ヨナの福音こばなし帳

オリジナルのショート・ストーリー。一週間で一話完結。週末には、そのストーリーから人生の知恵をまじめにウンチクります。

砂漠の旅人(7)ウンチク編

2007-05-08 | TeamABCの策略/ 砂漠の旅人
今回のポイントは、ペットボトルに付いていたメッセージをどう受け止めるか、というところです。

ありそうな受け止め方を想定して、3つのエンディングにしました。
  パターン1:信じない
  パターン2:信じて、ことばどおりに行動する
  パターン3:信じるが、一部ことばどおりに行動しただけ


これらの3パターンは、聖書のメッセージの受け止め方としてみることができます。

1:信じない
聖書のメッセージを信じません。自己判断して、自分の利益になるところは、適当にいただくことはします。結果、そのメッセージがもっていた約束、祝福は、その人のものにはなりません。

2:信じて、ことばどおりに行動する
聖書のメッセージを信じます。そのメッセージに、それからの自分のいのちをまかせます。そして、メッセージどおり、行動します。結果、そのメッセージがもっていた約束、祝福は、その人のものになります。

3:信じるが、一部ことばどおりに行動しただけ
聖書のメッセージを信じます。そのメッセージに、それからの自分のいのちをまかせて、行動を始めます。そのメッセージがもっていた約束、祝福が、その人に届いてきました。が、その人が行動に移したのは、メッセージの一部であったため、その人が受け取ることができたのも、一部だけ、一時的なもので終わってしまいました。最終的な結果は、信じていないのと同じです。


「エー、ちょっと厳しすぎない・・・」
そう感じる人があるかもしれません。

日常生活の場面に置き換えて、考えてみましょう。 

たとえば、駅で道をたずねたとしましょう。
「駅を出たら、左に曲がり、まっすぐ行って、2つ目の信号のある交差点を右に曲がり、さらにまっすぐ行って、1階にコンビニがあるビルが右手に見えたら、その向かい側にあるビルに入って、エレベーターに乗って、6階で降りてください。613があなたの目的としている場所です。」

いくら正確に理解しても、行動に移さなければ、その人を信じたとはいえない、それはわかりますよね。教えられた言葉を信じているなら、教えられたとおり、道を進み始めます。

では、教えられた言葉の一部を飛ばして、道を進んだらどうなるでしょうか。
「駅を出たら、左に曲がり、まっすぐ行って、2つ目の信号のある交差点を右に曲がり、さらにしばらくまっすぐ行って、1階にコンビニがあるビルが右手に見えたら、そのビルに入って、エレベーターに乗って、6階で降りました。さあ着いた。613の部屋をピンポーン」

出てきた人は、まったく知らない人です!

どうして?教えられたその言葉を信じて歩いてきたのに。騙された!

いいえ、違います。「その向かい側にある」という言葉を行動に移さなかったから、ぜんぜん違うところに着いたのです。



信じるとは、理解した、同意した、というだけではなく、行動に移して、本当に信じたと言えます。そして、それは、一部だけではなく、全てを行動に移してはじめて、そのメッセージに約束されていることが、自分のものになります。


聖書を信じるのであれば、一部ではなく、全部、丸ごと信じましょう。*1
それも、適当に自分に都合よく解釈したり、学問や伝統という名を借りたりして、 聖書のある部分をちょっと変えたり、差し引いたり、あるいは付け加えたりして、 結局のところ信じていないのとかわらなくなってしまう、なんてことにならないようにね。


「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、
自分につごうの良いことを言ってもらうために、
気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」
(テモテへの手紙第二 4章3-4節)



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*1 「全部」といっても、知らないことは、信じられないし、まして具体的に行動することはできません。では、聖書全部わかるまでダメなのか、そういうことを言っているのではありません。信じる意識として、「丸ごと信じる」そのような姿勢で聖書に関わっていくことが大切です。その意識があれば、聖書全部を読みたい、さらに知りたいという気持ちが起こるでしょうし、聖書がわかってくるたびに、信仰は深まり、一つ一つは行動に移されていくはずです。