koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之九「二月堂残照・・・」

2015年01月18日 22時13分09秒 | 旅行,および「鉄」

若草山に思いを残して北に道をとると,すぐに手向山八幡宮だ。
昨年,菅原道真の歌碑と神社の由来については述べたが,朱塗りの社殿は春日大社同様雅やかな雰囲気を醸し出しており,参拝自由なのも実に有難い。
高校2年の時,修学旅行でここに来て,菅公所縁という説明を聞いて,私をはじめとして
お参りを済ませてから,お守りや御朱印帳を見る。
多くの者が合格祈願のお守りを買い,更には翌年後輩に同じものを貰ったことも述べた。あれから30年以上経つのに,確か全く同じものを売っていたというのも嬉しい話だが,来年受験の上の子に買わなかったのは,験を担いで・・・という訳でもないのだが・・・(歯切れ悪し・・・)。
北西の鳥居を出ると,東大寺三月堂が目の前にあり,いよいよ二月堂へのハイライトが始まるという訳であるが,斜めから鳥居越しに写真を撮るのが何とも気に入った構図となっている。
試しに鳥居の正面からも撮ってみたものの,レヴェル(水平)を出すことで構図の安定感はあるが,何か物足りない・・・。
多分,ここに来たのは8回目と思われるが,今から向かう二月堂と共に,やはり外すことのできない鉄板ルートだ・・・。


そして,いよいよ二月堂へ登る(昨年のものはこちら参照)。

奈良公園を巡る旅のハイライトはやはりここだ。
奈良を訪れるたびに連れてこられる相方も,この二月堂でいつも癒されるのは何故だろう・・・と言っていた。
今回は南側の石段を登り,回廊に辿り着く。

折しも陽は西の生駒山系に沈む直前で,淡い残照が大和平野を照らしていた。
ここでの夕陽は圧巻・・・と何かで読んだ記憶があるが,確かにその通りだと思う。


聖武帝や光明皇后,或いは吉備真備に弓削道鏡もここから落ちる陽を見たのだろうか・・・。
幾度となく一眼のシャッターを切る。
沈み行く夕陽には,何とも言えぬ哀切さと強引にこちらの気持ちを引きつける求心力がある・・・。
万葉人の心を思い,あまり詳しくない古代史への追想をしつつ,大いに気持ちを残したまま二月堂を後にした・・・。
西の空が夕陽に照り映えているにもかかわらず,雨が落ちてきた。
迂闊なことに,折りたたみ傘はメインザックに入れたまま,ホテルに置いてきたので,少し早足で二月堂を後にして,情緒満点の石畳の道を下る。

早めにバスに乗りたかったので,大仏殿や南大門の方へは行かず,とにかくバス通りに出ようと正倉院の方へ急いだ。
4年前と同じルートである。
そして,今小路バス停の屋根の下に入ったときに,雨が本降りになった。
夕焼けが見えたから俄雨とは思ったが,実にラッキーだった。
ついでにバス停そばの祇園八坂社にお参りすることもできたし・・・。 


・・・ということで,短いですがこの日はこれで終了です。
まもなく来たバスに乗ってJR駅前で降り,夕食をとったあと,徒歩3分のホテルに戻りました。
さすがにほっとしたのか,そのままベッドに倒れ込み,飲まずに2~3時間伸びていました。
11時頃に入浴し(何と大浴場がある),ベッドに入ったものの眠れず,悶々としたまま朝を迎えてしまいました・・・。
次の日は,ほぼ未知に近い飛鳥へ向かいますが,律令制以前の古代史も全くの範疇外なので,果たしてまともに書けるかどうか・・・。


關西紀行-其之八「春日大社から若草山へ・・・」

2015年01月17日 21時37分50秒 | 旅行,および「鉄」

春日大社の表参道が,奈良市内で最も賑やかな通りである三条通であることを,今地図を見て,改めて知った。
興福寺東の猿沢の池からJR駅まで歩いたことがあるが,国立博物館の東側から一の鳥居にかけては未踏なので,次回は敢えてバスではなく徒歩で訪れたいと思った。
春日大社-勿論我が町にもある春日神社の総本社であり,藤原氏の神社としても知られている。
伝承によると,和銅3(710)年に平城京遷都と同時に大宝律令編者として知られる藤原不比等(鎌足の子)が氏神である鹿島神を御蓋山(みかさやま=三笠山=春日山)に勧請したのが始めとされているようだが,社伝では,768(神護景雲2)年に藤原永手が鹿島の武甕槌命,香取の経津主命,そして枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せて祀ったのが最初という。
御祭神が複数というのが,如何にも日本的だと思うのは私だけだろうか。
考えてみたら,キリスト教も回教も一神教であり,天主という点では同一神だと思う。
それに対し,我が国はまさに八百万(やおよろず)の国である。
そういう意味では,かつて某首相の神の国発言はある意味正しいと言っても良いかもしれない。
左翼がぼろくそ言っていたが,我が国の信仰は,確かに森羅万象八百万の神々が対象である・・・。
そうした点では,ゼウスを頂点としながらも光陽神アポローンや海神ポセイドン等,オリュンポス十二神で構成された古代ギリシャと共通項があるのかも知れない・・・。


古色蒼然たる石灯籠が並ぶ参道は圧巻だと思う。

無宗教・無信仰を標榜する私を筆頭とする誰もが,その荘厳な宗教的雰囲気に圧倒されるのではないかと思う。
寺社巡りの魅力の1つは,氏神などの縁起や歴史的沿革もさながら,こうした宗教的荘厳さを味わうことにあると思う。
高校時代,修学旅行の行き先は関西と北海道の二箇所からの選択となっていて,東日本から一歩も出たことのなかった私は,一もニもなく関西に決めたのだが,よく友人から
「寺ばかり見て面白いのか」
とか,
「寺より湖の方が絶対良い」
とか言われたものである。
ま,当時は京都と奈良は日本人として是非見ておくべき(鎌倉は,同年春に訪れた),と思っていたので迷わなかった訳だが,この思いは今も変わらない。
そして,今も寺域やご神域は心が落ち着くので,自らその環境に身を置く機会が増えている。
そうした意味でも,確かに寺社とはパワースポットであるのかも知れない。
人知やテクノロジーを超えた超自然的なものの存在を是とするか非とするかは,人によるだろうしTPOにもよると思うが,信仰や信心の有無と宗教的荘厳さの魅力は背中合わせなのかも知れない・・・。


確か3年前に訪れた際,春日大社の社殿は工事中であり,残念な思いをしたものだが(これは6年前の銀閣,3年前の石山寺多宝塔も同様),今回は朱塗りで鮮やかな色彩の社殿を堪能することができた・・・。

前後するが,本殿のずっと下にある手水(ちょうず)は,竜吐水ではなく何と鹿であることが春日大社らしい。

鹿吐水(ろくどすい)とは言わないだろうけど・・・。


そして,次なる目的地である若草山へ向かう際に,境内に勧請された水口神社から川の流れる谷へ下りるのであるが,この辺りの風景も気に入っている。
学生時代,講義の1つとして関西の博物館や寺社を巡った際に,この辺りで友達と楽しくだべった記憶が今でも鮮明に残っており,懐かしいと同時に地図を見て歩く習慣の無かったことを大いに悔いた。
今でこそ,携帯があるので未知の地は地図を見ながら訪れることができるのであるが,かつては二万五千分の一の地形図や土地利用図を地図店に買いに行くのも楽しみの1つであり,飽くことなくそれを眺めて地形までも頭に入れたものだった。
旅行ガイドブックの地図には無い精細さがお気に入りで,当時買った地図の8割は,今も本棚の一郭に残っている・・・。
水口神社の下には茅葺きの古民家が・・・と思ったら,水口茶屋なる茶店兼土産物屋だった。
谷へ下りて,両側に古くからの旅館や土産物屋が軒を連ねる石段を登ると,若草山の麓に出る。

勿論,冬季は入山できないのだが,なだらかな斜面には芝が生い茂る。
良い季節になったら,文字通り若草が萌え出ずることだろう。


小学校5年の時,日本の歴史図鑑(小学館刊)なるものを買ってもらった。
カラー写真など殆ど無く,全編が挿絵で構成されたものだったが,それが滅法楽しく夏休み中食い入るように読んだ。
言うなれば,それが私のこうした無駄な知識の源となっているのであるが,奈良時代の項に2ページ見開きで当時の若草山の様子が載っていた。
全面萌葱色の芝の上に大陸風の服装の親子が楽しげに遊び,御神鹿も一緒に描かれていたと記憶している。
何とも大らかなその雰囲気が,私のこの時代へのイメージを固着させるに至ったことは言うまでもない。
近年,こうした奈良の寺社を好むようになった背景というか源流は,この2ページに亘る絵であったことは間違い無い・・・。
天平の昔と平城の都を偲ぶポイントは幾つもあるだろうが,私にとってはやはりこの若草山麓がその1つである。


この若草山麓の風景もなかなか良いと思う。
山麓には大和鍛冶の老舗が2軒と,土産物屋や旅館が建ち並び,ちょっとした門前町の情緒を醸成しているのであるが,その大和鍛冶の2軒(菊一文字包永と三條小鍛治宗近)については昨年述べた。
今気付いたが,謡曲「小鍛治」にも詠われた後者は,京都ではなく奈良の三條通りにあったということなのだろう・・・。


