いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(97)「心を定めよ」

2013年12月27日 | 聖書からのメッセージ
詩篇57篇1節から11節までを朗読。

この7節に「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。
ダビデが洞穴(ほらあな)に入ってサウル王様の手からかろうじて逃れた記事がサムエル記に記されています。サウル王様はダビデをねたみ、何とかしてその命を奪おうとしました。ダビデは追われて、ユダの荒野を転々とさまよったのです。あるとき、一つの洞穴の奥にダビデは身を潜(ひそ)ませました。たまたまそこへサウル王様とその仲間が追いかけてきて、同じ洞穴で休憩を取りました。ダビデたちは洞穴の奥のほうにいて、サウル王様はその手前のほうで休みをとって寝たのです。それを見ていたダビデの部下が、ここでサウル王様を殺してしまおうではないか。そうしたら、これ以上逃げ回る必要がないと。もし、私どもがダビデだったら、お前たちがそう言うならと、殺したかもしれない。ところが、ダビデは、神様の前にそれはよくないことだ。神様が立てられた器であるから、それを自分の手、人の力で奪い取ることは神様をないがしろにすること、神様に罪を犯すことになる。そう言って止めました。そして、王様の衣のすそを少し切って、そっと洞穴から逃げたのです。それから、谷を隔てた向かい側に来たとき、王様を大声で呼びました。「部下の者たちよ、お前たちは何をしている。主人が命の危険にさらされているのに、どこを見ているのか!」と言った。皆はびっくりして、声の辺りを見たら、谷の向こう側にダビデがいる。そして、手には王様の衣のすそを持っている。「王様はもうとっくに命がなかったはずだ」と言われました。そのときサウル王様は悪いことをしたと、簡単に謝る。「ダビデよ、お前はそんなにまでおれのことを思うか。もうお前の命を取らないから、早く戻ってきてくれ」と言う。しかし、それはそのときの感情だけです。取りあえず、そうやってダビデは難を逃れることができた。でも後に、ダビデは王様の衣のすそを切り取ったこと自体、神様に大変な罪を犯したのではないかと、呵責を感じます。これはそのような時に詠った詩篇と表題にあります。

王様が自分の命をねらっているので、ダビデは大変悩みました。1節に「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます」と繰り返しているように、「あわれんでください」と主にすがるよりほかなかったのです。彼はほかに頼るべきものがなかった。けれども、なお心が千々に乱れる。思いが揺れます。その心がここに繰り返し、繰り返し述べられています。ところが、7節以下の記事を読むと、実に素晴らしい。喜びと感謝と賛美をささげていますね。一方、6節までの記事は、どちらかと言うと、泣き言です。どうしようか、こうしようか。神様助けてください、あわれんでください。あの人たちはこんなにしています。この人はこうです、神様、あなたのみ名を高くあげてください。あなたはどこにいるのですかと、迷いがあります。5節に「神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください」とうたっている。神様は、はじめから全地の上にいらっしゃるのだが、ダビデの不安と恐れの中で、神様が力のないものに見える。だから、ここで「みさかえを全地の上にあげてください」と、格好いい言葉ですが、言い換えると、神様、あなたがどこにいるのかわかりません。頼っているが力を与えられません、という嘆きです。このときダビデは王様から命をねらわれて、行き詰っていた。そのとき、なかなか神様を信頼できずに、絶えず揺れ動いている。

近ごろ若い人たちを見ていると、そのように思います。若い人が結婚して、その後の始末に立ち会う。離婚の話ですが……。二人の前で、離婚届に判を押させることを、まさか自分がするとは思わなかった。好きでしたわけではないけれども、そういう行きがかりになりました。よく考えてみると、若い人たちは自分の足で立っていない。生きているのだけれども、自分の命を自分で握って、自分の人生だという歩み方ができない。どこかフワフワ雲の上を歩いているような状態です。だから、何かの責任を自分が負う覚悟ができないのです。こんなはずではなかった。もっとこうであるはずだった。そのように他人事(ひとごと)のような生き方をしている。独身の若い人たちを見ていても、話をよく聴いていると、無責任です。誰かが、どこかで、何かをしてくれやしないだろうかと。「これはあなたの問題でしょう?」と言うと「そうなのかなぁ」というような、なんていうか、心が浮いている。だから、最近、また同じことを言っているなぁ、と思うことがあります。それは自分の足でしっかり立ちなさい!と。

