画竜点睛

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「ジェノサイド」(11)

2012-03-11 | 雑談
もしエラン・ヴィタルが無限で、逆向きの運動に出会うことがなければ、生命は「ただ一つの身体に刻み込まれ」、「純粋な創造的行動性」として現れることも可能だったでしょう。しかし現実には特定の惑星で進化する生命は物質に縛り付けられており、種の中の個体を通してしか現れることはできません。このことが意味しているのは、生命は個体性と社会性の間を揺れ動いており、ちょっとしたバランスの狂いによってどちらか一方に傾くということです。たとえばラッパムシを核の中心を境に真っ二つに分割すると、二つの独立した個体として再生します。ところが分割を完全には行わず、辛うじてつながっている部分をほんのちょっと残しておくだけで、今にも離れ離れになりそうな二つの断片は完全に連携した運動を行い、一つの完璧な個体であるかのように振舞います。「こうして、単細胞からなる原初的な有機体においてすでに、全体の見かけの個体性が、潜在的に結合している不定数の潜在的個体性の合成物であることが確認され」ます。あらゆる生物において個体性と社会性が拮抗しせめぎ合っているのは、したがって偶然の結果ではなく、生命にとってというより有機体にとって必然的なことだと言えます。

有機体にとってもう一つ本質的なのは、「反省への歩み」です。反省への歩みというと唐突に聞こえますが、要は意識の覚醒(緊張)です。個体性と社会性、意識と無意識はあらゆる生物に様々な割合で観察され、生物の集団の傾向を量る上での指標ともなります。意識は本来異なった二つの形をとり得る筈のものであるにもかかわらず、この地球では「物質を征服すること、自分自身から自分を取り戻すことに、その力の最良の部分を使い果たさなければならなかったように思える。この征服は、それが行われた特殊な条件のもとで、意識が物質の諸習慣に適応して、注意をすべてそれらに集中させること、つまり、みずからを何にもまして知性と規定することを要求した」。この結果有機体が植物と動物に分岐したのち、動物の進化の線は不可避的に知性とその相互補足的な傾向である本能とに分岐することになり、意識といえば何よりもまず知性を意味するようになります。事実は確かにこの通りだとしても、知性だけが意識のとり得る唯一の形態というわけではありません。意識がとり得たであろうもう一つの形態について述べる前に、植物と袂を分かったあと動物性はどのように進展していったのか、その中で本能と知性はどう頭角を現していったのかを見ていくことにしましょう。

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ここでも真っ先にベルグソンが指摘するのは、進化する力が限られたものであり、ライプニッツ的な予定調和は望むべくもないということです。人為的な構築物においてはなされた仕事と出来上がった製作物の釣り合いが取れているのに引き換え、生命の進化においては「仕事と結果が驚くほど釣り合ってい」ません。製作物において仕事の各部分に結果の各部分が対応しているのとは対照的に、生み出された諸々の種はてんでんばらばらに自己の利益のみ追求し、不協和音を奏でているのです。生み出された種が進化の歩みを止め、袋小路に入ってしまったかのように同じ場所で堂々巡りしている様は、習得された技能や知識が時間の経過とともに陳腐化し、元の輝きを失って干乾びてしまうのにも似ています。どんな有益な習慣も意識して更新し続けない限り、錆び付いて自分自身の足枷となってしまうのです。

習慣が常に陳腐化の危険に晒されているように、動物も常に一つの危険に付き纏われています。それはほかでもない、植物的生への後退です。ほとんどの動物種がその場での足踏み状態から抜け出せないのも、この後退が自然なものであり、植物的生に絡みつかれて身動きがとれなくなっているからです。一つ一つの動物種はそれぞれがその都度勝ち取られた成功であるにもかかわらず、この観点から見るとそのすべてが出来損ないの失敗例と言えなくもありません。事実、「動物の生が進んだ四つの主な方向(注=棘皮動物、軟体動物、節足動物、脊椎動物)のうち、二つが辿り着いたのは行き止まりで、残り二つの方向では、概して努力は結果に釣り合って」おらず、不完全な形でしか自由を獲得することはできませんでした。

