いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(136)「旅人として」

2014年02月13日 | 聖書からのメッセージ
 ヘブル人への手紙11章13節から16節までを朗読。

 13節に「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。
 この11章は「信仰とは」という言葉から始まって、「信仰とは」あるいは「信仰によって」という言葉が繰り返し記されております。しかも信仰によって生きた人々の証詞、名前、そのようなものが記されています。私どもは今信仰によって、イエス・キリストの救いにあずかって、生きています。では、「イエス様の救いにあずかる」とは、どのようなことでしょうか。

13節には「地上では旅人であり寄留者である」と記されています。言うならば、この地上の生涯、日々の生活、これは旅先、一時的な生活です。「寄留者」とは、一時的に滞留する、とどまる人のことを言います。本来、そこにおるべき者ではない。これが旅人であり、また寄留者の特徴です。私どもも国内や海外旅行をしますが、それは自分の家を離れて新しい体験、未知の生活に入って行くことです。普段とは違う、日常とは全く違う経験をしますから、随分気晴らしにもなりますし、また違ったストレスも掛かってきます。しかし、旅先で少々苦労しても、困難があっても、「これは旅先なのだから」と思います。

国内旅行は言葉が通じますし、食べるもの、あるいは生活習慣が同じですから、それ程違和感はありませんが、いったん国を離れて海外に出ると言葉は通じない、食べるものも違う、あるいは物の考え方や生活習慣も違う。そうなると、なかなか思うように、考えたように、願ったようにはいかない。先般もイタリヤにまいりまして、そのようなことを痛切に感じました。以前にも一度ローマに行ったことがありますが、そこからイタリヤ国内に住んでいる姉妹に小包を送ろうと思い、郵便局へ行きました。小さな町の郵便局では英語が通じないだろうから、イタリヤの首都ローマの中央郵便局なら大丈夫と思い、タクシーに乗り、そこへやってくれるように言いました。そうすると運転手さんが「いや、そんな所まで行かなくても近くに郵便局があるから、そこから出したらどうだ」と、彼は片言ながら英語がしゃべれたものですから、そのように言いますが、「いや、どうしても中央郵便局へ行ってくれ」と言って、連れて行ってもらいました。ところが、その郵便局にはあいにく英語をしゃべれる人が誰もいない。それで手振り身振り、私は初めて当惑しまして「どうしようか」と思いました。抱えている小包があります。小さな段ボール箱を用意して行きましたから「これを送りたいのだ」と一生懸命に日本語と英語とチャンポンにして言うけれども、相手は首をかしげるばかりです。そのうち「あちらへ行け」と言う様に指をさしますから、行ってみますが、どこが小包の受付か分からない。難儀して、それでも身振り手振りで何とか「書け」と言うものに書いて渡して、料金を払ったのです。着くか着かないか、これは分からない。神様に委ねました。しばらくしたら「受け取りました」という知らせを受けまして、「なるほど、あれでうまくいったのか」と。そのように小包一つ送るだけでも、てんやわんやです。時間が掛かります。これは外国ですから仕方がない。だからといって、腹が立つとか、苛立つことはありません。「これは仕方がない、外国だから」という思いがあります。“旅の恥はかき捨て”、少々失敗しても構わないと。

でも旅先でそのような失敗をしますと、逆に楽しいのです。事がスムースにとんとん拍子にいった旅は印象に残らない。帰ってきて、後で家内とよく思い出話をしますが、失敗話ばかりです。「あの時あなたが、ああして、あそこでこうなって……」と笑う。また次にこちらで私は「家内がこんなことを言ってそのためにこのようなことになった」と。そのような失敗談のほうが楽しい。なぜ失敗を楽しめるのか。日本ではできません。郵便局へ行って小包を送ろうとして通じないことはまずない。できて当たり前。何もかも自分が注文したとおりのものがくる。こなかったら文句を言う。そのような生活に慣れています。しかし、いったん外へ出ますと、全く通じない。でも、その通じないことは、旅先であるということで、むしろ楽しい。