水素ガスの入った風船がフワッと飛んでいます。あの調子で生きている。一体誰の人生を生きているのだと思う。私は繰り返し言いましたが、こればかりはなかなか人が言っても変わらない。覚悟が足らないと思います。結婚するのだったら、それに伴ってどのような事態が起こってくるかを少なくとも想像しなければならない。そのような能力を神様が与えていらっしゃる。ところが、ただ目の前のことしか考えていない。子供が与えられたら、かわいいとは言うけれども、段々大きくなってきて、世話が掛かる。夜も眠れなくなる。こんな子供を産まなければよかったと言い始める。そういう意味で、今の若い人たちはフワフワして、どれほどの覚悟があるのかと思わされることが、周囲に頻繁(ひんぱん)に起こりますから、ちょっと戸惑うのです。

7節「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。若い人は決断が足りない、覚悟がないと言えますが、若い人だけではなく、私たちも同じです。どちらかと言いますと、浮ついている、地に足が着かないのです。いや、そんなことはない。私はちゃんと家庭をここまで切り盛りして、何十年主婦として自信があると言います。確かに、それはそうでしょう。だから今の若い人たちのような者ではないと思う。しかし、こと信仰についてはどうでしょうか。神様はイエス様を遣わし、命を捨てて、私を愛してくださっていると信じているでしょうか。神様を信頼するに当たって、どれほどの覚悟をしているか 。この神様だけしか、私には頼るものがないと、心を定めているかどうかです。神様からご覧になったら、ちょうど私が若い人を見て嘆いているように、嘆かれるに違いない。この年寄りたちは、何年たっても覚悟がないと。心が定まらない間は、悩み、心配します。

この度、両親の記念誌を作り、各地の皆さんに送りました。いろんな反響があり、お手紙をいただく。共通して記されているのは「亡くなられた榎本先生の信仰の一本気、頑(かたく)ななまでに信仰に立っていた姿」と言われる。私は改めて考えさせられました。私自身が問われるのです。心を定めるとはどういうことだろうかと。父の証詞を読みますと、初めて浜の町伝道館の新年聖会でイエス様の十字架のあがないを確信したとき、自分の生涯はどうなってもいい、この神様だけだ、聖書一巻に命を懸けると心を定めた。それから生涯それ一本で通しました。では、私たちはどうか、私はどうかと、問われる。なんだかそこのところがちょっと柔らかいといえば柔らかい。一本気でありそうでいて、どこか陰の所に二股三股がある。そのことを教えられました。物事が調子の良いときには、一本気で行けるのです。調子が良くて、順調に、思い通りに事がいっているときには、感謝です、私は神様だけに頼っていますからと言えます。ところが、何か問題に当たったときにどうなるか?

先だってお召されになられたS姉もそうです。彼女もイエス様の救いにあずかって、ぴたっと神様にくっついてしまいました。だから、最後の最後まで信仰が揺るがない。どんなに弱い状況に陥っても、はっきりと、神様の所へ帰って行くのだと明確な一本線が通っている。ご家族はやりにくかっただろうと思います。ある意味では、頑(かたく)なです。でも、それがなければ、信仰に立てないと思うのです。これは神様が私たちに求めておられることです。神様は私たちにはっきりと救いにあずかってほしいと切に願っています。神様のほうは、救いを全うしてくださって、すべてのものは完成した。これ以上、救いのために神様のするべきことは何もないのです。ボールは私たちに投げられています。神様は私のためにすべてを完成してくださったのだから、世のもの、人に付かないで、心を神様だけにと定め、決断をつけるかどうか、今度は私達が求められている。

