画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(36)

2014-03-07 | 雑談
実際、(スペンサーやミルなどの)イギリスの学派が専ら行っているのは、外延的関係を持続における複雑さの程度の異った様々な継起の関係に還元することです。(例えば)目を閉じて物の表面を指でなぞるとき、表面をこする指の感触、そして特に関節の様々な働きはわたしたちに一連の様々な感覚を生じさせますが、それらの感覚は質的な差異によってのみ区別されると同時に、時間における一定の(生じた感覚の)順序を示します。他方、実験が示すところによれば、一連の感覚のこの順序は可逆的なものであって、異なった種類の(あるいは後述するように、反対方向の)努力によって同じ感覚を逆の順序で生じさせることもできます。そうだとすれば、空間内の位置関係は、こう言ってよければ、持続における継起の可逆的関係である、と定義することができるでしょう。しかしこのような定義は循環論法を、あるいは少なくとも持続についての全く皮相的な観念をその底に隠しています。実際、もう少し先の方で詳しく述べるように、持続に関しては二つのものを考えることが可能です。一つは夾雑物を一切含まない純粋な持続であり、もう一つは空間の観念がこっそり介在している持続です。全く純粋な持続とは、自我が現在の状態とそれ以前の状態とを区別したりせず、あるがままに生きているときにわたしたちの意識の諸状態が取る形式です。こういった形式を意識が取るためには、何も過ぎ去っていく感覚や観念の中に完全に没入する必要はありません。というのもその場合、むしろ自我は持続することを止めなければならないだろうからです。また、以前の状態を忘れなければならないわけでもありません。ただ以前の意識の諸状態を思い出す際に、一つの点にもう一つの点を並べるような具合にそれらを現在の意識の状態に並置するのではなく、ある旋律を構成する様々な音を一つに溶け合ったものとして思い起こすときのように、過去の諸状態を現在の状態に有機的に統合しさえすればよいのです。(引き続き音の比喩で表せば)、それらの音は次々と現れては消えていくものだとしても、わたしたちは新しく聞こえる音をすでに聞いた音の中に統合して知覚します。その音の総体は一つの生命体にも比すべきものであって、各々の部分は確かに区別のつくものでありながら、同時に部分同士の連帯によって相互に浸透し合っている、という風に言えるのではないでしょうか。その証拠に、ある音を必要以上に引き伸ばして旋律の拍子を乱した場合、そのミスに気付くのは音が物理的に長くなったからではなく、それによって楽節全体に質的変化が生じるからなのです。こうして見ると、個別化される以前の継起、すなわち諸々の要素が相互に浸透し合い、連帯し、親密に有機的に組織化され、それぞれの要素が全体を表現しながらも、全体から区別されることもなく、全体から分離されることもなく存在している状態、というものを確かに考えることができます。それらの要素は、ただ抽象化能力を持った思考によってのみ全体から区別され分離されるのです。持続をこのような(個別化される前の)形で表象できる存在がいるとすれば、それはきっと自己同一性を保ちつつ変化することができるような存在、空間概念を全く持たないような存在でしょう。ところが空間概念と親しく交わり、その虜にさえなっているわたしたちは、純粋な継起を表象するに際しても、知らず知らずのうちに空間概念を導入せずにはいられません。わたしたちは意識の諸状態を、最早一方を他方の中に、という形ではなく、一方を他方の傍らに、それらを同時に知覚するような形で並置します。要するにわたしたちは時間を空間に投影し、持続を延長の中に表現しているのです。その結果、継起はわたしたちにとって、各部分が相互浸透することなく隣り合って並んでいるような一つの連続的な線分、あるいは連鎖の形を取って現れます。ここで注目しなければならないのは、一つの連続的な線分ないし連鎖というイメージが含意しているのは、前後関係にあるものが継起するものとしてではなく、同時に並存するものとして知覚されている、ということであり、ただ単に継起しているものを同一の瞬間に存在するものとして表象することには矛盾があるということです。ところで、持続において継起するものの順序やこの順序の可逆性が語られるとき、そこで問題になっているのは先ほど定義したような外延的夾雑物を含まない純粋な持続でしょうか、それとも分離され並置された複数の項を同時に包括するような、空間内に展開される継起でしょうか。答えは明白です。複数の項の間で順序を決めるためには、まずそれらの項を区別し、次いでそれらが占めている場所を比較しなければなりません。したがってそれらは多数的で同時に存在するもの、相互に区別されたものと看做されているのです。一言で言えばそれらは(空間内に)並置されているのであって、継起するものの中に順序を見るということは、その継起が同時性として空間内に投影されているということです。そういうわけで、ある物の表面または一本の線をなぞる指先がわたしに様々に異なった質を示す一連の感覚を伝えるとき、そこで起こっているのは次の二つのうちのいずれかだということになります。