koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

今年も目出度くも無い日に・・・

2022年03月01日 20時20分41秒 | 音楽

今年も巡ってきたこの日,05年より続けてきた自分だけの恒例の一曲。
お気に入りの一曲を貼って,自己満足に浸るひとときを,今年も持つことにしよう。
でもって,今までのラインナップは以下の通り。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年  交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)
17年 大学祝典序曲(ブラームス)
18年  祝典行進曲(團伊玖磨)
19年  ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503(モーツァルト)
20年  序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリオーズ)
21年  交響曲第2番ニ長調(ブラームス)

という感じで,最初の三年なんかは,割と目出度い曲を貼っていた気がするが,10年のシベリウスの第1とか12年のブラームスのピアノ四重奏曲とか自虐でしかないし,13年の「ローエングリン」なんて,波乱の予感でしかない。
なので今年は,暗いニュースばかりなのでせめて明るく朗らかな曲を・・・とも思ったが,どうもそんな気分にはなれそうもない。
世相を反映してか,スカッとするものよりも,激しく悲劇的なパッション に満ちた楽曲こそ相応しい・・・と,自虐を兼ねて思う。

2つのラプソディop.79~第1番ロ短調(J・ブラームス1833-97独)

2年続きのブラームスとなるが,熟年期の名作を。
何せ古今の楽曲の中でも名曲の誉れが高いヴァイオリン協奏曲ニ長調とピアノ協奏曲第2番変ロ長調に挟まれた時期の作品だけに,充実感が半端ない。
冒頭からテンモーニッシュなパッションの発露が顕著で,正しくラブソディック(狂詩曲的)に盛り上がっていく。
今の世相と自分の心情には,このような仄暗い情感とパッションが交錯する曲こそ相応しいと勝手に思い,底なしのブラームス沼にどっぷりと浸るのであった・・・。
因みに,10代から既にしてブラームス沼に填って出られなくなったと以前書いたが,この曲を気に入るようになったのは,割と近年のことであり,若い頃の私の感性は,この曲を理解するには到らず,未熟だったと云うことだろう・・・。
私の生まれた年に,ハノーヴァーのベートーヴェンザールで録音されたマルタ・アルゲリッチの緩急自在なピアノで。
ブラームスの楽曲は,所詮男の世界・・・と勝手に思って居た己の浅学と未熟を恥じる・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=NcgOp-2T05A


今年も目出度くも無い日に・・・

2021年03月01日 22時38分45秒 | 音楽

今年も又,目出度くも無い日がやってきた。
惰性で,恒例行事・・・と思ったが,その前に若い頃は,一体この日の生誕時刻である13:15にどこで何をしていたかを思いだしてみた。
16歳・17歳-高校で部活。
18歳-高校の卒業式。謝恩会なんてのが有り,いろいろと食べ物が出されたので,部室に居た後輩達に,それを何度か運んだ。翌日受験で上京。
19歳-大学入試の合否待ちで自宅。
20歳-友だちの家で遊んでいた。
21歳-部活の仲間と鳴子温泉に泊まり。
22歳-部活。昼食でカフェテリア。
・・・という感じである。
以降は,平日なら職場,休日なら自宅と決まってしまったが,30歳は何とスキーを履いて雪の上で迎えた。

・・・ということで,本題である。
例年,この日はお気に入りの一曲を紹介して,リンクを貼るのが恒例となっているので,今年は何にしようかと,例によって考えながら帰る。
確か2005年から始めたと記憶しているが,例年のラインナップは以下の通り。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年  交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)
17年 大学祝典序曲(ブラームス)
18年  祝典行進曲(團伊玖磨)
19年  ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503(モーツァルト)
20年  序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリオーズ)

・・・と云う感じてある。
10年のシベリウスの第1とか ,12年のブラームスのピアノ四重奏曲だの,翌年のローエングリンだの,完全に自虐としか思われない・・・。
そこで今年は,これからの季節に合った明朗な楽曲にしようと思う。
昨日所用で好天の蔵王町に出掛けた際に聴いた曲に,迷わず即決した。

交響曲第2番ニ長調op.73(ヨハネス・ブラームス 独1833-97)
これもまた10代の頃より,飽かずに聴き続けてきた一曲である。
ブラームスは駄作の無い10割打者のような作曲家であるが,残された100曲を越える作品は,いずれも深い憂いと孤愁の蔭に満ちた佳品揃いだ。
但しその中に合って,春の日射しと咲き誇る野の花のような穏やかな美しさと明朗な風気に満ちたのがこの第2交響曲である。
勿論,ブラームスの作品であるから底抜けに明るい・・・とはならず,愁いをたたえたような楽節も散見されるのだが,最後は作曲者の喜びを示すかのように,明るく大きく結ばれる。
おそらく作曲者が好んだ南オーストリアの保養地ペルチャッハや,私も傍を通ったザルツカンマーグート(「サウンと・オブ・ミュージック」の舞台であるモントゼーがある)の景勝地バート・イシュルといった風光明媚な地で作曲されたと云うことも大きいのだろうし,きっと何か良いことがあったのだろう・・・(勿論,女性絡みで・・・)。
今,傍らで鳴っているのは,何と同年生まれのラヴェルは勿論,若い頃にブラームスの演奏にも接したというフランスの名匠ピエール・モントゥ(1875-1964)が,62年に手兵のロンドン交響楽団を指揮した滋味溢れる演奏だが,超絶的なテンポで終曲を席巻するワルター~ニューヨークフィル(51),党的な重厚で燻し銀のようなサウンドにも関わらず,この曲の持つ躍動感や喜悦を余すこと無く再現したカイルベルト~ベルリンフィル(59),恣意的な糸は皆無で自然に流しつつ絶妙な味わいで聴かせるケンペ~ミュンヘンフィル(75)といった歴史的名盤を愛聴してきた。
何れも,春の穏やかな陽光の下,滔々と流れる大河と一面の菜の花畑が想起されるような演奏ばかりだ(標題音楽ではないが・・・)。
動画は,ベーム~ウィーンフィルか,ドホナーニ~北ドイツ放響か迷ったが,クライバー~ウィーンフィルを貼る。
天才の考えることとすることは,常人・凡人には理解できん・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=dFeYcZEKpZk


今年も,目出度くも無い日に・・・・。

2020年03月01日 21時52分47秒 | 音楽

今年も目出度くも無い日が,こうしてやってきた。
とは云え,多くの方々からいただいたご祝辞を,アルコール片手に読むのは,心楽しい時間だし,何よりも嬉しく有難い。
そこで,今年も性懲りも無く,お気に入りの一曲を紹介して,齢(よわい)を一つ重ねようと思う。
因みに今までのラインナップは,以下の通り。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)
17年 大学祝典序曲(ブラームス)
18年 祝典行進曲(團伊玖磨)
19年 ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503(モーツァルト)

10年のシベリウスの第1とか,12年のブラームスのピアノ四重奏曲とか,翌年のワーグナーのローエングリンだの,16年のショパンのソナタ3番だの,どう考えても自虐だろうとしか言えない。
そこで,今年は底抜けというか無条件で楽しい曲で行きたい。

序曲「ローマの謝肉祭」op.9(ルイ・エクトル・ベルリオーズ 1803-69仏)
元々は,歌劇「ベンヴェヌートとチェッリーニ」の第二幕への前奏曲として作曲されたが,独立した演奏会用序曲として演奏されるようになる。
湧き立つような喜悦とラテンの熱狂,終盤の追い込みは,三連符を基調としたイタリアの民俗舞曲サルタレロ(タランチェラ)か。
最後の意外な和声で,全編が結ばれるのも良い。
95年の1月,イタリア放送交響楽団の演奏会のチケットを前日に貰い,急遽出掛けたコンサートのアンコールがこの曲で,会場が見事に盛り上がったことは記憶に新しい。
同年のモントリオール交響楽団のサントリーホールに於ける来日公演。
指揮は勿論シャルル・デュトワだ(つい最近,セクハラ疑惑で訴えられたようだが・・・)。オーケストラという多色絵の具を使い,コンサートホールというキャンバスに,鮮やかな色彩感に満ちた管弦楽曲という一大絵画を描くのに,これ程相応しい演奏家は居るまい。私は89年に仙台で来日公演を聴いたが,いやはや素晴らしいオーケストラだった。
因みに,この曲は高校2年の時にやりかけて以来縁が無く,未だに演奏したことが無い。極めておいしい役割でもあるタンブリンのリズムを,嘗てはシングルストロークで打つことができたのだが,今となっては・・・である。
これを聴いて,上質なトスカーナワインでも空ければ良いのだが,生憎そんな気の利いたものは無いので,洋酒をロックで行くか・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=LK8mdW0LF6I


