いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(106)「喜び、楽しめ」

2014年01月05日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇92篇1節から15節までを朗読。

 4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。
 「みわざ」あるいは「わざ」という言葉が記されていますが、「神様のわざ」と言うと、何かとてつもない奇跡だとか、破天荒な出来事のように思います。しかし、私たちが今こうして生きていること自体が神様のわざなのです。詩篇139篇に、神様は私たちを母の胎に組み立て、時を定めて地上に命を与え、生まれてまだ一日も経たないうちに、一人一人の生涯をその書に記しておられるとあります。ですから、今この地上にあって生きていること自体が、実は神様のくすしきわざであると信じなければ、神様を信じることはできません。神様を信じていますと言いながら、自分の人生は自分が考える、自分の生活は私が……と、思っているのだったら、神様を信じていることにはならない。神様を信じるとは、神様がすべてのものの根源であること、力ある御手によって、私たちを生かし、持ち運んでくださっている。これを信じなければ神様を信じたことになりません。私達自身の生活、私というものを抜きにして信仰は成り立たない。どんなに高尚な議論をしても、聖書の解釈ができたとしても、その人自身が、今、神様の手で運ばれていることを確信していなければ、空理空論でしかありません。

私はいつもそのことを自分自身に問いかけます。自分が信じて生きなければ信仰に立つことができません。建前とか、このような話であると、一般的なことは言えるかもしれません。しかし、それは信仰につながらない。イエス様が「あなたはわたしをだれと言うか」と問われる。神様をどのような方と信じているか、また神様によってこの世に遣(つか)わされたひとり子、御子イエス・キリストをどのような方として、具体的に生活の中に置いているか問われます。そのように考えれば、日々の生活自体、今朝、目が覚めて、健康を与えられ、力を与えられて、この集会に導かれたこと、これも神様のなさることです。自分が昨夜から決めていたと思うかもしれませんが、思いを与え、願いを起こし、それを実現に至らせるのは神様です。私たちの心すらも神様が握っている。神様は私たちのことを全部お見通しです。頭の先から足の先まで、隠れることがないと記されているように、何もかも、神様は見ています。その上で、なお私たちに「これは道なり、これを歩むべし」と絶えず干渉してくださる。

高尚で立派な神学者などは、そのような考え方があまりにも卑小(ひしょう)、神様をちっぽけなものにしているではないか、神様はそのような細々とした日常雑多な生活の一つ一つまでは気にしていないのだと言われる方がいます。宇宙や人類を、また歴史を大きく支配しているのが神様で、どこにいるのかいないのかわからないような私達が起きたか寝たか、病気かどうか、そんなことまで神様は知るものかと言われた方がいますが、それは全くおかしいと思います。
神様が目を留めているのは私たち一人一人です。イザヤ書に「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とあります。神様は一人一人に直接かかわってくださる。また私たちの生活に干渉しています。神様に干渉されて、「嫌やなぁ」と思うかもしれません。私の生活に口を挟まないでほしいと思うかもしれない。しかし、私たちは神様によって造られたのだから、神様はほっとくわけにはいかない。創世記にあるように、アダムとエバは神様を離れて勝手な道を行きました。だからと言って、神様の手の中から外れたのではない。エデンの園で人は神と共に光の中にいましたが、エデンの東、ノドの地に追いやられました。そこは闇の地でした。その闇も光も実は神様の手の中にあるのです。そして人が闇を選んだのです。創世記にカインとアベルの記事があります。そこにも神様は出てくる。エデンの園を追い出されたのだから、神様と関係ない。お前たちは罪を犯したのだから、追放!とエデンの園を追放されたのだから、神様は「わたしは知らんよ、野となれ山となれ」と言うのではなく、エデンの園を追い出されるとき、裸でいた彼らに羊の皮の衣を着せてくれた。彼らが勝手な振る舞いをしても、神様は彼らを捨てたのではない。もう一度神様の所に帰ってくることを願っている。これが旧約聖書に言われている神様の御愛です。子羊の衣と言うのは、やがて備えられる主イエス・キリスト、十字架のあがないの予告でもあります。「エペソ人への手紙」1章に「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」「愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」とあります。人類が罪を犯して神様からのろわれた者となった瞬間から、神様は救いの道を備えてくださいました。それは私たちが神様のかたちにかたどられた者であり、神様にとってかけがえのない存在、「わが目に尊く重んぜられる者」だからです。神様は私達を愛してやまない。それどころか、やがてイエス・キリストをベツレヘムに生まれさせて、この世に遣わし、具体的に救いの道をはっきり立ててくださいました。ですから、私たちの今日の生活、今日の一日を放ったらかすはずがない。

