いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(248)「主の喜ばれる献げ物」

2014年07月03日 | 聖書からのメッセージ

 ローマ人への手紙12章1,2節を朗読。

 

 1節「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。

 これは皆さんもよく聞き覚えている御言葉の一つであろうと思いますが、私はこの御言葉はどういうことを言っているのか、なかなか得心するところがなかったのです。ここに「聖なる供え物としてささげなさい」と言われると、カチンとくる。「何を取られるのだろうか」と。しかもそれが「霊的な礼拝である」と言う。どのようにつながってくるのかなと思う。「分からないな」と思っておったのです。「分からない」というのは、「ささげなさい」という言葉に引っ掛かるのです。教会に来て、「ささげなさい」と言われると、何を要求されるのかなと警戒する。

 

 ところが、最近教えられたことですが、「礼拝」と「ささげる」とは密接なつながりがあることです。「礼拝」というと、日曜礼拝のことを考えますが、もちろんそれは一つの代表的な、具体的な礼拝のあり方です。しかし、本来考えてみますと、イエス様の救いを頂いた私たちは、「礼拝の民」と言われています。神様を礼拝する者として召された者であります。イエス様の救いとは、いろいろな表現の仕方がありますが、「礼拝をする者とされた」ことがその一つです。「神の子である」とか、「罪を赦されて永遠のいのちにあずかる」ことも、あるいは「よみがえってくださったイエス様は私たちと共にいてくださる」ことも「救い」を表した言い方です。

 

「礼拝をする者となる」というのも、一つの大切なことです。「礼拝」とは、日曜礼拝、週に一度教会に集まって礼拝をすることが「礼拝」だと思われますが、それはいちばん身近な受け止め方です。同時に、神様の前に「礼拝の民」として、毎日を生きる。神を礼拝する者として救われたのだと言えます。そんなことが救いなのだろうかと思われるかもしれませんが、神様を礼拝することは、エデンの園の創世の初めの時を考えるならば、当然のことだと思います。神様と人とが共にある生活。そこでは神様を礼拝していたのです。礼拝とは居住まいを正して、神様の前にしゃちほこ張ってと言いますか、きちっと姿勢を整えてという、そう形をつくることが礼拝なのかというと、そうではありません。礼拝とは毎日の生活を神様にささげる。旧約聖書を読みますと、イスラエルの民が礼拝の民として絶えず神様の前に立つと言いますね。幕屋、あるいは神殿があって、そこに大祭司、祭司と言われる人たちがいて、人と神様の間を執り成している。神の民、イスラエルの民は、絶えず神殿に出掛けて行って、神様の前に礼拝をささげる。そのためにはささげ物をしました。罪祭であるとか、燔祭(はんさい)であるとか、素祭、愆祭(けんさい)とか、いろいろなささげ物の仕来りが決まっていた。そして、ささげものをして神様を礼拝したと記されています。そのように物をささげたり、あるいは事をささげたりするのが礼拝かというと、それも礼拝の一部分ではありますが、すべてではありません。そうなると、礼拝とは何かということになります。礼拝とは、自分のすべてを神様のものとしてささげることです。

 

イエス様がお生まれになった時、ベツレヘムの馬小屋に、東の国から3人の博士がやってきます。彼らはイエス様の前に、黄金・乳香・没薬というささげ物をもってイエス様を礼拝しました(マタイ 2:11)。黄金・乳香・没薬とは、イエス様が王であり、救い主であり、また祭司である、それぞれの権能と言いますか、役割に対して、それを告白し、それを認め、その前に自分を投げ出す。これが礼拝なのです。礼拝をするためには神様の前に出なければならない。神様の前に出るには、罪があっては出ることができません。だから、神様の前に近づくことができるように、まず自らを清めなければならない。どうやって清めるのか、方法がありません。カトリックの教会へ行くと入り口の所に聖水というのがあって、それをパパッと振り掛ける。あるいは神社に行きますと水が流れている、そこで手を洗ったり、時にはうがいまでしている人がいますけれども、口もゆすいで行く。やはり神様の前に出る以上、今のままでは良くないと誰もが思っている。どこか神様にとがめられることがあることを知っています。人には言わないけれども自分なりに分かります。だから、それを清めてほしいと思うから、そのようなことをします。