またしても,目出度くもなき日に・・・

2019年03月01日 21時08分10秒 | 音楽

さて,今年も目出度くも無い日が巡ってきた。
こうして,アルコール片手に,いろいろな方からいただいたご祝辞の数々に目を通しながら,この日を迎えることができた喜びを享受している。
さて,ではこの日を迎えるに当たっての今宵の一曲を,確か2005年からこうしてうpしてきた。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年  交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)
17年 大学祝典序曲(ブラームス)
18年  祝典行進曲(團伊玖磨)

10年のシベリウスと12年のブラームス,そして16年のショパンのソナタは,どう考えても自虐根多のようなやばい曲だし,13年のワーグナーも波乱の予感でしか無い。
仕事からの帰途,はて今年は何にしよう・・・と,思っていたら,天啓の如く閃いた。

ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503(W.A.モーツァルト 1755-91墺)。
06年のザルツブルク音楽祭のライブと記憶しているが(その割に音質・画質ともに今二つだが),世界に冠たるモーツァルト弾きである内田光子が,リッカルド・ムーティの指揮するウィーンフィルを相手に,見事な演奏を繰り広げている。
モーツァルトの20番台のピアノ協奏曲は,最晩年のK.595を筆頭に名曲の宝庫だが(否,「戴冠式」なる副題のせいか何故か人気のK.537は,どうでも良い作品だと思う),個人的には,「名曲の森」とも云うべき「フィガロの結婚」と同年に書かれたイ長調K.488の天馬空を行くが如き終曲のロンドがお気に入りなのだが,旋律美よりもきっちりとした古典的な構成感と均整美が顕著なこのK.503が相応しいと勝手に思った。

冒頭の決然たるアレグロの輝き。
指揮者がムーティだからだろうが,モーツァルトが憧れた南欧イタリアのソレントの浜に上がる燦然たる太陽の輝き(嘘。太陽は東から昇るから地中海とは逆方向だ)。
祝祭的高揚感に加え,勿論モーツァルトらしい旋律美だって充溢する。
第2楽章の情緒に流されないメロディもそうだし,終章ロンドの主題は,後輩たるベートーヴェンのヴァルトシュタインソナタにそっくりだ。
古典的な構成感と均整美とメロディアスな要素が見事に輻輳し,心地良い響きを奏でるあたりは見事と云うより他はない・・・。

・・・ということで,今宵も1つ齢を重ねた。
この演奏に相応しい酒は・・・??
上質なトスカーナワインか・・・。
 


ルドルフ・ケンペの忌日に12

2018年05月11日 22時40分35秒 | 音楽

5月11日。
この日は,私が数10年来信奉してきたある偉大な音楽家が,その生涯を閉じた日です。
毎年,この日は彼が残した遺産に対して,虚心に耳を傾け,その偉業を偲ぶと共に,指揮者難が叫ばれて久しい音楽界の現況を憂える日としてきました。
昨年はイレギュラーで鴎戦見に行ったので,2年ぶりの執筆になります。

ルドルフ・ケンペ(1910.6.14-76.5.11)。
ドレスデン近郊ニーダーボイリッツに生まれ,スイスのチューリッヒに没したドイツの名指揮者である。
ドイツ伝統の指揮者として,彼の指揮したベートーヴェンやヴァーグナー,ブルックナー,ブラームス,そしてR・シュトラウスは絶品であり,没後40年以上を経過しているにも関わらず,その残された少なからぬ録音の数々は,今も決してその価値を失うことがない。


今回紹介するCDは,LP2枚分を1枚に収めたものである。
曲目は以下の通り。
①交響詩「ドン・ファン」op.20(R・シュトラウス)
②交響詩「ローマの松」(O・レスピーギ)
③交響曲第9番ホ短調op.95「新世界より」(A・ドヴォルザーク)
殆ど一夜のコンサートを飾るようなラインナップである。
オケは,ケンペが50年代を代表する英国の名指揮者サー・トーマス・ビーチャムから後任を託されたロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団である。
録音は①と②が1964年,③が62年と,ステレオ録音では有るが,決して新しくない。

①の「ドン・ファン」をロードしてみる。
冒頭からスカッとした抜けの良い音で,切れ味抜群。
濃厚にして典雅な19世紀末のウィーンの香りが,音響空間を満たす。
ケンペは最晩年に,故地とも云うべきドレスデンのオケと,見事なR・シュトラウス管弦楽作品集と協奏的作品集を纏めているが,キレ味と覇気なら断然こっちだ。
抜群なホルンの弾奏は,首席奏者だった名手アラン・シヴィルだろうか・・・。

②のレスピーギは,ケンペとしては極めて珍しいレパートリーである。
ドイツ伝統の指揮者のイメージが強いケンペであるが,色彩感豊かにして劇的な上記R・シュトラウスを得意とするだけあって,精緻なオーケストレーションを誇るレスピーギが悪かろうは筈がない。
初めて聴くまでは,楷書体のかっちりした揮毫を見るような,重厚で 色彩感の乏しい演奏を予想したのだが,出てきた音は全く違った。
冒頭の「ボルゲーゼ荘の松」では,ローマ中心部のボルゲーゼ公園で遊ぶ子どもたちの嬉々とした様子が,パリッと明るい音色から如実に伝わるし,二曲目の「カタコンブの松」では,弾圧されてカタコンブ(地下の墓地)に籠もったキリスト教徒の悲嘆な聖歌が重厚に響き,続く夢幻的な「ジャニコロの松」と好対照となる。
最後の「アッピア街道の松」では,ローマへ続くアッピア街道を夜明けから行軍する古代ローマ帝国軍の残影が,骨太なタッチで壮大に描かれる。
学生時代より幾度となく演奏してきた名曲であるが,今でもこのケンペの演奏が個人的にはベストと思う。

そして圧倒的な③の「新世界」が来る。
ケンペは終生この曲を愛したようで,私の手元には最晩年のBBC交響楽団との白熱のライブを含めて4種が有る。
重厚な中なすっきりとした表情を湛え,飽くまでもこの曲がドイツロマン派の潮流からいささかも外れていない印象のベルリン・フィル盤(1959),オケの典雅な音色を活かし,恰もスイスアルプスの清澄なオゾンを吸ったようなチューリッヒ音楽堂のオケを指揮した演奏(1971),そして記述の灼熱のエネルギーが放射される最晩年のBBC響とのライブと,いずれも味わいに満ちた演奏ばかりだが,明るい音色とすっきりした表情で聴かせるのは,このロイヤル・フィル盤ではないだろうか・・・。
特に第2楽章Largoでは,表情は決して粘らず,端正ですっきりした歌が横溢する。 
どの部分を採っても音楽が常に明るく微笑んでいるような,この指揮者のヒューマンな感性が躍如としているし,終曲コーダの痛烈な追い込みも絶大な効果を挙げている。
さすが劇場叩き上げのアルティザンだけ有って,勘所を心得た演奏だが,恣意的な感じが全く無いのは,さすがと云うべきだろう・・・。

1970年代初頭のミュンヘン。
高性能・高機能を誇るバイエルン放送局のオケには,チェコの名匠ラファエル・クーベリック(1914-96)が,伝統のミュンヘンオペラ(バイエルン国立歌劇場)には,我が国とも馴染みの深いヴォルフガング・サヴァリッシュ(1922-2006)と,稀代のカリスマと言われたカルロス・クライバー(1930-2004),そしてミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団にはケンペが居た。
凄い陣容である。
当時のミュンヘンは,ウィーン,ベルリン,ドレスデン,パリ,ロンドン,アムステルダムと並ぶ,欧州楽壇の一大基点であったとも言える。
そしてその一郭を担ったケンペの偉業は,没後40年以上を経ても,決して色褪せることは無い。
それは,未来永劫に渡って,普遍性を勝ち得ることにもなるのだろう・・・。

「ミステリーのオーラが,高度に洗練されてエレガントなルドルフ・ケンペを取り巻いている。彼の丈高いスリムな姿は,いつもすっくと立ったままである。ケンペは,没頭するのを好んだディオニソス的で華麗な技巧の要る楽節で,限度を超えようとする場合に於いてすら,規律正しいジェスチャーを保っていた。オーケストラは彼の明確なサインの言語を即座に了解し尽くした。この点にケンペが忽ちにして世界くまなく成功した要因がある。リハーサルで彼はほとんどしゃべらず,彼の名人芸的な棒さばきと,彼の長い表情ゆたかな両手によって,彼そのものを理解させた。」
                                                   (尾埜善司著「指揮者ケンペ」芸術現代社刊より)


3.11・・・

2018年03月11日 13時57分26秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・


 
7年目のこの日を迎える。
前日である3月10日は,約10万人が完全なルール違反である無差別爆撃によって命を失った東京大空襲の日であるから(莫迦な侵略戦争を日本が始めたから,元を云えばそれが悪いという論調は今でも「美味しんぼ」を初めとして今猶聞くが,それがお門違いであることだけは書いておく),3月は鎮魂の月でもある(3月17日は硫黄島陥落の日でもある。戦死者は米軍のほうが多い)。


