いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(327)「試みに育まれ」

2014年09月20日 | 聖書からのメッセージ

ヤコブの手紙」1章1節から8節までを朗読。

 

 2節「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。

 

 この2節には「いろいろな試錬に会った場合、喜びなさい」と言われています。実際、私どもの生活には、そういう試練が確かにありますし、それは決して喜びのときではありません。それは嫌なことです。また避けて通りたいことです。あるいは何とかそれから逃れたいと、多くの人々が願います。誰だって、そのような苦しいこと、つらいこと、悲しいことがうれしいだなんて、そんな馬鹿な話があるか、というのが世間の通り相場です。もちろん、私たちも同じようにそう感じます。ですから、何とか試練を回避できないか、避けることができないかと願って教会に来ている方もおられるでしょう。いろいろな悩みや苦しみに遭うから、そうならないように、家内安全、無事息災、学業成績優秀、商売繁盛、交通安全、ありとあらゆるもの、全部うまいこといってくれるようにと願って一生懸命に励んでいる。これが世の中の宗教、信仰を求める人の動機ではないかと思います。私どももそういうものを求めたい、そうありたいと願うのは当然のことです。苦しいこと、つらいこと、痛いこと、悲しいことにはできるだけ遭いたくない。何とかそれから守ってください、というのが切なる願いです。ですから、「主の祈り」にも「こころみにあわせず」とあります。いうならば、試練にあわせないでと求めます。何とか悩みに遭わないように、苦しいことやつらいことに遭わないようにしていただきたいという祈りは決して悪いことではありません。いや、それどころか、それも大切な祈りであります。日々私どもはそのことを祈り求めます。しかし、だからといって、そのような目に遭わないかというと、そうではない。

 

時々そのようなことを言われます。「こんなに熱心に一生懸命に頑張って教会に来て励んでいるのに、どうしてうちはこんな悩みばかりに遭うのでしょうか」と。また私の知っている方は、あるとき次から次へと家庭のなかに問題が起こった。ご主人が病気になり、娘さんが病気になり、また息子さんでしたかが交通事故に遭いと、半年ぐらいの間に立て続けに次々と問題に遭いました。ご家族は皆さん、全部がクリスチャンで、毎週礼拝に来ていた。「日曜日になると家族そろって出かけていくがどこに行っているのかね」「教会に行っているらしい」「熱心なことやな」と、近所の人たちは感心して見ておった。するとそうやって次から次へと悩みに遭う。それを見ていた近所の方がとうとう思いあまって訪ねて来られて、「お宅は次から次へと悩みに遭い、また病気に遭ってお気の毒だと思います。あんなに一生懸命に信仰しておられるのにと思うと、気の毒です。きっと何かのたたりがあるに違いない。是非御祓(おはら)いをしてもらうことをお勧めします」と親切に言ってくれた。そう言って笑っておられましたが、世間というものはそういう考え方です。悩みに遭うのは何か悪いところがある。そういう自分たちの目に見えない何かがあって、そのような悩みに遭っているのだと思っています。

 

私たちも、思いがけない不幸に出会うと、まず「どうしてなんだろうか」と思います。「どうして」とは、その原因はなんだろうかと探る思いです。私も昨年思いがけない狭心症という名誉を頂いたのです。ちゃんと金賞をもらい、胸に入れておりますから安心ですが、私は次から次へと病気をします。そのときいちばん感じるのは、どうしてこうなったのだろうか。何がいけなかったのだろうか?食べるものが悪かったのだろうか?あるいは不摂生(ふせっせい)が良くなかったのだろうか? 私の家内は「ほら、あなたが無茶をするからよ」と言います。自分が悪いような感じがする。責められるわけです。といって、よく考えてみたらそれ程無茶をしているとも思わない。世間の人と同じであって、食べるといっても、それ程暴飲暴食をしているわけではない。いったい何が悪かったのか?いくら考えても答えが出ない。そういうときいちばんイライラします。おそらく皆さんも病気のみならず、不幸なことに遭うでしょう。交通事故などに遭うと「どうしてなんだ。こんなことになるなんて。あのときあの道をどうして通ろうと思ったのだろうか。あの道さえ通らなかったらよかった。あるいは出発を1分遅くしていればこんな事故に遭わなかったに違いない、どうしてだろう? おれは運が悪いなぁ」とか、手相を見て「やっぱり自分は不幸に生まれついている」とか、何かそういうところに原因を求めます。分からないのが、私たちの苛立(いらだ)つといいますか、不安、落ち着かないことの原因です。そういう不安を抱えますから、神仏に頼ろう、ご利益を頂きたいと、そういって新年早々に三社参りといって三箇所もお宮さんを回る。三社だけではなくて五社ぐらいしたらどうかと思いますが、そのへんは懐(ふところ)具合も考えて三社ぐらいにしているのか、とも思うのです。いずれにしても、世の人はそういうものを願います。しかし聖書を読んでみますと、必ずしも神様は私たちに不幸を与えない、いうならばそのような試練、こころみ、苦しいこと、つらいこと、世間でいうところの不幸に遭わない保障はしていないのです。

