ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

花さかじいさんII(7)ウンチク編

2008-07-13 | 花さかじいさんII/ 木こりの娘
今回のストーリーですが、前半は、まんま「花さかじいさん」でした。もちろん、ポイントは後半です。「悪いじいさんは、よいじいさんの成れの果て」、というところでしょうか。

お金そのものに害があるわけではありません。物質的に豊かになることが悪ではありません。けれども、お金を持ったことで、心がお金にコントロールされるようになったら、それはもう「よいじいさん」ではないのです。物質的な豊かさ、快適さが、自分の生き方、考え方の“コンパス”になってしまったら、それは「悪いじいさん」のはじまりということです。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
(テモテへの第一の手紙 6章10節)


毎週教会に行き、賛美歌を歌い、聖書を読み、聖書のお話を聞き、礼拝式に参加しながら、偶像礼拝をしていることが、ありえます。本人は、大真面目に、自分は、本当の神様を知っていて、本当の礼拝をしている、と思っていますが、現実、そうではないことが、ありえるのです。もし、自分がお金持ちになるために、自分が欲しいものを手に入れるために、”自分の腹“が満たされるために、神様に心を向けているなら、それが、たとえ教会であれ、礼拝式の中であれ、祈祷会の中であれ、聖書を知っていようが、それは「偶像礼拝」です。

このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
(コロサイ人への手紙 3章5節)


クリスマスのストーリーを思い出しましょう。

東方の博士たちから、イエス・キリストの誕生を聞いたヘロデ王は、聖書のことばによって、それが神様によって約束されていた「主の到来」であることを理解しました。そして、彼は、「私も行って拝むから」と言っています。これだけみれば、立派なクリスチャンです。けれども、彼は、イエス・キリストを礼拝する者ではありませんでした。

東方の博士たちは、異邦人です。当時のユダヤ人たちの考え方からすれば、キリストとは関係のない人々です。けれども、彼らは、時間をかけ、犠牲を払い、危険のともなう旅を続けてまでも、キリストを礼拝しようとしました。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(マタイによる福音書 2章10節)

勘違いしないでください。神様は、あなたのお金が欲しいのではありません。神様は、人に養ってもらう必要などないのです。また、神様は、物によって心を変えることはありません。なぜなら、この世界にあるものはすべて、あなたが認めようが否定しようが、神様のものだからです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇 24編1節)

東方の博士たちは、宝物をささげることで、お金が彼らの神様ではなく、イエス様が彼らの神様であることをあらわしたのです。宝の箱をイエス様に開くことで、彼らの心をイエス様にむかってを開いたのです。


今、あなたの心は、どこにあるでしょうか。

「かつては、よいじいさんだったんだけど・・・」
ではないことを、期待します。


あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
(マタイの福音書6章21節)



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