いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(98)「臨在とともに」

2013年12月28日 | 聖書からのメッセージ
詩篇84篇1節から12節までを朗読。

4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」とあります。
イエス様の救いにあずかって、神様の子として生活しています。神様が私たちを選んでくださった目的、救いに導いてくださった目的は、私たちがこの世の人と違った者になることです。この世の人と全く同じであったら、イエス様の救いはいりません。この世の人々が悲しむときに、一緒になって悲しみ、神様を知らない人たちが、喜ぶものを一緒に喜ぶ、苦しいときには同じように苦しんでいるなら、神様の救い、イエス様の十字架のあがないは必要ない。また一方、イエス様の救いにあずかったら、物事が順調になり、事柄がうまくいって、世間の人と違う者となる。世の人々が嘆き悲しんでいるときに、私は悲しくありませんというのも大きな間違いです。

では、救われた私たちは何が違うのか。それは神様が私たちと共にいてくださることです。私たちが神様と共に住む者となることです。なんだ、そんなことか。そのくらいの事だったら、救いにあずかってもあまり意味がない。あの悩みが解決し、この問題が解決するほうがまだしもましだ。いくら神様が一緒にいたからと言って、何の得になろうか、と考えます。ところが、神様は私たちと共にいてくださることを通して、この世の人と私たちが違うものであることを証詞してくださるのです。神様は今も生きていらっしゃること、私たちを造り生かし、顧(かえり)みてくださる方であることを証明しようとして、救いに引き入れてくださったのです。私たちの地上での生活が、この世の人たちと違ったものになるのではありません。悩みもあります、苦しみもあります、悲しみもあります。しかし、その中で、神様が私と共にいてくださる。私たちの思いを知り、私たちが神様を求めて心と思いを打ち明け、神様の力をいただいて、この世の人と違う喜びと望みと平安を受けることができる。これが救いの恵みです。そして何よりも、神様がいつも私たちと共にいてくださる。

イエス様はよみがえられた後、弟子たちに現れてくださって、40日目に弟子たちが集まった山の上で天に帰って行かれました。そのとき、イエス様は弟子たちに「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束してくださいました。イエス様が私たちと共にいてくださる。私たちと共にいてくださるために、天に帰った。なんだか矛盾するようですが、イエス様が共にいてくださるなら、そのまま地球に残っていたらよかったと思います。けれども、イエス様は、わたしがこの地上にいるならば、それは肉にあって生きているわたし一人でしかないが、わたしが神様の許(もと)に帰るならば、父なる神様の御許から私たちに聖霊を送ると約束しました。真理の御霊、神の霊を私たちに与えてくださる。それは取りも直さず、イエス様が私たちと共にいてくださることにほかなりません。しかし、ともすると、イエス様の姿かたちが見えませんから、声も聞こえないし、目にも見えないし、手で触れることもできません。まるでいないかのように思ってしまう。ここが私たちの一番の試みであり、戦いです。たとえ、目には見えなくても、手で触れなくても、イエス様は今も約束のごとくに私たちと共にいてくださいます。

これは聖書全体を通して証詞されている事です。旧約聖書を読みますと、イスラエルという神様に選ばれた民がいます。これはアブラハムという人を神様が選んで、アブラハムの子孫をすべて神様の祝福にあずからせて、選びの民、神様の特別な神の民としました。なぜそうなったかと言うと、イスラエルの民を選んで、神様の力と恵み、神様が生きていること、今もはたらいていること、力ある方であることを証詞するためです。だから、イスラエルと言うのは、実は私たちのことでもあります。旧約聖書のイスラエルの歴史を読みますと、何千年か昔の一つの民族の歴史というばかりでなくて、もっと深く、神様の大きな御計画と御思いがあります。そのことを通して、やがて主イエス・キリストによって救いにあずかるすべての人が、イスラエル、神の民となるのです。私たちは日本人ではありますが、信仰によって、一人一人がイスラエルであり、ヤコブなのです。アブラハムの子孫です。