・・・ということで,今日も2ページ強書き殴りました。
この手の文章なら幾らでも書けそうです(迷惑!!)。
あと1回で,この日が終わるかどうか・・・。


關西紀行-其之七「春日野の とぶひの野守 いでてみよ・・・」

2015年01月16日 22時27分26秒 | 旅行,および「鉄」
前述の通り,観光客の大半は大仏殿奈良公園前で下りるのだが,春日大社から若草山に抜ける予定だったので,敢えて次なる春日大社表参道で下車した。
でもって,本日のハイライトとも言うべき,新たな発見はその瞬間唐突に始まった。
否,唐突に・・・というのは,過去3回このバス路線を通ってきた私としては,あまりにも認識不足だった。
バスを下りて奈良公園に一歩踏み込もうとしたとたん,思わず瞠目した。

春日大社の方角とは反対の南東方向に目を向けると,びっしりと芝の植えられた小高い台地が南北に広がっている。
北は春日大社の表参道から南に緩やかな丘陵が続き,丘のピークから先は見えない。
おそらく次なるバス停である破石付近,昨年訪れた新薬師寺や20年前に訪れた白毫寺へと続く道の手前まで続いていると予想された。
咄嗟に,高校時代に習った和歌を思い出す。
 
春日野の とぶひの野守 いでてみよ 今いくかありて 若菜つみてん(古今集,読人不知)
(春日野の飛火野の野守よ,野に出て見てくれ。あとどれぐらいで,若菜を摘む春になるのだろうか・・・。訳:koshi・・・笑)

勿論,諳んじていたわけではなく,断片的に覚えていたのをwebで確かめただけなのだが,何故に記憶していたかというと,純和風で典雅なのはよいとしても,個人的には平安期の貴族趣味がもろに出て,ちまちました感は否めない古今集の中にあって,珍しく太陽と土の香りのする万葉調の雰囲気が気に入っていたからである。
そして平城の昔,狼煙台が置かれていたことから,飛火野と呼ばれていた地はかくの如く広大であったか・・・と,思った。
で,その夜,ホテルでネットを繰ると,春日大社南郊のその地こそ,上記の歌に詠まれた飛火野であったことを確認したのだった。
したがって,この時点ではここが飛火野とは思っていなかったことになる。
翌々日の午後,それを知ってから再びここを訪れたので,まあ良かったのだけど・・・。
 
 
緩やかな丘のピークに木が1本2本・・・。
その近くでは鹿がのどかに草を噛(は)む・・・。
こうした広大で茫洋たる風景は,見事に私の思い描くところの万葉時代のイメージと見事にシンクロする。
奈良の魅力を挙げればきりがないが,1つはこうした大陸の風気を感じさせる広大さ,そして,上述の万葉集に詠われたような太陽と土,そして水の香りではないかと思う。
この風景を若き日の阿倍仲麻呂も目にしていて,望郷の念を募らせたまま,無念にも異境に果てたのだろうし,聖武天皇や吉備真備も目にしたことだろう・・・。
以前,奈良と京都のどちらが好きか・・・と聞かれたら,一も二もなく国風の「京都」と答えたであろうし,京都で一番好きなのはどこかと聞かれたら,間違い無く「東山界隈」,しかも既述の通り,八坂神社から高台寺門前を経て,産寧坂から清水坂へ,清水寺へと登る道・・・と答えたのであるが,6年前の同時期に初めて家族で訪れた際,あまりの人の多さに辟易して以来,以前ほどお熱ではなくなってきたことも事実である。
そして,その京都に比して人出は圧倒的に少なく(東大寺大仏殿以東のみ。興福寺も西の京の薬師寺も清水坂の比ではない),寺域も大陸風で圧倒的に広い奈良がお気に入りとなってきた。
丁度20年前に出張で訪れて以来の奈良市内宿泊を決めた背景には,間違い無くこうした私自身の心境というか指向の変化が有ったことは間違い無い・・・。
雄大にして悠然たる飛火野の風景の中に,いつまでも身を置いていたかったのだが,他の家族がそれを許す筈もなく,早く次行こう・・・と何度となく急かされて,そう急ぐなよ,奈良に都があった1,300年前を偲べよ・・・と言っても理解される筈もなく,広大な飛火野(と思われた)地に思いを残して,芝の上を数十メートル先の春日大社の参道へと向かった。
以前は,かつて歌舞伎(「舟弁慶」だった)を見た近代的な新公会堂の脇から入っていたのだが,去年と今年はこの正規ルートとも言うべき表参道の入り口から入ることになる・・・。
 
 
 
・・・ということで,今日はワープロで2ページ弱で終了です。
この日のピークは2度有りまして,次回その2度目のピークについて述べることができると良いのですが・・・。
いずれにしても,この日の新たな収穫は,古代万葉時代からおそらく変わらぬであろう飛火野の雄大な風景の中に身を置いたことに他なりません。
これだけでも奈良に来た甲斐があったというものです・・・。

關西紀行-其之六「關西ホテルミシュラン・・・??」

2015年01月15日 21時30分42秒 | 旅行,および「鉄」

前後するが,大和西大寺駅では過去2回下車した(ホームで乗り換えただけではなく,改札を出た)。
4年前(震災の直前)は,そのまま歩いて西大寺へ行き,駅前へ戻ってバスで秋篠寺へ行った。
3年前は(震災のあった年の暮れ),歩いて平城宮跡を訪れた。
いずれもその後奈良公園を訪れたのだが,充実した旅程だった。
大和西大寺駅は,近鉄の要衝だけに駅舎の規模も大きく,駅ビルの飲食店も充実していて,トレインビューの展望コーナーまで有った。
上記寺院や史跡のベースとしては勿論,単なる乗り継ぎ点に留まらない魅力がある駅だと思う。
東洋のミューズと呼ばれるアルカイックな魅力を湛えた有名な秋篠寺の伎芸天を見に行った帰りには,ぜひ駅ビルを冷やかしてみることをお勧めしたい。


近鉄で奈良に向かったのは良いが,1つだけ誤算に気付いたのは,ほんの数日前だった。宿はホテル日航奈良を押さえたので,最寄り駅はJR奈良駅になる。
運賃が安くて電車の本数も多い近鉄が良いのは既述の通りであるが,この2つの駅はバス停1つが間にあり,歩くにはちょい時間がかかり(私の足だと10数分だが),バスで行くには近すぎる。
この点で,少々誤算であった。
但し,3回乗れば元の取れる1日乗車券を買えば,短距離でも抵抗なく乗ることができる。でもって,近鉄奈良駅を出て,真っ先に行ったことは,駅の向かいにある奈良交通バスの切符売り場で,1日乗車券を買ったことだった。
ついでに,明日行く予定の飛鳥の1日乗車券について訪ねてみた。
窓口に居たのは,私より多少若いとおぼしき女性だったが,ここでは買えないことや発売場所を丁寧に教えてくれた。
さらに少し待つように言われたのでそのようにしたのだが,何と飛鳥のバス時刻表(亀バスと言うらしい-亀石からとった)のwebページをプリントアウトしてくれた。
近鉄といい京阪といい,この奈良交通といい,とにかく親切である。
関西だからかどうか分からんが,有難いし何よりも嬉しい心遣いである。
実は何日か前に自宅でそのサイトを見て,携帯webで見るから・・と思ってプリントアウトしなかったのであるが,こうした心遣いには本当に感謝の気持ちでいっぱいである。


JR駅方面の循環バスの乗り場を探して,待つ間もなく来たバスに乗る。
JR駅との間にあるバス停は,油阪船橋商店街の1つのみ。
向かって左手(南)に開化天皇陵があるのだが,ビルの陰で見えない。
有難いことに,JR駅前に停車するだけではなく,駅前のバスプールに入ってくれた。
朝から疲労を抱えているこちらとしては,実に助かった。
JRの高架 の下をくぐると,ホテルはすぐだった。
実は,このホテルの第一印象は良くなかった。
6年前,初めて家族で奈良に行った際に駅前から見たら,ホテルというより大きな病院のような印象だった。
京都駅八条口に程近い新都ホテルの本館が,団地ともおが住んでいるようなアパートに見えたのと同種だろう。
いずれにしても言えることは,見かけではなく実際に入ってみると,中は小綺麗だったということであり,どちらも満足できるホテルだったということだ(都ホテルは,別館のサウスウイングが南欧のリゾート風で良かった)。
今まで京都と奈良で泊まったホテルは,上記の他にホテルモントレ京都ホテル近鉄京都駅,そしてリーガロイヤルホテル京都だが,いずれも快適であった。
唯一,大阪駅の上にあるホテルグランヴィア大阪も悪くはなかったが(2009年当時で,ブラウン管式のTVだった),上記に比べると個人的には??という感じだった。
勿論,特筆すべき事ではないし,食事も良かったのだけれど・・・。