第一の場合、わたしはそれらの感覚を持続の中でのみイメージします。このときそれらの感覚は継起はするものの、ある瞬間にそれらのうちのいくつかを同時に、しかも区別されたものとして表象する、というようなことはできません。第二の場合、わたしはそれら継起する感覚の一定の順序を識別します。このときわたしは複数の項が継起するのを知覚する能力に加えて、それらを区別した後にすべてを並置することができる能力をも有しています。つまりこの第二の場合、わたしはすでに空間の観念を所有していることになります。このように、持続における可逆的な系列という観念、あるいは単に時間における継起の順序という観念でさえ、それ自体すでに空間の表象を含んでいるのであって、(そうである以上)それらの観念によって空間(下記参照)を定義することはできません。
(竹内訳ではここが時間となっています。恐らく原文を意図的に無視して、つまり原文の誤植と判断して時間とされたのだと想像されますが、前段の最後の一節との対応から考えてもやはりここは空間が正しいのではないかと思います)

議論をより厳密なものにするために、各自一本の直線と、その直線上を移動する物質的な点Aを想像してみましょう。もしこの点が自己意識を持っているとすれば、それは動いているのですから、自分が変化していると感じるに違いありません。この点Aは一つの継起を知覚するでしょう。その場合この継起は、点Aにとって一本の線の形を取るのでしょうか。点Aが自分の辿っている直線から離脱してその場から浮揚し、線上に並んでいる複数の点を同時に俯瞰できるのであれば、確かにそうかも知れません。しかしまさにその瞬間、点Aは空間の観念を形成することになり、その空間の中でこそ自分が感じている変化が展開されていく様を見るのであって、純粋持続において見るのではありません。ここにおいてわたしたちは、純粋持続を空間と同じ種類のもの、ただし空間よりも単純な本性を持つものと考える人々の誤りをはっきりと捉えることができます。彼らは好んで心的諸状態を並置し、それらを繋ぎ合わせて一つの連鎖や線を作り上げようとします。しかもその操作が本来の意味での空間の観念を、紛れもない空間の観念を介在させていることに全く気付きません。彼らが(迂闊にも)そのことに気付かないのは、空間とは三次元の媒質(であるのに、彼らの操作が行われるのは二次元において)だからです。しかし一本の線を線という形で知覚するためには、その線の外に立ち、その線を取り巻いている空間を考慮に入れなければならないこと、つまりは三次元の空間を考えないわけにはいかないことは自明のことではないでしょうか。もし意識を持つ点Aが空間の観念をいまだ持っていないとすれば――今現在わたしたちが身を置かなければならないのもまさにこの仮説なのですが――、点Aの意識において経過する諸状態の継起が、その点自身にとって一本の線という形を取ることは決してありません。実際にはその場合、点Aの意識する感覚はそれぞれが動的に付加されていき、あたかも継起する諸々の音が組織されてわたしたちを魅了する旋律を奏でるように、有機的に組織化されて一つの全体を形作るでしょう。要するに純粋持続とは質的変化、すなわち変化する要素のそれぞれが相互に融合し、浸透し合って明確な輪郭を持たず、互いに外在化しようとする傾向を持たない変化、数とは全く縁のない質的変化の継起に他なりません。それは純粋異質性とでも呼ぶべきものです。しかしわたしたちとしては、ここではまだこの点を強く主張するつもりはありません。持続にほんのわずかでも等質性の概念を持ち込めば、その瞬間こっそりと空間が紛れ込んでしまうことを示しただけで十分です。

確かに、わたしたちは持続において継起する瞬間を数えることができ、それらの瞬間を数える、という行為自体によって時間はまず空間と何ら変わらない計測可能な量として現れます。しかし両者の間には無視することのできない違いが存在します。例えばわたしが振り子時計に目をやりながら「一分が経過した」と呟くとき、それが意味しているのは時計の振り子が揺れながら一秒ごとに時を刻み、それが60回繰り返されたということです。仮にわたしがこの60回の振り子の揺れを一挙に、精神のただ一度の統覚によって表象する場合、仮説そのものによって継起の観念がそこに入り込む余地はありません。わたしは60回繰り返される振り子の揺れを思い浮かべるのではなく、一本の線上に配置された60個の点を考えているのであって、それらの点の一つ一つが言わば振り子の一往復を象徴する記号となっているのです。――次に、この60回の振り子の揺れを一つ一つ順番に、しかも空間内での往復運動を細大漏らさず表象しようとすれば、わたしは振り子の一往復一往復をその都度、つまりそれ以前の記憶を排除しつつ表象し直さなければなりません。何故なら、空間は先行する振り子の揺れのいかなる痕跡も保存してはくれないからです。まさにそれゆえに、このときわたしは常に現在にとどまることを余儀なくされます。わたしは(最初の場合と同様)継起や持続といったものを考えることを断念しなければなりません。