もちろん最初から危険が顕在化していたわけではありません。最低限の運動性を備え、「無限に可塑的」な一群の有機体が地球上に姿を現してからしばらく(といっても数億年単位の話ですが)の間は、順調に動物性が進展し、それと呼応するように動物の形態も増え続けたのではないかと思われます。ところが古生代の動物相を見渡してみると、奇異に感じられる一つの特徴があります。それは「動物が多少なりとも硬い外皮」を身に纏っていたことです。運動性の発達は動物に自由と生存における優位性をもたらすと同時に、お互いがお互いにとっての脅威となる事態をも招来します。このような一種の危機的事態に直面した「動物界全体は、みずからをより高い可動性へと至らせた進歩を突然やめてしまったにちがい」ありません。「棘皮動物の硬い石灰質の皮膚、軟体動物の殻、甲殻動物の甲殻、古代の魚類の硬鱗の共通の起源は、おそらく敵となる種から身を守る動物種の努力」にあったのではないかと推測できます。これらの外皮は身を守る鎧となる一方、運動を制限し自由な行動の妨げにもなります。セルロースの膜に護られた植物が可動性を自ら放棄し深い眠りに就いたように、それは運動を制限するのみならず意識を麻痺状態に引きずり込まずにはおかなかったでしょう。このとき自分の殻の中に閉じ籠る道を選んだ棘皮動物と軟体動物は、数億年が経過した今もなお惰眠を貪り続けています。節足動物や脊椎動物にとっても事情に変わりはなく、それらが棘皮動物や軟体動物と同じ運命を辿る危険性もなかったわけではありません。幸い節足動物と脊椎動物は危機の中で自己を取り戻し、再び前進を開始しました。今日見られるような意識(あるいは無意識)の形態、すなわち知性と本能が開花することができたのも、このような危険をくぐり抜けることができた御蔭なのです。

危険をくぐり抜けた動物は鎧を脱ぎ捨て、動作の敏捷性と柔軟性を研ぎ澄ませることに生存の活路を見出しました。この方向への試行錯誤が多方面にわたって繰り返し行われたことは、節足動物と脊椎動物の神経系の違いに由来する身体の構造の違いからも見て取ることができます。節足動物の身体は複数の体節からなり、それに対応した付属肢に運動機構が分散しています。付属肢の数はまちまちで、特定の機能に特化した独特の形態を持つ場合があります。脊椎動物では四肢に運動機構が集中し、それらが果たす機能は節足動物ほど形態に依存していません。人間に至って機能の形態からの独立はほぼ完全になり、ありとあらゆる仕事を遂行することができるようになります。人間の手の機能は有限で取るに足らないものであるにもかかわらず、無限の機能を生み出すことができるのです。

これらの外的な表れの背後に、「生命に内在する二つの力」が働いています。この二つの力を規定するためには、それぞれの道で最も進んだ種を比較・検討しなければならないでしょう。

脊椎動物の中で最も進化したのが人間なのは間違いないとして、節足動物の中で最も進化した生物は何でしょうか。それを機械的に決定する定義が存在しないのは当然ですが、一般的に「最も多様な環境で、可能な限り様々な障害を通して、可能な限り広大な地表を覆うような仕方で」発達し、なおかつ最も遅れて出現した種は最も進化した種であると看做すことが可能でしょう。節足動物の場合、これに該当するのは昆虫です。昆虫の中でもアリやハチなどの膜翅類は明らかに退化した一つの種を除き最も遅れて出現した集団であり、したがって最も進化した集団と考えて差し支えありません。そして人間と昆虫の膜翅類において際立っているのがそれぞれ知性と本能だとすれば、知性と本能こそ「生命に内在する二つの力」、エラン・ヴィタルを直接伝える二つの傾向を表していると見ることができます。

