いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ (1)「神は愛である」

2013年09月22日 | 聖書からのメッセージ

ヨハネの第一の手紙 4章7節~12節を朗読。

今朝はこの10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 この箇所は、良くご存知の神様の愛を解きあかした一節であります。繰り返して愛という言葉が出てきます。愛と言う言葉を聞くと、心が和むと言いますか、安らぐ思いがします。愛は柔らかい、優しい、包んでくれるような、ほのかな暖かさを感じる。気持ちの良いものであると言うことは、この言葉からすぐに連想されます。また、キリスト教は愛の宗教だと受け取られます。クリスチャンは愛に満たされた、やさしい人が多いに違いないなどと誤解されます。そう言う人がいないわけではありません。しかし、必ずしもそうとばかりは言えません。でも世間の人々はクリスチャンと言うと、愛に満たされて、右の頬を打たば左の頬を出すぐらいに、叩いても怒りもしない、それどころか許してくれると考えます。何か物を求めれば何でも与えてくれる、それこそ上着を求めれば下着も与えてくれる。そんなに言うからには何でもしてくれるだろうと思っている人がいます。

時々、教会に物をもらいに来られます。「お金をくれ」とか「食べるものが欲しい」とか。私は殆んど断ります。あるとき一人の人がやってきまして、「実は今何処何処からの帰りで、ちょっとお金が無くなって、佐賀に帰る旅費が足らないので、何とかそれを恵んでもらえんだろうか」と言う。私は「そんな状況ならば、ここに来るよりは、近くに交番もあるし、そこに行って相談なさったら良い、私が電話でもしておきましょうか」と答えると、むかむかっと怒りを表して、「ここは教会だろう! キリスト教でしょうが。だったらこのくらいのこと、してやっても良いではないか、神は愛だろう!」と言って、こっちが説教されます。なるほど、神様が愛であると言うのはそういうことだと、私も知りませんでした。「しかし、いくらキリスト教の神が愛であっても、別にあなたにお金を恵む筋合いのものではない」と言ったら「お前はそれでも牧師か!」と言われました。その方は、神は愛であると言うことを誤解していると思いました。愛と言うと何か柔らかい、優しい、そして何でもしてくれる、わがままを聞いてもらえるのだ、許されているのだという、感覚を持ち易いのです。ところが、神様が私たちを愛してくださる愛は、そういう、ちゃちなものではない。

この10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、」とこうあります。神様が実は私たちを愛しておられるんですと宣言しているのです。私たちが神様を愛したのではなく、私たちがまだ神様を知らなかった時、既に神様は私たちを愛して下さったのです。ローマ人への手紙5章6節~11節を朗読。8節「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」私たちが罪人であった、また、その前の6節「弱かったころ」あるいは「不信心な者たち」とも記されています。また10節には「敵であったとき」ともあります。私たちが神様を知らない、神様を恐れることがない、そして神様に背いて、わがままな、自己本位な、神様によって造られた自分でありながら、そんなことを忘れて、己を神とすると言いますか、自分が絶対正しい人間だ、自分には間違いがないと思い定めていた。これは、神様に対して敵対していたのだと聖書では語っています。意識して神様と喧嘩してやろうと思った人は誰もいません。ところが、生まれながらに、神様に背いて、わがままな自分の欲求、欲望のままに生きてきました。その結果、神様のことを知らないで過ごしたのです。その時、神様に対して敵対した存在、神様に対して罪を犯した者で、神様の祝福と栄光を受けられない者だったのです。しかし、神様の方が実は私たち一人一人を、生まれない以前からご自分の愛のうちに定めて下さった。ここに神様の愛の発端、始まりがあります。

では、神様が私たちを愛して下さって、何をしてくれたのだろうか? 私の願うこと、求めること、欠けたもの、不足しているものを与えてくれただろうか。求めたことをしてくれたのかと。頭は悪いし、体は弱い、健康はない。その上、いろんな悩みや困難ばかりが次々と押し寄せて来る。神様が愛で、私を愛して下さっているなら、なぜこんなひどい目に遭うのだろうか。自分の性情性格を考えてみる。愛されているのだったら、あの人のように優しく、この人のように淑やかで、行儀作法もわきまえて、品行方正な人間にしてくれても良かったじゃないか。
神様が愛していることと、自分の現実の間に苦しんでいるのです。神様が愛ならば、どうして世の中はこんなだろうか。時々、そういって電話してこられる親切な方がいます。「先生、神は愛であると書いてあるじゃないですか。それなのに、なぜ世界には悲惨な出来事が起こるのですか。あそこでは戦争、ここではテロがあって何十人、何千人と言う人が死んだじゃないですか。あんなことを神様は許しているのですか。それでも愛ですか」と言われますね。「すいません。ごめんなさい」と言うばかりです。説明しても理解していただけませんから。「いや、そうじゃないですよ」と言ったところで、愛というものはそんなことを起こさないものだと決めている。しかし、そこにありますように、8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」 ここで神様は愛を示したといわれる。これはキリストが罪人の為に死んで下さったということなのです。