そして最後に、揺れている振り子の(今現在の)イメージに結び付ける形で、それ以前の振り子の揺れの記憶を保持していると仮定してみましょう。その場合考えられるのは次の二つのうちのどちらかです。第一の場合、わたしはそれら二つの揺れのイメージを並置します。が、これでは最初の仮定に逆戻りすることになります。第二の場合、わたしは二つの揺れのイメージを、一方がそれぞれ他方に含まれるような形で知覚します。両者は様々な音が一つの旋律を織り成すように相互に浸透し合い、有機的に組織化されて一つの多様体を形成します。これは不可分な多様体、あるいは質的多様体とでも呼ぶべきものであって、数の観念とは一切関係を持ちません。こうしてわたしは純粋持続のイメージを手に入れることになるのですが、それと同時に、等質的な媒質とか計測可能な量という観念とは完全に縁を切ることにもなるでしょう。わたしたち自身の意識を注意深く観察すれば、記号によって純粋持続を表象するのをやめるとき、意識は常にこのように働くことが確認できる筈です。規則的な振り子の揺れがわたしたちを眠りに引き込むような場合、この催眠効果を生むのは最後に耳にした秒針の音、あるいは最後に目にした振り子の揺れでしょうか。恐らくそうではありません。もしそうであれば、最初の音や揺れが何故同じように眠りを誘わなかったのか、その理由がわからなくなるからです。では、最後の音、あるいは最後の揺れに並置されたそれ以前の音なり揺れの記憶がわたしたちを眠りに誘ったのでしょうか。しかしそれ自体としては一つの刺激に過ぎない音や揺れに同じ記憶を後からいくら並置したところで、何の効果も生まれない筈です。したがって結局のところ、それらの音(や揺れ)が相互に結合し、単なる量としてではなく、その量が質化されることによって、つまり全体が一定のリズムで有機化されていくことによって作用したのだ、という結論に行き着かざるを得ません。こう解釈する以外に、微弱で連続的な刺激がもたらす(ときに絶大とも言える)効果をどうやって理解することができるでしょうか。感覚がそれ自身と同一のものにとどまる限り、それは何度繰り返されようと(最初と同じように)微弱で、取るに足りないものにとどまるでしょう。しかし実際には、刺激が加わる毎にそれ以前のすべての刺激に有機的に統合され、常に終止を孕みながらも新しい音が付加されることによって全体が絶えず変化していく一つのフレーズ(楽節)を聞くのと同じ効果がもたらされるのです。にもかかわらずそれを最初の感覚と同じものと考えてしまうのは、わたしたちが感覚そのものではなく、その感覚の客観的原因、つまり空間内に位置付けることのできる原因を考えているからです。すると今度は、わたしたちは感覚を空間の中に展開することになり、自らを展開する有機的組織や相互に浸透し合う変化を知覚する代わりに、いわば同一の感覚が長く引き伸ばされる様を、同一の感覚が自らに自らを際限なく並置していく様を見ることになります。真の持続、意識が直かに知覚している持続は、仮に強さも一つの量と呼んでいいとすれば、こうして強さという名の量に分類されることになるでしょう。しかし本当は、強さは量として計測できるものではありません。それを計測しようとするや否や、真の持続は無意識の内に空間に置き換えられてしまうのです。

とは言え持続を本来の純粋な状態において表象しようとすると、わたしたちは信じがたいほどの困難に直面することになります。それは多分、持続しているのはわたしたちだけではない、という理由によるものです。わたしたちの外部に存在する事物も、恐らくはわたしたちと同じように持続しています。そしてこの観点から見るとき、時間もまた完全に等質的な媒質であるかのように見えてきます。持続の各瞬間が、空間内に存在する物体と同じように相互に外在的なものに見えるだけではなく、感覚器官によって知覚された運動が、等質的で計測可能な持続の言わば具体的な記号であるかのように見えるのです。事実、時間は力学の計算式、あるいは天文学や物理学の計測に変数として取り入れられています。運動の速度を計測し得るということは、時間もまた一つの量であることを含意しています。そういうわけで先ほどわたしたちが行った分析を完璧なものにするためには、さらに別の角度からも分析を加えなければなりません。というのも、(わたしの主張するように)本来の意味での持続が計測できないものだとすると、では時計の振り子の揺れが計測しているのは一体何なのか、という問題が自ずと生じてくるからです。次のように言う人もいるかも知れません。意識によって捉えられる内的持続が意識的諸事象の相互浸透、自我の漸進的な豊饒化であることは少なくとも認めてもよい。しかし天文学者が計算式に導入する時間、わたしたちが普段利用している時計が同一の単位に分割する時間は内的持続とは別の物である。それは計測可能で、したがってまた等質的な量なのだ、と。――しかしこれは完全な誤解です。注意深く検討すれば、そうした思い違いを一掃することができるでしょう。