「ひとり子を賜ったほどに」「限りなき愛をもって」私たちを愛している。何千年、何万年、何億年と言いますか、大宇宙の始まりから終わりに至るまで、人間の何十億年かの歴史をも、神様は司(つかさど)っておられるに違いない。パウロもそのように語っています。歴史を創り、国を造り、建て、そこに人を置いて、王を立て、王を廃し、すべてのものを御支配くださる方だと。そればかりか、小さな、小さな目に留まらないような存在である私たちにも、神様はちゃんと目を注いでくださいます。今日一日の業を神様が備えて導いておられる。私どもは、あれをしよう、これをしようと、一日のスケジュールを立てますが、それがなるかならないかは主の許しによるのです。主が許してくださらなければ、どんなことをしてもできません。また主が許されるなら、どんなに不可能と見えることでも、神様は知恵も力も与えて実現させます。だから、私たちがそれをしているのではなく、神様がそれをさせてくださる。これがイエス様の救いにあずかった私たちの生き方です。イエス様の救いに生きるとは、自分が生きるのではなくて、神様に生かされるのです。神様はいろいろな事柄の中に私たちを置いてくださる。そのことを信じることです。

4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。神様のみわざ、神様がしてくださる事、それは私たちの生活のすべてです。今日も神様のみわざの中に、私たちを楽しませようとして命を与え、生きるものとしてくださっています。この92篇の表題に「安息日の歌、さんび」とあります。安息日は週に一度、7日目、日曜日のことですが、旧約時代は土曜日が安息日と言われました。新約の時代、私たちは安息日という言葉以上に、「聖なる日」、「聖(きよ)い日」、または「主の日」という呼び方もいたします。それはイエス様がよみがえられた日をもって、その日を「安息日」、また「主の日」、神様に礼拝をささげる「聖日」にしようと決めました。旧約時代のように土曜日は安息日だと主張する方々もいます。しかし、旧約聖書に言われている安息日ではあるが、主の復活の日を記念して、当時の「週の初めの日」、今の日曜日を安息日とし、その日を「聖なる日」、「キリストの日」として大切に守ろうというのが、日曜日に対する考え方です。