ヨハネの第一の手紙4章に戻り、10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」「ここに愛がある。」と言うのです。神様の愛は、私たちの罪の贖いの供え物として一人子である、大切な神の御子イエス・キリストを二千年前、ベツレヘムの馬小屋に人として、この世に送って下さった。そればかりでなく、30数年の地上の生涯の最後に、あの十字架の裁きを受けなさいました。しかもそれはイエス様が犯した罪の故ではないです。イエス様には何処にも罪のないお方であった。ピラトの法廷に立たされ、あるいはカヤパの屋敷で、あるいはヘロデの所に引き回されて、イエス様は細かく調べ上げられました。その時、ピラトは、「私はこの人に罪を認めることは出来ない」と断言します。何とかしてイエス様を、許してやろうと少し努力もします。それほどにイエス様は、非の打ち所のない人でした。それは当然です。神の御子であったお方が、人となったのですから。

ヘブル人の手紙にありますように、罪は犯されなかったが、全ての点で私たちと同じ人となって下さったと。弱きを知り給う方、悲しみの人で病を負って下さったとも、イザヤ書の53章に記されています。そういうお方が、十字架に架けられて、槍で胸を突かれ、両手両足を釘づけられ、茨の冠を被せられて、残酷な十字架の極刑を受けて下さった。それはイエス様を信じる者たちの罪を許して下さる為の、罪の贖いだったのです。私たちが本来受けるべきあの十字架の苦しみ、言い換えますと、罪を犯して神様から背き、神様に敵対して、神様から遠くへだたって、失われていた私たち、当然滅ぼされる者、神様から呪われて、永遠の地獄へ投げ込まれるべき私たちの為に、神様はやがて生まれてくるであろう2千年後の私たち、皆さんお一人お一人の罪の代償として、一人子イエス様を、ゴルゴダの丘に、十字架に架けて、私たちの罪の罰をイエス様に負わせられた。

福音書のイエス様の記事を読みますと、イエス様が「こと終わりぬ」と最後の一言を残して死に絶えて下さいました。イエス様は十字架に架けられながらも、「父よ、父よ」と父なる神様を呼び求めておられましたが、神様は、一人子であるイエス様を、子でもない、神でもない、罪人として、ついにご自分との関係を断ち切られたのです。その時イエス様は、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給もうや」と叫んでいます。それまで父なる神様との交わりの中にいたイエス様はそこで、神様との親子の関係を完全に絶ち切られてしまわれたのです。そして罪人とせられて、あの十字架の死、呪いを受けて下さったのです。

それは誰の罪でもない、実は私の為です。また、皆さんお一人お一人の罪の為なのです。ところが、そんなひどい罪人だろうかと思うのです。私達もそう思います。100%完全無欠とは言わないけれども、神様からひどい仕打ちを受けるほどの、大罪は犯していないと。どうですか、皆さん、心ひそかにそう思うでしょう。そりゃ、主人は私よりもひどかろうけれども、私はそれよりマシだと、こう思って…。とんでもないですね。私どもは神様の前に、本当に許されない存在である。なぜなんでしょうか。神様をないがしろにする心が私たちの内に絶えずある。自分を義とする、己を正しいとする、これが一番の罪なのです。

刑法上の罪、これは実に分かりやすい。物を盗んだとか、人を殺したとか、傷害を与えたとか、そう言う罪ははっきり分かります。「しまった。こんな事をしなきゃ良かった。悪かった」と言う。しかし、神様が私たちに問われる罪とは、自分を神にすることです。神になろうとする性質、罪の性質が、創世記に記されています。エデンの園にあるアダムとエバの原罪、抜きがたい人の中に巣食っている罪です。その結果、神様を受け入れることが出来ない、信じることが出来ない。神様を信じていると言いながら、どこかで自分の思いを握っている。どうしても譲れない思い、そういうことがあります。私も自分自身を振り返ると、そのことを痛切に教えられます。神様が私の主ですと、100%信じているかと言われると、そうではないのです。どこかで自分を信じている。私はこうなりたい、私はこうでありたい、これ以外は許せない、これ以外は受け入れられないと思っている自分があるのです。今は幸いに、神様の救いに入れられ、曲がりなりにもそのことが罪であることを知っていますから、そのことに気付く度毎に、主よ、ごめんなさい、あなたがいらっしゃるのに、私がこうでなきゃ嫌だと思っている、頑固な、頑なな者ですと認めることが出来る。これは幸いです。本当に感謝です。