時計の文字盤に目をやり、振り子の揺れに合わせて進む秒針の動きを目で追うとき、一見すると持続を計測しているように見えるかも知れませんが、わたしは持続を測っているのではありません。わたしは単に同時性を数えているのであって、これは持続を計測することとは全く別の事です。わたしの外部では、つまり空間の中では、時計の針と振り子が占める位置はどんな瞬間にも一つしか存在しません。というのも、振り子が過ぎ去った瞬間に占めていた位置はことごとく消滅して何も残ってはいないからです。(一方)わたしの内部ではどうかと言うと、そこでは意識の諸状態が有機的に組織化され、相互に浸透し合うプロセスが進行しています。真の持続を形成するのはこのプロセスです。わたしがこのように持続するからこそ、現在の振り子の揺れを知覚するのと同時に、振り子の過ぎ去った揺れとも言うべきものを表象することができるのです。ここでしばらくの間、継起するとされるこれらの振り子の揺れを考えているわたし自身の存在を消してみましょう。すると後に残るのは、一つの振り子の揺れ、と言うより振り子の位置だけです。そこには持続は微塵も存在しません。今度は逆に、振り子とその揺れを消してみましょう。そのとき後に残るのは、瞬間が相互に外在化されることのない持続、数とは何ら縁を持たず、自我が絶えず異質化している持続だけです。このように、わたしたちの自我の内には相互外在性なき継起とも言うべきものが、自我の外には継起なき相互外在性とも言うべきものが存在します。相互外在性というのは、今現在の振り子の揺れは、最早存在しないそれ以前の揺れとはどうやっても交わりようがないという意味です。それが継起しないというのは、継起というものは、過去を想起し、二つの揺れあるいはその二つの揺れを象徴する記号を補助的な空間の中で並置することができるような、意識を持った観察者にとってしか存在しないからです。――ところで、この外在性なき継起と継起なき外在性との間では、物理(化)学において浸透と呼ばれる現象とよく似たある種の交換が行われています。わたしたちの意識的生活において継起する局面は相互に浸透し合っているのは事実だとしても、それぞれの局面はそれと同時的な振り子の揺れに対応しており、またその揺れの各々は、一つの揺れが現れたときには最早別の揺れは存在しないという理由によって明確に区別されることから、意識的生活において継起する瞬間にも同じような区別を設ける習慣をわたしたちは身に付けてしまいます。つまり振り子の揺れ(の外在性)が、意識的生活をも言わば相互外在的な部分に解体してしまうのです。ここから、内的持続を空間と同じように等質的なもの、各瞬間が同一的で、相互浸透することなく継起するものと看做す錯覚が生まれます。しかしその半面、振り子の揺れ――それらが相互に区別されるのはひとえに一つの揺れが現れたときには別の揺れは消滅しているからですが、その振り子の揺れの方もわたしたちの意識的生活に影響を及ぼすことによって、そこから恩恵を蒙ってもいます。具体的に言えば、わたしたちの意識がそれらの揺れを有機的に統合し、その全体を記憶することで、振り子の揺れも保存され、配列され得るものとなります。つまりわたしたちは、(以上のような内と外との交換により)、振り子の揺れの媒質として、三次元空間に加えて新たな第四の次元を、等質的時間ともいうべき次元を創出するのです。現れては消えていく振り子の運動はその場限りのものであるにもかかわらず、それ自身に無際限に並置し得るのはこの等質的時間のお蔭です。――こうした錯綜したプロセスにおける現実的な部分と想像的な部分とをあらためて厳密に区別して考えてみると、以下のことが確認できます。一方には持続なき空間が存在し、そこでは様々な現象がわたしたちの意識の状態とともに生起と消滅を繰り返しています。他方には持続が存在し、そこでは互いに異質な瞬間が相互に浸透し合っています。しかし持続のそれぞれの瞬間はそれと同時的な外界の状態と対比させることができ、この比較によって持続の各瞬間は別の瞬間から分離し得るものとなります。これら二つの実在が照合され(お互いの実質を交換す)ることで、空間から持続の記号的表象が引き出されます。こうして持続は、等質的媒質という偽りの形態を身に纏うようになります。空間と持続というこれら二つの項を結び付けているものこそ両者の同時性であり、この同時性は時間と空間の交わる点と定義することができるでしょう。

持続があたかも等質的なものであるかのように看做されているのは、運動というものが持続の等質性を如実に証明するものと思われているからですが、この運動という概念を同じように分析しても今述べたのと同様の(時間と空間の)区別に導かれることになるでしょう。一般に運動は空間の中で生起するものと考えられていますが、それが等質的で分割可能なものと断じられるとき、わたしたちの念頭にあるのは(運動そのものではなく)運動の軌跡であって、運動の残した痕跡、つまり空間と運動そのものとを同一視できるという予断がその裏に隠されています。しかしよくよく考えてみると、運動体が次々に占める位置は確かに空間内にあるにせよ、それがある位置から別の位置へと移動する動きそのものは持続の内にあり、意識を持った観察者にとってのみ存在するものであって、空間とは何ら係わりがない、ということがわかります。わたしたちはこの場合一つの事物と係わっているのではなく、一つの進展と係わっているのです。