 

では、真(まこと)の神様の前に出るにはどうするか、方法がないのです。ただ一つ、神様が備えてくださったのが十字架です。だから、イエス様を信じると、罪を赦していただき、清められて、神様に近づくことができる者とされる。これがイエス様の救いです。イエス様が十字架にご自分の命を捨て、血を流して私たち一人一人の罪を、過去、現在、未来にわたってすべてを赦してくださって、とがめられる所のない者、義なる者としてくださった。それを信じて神様の前に出ることができる。だから、今、はばかることなく神様に近づいて、「天のお父様」と親しく呼び求めることができる。これは私たちの大きな恵みです。それと同時に、神様と私たちとの関係がどういう関係であるかを告白することが礼拝なのです。

 

私たちはかつて自分が王様で、私の人生、私の体、私の健康、私の家族、私の仕事、等々、すべてありとあらゆるものが全部「私のもの」であったのです。子供だってそうです。時には孫すらも「私のものだ」と言う人がいる。息子や娘を飛び越して、そういうおばあちゃんがいたのを思い出しますが、そのくらい何でも自分のものであったのです。ところが、イエス様は何を私たちにしてくださったのか。私たちを買い取ってくださったのです。

 

コリント人への第一の手紙6章19,20節を朗読。

 

ここに「もはや自分自身のものではない」「代価を払って買いとられた」とあります。イエス様の救いにあずかったとは、取りも直さず、私たちは「もはや自分のものではない」ということです。今までは私の健康であり、私の家族、私の仕事であったものが、今はそうではなくて、主のもの。だから「もはや自分自身のものではない」「代価を払って買いとられた」。私たち一人一人を、神様が「代価を払って」買い取ってくださった。その代価は何であったか。ひとり子、イエス様の命です。だから、私たちはもう買い取った方の所有です。私どもがお店に行って物を買う時もそうですが、お金を払ったらそれの所有権はこちらに渡ります。だから、イエス様を信じるとは、私は神様のものですと認めること。これがイエス様を信じることであり、救いです。イエス様を信じているけれども、私は私、イエス様はイエス様ということにはなりません。私たちは「代価を払って買いとられた」、主のもの、神様のものとなっている。ところが、実際の生活ではどうもそれがはっきりしない。こうやってお話を聞いている時は、「うん、なるほど、そういうことか、なるほど」と理解はしますが、いったん会堂の外に出た途端に、あるいは家に帰って扉を開けて玄関に入るなり、「私はあれをしなければ」「私は……」「私は……」と、神様はどこかに行ってしまって、自分が神様のもの、主のものだという自覚が消えてしまう。そのことを聖書では「神のものを盗んでいる」と言っています。神様がせっかく代価を払って買い取ったものを、私たちが勝手に神様の手から盗んできて、「自分のものだ」と言っている。これはおかしい。私たちは主のもの、神様のものとなっているのですから、それを認めることが礼拝です。

 