勿論あの日のことは,鮮明に記憶している。
金曜だったので,夜は食料品の買い出しに行き,週末ガソリンが安いので車に給油しようとも考えながら(それが失敗だった),職場の2階にある一室に籠もって,必死になって月曜日締切の書類の作製に取り組み,14時30分過ぎ頃にすべてを終え,ほっと一息ついた途端に緊張が緩んだのか,トイレに行きたくなり(この時,使用していたソフト-一太郎だったかExcelだったか-の上書きボタンを押していたことが幸いした),用を足して仕事場に戻ろうとした途端,小刻みな揺れが始まった。
実はその前々日の昼近くに,震度4クラスの地震が起きている(前日には,コント55号の坂上二郎さんが亡くなっていた)。
今考えると,それが不吉な前兆だったのだろう。
今を去る40年前の宮城県沖地震の際も,直前に小さな地震が起きていたし・・・。
小刻みな揺れは収まること無く間断無く続き,それどころか急激に振幅を増していく。
あちこちでものが倒れて落ちる音がし始めた。
「こいつは強い」
と,直感して机の下に潜ったのが先だったか(無駄にでかいので苦しかった),照明が消えたのが先だったか,この時点で多分発生から30秒ぐらいだと思われる。
身体を折り畳むようにして窮屈な机の下に潜っていたのだが,一向に揺れが収まる気配が無い。
このまま建物が倒壊したら,間違いなく圧死すると判断し,身一つで外へ飛び出そうと判断する。
途中,階段や上の階が崩落する畏れも考えられたが,ここに居ても同様であると考え,誰も居ない一室を飛び出す。
その際バランスを崩して,左側の壁に嫌と云うほど左肩を打ち付け,その場に転倒したが,幸い怪我もなく,そのまま階段を駆け下りて,1階廊下を突っ走って非常口から外に出た。外に出ても揺れは収まらず,次々と建物から同僚が飛び出してくるのを呆然と見つめる。約2分は揺れていたと思う。
地面には至るところに地割れが起きていた。
幸い職場の建物には殆ど被害は無く,高いところに積もった埃が落ちてきた程度で済んだが,それからが大変だった。


取り敢えず携帯(私が使った最後のガラケー)は生きており(前日充電を忘れるという失態),仙台空港が津波にのみ込まれたニュースは知っていたものの,夜には各地のUPS(補助電源供給装置)の電源が途絶えたせいか,20時以降は圏外表示になり,3日間使用不能になった。
市の広報車が
「大地震発生。避難所に向かってください」
と走り回ったのは,その後だっただろう(今考えると,何と莫迦なことを言ったのだと思う)。
近隣の住宅地や商業施設には,窓が割れた以外は大きな被害は認められなかったが(柱が歪んだ家もあったらしい),そのせいか避難所になっている近隣の小学校に住民が集まってきた。
避難所に行って,避難してきた人たちの世話をする指示を待つように上司に言われたのが17時頃だっただろうか。
固定電話は繋がらず(相方はよりによって携帯を家に忘れた),家族の安否が一切分からぬまま,女性は勤務解除を命じられ,保育所に下の子を迎えに行く必要のある私は,18時30分に一時帰宅を許可された。
近くの橋が崩落したという情報も流れ(崩落したのは極一部分だった),遠回りしながら保育所に向かう。
信号の消えた街は異様な雰囲気であり,ガス管が破裂したのかガス臭が充満しており,点火プラグから引火したら車ごと吹っ飛ぶのでは・・・と,地雷原の上を走るような恐怖感が有った・・・。
通常20分で着くところを,倍の時間を掛けてようやく到着した保育所はもぬけの殻で,隣の小学校の体育館に職員と児童が避難しており,発電機が唸りを上げているせいか,煌々と照明が点いていた。
無事に下の子を受け取り(私が一番最後だった),途中実家に寄って両親の無事を確認し,帰宅したのは20時近くだった筈だ。
相方は私が迎えに行った直後に保育所に行き,私が来たことを知ったそうで,実家に寄った私より先に帰宅していた。
莫迦なことに,当時中一だった上の子は,明日卒業式と云うことで午後は部活も無く,野郎5人で我が家の居間でゲームをしていたらしい。
それで地震発生と同時に5人でテーブルの下に潜ったため,唯でさえ汚い部屋の中が余計目茶苦茶になっていた。
PCデスクの上のプリンタが空を飛んで落下するのを見たらしい(幸い壊れなかった)。
取り敢えず家族の無事が確認できたのを幸いに,職場と近くの避難所に戻る。
20時30分過ぎのこの時点で,M8.8と報道されていたと記憶している(M9.0となったのは翌朝だろう)。


ようやく勤務解除を告げられ,幸運なことに職場に泊まらずに済んだのは,多分同僚では私ぐらいだったと思われる。
21時過ぎに帰宅。
残っていた数缶の缶詰のうち一つを開け,朝炊いたご飯で遅い夕食。
電力の回復を願って(宮城県沖地震ではその夜のうちに復旧した)体力温存のために,寝ることにした。
この時点で,ガスも水も問題無く出たので,何だ電気だけか・・・と思ったのが,大きな間違いだった。


翌朝,水もガスも止まっており,前日朝に洗濯機を回しながら仕事に出たせいか,風呂水も殆ど無かった。
携帯も完全に圏外表示となり,見通しが甘過ぎたことを痛感させられた。
天気が良いのだけが救いといった感じで,情報は車載のラジオのみ。
朝7時前に起床して,取り敢えず近くのコンビニに行ってみたら長蛇の列。
この時初めて,三陸から宮城県内~福島県沿岸部にかけて壊滅的な被害が有ったことを知った。
以下は,
https://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/34fc9a86f514827f48443b34669a63f0
に書いた通りなのだが,当時から被災された方々のことを思うと心が痛み,今猶7万人を超える人々が元の生活に戻ることが出来ないことを思うと,殆ど被災していないに等しい私なぞ,本当にすまない気持ちでいっぱいになる。
そして,このまま交通インフラの復旧が回復せず,物流が滞ったままだと,最悪の場合栄養失調による餓死も考えられる・・・というあの日あの時に感じた暗澹たる予感は ,今でも忘れては居ない。
ライフラインが分断されると,途端に無力化する現代人というのも問題なので,備えを充実させて,防災力を高めておかなくてなるまい。


・・・ということで7回目のこの日のために一曲貼って,この長ったらしい駄文を結ぶ。ドイツ鎮魂曲~第2楽章 Denn alles Fleisch, es ist wie Gras(人は皆草の如く)-聖書「ペトロ書」,「ヤコブ書」,「イザヤ書」による(J・ブラームス 1833-97独)
通常ラテン語の歌詞のレクイエムを敢えてドイツ語にした白皙の美青年だった若きブラームスの革新性と覇気を聴く。
間もなく訪れる14時46分に合掌・・・。


またまた目出度くも無き日に・・・

2018年03月01日 21時47分37秒 | 音楽


今年もまた目出度くも無き日を迎えた。
例年,この日はお気に入りの一曲を紹介して,リンクを貼るのが恒例となっているので,今年は何にしようかと,例によって考えながら帰る。
確か2005年から始めたと記憶しているが,例年のラインナップは以下の通り。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)
17年 大学祝典序曲(ブラームス)

10年と12年,そして16年は,どう考えても自虐根多のようなやばい曲だし,13年のワーグナーも波乱の予感でしか無い。
はてさて今年は如何なる曲に・・・と,迷うところではある・・・。

祝典行進曲(團伊玖磨 1958)。
名曲である。
平成の年号も今年で終わりとなるが,今上天皇がご成婚のみぎりに,作曲されたのが当曲だ。
ご成婚のパレードで演奏された他,1964年の東京五輪でも演奏された様子を市川崑監督による「東京オリンピック」(私の映画館デビューでもある)でも見ることが出来る。
また,1984年のロス五輪の日本選手団入場の際にも演奏された。

短いファンファーレによる序奏に導入される主部は,晴朗にして輝かしい響きが充溢する。日本人的特性とも云うべき,謙譲の美徳や慎ましきただずまいが感じられ,熱と力,そして十二分な覇気にも満ちる。
高校生の時以来,幾度となく演奏してきた一曲でもあるし,打楽器パートに手を加えて追加して,棒を振ったことも有る。
いつ演奏しても,その格調の高さと美しさ,そして推進力に感じ入るという稀有の曲でも有る。
因みに,團伊玖磨は現皇太子のご成婚の折にも,「新・祝典行進曲」を作曲しており,親子二代に亘る皇室のご成婚のパレード用楽曲を提供という栄誉を担ったわけだが,後者の方ははっきり言って過ぎたるは・・・といった感じであり,結果的に当曲の素晴らしさを引き立てることとなってしまったのは,全くを以て皮肉意外の何者でもない・・・。