運動をある地点から別の地点への移動と解するとき、それは心的な一つの統合、心的な一つのプロセスであり、したがって非外延的なものです。空間内には空間の部分以外のものは存在せず、運動体を空間上のどの地点で考察しようと、知ることができるのは当のその位置でしかありません。(それに対して)意識が様々な位置以外のものを知覚できるとすれば、それは意識が(運動体の)すべての位置を順次記憶し、それらを統合するからです。では、このような統合を意識はどのようにして成し遂げているのでしょうか。それが実現されるのは、等質的な媒質においてそれらの位置を展開することによってではありません。何故なら、それらの位置を改めて結び付けるために新たな統合が必要になり、そうした統合を瞬間毎に際限なくやり直さなければならないからです。したがって(意識の内では)言わば質的な統合、言い換えると継起する様々な感覚相互の漸進的な有機的組織化、一つの楽節の旋律にも比すべき統合が行われていることを認めなければなりません。わたしたちが運動のことだけを考え、運動から言わば運動性のみを抽出するときに抱く運動の観念とはまさにこのようなものです。この点について得心するためには、視界の一角を流れ星が瞬時によぎる場面を想像してみるといいかも知れません。流れ星のように瞬く間に現れては消える運動を目の当たりにした場合、一筋の光の線のように見える星の軌跡と、運動あるいは運動性の絶対的に不可分な感覚とが自ずと分離されます。また目を閉じた状態で何か急激な動作を行うとき、敢えて動作の軌跡を思い浮かべない限り、それは純粋に質的な感覚という形で意識の前に現れるでしょう。要するに運動には、区別しなければならない二つの要素があるのです。すなわち運動体が通過した空間と運動そのもの、あるいは継起的な位置とそれらの位置の統合です。これら二つの要素のうち、前者は等質的な量であり、後者はわたしたちの意識の内でしか実在性を持たないもの、つまりは質あるいは強さと呼び得るものです。ところがここでもまた浸透現象に似た現象が生じ、運動性にかかわる純粋な強さの感覚と、運動体が通過した空間の外延的表象とが混合されます。事実、一方でわたしたちは、運動にその運動体が通過した空間の分割可能性を付与し、事物は分割できるが行為は分割できないという事実を忘れてしまいます。――他方、行為そのものを空間に投影し、運動体の通過する線の上に配置して、その結果行為を固定する習慣を身に付けてしまいます。あたかも進展を空間に位置付けることが、意識の外(空間)においても過去が現在と共存できる、と主張することと同じではないとでもいうかのように。――私見によれば、運動と運動体が通過した空間との以上のような混同からエレア派の詭弁も生まれたのです。というのも、二つの点を隔てている間隔は無限に分割可能なものである以上、仮に分割された間隔の部分と同じような部分から運動が構成されているのが事実だとすれば、(エレア派の主張するように)いくら歩を進めてもその(二点の)間隔の一方の端から他方の端へは永遠に達することができないだろうからです。しかし実際には、アキレスの歩行の一歩一歩はそれぞれが単一で不可分の行為であり、それを一定回数繰り返せば、アキレスはいずれ亀を追い越すに違いありません。エレア派の誤りは、この不可分で独自な一連の行為をその下に広がる等質的空間と同一視したことに由来します。当の空間は任意の規則によって分割することができ、なおかつ再構成できることから、彼らはアキレスの運動全体をアキレス自身の歩みによってではなく、亀の歩みによって再構成しても構わないと思い込んだのです。亀とそれを追いかけるアキレスに代えて、彼らは実際には、相互に歩みを規制されている二匹の亀、後続する亀が先行する亀に決して追いつけないように、全く同じように歩み、あるいは行為が同期するように制御された二匹の亀を置いたのです。では何故、アキレスは実際には亀を追い越すことができるのでしょうか。それはアキレスの一歩一歩、亀の一歩一歩が運動としては分割不可能で、空間において大きさを異にするからです。したがってそれぞれの一歩を合計していけば、アキレスの歩んだ空間(距離)が、亀の歩んだ距離と事前に進んでいた距離の合計を上回る瞬間がいずれは訪れるでしょう。ゼノンがアキレスの運動を亀の運動と同じ規則によって再構成するとき、彼はこの点を全く考慮していません。そのような恣意的な分割と再構成の対象となるのは空間だけだという点を看過し、空間と運動とを混同しているのです。――それゆえ、さる現代の学者(エヴェラン。訳注によればベルグソンの友人で、科学著作家)が示した以下のような見解、すなわち(アキレスと亀という)二つの運動体の出合いの裏には、現実の運動と想像された運動との、具体的空間と無限に分割可能な空間との、具体的時間と抽象的時間とのずれが隠されている、という見解はたとえ精緻で深い分析に裏打ちされたものだとしても、それに与することはできません。運動は持続の中にあり、持続は空間の中にはない、ということを無媒介の直接的直観がわたしたちに教えてくれているのに、空間や時間、そして運動に関して、いかにそれが巧妙な仮説であれ、何故(わざわざ)そのような形而上学的仮説を立てなければならないのでしょうか。