今お読みいたしました聖書の14節に「そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」とあります。松尾芭蕉も確かに「人生は旅だ」と言いました。では、旅の終わりはどこに帰るのか?ここが非常に大切なことでもあります。多くの人は「人生は旅だ」とは言います。聖書には「そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めている」とあります。旅という以上は、本来居るべき場所があった。帰るべき場所があるからこそ旅です。そこが定住する場所であったら、旅とは言いません。旅は移動をしていくものです。しかし、私たちが「旅である」と告白することは、取りも直さず「私には帰る場所があります」と言っていることです。では、私たちはどこに帰るのか? それは私たちをこの世に遣(つか)わしてくださった神様の所へ帰っていく。聖書に、私たちは神様によって造られた者であって、この地上に神様によって遣わされてきたと。ところが、どういうわけか、そのことを知らないままに生まれてきた。お母さんのお腹から「おぎゃー」と生まれたときに、「私はこの家、この国に、この時代に、神様によって遣わされた者である」と自覚した人は誰もいません。「おぎゃー」と生まれた所は、どこであるかも分からない。選ぶこともできません。時代も家族も両親も選ぶわけにはいかない。ただ、神様によって遣わされていながら、その造り主を知ることがなかったのです。せいぜい「親が自分を作った」くらいに思う。だから自分の性状、性格など気に入らないことがあると、親のせいにします。「うちの親がこんなだから……」と。よく若い人たちの話を聞いていると、そのように言います。「うちの親を取り替えることができるのなら取り替えたい」というようなことを言います。私はびっくりしますが、親が自分を作ったのではありません。私たちを造られた神様がいることを知らないだけです。

私たちもそうではなかったでしょうか。長い間、自分が何のためにこの地上に生かされているか、そして「この地上はひと時の旅先である」ことを自覚せず、むしろ、地上というこの世の生活の中にどっぷりと浸ってしまって、地上は永遠に住むべき場所、変わるはずがないと思っている。変わっては困る、その先が分らないから、今というこの世に生きていることにしがみ付く、それに執着して生きていた時代があります。そのために悩みと苦しみ悲しみ苛立ち憤りの中に生きざるを得なかった。神様は、そのような私たちに、はっきりと造られた目的、また生きる使命、またやがて帰るべき所がどこであるかをはっきり教えるために、ひとり子、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。私たちは今、イエス様の救いにあずかりました。イエス様を信じて生きる者とされました。では、何が変わったのでしょうか。もちろん、このように集会に出て御言葉の解き明かしを受け、そして御言葉を通して、神様の命と力を日々いただくことができる。祈ることができ、悩みと苦しみの中にあっても力を与えられて、それに耐え忍んでいくことができる。確かにそのとおりであります。しかし、もっと根本的な事柄があります。

コリント人への第二の手紙5章14,15節を朗読。

これは実にはっきりとした救いの証詞、救いとは何かを語った御言葉です。14節に「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」。イエス様が私たちの罪のゆえに十字架に死んでくださいました。それはイエス様を信じる私たちも死んだのです。「いや、私は死んだはずはない。生まれたときから一度として、病気はしたことはあるけれども、死んだはずはない」と思いますが、肉体的に生活上、人生が死というもので途切れたことはありません。私たちは、これまではこの地上こそが、この世の生活こそがすべてであった。自分のために生きて、自分の利益と自分の夢を実現し、自分の欲得、情欲の赴くままに生きていた生涯から、今度はキリストによって生かされる生涯に変わった。そのことが「すべての人が死んだのである」というこの一言に込められている。私たちの古い、かつて神様を知らないで生きてきた生涯が、いったんそこで終わってしまった。徹底的に終わった、ということを「死んだ」と告白しているわけです。

私たちもかつてはそうではなかったでしょうか? イエス様の救いにあずかって本当に自分の罪の重さ、大きさ、穢(けが)れた自分であることを知って、その罪のゆえにイエス様が十字架に死んでくださった。本当に感謝感激して喜んで、大蔵川で、あるいは紫川で洗礼を受けた時のことを、忘れることはできません。