私の知人が以前イスラエルに旅行をしたとき、入国審査がありました。パスポートを出して、本人を確認します。その方は、なかなかユーモアのある方で、「あなたは何という名前か」と問われ、「サン、オブ、エィブラハム」、「アブラハムの子」と言ったのです。そしたら、係官が大変喜んでフリーパスで通ったというのです。自分はアブラハムの子、言うならば、イスラエルだ、と告白したのです。

それは私たちも同じことです。では、イスラエルは何によってほかの民と異なっているのか。よく言われますが、クリスチャンになったのだから、なんとかしてそれらしい生き方をしなければと。クリスチャンらしい、できるだけいつもニコニコ笑って、人には優しく、そしてあの人はいい人だと言われるようになりたいと言う。それはそれで悪くはないのです。しかし、表面的にそういう振る舞いであれば、偽善者になります。そのようなことでほかの人と違うことを証明するのではありません。

出エジプト記33章15~17節までを朗読。

モーセがシナイ山に登って、神様からの契約、十の戒め、律法、神様のおきてをいただきました。そのとき、40日近く民から離れて山の中にいたので、消息がわからなくなってしまった。全然連絡がつかない。ふもとで待っていたイスラエルの民は、どうなったのだろうか、もう死んだのではないだろうか、そう言って彼らは心配になり、とうとうアロンをモーセの代理として立て、金の子牛を神として造って、拝むことになりました。事実そうやって神様を造り、おみこしを担ぐように、金の子牛を担いで祭りをやったのです。神様はそれを知ってびっくりしまして、モーセに「早くこの山を下りなさい」と命じました。下りてみると、とんでもないことをしていた。十戒の一番最初に「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と、神様がモーセに伝えたばかりのことを、イスラエルの民が、こともあろうに真の神様を捨てて、偶像を拝んでいたのです。その時、モーセはあまりのイスラエルの民のやり方に怒りを発し、持っていた石の板を投げ捨てて、罪を犯した人々はその場で殺されてしまったのです。神様はこの民はどうにもしようのないものと失望されました。わたしは彼らと一緒に行くことをしない、もう捨てた、と言われました。それまで、会見の幕屋、神様が彼らと共にいますという証詞の幕屋がイスラエルの民の宿営の中に置かれていたのですが、神様はこんな民とは一緒に行けないから、会見の幕屋を宿営から外に出すようにと命じました。とうとう宿営の外に今度は建て直したのです。神様は、イスラエルの民から顔を隠してしまわれました。そのときに、モーセは神様の前に立って執り成しをしました。「どうぞ、神様、もう一度私たちにあなたの恵みを得させてください」、そう言って祈りました。

今読みました15節に「モーセが主に言った『もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください』」。神様、あなたが私どもと一緒に行かないとおっしゃるのだったら、私たちも行きません。あなたが約束してくださって、カナンの地へ行けと言われ、エジプトから引き出してくださった。しかし、あなたはここで放り出してしまったのですと。このときモーセは16節「わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」と言ったのです。ここでモーセは神様の泣き所を突いたのです。それは、「あなたが私どもと共に行かれなかったら、イスラエルの民とほかの民と、どこに違いがありますか? 無いではありませんか」。そう言われたら、神様は形無しです。神様は、「大丈夫、わたしがあなたと共に行く」とおっしゃったのです。ここですね。イスラエルの民としての命はどこにあるか。それは神様が彼らと共にいることです。これが、イスラエルがほかの民と異なるただ一つの点であり、これが無ければ、ほかのことがどんなによくてもそれは何の意味もない、世の者と変わりがありません。