 

「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。

 

ここで神様は繰り返して「わたしは主である」と語っています。5節に、また6節、7節にもそのように語っています。「主」とは、すべてのものの中心、あるいはその主人といいますか、すべてのものを統(す)べ治(おさ)めているものという意味です。自分の生活、自分の人生、自分が生まれてから今に至るまですべてで私が主人であって、私が主なんだ、と思っています。ですから、思いがけない不幸なこと、願わない災いに遭うと、「どうしてこんなになったのだろうか。私の人生なのに、私の知らないところで私の許可もなく私に相談もなく、どうしてこんなことが起こったのだ!」と苛立ち、憤ります。自分の領域、自分の世界に何か悪いものが入り込んでくるから、こんな嫌なこと、思いがけないことが起こるのだという考え方が根本にあります。ところが、聖書は「それは違うぞ」と語っているのです。そうではなくて、お前の人生、お前の生活、お前が自分の、自分の、と言っているけれども、そうではなくて「わたしが主だ」と神様がおっしゃっている。「わたしが主であって、あなた方は造られた者ではないか。わたしの手の中にあるではないか」と。だから、自分たちの信仰、私どもの信仰の立つ基盤、立っている場所はどこにあるか、そこが明確にならなければいけないことであります。自分の生活、自分の家族、自分の仕事、自分の時間、自分の財布、何もかも私が主だ、私があるじであり、私が支配しているところから、そうではなくて、5節にありますように、「わたしは主である。お前じゃない、わたしが主なのだ」と神様はおっしゃる。6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない」。西から東まで、いうならば、すべてのもののなかにわたしが神であって、すべてのものを統べ治めているものであることをはっきりさせるのだ。これは聖書が告白している事であります。7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。神様は主ですから、どんなことでもできる。「神はなんでもできるからである」(マルコ 10:27)そう宣言されています。「我は全能のなり」(創世記17:1文語訳)、わたしは全能の神であるよ、と言われるのです。いうならば、神様が主であって、私たちの日々の生活も神様が創造しておられる。7節に「光も繁栄もわざわいも」と。だから人にとって幸せと思われること、不幸と思われること、良いと思うこと、嫌だと思うこと、つらいことも苦しいことも、どんなこともすべて神様が私たちのために備えられていることです。だから、私の生活とか私の人生とか、私の……と言っているけれども、実はそうではなくて、全部それは神様のものなのです。私たちは神様の手に握られ、創り出されて今日の一日が備えられている。そして、そこで起こる良いことも悪いことも、良い悪いというのは、人が決めることで、神様はどれが良くてどれが悪いというつもりは一切ありませんが、神様はご自分にいちばん都合の良いことをしているのであって、私たちはそれをただ黙って甘んじて受ける以外にないのです。このことをまず知っておきたいと思います。私たちが神様を信じるとは、取りも直さずすべてが神様のわざ、神様の力、ご計画によって私たちが常に生かされ、持ち運ばれ、いろいろな事情や事柄の中に置かれているんだと認めることです。「私は神様を信じています」と言いながら、「どうして、こんなことが起こったのだ」とか「どうしてこんなことを、私は嫌なのに」と、文句を言うならば、それは大間違いです。それは神様が私たちにしてくださることですから。

 