ピリピ人への手紙3章10節から12節までを朗読。

殊に12節に「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」。ここは実に不思議な言い方をしています。まず「わたしはただ捕えようとして追い求めている」と言いながら、それに対して「キリスト・イエスによって捕えられているから」と言うのです。これは今申し上げたように、神様のほうが私たちを捕らえる。私たちを救いにあずからせ、恵みを満たすためのすべての手だては完成している。後は、私たちが、それをどれだけ勝ち取っていくか、自分のものとしていくかに懸かっている。これがパウロの生涯のテーマです。彼はイエス様の救いにあずかった。それゆえに、その救いを本当に自分のものとして獲得していくために、8節にありますように「いっさいのものを損と思っている」と、「キリストのゆえに」すべてを失う、その覚悟が私たちにあるかと、問われます。私たちは心を定めて、この神様以外に頼るものはありませんといっさい懸けているかと問われます。

パウロは、神様が私を握ってくださった、救いにあずからせてくださった。だから、その神様に対して、私は全力をつくして、いっさいのものを離れて、主を追い求めていく。これは私たちがこの世から離れるのではなくて、この世につけるいっさいのものを捨てて、それに頼らないでということです。だから、パウロは自分の家柄だとか、自分の教育であるとか、自分の持っている優れた才能であるとか、そのようなものいっさいを自分の力として誇るのではなくて、すべてそれを神様にささげて、ただキリストを得ようと心を尽くした。これが私たちに求められている信仰です。私たちはこの地上にあっていろいろな悩みに遭い、困難の中にありながら、そこでこそ心を定める。

詩篇57篇7節に「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました」。1節から6節までの記事を読みますと、魂はうなだれて意気消沈、元気をなくして、ただ、神様!助けて、助けてと言っている。もちろん、私たちもいろいろな問題に遭うときに、そうやって神様に泣き言を言います。それも別に悪いわけではありません。しかし、神様が私たちに求められるのは、そこで心を定めることです。だから、若い人たちにもそう言うのですが、「覚悟が足らない」と言う。「結婚するのだったら、それなりの覚悟をしなさい」と。「結婚してみたら、こんなとは思わなかった」。「こんなはずとは思わなかったと言うけれど、自分の親を見て、どんな結婚生活をしているかわかるだろう!」と言ったのです。「わかるけれども、自分は違うと思っていた」と言う。「そんなことはない、人間は皆同じだから、同じような苦しみがあり、またけんかすることもあり、さまざまなトラブルの中に置かれる。それは独りでいたほうが楽よ。だったら結婚なんかやめなさい」と言います。心が定まらないのです。私たちもいろいろな問題に当たったときに、どうしようか、どうしてこんなになったのか、いろいろと千々に心が乱れる。大波のごとくに揺れ動く。だから「ヤコブの手紙」1章に、あなた方がお祈りしても信じないならば、まるで大波のように揺れているとあります。そういう者は、神様の恵みを受けることができないと、書いてある。神様、どうしましょうか、あわれんでください。助けてください。こんなです、あんなですと、泣き言を言っているとき、神様を信頼していない。

その泣き言を通り越して、ダビデは、はじめて、もうこうなったら、神様による以外にない。神様と心中しようと、そのくらいの覚悟を決める。母方の祖母のことですが、子供のころ家に遊びに行くのです。母方のほうは、お寺の出身です。実に熱心な浄土真宗なのです。だから親鸞様を大変尊敬している。私が中学生くらいのときでしたか、お婆ちゃんもイエス様を信じなければいかんと、お婆ちゃんのために聖書を買ってやると言って、聖書を買ったのです。そしたら、母のところに祖母が来まして「和義が、あんなに言ってくれたから、一応はもらっておくけれども、私は親鸞様から離れるわけにはいかないの」と。それで母が「そんなことを言っても、親鸞さんにだまされたらどうするの? 」「いい、私は親鸞様にだまされて地獄に行くのだったら、それでもいい。だから、あまりキリストのことを、イエス様のことを私に勧めんといてくれ」と言ったのです。そのくらい覚悟があるのは、逆に言うと立派なものだと思います。親鸞様に自分の生涯を懸けるというのです。イエス様が自分に都合のいいことをしてくれれば信頼するが、そうでなければ逃げ出そうと構える。イエス様から逃げる道を置いているのでは、私たちの覚悟が足りません。