安息日には何をするか。ここに「さんび」とあります。神様を褒めたたえるのです。ですから1節以下に「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです」。歌をもって神様を賛美し、褒めたたえる 。神様を喜ぶ。これが安息日の目的です。今もそうです。私どもは、一週間の旅路が終わって、新しい旅路が始まる週の最初の日、この安息日を定めて、こうやって時間を定め、場所を定めて、そこに集うことによって、神様のわざを感謝し、喜び、主を褒めたたえるのです。そのためには過ぎ去ってきた一週間の旅路が神様のわざだと認めることです。4節にありますように、「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」。確かに、何にも事がなかった一週間というのはありません。大なり小なり、必ずいろいろな事が生活の中に起こってきます。いい事もあり、自分にとって都合が悪かった事、願わなかった事もあります。しかし、何があったにしても、それは主のみわざであると認めて、受け入れる。これが安息日の目的です。だから、一週間を終わって、新しい週の初め礼拝に集います。そのときの心構えが大切です。今日は礼拝、何を着て行こうか。先週着たものと同じものではみっともないなどと、そんなことを考えて礼拝に集うわけではありません。今日は午後から出掛けねばならないから、礼拝によって行こうと、そういうことで礼拝に集うのではない。一週間の感謝と喜びと、悲しみと、思い煩いのいっさいを携えてくる。そこで神様に感謝するのです。自分にとって都合の良かったことも悪かったことも、うれしかったことも悲しかったことも、どれもこれも、神様、あなたが私にしてくださった恵みですと告白するためです。そうすると、讃美歌を歌うにもしょぼくれた歌い方にならない。力がわいてきます。そのような思いがないから、疫病神に取り付かれた一週間と思いながら来ますから、讃美歌の声が小さくなります。そうではなく、神様がいろいろな中で私を導いてくださった。「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(Ⅰコリント15:10)。今日このところまで、神様が私を導いてくださった。その中には良いことも悪いことも……、良い悪いは自分勝手です。神様が良いとして、与えてくださるのですが、それを悪いと思うのはこちらの勝手な言いぐさ。「そのすべてが実は神様、あなたのわざでした」。ここをはっきり神様の前に心を定めることが、神様を礼拝することです。

私はいろいろな人に会いますが、体験的に人間には二つのタイプがあると思います。「これしてみたらどう? 」と言うと、「いや、それはできないよ」と、「じゃ、こちらはどうなの、これはいいじゃない? 」と言うと、「いや、それもちょっと……」と必ずネガティブ(否定的)に答える人。「いや、無理よ」、「いや、できないよ」と必ずそこから始まる。「駄目なんだけれども、嫌なんだけれども、仕方がない、言われるから……」と引きずられるようにして過ごす。結局、楽しめないで終わる人と、片や「こうしたらどう? 」と、「いいね!」とポジティブ(肯定的)に受ける人と二つのタイプがあります。できないくせに、なんでも「いいわ!」と飛び掛る人は、案外と先が明るい。家内なんか比較的そちらのほうで、後先考えないですぐに乗る。「これしようか? 」、「ああ、いいね!」と。もっとも後で悔やむときもありますが……。中には非常に慎重な人がいて、「それはいいけれども、でもちょっと……」と出来ないこととか、危険なこととかをあげつらって、なかなか腰の上がらない、押しても引いても動かない方がいます。神様は善にして善をなし給う、一番善いことをしてくださる。しかし、私たちが、それを否定的に受け取る。そのためにせっかく楽しんでいいはずなのに、楽しめないで暗く過ごしている。これは不幸な姿です。

今週も振り返ってみると、なんの楽しいこともなかった。ブスッとしている。でも考えてみたら、あそこへ行ったじゃない、あのことがあったじゃない、このようなことも……、「あれもあったが、しかし……」「でも……」と、必ず駄目だった方へもっていこうとする。イエス様の救いにあずかった私たちには、どれ一つマイナスはない。自分は、家族が提案してくることも、気分よく乗れない。ご主人や子供さんが、おばあちゃんとかお母さんに「ああしよう。こうしよう」と言うと、「あんたたちは行けば、私はお金が無い」とか、何とかが無い、健康が無い、時間が無いと、必ず無いということで、断る口実ばかりを探し出そうとする。そして「それじゃ。お母さん、おいとくから……」と、孫や子供たちが楽しげに行くと、残されて一人だけブスッとして、もう一言いってくれたら、一緒に行ったのにとなります。そのようなときは、信仰から離れているときですから、これは不信仰病(やまい)の兆候(ちょうこう)だと思ってください。