アリストテレス以来、進化の道はいわば一直線で、生物は植物的生から本能的生へ、本能的生から理性的生へ一段ずつ階段を上ってきたと考えられてきました。しかし今まで見てきたように、植物と動物、本能と知性は異なる系列に属するものであり、同列に論じられるものではありません。にもかかわらずそれらが同列に扱われ、「複雑さや完全性の違いしかない」かのように見られるのは、両者が共通の起源から派生したものであるため知性には本能の名残りが、本能には知性の名残りが消えずに残っているからです。両者は純粋な状態で自然界に存在することはなく、常に不純物を含んだ状態で存在しています。この不純物の存在が両者の性格を見誤らせ、互いに同じ性質のものだと思い込ませるのです。しかし「それらが他方を伴うのは、互いに補い合っているからでしかないし、互いに補い合っているのは、それらが異なるからでしか」ありません。本能は古い制度が新しい制度に取って代わられるように知性に取って代われた古い心性ではなく、それらは異なる方向に同時に進化し発展してきた行動性の二つの形態なのです。

本能と知性を区別するに当たって、ベルグソンはまずそれがあまりにも明確なものになりすぎる恐れがある点に注意を促しています。それらは一定の状態というよりむしろ傾向であって、「厳密な定義には向いていない」からです。いずれにせよ忘れてはならないのは、本能と知性の出発点に「原物質から何かを獲得しようとする」生命の努力、「不活性な(注=無機的な)物質に対する行動の二つの方法」があることです。「このような検討方法はいささか狭いものだが、それらを区別する客観的な手段を与えてくれるという利点があるだろう。逆に、この検討方法が、知性一般ならびに本能一般について与えてくれるのは、それらがその上下を揺れ動く中間的な位置だけだろう。こういうわけで、これからの議論に、図式的な素描以外のものを見てはならないだろう」。ベルグソンのこの注釈は少々わかりづらく、解説を要するかも知れません。特に「それらがその上下を揺れ動く中間的な位置」が具体的に何を表しているのか、この文章だけから読み取るのは困難です。「道徳と宗教の二源泉」にちょうどおあつらえ向きの解説があるので、以下に該当する部分を抜き出してみます。

ベルグソンによれば道徳の起源には二つのもの「――すなわち、一つは社会の有無を言わさぬ非人格的要求から発せられる命令の体系。他は、人類にあっておよそ存在した最善のものを代表する個性がわれわれ一人一人の良心へ放った呼びかけの総体」があります。「この二種の力は、それぞれ魂の別々の領域で働いているが、いずれもその中間の平面、つまり知性の平面へ投影されるようになる。またそうなれば、両者ともにそれぞれの投影像で代理されることになろう。この投影像は混じり合い、滲透し合う。そしてその結果、この命令と呼びかけとが、ともに純粋理性の言葉へ移されることになるのである」。理性の言葉に翻訳されることによって「道徳の別種の構成要素が、同質で比較可能なもの、そればかりかほとんど互いに通約可能なものにさえなってくる」とともに、あとから付け加わったこの合理性が本体に跳ね返って、もともと道徳が合理的な性格のものだったという錯覚を生じさせます。「だが道徳的行為の持っている合理的性格を認めたからといって、そこから道徳の起源が、いな、その基礎ですらもが純粋理性のうちにあることにはならない」。同様に、本能と知性という二つの傾向も「知性の平面」に投影され生物学的・社会学的・心理学的概念を形成するにしても、本能と知性のいわば実体は「知性の平面」とは別の次元で働いています。本能と知性の個々の現れは「知性面へ投影されたもののごく一部にしか対応して」おらず、投影されたものは当然のことながら実体を必ずしも正確に反映していません。「本能に存在する本能的なものと知性に存在する知性的なもの」は「知性の平面」から上方あるいは下方へはみ出しており、本能と知性の発生を跡付けるためにはこの上方または下方への力を常に参照しなければならない、というのがベルグソンの言いたかったことではないかと思われます。

(つづく)

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