実は、私たちもそうです。○○教会の教会員ですとか、洗礼を受けて何十年教会に来ていますという、そのような実績、目に見える事柄でほかの人と違っているのではありません。神様が私たちと共にいてくださる。24時間365日、絶えず、主が私と共にいらっしゃることが、私たち自身のものとなっていなければならない。また、事実、神様が私と共にいらっしゃるのだと信じて、共にいてくださる神様と交わりを持ち、神様に仕える生涯を歩もうとしなければ、イスラエルとなることはできません。

民数記14章17節から21節までを朗読。

これはイスラエルの民が神様に罪を犯したときです。カデシ・バルネアというヨルダン川のほとりまで来ました。あと一歩でカナンの地に入るとき、試みられました。カナンを探った斥候(せっこう)が戻って来て報告をしましたが、いいニュースと悪いニュースがありました。いいニュースを聞いて喜び、悪いニュースを聞いたときにイスラエルの民は失望して、モーセを殺して自分たちはエジプトに帰ろうと、神様に背いてしまった。そのときヨシュアとカレブだけが民に向かって、「主に背いてはなりません」と勧めました。しかし、イスラエルの民は従わなかったのです。とうとう神様はこのときも怒ったのです。こんな強情な民は知らんと。ところが、そのときにもモーセは、今読みましたように、17節「どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください」。神様、あなたがこの民に力を現してください。そうでなければ、ほかの民は、あなたがたの神様は一体何をしていたかと、あなたの名が廃(すたり)ますよと、迫ったのです。

13節から16節までを朗読。

ここでもモーセは神様の泣き所をつきます。あなたは不思議な力をあらわして、エジプトから私たちを救い出したではありませんか。それを聞いて周辺諸国の王様は恐れおじ気づいたのです。あなたがイスラエルの民をカナンに導き入れることができなくて、荒野の途中で投げ出した。そしてイスラエルの民が死んでしまったと聞いたならば、あなたの力を恐れた民はあなたのことを何と言うでしょうか。無責任な力のない神様だと言うではありませんか。だから、この民を許してください、と迫ったのです。14節の後半に「彼らは、主なるあなたが、この民のうちにおられ、主なるあなたが、まのあたり現れ、あなたの雲が、彼らの上にとどまり、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前に行かれるのを聞いたのです」。このイスラエルの民がエジプトから導き出されたとき、多くの人々は、神様が彼らと共についている。これはすごいなぁ、ということで、「皆、神様、あなたを恐れていたのです」と、これがイスラエルのイスラエルたるゆえん、神の民の特質といいますか、これがなければほかの民と同じです。それは今、私たちもそうです。

詩篇84篇1節以下に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」とあります。「神様の臨在」という言葉を使います。「臨」というのは「のぞむ」ということです。今まさにその場所にいらっしゃるという意味を表す言葉です。神様が今ここにいらっしゃる。それが私にとってなんと恵みであり、幸いなことであろうかと、この詩篇の記者はうたっている。私たちは、日々の生活の真っただ中に、万物の創造者である全能の神様が共にいてくださる、神様の臨在に対してどれほどの喜びと感謝を持っているでしょうか。目先の目に見える事情や境遇が、ああなったら、こうなったらと、そればかりを喜ぼうとします。しかし、この詩篇の記者は、1節に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう」。主のお住みになられている場所、このとき、イスラエルの民にとって主のすまいとは、神の神殿でした。エルサレムにある神の神殿を表していました。しかし、今、私たちにとって日々の生活、私たち自身の魂を宮として、私たちのうちに宿ってくださっている。以前にも教えられたように、「代価を払って買い取られた」、「もはや、私たちのものではなくて、神が私たちのうちに住まわせられた聖霊の宮である」と言われます。