今や日本楽団の長老となりつつ有る秋山和慶が,洗足学園大学の吹奏楽団を指揮している。
テンポが早すぎるとか,行進できんという批判はごもっとも。
しかし,コンサートではこのぐらいの快速が映えるのである。
願わくは,再来年に迫った二度目の東京五輪の入場行進には,ぜひ福島の産んだ天才である古関裕而先生の「東京オリンピック行進曲」と,この「祝典行進曲」を演奏して貰えないものだろうか。
勿論陸海空三軍の合同演奏で。
くれぐれも,「新東京五輪行進曲」なんて委嘱しませんように・・・。


今年も目出度くも無き日に・・・

2017年03月02日 00時01分29秒 | 音楽

今年も目出度くも無き日を迎えるに当たって,さてお気に入りの一曲を何にしようかと思って居たところ,例によって睡眠不足と倦怠感に苛まれての起床の際に,脳裏にがんがん鳴り響いていたのは,ブラームスの悲劇的序曲であった。
これは紛れもない名曲ではあるが,如何に自虐根多を好む私としても,どうも相応しくないと感じる。
しかも,演奏したこと無いので,スコアを開いたこともない。


因みに,これを始めたのは2005年と記憶しているが,今までのラインナップは以下の通りだ。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)

去年のも明らかに自虐だし,シベリウスの第1とかローエングリンなんて縁起でもない。ブラームスのピアノ四重奏なんてのも完全に自虐というか自爆に近い。
ブラームスは,自称ゲルマンフリークである私のお気に入りの作曲家の一人であるが,どうもこうした選曲には相応しくないのかと思いきや,晴朗たる一曲を思い出した。


大学祝典序曲op.80(J.ブラームス 1833-97独)
1879年,ポーランドのブレスラウ大学から名誉博士号を授与されたブラームスが,その返礼としてかいたことで有名である。
・・・というより,その第3主題が,その昔ラジオ短波の「旺文社大学受験講座(通称ラ講)」のテーマに使われたり,さだまさしの「恋愛症候群」の導入部に使われたりした曲,と言った方が,私の世代には分かり易いかもしれない。


当初大学側は,荘厳な曲調の演奏会用序曲(既にこの様式からしてブラームスらしくない)や祝祭的なファンファーレを想定していたらしいのだが,そこは一筋縄ではいかない皮肉屋のブラームスである。
何と,学生たちが酒場で歌う学生歌をベースにした楽曲を作曲した。
つまり,大学当局を煙に巻いた,という訳である。
曲は,以下の4部から構成される。


1."Wir hatten gebauet ein stattliches Haus"(『僕らは立派な学び舎を建てた』-民謡より)
2."Landesvater"(『祖国の父』-"掛布のテーマ"に似たコラール)
3."Was kommt dort von der Höhe?"(『あそこの山から来るのは何』,狐乗り(Fuchsritt)の歌-上述)
4."Gaudeamus igitur"(ラテン語で「いざ楽しまん」)


・・・というわけだ。
生真面目な印象のブラームスとしては精一杯の皮肉と諧謔のつもりだったのだろうが,出来上がったこの曲は,紛れもなくブラームスの個性が十二分に発揮された傑作である。
だいたい,この時期のブラームスは,牧歌的で晴朗たる歓喜に満ちた第2交響曲や,イタリア旅行の所産でもあるパッショネートなヴァイオリン協奏曲,対を成す「悲劇的序曲」,そして,やはりイタリア旅行の影響が大きい大傑作の第2ピアノ協奏曲等々,傑作の森ともいうべき名曲を次々と作曲した脂ののりきった円熟期に入っている訳だから当然なのだろう・・・。
ブラームス自身,この曲を「笑う序曲」(対の「悲劇的序曲」に対しての呼称だろう)とか,「スッペ風ポプリ」とか呼んだらしい。
スッペは同時代にウィーンで人気のあった喜歌劇の作曲家(「軽騎兵」,「詩人と農夫」とか「ウィーンの朝昼晩」・・・)だし,ポプリとはフランス語で小さな花束のことだろうから,この場合はメドレーといったところだろう・・・。
遅筆の印象があるブラームスとしては,短期間で一気呵成にかきあげた印象が強いが,スコアを繙いてみると,ブラームスらしくぎっしりと凝縮度の高い網の目のような書法が顕著である。
二拍子の部分でもフレーズの頭をずらしたり,八分音符を刻む弦楽に対してホルンだけ八分三連で強奏させたり,わずか10分程度の曲なのに,その内容はさすがに大家の筆である。
本来ブラームスは,弟分とも言うべきトヴォルザーク(1841-1904)と違って,基本的にメロディメーカーではなく,気の利いたメロデイを作り出すのは苦手と思われ,それ故,ヘンデル,ハイドン,パガニーニ等の主題を生かした変奏曲に名曲を残したのだろうが,この曲のような主題の活用・変奏はお手の物である。
それでいて,格調高い弦楽の調べや明滅する木管のオブリガートにえもいえぬ魅力を感じさせる。
交響曲や器楽曲,或いは室内楽や声楽・歌劇に比して,管弦楽曲は内容的に一段も二段も低いと思われがちだが,大家の手になると,かくも魅力的な作品となるものなのである。


演奏は,往年の大家から現役まで名演が目白押しである。
私のCD棚には,モントゥ~ロンドン響,ワルター~コロンビア響,バルビローリ~ウィーンフィル,シュミット=イッセルシュテット~北ドイツ放送響,ヨッフム~ロンドンフィル,バーンスタイン~ウィーンフィル,サヴァリッシュ~ロンドンフィル,ハイティンク~アムステルダムコンセルトヘボウ管,プレヴィン~ロイヤルフィル,マゼール~クリーヴランド管,アバド~ベルリンフィル,ムーティ~フィラデルフィア管・・・と,山のように有った。
大家と呼ばれる人では,ベームにカラヤン,ケンペ,そしてヴァントはこの曲の録音を残さなかったようだ(フルトヴェングラーは有るのだろうか・・・??トスカニーニ,クナッパーツブッシュ,クレンペラー,セルは有る)。
交響曲全集にフィルアップされる例が多いため,私の手持ちも多いのだが,単品では意外や意外,最近のお気に入りは,メキシコのど派手指揮者という印象の強いエンリケ・バティス~ロイヤルフィルである。
存外に端正で,そして予想通り分熱いのである・・・。

・・・ということで,動画も貼っておく。
バーンスタインとウィーンフィルによる分熱い演奏。
かつてオケで2度演奏したが,実に楽しかったな・・・。
今日のような日に相応しいか否か分からないが,これで今年も齢を重ねよう・・・。


Bernstein - Academic Festival Overture (Brahms)

 


ルドルフ・ケンペの忌日に11

2016年05月11日 21時32分07秒 | 音楽

Rudolf Kempe - Dvořák: Symphony No.9 in E Minor "From the New World"

最近は文章を書くのも億劫で,10年前はあれだけ気合いを入れて書いていたウェブログも,おざなりになっているのだが,今日は別だ。
何せ40年目の節目でもある訳だし・・・。
この日に亡くなった故人を偲び,その数々の遺産を紹介してきたのであるが,今回は最晩年の映像と共に紹介したいと思う。


ルドルフ・ケンペ(1910-1976.5.11)。
ドレスデン近郊ニーダーボイリッツに生まれ,チューリッヒで没したドイツの名指揮者である。
2歳年上にはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)が居り,そのカラヤンより10年以上前に没したこともあって,ケンペの存在は極めて地味で,我が国でもその少なからぬ数の録音(といっても毎月のように新録音が発売されたカラヤンには遠く及ばなかったが・・・)が生前に話題となることはあまりなかった。
今考えると,ロンドンのロイヤルフィル,チューリッヒの音楽堂(トーンハレ)のオケ,そしてミュンヘンフィルといった割と地味めなオケの音楽監督や常任指揮者を務めたこともあり,決してスターダムに上ることの無かったあたりが,私の心の琴線に触れたことも大きいと思う・・・。
そして音楽を聴き始めた40年前のこの日,レコード店にてケンペの指揮したチャイコフスキーの第5交響曲(ベルリンフィル)のジャケットを見て,何となく心惹かれたのであった・・・。
東芝EMIから出ていたニューセラフィムベストシリーズなる緑色のジャケットで,荒涼たるロシアの雪原の画像が載っていたのであるが,私が惹かれたのは,寧ろベルリンフィルのレコードが1,300円で買えるという事実にであった筈だ・・・。
そして翌日,新聞でそのケンペの訃報を知るに及んで,虫の知らせとも言うべき,尋常ならざる因縁を感じたのであった・・・。


