与えられたものを外延的等質性として知覚する精神の働きの重要性を認めることになるだけなのです。さらに、等質的空間の表象が知性の働きによって得られるものだとすれば、逆に二つの感覚を差異化する質そのものの中に、それらの質が空間内で特定の場所を占める(つまり延長を持つ)理由が含まれているのではないか、と推測することができます。そうだとすれば、延長の知覚と空間の概念化とは別のものだと考えなければならないでしょう。恐らく両者は部分的に重なり合っているのでしょうが、知的生物の系列を上れば上るほど、それに比例して(その生物が持つであろう)等質的空間という独立した観念が徐々に明瞭なものになっていくのも事実です。この意味で、動物がわたしたちと全く同じように外界を知覚している、殊に外的世界の外在(客観)性をわたしたちと全く同じように表象しているとは考えづらいのではないでしょうか。博物学者達は注目すべき事実として、多くの脊椎動物に加えて何種類かの昆虫が、空間内の方位を容易く認知できる驚くべき能力を有していることを指摘しています。見知らぬ土地に数百キロメートルも遠征した後に、ほぼ最短経路でまっすぐ元の巣に戻る動物達が観察されているのです。こうした方位感覚は視覚や嗅覚によって説明されるのが常でしたが、最近では方位磁石から方位を読み取るがごとく、磁気流の知覚によって動物は方位を判断している、と考える人もいます。つまり動物にとって、空間はわたしたちが概念化しているような等質なものではなく、空間を規定するもの、すなわち方位は純粋に幾何学的な形式を持つものではないということです。方位はそれぞれがニュアンスを持ち、固有の質を持ったものとして動物に知覚されていると推察されるのです。この種の知覚が存在し得ることは、わたしたち自身持って生まれた感覚によって右と左を区別していること、また人間に固有の延長世界を規定しているこの左右の区別は、わたしたちにとっては質的差異に他ならないことを考えれば納得できるでしょう。左右の別を定義しようとしてもうまくいかないのはまさにこのためです。実を言えば、質的差異は自然界の至る所に存在します。にもかかわらず左右という具体的な二つの方向が、直接的知覚において二つの色の差異ほどはっきりしていないのは何故なのか、現段階ではわかりません。しかし空虚で等質的な媒質という概念は、それ(左右の質的差異)とは別の意味で異常なものであり、わたしたちの経験の基盤そのものである左右の質的差異に抵抗するある種の反動を要求しているように思われます。それゆえ特定の動物だけが特別な方位感覚を持っている点に注目するだけでは十分ではありません。それに加えて、わたしたち人間が質のない空間を知覚し概念的に把握する特別な能力を持っている点に特に注目しなければならないのです。この能力は、決して抽象能力ではありません。抽象するためにはあらかじめ物事が明確に区別されていなければならず、様々な概念やその記号が相互に外在的なものになっていなければならない点に着目すれば、抽象能力はすでに等質的な媒質の直観を含んでいることがわかるでしょう。このことから言えるのは、わたしたちは異なった秩序に属する二つの実在、一つは感覚によって捉えられる異質的な実在、もう一つは空間という等質的な実在を同時に認識しているということです。この後者の(等質的な)実在、つまり人間の知性によって明確に概念化された実在(空間)こそが、物事を明確に区別すること、数えること、抽象すること、そして恐らくはそれについて語ること(言葉を話すこと)を可能にしているのです。

さて、空間が等質的なものと定義されるとすれば、逆に等質的で無限定の媒質はすべて空間と看做されて然るべきだと思われます。何故なら、等質性とはあらゆる質の不在に他ならない以上、等質的なものの形式が仮に二つ(あるいはそれ以上)あったとしても、それらをどのように区別したらいいかわからないからです。にもかかわらず、人々は口を揃えて、時間は空間とは異なるが、空間と同じように等質的で無限定な一つの媒質である、と言います。こうして、等質的なものはその媒質を満たすものが共存しているか(空間)継起しているか(時間)に従って、二つの形式を身に纏うようになります。時間を等質的な媒質と考えるとき、そこで確かに意識の諸状態が展開されているように見えるかも知れません。しかしそう(時間を等質的な媒質と)考えた瞬間、時間は一挙に与えられることになり、否応なく持続から引き剥がされてしまいます。このように考えただけでも、わたしたちがこのときそれと意識しないうちに空間に舞い戻っている事実に気付かされるでしょう。他方、物質的事物は相互に外在的で、わたしたちにとっても外在的なものですが、この二つの外在性は、事物相互の間に(境界としての)空隙を設け、事物の輪郭を定めているもの、つまり(空間という)媒質の等質性から借りたものだと言うことができます。それに対して意識的事象は確かに継起するものであるにせよ、相互に浸透し合っており、どんな取るに足りない事象にさえ魂の全体が反映されています。それゆえ等質的な媒質と考えられた時間とは、純粋意識の領域に空間概念が混入した結果出来上がった言わば雑種概念に過ぎないのではないかと疑ってみる必要があるでしょう。いずれにしても、時間と空間が等質的なものの二つの形式であると早計に判断を下す前に、まずそのうちの一方が他方に還元できないかどうかを確かめなければなりません。ところで、外在性が空間を占める外的事物に固有の性格であるのに対して、意識的事象は本質的に外在的なものではなく、それが外在的なものとなるのは等質的媒質と看做された時間の中に展開されるときだけです。したがって、時間と空間という等質的な媒質の二つの形式と看做されるもののうち、一方が他方から派生したものであるとすれば、空間概念こそ最初に与えられたものであるとア・プリオリに言うことができます。ところが時間概念の見かけ上の単純さに欺かれ、これら二つの概念を一つに還元しようと試みた哲学者達は、持続の表象によって空間の表象を構築することができると信じました。このような理論の誤りを指摘することにより、無限定で等質的な媒質という形で概念化された時間は、反省的な意識にまとわりつく空間概念の亡霊に過ぎないことを以下に示したいと思います。

(つづく)

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