チェックインを済ませると,何と部屋に入ることができるというので,一度旅装を解いて,有線LANによるPCの接続を確認し(私の故地の某ビジネスホテルでは繋がらず,翌朝になってWifiが生き,無線LANのみ繋がった),ベッドに倒れ込むこともなく(やったら絶対時間を無駄にする),すぐに出立した。
県内随一の高層建築にして大型ホテルだが,内装もシックで品が良く,駅東側から見た外観の印象とは大いに異なる。
一昨年秋に泊まったという先輩の口コミでは,良いホテルで朝食のパンが美味だった・・・ということだったし,チョイスは正解だったと言える。


再びバスに乗り,先程の逆ルートをとる。
近鉄駅前で外人の観光客が乗り(英仏独中韓以外の言葉だった)満員となったが,予想通り大仏殿奈良公園前で殆どが下りた。
春日大社から若草山~手向山八幡宮~東大寺二月堂という奈良の鉄板コースは,やはり外せない。
去年は新薬師寺を訪れ,十二神将像の表情と造形に酔ったのだが,今回はかつて1人で訪れたことのある白毫寺を20年ぶりで再訪したくなった。
但し,バスの便は極めて良くない。
昨年訪れた新薬師寺のさらに奥(東)になるので,循環バスの路線から歩くという手もあるのだが,家族では厳しい(1人だつたら絶対にやった)。
したがって,今日のところはおとなしく奈良公園鉄板コースのみに留め,新規開拓は明日の飛鳥周遊にしようと決めた。


位置的に又しても前後するが,近鉄駅前から東の風景が堪らなく好きである。
バス通り(かつての二条通?)は,奈良県庁と向かいの興福寺を控えて緩い登り坂であり,それが緩いRを右に描いていくのだが,その先には若草山の芝が西日に照り映えて見える。
特に昨年訪れた時は,夕刻京都に戻るときに見た景色が最高だった。
今日は,それよりも時間帯が早いのと,天気は薄日が差し込む程度だったので,芝が輝きを見せるというほどではなかったが,それでも私の心を旅情と愉悦で満たすには十分だった。
バスの切符を買うために急いで道路を横断する際に,コンデジで撮影したのみだったので,昨年のように一眼で撮らなかったことを悔いることとなった・・・。
 


・・・ということで,ワープロ2ページを超えてしまいました。
歴史根多での暴走はしなかったものの,余計なことをだらだらと述べてしまったきらいはき否めません・・・。
ま,1行分の知識で3~5行書くことを特技としている私なので,またかよ・・・と呆れつつ看過していただけると有難いです。
果たして,明日は書けるのでしょうか・・・??


どんと祭・・・

2015年01月14日 21時20分21秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

 14日はどんどん焼きの日であった。どんどん焼きは昔から子供たちの受け持つ正月の仕事になっていたので,この朝は洪作と幸夫が下級生たちを指揮した。子どもたちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り,そこのお飾りを集めた。本当は7日にお飾りを集める昔からのしきたりであったが,この頃はそれを焼くどんどん焼きの当日に集めていた。 
橙を抜き取ってお飾りだけ寄越す家もあれば,橙は保つ論,串柿までつけて渡してくれる家もあった。 
 お飾りは,田圃の一隅に集められ,堆高く積み上げられた。幸夫がそれに火をつけた。 
火勢が強くなると, 
「みんな書初めを投げ込め」 
 幸夫は怒鳴った。子供たちは自分が正月二日に書いた書初めを,次々にその火の中に投げ込んだ。 洪作も幸夫も投げ込んだ。そして,その仕事が終わると,くろもじの枝の先端に付けた小さい団子をその火で焼いて食べる。このどんどん焼きの中で一番楽しい仕事へと移っていった。 
 この日は男の子供も女の子供も一緒だった。1年のうちで,男女の児童たちが一緒になるのは,この1月14日しかなかった。 
      (井上靖著「しろばんば」後編第二章より,新潮文庫刊) 

1月14日が訪れると,若い頃読んだこんな作品の一節が思い出されます。 
大正時代初期の子供たちの生活の様子が,淡々とした筆致ながら生き生きと活写されており,思わず引き込まれてしまいます。 
井上靖の自伝的作品の舞台は,彼が幼少期を過ごした伊豆半島の湯ヶ島が舞台ですが,「どんどん焼き」なる名称は静岡県から山梨県南部にかけてのものらしいです。 
検索をかけてみると,西上州をはじめ関東地方では「どんど焼き」なる呼称のようですが,私のところは「どんと祭」と呼んでいます。 
上記の伊豆地方田方郡との決定的な違いは,神社の境内で堆く積まれた正月用品に火をつけることでしょう。 

私の住まいから車で30分以内のところには,結構な数の神社があります。 
社殿が国宝に指定された八幡宮,当然日光の本社から江戸時代初期に分社した東照宮(門前は宮町,という古式ゆかしい町名),伊達政宗勧請が二社,そして加茂神社と,全国展開している社が散在しています。 
帰宅して夕食を早めにとったまでは良かったのですが,週末疲れでのびてしまい,お参りに出発したのは9時近くでした。 
遅くなったので,もう人出のピークは過ぎた,と判断して国宝指定の八幡宮へ向かったところ,何と渋滞に遭遇。 
つい3年程前までは,この時間帯だと絶対そのようなことはなく,境内の駐車場まで直接車を乗り付けることができたのに,それだけ生活全般が夜型になって来ているということなのでしょうか。 
渋滞にお付き合いするほど気が長くないので,急遽Uターンを敢行。 
家の前を素通りして,北隣の区まで走ること10分。 
こちらも全国区の熊野神社へ。 
全国展開の末社ながら,私の地域でも知る人ぞ知る穴場的存在です。 
駐車場もがらがらで,静かで小さな社殿へお参りし,無事お正月用品を火にくべることができました。 

神道にも,他の宗教同様多くの宗派があるのでしょうし,今の神道のもととなったのが伊勢の度会神道(鎌倉時代に体系化された)とは言え,熊野神社は熊野(和歌山),加茂(賀茂)神社は京都,東照宮は日光(栃木),諏訪神社は諏訪(長野)・・・といったふうに,異なる神様の筈です。 
このあたりを考えないのは,私も含めて不信心・無宗教の典型的日本人だな,という気がします。 
ま,日本の神道は,ギリシャのオリンポスの神々同様,一神教ではなく八百万の神々が鎮座ましますから,これで良いのか,と勝手に納得したりしていますが・・(全然良くない)。


關西紀行-其之伍「南都への道」・・・

2015年01月12日 19時54分54秒 | 旅行,および「鉄」

京都駅の烏丸口(ガメラが破壊したホテルグランヴィア京都の真下)を出ると,駅前のバスプール,京都タワー,そし烏丸通りと駅前の賑わいに,京都の空気をたっぷり感じることができるのだが,今回の目的は洛中ではなく南都だ。
故に北の烏丸口ではなく,南の八条口近くの近鉄乗り場付近で食事をとることにした。
新幹線ホームの真下なのですぐに着くし,近鉄名店街「みやこみち」が便利だ。
但し毎度のことながら,人の多さに閉口する。
京都は何度も行きたくなるし,私如きが百万の駄弁を労しても語り尽くせぬ無尽蔵の魅力を湛えているところだが,如何せんこの人の多さには毎度毎度ため息が出る。
以前から,洛中で最も好きな界隈として,八坂神社から円山公園へ抜けて,大谷祖廟をかすめて八坂の塔の下を通り,高台寺の前から産寧坂へ抜け,松原通から清水坂へ登り清水寺へ至る東山の道が挙げられるが,実はかれこれ6年程行っていない。
理由は唯1つ,上述の通りとにかく人が多いからだ。
特に高台寺界隈は閑静な寺町という雰囲気だったのに,いつの間にやら寧々の道なるものもできており,人力車があちこちに止まり,京都らしからぬ小洒落た店も軒を連ね,かつての情緒は失われつつあった。
同様のことが嵐山界隈にも言えるが,昨年訪れた際はそこまで人出は多くなかったと思う。ま,夕刻だったということもあろうが・・・。


近鉄名店街「みやこみち」はお勧めだ。
手軽に食事を取ることができる店が並んでいるし,京土産もたいがい揃う。
また,地場産品も豊富で,安い土産を数多く買うには便利であることこの上ない。
迷った挙げ句,お昼前に食事を済ませて,3年前に宿泊したホテル近鉄京都駅の前を懐かしく思いながら通過する。
トレインビューの,良いホテルだった。
何よりもアクセスの良さが絶妙であることは言うまでもないし,同じステーションホテルである上述グランヴィアに比べても安い。
そして当時は,開業二ヶ月も経たないうちに泊まったので,ぴかぴかだった。
ま,朝食のビュッフェのメニュー等に注文は付いたが・・・。