以来,彼の指揮する演奏に惹かれ続け,ベートーヴェンやブラームスの交響曲(後者は2種類の全集),ブルックナーの交響曲第4,5,8番, R・シュトラウスの管弦楽曲集と協奏的作品集といった独墺系の音楽を聴き込むに及んで,その高い格調と芸術性に今尚傾倒している。
ケンペのレパートリーの中心が独墺系の音楽であったことは間違いないが,レパートリーが広い指揮者であったことは,意外に知られていない。
私のCD棚には,ベルリオーズ,ビゼー,チャイコフスキー,R・コルサコフ,ドビュッシー,レスピーギ,プロコフィエフ,そしてショスタコーヴィチの交響曲までが並んでいる。
中でも4種類の演奏が残されており,ケンペが愛し得意としていたのが,ドヴォルザークの新世界交響曲であった。
その最後の録音,1975年のロンドンプロムス(サー・ヘンリー・ウッド・プロムナードコンサート)における録画が,辛うじてYouTubeに残されており,熱狂的な若い聴衆を前に,白熱の演奏を繰り広げるケンペの姿を見ることができる。
亡くなるほぼ1年前の演奏だが,気迫と推進力,そして力と覇気に満ちたパッショネートな演奏が心を捉えて離さない。
オケは,この年から常任指揮者に就任したロンドンのBBC交響楽団だが,白熱の演奏を繰り広げている。
19世紀後半,独墺音楽の書法を以て,それ以外の地域に根差したモチーフで音楽を書いたのが,所謂国民楽派と呼ばれる作曲家たちだが,ロシアのチャイコフスキーと,チェコのドヴォルザークは,その典型であろう。
そしてケンペの手に掛かると,この魅力的な交響曲が,当然のことながら独墺音楽の本流からの継承であることを,改めて感じるのである・・・。
そして,今後もこの希有な芸術家の残した少なからぬ遺産に,益々惹かれていくことになろう・・・。


「ミステリーのオーラが,高度に洗練されてエレガントなルドルフ・ケンペを取り巻いている。彼の丈高いスリムな姿は,いつもすっくと立ったままである。ケンペは,没頭するのを好んだディオニソス的で華麗な技巧の要る楽節で,限度を超えようとする場合に於いてすら,規律正しいジェスチャーを保っていた。オーケストラは彼の明確なサインの言語を即座に了解し尽くした。この点にケンペが忽ちにして世界くまなく成功した要因がある。リハーサルで彼はほとんどしゃべらず,彼の名人芸的な棒さばきと,彼の長い表情ゆたかな両手によって,彼そのものを理解させた。」

(尾埜善司著「指揮者ケンペ」芸術現代社刊より)

 

 


目出度くもなき日に・・・

2016年03月01日 20時37分21秒 | 音楽

又今年もこの日が巡ってきた。
もはや10代後半から嬉しくない日の一つと化してはいるのであるが,多くの方々にお祝いの言葉をいただくと,やはり喜ばしい日であることを再認識したりもする・・・。


この日は,SNSをやり出した11年前からお気に入りの一曲を紹介してきたのであるが,毎年のラインナップを挙げると以下の通りとなる。


05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)


最初の年は,爛漫たる春を静かに祝う平穏な曲想の一曲で始まったのであるが,2010年
など自虐でしかない選曲だし,12年のピアノ四重奏もどす暗い情念が蠢くような曲想で,これまた自虐。
13年の「ローエングリン」に到っては,波乱の予兆でしかない・・・。
毎年,選曲には勝手ながら迷うのであるが,今年は迷わず決めた。


ピアノソナタ第3番ロ短調op.58~終曲(F.ショパン)。
本日3月1日は,ショパンの誕生日だそうだ(他に,芥川龍之介と加藤茶)。
私自身,決して熱心な聴き手ではなかったし,ピアノ協奏曲第1番の緩抒楽章ロマンツェやアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ(但しオケ伴付)ぐらいしか自らの意志で好んで聴くことはなかったのだが,このソナタの終曲は例外だ。
先立つ第2ソナタが葬送行進曲付きで有名であるが,どうも割り切れ無さというか完成されぬもどかしさを感じさせるのに対し,この第3ソナタは違う。
何よりも第1楽章冒頭から,えも言えぬパッションの発露と,デモーニッシュな感性が聴き手の心を捉えて離さない。
この終曲は,強烈な和声の連打で始まる。
青白く燃えるパッションは,二度と帰ることの無かった祖国ポーランドへの思いなのか,恋仲にあったとされるジョルジュ・サンドへの思慕なのか,今となっては知る由も無い・・・。



この曲に関しては,絶対マウリツィオ・ポリーニの演奏に止めを刺す。
ファンには悪いが,ポリーニの後で聴くアシュケナージは腑抜けにしか聞こえない。
最後のBdurの和音まで,クリスタルガラスのような硬質なタッチと抜けるような高音域の冴えが見事で,一瞬たりとも弛緩する瞬間が無い・・・。


・・・ということで,本年も又齢を重ねた・・・。
またしても自虐とも言うべき波乱に満ちた曲を貼ってしまったが,充実した1年にするべく努力したいものだ・・・。


真田丸-第3回「策略」

2016年01月24日 20時59分47秒 | TV&エンターティメント

あー,そう来たか・・・三谷脚本。
出浦がカウンタースパイとは気付きませんでした。
まんまとしてやられました。
脱帽です。
しかし,なんで上杉への密使に信幸使うかな・・・。
囮としては分かるけど,命落としたら身も蓋もない・・・。
でもって,将来親子の確執を描こうという見え見えの伏線・・・。
でもって,お前が家督だ・・・で,疑念が氷解する信幸・・・。
作為以前の問題でしょう・・・。
しかし,出浦盛清って,武田の忍者であることしか知りませんでしたが,信濃の国衆だったんでしょうか・・・。
村上義清の葛尾城のあった埴科郡坂城の出身だそうですが,井上氏や高梨氏のような信濃源氏の一族だったのかどうか・・・。
でも,真田に与力したのって翌年以降,つまり信長の本能寺横死を受けて,信濃衆は海津城にあった森長可に裏切ったのに対し,出浦のみ従ったので,徳川~羽柴と信州の支配が変わる時期を生き残ってからではないかと思われます。
そして,実際にこの時期の昌幸は,実際何処にいたのでしょうね・・・。
真田氏は真田の庄に居た方が分かりやすいのでしょうけど,多分この時期の昌幸の本城は,上州岩櫃城だったのではないでしょうか・・・。
ま,織田軍が信州に侵攻してくるということで・・・という設定でしょうけど・・・。
多分,武田家が在りし日は,岩櫃から上州吾妻郡と信州小県郡-つまり現在の菅平高原から浅間山の北麓,西上州を押さえる中信地方の一大勢力だったのでしょう。
現在の長野県の地勢同様,中世の信州は,木曽郡の木曽,諏訪郡の諏訪,埴科・更級郡の村上,筑摩郡の小笠原(守護),安曇郡の仁科,佐久郡の平賀・・・といったように,国衆が割拠していたのでしょう。
甲府盆地に地勢が集約する隣国甲斐のように強力な統一政権が出なかったのは,山国故に盆地が散在したから・・・ということと思われます。


武田勝頼・信勝父子が天目山に自害して,源平時代より続いた甲斐源氏の名門である武田氏は滅びますが(続いた系統については,いずれ述べてみたいものです),信長(と穴山梅雪)の命も,それから僅か三ヶ月なんですね。
所行無常というか盛者必衰というか・・・あまりに儚いとしか言いようがありません・・・。
その信長横死の後,信濃を押さえていた代官であったのが上記森長可でしたが(甲斐は河尻秀隆),所謂天正壬午の乱によって,上信甲三国は大混乱します。
その辺りがどう描かれるのか,気に掛かるところです。
考えてみたら,上州と小県郡に配されたのは,上記森長可ではなく,滝川一益なので,今後どう関わってくるかも見どころとなることでしょう。
昌幸と滝川一族の関わりは,この時期に始まるでしょうから・・・。


・・・ということで,長澤まさみ嬢のご登場と相成りました。
しかしまあ,「巧妙が辻」の小りんといい,「天地人」の幸村妹役といい,今回といい,何か大河では役に恵まれていないのでは・・・と思ってしまいました・・・。
家老の高梨内記の娘が,城主の若殿とため口・・・。
有り得ません・・・。
ま,大河に色恋沙汰は不要・・・と(石が飛んできそうですが),断じておきましょう。
・・・にしても,源二郎酷すぎ。
男として最低の部類では・・・と,思ってしまいます。
武士階級の自由恋愛など考えられない時代ですし,殿様のお手が付いて・・・という時代でしたから,やはりこうした色恋沙汰を挿入すると無理があるような気がします。
因みに,この時点(天正10年3月)で,信幸は数えで17歳,信繁は16歳という設定ですので,信幸に夫人が居てもおかしくはないのですが,こう・・・はて,清音院殿のことでしょうか・・・。
何か病弱という設定で,将来が無いような気がするのですが・・・。


