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鎖国の有無

2008年03月12日 21時43分11秒 | 歴史

鎖国は無かった・・・・・こんな記事(遠からず削除されようが・・・)を見つけた。
実は,1630年代はいろいろな出来事が多く(島原の乱とか),中学生の頃年号の暗記に苦労した記憶があるが,1633(寛永10)年の奉書船(以前は御朱印船と教わった)以外の海外渡航禁止に始まり,翌々年の日本人の海外渡航・帰国の全面禁止を経て,1639(同16)年のポルトガル船来港禁止をもって鎖国の完成,と教わった。
開国したのが,1854(安政元)年の日米和親条約とすると,215年にわたって国を閉ざしていた,ということになる。


ところが,鎖国は無かった,とする見解は以下の通りである。
周知のように,「鎖国」中も,オランダと清に限っては交易が細々と続けられたし,朝鮮の使節は対馬藩を通して江戸へ向かった。
さらに,琉球は清との交易があり,やがて薩摩がその権利を独占した。
また,北に目を転ずると,松前藩はアイヌとの交易があった。
つまり,長崎以外でも,対馬,琉球,薩摩,松前を足がかりに交易は続けられており,国を完全に閉ざしたわけでも,東アジアで孤立していた訳でもない。


確かにその通りであろう。
高校の日本史の教科書も,「鎖国」という語句は意識的な使わなくなったということで,いわゆる「鎖国」,といったように,直接的な用法を避けているらしい。
只,私が子どもの頃,「鎖国」によって自国の文化は栄えたものの,科学文明の発達から取り残された,という「鎖国」功罪論は下火になったらしく,そうした論争も有り得ないらしい。


今でも覚えているのは,高校3年で日本史を学習している時,担当の先生から,
「鎖国は良くないことだった・・・と覚えてきた者が大部分だろうが,実は違う」
といった意味のことを聞いたことだ。
17世紀末,オランダ商館の医師ということで来日したドイツのケンペルという人物が語っていたのだそうだが,「鎖国」によって,列強のアジア進出に巻き込まれることなく19世紀を迎えたことで,「鎖国」はあながち悪いこと,とは言い切れない,といった内容だったと記憶しているが,今になって成る程と思う。
イギリスはオランダと争って日本の利権を失った後,インドへ進出しブラッシーの戦いでフランスを破ってインドの支配を強めムガール帝国を滅ぼした。
オランダはインドネシア,フランスはマレー半島,といった具合に欧州列強がアジアを侵食したこの時期,日本は奇跡とも言うべき太平の世を謳歌していたのである。
これは,ある意味歴史上の奇跡と思う。
我が国同様にキリスト教を禁じ,「鎖国」をした清や朝鮮は列強の蹂躙を招くことになったことと合わせて考えれば,一目瞭然である。


言いがかりとしか言いようのない阿片戦争によって,眠れる獅子と怖れられた清が近代化されたイギリスの軍隊に敗れた後,列強はこぞって中国を侵食する。
先日,「篤姫」の項で述べたように,その東アジアの情勢を幕府は知っており,開国やむなし,という老中阿部正広の裁断により「鎖国」は終わりを告げたことを考えると,やはり完全に国を閉ざしていたわけではない,ということが分かるというものだ。
尤も,18世紀末のロシア使節ラックスマンの根室来港以降,幾度となく外国船が近海に現れ,幕府としても「国法」として鎖国を持ちだしたものの引っ込みが付かなくなった,とも考えられているらしいし,実際に危機感を感じていたと予想される。


その後,ご存知のように,大老井伊直弼による日米修好通商条約の締結と,その後の所謂雄藩を筆頭とする攘夷思想の流行,そして攘夷の不可能を悟って開国に転じた薩長等の雄藩に関しては,いつになるか分からないが「篤姫」の項で述べられたら・・・と思う。


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