結論を先に言うと、
教科書はすべて国定に。
教科書会社は「教師用」で、市販。
で、ある。
教科書も、一般経済市場を流通する商品と同様で、生産段階で垂れ流して、末端でトラブル。沖縄のあの地域やその他で教科書選定で悶着が起きているが、先に元栓を閉めておけば、末端での選択の余地がないから無用のトラブルもない筈だ。
文科省の検定があるにはあっても「お先に読ませていただく」程度のことで、内容をチェックして批判し、改定させるほどの権限もないし、もとより能力もない、のではないか、と思うんだが----。
なんせ教科書会社の売り込みは凄いこと、すごいこと、スゴイコト! 教科書の選定に携わる担当者はセールスマンの夜討朝駆けに悲鳴を上げる。逆に同情をさそう、そんな戦法もあり、とか。
まあ、こんなことは水面下のこと、通常の営業活動であるから、ここでは関係がないから----、だから、まあ、こっちへ置いておくとして----、教科書と言うとどうしても、その内容と選定が俎上に上る。
どの党が政権をとっても、共産党や社民党は別にして、国家としての方向付け、特に外交とか安全保障とかには変わりはない筈である。と、思うんだが。これは政友会と民政党の時代から。だからこそ、学校の教科書は「国定」であるべきだ。現在の検定制度で、内容が自虐的とか、左傾化とかの指摘があれば、修正を、あるいは却下とか、事前に処置されている筈なんだが、にも拘らず、出版社を選ぶのは、内容に相当のブレがあるからではないのか。それならなんのための検定か。
地方に選択権を認めること自体が混乱のもとで、地方色なんて有り得ない。転校した生徒に対しても同じ教科書のほうが便利である。
川上で、流れの前に厳選すれば、川下で混乱することはない。
道徳教育の27年度教科化が、ほぼ決定(産経新聞、25,11、12、)のようだが、なにしろ道徳教育と名がつけば「最初に反対ありき」の様相である。数値評価は行わない、とかで、最初から投げやりである。体育や音楽、図工など、持って生まれた素質によってしか結果が出ない科目でさえ評価しているのに、だ。ハッキリ言えば「やる気がない」から、成るように成れ、ではないか。
道徳は個人の内面に踏み込む分野で、検定基準を細かく規定すれば「国による価値観の押しつけ」という批判を招くとの氣使いのようだが、小中学校の義務教育段階で、国が価値観を押し付けないと、「あなたの好きな価値観はどれですか。好きな価値観を選びなさい」で、子供が選ぶだろうか。3時のおやつを選ぶのと違うんだから。結局は教科書を選ぶ側の価値観であって、学ぶ側の選択なんて有り得ない。
少なくとも、価値観の多様化を問題視するなら、高校以上、義務教育以上の段階、大学の一般教養程度で、ある程度自意識が芽生え、批判能力が生じてからのことである。
結局、そこまでやりたくないのが本音で、だからこそ、そこから山本太郎がごとき国会議員が生まれるんです。事の善し悪し、それをつぶさに教えられない、日本人としての所与的な道徳観、常識さえ疑わしい、そんな人間が。
道徳、何を持って道徳と言うか。日本人なら、誰しも一様に「そう思う」「思って当然」「そうする」「そうして当然」のこと、ただそれだけのことではないか。ところが、「そう思わない人」、「そうしない人」がいるところに問題が生じているのではないかな。多様化とか、ええ言葉使っても、結局は好き放題、仕放題で、大げさな言い方をすれば指導の放棄である。
文科省の「心のノート」の掲載中、現職若手の澤穂希氏、内村航平氏が名を連ねるが、将来的にも本人に迷惑しないか。これはテレビの人気タレントの悪弊の影響ではないか。
教科書は、すべて「国定」で。
選択の余地なし。
議論の余地なし。
で、ある。
念の為ーアメリカは日本のような教科書は使用しない。教科書なし。