私は病気になったときに、初めは「何が、どこが悪かった。私の何がいけなかったのか」と思いました。ところが、その中で問いかけているとき、7節にあるように「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」神様がいま私に与えてくださった事柄、神様がそのことを置いてくださったのだと認める。そこに行くまで、やはり抵抗します。「どうしてだろうか」「何とか逃げることができないだろうか」。無駄な抵抗をしているうちに、「そうだ。これは神様がなさったことだ」と納得しました。「そうだ。神様が今このことをしていらっしゃるのですね」と、心から信じる。これは大きな恵みであります。というのは、「これは神様からの事柄です」と信じますと、その後はいろいろな事柄に耐える力も、それを乗り越える力も、そこに必要なものを神様は全部備えてくださるのです。供給してくださる。だから、困難だとか苦しみだとか、悩みは、自分がひとりで背負い込まなければならないように思いますが、いま申し上げたように「これは神様から出たことです」と認めると、自分が担わなくていいのです。自分が背負い込まなくてもいい。神様がそのことを始められたのですから、それを神様がどのようにでも取り計らうことができる。癒すこともできれば、また次なる方法も与えてくださるだろうし、また必要ならばどんな力でも神様は私たちに供給することができることを知ります。それが信仰です。そうやって信じると、今まで見えなかったものが見える。いろいろな事に隠された神様の御思いを知ることができます。だから、いろいろな悩みを通して、神様は私たちに恵みを与えてくださる。

 

 3節に「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう」。ここに「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて」とあります。「暗い所」とか「ひそかな所」、いうならば「こんな所に何の良いものがあるか」「こんな目に遭って、私はマイナスだけ」あるいは「こんな悩みに遭って、こんな苦しいことに遭って、何の価値があるか。私の人生で、これだけ時間を無駄に過ごしてしまった」「この病気さえなかったら」とか、「こういう悩みさえなかったら、良かったのに」と思うような、そういう暗い所、ひそかな所、これがなければ私は幸せなのだ、と思うような所に、3節「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物」と語られています。人が考えて「そんな不幸な目にあったら、人生、終わりやな。生きていて何の役に立つ、何の楽しみがある」と言われる。そういう悩みのなかにこそ、そこでなければ味わえない宝があり、財宝がある。神様は隠しておられる。だから、宝探しなのですよ、人生は。神様がいろいろな所に宝をひそかに隠している。私たちは浅はかな知恵しかありませんから、宝がある所はここやろう、あそこやろう、と自分勝手に想像した場所しか捜そうとしませんが、神様はもっといろいろな所にその宝を隠しておられる。私たちにそれを味あわせようとしてくださる。それが3節の「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう」。それを通して「なるほど、私は自分で生きていると思ったけれども、そうではない。神様、あなたが主ですね。あなたがすべてのものを支配し、統べ治めておられる方ですね」と悟らせてくださる。

 

 この3節のお言葉は、私にとって忘れられないお言葉です。というのは、大学に行っておりましたころ、下宿をしていました。今のように電話やインターネットが普及していません。電話も当時は市外電話が高かったのです。だから、親が死ぬかどうかの緊急時以外電話をしない時代でした。だからほとんど手紙のやり取りでした。両親と離れていましたから手紙を書きます。投かんして2日ぐらいで向こうへ着く。それからすぐに返事をくれればいいのですが、4,5日ぐらいで返事が来る。だから、こちらが頼んだ事の返事が来るのは往復で1週間から10日は掛かるのです。そういう悠長(ゆうちょう)な時代でした。そのように両親と私のやり取りはほとんどハガキとか手紙でした。父が毎月、事あるごとに手紙をくれます。その手紙は便せんに3枚ぐらいいつも書いてくる。その1枚目は大抵ショートメッセージであります。御言葉と、それに関する父がそのとき感じている事柄を書いてくれるのです。あるときこのお言葉が最初に書いてあったのです。「暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物」。私は「何という御言葉なんだろう。こんなの何もうれしいことはない。もうちょっと元気の出るお言葉はないかいな」と、そのくらいに思いました。いま振り返ってみると、その手紙を書いた父はいろいろな問題の真っ只中にあったのです。その中でこのお言葉で慰められていたようです。それを私に語ったのですが、こちらは年も若いし、そんな悩みなどありそうもない生活をしていましたから、ちっとも気に留めませんでしたが、あるとき読み返していたら、その気持ちがよく分かるようになりました。この御言葉に込められた神様の御思いは、愛であります。私たちに対して神様は決して苦しいつらい問題の中に置くばかりでなくて、実はそこで私たちを本当に喜ばせたい。そこで私たちに感謝賛美を与えたい。しかも主が主でいらっしゃること、いうならば、神様がすべてのものを統べ治め、すべてのものを握っておられるのだ、ということを知ること。それはとっても素晴らしい恵みなのです。というのは、いつでも力をもって私を支えてくださっている神様の見えないご愛の手を、手触りを、手応えをしっかり掴むならば、これ程大きな宝はありません。子供が「お母さん、大丈夫よ。何かあったとき僕がそばにいるからね」と言われて、それで安心しているけれども、そんなのは当てになりません。必ず裏切られます。でもいちばん確かな、確実な御方は神様です。だから早くその神様に出会って、「神様、あなたが主です。あなたにはできないことはありません」と言い得るようになって欲しい。これが神様の切に願っている事です。私たちに繰り返し、「わたしが主であるよ」「わたしが神であるよ」と教えようとして、暗い所、ひそかな所、隠れた所へと私たちを引き入れてくださる。そこでしか会うことのできない恵みがあるからです。