 だから、ローマ人への手紙12章1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。「ささげなさい」と言われると、自分の物を取られるように思いますが、今申し上げたように、そもそも私たちは主のものなのです。主のものを主にお返しする。「ささげる」という言い方は、自分のものを取られるような感覚ですが、実はそうではありません。「そうなんだ。すべてはイエス様によって買い取られて、私たちのものではない」。そのようにコリント人への第二の手紙にもあります。「自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(5:15)「生きているのは、もはや、わたしではない」(ガラテヤ 2:20)とパウロは言っています。「私の内にキリストが宿って、私を生かしてくださる」。私が生きているのではなくて、主が私を生かしてくださる。私は主のものであると、日々に神様のものとなりきっていかなければならない。「いかなければならない」と言うと、宿題を負わせられたように思いますが、これが私たちの大切なことであり、いのちです。だから、朝起きて夜寝るまで、私たちの生活のすべて、「からだ」とありますが、直接的な自分の身体もそうですが、その体を養い、包んでいる生活の一切、家庭も仕事も、家族も、どんなものも、これは主のものなのだと認めること。これが礼拝です。だから「これは主のものです」とささげること。言い換えると、主の所有であることを告白すること、これが礼拝です。それは毎日神様の前に整えていかなければならない事です。そして、神様の前に礼拝した毎日の礼拝の集大成が、日曜日の礼拝につながってくる。だから、私の仕事、私の何とかと言いながら、日曜日の朝だけ礼拝に行って、「これは主のものです」と言うだけだったら、これは意味がない。普段から、日々の生活から、一週間の月曜日から土曜日まで毎日、「今日は主のもの、私は主のもの、神様のものです」と、常に自分を神様の手に切り離してささげる。というか、本来神様のものなのですから。言うならば、心ひそかに自分のものだ、私のものだと神様の手から盗んでいる。日々、悔い改めて「これは全部主のものでした」とささげること、これが大切な礼拝です。そのような礼拝が一週間続いて、日曜日に公同の礼拝として、時を定めて場所を決めてここに集まるのです。そして、ここで集まって何をするか。説教は聞きますが、しかし、御言葉を通して礼拝の中で自分が握っているもの、「自分がこれは許せん」とか「これは私が何とかしなければ」と、「これは……」と思っているその一つ一つを手放して、神様の前に「これは神様、あなたのものです」と、自分自身の体を、自分をささげるのです。「献身」という言葉がありますが、自分を神様にささげることです。「神様、私はあなたのものです」とはっきりと告白すること。そして、思いを切り替える。これが霊的な礼拝です。

 

だから、1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。目に見えない神様に私たちの体も含めて生活の一切、経済的なことも、有形無形ありとあらゆるすべてのもの、「私につけるものは全部主のものです」と空っぽになることです。「私のもの」と思うものを全部神様のほうに移し替えること、これが礼拝です。礼拝すると、私たちは空っぽになるのです。思い煩いとか心配だとか、不安だとか恐れがある時、神様のものを自分が盗んでいるからです。人のものを盗んだ後、心が落ち着かないでしょう。子供のころ、親の財布からチョロッと盗んであめでも買って食べた時不安になる。だから、皆さんが心配だとか、夜も眠れない、あのことが気掛かりだ、このことが気掛かりだと言っているときは、神様のものを盗んで自分のものにしているときです。だから、神様を礼拝することによって、すべてのものを神様の手にささげる。本来神様のものなのですから、それを「これは神様のものです」とささげる。自分の老後のことだとか、家族のことであるとか、息子や娘、孫たちのことにしろ、いろいろな心配があります。「ああなったらどうしようか」、「こうなったらどうしようか」と。でも、それは私が心配することではない。神様が心配なさる。それは神様のものなんだから、それはそうでしょう。人のものをわざわざ心配してあげる人などいないでしょう。私たちはもう神様の所有となっているのですから、一切が主のものであることをはっきりさせて、神様に全部お返しする。「子供のこと、これも私のものではありません。主よ、あなたのものです」「私の将来について、私自身が、神様、あなたのものですから、私はあなたに従う以外にありません。どうしましょうか」と聞けばいいことであって、悩むことではない。悩むということは、取りも直さず、神様のものを自分が盗んでいるから、不安で仕方がないのです。心配が付きまとうのです。だから、早く神様に手放して、「これは主のものです」とささげる。それが礼拝です。主のものを主のものとして主にお返しする。これが、救われた者の務め、礼拝の民として生かされた私どもです。

 