教科書はすべて国定に。
教科書会社は「教師用」で、市販。
で、ある。
教科書も、一般経済市場を流通する商品と同様で、生産段階で垂れ流して、末端でトラブル。沖縄のあの地域やその他で教科書選定で悶着が起きているが、先に元栓を閉めておけば、末端での選択の余地がないから無用のトラブルもない筈だ。
文科省の検定があるにはあっても「お先に読ませていただく」程度のことで、内容をチェックして批判し、改定させるほどの権限もないし、もとより能力もない、のではないか、と思うんだが----。
なんせ教科書会社の売り込みは凄いこと、すごいこと、スゴイコト! 教科書の選定に携わる担当者はセールスマンの夜討朝駆けに悲鳴を上げる。逆に同情をさそう、そんな戦法もあり、とか。
まあ、こんなことは水面下のこと、通常の営業活動であるから、ここでは関係がないから----、だから、まあ、こっちへ置いておくとして----、教科書と言うとどうしても、その内容と選定が俎上に上る。
どの党が政権をとっても、共産党や社民党は別にして、国家としての方向付け、特に外交とか安全保障とかには変わりはない筈である。と、思うんだが。これは政友会と民政党の時代から。だからこそ、学校の教科書は「国定」であるべきだ。現在の検定制度で、内容が自虐的とか、左傾化とかの指摘があれば、修正を、あるいは却下とか、事前に処置されている筈なんだが、にも拘らず、出版社を選ぶのは、内容に相当のブレがあるからではないのか。それならなんのための検定か。
地方に選択権を認めること自体が混乱のもとで、地方色なんて有り得ない。転校した生徒に対しても同じ教科書のほうが便利である。
川上で、流れの前に厳選すれば、川下で混乱することはない。
道徳教育の27年度教科化が、ほぼ決定(産経新聞、25,11、12、)のようだが、なにしろ道徳教育と名がつけば「最初に反対ありき」の様相である。数値評価は行わない、とかで、最初から投げやりである。体育や音楽、図工など、持って生まれた素質によってしか結果が出ない科目でさえ評価しているのに、だ。ハッキリ言えば「やる気がない」から、成るように成れ、ではないか。
道徳は個人の内面に踏み込む分野で、検定基準を細かく規定すれば「国による価値観の押しつけ」という批判を招くとの氣使いのようだが、小中学校の義務教育段階で、国が価値観を押し付けないと、「あなたの好きな価値観はどれですか。好きな価値観を選びなさい」で、子供が選ぶだろうか。3時のおやつを選ぶのと違うんだから。結局は教科書を選ぶ側の価値観であって、学ぶ側の選択なんて有り得ない。
少なくとも、価値観の多様化を問題視するなら、高校以上、義務教育以上の段階、大学の一般教養程度で、ある程度自意識が芽生え、批判能力が生じてからのことである。
結局、そこまでやりたくないのが本音で、だからこそ、そこから山本太郎がごとき国会議員が生まれるんです。事の善し悪し、それをつぶさに教えられない、日本人としての所与的な道徳観、常識さえ疑わしい、そんな人間が。
道徳、何を持って道徳と言うか。日本人なら、誰しも一様に「そう思う」「思って当然」「そうする」「そうして当然」のこと、ただそれだけのことではないか。ところが、「そう思わない人」、「そうしない人」がいるところに問題が生じているのではないかな。多様化とか、ええ言葉使っても、結局は好き放題、仕放題で、大げさな言い方をすれば指導の放棄である。
文科省の「心のノート」の掲載中、現職若手の澤穂希氏、内村航平氏が名を連ねるが、将来的にも本人に迷惑しないか。これはテレビの人気タレントの悪弊の影響ではないか。
教科書は、すべて「国定」で。
選択の余地なし。
議論の余地なし。
で、ある。
念の為ーアメリカは日本のような教科書は使用しない。教科書なし。