嘗ては、そんなこと思いもしなかった。当然、こうあるべきなのに、なぜ私の邪魔をするの。私が真直ぐ行こうとするのに、なぜあなたは立ち塞がるの! いろんな事柄が、癪の種、腹立ち、怒りの種。あっちで文句を言いい、こっちで突っかかり、自分の中に、どうしょうも無い自分があったのです。いや、今もあると言って間違いありません。しかし、そういう私を、神様の方が選んで、一方的に愛して下さった。そのままだったならば、滅びてしまう私の為に、ローマ人への手紙にあった様に、何にも神様の事を知らない時に、主イエス・キリスト、一人子をこの世に遣わして、私の罪の贖いの供え物として下さった。ここに愛があるのです。神様の愛っていうのはここにあるのです。ですから、今読みました10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」とあります。「わたしたち」と複数形で言いますと、なんだか、あまりはっきりしない。私の為にということなのです。ここを読む時は、「私たち」ではなくて、「私」の罪の贖いの供え物として、御子をおつかわしになったと読みます。イエス様がこの世に遣わされて、あの十字架に命を捨てて下さった。「ここに愛がある。」これ以外にないのです。

教会に来ると、あちこちに家紋のように、十字架のしるしがあります。あれは愛のしるしなのです。なんだか、矛盾した話です。というのは、十字架は、そもそも罪を処罰する道具です。そんなものを大事に掲げるのですから。教会で見る十字架は何の為なんでしょうか。それは神様の愛に出会うところが十字架だからです。イエス様がこんな私の為に今日も命を捨てて下さっている。この主の愛に出会うことが出来るのです。神様のご愛を知りたいと思うならば、私たちがどんなに罪深い者であるかを、徹底して知れば知るほど、神様の愛をいよいよ深く知ることが出来る。それ以外にありません。今日一日、神様は私に良いことをしてくれるだろか、そこに神様の愛はあるだろうかと期待します。が、そこにはありません。今日も主が十字架に命を捨てて、父よ彼らを許し給えととりなして下さる、主の憐み受け、イエス様の十字架の功しによって、罪科一切を完全に赦されているから、今日も神様から愛されている者だと証しすることが出来ます。

私はこのことを教えられた時に、感謝せざるを得なかった。自分が“義”なる人間、正しい人間、自分はどこにも悪いところが無いと思っていました。その結果、人を裁くのです。人を非難するのです。ひと時も心に安心というものがありません。平安がないのです。皆さん、何かのことで、心の中でぶつぶつ文句を言っている。子供のことや夫のことや奥さんのことや、あのことこのことが、どうしてあんなに成ったのだろかと、ぶつぶつ言っている時、自分が義なる者だと主張している。私は正しいのに、私は良いのに、何で! どうして!と。だから、何かのことで、どうして!と思った時、私たちは神様に成っている。神様を押しのけているのです。どうしてもこうしても、神様がそうして下さったと受け入れられないものがある。神様が今こうして下さったのだと感謝して受け入れられない、憤りの心があるからです。しかも、自分が怒っているときは、「そう当然よ、私が怒ったって当たり前よ」とか、「私がこれ位思うのは相手が悪いんだから」と、自分を正当化しようとするのです。

実は、私たちの内に罪があるから、神様に従えない。神様に憤っているものがあるから、私どもは素直になれない。それが証拠に、家族から、あるいは人から何か嫌なことでも、つらいことでも言われて御覧なさい。心にも無いことを言われたら、カーッとくるでしょう。カーッとくるのは、私たちが神様から離れているのです。自分は正しいのに、何でそんな言われなければならないの、という思いが心のどこかにあるからです。どうぞ、自分の心をしっかりと探って頂きたい。そして、こんな罪のかたまりである者の為に、イエス様が、私の身代わりとなって、十字架に釘づけられ、命を捨てて下さった。神様はこんな私を愛して下さっていらっしゃる!その愛に絶えず潤されて生きていくのです。