京都から奈良へ向かうには,やはり近鉄が便利でリーズナブルだと思う。
特に,日帰り往復+市内バス乗り放題で1,380円は破格値だ。
唯今回は,奈良市内に宿泊するので,かつての京都をベースにした南都行きのような訳にはいかず,3日間で3,000円ちょいで往復+吉野までと市内バス乗り放題・・・というのを検討した。
で,一体何処で買うのか田舎者としては全く分からず,JRでいうみどりの窓口に相当する切符売り場へ並んだ。
多分定期券購入で並んだ人の後に付いたので,およそ場違いな感は否めなかったが,窓口の若い職員は,懇切丁寧に教えてくれた。
3日間奈良にいて,飛鳥に行くとしても現地のバスは含まれておらず,元が取れない可能性が高いということだったので,通常の切符を都度買って十分という結論に達したのだが,さすが過当競争が激しい關西の私鉄である。
昨年の京阪山科駅の職員もそうだったのだが,とにかく一様に親切である。
間違った場所に並んだら,きつい声で咎めてくるJR東京駅の女性職員とは大違いである。また,最終日にJR奈良線の車内で老眼鏡を拾ったので,ホームでかっちりとしたコートに身を包み,パイロットケースを持って歩いていた車掌とおぼしき職員に届けたら,
「ありがとうございます」
と,無機的なひと声が帰ってきただけだった。
何処で拾ったとか,一切聞かず(こっちから心配で言ったくらいだ)面倒な範疇外の仕事が増えた・・・と言わんばかりの態度がありありと分かり,残念な思いをした・・・。
故に,京阪と近鉄は親切。
今回もその思いを強くした・・・。


京都-奈良間は,近鉄が便利。
その考えは今も変わらないが,やはり私鉄に比してJRの料金が高いことが問題だろう。
200円近く違うと,つい近鉄の急行に走ってしまう。
但し,今回は直行便ではなく,大和西大寺で乗り換えることになったのだが・・・。
近鉄のネックは,奈良直通便の少なさと所要時間,そして旅情には程遠いロングシートだろう。
500円出せば,ゆったりとほぼ貸し切り状態の特急に・・・という手もあるが(かつて2度乗った),今回は奈良からの帰途に敢えてJR奈良線のみやこ路快速(下りは大和路快速)を利用した。
東海道本線の新快速に使用した221系なので,転換式クロスシートで4人での旅行には最適だし,ゆっくりビールを飲むこともできた。
近鉄特急利用よりは,300円程安くなる・・・。
ま,どっちを利用するかはTPOに応じて・・・ということだろう・・・。


近鉄8000系,橿原神宮前行きで京都を後にする。

元旦に訪れた東寺(教王護国寺)を探したが分からず,昼食後の眠気もあって大和西大寺の手前の高の原あたりまで完全に意識朦朧で,昨年に伏見桃山通過時に思った城下町の町名や日本酒についても全く考えずにほぼ爆睡。
乗り鉄の友人には勿体ないと言われるのだが,5回目だし悪いけど景色として見るべきものがない・・・と判断したので,京阪との乗換駅である丹波橋付近で,
「何で明治天皇陵は,伏見なんだ・・・。先帝(昭和天皇)は多摩御陵なのに・・・」
などと思った程度だった。
大和西大寺で橿原神宮行きを乗り捨て,同じホームに居た奈良行きに乗り換える。
3年そうだったように,転換式クロスシートの車両を期待したのだが,残念ながら同じ8000系だった・・・。
その3年前に行った広大な平城宮跡を横断し,再現された朱雀門に平城の昔を偲ぶ。
1年ぶりの南都は好天のようだ・・・。


關西紀行-其之四「湖東にて暴走之記」・・・

2015年01月11日 22時23分20秒 | 旅行,および「鉄」

朦朧としているうちに岐阜羽島(政治駅だな)を通過し,関ヶ原山中へと突入する。
名にし負う豪雪地帯で,かつて2度ほど徐行運転に遭い,京都到着が30分以上遅れるという事態に陥ったことがあったが,今回はそれも無くうっすらと積もった雪景色の中を西に進んだ。
いつものことながら,ぼうっとしているうちに湖北平野に下り,米原を通過。
3月末にここで下車して北陸線に乗り換えたことが,遙か昔のようで懐かしい。
湖北平野から琵琶湖東岸を南下するうちに雪が消え,美田が広がる(勿論冬枯れだが)湖南平野への道中は,歴史への追想が次々に去来する。


思えば,古来近江は常に政争の舞台となった。
古くは壬申の乱に於いて,大海人皇子(天武天皇)は大津京(近江京)の弘文天皇(即位したとなったのは,明治期だったような・・・)を攻めた。
下って源平の争乱期には,京を守る木曾義仲軍は,大津市南部の勢多橋を防衛ラインにしたし,その38年後の承久の乱に於いても,後鳥羽上皇軍は同様だった。
戦国期というか,織豊政権期には,観音寺城攻防戦(織田信長vs六角承偵),姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉),横山城攻防戦(羽柴秀吉vs浅井長政),信長による叡山焼き討ち,そして関ヶ原の局地戦とも言うべき大津城攻防戦(京極高次vs毛利元康・小早川秀包・立花宗茂)・・・と,思いつくだけでもこれだけある。
東国から西上する際に必ず通るのが近江故に,天下人は必ず近江を欲したし,信長が安土に,そして信長の被官時代の秀吉が長浜に,石田三成が佐和山に居城したのも納得がいく(秀吉と三成は所領だつたからだろうが・・・)。
また,大坂冬の陣に於いて,軍師の真田幸村が立てた作戦は,瀬田の唐橋にて第一防衛戦を引いて時間を稼ぎ,次いで南ががら空きなので守りにくい京都に東軍を誘引して叩くというものだった。
尤も,これは父昌幸が紀州九度山に蟄居してから考えついた策を伝授したものだそうで,昌幸はその臨終の際に幸村にそれを授けたらしい。
そして,軍略家として名を成した(二度に亘って上田城で徳川軍を撃破した)自分ならともかく,当時は父に隠れて無名の幸村がこの作戦を提案しても,諸将に認められないだろう・・・と危惧した。
そして,実際その通りになるのだが,もしこの作戦が遂行されれば,大坂城はあのようなことにはならなかったかもしれない。
この発案を却下したのは,大野修理だったか淀君だったか忘れたが,東軍が大坂に至るまでに疲弊したのは間違い無いし,幸村は得意の草の者(忍者)を使って,奈良街道での家康襲撃まで考えていたというから,歴史の必然は家康に味方したということか・・・。


・・・そんなことを考えているうちに,偶然佐和山城跡を発見した。
近江鉄道と北国街道(R8)と交差した直後だったと思う。
今まで全く気付かなかった。
彦根の市街地の真東に当たり,中腹に佐和山城跡の表示があったので気付いた。
上記の通り,石田三成の居城であり,関ヶ原の掃討戦として,三成の父正継や兄信澄,妻の皎月院の父宇多頼忠・弟の同頼重らが,裏切り者の汚名をそそがんとした小早川秀秋を中心とした東軍に対して,奮戦虚しく自害して落城。
女性たちは,裏の谷に身を投げた・・・という悲話も伝わる。
参議院議員の石田昌宏(公示は石田まさひろ,自民党)は,この信澄の子孫という・・・。関ヶ原の後,この地に封じられたのは,徳川四天王の1人井伊直政であった。
直政は佐和山城を廃し,湖岸に広大な水城とも言うべき大掛かりな築城を行う。
これが現存する彦根城である。
その子孫に,大老井伊直弼が居たのは周知の通りだ。


そして,いつも湖東平野を南下する際に,信長が築城した安土山と,羽柴秀次が築城した近江八幡城を探すのだが,今回は携帯の地図を開きながら,何とか見当を付けた。
そして,俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)による百足退治の伝説で知られる近江富士三上山が,すり鉢を伏せたような形で現れ,野洲川を渡って旧東海道(R1)と合流すると,湖南平野となる。
因みに,この秀郷の子孫は,全国各地に広がって繁栄した。
今でも藤の付く苗字の家は,この俵藤太秀郷(藤原秀郷)の子孫と言っても良いと思う。
佐藤(野州佐野の藤原),加藤(加賀の藤原),近藤(近江),遠藤(遠江),斎藤(太政官制の斎宮頭から。厳密には秀郷室の祖父,鎮守府将軍利仁-芥川龍之介の「芋がゆ」に登場-の子孫と言うべきか。加藤氏も同様)・・・といった具合である。
また,近江出身の氏族として最も有名なのは,何と言っても宇多源氏(近江源氏,佐々木源氏とも)の佐々木氏の一族だろう。
それについては,昨年述べたので,それを引用したい。


宇多天皇の末裔が,佐々木氏を名乗り,鎌倉期以降は,各地に広がった。
元々は,南近江の蒲生郡の出自らしいが,何と言っても,保元平治の乱を戦い抜いた佐々木源三秀義の功が大きいと思う。
宇治川の先陣争いをした佐々木四郎高綱の父と言えば,ああそうか・・・という方もおられよう・・・。
この秀義,平治の乱の後,どうやら東国に逃れ,舅である相模の渋谷重国の元に在ったらしい。
頼朝の挙兵に際し,太郎定綱,次郎広高,三郎盛綱,四郎高綱の四兄弟を遣わしており,自身は,平氏方の大庭景親(保元平治の戦いでは,義朝に付いた)に義理立てした舅の手前,五男の義清とともに相模に留まり,後に改めて頼朝に臣従した。
源平の戦いに功があった四兄弟は,それぞれ官位を得たが,承久の乱においては,京に近いことからか,後鳥羽上皇方に一族の多くが荷担し,それによって各地の守護職を失い,近江の宗家が残ることとなる。
秀義-定綱-信綱と続くわけだが,信綱の子である泰綱と氏信がそれぞれ六角氏と京極氏を興すことになる。
六角氏は,京の六角堂から発祥だろうし,京極氏の発祥については,以前述べた。
京の極み-即ち,京洛の外れ・・・といった意味であろう。
この系統からは,多分男として最高の人生を送ったと思われる佐々木(京極)高氏(導誉)が出た。
そして,箱根竹ノ下の戦いで,足利方に寝返った導誉は,幕府の要職を務め,京極氏は繁栄する。
また,秀義五男の義清は,承久の乱の功によって,出雲・隠岐の守護となり,子孫は同地に栄えた。
後世の長州藩士前原一誠(萩の乱の首謀者)や乃木希典は,その子孫と言われる。
松江市内に乃木駅があるが,多分このあたりが発祥の地なのだろう・・・。
ついでに述べれば,後に山陰の覇者となる尼子氏も近江源氏であり,黒田氏もそうではないかと言われた・・・。