まず断って事を始めていく。ネガティブに入っていこうとしやすい。どんなことでも神様は、私たちを喜ばせ、楽しませようとしてくださる。ですから、人から誘われ、勧められたら、「いいね!」「あ、そうだね!」「それもいいね!」と言ってください。プラス思考と世間でも言いますが、私たちのプラス思考はそれなりの根拠がある。それはイエス様が、「よし」と言われる限り大丈夫ですから、イエス様の手の中にあって「いいねぇ!」「それは、いいよ。神様がしてくださるのだったら、そうしようじゃない」と、どんどんプラスにいけばいい。世の中のプラス思考は、無責任なプラス思考です。取りあえず、前向きにいこうじゃないかというだけで、根拠がありません。しかし、「主もし許し給わば」とあるように、神様の手の中にあるのですから、神様が「よし」と言われたら、どのようなことでもできる。でも、神様が「駄目」と言ったら駄目です。自分で良い悪いは決められない。どんなことでもプラスでいけばいい。どんなことでも楽しもうとすることが大切です。礼拝で「この一週間、神様、あなたは私を本当に楽しませてくださいました。あんな悲しいこともあったし、あんな苦しいことも、あんな痛いこともあったけれども、楽しかったです」と祈ってご覧なさい。そうしたら全部楽しくなる。神様はそのように変えてくださいます。ところが、自分で楽しもうとしない。

詩篇92篇12節から15節までを朗読。

12節に「正しい者は」とありますが、これはイエス様によって神の義を着せられた私たちです。私たちは自分が正しいのではありません。それどころか悪の塊(かたまり)です。しかし、そのようなものを憐(あわ)れんで、イエス様が十字架にあがなってくださった。私は正しくないけれども、神様が正しい者として受け入れてくださいました。だから、ここでいう「正しい者」とは、イエス様の救いにあずかっている者です。イエス様を救い主と信じている人は「なつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます」。「主の家に植えられ」、神様のものとなり、「われらの神の大庭に栄えます」と。ここは全部プラス思考です。どこにもマイナスはありません。14節に「彼らは年老いてなお実を結び」と、「年老いる」とは、なんだかマイナスのような感じがしますが、ここはそうではない。年老いることが実を結ぶことにつながっていく。私たちは今神の家の大庭に植えられた木、なつめやしの木です。ところが、段々枯れて実を結ばなくなってきます。これでは、この地上に命を与えられた目的を果たせない。私たちは「年老いてなお実を結び」、「いつも生気に満ち」と、生き生きとしていなければ駄目です。神様の霊に満たされて、命にあふれて「北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園を吹きてその香気(かをり)を揚げよ」と雅歌4章に記されているように、何がきてもいい、私には命があるから。これが私たちの生かされている目的です。「年老いてなお実を結び」、神様を褒めたたえ、感謝賛美し、喜んで生きること。これが、神様が願っていることです。15節に「主の正しいことを示すでしょう」とあります。神様が私たちの命であることを証詞する広告塔として私たちが生かされ、遣わされている。それぞれの家庭、その地域、社会にあって、「レバノンの香柏のように」、「なつめやしの木のように」青々として、「年老いてなお実を結び」、「いつも生気に満ち、青々として」いる。これが私たちを生かしてくださる目的です。そのことをいつも自覚したいと思います。

いつも喜びと感謝に、命に輝いていたいと思います。だから4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。恵みと言うと、つい自分の都合のいいことを思う。そうではなくて、病気をしたことも、何か困ったことの中にある、心配なことがあることも恵みですから、どれもこれも感謝し喜ぶ。神様は、私たちを楽しませようとしているのですから。
5節以下に「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、 6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません」。私たちの思いを超え、考えを超え、はるかに大きなことを神様は備えてくださいます。どうぞ、この神様の力の中に、御手の中に私たちがはぐくまれ、持ち運ばれていることを感謝してください。自分が今週も駄目な一週間だった、人生最悪の一週間と思うときには、自分は愚かな者、鈍い者だと思ってください。神様のみわざであることを悟れない、信じられないからです。喜び楽しむ者として、この地上に命を与えられているのです。神様は私たちそれぞれにわざを備えて、顧(かえり)みてくださるのです。