具体的空間の分割可能性に一定の制限を設ける必要は少しもありません。二つの運動体が同じ瞬間に占める位置、間違いなく空間の中にあるそれらの位置と、空間を占めることのない運動そのもの、延長ではなく持続であり、量ではなく質であるような運動そのものとを明確に区別して置きさえすれば、空間は無限に分割できるものと考えて何の問題もありません。このあと述べるように、運動の速度を計測することは単に一つの同時性を確認することです。そして計算に速度が導入されるのは、同時性を手っ取り早く予測するためです。したがって数学がある時点におけるアキレスと亀の位置を予測し、あるいは両者の出会う地点X、まさに一つの同時性が確認される地点Xをア・プリオリに予測するとき、数学は自分の役割を弁え、それを忠実に果たしていると言えます。しかし二つの同時性の間で起きていることまで再構成できると主張するなら、それは数学本来の役割を逸脱した(根拠のない)主張だと言わなければなりません。もっとも仮に数学がそうしよう(二つの同時性の間で起きていることを再構成しよう)としても相変わらず同時性を、ある同時性に代えて別の新たな同時性を考慮に入れるのが精一杯で、そうやって同時性を際限なく増やしてみても、不動のものから運動を作り出すことはできず、空間から時間を作り出すことはできないことをきっと思い知らされる羽目になるでしょう。要するに、持続の中にある等質的なものとは持続しないもの、すなわち数多(あまた)の同時性が配置される媒質としての空間であるのと同様に、運動の中にある等質的要素は運動とは縁もゆかりもないもの、運動の通過した空間であり、つまりは不動性なのです。

ところで、まさにこれと同じ理由によって、科学は時間や運動を扱う際に、あらかじめそこからその本質的な要素、つまりその質的な要素を――時間からは持続を、運動からは動性を――排除せずに済ますことはできないのです。天文学や力学において、時間や運動、速度などがどのように扱われているかを検討してみれば、この点が自ずと理解される筈です。

力学の教科書自体、力学は持続そのものを定義しようとするのではなく、二つの持続の同等性を定義するのだと最初に断っています。例えばこんな風に。「二つの時間間隔が等しいのは次のようなとき、すなわち、二つの時間間隔の出発点において同じ条件下にある二つの同一(と看做される)の物体が、すべての外部からの作用と影響を同じように受け、同じだけの空間を通過してその時間間隔の終結点に達したときである」。言い換えると、運動の始まるまさにその瞬間、つまり外的な一つの変化とわたしたちの心的状態との同時性が記録されます。次いでその運動が終わる瞬間、もう一つ別の同時性が記録されます。最後に、運動体が通過した空間が計測に付されます。実際、この空間だけが計測できる唯一のものなのです。してみるとここで問題になっているのは持続ではなく、空間と同時性だということになります。時間tが経過したあとにかくかくの現象が起きると言われる場合、それが意味しているのは、今からその時までに、意識がある種の同時性をt個記録するということです。ただし「今からその時までに」という表現に惑わされてはなりません。何故なら持続の間隔はわたしたちにとってのみ、そしてわたしたちの意識状態の相互浸透の結果としてのみ存在するものだからです。わたしたちの外部には、空間しか、つまり同時性(同時に存在しているもの)しか見出すことはできません。これら同時に存在するものについては、客観的にそれらが継起している、と表現することすら許されないのです。というのも、継起というものはどんなものであれ現在と過去を比較することによってしか考えることができないからです。――科学の視点からすると、持続の間隔そのものが無用の長物以外の何物でもないことを裏付けるのが、仮に宇宙のすべての運動が二倍、三倍と速度を増したとしても、わたしたちが(科学において)用いる公式にも、そこに代入される数値にも何一つ変更を加える必要はない、という事実です。意識はこのような変化に対して名状しがたい、言わば質的な印象(違和感)を抱くでしょうが、空間内で生起する同時性の数には変わりがない以上、この変化が意識の外に現れることはないでしょう。あと(第三章)で述べるように、例えば天文学者が月食や日食を予測するとき、まさにこの種の操作が行われています。天文学者は科学の関心の外にある持続の間隔を限りなく短縮し、現実の意識がそれを生きるためには数世紀を要するような無数の同時性の継起を、極めて短い時間――せいぜい数秒――の感覚に圧縮してしまうのです。