・・・ということで,余計なことを考えているうちに,あっという間に大津市内が見え,一瞬琵琶湖が見えたと思ったら,あっという間に瀬田川を渡り,音羽山の真下をくぐって京の東の玄関とも言うべき山科盆地へと滑り込む。
一瞬ではあるが,湖都大津を遠望する瀬田付近のループは,割と味気ない新幹線の車窓でも白眉であると思う。
謎に包まれた近江京(大津京)以来,幾度となく血生臭い歴史の渦に苛まれた大津の街であるが,湖を控えたその風光は底抜けに明るい。
それが故に,こうして近江路に惹かれる訳だし,旅情を感じることにもなるのだが・・・。
そして,東海道線が眼下に見えた・・・と思った直後に鴨川を渡る。
1年ぶりの上洛は,こうして成った・・・。

 

今日も画像無しで終了・・・というかやはり大暴走。
もう止まりません。
明日は南都に辿り着けるでしょうか・・・。


關西紀行-其之参「東海・中京暴走の記」・・・

2015年01月10日 22時36分29秒 | 旅行,および「鉄」
昨日は飲んで帰宅したので,予想通り書くことができずに轟沈してしまいました。
今日の分は,今のところ濃厚根多が無いので,すんなり行くと思われますが,いつ何時暴走が始まるか,全く見当が付きません・・・。
取り敢えず,早いところ東海道中を終えて,奈良街道に入らないと・・・。
 
 
湯河原温泉を一瞥して,熱海温泉をその1.5倍程かすめて,新丹那トンネルに入ると,新幹線の車窓は,当然のことながら全く何も見えなくなる。
トンネルを出ると三島~沼津という文豪井上靖所縁の地となるし,南には伊豆半島が伸びているのだが,眠気と酔いで完全に意識がもうろうとしていた。
どうせ富士山見えないし,車窓の風景も冴えないので,富士川を渡河した段階で目をつぶり,意識を失う・・・。
静岡を過ぎて安倍川を渡るときも気がついたが,大井川と天竜川は,全く気がつかなかった。
目が覚めたのは,その天竜川を渡った直後だと思う。
天気もかなり回復してきたので,浜名湖でも愛でるか・・・と思ったからでもある。
一瞬川か・・・と思うと,眼下にすぐ東海道線の弁天島駅が見えて,次の瞬間視界が開けて湖面がはっきり分かる。
そして競艇場が見えると,すぐに東海道線新居町駅が見えて,一瞬のうちに浜名湖は,背後に飛んでいく・・・。
古代の人々は,琵琶湖を近い海-近江(おうみ)とし,この浜名湖を遠い海-遠江(とおとうみ)とした。
遠い海の東は駿河であり,さらに東には殆どの者が見知らぬ東国が広がっていた訳である
から,当時(7世紀後半?)の人々の地理感は,せいぜいこの辺りまでであったと想像される。
現在の静岡市郊外で草薙の剣を手に入れ,走水の海(東京湾)を渡った日本武尊の話が載っている「古事記」が書かれたのは,もっと後の8世紀のことだ・・・。
草薙の剣・・・と言えば,静岡市郊外に草薙球場(正しくは,静岡県草薙総合運動場硬式野球場)があって,巨人戦が行われたり,パリーグの東西対抗戦が行われたりしたと記憶しているが,戦前に沢村栄治がベーブ・ルースを三振に仕留めたのもこの球場である。
因みに,我が楽天イーグルスは,必ずオープン戦を1試合,ここで行ってきた。
今年は,どういう日程なのか分からないが・・・。
 
 
遠州から参州へ入り,かつて吉田といった豊橋を過ぎると,三河湾がぐっと近くなる。
この辺りは,中世において鎌倉期は足利氏が守護を務めたので,その氏族が多く輩出した。現在も地名を残す吉良(忠臣蔵のあの人の一族)を筆頭に,細川(岡崎市),今川(西尾市),仁木(岡崎市)といった具合である。
そして,室町時代には,西三河の丘陵地帯より松平氏が興った。
やがて岡崎城を本拠として,三河湾沿いの幡豆郡に進出し,戦国大名として成長していく訳だが,周知の通り尾張の織田氏,そして駿河から遠江の今川氏に挟まれ,苦しい思いをし,ようやく桶狭間の戦いの後に父祖以来の岡崎城を手にしたのが松平元康-即ち,徳川家康である。
家康が源氏を称したのはこの時期からと思われる。
しかも,足利氏ではなく先祖を同一とする(源義家の次子義国)新田氏を称した。
義国の長子義重は,上野国(現群馬県)の渡良瀬川と利根川の間の広大な笠懸野を開墾し,郡名である新田荘司を称したが,その弟義季(よしすえ)は徳川郷(現太田市徳川町)を領し得河四郎を称した。
その子孫に連なる伝説的な系図を家康は作り上げたのである。
あくまでも私考に過ぎないが,西三河は足利氏の基盤であったが故に,家康は敢えてライバルたる新田氏を称したのではないかと思われる・・・。
 
 
・・・そんなあらぬ事を思っているうちに,久々の,そして新横浜と共に京都までの数少ない停車駅である名古屋へ滑り込む。
ここ数年の名古屋駅前は,トヨタの本社ビルができて,これまでにない活気を示しているという。
そういえば,ここ数年のうちに,中京工業地帯の工業生産額が,京浜工業地帯のそれを圧倒的に上回るという事態も起きている。
3年前,鈴鹿サーキットへ向かう際に,名古屋湾沿いをバスで走る機会を得たが,灰色の無機的な工業地帯が延々と続いていた。
もはや東京に一極集中の時代は終わりを告げた・・・ということだろうか・・・。
 
 
名古屋でようやく天気が回復し,日が差し始めた。
そうした中で,昨年3月にも確認した清洲城の天守を見つけたが(名誉城主は織田信成くんだそうだ),五条川を挟んで北側の清洲公園が本来の城趾となる(地図上の表記は,清洲古城跡)。
現在の天守は,当時を想像した模擬天守であり,位置も異なっている。
東海道線と新幹線によって分断されたということも有るだろうが,こういうのって果たしてどうなのか,極めて疑問である。
京都の桃山城も,秀吉とは何の関係もない観光城だし,せっかくの信長の出世城をもっと正しく再現できなかったものだろうか・・・。
ま,名古屋城だって戦後のRC造りだろうけど,我が県の白石城のように当時の姿を克明に再現という意図で,工法も当時に倣ったという例もあるのだから・・・。
 
 
尾張から美濃へ向かう際に,濃尾平野の3河川(木曽川,長良川,揖斐川)を渡るのだが,ぼうっと見ていた。
長良川を遡ると,金華山頂の岐阜城のすぐ下に至り,沿岸は長良川温泉となっていた筈だが,岐阜の街自体,20代の頃からすっかりご無沙汰である。
斎藤道三や信長所縁の常在寺や山裾の伊奈波明神なんて,良い雰囲気であったことが思い出される。
私のような男にとって(謎),岐阜と言えばJR駅の南側一帯が有名なのだが,入ったことは勿論,行ったことすら無い・・・。
ま,先程ストリートビューで見ては来たのだが・・・(笑)。
 
 
 
・・・と,怪しげな内容となったところで,根多が無かったにもかかわらず,またしても画像なしで暴走しちゃいました・・・。
殆ど病気の域ですね・・・。
ようやく岐阜で,明日は関ヶ原を抜けて江州へと向かうことになります・・・。
関ヶ原で大暴走・・・とはならないことを断言しますが,果たして如何なることになるでしょう・・・。

關西紀行-其之弐「石橋山古戦録」・・・

2015年01月08日 22時39分00秒 | 旅行,および「鉄」
昨日は,予想通り暴走してしまいました・・・(滝汗)。
でもって,早いところ關西まで辿り着きたいのですが,今日も根多が控えております(迷惑!!)。
なので,果たして如何なることになるのか,全く見当が付きません。
もし,またしても暴走するようでしたら,しょーもねーなーと,広い心で看過していただけると有難いです・・・。
 