 

「ヤコブの手紙」に戻りまして、1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。まさにこのとおりであります。「非常に喜ばしい」、試練に遭うとき、苦しいこと、つらいこと、悲しい出来事、暗い所、ひそかな所へ私たちが引き入れられて、お先真っ暗、この先どうなるだろうか、と思うその中にあって、実は、神様は私たちにご自分をあらわしてくださいます。神様は私たちの信仰を整えて、神が神でいらっしゃること、主が主でいらっしゃることを確かなこととして信じることができるようにしようとしておられる。だから、試練に遭うことは非常に大きな恵みです。3節に「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」とあります。その試練を通して信仰が試される。いうならば、私たちの信仰がいよいよ強固なもの、揺るがないものに変えられていくことです。その試練がなければ信仰があるかないか分からない。調子がよくて、何もかも物事が思いどおり願いどおりすべてがうまくいって、「感謝、感謝、本当に感謝、神様はこんなに恵んでくださって」と言っているけれども、いったん事の起こったとき、そう言えるか。

 

ヨブの場合もそうですね。あのヨブは、これほどの信仰のある者を見たことがあるか、と神様がサタンに自慢にしたほどの人物であります。彼は確かに品物を失い、家族を失いましたが、そのとき「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)と神様を賛美して一言も文句を言いません。それどころか「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」と、格好がいいですよね。ところが、いよいよ奥さんから捨てられ、自分の健康を失ったのです。そのときには、そういうことを言っておられない。まだ自分の健康がある、自分はまだ大丈夫、と思えている間は、子供が死んでも、財産を失って無一物になっても、まだ耐えられた。ところがいよいよ自分の健康を失って、生きるか死ぬかという瀬戸際に立ったとき、彼は「どうしてなんだろうか」「何がいけなかったのだろうか」と、悶々(もんもん)と悩み、心が落ち着かないのです。しかし、その悩みを通して神様は彼に近づいてくださった。ヨブが初めてそこで神様に出会うわけです。もしヨブにその悩みがなかったら、その試練がなかったら、彼は確かに信仰があるようで、そのままズーッと行って、いよいよというとき、どこかでやはり破綻(はたん)します。私たちもそうです。「私は信仰がある。私の信仰も何十年となるからこのくらいだったら、もうコケも生えて立派なものだろう」と思うけれども、それが盆栽ならいいですが、信仰ばかりは年数がたったからどうということはない。私たちの信仰は「今、どのように神様を信頼し、信じているか」が問われることです。過去がどうであろうとあまりそれは関係がありません。過去にどんなに信仰がありました、と言っても、今なければそれはゼロです。過去に何もなくても今、信仰があればその人は幸いです。「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(マタイ 20:16)と言われます。信仰ばかりは、年功序列ではありませんから、「あの方は先輩ですから」なんて、先輩だろうと何だろうと信仰がなければおしまいです。ここにあるでしょう。(講壇の後ろに掲げてある今年の標語を指して)「わが義人は信仰によって生きる」。その信仰があるかないか、どうやったら分かるか。これは試練に遭わなければ分かりません。なぜなら試練に遭うことは、それによって自分に信仰があるかないかが試されますし、そこで神様に触れることができます。あのヨブのように「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ 42:5)と、まるで見ているがごとく、神様をはっきりとつかむことができる。これは試練を受けるときです。試みを通るときです。だから、信仰生活の中で試練があることは、幸いなことであると同時に、決してなくならない。

 