速度という概念を直接分析した場合にも、わたしたちは同じ結論に導かれることになるでしょう。力学は一連の観念を介してこの(速度という)概念を獲得しますが、それらの観念の系譜を辿るのは難しいことではありません。力学はまず、一方に或る運動体の軌道ABを置き、他方に同じ条件下で無限に反復される物理現象、例えば常に同じ高さから同じ場所に落下する石の運動を置くことによって等速度運動の観念を形成します。最初の石が地面に落下したちょうどその瞬間、軌道AB上を移動する運動体が到達した点をMとし、続けて二番目の石が地面に落下した瞬間、軌道AB上を移動する運動体が到達した点をNとし、続けて三番目の石が地面に落下した瞬間、軌道AB上を移動する運動体が到達した点をPとし、以下同じことを繰り返した場合、それぞれの間隔AM、MN、NP……が相互に等しいなら、その運動は等速度運動と呼ばれます。そして(運動体との)比較の対象として選ばれた(石の落下という)物理現象を持続の単位として採用することに合意するならば、これらの間隔の任意の一区間が運動体の速度ということになります。等速度運動の速度を定義するには、このように空間と同時性の概念を援用するだけで足りるのです。――では間隔AM、MN、NP……が相互に等しくない場合、すなわち不等速運動に関してはどうでしょうか。点Mにおける運動体Aの速度を定義するには、(運動体Aと並行して移動する)無数の運動体A1、A2、A3……がそれぞれ速度v1、v2、v3……で等速度運動を行っており、それらが例えば昇順に並べられて、あらゆる速度に対応している、と仮定します。次に運動体Aの軌道上の、点Mを挟んだ両側のきわめて近い位置に二つの点M′、M″を置きます。運動体(A)が点M′、M、M″に(順次)到達したとき、他の運動体A1、A2、A3……はそれぞれの軌道上のM′1、M1、M″1、あるいはM′2、M2、M″2……に到達することになります。それら(無数)の運動体の中には、M′M=M′hMhとなるような、あるいはMM″=MpM″pとなるような二つの運動体AhとApが存在する筈です。このとき点Mにおける運動体Aの速度が、vhより大きく、vpより小さいことは説明するまでもないでしょう。点M′とM″は点Mにいくらでも近づけることができ、それに合わせてvhはそれより大きいvjに、vpはそれより小さいvnに置き換えることができます。こうして二つの間隔M′MとMM″を狭めていけばいくほど、それに応じて二つの等速度運動の速度の差も小さくなっていきます。そしてこの二つの間隔M′MとMM″を限りなくゼロに近づけた場合、vjとvnの間には、ある速度vm、一方ではvmとvh、vj……との差が、他方ではvmとvp、vn……との差がどんな数値よりも小さくなるような速度vmが存在する筈です。この共通の極限値vmこそ、点Mにおける運動体Aの速度ということになります。――さて、不等速運動のこの分析においても、等速度運動の分析と同様、運動体が通過し終えた空間と、同じ瞬間に諸々の運動体が到達した位置しか考察の対象となっていません。したがって、力学は時間に関しては同時性しか扱っておらず、運動に関しては不動性しか扱っていないという主張は正当なものだったということがこれで証明されたことになります。

力学は方程式の上に成り立っており、代数的方程式は常に完了した事態を表現している点に着目すれば、この結果はあらかじめ予想できたに違いありません。一方わたしたちの意識に現前している持続や運動の本質は、それらが絶えず生成途上にある、という点にあります。だからこそ、代数は持続のある瞬間において観察される結果や、空間の中で運動体が取る位置を表すことはできても、持続そのものや運動そのものを表現することはできないのです。限りなくゼロに近づいていく間隔を想定し、考察の対象の数を、つまり同時性や位置の数をいくら増やしたところで問題の解決にはなりません。また持続の間隔の数を無限に増やすために、差分の概念を微分の概念に置き換えても結果は同じです。どんなに微小な間隔を想定しようと、数学が身を置くのは飽くまでその間隔の両端のどちらかでしかありません。間隔そのもの、持続や運動に関しては、一言で言えば、それらは必然的に方程式の外に存在しています。というのも、持続や運動は心的統合であって、事物ではないからです。そして運動体が一本の線の各部分を次々と通過するのは事実だとしても、運動そのものはこの線とは何の共通点も持たないからです。さらに言えば、運動体の占める位置が持続の瞬間毎に変化し、まさにそのことによって相互に区別し得る(同一的な)持続の瞬間を生み出しているように見えるにしても、本来的な意味での持続は相互に同一的な瞬間も相互に外在的な瞬間も持つものではなく、本質的に自己自身に対して異質的で、部分を明確に区別することができないものであり、それゆえ数とは全く縁のないものだからです。

以上の分析から得られる結論は次の二つです。一つは、等質的実在と呼び得るのは空間だけであり、空間内に存在する事物は相互に区別することのできる多数体を構成している、ということです。逆に言えば、それらは空間内に展開されることによって多数体として認識される、と言うこともできます。もう一つは、空間の中には意識が解する意味での持続はもとより、継起すら存在しない、ということです。外的世界において継起していると言われる状態は、それぞれが(瞬間毎に切断され)他の瞬間と交わることなく存在しているのであって、それらの多数性は、それらを保持し、次いでそれらを相互に外在化して並置することのできる意識にとってのみ実在性を持ち得るものなのです。意識がそれらを保持することができるのは、外的世界の様々な状態が様々な意識的事象を引き起こし、それらの意識的事象が相互に浸透し合って自ずと有機的に組織化され、相互の連帯によって過去を現在に結び付けているからです。(また逆に)意識がそれらを相互に外在化させることができるのは、意識的事象を統合した上で、それらが根本的に区別される(ある状態が別の状態に取って代わられる)様(さま)を表象し、個別的要素から成る多数体という形で統覚するからです。つまりそれらの一つ一つが個別に存在していた空間の中に、それらすべてを配置し直す(展開する)からです。このとき利用される空間こそ、等質的時間と呼ばれるものに他なりません。