・・・ということで,今日も書き殴ってしまいました。
面白いのですけど,何かやたら軽い気がするのは私だけでしょうか・・・。
子どもの頃,訳分からずに垣間見た「竜馬がゆく」や「天と地と」は,もっと重厚で,高尚な感じがしたと思うのは,今だからでしょうか・・・。
否,物心つきつつある時分に見た「花神」や「草燃える」,結構いい年になってから見た「翔ぶが如く」も,もっと緊張感があったような気がするのですけど・・・。
吉川英治や司馬遼太郎の歴史小説のページを繰る際に覚えたわくわく感は,過去のものなのでしょうか・・・。


真田丸-第2回「決断」

2016年01月17日 22時17分08秒 | TV&エンターティメント

う~ん,期待してビデオを回したのですが,何か緊張感のない逃避行シーンと見え見えの小山田勢登場と,昌幸の救援・・・。
あのような逃避行が果たしてあったのかどうかも疑問ですし,おそらく新府城から信州佐久郡へは信玄が築いた棒道が有ったのでしょうし,佐久郡はまだ織田軍の支配下には無かったかと思われます(滝川一益が厩橋城に入るのは,甲州の仕置が済んでからでしょう)。佐久郡から岩櫃城のある上州吾妻郡に行くには,浅間山の東側-つまり現在の軽井沢から長野原・草津方面へ・・・というルートを取るでしょうし,吾妻郡の入り口たる羽根尾城は,前年に昌幸が城主の羽尾兄弟を謀殺して奪取していますから,あのような逃避行が有ったとも思われないのですが・・・。


信玄が2度も登場したのは,はっきり言ってぶっ飛びました。
ま,演出の1つではあるでしょうけど,どうかな・・と,思いました。
勝頼一行の終焉の地は,田野の景徳院の辺りだったと思われます。
日川を血で染める凄惨な戦いの果てに,勝頼一族は自害しますが,あれだけ立派な陣幕と,御旗(無かったな)楯無を持って歩いたのかどうか・・・。
介錯は土屋惣三だったと記憶していますが,同時に命を絶った嫡男の信勝や北条夫人は一切出てきませんでしたね・・・。
いずれにしても,髷と甲冑,騎上姿が一番似合っていたのは,平岳大演じる勝頼でした。大河の主役を務めた父の薫陶でしょうか・・・。


この頃の真田の立ち位置というのは,結構微妙であったのかも知れません・・・。
郡内(東甲州)を治める小山田信茂が,真田は後背定かでないと言い,岩殿城に勝頼を誘うと見せかけて裏切る・・・というのは,その通りとは思いますが,小山田とて武田家譜代の家臣・・・というより,緩い同盟関係にあったのが信玄の代に臣従した訳でしょうから,真田と極めて似た立場とも言えるのかも知れません・・・。
この辺りは,人物叢書等の参考文献や新田次郎の「武田信玄」,「武田勝頼」を読み返す必要に駆られます・・・。
真田が武田氏に仕えたのは,昌幸の先代である幸隆の時代です。
信州北部の豪族たち-例えば村上義清を筆頭に,井上某に高梨某,屋代某とかは,武田氏に南から圧迫され,越後の上杉を頼ります。
上州吾妻郡から信州小県郡を押さえた真田は,その中でも唯一武田に従った・・・というか,武田勢を手引きして砥石城や葛尾城といった村上氏の諸城を落とすのに大いに働きました。
その辺りが,山県,馬場,甘利・・・といった武田家譜代の家臣と共に真田幸隆が信玄二十四将に入ることになった由縁でしょう。
信玄麾下の秀才若手官僚として,昌幸はゆくゆく武田家を支える1人として,将来を期待されていたことと思われますが,信玄亡き後,勝頼の信頼を得たのは跡部勝資と長坂長閑斎でした(長坂は出てきませんけど・・・)。
そうした中にあって,昌幸は鬱々としていたことでしょうし,主家と運命を共にしなかった理由も,そのあたりに有ったのかも知れません・・・。
そうそう,昌幸はそもそも真田の家督ではありませんでした。
・・・というのは,先代幸隆の長子信綱(晴信の一字を貰ったのでしょう)と次子昌輝は,長篠の戦いで討ち死にしています。
そのような経緯で回ってきた家督を,昌幸はしっかりと引き継いで,強固な領国経営を行ってきたということになります。


それにしても,信幸・信繁兄弟の性格分けをくっきり出そうとしているのでしょうけど,何かそれがしっくりいっていないような気がしてなりません。
信幸-慎重,信繁-果断・・・という単純な分け方ではない筈ですし,それだけでは上手く描ききれないと思います・・・。
何かとにかくやたら軽くて,展開が見え見えだし,数々の歴史ドラマを見て感じてきた重厚さと緊張感が殆ど感じられないのが残念です・・・。
それに,あんなに打ち物を取って戦うのも??です。
どうも最近の大河の主人公は,かねたんにせよ龍馬にせよ,はたまた清盛と官兵衛にせよ,やたら初っ端からポテンシャルが高すぎるような気がします・・・。


最後に疑問を1つ。
「甲府が落城しました」
という台詞がありましたが,甲府という地名はいつから定着したのでしょう・・・。
駿府という呼称はありましたが,現在の甲府市は,当時新しく築城した新府に対して,古府中と呼ばれていたのではないかと想像されます。
多分甲府という名前が定着したのは,柳沢吉保の時代以降ではないのでしょうか・・・。だとしたら,
「甲府が落城・・・」
というのは,考証的にどうよ・・・と,なります・・・。
ま,信玄の父信虎が,現在の石和から躑躅ヶ崎城館に移った際に命名した・・・と言われているらしいですが・・・。 


またこういうことを書くと,今回の大河を楽しみにしておられる方々から,お叱りを受けるかもしれませんが,やはりしっかりした時代考証の下,私のような素人に突っ込まれないような良い作品を製作して貰いたいと思います。
どうも「坂の上の雲」に,エキスを吸い取られたのでは・・・という私の危惧が,これ以上現実にならないことを望みたいです・・・。


真田丸-第1回「船出」

2016年01月10日 21時54分45秒 | TV&エンターティメント

18時から録画し,19時からビデオを回して見ました。
30年前の1986(昭和61)年1月は,まさにNHKの当時の水曜時代劇「真田太平記」が佳境を迎えていました。
そして,真田の由縁の地である上田や別所温泉,松代を訪れたのは,その翌月になります。その帰途,中央本線の急行アルプス車内から岩殿城跡がよく見えました(大月駅)。
当時の地名で言えば,甲州巨摩(こま)郡から信州諏訪郡・佐久郡,そして真田一族が蟠踞した小県(ちいさがた)郡の風物が好きで,若い頃は幾度となく上記中央線や信越線沿線を見て回ったことがあります。


そうした中で,「真田太平記」の原作(文庫本で全14巻)を読んだのは,昭和の終わりの頃でした。
脇の知識が極めて豊富で,独自の史観を以て語られる司馬遼太郎の歴史小説とは異なり,池波正太郎のライフワークとも言うべき「真田太平記」は,正統派の歴史小説とでも位置づけるべきでしょうか。
天正10(1582)年春の武田氏滅亡と,それから僅か三ヶ月後の本能寺の変に始まり,40年後の真田伊豆守信之の信州松代移封までの真田一族の激動の軌跡が,鮮やかに描かれており,一瞬たりとも弛緩する場面が無く,月2回新潮社から刊行される新刊が楽しみで,七ヶ月掛けて全14冊を読み切った記憶が有ります。
そのTV版で真田安房守昌幸を演じたのが,先年惜しくも亡くなられた丹波哲郎で,役作りのために,何十回も原作を読んだということでした。
重厚にして大胆な用兵をし,抜け目がないようでいて女に甘い・・・という原作通りの昌幸像を見事に作り上げていたと思います。
そして兄信之(初名信幸)役を演じていたのが渡瀬恒彦で,弟の幸村は何と,本日昌幸を演じていた草刈正雄でした。
水曜日に胸をときめかせて,夢中になって見たあの頃から30年もの年月が経ったことを痛感せざるを得ません・・・。
ですので,ぼそぼそとした喋りは,間違い無く丹波のおじさまを意識してのものでしょうし,丹波昌幸が作中で思案する際に胡桃を握ってごりごりさそせていたので,本日も草刈昌幸の傍に胡桃が置いてあったのを見て,思わずにんまりとしてしまいました。
三谷幸喜独自の遊び心だったのかも知れません・・・。