イエス様は「父が私を愛された様に、私もあなた方を愛した。私の愛のうちにいなさい」と勧めておられます。十字架に自分を見ていなければキリストの愛にとどまることは出来ません。また、自分が正しいなんて一言も言えません。お前はあんなじゃないか、こんなじゃないかと… 言われる時、「はい、その通りです」としか言いようがない。神様の前に徹底して罪人であると認めていくこと、これがイエス様の愛に出会うただ一つの道です。自分が、とことんどうにもしょうのない者であること、神様の前にへりくだれない自分であることを素直に認めようではありませんか。そして、主の憐れみにすがる時、主のご愛に満たされます。

私は自分の病気を通して、そのことを深く教えられました。この病気は神様から出たと事だと言いながら、絶えず抵抗している自分があることを教えられました。神様の前に己を立てようとしている。あるいは自分を主張していることを深く探られました。そういう者の為に主が命を捨てて、父よ彼らを許し給えと取りなしておられる。今日も主は許して、憐れんで下さる。この主の愛に触れる時、心は平安と喜びです。あれが良い、これが良いなど、そんなことどうでもいい、小さなこと、重箱の隅をつつく様なことを言っていること、そんなことは何の意味もなくなってしまいます。主の愛に心を支配して頂くこと。愛に満たされること。これが救いを受けた私たちの全てなのです。

神様が命をかけて私を愛して下さっていることを知る時、さまざまな問題や事柄の中にも、神様の愛を知ることが出来ます。ですからヘブル人への手紙12章5節~11節、6節に「『主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」。一人子を賜うほどに愛して下さった神様は、私たちを見捨てておられるのではない。最初に申し上げたように、どうして神様が愛だといわれるのに、なぜこんな中におかれるのだろうか。それは、主が私たちを愛している故に、悩みや困難や問題の中に置かれるのだとおっしゃいます。それは、私たちを訓練して下さる為。確かに、神様は愛する者を放っておくのではない。愛する者に深く干渉なさいます。

人でもそうですね。自分の子供を愛するならば、嫌なことも、辛いことも言います。他人様はそんなこと言いません。相手を愛している訳ではないから…。夫婦でも、お互い愛し合っていればこそ、奥さんは夫に人が言わないことを言いますし、夫も奥さんに対して、他人が言わないことを言います。他人は耳当たりの良いことばかりを言ってくれるに違いない。しかし、愛をもって接していると、その人につらいことを求めますし、厳しいことを言うでしょう。それは神様も同じです。私たちを一人子を賜うほどに愛しておられるからこそ、少しでも神の性質に似るものとなって欲しい。神に造られた器にふさわしい者に作り変えたいと、焼けるような思いを持たれるのは当然です。お前たちを許したから、好きなこと何でもしなさいと言わない。神様は私たちに愛があればこそ、尚一層主の愛を知って欲しい。私の愛に繋がって欲しいと願うでしょう。
確かに、イエス様の十字架を知る時に、自分みたいなこんな者を愛して下さってと、愛を知ります。しかし、それは僅かです。主の愛を信じて毎日の生活の中で、悩みや困難や悲しい出来事に出会いつつ、そこで自分の罪をさらに深く知れされる。自分の思いの穢れたる者であることを、いよいよ深く知るようになります。そのことを通してまた、主の十字架の愛の深さを、さらに深く味わうことが出来る。だからパウロはそう言っています。「罪の増すところ恵もいや増す」と。自分の罪深さを知れば知るほど、神様の愛の大きさ、深さ、長さ、高さを味わい知ります。それはいろんな困難や事柄、問題に遭う時に、私たちの心に隠されていた思いが出てくるのです。事が無くて、順調な時はにこやかにしておられます。少々叩かれようとつねられようと、ヘらっと笑っておれますが、命に関わるようなのっぴきならない、どうにもならない問題にぶつかると、そんな生ちょろいこと言っておれません。「感謝です」と言い、信仰の模範生だと思っているでしょうが、そんなもの一晩で吹っ飛びますよ。そこで、こんな私であったことを、深く味わうことが神様の訓練です。何度でも、もうこれで良いという時はありません。