イエス様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」(マタイ 11:28)とおっしゃるでしょう。苦しんでいる者、あるいは悩みの中にある者はわたしのもとにきなさい。「あなたがたを休ませてあげよう」と言われる。それはそうですよ。イエス様の所へ行く以外にない。なぜなら、私たちは自分のものでないのに、自分のものだと思って苦しんでいるし、重荷だ、重荷だと、重き荷を負っている。でも、それは本来イエス様が握っているはずのものを、こちらが負うのですから、苦しいのは当たり前です。早くイエス様の所に行って、それをイエス様にお返ししなければならない。これが私たちの恵みであり、救いにあずかった者の大きな感謝ですね。だから、いつも空っぽになって、主のものとして主の手に握られていく時、私たちは何も心配することはいらない。主のものとなりきっていく、これが礼拝です。だから、1節「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。「生きた、聖なる供え物として」とは、神様のものとなりきってしまうことです。イエス様が十字架に命を捨てて、私たちをあがなってくださった。そのことを心から信じ、認めて、神様に一切をお返しすることです。日々の生活の中で絶えず神様に礼拝をささげていく。礼拝をする者となる。神様に「今日の一日も主よ、これはあなたのものです。私の時間も、私の財布もこれは、主よ、あなたのものです」と、神様にお返ししてしまう。どこかで自分のものにしていやしないか。「私がこうでなければ」、「私がああしなければ」、「私が…」と、その「私」を神様のものとして移し替えていく。

 

 ローマ人への手紙14章5節から9節までを朗読。

 

 7節の中ごろに、「だれひとり自分のために生きる者はなく」とありますが、私たちは自分のために生きているのではない。では、誰のためにか?息子のため、主人のため、奥さんのためにと思うかもしれませんが、それも大間違いです。私たちは「主のために生きる」。だから、私の生活も、この地上で与えられている私の命も、これは主のものであって、神様に握られている。一切が主の責任なのです。神様の握っていることです。そこを決して忘れてはならない。これが神様を礼拝することです。神様の主権を認めること、神様が主でいらっしゃること、すべての事を握っている責任者であることを告白するのが礼拝です。自分が王様であるならば、礼拝にはなりません。どんなことの中でも、主がこの事を導いてくださっていますと信じて、神様の手に私たちが委ねてしまう、ささげてしまう、主の手に握っていただく。パウロがここで言っていることです。7節以下に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」「8……生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」とあります。自分のものは一つとしてないのですから、神様のものとなって、神様が「よし」とおっしゃるところに自在に持ち運んで頂くこと以外にありません。これが神様に自分をお返しすることであり、ささげることです。そうすると、自分が思い煩うことは何もいらないのであります。9節に「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである」。イエス様は「主となるため」とここにあります。僕(しもべ)となるためではなくて、主となるためによみがえってくださったのです。イエス様がこられた時、ピリピ人への手紙にあるでしょう、「(しもべ)のかたちをとり」(2:7)と、「死に至るまで従順であられた」と。イエス様は僕となってくださった。それは最初にこの世に来てくださった時であります。その主は十字架に命を捨て、葬られた後、三日目によみがえられた時、今度は私たちの主となるためによみがえらされた。だから、いま私たちの主人はイエス様以外にないのです。私は主のものなのです。誰のものでもない、私はイエス様の所有なのです。この事をしっかりと心に信じて、どんな時にもそれを告白していきたい。主にささげる者となるのです。良いことも悪いことも、心配なことも全てをささげる。思い煩うことが起こってくる時、瞬時に「これは私が心配することではない。神様、この事はあなたがご存じで、あなたが心配してくださるのですから、よろしくお願いします」と、すぐに神様に持っていく。これが、神を礼拝することです。健康にしても、家族にしても、自分の将来のことにしても、思い煩うことが起こってきたら、その時、神様のものを自分のものにしようとしている時なのです。その時、「これはいけない」。すぐにお祈りをする。神様の前に出て、ひれ伏して「神様、いま私はこの事について、まるで自分のもののごとく心配していますが、これは神様のものです」と、祈って、主にささげなければなりません。いつまでも握っていたら、だんだんと、それが私たちの心をむしばんでくる。カビのごとく心を闇で覆ってきます。重症になったら大変ですから、すぐに神様の所へ持ち出してささげてしまう。問題ばかり神様の所へ持っていくようですけれども、実は私たち自身が既に主のものなのですから。私は神様のものですと、はっきり認めて生きるところに、イエス様の救いの恵みがあるのです。