・・・ということで,私の目の前には「真田太平記」の文庫本と,DVDBoxが有りますので,如何に三谷幸喜が,30年に亘って続いている私の呪縛を解き放ってくれるかが,個人的には最大の課題となります。
しかも,大河ファンの方には,大変申し訳ないのですが,ここ数年大河ドラマは悉く外しておりまして,「江」は8月,「清盛」は3月,「八重の桜」は6月,「官兵衛」は3月,そして昨年の「花燃ゆ」に到っては2月に視聴を断念してきたという経緯があります。
その前の「天地人」と「龍馬伝」は,コンプリートしましたが,半分意地と惰性で見たきらいは否めず,どうも09~11年にかけてNHKが威信をかけて完成した「坂の上の雲」にすべてエキスを吸い取られたのではないか・・・とすら勘ぐってきました。
故に,毎年この時期は,どうか重厚にして史実に忠実な骨太な歴史ドラマを見せてくれ・・・という願いでいっぱいになります。
ですから,もしかすると今後この「真田丸」について書くとすれば,大河ドラマを毎週楽しみにしている方や,堺雅人や大泉洋のファンの方々にとっては,甚だ不愉快なものとなる可能性が大です。
ま,以前も,「天地人」や「龍馬伝」に対してぼろくそ書いたら,茶化した物言いは止めませんか,とか,あんな素晴らしい歴史考証(どこが素晴らしいのか聞きたいくらいですが)を誹謗するとは実に怪しからんとか,貴重な反論をいただいたことがあるのですが,
ま,素人の私が書くことですから,そのあたりは
「また書いてやがる。しょーもねーなー」
と,笑って看過していただけると幸いでございます・・・。


・・・ということで,本編について(前振り長すぎ)です。
風雲告げる天正10年2月,木曽谷を押さえる武田方の地方大名木曽義昌(自称木曾義仲子孫)が織田方に寝返ったところから始まります。
舞台は信州諏訪郡上原城(茅野市上原)。
織田・徳川連合軍による甲州侵攻作戦は,伊那口,木曽口,駿河口から始まったと考えられます。
真っ先に綻びたのは,上記木曽義昌の裏切りによる木曽口で,義昌の裏切りに怒った武田勝頼は1万の大軍(大将は勝頼従兄弟の信豊)を差し向けましたが,鳥居峠の戦いで惨敗。その辺りを,もう少しきちんと語って欲しかったですし,信濃の小笠原が裏切ったというのは,明らかに考証不足です。
信濃守護職の末裔である小笠原氏の当主長時は,天文17(1548)年の塩尻峠の戦いで勝頼の父武田晴信(信玄)に敗れて没落し,所領を失って上方の三好長慶や越後の上杉謙信を頼って亡命状態にあり,この時期は既に織田家に使えていた筈です(前年天正9年の京都御馬揃えにも出ています)。
或いは,客将として蘆名盛氏に仕えていたことも考えられますので,信濃にいて武田に反旗を翻したとは思われません。
あと,上原城に,果たして穴山梅雪(信君)は居たのでしょうか・・・。
梅雪は駿河江尻城主ですので,言わば対徳川,対北条の最前線です。
動ける筈もなく,また,裏切って徳川軍を駿河口から手引きした訳ですから,木曽義昌討伐には動員されていないと思われます。
梅雪にせよ,小山田信茂にせよ,後で裏切る訳ですから,出しておいた方がわかり易いということでしょうか・・・。
そして,「真田太平記」の序章の舞台となった伊那口の高遠城攻防について触れられていないのは,全くの片手落ちと言うべきでしょう。
武田勝頼の凋落に拍車を掛けた大きな原因となった訳ですから・・・。
信玄の末子,仁科五郎盛信の壮絶な戦いぶりと最期は,きちんと語られるべきと思いました。


信幸・信繁兄弟(と,姉の村松殿)を別にすれば,役者さんたちはさすがに上手かったと思います。
特に勝頼役の平岳大さんは,さすが大河で主役を張った父の薫陶宜しく,髷と甲冑姿が凄く似合いましたし,高嶋政伸の北条も,莫迦殿ぶりに期待が持てそうです。
内野聖陽の家康が爪を噛んだのは,「影武者徳川家康」の影響でしょうか(実際,そういう癖があったということらしいですが)。
う~ん,1回見ただけで評価をするのは,いささか早計に過ぎますし,まだまだ今後に期待すべきなのでしょうけど,どうかな・・・。
武田氏が滅亡した当時の,真田家の武田氏内部での立ち位置がどうであったか,果たして跡部勝資が言ったように,仕えて日が浅いのか,その辺りは,真田氏がどうして武田家に仕えるようになったのか,その経緯を語らなくてはなりません。
それこそ,9年前の「風林火山」の時代について述べなければなりませんので,次回語ることができれば・・・と思います。
ワープロ2ページ半程,キーを叩いてしまいましたので,今宵はこれまでにしたいと思います・・・。


旧小田郡紀行-其乃参「奥州仕置」

2015年08月17日 22時42分06秒 | 旅行,および「鉄」

黄金山神社と天平ろまん館を後にして,R346(通称佐沼街道)を戻る。
そして,県道173号線を江合川沿いにほんの僅か北上すると,涌谷城跡だ。
県道からは城らしき建物がよく見えたが,勿論清洲城や伏見城同様,何の歴史的根拠もないRC造りの観光城である。

但し,ここに城があったことは事実だ。
室町幕府の奥州探題職として,東北一円に睨みを利かせた大崎氏の氏族にして家臣である涌谷氏の居城であったという。
やがて16世紀の伊達氏の勢力伸長により,形骸化していた大崎氏の支配は終わり,政宗の代に,亘理重宗が涌谷城に入り,この一体を支配していくことになる。
亘理氏は,保元の乱や源平合戦に功のあった千葉介常胤の三男武石胤盛を祖とする平姓であるが,伊達家お得意とも言える名跡乗っ取りによって,伊達一族の重宗が継いでいた。
重宗の子の代で伊達姓に復し,これを涌谷伊達氏と呼ぶ。
元禄年間に失火で天守が焼け,以降再建されなかったらしい。
城跡の南端に残る隅櫓は,小規模ながら唯一当時の遺構と言えよう。
涌谷城は,ざっとこのような歴史を辿ったのであるが,伊達氏は藤姓(北家魚名流),大崎氏は斯波氏の一族であるから源姓足利氏族である。
さっき述べたように,亘理氏は平姓千葉氏族だ。
つまり本来は,関東地方を本拠地としていた筈の一族である。
それが何故東北に進出するに到ったかは,大きな理由がある。


武士の起こりは,平安時代初期の9世紀ころだったとされる。
所謂平氏は桓武天皇の子孫,源氏は清和天皇(近年の研究では陽成天皇)の子孫と言われている(その他,平氏には仁明天皇系等,源氏には嵯峨天皇系,村上天皇系,宇多天皇系等があるが,桓武平氏と清和源氏をここでは狭義の平氏・源氏とする)。
つまり後続の子孫が姓を賜り臣下となり,中央政界での栄達の為にも(或いはそれを諦めて),地方での実利を取ったということだと思う。
平氏は伊勢や伊賀といった畿内から近いところに,源氏は摂津,大和,河内に起こり,中でも河内源氏は,摂関家に仕え頼信-頼義-義家と,前九年の役や後三年の役で東北の紛争に介入し,関東から東山道諸国に勢力を伸ばした。
特に,東北とも縁の深い八幡太郎義家の三弟,新羅三郎義光の子孫は各地に繁栄した。
有名なところを挙げると,常陸の佐竹氏,上野の新田氏,下野の足利氏,信濃の平賀氏,甲斐の武田氏等である。
いずれも源平合戦に於いて頼朝に従い(佐竹氏や新田氏のように当初は従わず,後に従い)鎌倉幕府の御家人となつた。


一方,平氏は伊勢・伊賀地方で勢力を扶植する一方で,源氏同様東国に基盤を求めた。
関東での独立を図った平将門や平忠常が有名であるが,それらの一族の系統も関東に多く根を張った。
伊豆(関東ではないが)の北条氏,相模の三浦氏に波多野氏,中村氏,土肥氏,鎌倉氏,上総の千葉氏,上総氏,下総の相馬氏,常陸の大掾(だいじょう)氏,武蔵の秩父氏等である。
坂東(関東)は源氏の国・・・という先入観があるが,坂東八平氏と言われるくらいであるから,むしろ平氏の国・・・と言った方が良いのかも知れない・・・。
それらの殆どは源平合戦の際に頼朝の麾下に参じ(波多野氏や鎌倉氏の一族の大庭氏のように従わずに滅ぼされたり,上総氏のように謀殺されたりした例もあるが),鎌倉御家人に名を連ねるに到った。