時々そういう事をおっしゃる方があります。「先生、もう私は清められたと思っておった。でも私という者はこんなに穢れた者、こうなったら私は救われません」と。「これでは何時まで経っても卒業が出来ませんから、やっぱり、キリスト教は私に合わないのでしょうか」と言うのです。それは間違いです。私たちは自分のことは自分が知っていると思っているかもしれないが、それは大間違いですね。実は知らない自分が沢山あるんです。神様は私たちをいろんな境遇や問題、事柄の中を通しなさって、叩いて、ひっくり返して、炉の中に入れて清めて下さる。神様の愛をいよいよ純粋に味わい知らせてくださる。だから、皆さん、まだこれからもいろいろありますよ。そして、そのことを通して、皆さんに、これまでにも増して、「神様、あなたは私をこんなに愛していらっしゃるんですね」と十字架の愛の深さを味わい、驚かせ、喜ばせて下さるのです。どうぞ、失望しないで、いや、むしろ「北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園に吹きて香り放たん」と、雅歌にある様に、何でも来たら宜しい。その中で、神様のご愛を求めて行こうではありませんか。5節に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。あなた方は訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。ここに、問題や悩みを解決してもうことを考えるよりは、もう一つ大切なことがあります。それは「これまで以上に、神様、あなたの愛を知らせて下さい」ということです。

お祈りをする時、「どうぞ主よ、この問題があります。これを何とか早く、解決して下さい。この道を開いて下さい、これをこうして下さい」とお祈りする。それも大切だし、必要でしょう。それと同時にもう一つ、「主よ、このことを通して深くあなたの愛を、もっと深く知ることができるようにして頂きたい」と祈る。これは大切なことです。なぜならば、神様の愛に触れなければ、命が無いからです。神様の愛に満たされて、潤されて、あふれかえってくる時、目の前の状態がどんな状態でも、事柄でも、それを乗り越えて勝利して行くことが出来るのです。愛は勝利の力です。(ローマ8:35-39)

コリント人への第二の手紙 5章4節と5節を読みます。4節に、「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている」。誠にその通りですね。私たちは地上にあって、肉体を持って生きる故に、その弱さの故に、あれに苦しみ、これに悲しみ、思い煩い、さまざまな重荷を負って、苦しみ悶えています。しかし「それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり」ます。その上に着るっていうのは、キリストを着ることです。悩みにある、苦しみにある生活そのものを、キリストによって覆い隠してもらうこと。それは取りも直さず、神様の圧倒的な一人子を賜わった愛によって、私たちが包まれることです。そうする時、死ぬべきものが命に飲まれてしまう。これが私たちに与えられた解決です。圧倒的な力で押し寄せてくる大水の様に、キリストの愛に押し流される時、目の前の悩みや苦しみや思い煩いの一切を覆ってしまう。その死の中から、失望と落胆と絶望の淵から、私たちを命に輝くものへと変えて下さいます。キリストの愛に包まれることこそ、実は私たちが最も求むべき事柄ではないでしょうか。

ヨハネの第一の手紙 4章11節「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである」。ここで、わたしたちも互いに愛し合うべきであると言われると、途端に、私は愛の無い人間だが、これからもうちょっと優しく成ろう。言葉遣いも気をつけて、立ち居振る舞いも少しは淑やかにして、家族から愛のある人と思われるように、あるいは、嫌いな人だけどもあの人を愛する様になりたい。また、この人をこうしてあげたいなどと考えます。「互いに愛し合うべきである」。聖書がそう言っているから、そうしたいなぁと今思われる。でも家へ帰ると、途端にパーッと消えてしまって元の木阿弥です。
 
ここで言われている「互いに愛し合うべき」っていうのは、嫌な人を何とかして、この人をこうして、こうしなきゃいかんと言う意味で勧められていることではない。そのすぐ前に、「神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから」と。ここが大切なのです。神様がこんな者を愛して下さった、その愛に促され励まされ、感謝していると、今度は隣人を愛する者へと私たちを造り変えて下さる。自分でしょうと思っても出来ない。出来ないような罪人であることを認めて、キリストの愛に満たされていく時に、初めて主の愛に感じ、応答して、イエス様がこんな者を愛して下さったから、私もその主の為に、何かさせて頂こうと。主の愛に応えてと言う、この一点を抜きにして愛することは出来ません。キリストの愛に先ず満たされて、その愛に感謝、感動して、その主の愛に応えて、これをさせて頂きます。このことを私もさせて頂きます、と。主の愛から溢れ出てくる日々の業でありたいと思います。これが互いに愛し合うということなのです。ともすると、イエス様の愛を抜きにして、慈善であるとか、善行であるとか、功徳であるとか、孝行するとか、努力して人が何とかしょうとする時、それは偽善に陥ります。いつも主の愛が何処にあるのか、そしてその愛がどれ程のものであるかを、深く深く日々味わっていくものとなりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る