7節に「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました」。ダビデは、ここで、もう私は迷うまい。神様に命を懸けようと決心したのです。そうしましたら、今度は喜びに変わる。皆さんでもそうです。これを何とか逃げたい、この悩みをなんとか避けたい、この苦しみから早く逃れたいと思うから、苦しいのです。そうではない。主が「居れ」とおっしゃるなら、神様、私はあなたにささげたものです、あなたのものですから従います。代価を払って買い取られた、あなたはわたしのものだ、と言われる。「イザヤ書」43章にはっきりと「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と。神様は、「私たちを買い取ってくださった」とおっしゃるのに、私たちは買い主である神様の手に自分を委ねようとしない。事があったら逃げ出そうとかかっているから迷う。いいではないですか、どんな苦しみがあっても。主が「負え」とおっしゃるなら、主のものなのですから、心を定めて、「はい、何があっても、主よ、ただあなたに従います」と、神様の手に自分を委ねるのです。そうすると、今までの不安が消え、波立っている心が静まります。

7節の後半以下に、「わたしは歌い、かつほめたたえます。8 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます」。6節までのダビデの祈りと嘆き、それが一瞬にして7節から変わります。その秘けつは神様が変わったのではない。神様は、昨日も今日もいつまでも変わることのない真実な御方ですが、私たちの心が変わる。これが問題です。信仰と言うのはそこです。私どもは何があっても、神様の手に握られているのです。あなたに寄り頼みます、どんなことでもしてくださいと、まな板の鯉(こい)になって、神様の手のうちに自分の心を定めるとき、一瞬にして心は喜びに変わる。そして神様をほめたたえる。そればかりか、10節に「あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます」。神様の偉大さ、絶大な力に目が注がれます。これは信仰の秘けつです。

エステル記4章13節から17節までを朗読。

これはご存じのように、ユダヤ人であったエステルが、アハシュエロス王の妃(きさき)となりました。ところが、彼女が王様から重んじられるのを見て、ねたんだ大臣ハマンはその国に住んでいる、捕囚として来ていたユダヤ人たちをすべて抹殺(まっさつ)しようと計画を立てて、王様に進言しました。一つの計画が立てられました。そのときユダヤ人の仲間で、その指導者であったモルデカイという人がいました。彼はエステルのおじさんに当たります。彼は自分の民族の危機存亡(そんぼう)、大変なときに当たって、エステルになんとしても王様に執り成して、この艱難(かんなん)を避けるようにと指示を出したのです。ところが、たとえ妃であっても王様の許しがなければ、王様の所に近づくことすらできない。王様の許可なく近づいたならば、即刻、命が奪われるという法律があった。ところが、王様はまだエステルに「来なさい」という許可は与えていない。でも事態は急迫して、早くしないと手遅れになる。それでモルデカイは、「あなたが今王宮に王妃としておかれたのはこの日このときのために神様がおいてくださったのではないか。何をお前、ぐずぐずしている!もしお前が、このことをしないのだったら、お前の家は滅びる」と言ったのです。それを聞いてエステルは、覚悟をしました。心を定めたのです。そこにありますように、モルデカイに命じて、ユダヤ人たちすべての人に三日間断食をしてお祈りをしてくださいと。「わたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます」と。16節の終わりに「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。「もし死なねばならないのなら」それでもいい。そこまで私たちはイエス様に命をあずけているか。心が定まるとはこのようなことです。このときエステルは心を定めて王様の前に出ました。王様は笏(しゃく)を伸べて許可を与えてくれたのです。それは誠に不思議な出来事だった。そして、王様の好意を得ることになって、不思議なかたちでこの悪大臣ハマンのほうが殺されてしまうのです。この一番のきっかけは、エステルの覚悟です。これがすべてのことを動かしていく原動力だったのです。もし、ここでエステルが自分の身の安全を考え、自分の立場を考えて神様を信頼しなかったら、どうなっていたかわかりません。

