「風林火山」(井上靖著),何と20数年ぶり,初読からだと30余年ぶりに再読了。
ご存じ,今年の大河ドラマの原作ですが,原作が50を過ぎた勘助が武田家への仕官をするところから始まるので,TVは4月過ぎまでオリジナルの内容となっています。
井上靖(1908-1991)は旭川に生まれ,軍医だった父の仕事の関係で,豊橋,天城湯ヶ島,浜松,三島等幼少期に各地を転々としますが,このことは一連の自伝的作品集に盛り込まれています。
それ以外ですと,本作のような歴史小説も重要なレパートリーとなり,本作のような戦国ものと「楼蘭」,「敦煌」等の西域もの,そして「額田女王」,「天平の甍」といった古代ものに分かれるようです。
特に,甲信地方の山々に対する愛着はずっとあったようで,実際の山岳事故を扱った「氷壁」も有名ですし(長野県大町市の山岳博物館で切れたザイルを見ました),本作の続編とも言うべき「天目山の雲」や「真田軍記」といった上甲信地方を舞台とした歴史ものもあります。
新宿から中央本線に乗るといつも感じることですが,相模湖を過ぎて「郡内」と呼ばれた甲州に入ると車窓の景色は勿論,列車を取り巻く空気までもが一変するような気がします。大月駅からは武田氏滅亡の直接の原因となった小山田信茂の居城があった岩殿山がよく見えますし,メルシャンのワイナリーがあり信玄の叔父である五郎左衛門信友も住んだであろう勝沼(今は勝沼ぶどう郷),信玄亡き後の重臣であった釣閑斎の出身地と思われる長坂,といった歴史的に由緒のある地名も存在しますし,春は桃の花が,秋は葡萄が実り,南アルプスや八ヶ岳の紺青の山肌とも相俟って,地味ながらしっとりと重厚な色彩感が感じられる風景です。
作品の内容も,こうした沿線風景と同種の印象が感じられます。
過度に熱くなることなく,あくまでも淡々とした筆致でそこに豊かな情感を盛り込んだもの,といった印象を今回も受けました。
ですから,はっきり言って「ちょっと見」に面白いものではなく,TV見て面白いと感じた人が読んでも面白いかどうかは疑問です。
また,戸石崩れや上田原の戦いがあくまでも武田側の視点で述べられていますので,上杉謙信や村上義清を好む人からは反感を買うかもしれません。
あとは,読む時は隣に甲信地方の地図を置くことをお薦めします。
Mappleのような道路地図でも良いですし,PCの地図サイト(mapionとかmaofanのような)でも良いでしょう。
結構,上甲信地方の地名が出てきますので,それを追いかけているだけでも楽しいですし,何よりも理解が深まります。
高島城(諏訪市),内山城・志賀城(佐久市),海野平(上田市周辺),上田原(同西郊),戸石城(同),海津城(長野市松代),葛尾城(坂城町)といった地名や城の位置を知ると楽しくなること請け合いです。
そう言えば,ヒロインにして信玄第二夫人の名は本編で『由布姫』ですが,新田次郎原作の「武田信玄」では湖衣姫になっておりました。
昭和62(1987)年の大河ドラマでは南野陽子が演じたからかどうか47%という大河史上最高の視聴率を記録しており,諏訪市のイヴェントにも『湖衣姫まつり』なるものがあったりして,もしかするとこちらが地元では定着しているのかもしれませんが,湖-諏訪湖に安易にかけた気がして私にとっては違和感ありありのネーミングです。
その点,由布姫の方が根拠は無いにせよしっくりきます。
因みに,昭和44(1969)年の大河ドラマ原作(というより角川映画原作といった方が知っている人多いかも-とんでもない駄作でしたが・・・)の海音寺潮五郎原作「天と地と」では,ただ『諏訪御寮人』とのみなっていました。
・・・ということで,TVを録画しつつ愚にも付かぬ文章をまたしても書いてしまいましたが,今夜から「天目山の雲」を読んでみようかと思っています。
では,最後に印象的な部分の一部を抜粋で・・・,
前方から早馬一騎が現れた。その騎馬武者は部隊の中央に居る勘助のところまで来ると,転げ落ちるように馬から降りて,
「由布姫さま,昨夜,ご他界なされました」
と言った。思いがけない諏訪からの使者であった。
勘助は己が耳を疑った。そんなことがあって堪るかと思った。
「もう一度言ってみろ」
「由布姫さまは-」
使者は同じことを言った。
「姫さまがお亡くなりになったと言うのか,あの姫さまが!」
勘助はその時,烈しいいななきと共に後脚を高く蹴上げた馬から危うく落ちそうになった。馬の尻には,矢が一本立っていた。
「姫さまがご他界,あの,姫さまが!」
矢は何本か彼の周囲を掠めて走った。
喊声が遠くで聞こえている。
「引け」
勘助はきびしく部隊に命じたまま,自分はそこに立っていた。やがて彼は馬から降りると,自分の手で,馬の尻から矢を抜いた。そうしている彼の傍らを部下たちは全速力で退避していた。
「引け,引け」
勘助は怒鳴り続けた。
彼が再び馬に跨った時,全く思いがけず,丘陵の向うから,ばらばらと十数名の敵の一団が抜刀して迫って来るのが見えた。
「姫さまが,ばかな,そんなことがあった堪るか」
由布姫の死は現実の事件として,勘助には受け取れなかった。
~中略~
姫が!
勘助は跳び起きると,あたりを見廻した。先刻由布姫の急逝を告げて来た使者の姿を探した。が,そこには誰も居る筈はなかった。見はるかす拾い原野のただ中に,勘助は自分以外のいかなる人間の姿も見なかった。真昼の冬の陽が弱くあたりに散り,霜枯れた雑草の中に,夥しいすすきが,銀色の穂を光らせているばかりである。風がないのかその銀色の旌旗はさゆるぎもしない。
勘助は改めて先刻使者から出た言葉を自分の口から出してみた。-由布姫さま,昨夜,御他界なされました。
確かに,それを自分の耳は聞いた筈であった。由布姫が他界したとは,由布姫が呼吸を断ち,この世から姿を消したことではないか!あの美しい気高いものが,この地上から消えて失くなってしまったことではないか!莫迦な!
井上靖著「風林火山」十章より,新潮文庫刊
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