私たちの事情、境遇、問題事柄がどうこうではなくて、それにもまして、私たちをこの世から選び、イスラエル、神の民としてくださった主は、その証詞として、一人一人のうちに、わたしが住むとおっしゃってくださいます。「イザヤ書」43章にありますように、あなたが火の中、水の中を過ぎるときにも、「恐れるな、わたしはあなたと共におる」と約束してくださいました。何度、繰り返し、神様はイスラエルの民にそうおっしゃったかわからない。事実、イスラエルの民はエジプトから導き出され、荒野の旅路を歩むときに、神様は火の柱、雲の柱、昼も夜も絶えず、イスラエルと共にいて、まどろむことなく眠ることなく、導いてくださった。それほどまでに、身近に神様の存在を感じていながらも、イスラエルの民は神様を疑います。それはイスラエルだけの愚かさではなくて、実は私たちの姿でもあります。私たちは何ゆえにこの世の人と違った者となっているかを自覚してください。主が私と一緒にいてくださる。神様がわたしと共にいらっしゃる。その恵みを喜び、感謝するのです。

2節に「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」。神様のそばにいること、神様と共にあることが、私にはどんなに幸いなことか。それを喜び、感謝し、神様を賛美し、褒めたたえていく。3節に「すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください」。ダビデの時代、旧約聖書の時代はいつでもどこにでも神様がいらっしゃるという、このような主の恵みにあずかることができませんでした。イスラエルの民にとって、エルサレムの神殿に来て、はじめて神様と触れることができ、そこで祭司を通して神様に祈りをささげることができる。またそこで燔祭や罪祭などを神様にささげることによって、罪の許しを受けて、新しくされて、それぞれの村々、町々へ帰って行く。年に一度、そうやって神様の所に来られたら良いほうで、二年、三年ごとであったかもしれない。「サムエル記上」の初めにエルカナとハンナの記事が記されています。サムエルが生まれる前、彼らはシロにある宮に来たことが記されています。それは年に一度か、何年に一度かの恵みの時でした。彼らはそうやって渇き求めて、神様の臨在に近づく。神様の宮に来ることを喜びとしました。といって、宮に来れなくて、離れている間、神様はそっぽを向いていたかと言うと、そうではなくて、その間も神様は恵んでくださる。しかし、神の宮、具体的に神様の臨在に近づくことの喜びを感謝し歌ったのです。

今、新約の時代になり、イエス様は私たちのために命を捨てて、私たちを潔め、常時365日、24時間、絶え間なく神様の臨在と共に生きることができる者にしてくださいました。週に一度、主の日として礼拝を守って、神様の臨在に近づきます。「ふたりまたは三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)との神様の約束に従って、主の名によってここに集います。主はここに臨在してくださる。自分の家に帰ったら、それは消えるのかというと、そうではなくて、家庭にいても神様は私たちと共にいてくださる。だから、一週間の旅路、毎日、毎日の生活の中で、絶えず主と共にいることを喜び感謝する。主がここにいますことをしっかりと味わい、確信して生きる毎日でありたいと思います。ですから、私たちは朝に夕に祈り、また御言葉を通して主に近づくのです。朝起きる、まず静まって祈ること、そして御言葉をいただいて、主が共にいらっしゃるのだと信じて一日の業に励む。神様によって私たちは日々の業に遣わしていただいているのです。そういう日々の生活が積み重ねられて、はじめて礼拝に喜びをもってくることができる。日曜日に礼拝へ行くから、普段の日は聖書をしまっておき、礼拝のときにまとめてすればいいというものではない。礼拝とは、日々神様と共に生きていることの集大成、その恵みと感謝をもって共に集って、神様の前にすべてをささげる。これが礼拝です。ここで心を新たにして、私は私のものではなく、主よ、あなたのものですと、心と思いを新しくするのが礼拝です。そして、神様からの力と命をいただいて、それぞれの家庭に、その置かれた所へ遣わされて行くのです。

