koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

古代史追想・・・

2007年02月01日 22時34分00秒 | 歴史

実は古代史に弱い。
否,古代史のみならず近現代史や近世史も弱かったりする。
倭の五王(唯一「武」が雄略天皇と記憶している)とか,太政官制の役所名とか,頻繁に変わった奈良時代の都(紫香楽宮,恭仁京,難波宮等)とか,興福寺山田寺仏頭,法隆寺釈迦三尊像,広隆寺半跏思惟像とか(時代滅茶苦茶),役に立たない知識を丸暗記した受験の日本史を思い出すし,源平・南北朝・戦国・幕末維新といったダイナミックな変革期に比べるといまいち面白味に欠け,興味が湧かなかった・・・。


・・・・・・というのは,私が全くの無知蒙昧であったからなのである。
奈良期に編纂された各地の「風土記」や「日本書紀」,そしてこれまた丸暗記した「六国史」が数少ない史料となるのだが,特に大陸との正式な国交がむすばれた7世紀以降,つまり聖徳太子の治世以降は,めまぐるしく政権・為政者が変わる変革の時代であったことが分かる。


教科書的には,聖徳太子→蘇我氏の専横→大化の改新→天智天皇→天武天皇→持統天皇,といった具合に推移したことになるのだが,実はそんな単純なものではない。
例えば,聖徳太子の死語,蘇我入鹿がすぐに政権を掌握したように思われがちだが,聖徳太子が亡くなった622年時点では,入鹿の祖父であり聖徳太子と組んで物部守屋を滅ぼした蘇我氏の重鎮である馬子は存命しているのである。
つまり蘇我氏専制の基礎は当然馬子が築き,子の蝦夷が引き継ぎ,孫の入鹿に受け継がれたのは多分640年代になってからだろうと想像される。


蘇我氏滅亡の大化の改新は645年であるから,幾らも政権の座にいなかったことになる。しかも,蘇我氏の最大の政敵であった聖徳太子の皇子である山背大兄王は,確か642年だかに滅ぼされるのであるから,入鹿が政権のトップたり得たのは僅か3年ということになる。
聖徳太子没後の20年間,両者の間にはおそらく虚々実々の駆け引きがあり,遂に蘇我氏が競り勝ったということなのだろう・・・。


・・・で,古代史が苦手なくせにこのような記事を書いたのは,一連のこれら(ここここ,あとここも)を読んだからである。
明日香村北西部にある緩やかな丘陵の甘樫の丘は,以前から蘇我氏の邸宅の跡ではないかということで発掘が進められていたが,今回かなり完全な形で石垣が発見された。
「日本書紀」によると644年,蘇我蝦夷が大邸宅を建設したという記述があるそうなので,ほぼ間違いなく蘇我氏邸跡であるようだ。
おそらく,最大の政敵である山背大兄王一族を倒した後,蝦夷と入鹿が大邸宅を造営したのではないだろうか。
そして,大化改新の舞台となったとされる飛鳥板葺宮と馬子の墓と言われる石舞台古墳はすぐ南に,飛鳥寺はすぐ東に,そして天武天皇の政庁である飛鳥浄御原宮はすぐ北に位置するところからも,飛鳥地方の中心・要衝の地であったと思われる(こちらの地図参照。ドラッグで縮尺ズーム)。


645年の乙巳(いっし)の変-つまり大化改新に於いて,クーデターを断行した中大兄皇子・中臣鎌子側には周到な準備があったのであろう。
大極殿の皇極天皇(中大兄の母)の前で入鹿を屠った後は,軍勢が甘樫の蘇我邸を囲む。
蝦夷は「天皇記・国記・珍宝」を焼いた後に自害したとされるが,毎日新聞の記事によると今回は焼け跡は発見されなかったそうだ。
今後,また何らかの蘇我氏関連の遺構が発掘される可能性は十二分にあると見た。


こういうニュースを聞くと,本当にわくわくする。
過ぎたことをぐだぐだと思っても発展的ではない,とよく言われるが,歴史への追想はえも言えぬ浪漫をかきたてるものである。
悪の代表のように言われる蘇我氏であるが,聖徳太子だって蘇我氏が最大の姻戚だし,仏教文化の伝搬に蘇我氏が大きな役割を果たしたであろうことは周知の事実である。
一応蘇我氏政権下の630年,犬上御田鍬を正使とする第一回の遣唐使が派遣されている事実はあまり知られていない。
607年の遣隋使覇権と小野妹子ばかりがクローズアップされるようだが,その後9世紀末に廃止となるまでの約260年にわたる大陸との国交は,やはり蘇我氏の功績であろう。
最後に飛鳥を訪れたのは12年前の秋だったが,あれから随分様子も変わったことだろう。かつては近鉄飛鳥駅前で自転車を借りて廻ったが,石舞台付近の多少の起伏はあったものの快適なサイクリングだった。
上の子が小学校6年になるまでに,一度京都や奈良・鎌倉と共に飛鳥も見せておきたいと思うのだが・・・。


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2 コメント

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NHKの特番は見逃しました・・・ (koshi)
2007-02-04 22:10:48
わかばさん,今晩は。
又しても亀レス申し訳ございません。
金曜日夜10:00からNHK総合で特番やっていたようですね。
CX系の「箸墓幻想」を留守録して飲んでいたため見られませんでした。

飛鳥にいらしていたのですね。
私と殆ど同じルートと予想されます。
北には大和三山が見え,本当に広々としたのどかな風景でした。
血生臭い政争の地とは思われないくらいでしたね。
飛鳥駅近辺はかなり都会的でしたが,一歩西へ向かうとのどかな田園風景が広がっていました。
今はどうなったでしょう・・・。
一応,団体で2度,個人で1度訪れましたが,何度でも行きたくなります・・・。
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Unknown (わかば)
2007-02-02 23:26:08
こんばんは。
こういう発見は本当にわくわくしますね。「大化の改新前後に一気に埋められた」なんて、権勢のはかなさ、諸行無常を感じます。
私も20年ほど以前に、近鉄飛鳥駅前で自転車を借りて石舞台やら亀石やら酒船石やらを見て回ったことがあります。あのあたりはのどかで広々としていて、飛鳥時代とそれほど変わっていないのではないかと思われて、とても嬉しかったです。今はどうなっているのでしょうかね?ビルなどが立ち並んでいたら興醒めですが……。
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