このように,武士はそもそも宮廷の番人であったのが地方に散じたのであるが,さらに大規模にそれを動かしたのが鎌倉幕府の進めた守護・地頭制である。
例えば,私の義理の母の実家は板橋姓であるが,これは現在の東京都の板橋区から起こった平姓秩父氏の一族であるが,おそらく鎌倉幕府草創期に陸奥国名取郡を領した裔であると考えられる。
おそらく名取郡某荘の地頭職だったのではないだろうか・・・。
平安京から各地に散った武士は,こうして鎌倉幕府によって更に遠方へ散り,それぞれの地を支配しながら勢力を伸ばしていった。
例えば,仙台藩主である伊達氏であるが,常陸国伊佐郡,或いは下野国中村荘を領していたが,頼朝による奥州征伐の際,石名坂の戦いにおいて常陸入道念西が功を上げ,奥州伊達郡を支配したことに始まると言われる。
また,上記奥州征伐後に,頼朝から奥州総奉行に任じられたのは,平姓秩父一族の葛西清重である。
清重は,石巻の日和山に館を築き,登米に移ったという。
その子孫は長く奥州の有力な守護として栄え,秀吉の小田原征伐によって改易されるまで続いた。
また,その葛西氏や伊達氏と境を接して争った大崎氏は源姓足利氏族の斯波氏より起こったことは,先に述べた。
そして,清重と共に奥州総奉行に任じられたのが伊沢家景である。
伊沢氏は,藤原北家道兼流であるが,陸奥国の留守職を務めたので代々留守氏を名乗り,現在の仙台市の岩切城を根拠地とした。
この留守氏も,やがて伊達氏に乗っ取られることになる。


・・・ということで,全くまとまらない内容となってしまったが,伊達氏や留守氏がこの地方に来た根源を辿ると,鎌倉幕府の守護・地頭に端を発しているのである。
それがなければ,歴史は大きく変わっていたに違いない。


城跡からは南側の眺望がよく利いた。

江合川と鳴瀬川に囲まれた低湿地は,長年の先人たちによる努力によって,美田へと変貌し,全国有数の穀倉地帯となった。
そしてその大崎平野の東端に位置する涌谷は,城山から俯瞰すると,山と川のある美しい町として今日も残った。
どうしても仙台市に一極集中になりがちな我が県ではあるが,こうした地方都市にも他にはない歴史や伝統が今も脈々と息づいているのである。
そうしたのも,私が声高に批判した地名の消滅同様に大切な文化遺産である。
それを守っていくのも,我々に課せられた使命であり,今回の仕事が微力ながらその一端を担うものとなれば嬉しい話だ・・・。
涌谷-美里-大郷-大和と,旧小田郡から黒川郡を経て,宮城郡へ帰る帰途,そんなことを思いつつ愛車を駆った・・・。


◎ようやく終了です。
たった4時間程度の行程を書き記すに,膨大な字数を要しました。
そして,余計なことばかり書いたという・・・。
ま,何時ものことではあるのですけど・・・。
また気が向いたら,書くかも知れません。
唯,出掛ける機会が無いのと,もう一つ,県北に残る旧奥州街道の本陣を訪れる仕事が有るのですが,なかなか機会を見付けられないで居ます。
JR駅から近いので,鉄道で出掛けるのも一興かも知れません・・・。


旧小田郡紀行-其乃弐「くがねはなさく・・・」

2015年08月14日 22時04分54秒 | 旅行,および「鉄」

私が蛇蝎の如く忌み嫌う平成の大合併により,全国各地では郡や町が消滅して,新たに市や町が誕生した。
我が県も例外ではなく,市に編入されたり町村合併して別の名前になったところは数多くある。
隣県では,私の故地である山形県飽海郡平田町は,酒田市に併合された。
本当に由々しき事態である。
地名という文化遺産を,合理主義の謳い文句で簡単に消し去ったのだから・・・。
地域住民にとって,大きな恩恵がある筈も無く,住民税は上がる等,良いことなど何も無いのでは・・・とさえ思えてくる・・・。


・・・と,怒りを混ぜっ返すためにこの話題を出したわけではない。
律令時代の現宮城県は,多分以下の郡に分けられていたと思われる。
北から,栗原郡,本吉郡,登米郡,玉造郡,遠田郡,小田郡,加美郡,桃生郡,牡鹿郡,黒川郡,宮城郡,名取郡,柴田郡,亘理郡,刈田郡,伊具郡である。
そのうち栗原郡と登米郡,玉造郡,牡鹿郡,名取郡が消滅。
仙南の各市町村は,合併せず孤塁を守り抜いている。
かつて私が住んだ伊具郡丸森町は,隣接する角田市との合併を拒み,古代史に名を残す伊具十郎以来の歴史遺産を見事に守った。
そして,律令時代に小田郡という聞き慣れぬ郡が存在し,それはやがて多賀城を中心とした中央政権の東北支配に際して,遠田郡に併呑されていったことは,意外に知られていない。
私が小田郡なる名称を知ったのは,多分高校3年の時に,日本書紀の大仏建立の章を見た際に,陸奥国小田郡・・・というのを見た時が最初だったと思う。
そして,今回の踏査で,かつて旧遠田郡の南部を小田郡と呼び,古代政権下で遠田郡に併呑されたことを初めて知った。
この県に住む者として,迂闊以外の何者でもなく,平成の大合併に異を唱えるなら,これくらいのことはとっくに知っていなければならない・・・と,猛省しているところである。現在,村田,大河原,柴田の3つが合併して柴田市を形成する動きがあるそうだが,絶対止めて欲しいと思う。
既に新潟に新発田市があるので,語呂でも被ってしまう・・・。


涌谷の街は,県内の典型的な地方都市の様相で,栗駒山系に源を発する江合川沿いの段丘上に,駅を中心として石巻街道(R108)と佐沼街道(R346)の交差点付近に開けている。
北東は箟岳を中心とした丘陵が走り,三方には美田が広がる。
特に南は,江合川と鳴瀬川の間の低湿地が長い年月を掛けて開墾し,藩政時代は仙台藩主の肝入りで新田開発が行われ,仙台平野北部の所謂大崎平野は,全国有数の穀倉地帯となるに到った。
自然との共存・共生のため,多くの犠牲を払いながらも叡智を傾け,このような美田を公正の我々に残してくれた先人たちには,感謝以外の何も無い・・・。
藩政時代は支城が置かれたのは,やはり大崎と石巻を結ぶ要衝だったということだろうし,何よりも守護領国制の時代(鎌倉~室町)に築かれた城塞があったのだろう。
これについて述べてしまうと,またとんでもないことになりそうなので後に回すが,国内の大移動という点でも中世の開幕=武家政権の誕生は,日本史上の一大エポックであったことは疑いない。


そして,第一の目的である天平ろまん館は,街の北東の箟岳旧領の麓にあった。

朱塗りの太い柱が,平城宮の大極殿を想起させる。
砂金を産出したという黄金山神社の直ぐ隣に,20年程前に建てられたらしい。
今でも有料だが砂金採りが体験できるとのことで,建物の裏手でやっているらしい。
展示は,天井の高い贅沢な造りの展示室に分かれており,実に見やすい。
年代的に,多賀城市の東北歴史博物館と被るのは仕方がないであろう。
それにしても,例えば佐渡とか伊豆とか駿河梅ヶ島とか,江戸時代までの我が国は,世界有数の金の産出国であったことは疑いがない。
11世紀末から100年に亘って東北を支配し,完全な独立国であった平泉奥州藤原政権の背景にあったのが金と馬であり,それらによって中央政権が摂関家~院~平氏と替わっても,独立をうまく保つことが出来たのだろう・・・。
学芸員は丁度留守だったが(帰り際に会うことが出来た),窓口に書類を頼み,仕事は難なく終了。
隣の黄金山神社を訪れる。

延喜式かなんか分からんが,鬱蒼たる木立に囲まれた古社の雰囲気は格別であり,流れる小川で砂金が・・・というのも納得だった。

須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久
(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)
(天皇の 御代栄えんと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く)

なる大伴家持の歌は有名であるが,涌谷で金が産出されたのが天平21(749)年であるから,多分家持は越中の国司だったと思われる。
陸奥按察使持節征東将軍として,任地である陸奥国府(多賀城)に赴いたのは,それから30年を経てからだったと思われる。
既に時は桓武帝の代となっていた。
でもって,さらに迂闊極まりないことに,私は家持が陸奥按察使持節征東将軍のまま,延暦4(785)年10月に多賀城で没したことを知らなかった・・・。
てっきり平城京で没したと思っていたが,任地の多賀城で・・・というのが定説らしい。尤も,在地に下る国司ではなく,都に在って代理人を地方に遣わす遙任であり,平城京で欲したのでは・・・とも言われているらしい。
没後すぐに造営中の長岡京にて,藤原種継暗殺事件が起こり,連座を疑われた家持は官籍からも除名され,埋葬も許されず,子の永主は隠岐へ配流となつたというから気の毒な話だ。
尤も,長岡京造営計画がぽしゃり,平安京への遷都後の延暦25(806)年に名誉が回復され,官位は戻ったというが,その時点で永主が存命であったかどうかは定かではない・・・。


・・・ということで,たかだか半日(というか4時間)のことを書くのに,既にワープロ4ページ以上を費やしてしまった・・・。
明日は実家泊まりだから書けないだろうが,記憶が鮮明なうちに書き留めておきたいものだ・・・。