私も昭和36年4月のことでしたが、紫川で洗礼を受けさせていただきました。その時が私の一つの人生の終わりだったのです。では、それからは死んだままであったのかと言うと、そうではありません。別に墓はありません。しかし、死んでなお生きている私は、次にありますように、15節に「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。そこから生きる目的が変わる。それまでは自分のため、自分の家族のため、自分の欲得のため、あるいは自分の利益のために人生を生きようとした。夢を描き、自分にとって都合の良いように、自分が幸せと思えるものを追求して生きてきた。ところが、それをキリストと共に十字架に死んだものとなって、今度はキリスト、よみがえってくださったイエス様が、私たちの新しい命となってくださった。言い換えると、イエス様が私たちの生きる原動力、エネルギーとなってくださった。もう一つ言い換えると、私たちがイエス様を喜ばせるために、イエス様のために生きる者と変えられたことにほかなりません。そのことが15節に「生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのため」、私のために死んで今よみがえってくださっているイエス様、私たちの目には見えませんが、私たちと共にいると約束してくださったイエス様のために生きる生涯に変わっていく。では「イエス様のために生きる生涯」、それは、私たちがこの世に神様から遣わされた者となることです。

ヨハネによる福音書17章15節から19節までを朗読。

これはイエス様が最後の晩餐(ばんさん)の終わりにお祈りしてくださった祈りです。この中でイエス様は、父なる神様に願っていることがある。「わたしがお願いするのは」と15節にあります。「彼らを世から取り去ることではなく」と。イエス様の救いにあずかって、自分のためではなくてキリストのために生きる者となったから、どこかパラダイスとか、悩みも苦しみもないカプセルのような温室に、私たちを入れてくださいと、イエス様が願っているのではない。私たちとしてはそれのほうがいいかな、と思います。この世から私たちを取り除いて、神様の恵みの中に移し替えていただけるなら、それは本当に素晴らしいことに違いない。しかし、イエス様はそれを願ってくださったのではない。15節に「彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。16節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」。私たちが自分のために生きていた時代は、この世に生きる者として存在していました。ところが、今度はイエス様を信じて救いにあずかったとき、自分の生きる動機が変わる、目的が変わる。「キリストのために」、私のために死んでよみがえった方のために生きる。だからといって、この世から切り離されて、仙人のごとく雲やかすみを食べて生きる、そのような天上界に移し替えられるのではない。むしろこの地上になお生かされている。何のためにか? この世のものではない私たちを、この世に置いてくださるのは「私が遣わすからだ」とイエス様はおっしゃいます。18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」。イエス様が父なる神様から、神の御子でいらっしゃった方でありながら、あえてこの地上に遣わされた。罪ととがとに死んだ、悪に満ちたこの世に、イエス様が住んでくださいました。そのように、私たちも今度は、神様から遣わされた者として、この世に生きるように変えられたのです。ですから、私たちの日々の生活は、自分のために生きるのではない。キリストのために生きる生涯です。いわゆる、神様の目的にかなうものとして生きるべき新しい使命を与えられた。私たちは遣わされて、それぞれのご家庭に職場に地域に、そこで生きるべきものとして、神様がそこへ立ててくださいました。置いてくださっている。どうぞ、このことをしっかりと心に定めておきたいと思います。