この教会では礼拝式の中でそのようなことはしませんが、別の団体では礼拝の最後のところに「派遣」という一つの項目があります。それは祝祷の前に、さぁ、これからあなたがたは、それぞれのところに遣わされて行くのですよと、勧められます。私どもはプログラムにないから、関係がないわけではない。実は「祝祷」というのは派遣式です。さぁ、ここからもう一度私たちはそれぞれの遣わされた使命に立って行きます。さぁ、お前は行ってやってきなさいと、放り出されるのではなくて、「わたしがあなたと共にいる」。主の臨在と共に行くのです。

だから、4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」と詠ったのです。いつも、どんなことの中にも、そこで神様を褒めたたえ、主と共に住む。ここにありますように「あなたの家に住み」と、神様のそばに絶えず自分を置いていくこと、主の手に自分をささげて、神様が私と共にいてくださることを喜び感謝する。これがわたしたちのすべてです。私たちがこの地上でなすべきことは、ただ、これだけです。神様の臨在と共に絶えず生きていくこと、そこに神様が私たちを通して思いもかけない、考えもしない業を現してくださる。

10節に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います」。荒野の旅をしていたときは幕屋でしたが、その後ダビデの時代に入ってエルサレムに神殿が置かれました。そこが神の都となりました。そのとき、一般の人々が集まって入ってくることができる神様の前の庭がある。そこは主の臨在の前に絶えず置かれている場所でもあります。だから「あなたの大庭にいる一日」、神様のおそば近くにおる一日は、それから遠く離れている千日にも勝るのだと。たった一日でもいいから主の許に共におらせていただきたい。これはかつて旧約時代のイスラエルの願いでありました。今私たちは、いつでもどこででも、主を呼び求めることができ、主と共に生きることができる大きな恵みを与えられている。だからこそ、熱心になって主を求めていきたい。主の臨在を絶えず感じていく。主が私と共にいてくださることを感じて、それを信じて、与えられた一つ一つの業の中に自分ではなくて、神様が私を遣わし、今このことをさせてくださっていることを喜び、共にいてくださる方と親しい交わりを持つことです。

一緒に生活していて、黙ってにらみ合って生きることはまずありません。同じ部屋にいれば、何がしかの話をします。そして一緒に生活をすると、何もかもお互いに見えます。「あなたの家に住み」と4節にあります。私は子供のころから、自分の家族以外のいろいろな方と一緒に生活をしました。今でもそうです。時にいろいろな事情があって、私どもと一緒に一年とか、半年とか、10日とか短いときも長いときもありますが、生活します。初めのころは、家内が慣れなくていつも緊張している。他人(ひと)と一緒に生活をしていると、普段人には見せないものまで見られてしまう。生活を一緒にしていたら、普段と違う様子が見える。それで、「嫌だね」と家内は大変気にしました。ところが、考えてみますと、こちらが見られると同じように、実は相手の様子もわかるわけです。だから、お互い様です。自分だけが見られているわけではなくて、相手のことも知ることができる。段々そのことがわかってきて、あけっ放し、つくろう必要がなくなって気が楽になりました。

神様に対してもそうです。神様が共に住んでくださる。一緒に住んでいて、あれを見られると、今思ってご覧なさい。神様は何もかも知っています。その代わり、私たちが主と共に住むと、神様の思いもよくわかります。

「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる」。神様を喜び、感謝し、そして主が共にいてくださることを喜びとしていきたいと思います。これが救いにあずかった目的です。ですから、生活のいろいろな問題も事柄もありますが、それが私たちの大切なことではありません。私たちにとって大切なことは、絶えず主と共に生きること、これを求めていきたい。「あなたの家に住む」こと、神様と共に住むこと。そう言うと、「じゃ、これから家族を離れて、先生、教会に住まわせてください」と言われるけれども、そのようなことではありませんね。「あなたの家に住む」とは、神様の中に自分をささげることです。心を神様に握っていただくこと。そうすることによって、神と共に生きる幸いな生涯を送ることができます。私たちの中に主が働いて業を起こしてくださいます。どうぞ、私たちに与えられている大きな恵みを心から感謝して受け、主を慕い求めていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。




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