 
小田原駅を過ぎると,信玄も謙信も攻め倦んだ小田原城を掠め,新幹線は石橋山山中に突入する。
治承4(1180)年8月の石橋山合戦の地だ。
伊豆国韮山郷に挙兵した頼朝軍は,国府の三島を押さえ,相模へ東進するが,大庭三郎景親の率いる大軍と,東伊豆から北上する伊東入道祐親軍に挟撃される形となり,一敗地に塗れた。
はっきり言って,この沿線は新幹線より東海道線の方が圧倒的に景色が良く,真鶴岬までの絶景を楽しむことができるし,西湘バイパスからR35なんか絶景と思うのだが,新幹線ではそれもままならない。
したがって,後は自分勝手な追想と感情移入しかない・・・。
 
 
小田原を過ぎて,最初に渡るのが早川であるが,この地で逝った若者について,歴史は多くを語らない・・・。
上述の石橋山合戦の時のことだ。
彼の名は,北条三郎宗時。
鎌倉幕府初代執権北条三郎時政は彼の父であり,第二代執権江間小四郎義時は彼の弟,そして頼朝夫人政子は彼の妹にあたる。
 
 
そもそも頼朝軍にとって,石橋山の誤算は降り続く雨にあった。
酒匂川が氾濫し,大軍を擁した相模の三浦一族が東岸に足止めを喰ったからである。
敗色が濃厚になった頃,頼朝は腹心の一人とも言うべき宗時を呼び,三浦への伝令を命ずる。
石橋山を下り,早川口へ向かった宗時だが,運の悪いことに平氏方の伊豆東部の豪族伊東祐親軍と遭遇してしまう。
壮絶な斬り合いの果てに宗時主従は全滅する。
まだ十代の少年である弟に将来を託して・・。
 
 
頼朝の挙兵は,高倉宮以仁王の綸旨を掲げたものだが,焚きつけたのは伊豆・相模を中心とする板東の武者たちだ。
土肥次郎実平,狩野介茂光(石橋山で自害),三浦介義澄,加藤次郎景廉,佐々木太郎宗綱を頭とする佐々木四兄弟(末弟の四郎高綱が宇治川の先陣争いで有名)等々,保元・平治の戦いにも参戦した古強者(敵対した大庭景親は,平治の戦いでは,頼朝父義朝に従っていた・兄の大庭平太景能は頼朝に与力した)から若い世代までが,世捨て人同然の頼朝に板東の独立と,知行国制の廃止を勧めたであろうことは想像に難くない。
その中でも,頼朝の義兄とも言うべき宗時は,平治の合戦を知らない第二世代を代表する存在だったと考えられる・・・。
その嫡男を失った北条時政の苦衷は,察するにあまりある・・・。
 
 
・・・などということを,寝ぼけ眼で考えていた・・・。
周知の通り,頼朝は石橋山山中に難を逃れ,真鶴岬から小舟を駆って相模湾を横切り,安房まで逃げ延び,やがて再起に成功して大軍と共に鎌倉に入って兵士と戦う体制を整えるのであるが,それを案内したのは,現在の東海道本線湯河原駅周辺を本拠地とした土肥次郎実平であったことは間違い無かろう。
石橋山山中は,何と言っても地の利のある実平にとって庭のようなものだったことだろう。そして,その実平の後を継いだ小太郎遠平は,早川荘に住したことから早川小太郎を称し,その子孫は代々小早川氏を名乗った(早川小太郎の子だから小早川・・・ということなのだろう・・・)。
安芸国沼田(ぬた)荘,竹原荘を領有して,戦国期に毛利氏に併呑された小早川氏の先祖は,平治合戦以来の歴戦の武者,土肥実平だったのである・・・。
そして,さらに余計なことを言うと,小早川氏を併呑した毛利氏は,実平と同じく鎌倉幕府創設期の官僚(政所別当)だった大江広元の四男である季光から起こった。
季光が,相模国愛甲郡毛利(もり)荘(現厚木市)を父から相伝したことから,子孫は毛利氏を称し,安芸国吉田荘(現安芸高田市)を領有し(地頭職か?)戦国時代へ至る。
厚木市の地図を繙いてみると,厚木市立毛利台小学校,南毛利小学校,森の里小学校・中学校,森の里団地,毛利台団地等に,その面影をかすかに見て取ることができる。
その北東に,毛利青果店なるものがあるが,関係があるのかもしれない・・・。
中国地方の戦国大名は,関東がルーツだった。
これもまた歴史の妙というか,守護領国制の生んだ必然といえるのだろうか・・・。
大江氏の先祖は,平城天皇まで遡ると言われる。
百人一首にも歌が有る大江匡房もその系統である。
板東の御家人が他国へ分布した例は,我が県でも千葉氏(平姓)の一族である国分氏や,伊沢氏(藤姓)を祖とする留守氏等が挙げられる。
調べてみると幾らでも出て来る・・・。
 
 
・・・と,書いたところで,ほぼワープロ2ページを超えました。
予想通り,否予想以上の暴走です。
おまけに,神奈川県西部から一歩も西上していないし,画像も無いという・・・。
一体完結するのか・・・というか,上洛できるのでしょうか・・・。
・・・ということで,明日続きを書くことができると良いのですが・・・。
 

關西紀行-其之壱「乗り鉄」・・・

2015年01月07日 20時50分23秒 | 旅行,および「鉄」

大和は国のまほろば・・・。
「古事記」にある大和武尊の言葉である。
東征の帰途,伊吹山で病を得た日本武尊は,大和を前にした鈴鹿峠で力尽き,その魂魄は白鳥に身を変え,西へ,大和の方角へと飛び去ったという。
その大和を訪れるのは,昨年以来通算10回目となるわけだが(高校の修学旅行が最初で,職場の旅行と出張も含む),泊まるとなると,丁度20年前に出張で訪れて以来となる。
特に,我が国の古代律令制国家が始まった地を見せておきたい・・・という意図での計画であったが,その目的は十分果たせた反面,大和朝廷の中央支配から聖徳太子と蘇我氏の時代を経て,古代律令制国家の成立という我が国の一大エポックに対して,私以外がなかなか関心を高めてくれなかったという残念な面も残ってしまった・・・。
ま,これも毎度のことではあるのだが・・・。
・・・ということで,帰郷後一週間を経た本日より,記録を留めておきたいと思い,こうしてキーを叩いている。
昨年同時期の關西行をまとめた文章は,完全に私の意識が暴走し,客観性が犠牲となった結果,紀行文とは大きく乖離したものが残ってしまったが,今回は果たしてどうなるだろう・・・。
・・・というより,果たして続けることができるのだろうか・・・。
最近,若くないせいかとにかく持続力や集中力が著しく減退し,物事が長続きしなくなる傾向にある故・・・。
ま,とにかく始めてみよう・・・。


今年もあと3日という12月29日(月),朝4時半に起きて,慌ただしく朝食を済ませ,5時41分発というローカル線の始発(交流型電車E721系)に乗る。
勿論夜は明けていないし,雪もちらついていた。
ここ一週間で,数回も列車の運休や遅れが出るというローカル線だけに,メール登録しているアラート情報が気になったが,この日に限ってそれが無かったのは幸運であった。
何せ動物(熊や猿,羚羊)で止まり,落ち葉で止まり,雪で停電し(8時間缶詰),強風で止まるという極めて脆弱な路線だけに,ひやひやもんだった・・・。
6系車内
敢えて始発を外して,新しいE5系新幹線への乗り換えは20分程の余裕があったので,ビールとハイボール,さらに酒肴を買い(早朝から酒買って飲んでるのは私だけだった),連結されている最新のE6系(所謂赤いこまち)の車内を見て,E5系最後尾のグランクラスを見学しているとき,小さな問題が起こった。

写真を撮るなと言われ,外から見るように年配の乗務員に言われたので,そそくさとだれも居ないグランクラスを後にした。
ま,私のような庶民にとって,最上級のグランクラスなど夢のまた夢なのでもっと見たかったが致し方ない・・・。



仙台を定刻に発車。
あっという間に仙台平野を縦断し,蔵王も見えぬまま雪の白石盆地を抜け,信夫盆地へ入る。
福島は,辺り一面の雪である。
時折吹雪くようで吾妻は見えず,安達ヶ原に入っても安達太良は見えず,安積盆地も雪だった。
福島県南部から栃木県に入ると,雪は止んだが当然那須の連山は見えない。
天気が良いと,宇都宮が近づくにつれて日光連山が見えるし,去年なんか小山の手前から富士山が(反対側の車窓からは,逆行の筑波山が)見えたのだが・・・。
こんな天気の悪い上京は,一体いつ以来だろう・・・。
このやまびこは,いつも宇都宮から混み出す。
所謂通勤新幹線というやつだろうが,今回は帰省客で満員になったと考えられる。
大宮が近づくにつれ,周囲の風景は田園の中に散財する近郊型住宅地から,無機的なビル街へと変わっていくのであるが,それも悪くないと思う。
私のような典型的な東北人にとって,都会に来たと思える瞬間であり,初めて東北本線を南下した中学校の修学旅行(東北新幹線開通以前)以来,何となく心ときめくものを感じてきた。
そういえば,かつて在来線を南下した際は,電車の電源が切り替わる黒磯駅で,115系等の直流型電車を見たときは,都会に来たことを痛感したものだった。
濃緑色と橙のツートンカラーの所謂湘南カラーの直流型電車は,私にとって都会の象徴であった・・・。
大宮では,子どもにかのロケットビルを探させた。
遠目にもよく見えるので,すぐ分かる。
中には,居酒屋とカラオケ屋が有るらしいが,湾曲した壁に置く家具を置くのが大変だろう・・・。
ロッテの浦和球場が見えると,すぐに荒川を渡り上京となる。
西の方に高島平の巨大団地群が見えたと思うと,すぐに山の手方向は上野や谷中から続く丘陵地帯となる。
対する東側が所謂下町となり,隅田川畔の浅草辺りがその端となるのだろう・・・。
桜の名所である飛鳥山を過ぎ,谷中から続く墓園や寺域を見て,鶯谷駅を通過すると,新幹線は地下へと滑り込んでいく。
考えてみたら,82年の開業時,東北新幹線は大宮-盛岡間のみであった。
東京-大宮間は,新幹線リレー号と称して,前年から伊東線で特急踊り子号として使用されていた185系電車を転用して使っていた。
上野まで延伸するのに3年を要し,東京駅まで開通したのは,そこからさらに6年後のことだったと記憶している。
次代の徒花とも言うべき新幹線リレー号は,9年でその役目を終えた。
九州新幹線のリレーつばめ(博多-新八代間。私の好きな787系)が,7年もの命脈を保ったのと似ている。