「わたしが世のものでない」。私たちはこの世と歩調を合わせて生きているのではなく、死んでよみがえってくださったイエス様によって生かされ、イエス様によってこの場所に派遣されて来ている。ですから、家庭の中にあって、職場に出て、あるいは自分の何か仕事をするにしても、自分のためにしているのではない。会社勤めをして、この会社のために業績を上げて、働いて、自分がいくらかでも会社に貢献してと、思うかもしれませんが、それが目的ではない。そこに神様が遣わしてキリストのために生きる生涯としてくださった。イエス様に仕えていく場所として、会社という目に見える組織があり、上司がいます。しかし、その中でその人に仕えているのではなく、そこへ遣わしてくださったイエス様のために生きる者となる。そのとき私たちは自由な生き方をすることができる。また、そこにいろいろな困難が待ち受けていて、悩みや苦しみがあっても、そこで父なる神様、派遣者でいらっしゃる神様が責任者なのです。全面的に私たちを守ってくださる。だから、どうぞ皆さん、何か事があって、「どうしようか!どうしようか!」とうろたえることはおかしい。泰然自若(たいぜんじじゃく)と、何があっても動じない。私はこの世のものではない、という自覚を持つ。いつでも帰るべき場所がある。これを私たちは忘れているのです。世の人と同じようになってしまって、気がつかないうちに、「ああなったらどうしようか!こうなったらどうしようか!」と、右往左往している。私たちが何のためにこの地上に生かされているか、その使命を失います。例えどのような事情、境遇、事柄の中に置かれても、私たちはこの世に永遠におり続ける者ではない。むしろこの地上の旅路は、ひと時の旅先です。やがて、その旅の日程が終わり、私たちの使命が終われば、神様はイエス様がふるさとへ帰られたように、私たちも天に迎えてくださいます。

ですから、18節にイエス様が言われるように「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と。「彼ら」とは、私たちのことです。私たちも、イエス様を信じることによって、この世に遣わされた者、派遣された者となる。この年頭に与えられましたみことばにあるように「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」(イザヤ43:10)という。神様の証人として、神様に遣わされた者として生きる生涯です。ですから、どのような問題や事柄の中にありましても、そこで絶えず神様が私たちを支えてくださっていることを信じて信頼して委ねていく生涯。これが私たちの求められている生き方です。

もう一度初めのヘブル人への手紙11章13節に「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。ここに「まだ約束のものは受けていなかったが」とあります。「約束のもの」とは何か? それは御国を継ぐ、神の国の世継ぎとして、神の国をいただく者として、具体的なその場所を受けたわけではありません。確かに今もそうです。私たちの見える現実は、さまざまな問題や悲しみや苦しみや痛みの中にあります。しかし、その事柄の背後に、やがて私たちは神様の所へ帰っていくという約束を握って生きています。イエス様が私を命をもってあがなって神のものとしてくださって、私が自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる者とされているから、なお地上に残されている、生かされている私たちは、神様によって生きる使命が与えられているのです。これは私たちの大きな恵みであり、また自覚していくべき事柄であります。

イエス様が「私が父なる神様から遣わされたように、またわたしもあなたがたを遣わす」とそのようにおっしゃられました。イエス様によって私たちはこの世に遣わされました。主のために生きる生涯、私は先日の戸畑教会の伊規須泰子先生の前夜式、告別式と列席させていただきました。じっと姉の生涯を振り返ってみますとき、まさにキリストと共に生きる、キリストのために生きた生涯だったと思います。詳しいことは省略しますが、結婚なさいまして、伊規須先生が献身伝道者となられて専念なさることになりました。やがて戸畑教会が新しく造られました。そして姉妹はやがてご存じのように一つの病に犯されました。15年くらい前でしょうか。お独りでは生活ができない。今振り返ってみますと、あれはその一つの兆候だったかな、と思えることがあります。姉妹はズーッと『ぶどうの木』にご自分の生活雑感、日々の思いを書いたものを出されていまして、非常に文章を書くのが好きで、本を読まれることが好きな文学少女だったのです。ですからそのように文章も大変に巧みに書かれる姉妹でありました。ある記事を読みますと、「ワープロを打ちながら指がどうも動かない」ということを告白している。たびたびに失敗をする。恐らくそのあたりから病気の兆候が始まった時期かなと、その記事を最後に『ぶどうの木』には投稿がなくなりました。