 「ヤコブの手紙」1章2節に、「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。いろいろな問題に遭うとき、悩みに遭うとき、それから逃げないで、それにつぶされないで、むしろ大いにその試練に信仰をもって立ち向かおうではありませんか。今年もどういうことがあるか分かりません。この一年、いろいろなことがあるでしょう。それは当然であります。無いとは言えません。しかし、その中にあって信仰が試され、忍耐が生み出され、やがて私たちが造り替えられ、神様に出会うことができ、神様の確実な手に触れることができる。これは幸いな恵みのときであります。イスラエルの民は40年間、荒野の旅をいたしました。そして、その最後にカナンに地に入ったわけですが、そのことをステパノが語っているメッセージのなかに「イスラエルの民は40年の荒野にあって、はぐくまれて……」とあります。「はぐくむ」とは育てる意味ですが、神様は荒野という場所に彼らを導きいれて、いろいろな問題、悩み、それはもう様々なことがありましたが、そういう困難を通してイスラエルという民を育ててくださった。成長させてくださった。いうならば、訓練をしてくださったのです。私たちも今その旅路なのです。私たちを造り替え、私たちに信仰をはっきりとさせてくださって、神様の確かな手を体験することができるように、いろいろな問題や事柄を置いてくださるのです。

 

この年も私どもはいろいろなことに遭いますが、それに動かされないで、心を新しくして、しっかりと覚悟を決めて、まず神様を求めることです。神様に信頼する信仰を確かなものにしていきたいと思います。いろいろな悩みに遭うと、その目の前の問題を早く解決しようとします。病気であると、その病気が早く治るようにということだけを一生懸命に思います。それは確かに必要でしょうけれども、もっと大切なことは、その病気とか、何か悩みや問題があったとき、その問題を解決する以上に自分が神様に対してどんな思いを持っているだろうか、この問題を通して私は神様をどういう方と信頼しているだろうか。このことを通して神様が私に教えようとしていること、与えようとしてくださる恵みは何だろうか、しっかりと求めていくことです。だからイエス様が言われるように「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ 6:33)とはそのことです。そのことをはっきりと知りまして、神様と私という関係がしっかりと出来上がってきますと、具体的な事柄もきちんと整えられてきます。神様のほうが思いがけない道を備え、わざを起こして、私たちの目の前に具体的な問題を解きほぐしてくださる。解決に導いてくださいます。ところが、そうしないで闇雲にまず早くこの問題を何とかしよう、目の前の事柄を、具体的な現象、あらわれている事柄を何とか早くああしよう、こうしよう、ということばかりに心が奪われてしまうと、神様の御思いから離れていきます。だから、何とかこの悩みから逃れようとするのではなくて、神様、あなたはどういう御思いでこのことを起こしてくださったのでしょうか。神様、あなたはここで私に何を教えようとしてくださるのですか。神様、あなたに信頼する私の信仰は本当に確かなものかどうかを点検する。そして、自分の神様に対する思いをしっかりと整えていきたい。そうしますと、私たちが遭っている試練は大変喜ばしい結果を生み出してくれるのです。

 

 2節にありますように、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。今はそうは思えなくても、是非その事態に当たったときに、そういう問題に当たったとき、まず喜んで感謝して、そこからどのように神様が私たちを扱ってくださるか、そのことを真剣に祈って求めましょう。詩篇の記者が「困難(くるしみ)にあひたりしは我に善(よ)きことなり」(詩篇119:71文語訳)と言ったように、この苦しみがあったればこそ、私の今があるのですと言えることは、どんなに大きな感謝であり、喜びでしょうか。

 

 ですから、ただに問題がないこと、事がないこと、順調にいくことばかりを求めようとしますが、そうではなくて、いや、それどころか、実はいろいろな試練に遭うことを通して造り替えられ、また神様のご愛と恵みを味わい知ることができるのです。「ローマ人への手紙」にありますように、「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と。そして「希望は失望に終ることはない」と言われています。そのような神様を深く知り、神様にしっかりと結びついて、どんな問題のなかにあっても揺るがない者へと造り替えられていきたい。

 

この年も与えられている大切な課題がありますから、神様は一人一人に必要な試練を与えられるに違いない。だからといって怖(こわ)がることはいりません。神様は共にいてくださいますから、そのなかで真剣に主につながって、神様の備えてくださる宝を、ひそかな所の宝を手に入れていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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