 

 ですから、ローマ人への手紙12章1節、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。常に私たちは主のものであることを告白していく。イエス様が「これはわたしのものだよ」と名前を書いてくださる。イザヤ書43章に歌われているように、「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。私たちは主のものである。それを言い表すのが礼拝であります。だから、すべてのものをささげる。「一週間の生活の隅から隅まで、これはすべて主のものです。またこれから向かう新しい一週間の旅路も、どれもこれも主のものですから、神様、あなたが御心をなしてください。私はただ付いていくだけです」と、ひれ伏すことが礼拝です。

 

 ヨハネの黙示録5章11節から14節までを朗読。

 

 最後の所に「ひれ伏して礼拝した」とあります。大声で神様に賛美をささげる、言い換えると、自分のすべてを神様のものとしていく。だから、12節「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」と歌われています。すべてが主のものですという告白です。「すべてのさんびを受けるにふさわしい」、すべては主のものですと、彼らはここで賛美したのです。そして「長老たちはひれ伏して」、「ひれ伏す」とは、自分を無にすることです。イエス様の前に自分というものを全くなくしてしまって、一切が主のものであること、自分自身を含めて主にささげきった姿がここに歌われているのです。これは、やがて私たちが御国に帰る時、こうして神様を絶えず日々礼拝する者へと変えられる。「私たちは天国に行って何をするんだろうか?することがなくて退屈しないだろうか」と。そんなことはありません。毎日、神様の前に礼拝の民として賛美し、喜び、感謝する。喜んでいる時間は、アッと言う間に過ぎるでしょう。苦しい時間というのは長く続きますが、楽しんでうれしい時間は瞬(またたく)く間にパッと過ぎる。天国の時間はそういう時間です。退屈する暇がない。喜び、感謝し、主を礼拝している。時間というものがなくなっていく。これが天国の恵みです。その前味と言いますか、その礼拝を味わう者とされているのです。私たちのすべてを、文字どおり主のもの、神様のものとしてささげきってしまう。「自分のこれまでの生きてきた生涯も主のもの、神様が私でしか生きられない人生を生かしてくださった」と、感謝して主にささげる。「これからも、どのような道筋を神様が備えられるか分からないけれども、神様、あなたのものです」と、繰り返し礼拝をして、主にお返ししていく。その時、楽しい、身軽な、思い煩う必要のない人生を生きるのです。

 

だから、どうぞ皆さん、いま何か心配な事、あるいは心に掛かっている事があるならば、早くそれを主にささげて、自分自身をまずささげきって、主のものとなりきって、「神様がよき事を思い図ってくださる御方、私のために備えられて、事があるのです」ということを信じていくのです。

 

ローマ人への手紙12章2節に「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。この後半に「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」と書いてありますが、私たちすべてが主のものであることを認めることです。そうすると、今しようとしていることは私がしているのではなくて、神様がさせようとしている。「神様、何をしたらいいでしょうか」「神様、どこへ行ったらいいでしょうか」「これは私がすることでしょうか」と、ことごとく主に問わなければできない。どんな事でもそこで祈って、主に自分をささげて空っぽになり、主の求め給うところが何であるかを知ること、これは当然のことです。そうなると、私たちの生活が変わっていきます。また、喜んで生きることができ、幸いな日々を送ることができるからです。そのために私たちは絶えず礼拝する者となって、神様に自分をささげてしまう。そうすると、神様のほうが私たちを思い煩いのない、喜びと感謝に輝いて生きる者と変えてくださる。なぜなら、それが神の栄光をあらわすことだからです。

 

1節にあるように、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。信仰をもって、神様に一切をささげて、神様のものとなりきって、この地上の生涯を歩みましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


最新の画像もっと見る