「ペテロの第一の手紙」にありますように「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。どのようなことでも、神様は見ている。知っている。だから詩篇139篇にありますように、あなたがすわるをも、立つをも知り、あるいはあなたの心の中にある思いを、言葉に出さない思いですらも、神様は知っている。それを知った上で、一人一人に必要なものを備えてくださる。 

マタイによる福音書6章31節から34節までを朗読。

32節に「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」と、さまざまな生活のことで思い煩う、命のことで思い煩うことは異邦人、神様を知らない人たちがせつに求めていることです。では、私たちはどうなのか。その後に「あなたがたの天の父は」、私たちのお父さんでいらっしゃる神様は「これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」。神様は、私たちに必要なことを全部知っている。神様が悲しいことを起こし、苦しいことも与えられる。楽しいときもある。うれしいときもある。それらが私たちに必要だから与えている。「必要であることをご存じ」と。だから、自分はどうしてこんな病気になったのかと嘆きますが、神様はこの病気になることがお前には必要だと思ったから与えてくださった。私はどうしてこんなに財布が空っぽなのだろうかと失望しますが、あなたにはそのことが必要だから、神様がそのようにしていらっしゃる。私はお金が必要だと言いますが、神様は、いや、無いことがあなたには必要なことだと。だから、神様のわざを感謝したらいいのです。
33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。神様をまず求めさえすれば、「すべて添えて与えられる」。付録として、おまけとして、すべての必要なものを与えてくださる。34節に「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」。だから、何にも心配することはない。神様がしてくださることに自分を委ねてさえいれば、神様が持ち上げてくださる。沈められれば、沈んでいればいい。浮いたり沈んだり、神様が楽しませてくださる。これが私たちの人生です。

 スペースワールドに行くと、大きなレールがうねったジェットコースターがあります。それに乗って、ワーッ、キャーと、悲鳴が聞こえます。そんなに怖いのだったらやめればいいのに、また乗ろうと……。私は怖いから嫌ですが、若い人は必ず、「もう一回、もう一回」と繰り返す。「楽しい!」と。「悲鳴を上げるくらいならやめなさい」と言うのですが、その悲鳴を上げるのが楽しくて仕方がない。

 人生もそうです。キャーこんな怖いこと、ワーッこんな嫌なことと、楽しめばいい。ディズニーランドの紹介をしているテレビを見ておりましたら、水を掛けるウォーターなんとかという遊具がある。掛けてもらいたくて集まる。キャラクターの動物のようなものがあちらこちらに水を掛ける。ぬれるから危ないですよ、と言われているけれども、喜んでそこに行く。そしてずぶぬれになりましたと、笑っています。傘がなくて、雨に濡れるのだったら、しょぼくれるでしょう。私どもは自分勝手です。ぬれるのを喜ぶように、神様のわざをどんなことでも楽しんだらいいのです。行き着く先は天国しかないのですから、死ぬことを恐れることはいらない。だから「あすのことを思いわずらうな」と。一日一日、主が楽しませてくださいます。神様のわざの中に今日も生きる。そのことを心に置いておきたい。何か不安なことがあるとき、心配なことが起こってきたとき、今、私はジェットコースターに乗っているのだ、そのうち降るぞと、期待していけばいい。神様はどのようなことをしてくださるのか、ここからどのように私を楽しませてくださるだろうか。神様に期待したい。34節に「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらう」と言うのは、いい加減なことではありません。無責任な言い方ではない。神様はわたしが付いているのだから、わたしが万事万端、あなたがたの必要を知っているのだから、心配するな。世の人々のように、「仕方がない、野となれ山となれ、どうにかなるさ」という意味の言葉ではありません。この御言葉には確かな神様の裏付けがあるからです。だから心配するなと言われるのです。

 神様が「下には永遠の腕あり」と、しっかりサポートしてくださる。神様のわざに生きているのですから、感謝して、喜んで、そのわざを楽しんでいきたいと思います。そして「年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち」と、そのような新しい人生をここから歩もうではありませんか。神様は、それを私たちに願っているのです。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。





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