以上の分析からは、さらにもう一つ別の結論も得られます。意識の諸状態から成る多様性は、原初的で純粋な状態において捉えるならば、物質的対象から成る多数性、数を形成する多数性とは何一つ共通するものがない、ということです。そこにあるのは、すでに述べたように、質的多様性とでも言うべきものです。つまり、多様性には二種類のものが、区別する、という言葉には二つの意味があり、「同じもの」と「別のもの」との間の差異にも一方は質的で、他方は量的な二つの概念があることを認めなければならないのです。第一の多様性、第一の区別、第一の異質性は、仮に数概念を含むとしても、アリストテレス風に言えば潜勢態として含むに過ぎません。何故ならここで意識が行う区別は質的なものであって、そこには様々な質を一つ一つ数え上げようとする底意や複数のものを問題にしようとする底意はいささかもないからです。したがってここにあるのは量なき多様性とでも言うべきものです。第二の多様性はそれとは反対に、数えることのできる、あるいは数え得るものと看做されている複数の項から成る多様性です。この場合、それらの項は相互に外在化することのできるものと看做され、空間内に展開されます。不幸なことに、わたしたちはこれらの同じ語が内包する二つの意味を交互に参照し、一方を他方の意味で認知する習慣を身に付けているがゆえに、この二つを区別することに、あるいは単にそれらの違いを言語によって表現することにさえ信じ難いほどの困難を覚えずにはいられません。例えばわたしたちは、複数の意識状態が有機的に組織化され、相互に浸透し合い、徐々に内容を豊かにしていくことによって、空間に接したことのない(純粋な)自我はそこから純粋持続のイメージを得ることができるだろう、と繰り返し述べてきました。ところがここで「複数の」という言葉を使ったために、わたしは(事実上)それらの状態を相互に分離し、外在化させ、結局のところそれらを(空間内に)並置してしまっているのです。このようにわたしたちが使わずに済ますことのできない表現そのものによって、わたしたちは時間を空間内に展開するという、自らの内に深く根付いた習慣を図らずも露呈してしまいます。空間内に展開されずにとどまっている魂の状態を表現しなければならない場合にも、わたしたちはすでに展開されたイメージからそのための用語を借りて来なければなりません。したがってこれらの用語は、もともと間に合わせの不完全な道具以上のものではない、と言うことができます。数や空間とは無縁な質的多様性の表象は、自分自身の内に立ち戻り、自分自身を見つめることのできる思考にとってはこの上なく明白なものであるにもかかわらず、それを常識の言語に翻訳する正当な手段をわたしたちは持ち合わせていないのです。とは言えわたしたちは、個別的要素から成る多数性の観念を形成するに際しても、それと並行して、わたしたちが質的多様性と呼んだものを意識に取り入れることなしにはその観念を作り上げることはできません。わたしたちが数の単位を空間の中に配置し、それを一つ一つ数え上げていくとき、等質的な背景の上に同一の単位が一つずつ描き加えられていく(加算されていく)一方で、心の深層ではこれらの単位同士が有機的に統合されていく完全に動的なプロセス、例えばハンマーで繰り返し叩かれる鉄床(かなとこ)に意識があると仮定した場合、叩かれる回数に応じて鉄床が持つであろう純粋に質的な表象が変化するのにも似たプロセスが進行しているのではないでしょうか。この意味で、日常的に使用されている数詞は各々が情動的なニュアンスを帯びている、と推測することができます。商人はこの点をよく心得ており、ある商品の値段を端数のない何フランとする代わりに、敢えてそれより数サンチーム安い値段を付け、フランの位の数を一つ小さくし(て安さを演出し)ます。今述べたことからもわかる通り、わたしたちが単位を数え、個別的要素から成る多数性を形成するプロセスには重なり合う二つの側面があります。一方の側面では、相互に同一と看做される単位同士が加算されていきます。そしてこのことが可能なのは、それらの単位が等質的な媒質に配置される場合だけです。しかしもう一方の側面では、それら加算される二つの同一の単位に言わば第三の単位が付け加わることで、全体の性質や様相、そしてリズムまで変えられます。こうした相互浸透や言わば質的なプロセスなしには、加算という操作そのものが成り立たない、と言えるでしょう。――したがってわたしたちが質なき量という観念を形成できるのは、量の持つ質のお蔭なのです。

(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