だんだんとその病状が進んでこられて、やがて病院での生活になり、一切のものが失われてしまいました。人間的に考えますと「どうしてなのだろうか。神様はどうしてそのような中を通されるのだろうか」と思います。私も先だってその葬儀を通して、私たちの人生はどういうものなのだろうかと考えました。 確かに悩みの中に、苦しみの中で、イエス様の御愛に答えて生きた姉妹が、どうして地上にあって、苦しいつらい困難な中を通らなければいけないのだろうかと振り返るのですが、しかし、もう一度考え直してみますと、それもこれも実は、神様が必要としてくださったこと。姉がそのような病気になることによって、逆に姉にとっては一切のものの感覚がなくなっていきます。この世に付けるものがどんどん取り去られてしまって、全く一切を神様の手に委ねる以外にない状況の中に置かれました。もちろんご主人もいますし、医療関係の方々が介護をしてくださいますが、それは神様がそのために備えてくださった業だった。そして姉をして、その生涯を通して、神様が主でいらっしゃることを証詞しようとしてくださった。われわれは、この主の証人として生きる使命が与えられています。人間的に考え、この世の価値観から言うと、体も動かない、何もできないから、無能であり無価値であると思いやすい。しかし、実はそうではない。一人一人、何ができるできないにかかわらず、そこに存在している、生かされていること自体が、神様からの使命なのです。それを通してそれにかかわるすべての人々に、神様が教えようとしてくださること、求めていらっしゃること、させようとしていることがある。

だから、福岡に久山療育園という重度心身障害児者施設がありますが、そこの園長先生が「重症の方、完全に24時間、365日介護を受けなければおれない方々がいることによって、お世話をしている自分が変えられていくのだ。そのような障害者がいらっしゃればこそ、それを介護する場が与えられている。またそのような人たちに心優しくなろうとする自分がある。もしその人たちがいなかったら自分がそうなる機会がない。だからこの多くの障害を持つ人たちは、神様からの賜物であり使命がある」と、書いているものを読んだことがあります。

それは私たちも同じです。私たちも今は動けているかもしれない。しかし、やがてどのような状況、事柄の中に置かれるかわかりません。どのような中に置かれましても、この世は旅先、そこで私たちが果たさなければならない使命がある。どのような中にあっても、神様が命の根源であり、その方が私たちを支えていらっしゃることを証詞していく業です。

泰子姉もだんだんとご自分で食べることができなくなりやがて胃瘻(いろう)という、胃に直接管を入れて栄養剤を投与するようになりました。しかし、それもやがて不可能になり腸閉塞(へいそく)を起こすようになりまして、今度は肩の静脈から高カロリーの栄養点滴を受けるようになりました。実は、そのような医療的な手立てで人が支えられているわけではありません。その間に泰子姉は何度となくお医者さんから「もう駄目でしょう」「もう無理でしょう」と言われることがありました。しかし、やはり神様が命を与えくださっている。人の力ではない。そのことを具体的に泰子姉はご自分の生涯を通して証詞してくださったのです。

ついに神様が「もう、それでよろしい」と、「人の子よ、帰れ」と終わるときを定めてくださいました。先週の火曜13日の朝6時45分、この地上の使命を全うして帰っていかれました。帰るべき場所がある。私たちも「走るべき行程を走りつくして」(2テモテ4:7)とパウロが語っています。私たちは何かすることが使命ではありません。私たちが今ある、その置かれた場所で、与えられた問題や事柄の中で、神様に信頼して、一切をみ手に委ねて、導かれている自分であることを、言わず語らず、生きることを通して証詞する存在であることを知っておきたいと思います。やがてその使命が終わるとき、私たちはふるさとに帰るのです。イエス様が「私たちのために場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:2)と。どうぞ、私たちはもう一度救いの原点、救われた私たちの使命が何であるかをはっきりとしておきたい。

もう一度、ヘブル人への手紙11章13節に「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」。私たちが、今、どのような状況や事柄の中に置かれていようとも、私のために死んでよみがえってくださった方に生かされている私だ、ということをしっかりと自覚して、主が「よし」と言われるときまで、何があっても主の力に握られて生きる。与えられた人生の命を終わるまで生き抜いていく者となりたいと思います。やがて、地上のすべての清算をしてくださる主が、私たちに報いてくださるときがきます。どうぞ、この御言葉を信じて、キリストを信じる信仰のゆえに、キリストのために生きる生涯を全うしていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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