私どもはその覚悟が足らないのです。死なないうちに何とかならないだろうか、命だけはお助けくださいと、逃げ腰だから、なかなか神様の力にあずかることができない。だから、私はいろいろなことを見ていて本当にはがゆい思いをするときがあります。引き受ければいい。そこで腹をくくればいいではないかと思うことがある。それを、だってあんなことをしたらどうだとか、こんなことをどうしてと、グジュグジュ悩み続ける。そうやっている間、心が定まらない間、私どもはいつまでも泣き言を言い続けて、神様、どうしましょうか。神様、どうしましょうか。どうしましょうか、こうしましょうかと。「死ぬべくば死ぬべし」と、きちっと、神様の前に自分を定めればいいのです。ただそれだけです。ところが、往生際(おうじょうぎわ)が悪い。

随分前ですけれども、一人の方が地下鉄に乗っていました。終着駅に着いた。皆降りていくのですが、勘違いしてこの次に駅があると思って、体の小さい人で、いすにジーッと座っていた。皆降りてしまって、ピューッと扉がしまった。そして電車が動き出して室内のライトが消えて、真っ暗になったまま車庫のほうに行ってしまった。そのときこの方は、あら、大変どうしようと、車掌さんはその辺にいないし、運転手は向こうのほうの車両だし、車内は暗くなって慌てたとき、「先生、私はそのときにこのエステルの言葉を思い出した『死ぬべくば死ぬべし』、この地下鉄の中で死ぬのならいいやと思った」と言うのです。勿論、死ぬはずはないのですが、「その途端に気が楽になりました」と言われる。しばらくして車掌さんが気づいて、慌てて飛んできて「あんた、どうしとるの!」「いや、次の駅でと思って」「もう駅は過ぎた、車庫だから」と、車掌さんが連れて出てくれたと言って大笑いしました。しかし、どんなときでも覚悟ができさえすれば事は終わるのです。自分が死ぬつもりになれば、というか、本来もう死んでいるのです。イエス様と共に死んだ者なのですが、“死んだはずだよ、お富さん”で、まだ自分が生きているものだから、覚悟ができない。

詩篇57篇7節に「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。どうぞ、どんなことでも、神様の前に潔(いさぎよ)く、一つ心になって、ただあなただけですと、心を定めていきたい。もし主が必要とあるなら命だろうとなんだろうと、主よ、あなたにささげたもの、あなたのものですと、言い切っていく信仰でありたいと思います。中途半端というのは一番よくない。何か事があるとすぐに揺れます。右に左に、ああしようか、こうしようか、人を見、状況を見、事柄を見、ああじゃないだろうか、こうじゃないだろうか、それで結局最後は、神様にすべてを委ねなければ納まらないのです。だったら、早くに、神様、心を定めます。何があっても、神様、あなただけですと、ピシッと言い切ってしまうとき、心は喜びと感謝にあふれるようになります。「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」。本当に主をほめたたえ、感謝、賛美していく人生、ここに神様は私たちを立たせてくださいます。救いを全うし、完成してくださる主が、私たちにそのことを求めておられます。

何があっても私はあなたに従っていきますと、心をはっきりと主の前に定めましょう。たとえ命を取られようと。だからヨシュアが、カナンの地を平定して、12部族に土地を分け与えて、最後に民を集めて説教をしました。そのとき、あなた方はいろいろなほかの民との交わりの中から、偶像を拝むことを覚えて、それで失敗もしてきた。しかし、これからは、あなた方が道を選びなさい。これまでのようにいろいろなほかの民の偶像を選ぶのだったらそうしなさい。またこの真(まこと)の神様、エホバの神を神とするならそうしなさい。そのときにヨシュアは何と言ったか。「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。わたしとわたしの家族にはこの神様だけです、と宣言したのです。そのとき集まった民も心一つに「われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです」と告白したことが記されています。

わたしたちもこの地上の旅路を、私の頼るべき御方はあなただけですと言い切って、いろいろな問題の中に置かれますが、そこで絶えず、その壇をきちっと整えて、ここにも主がわたしを顧(かえり)みてくださると、はっきり確信して立っていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。












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