東京駅では約20分で,N700系のぞみにトランジット。
この辺りから,前夜の睡眠不足が露呈し始め,酒を飲む気力すら無くなってきた。
何せ,旅行の準備をして,子どもを寝かしつけた後,一杯やりながら全日本フィギュア女子FSを見てしまったので,睡眠時間は3時間半。
朝っぱらから飲ったヱビスビールと角ハイボールの酔いもあって,曇天で山稜しか確認できない丹沢や足柄を遠目に見つつ,完全に意識が朦朧としてきた・・・。


・・・ということで,今回も初回から大暴走です。
關西行の筈なのに,まだ神奈川県までしか至っておりません。
天気が悪い東北新幹線と,半分寝ていた東海道新幹線なので,一切カットして京都到着から始めようと思ったのですが,書いているうちについつい鉄根多に走ってしまい,一体いつ關西に入るのか,全く見当がつきません・・・。
さらに次回は,東海道沿線根多が有るし・・・。
果たして明日はどうなるのでしょう・・・。
それより,早くmixiと顔本に画像をうpしないと・・・。

 


「花燃ゆ」-第1回:人むすぶ妹

2015年01月05日 22時16分37秒 | TV&エンターティメント

昨日,18時からBSプレミアムを録画したのは良いのですが,ようやく先程見終えました。
幕末維新ものは,一昨年の「八重の桜」以来。
長州藩が舞台となると,1977(昭和52)年の「花神」以来ではないでしょうか・・・。
「毛利元就」(07)や「義経」(05),はたまた「龍馬伝」(10)あたりでも,山口市や下関市が舞台となることは有ったでしょうけど・・・。


それにしても,「八重の桜」もそうでしたが,随分と地味な人物を採り上げた・・・という感は否めません。
私の知識は,そういえば松陰の妹は確かに久坂玄瑞の奥さんだったな・・・という程度でして,不覚にも小田村伊之助って誰・・・と思っていたら,何と維新政府の官僚楫取素彦(かとりもとひこ)のことだったのですね。
根多ばれですけど,文の再嫁した相手です・・・。


萩を訪れたのは,かれこれ20年以上昔の独身の頃でしたが,海に突き出た指月城や今も建物が現存する松下村塾跡,確か明倫小学校となっていた萩明倫館跡(我が仙台藩の藩校は正式名称明倫養賢堂で,通常は養賢堂と呼ばれますが,明倫館とも呼ばれたそうです),そして桂や高杉といった維新回天の中核を担った武士たちの屋敷跡等を足早に回って,その日のうちに山口へ向かったことを記憶しています(山口には,何と毛利敬親の銅像がありました)。
特に,当時の様子を色濃く残した武家屋敷群(知覧や金沢も有名ですが)に惹かれるものがありました。
こうした街にて,松陰の門下生たちは短い青春を過ごしたのか・・・という感慨が自然に湧き上がりました・・・。


但し,庄内藩領に生まれ,仙台藩領に育った私としては,世良修蔵が仙台でやらかした一件や,会津戦争後の西軍(会津藩領で,迂闊にも官軍と言ったら,ここでは西軍と呼ぶのですと,穏やかに窘められました-確かにその通りです)が会津藩に対して行った仕打ちもあって,明治期の薩長の業績を素直に認めたくない頑迷さを有していますので,以下の文章は,もしかすると西日本在住の方には,甚だ不愉快なものとなるかもしれないことを,予めお断りしておきます。
そういう意味でも,東北人(というか私同様蝦夷と言うべきでしょうか)の血が流れているのに長州系という現首相って・・・と思ったりするのですが・・・(安倍晋三首相は,前九年の役の後に伊予に配流された-後に筑紫に移ったらしい-安倍宗任-首謀者の貞任弟-の子孫を称しているそうなので・・・)。


ま,第一回目なので,これだけで出来を云々するのはどうかと思うのですが,う~ん・・・評価が難しい。
冒頭の砲術訓練の場など,果たしてあれだけ大掛かりな大筒を連発できるのか・・・という疑問がありましたし,寅次郎が遊学した長崎の風物もあそこまでエキゾチックだったでしょうか・・・(開国以前に,西洋人が大手振って歩いたのは,出島の中だけでは・・・?)あとはグラバー邸(正しくはグラバー園か)が写ってしまっては,完全に考証不足・・・となってしまいます。
あとは,あの禁書だったという「海防臆測」ですが,寅次郎と伊之助が持っていたという事実はどうなのでしょう。
「海防臆測」は,寡聞にも江戸末期の幕府の儒学者であり昌平坂学問所(東大の前身)の教授だった古賀侗庵の著ということ以外知りませんが,「甲陽軍鑑」(甲州武田家の信玄流軍学書)の字でカモフラージュしてあったあたり,思わず笑ってしまいました・・・。
勿論,寅次郎は,年は若くても当代随一の軍学者だったでしょうから,持っていたり目を通していたりした可能性は有るとは思いますが・・・。


中心となる役者さんたちは,皆達者だったと思います。
寅次郎役の伊勢谷さんも,伊之助役の大沢さんも髷が似合っていたし,存在感もあったと思います。
77年の「花神」のイメージが未だに残っている私としては,寅次郎-篠田三郎,高杉-中村雅俊というのが離れないのですが,伊勢谷さんの寅次郎は文弱な感じがしなくて,逆に良かったような気がします。
また,子役二人も上手でしたね。
文役の山田萌々香さんも,その弟役の物言わぬ演技だった山田瑛留くんも良かったと思います。
唯,わりとお転婆系のヒロインが多い大河にあって,寡黙な性格をどこまで描き出せるかが鍵となりそうです。
その辺りは,来週ご登場の井上真央嬢に託すことになるでしょうが・・・。
一瞬出てきた義助(玄瑞)役の東出くん,何かと話題の人ですが,う~ん・・・どうでしょう・・・。
激烈な尊攘思想の持ち主にして長州の火薬庫,そして松陰門下一の秀才で切れ者,しかもイケメンというイメージですが(尤も,禁門の政変の軍事暴発には反対であったと言われているようです),どうかな・・合うかな・・・といったところです・・・。
吉田稔麿(としまろ)とか入江九一,寺島忠三郎・・・といった松陰門下の俊才たちが,キャラが立たないで埋もれていくことのないような脚本と演出を期待したいと思います。
そうそう,殿様役の北大路さんはさすがの貫禄と存在感でした。
でも「そうせいそうせい」を連発して(今日も一回言いました)「そうせい候」と揶揄された毛利敬親は名君だったのでしょうか・・・。
薩摩の島津久光と共に,家来に担ぎ上げられたまま維新にゴール・・・という感じだと思うのですが・・・。


最後に,何とナレーターは,私が尊敬し奉る池田秀一さんでした。
「ナルニア国物語」のライオン役では,すっかりシャアの声そのものでしたが(笑),抑揚の効いた美声で,シャアの面影は微塵もありませんでした。
「冗談ではない!」
とか,
「認めたくないものだな・・・」
などと言うはずもなく(当たり前だ),唯々感服でした。
川井憲次さんの音楽に関しては,次回述べられれば・・・と思います。
個人的には,サウンドトラックのCDを買ってしまった劇場版「機動警察パトレイバー2」のOPなんか,最高に格好良い音楽の1つ・・・と,思ってきました・・・。


Chaconne・・・

2014年10月27日 23時23分42秒 | 音楽

昨日の過酷な練習の2曲目がこれだった。
ヴァイオリンのためのパルティータ第2番~シャコンヌニ短調(J.S.バッハ)。
原曲以外だと,ブゾーニが編曲したピアノ版が有名なほか,指揮者のストコフスキーや斎藤秀雄が編曲したオケ版も知られる。
コンサートバンド版が有るとは,迂闊にも実際に楽譜を前にするまで知らなかったが,久々にアレンジものを演奏して血が騒ぐのを禁じ得なかった。
シャコンヌとは,三拍子を基調とした舞曲風変奏曲のことで,パッサカリアと同義らしいが,さすがに「音楽の母」の手になるものだけに,緊密な網の目のような書法と格調高い様式感が感じられ,私のような素人を有無を言わせず納得させる絶大な説得力を持つ。
ゴシック建築のような質実にして巨大な建造物のようなイメージと中間部の聖母マリアの救済を思わせるような対比感,そして主題が回帰する終結部の劇的な展開(体力的に果てそうになった・・・)。
バッハの楽曲には神の声が宿る・・・と聞いたことがあるが,必死で譜を追いながらも心中にゆるやかな感動が徐々に広がりゆくのを感じることができたのは,一体いつ以来だろうか・・・。
私のパート譜は,指揮の先生による独自の改変が多数書き込まれているので,この演奏とは微妙に違うのだが(ライブだが,正直あまり巧いとは思われない・・・。人のこと言えないが・・・),次の練習までの二週間,必死でさらわないと・・・。
神の声が聞こえる演奏を・・・と,大それたことは考えないが,ドイツバロック特有の深く高貴な精神性のようなものを感じさせるような演奏を目指したいものだ・・・。
それにしても,対位法や古代旋法を多く取り入れ,古典回帰を提唱したブラームスがこの曲を編曲したら,どうなっただろう・・・。
そのブラームスのピアノ四重奏曲を編曲したシェーンベルクによる編曲も聴いてみたいような気がする・・・。
Chaconne from Partita No.2 in D minor arr. Larry Daehn - AudioImage Wind Ensemble  


抜かずの剣こそ,平和の誇り・・・

2014年07月21日 22時40分53秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

久々に組んだものを忘れていました。
航空自衛隊制空戦闘機F15Jイーグル。
百里基地第305航空隊所属機。
305SQのF15は,以前も組みましたが,同様に広い主翼全面にわたって,茨城県花である梅が遇われています。


20世紀後半を席巻した史上最強の鷲と言われたF15。
その性能は,実戦で未だに1機も撃墜されていないという現実からも証明できます。
湾岸・イラク戦争や未だに戦火の絶えないガザ地区での戦闘がそれでしょうが,米空軍の主力がF22ラプター(猛禽類の意)に,空自の主力機がF35Jライトニング(電光)IIとなっても,支援戦闘機としてまだまだ現役で居ることでしょう。
日本は,米国に次ぐF15保有国となっていますし・・・(200機以上ある)。


願わくは,Su29だのF15Kだのとやり合うことなく,その使命を終えて欲しいものです。
抜かずの剣こそ,平和の誇りです故・・・。
 


二代目・・・

2014年06月30日 22時25分16秒 | コンピュータとインターネット

本日使用中に2度フリーズ。
電池の保ちも極めて悪く,外でアプリを起動すると,あっという間に電圧が落ちる。
FBやmixiなどを開いて操作したり,カメラを繰っていたりすると,それこそ半日でアウトだろう。
ま,これは,補助電源さえ持っていれば問題ないのだが,肝心な時にフリーズして,そのま都度バックパネルを外して,リチウムイオン電池を出し入れするのもかったるい。
したがって,かって丸2年使用した携帯を新調することに決定。
で,仕事帰りに携帯ショップに乗り付けようとしたら,駐車場は満車。
中を覗くと,順番待ちが2~3人。
即刻止めて,隣町のショップに・・・と思ったが,ほど遠からぬ家電量販店(Y△M△D△電機)へ向かう。
11年前,開店当初はいつも駐車場は満車だったのに,最近は車もまばらで,ゆっくり買い物ができるようになった。
案の定,平日の携帯売り場には誰も客が無く,契約5分,端末設定10分,データバックアップと移行にちょい手間取って15分。
契約も説明もタブレットに画面タッチで終わるというクイックさ。
いちいち契約書を書いていたのが嘘みたいだ。


AQUOS Phone304SH。
I-Phone5Cにするか迷ったのだが,やはり使い慣れたAndoroidにした。
cpuは,前の106SHがデュアルコアだったのに対し,クアッドコアとなり,各種スペックも上がった。
そして月別本体料金が1/3なので,今までより安く使えそうだ。
今からメール・フォルダの設定と振り分け,mixiとFBのアカウント設定等の作業をしなくては・・・。
慣れるまで,とにかくいろいろといじってみるしかないな・・・。


・・・ということで,スマホ2代目となった。
初代は,いろいろと大変な時期に使用し,北陸に2度行き,京都と東京にも行った。
常に共にあった携帯への思い入れは少なくない・・・。
今まで本当にありがとう。
今からは,フラッシュメモリーとして,或いはwebの端末として,第2の人生を全うしてくれ・・・。
 


「風立ちぬ」・・・

2014年06月22日 22時27分52秒 | TV&エンターティメント

封切られた去年の夏,これは何としても見ずば・・・と思って,単身映画館に赴いて,10年ぶりに封切りを・・・とも考えたのですが,これは内容的にも家族に見せておきたい・・・と考え,レンタル解禁を待って,週末にショップに走り,ラスト2枚というところでゲット。
残念ながらBDはすべてレンタル中でしたので,DVDでの視聴となりました。


木村秀政(1904-86),土井武夫(1904-96)と並ぶ航空工学の権威である堀越二郎博士(1904-82)については,中学生の頃,航空評論家の佐貫亦男氏(1908-97)の著作で読みました。
何せ,当時はご存命でしたので,私としては,つい最近の方という印象を拭えません。
ですから,我が国が世界に誇る偉大なる零式艦上戦闘機(と九六艦戦,雷電,烈風)の設計者としては勿論,戦後国産旅客機のYS11(屋久島便に乗ったのは,貴重な体験でした)の設計者として,航空界の大物である堀越氏の半生をどのように描くか,興味津々でした。
原作は,私の愛読書の1つである「モデルグラフィックス」誌に連載されていたもので,幾つかの類似共通点が垣間見られる「紅の豚」と被ります(原題は「飛行艇時代」。数年前入手)。
尤も,MG誌では,登場人物が擬人化された動物だったのですが・・・。
でもって,土曜の夜,子どもを寝かしつけて,ビールとワイン,日本酒を冷やしておいて,ビールを開栓と同時に視聴を開始しました・・・。


う~ん・・・,評価が難しい・・・。
私のような頭からつま先まで,完全な昭和の男にとって,描かれた風物は,ある種のノスタルジーを伴って迫ってきますし,若い頃とち狂ったように読んだ堀辰雄の諸作品の影響や,夢の中でのカプローニを代表とする飛行艇時代への憧憬(これも「紅の豚」ともろに被ります),そして仰角や主翼前縁30パーセントに重心を持ってくる模型飛行機(ペーパークラフト)を夢中で作った子ども時代への個人的追想など,多くのファクターが去来しました。
前半は,カプローニとの出会い(但し,夢での)から九試艦戦の設計まで,わりとさくさくと進んだのに対して,後半は多分まるっきり創作(というか,題名も含めての堀辰雄作品へのオマージュでしょう)である恋愛模様・・・と,良い意味でのコントラストがはっきりしていたと思うのですが,個人的にはどうもその辺りの統一感というか,作品を貫く芯がぶれたような感覚は最後まで付いて回りました。
勿論,2時間強,飲み続けていたなも関わらず,トイレにも立たないで,画面に釘付けになっていた(AVアンプに灯を入れ,サラウンドスピーカーを鳴らしつつ)ことは,言うまでも有りません・・・。
碓氷峠(新幹線開通で,これが失われたことは痛恨でした)の石橋を登るアプト式鉄道と草軽交通(私が生まれる前に廃線),旧軽井沢銀座の賑わい,正確な考証に基づいて描き込まれた車両の数々等に指を鳴らし,登戸行きの電車は小田急だろうが,菜穂子の家は上野だったのではとか,「風立ちぬ」のヒロインは,確か節子という名前だったとか,ヒロインの菜穂子の名は「楡の家」~「菜穂子」から取ったとか,氷室で雨宿りする場面が出てきたら完璧なオマージュだったとか,菜穂子が入った療養所(サナトリウム)は,作中にも出てきたように浅間高原の軽井沢ではなく八ヶ岳山麓の富士見高原だったとか,作中の「草軽ホテル」は旧軽井沢のアカシアの小径の奥にある「万平ホテル」のことだろうとか,「会議は踊る」(31)の音楽だ・・・とか,余計なことをたくさん思いながら見ることが出来たので,楽しめたことは間違いないでしょう・・・。
零戦(21型)の登場シーンは最後の一瞬のみで,九試艦戦(量産型は九六式艦戦)のプロトタイプによる初飛行成功でストーリーが完結しているのは,やはり旧式化による劣勢と戦局の悪化,特攻と敗戦ということが頭にあったからなのでしょう・・・。
誰にでも楽しめる・・・とは,無条件では言えませんが,当時の時代背景や堀辰雄の諸作品(上記2作と「美しい村」あたり)を読めば,さらに理解が深まって楽しめると思います。大いに気に入ったら,BD買おうかと思っていましたが,現段階では躊躇しています。
次は,来月発売の「永遠のゼロ」を何としても見ないと・・・。
でもって,作りかけの九六艦戦と宮部久蔵搭乗の台南航空隊所属の零戦21型を組まないと・・・。